2026年の説教
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No.934 - 4月12日: 「神の家族の交わり」 テモテへの第一の手紙5章1節〜8節 |
(みことば)「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対する
ように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように…勧めなさい。」
テモテへの第一の手紙5章1節
パウロは、テモテに対して「教会の各階層に応じて、彼らをどのように導く
べきか」を教えるが、様々な年代に応じ「父親…兄弟…母親…姉妹に対するよ
うに…」と命じる。即ち、彼は、「自分の家族のように彼らに接する」べきである。
そこに、教会の特色があるが、教会は、年配の男性、青年、婦人、若い女性の他
子供や乳児もいる。それは、学校や会社のように限定された目的の為に集まる
組織と違い、年齢や階層によって区別されない信仰の集団、神の家族である。
第1に「年配の男の人を叱ってはいけません」と勧める。「叱る」は、「厳し
く叱責する」の意味である。その人は、テモテにとって目上の者なので、威圧的
で、高飛車な態度ではなく、父親のように愛と尊敬をもって導くべきである。
第2に「若い人には兄弟に対するように」と勧める。彼らは、同世代なので、
友人のような存在かも知れない。だが、友人は、好き嫌いで付き合うが、兄弟
は、そうではない。彼らは、キリストの血と信仰により結ばれた関係である。
第3に「年配の女の人には母親に対するように」と勧める。使徒ヨハネとマ
リヤは、信仰により親子関係となった実例である。主は、マリヤに「御覧なさ
い。あなたの息子です。」と言われ、「この弟子は、彼女を…引き取った。」とある。
第4に「若い女の人には姉妹に対するように」と勧める。それは、若いテモテ
にとって誘惑となる姉妹との健全な関係を語る。「真に純粋な」とは、「不純な
思いのない清さ」を示しているが、キリストの血によって、心を聖く保とう。
次にパウロは「やもめの扱い」を述べる。「やもめの中の本当のやもめを大事
にしなさい。」「やもめ」とは、「夫を亡くした婦人」の事だが、彼女達は困窮者
が多かった。社会保障制度の無い時代、彼女達の救済は、教会の課題であった。
「本当のやもめ」とは、「身寄りのないやもめ」の事で、教会は、彼女達を援助
する必要があった。だが、彼女達に、近い親族(子どもか孫がいる)なら、別
である。「まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示し…学ばせなさい。」
教会は、社会福祉制度の整っていない時代に、困窮者に対する愛の福祉制
度を整えていた事が分かる。だが、基本的に、まず、やもめの親族に「親の恩に
報いることを学ばせる」べきである。「それは、神の御前に喜ばれることです。」
パウロが言う「本当のやもめ」とは、「身寄りのないやもめ」ことであり、彼女
達は、「望みを神に置いて…絶えず神に願いと祈りをささげて」いる。教会が
支えるべき「本当のやもめ」は、そのような敬虔な人でなければならない。
逆にパウロは、「自堕落な生活をしているやもめ」に言及する。彼女達は、生
活の手段として「享楽と遊興に身を投じ」それにより、金銭を稼いでいたのか
も知れない。だが、彼女達は、「生きてはいても死んでいる」のと同じである。
パウロは、「彼女たちが非難されることのないように」その親族に対して「自
分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定し…不信者よりも
劣っている」と忠告する。彼らは、先ず、自分の親族を大切にするべきである。
私達は、神の家族と自分の家族に対して「愛の義務を果たす責任」が委ね
られている。今日の多くの社会問題は、家庭や家族の崩壊から始まっている。
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No.933 - 4月5日:イースター 「心が内に燃える経験」 ルカの福音書24章13節〜32節 |
(みことば)「二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を
説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカの福音書24章32節
二人の弟子は、エマオへの途上で、死からよみがえられたキリストにお会
いする。彼らは、エマオへの11キロ程の距離を失望と落胆の内に歩んでいた。
彼らは、キリストの十字架の死によってすっかり望みを失っていたが、そ
の一方で、女達から「主のよみがえりの知らせ」を聞き、戸惑いを覚えていた。
彼らは、「これらの出来事…について…論じ合ったり」していたが、その議論に
何の答えや解決もない。そこへ「イエスご自身が近づいて…歩み始められ」た。
彼らは、「キリストが近づいて来て共に歩む」と言う幸いな経験をする。私
達の人生は、キリストが共に歩む時に、始めて意味を持つようになる。とこ
ろが、「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」
キリストは、幽霊や幻ではなく、肉体を持ってよみがえられた。「さえぎ
られ」とは、「支配され、捕らえられ、固執する」の意味で、彼らにイエス
が分からないのは、キリスト以外の物に支配され、固執していたからである。
キリストは、彼らに「話し合っているその話は何のことですか」と尋ねるが、
「二人は暗い顔をして立ち止ま」った。彼らは、キリストに望みを置かない
から暗い顔になる。主を仰ぎ見る者は、その顔が輝いて見える。(詩篇 34:5)
弟子の一人クレオパは、「エルサレムに滞在していながら…ご存じないの
ですか」とその人の無知に驚く。主は「どんなことですか。」と聞き返し、彼ら
は「ナザレ人イエス様のことです」と答える。だが、それは、主ご自身であった。
彼らは、何も知らず、懇切丁寧に起こった全てを得意げに話し始める。し
かし、主は、それを知らん振りをして黙って聞かれる。何とも滑稽であるが、
キリストは、彼らが話し終わった後で「ああ、愚かな者たち。」と言われた。
主は、彼らが自分の知識を得意げに話しながら、実は何も知らない事を自
覚させる。ソクラテスは、知者(ソフィスト)と称する人々の無知を悟らせる為に「対
話術」を用いたが、彼らも無知と心の頑なさを悟らなければならなかった。
その愚かさは、知性の足りなさによるのではなく「預言者たちの言ったす
べてのことを信じない」神のことばへの無知による。その知恵は、ソクラテス
のような「対話術」によるのでなく、御言葉の説き明かしと御霊の御業による。
キリストは、「必ず…入るはずった…」と語る。キリストのように「必ず」と将
来を断言できる人はいない。又「人は死後どうなるか」を誰も知らない。だが、
神の計画は、必ずその通りに実現する。信仰の確信は、御言葉への信頼による。
二人は、主から直接、御言葉を聞く幸いを得る。クレオパは、使徒でもなく、
ここにしか登場しないが、主は、そんな彼にも懇切丁寧に御言葉から教えられ
た。彼らは、先に行こうとする主を引き止めて、同じ宿に滞在する事を願う。
「イエスは…裂いて彼らに渡された。」その時「彼らの目が開かれ、イエス
だと分かった。」パンを裂く行為は、主の晩餐を想い起す。「私たちの心は、
内に燃えていた」彼らは、主との交わりと御言葉によって心を燃やされる。
そこで、「二人はただちに立ち上がり」エルサレムに戻って、主の復活を証
言しようとしたが、既に主は、「よみがえって、シモンに姿を現わされ」ていた。
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No.932 - 3月29日: 「信者の模範となる」 テモテへの第1の手紙4章11節〜16節 |
(みことば)「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られない
ように…ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」
テモテへの第1手紙4章12節
パウロは、テモテに「あなたは、これらのことを命じ、また教えなさい。」
と語るが、それは、パウロがテモテに教えて来た福音の真理のことばである。
「命じる」は、「権威ある者からの命令」であるが、それは、「知らせを次
の人に伝える」意味がある。即ち、パウロは、キリストから知らされた福音を
テモテに伝え、テモテは、次の人に伝え、福音はそのようにして私達に届いた。
福音を聞いて信じた者は、他の人にそれを伝える使命がある。その時、パ
ウロは、テモテに「年が若いからといって、だれにも軽くみられないように…」
と忠告する。一般的に、年が若いだけで、年輩の者から軽く見られる事がある。
だが、教会は、たとえ若い牧師でも、その職務の故に敬い、その言葉に従うべ
きである。そこで、パウロは、彼に次の点で「信者の模範となる」ように命じる。
第1は、「ことば」であるが、「ことば」は、語る人の人格を表す。私達はことば
で人を傷つけ、躓かせる事がある。自分の唇や舌を主に聖めて頂こう。第2
は、「態度」であるが、それは、「振る舞い」「行状」「生活ぶり」を意味する。
牧師は、教会で教え、説教を語る者であるが、言葉と態度が一致していなけ
れば、その言葉を信頼して聞く事はできない。第3は、「愛」であるが、それは
「神の完全な愛」を意味する。神の愛を知る者は、互いに愛し合うべきである。
第4は、「信仰」であるが、弟子達が3年間の主との交わりの中で成長したよ
うに、信仰は、日々の霊的な研鑽や敬虔さの中で成長して行く。第5の「純潔」
は、「貞操」「汚れのない」の意味である。若いテモテは、特に注意すべきである。
彼がこれらの点で信者の模範となるなら、誰も彼を軽く見る事はない。次に
パウロは「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と勧める。
第1は「聖書朗読」である。礼拝の聖書朗読は、当時、聖書を持たない信徒
にとって貴重な時間であった。私達は、聖書を読む時間をどれほど大切にし
ているだろうか。第2は、「勧め」であるが、それは、今日の「説教」と言える。
信徒は、礼拝や説教を通して心を励まされ、希望に向かって歩む力を与えら
れる。真剣に礼拝に臨み、御言葉を聞こう。第3は、「教え」であるが、それは、
「教会の信仰教育」と言える。御言葉を学ぶ意欲のある人は、信仰も成長する。
「専念する」は、「予め準備する」の意味であるが、説教は、良く準備されてい
なければならない。「長老たちによる按手を受けたとき…賜物を軽んじては…」
牧師の働きには、様々な苦難があり、落胆する事もあるが、その時、長老達に
よる按手を受けた事を思い起すべきである。主は、彼を伝道者として召し、働
きに必要な賜物を与えた。「これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。」
どんな高価な賜物も、磨かなければ光らない。「心を砕き」は、「専心する」、
「ひたすら励む」は、「その中にいる」の意味である。召された者は、その働きに
専念すべきである。「そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになる」
「自分にも、教えることにも、良く気をつけなさい。」教える事は、勿論大切だ
が、自分も失格者にならないように注意しなければならない。私達は、人を救
ういのちの言葉を主から委ねられている。この働きに喜びと誇りを持とう。
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No.931 - 3月22日: 「敬虔のための鍛錬」 テモテへの第1の手紙4章1節〜10節 |
(みことば)「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきい
のちを約束する敬虔は、すべてに有益です。」
テモテへの第1手紙4章8節
パウロは、「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことで
す。」と告白した。その「真理の柱と土台」とは、キリストと福音の事である。
パウロは、後の時代に、異なる教えが教会に入り込む事を警告する。「ある
人たちは惑わす霊と悪霊の教えに心を奪われ…」それは宣教の歴史に必ず起
こる事で、主も「偽預言者たちが現れ…選ばれた者たちを惑わす」と警告した。
又、パウロは、エペソの長老達に「私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中
に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回る」と警告した。それは、教会の外
からの迫害ではなく、教会の内側に起こる「異なる教え」(異端)の問題である。
それは、福音とは異なる「惑わす霊と悪霊の教え」による。「真理の柱と
土台である」福音と神の言葉が揺らいでしまったら、もはや、教会と言えな
い。「それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。」
異端の特徴は、偽りと偽善であるが、「偽善」は、「俳優・役者」の意味で、見掛
けと本質が異なる。「彼らは羊の衣を着て…来るが、内側は貪欲な狼です。」異
端の特徴は、真理の言葉に偽りを織り交ぜているので多くの人が惑わされる。
「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じ…」異端は、禁欲主
義的で、律法主義的である。だが、聖書は、人に結婚を禁じたり、食物を断つ
事を命てはいない。寧ろ、悪魔は、それらに制限があるかのように誘惑した。
「食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受け…」神が創造さ
れた世界は、良い物で満たされ、何一つ悪い物はない。だから「それを感謝して
受けるとき、捨てるべきもの」は何もない。「見よ。それは非常に良かった。」
ユダヤ教の戒律は「きよい動物ときよくない動物」を区別するが、主は、
ペテロに「神がきよめた物を…きよくないと言ってはならない。」と言われ
た。又、ギリシャ哲学は、グノーシス主義的な善悪の二元論的世界観を唱える。
「グノーシス」は、「知識」の意味だが、真の知識は、「真理を知っている人々」
(エピグノーシス)の「神の創造と啓示」の理解による。「神のことばと祈りによって、
聖なるものとされ…」彼らは、御言葉と主のとりなしにより聖別されている。
「これらのことを兄弟たちに教えるなら…」「教える」は、「敷石を置く」の意味
で、人々が躓き、足を取られないように道を整える働きである。その「信仰の
ことば」と「良い教え」により、それを教える彼自身が、御言葉に養われて来た。
「イエスの立派な奉仕者になります。」「奉仕者」は、「給仕人」「執事」の意味で
あり、「給仕人」は食事を提供する人である。給仕人が、神の家において栄養の
ある食事を提供するなら、神の家族は、霊的な御言葉の糧によって養われる。
「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。」教会の交わりが俗的な世間
話で終わらないように。「むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。」「愚
にもつかい」は、「老婆が言うような」の意味で「鍛錬」と発音が似ている。
「肉体の鍛錬」は老婆に無縁だが、若いテモテは、敬虔の鍛錬を惰ってはなら
ない。「このことばは真実で…受けるに値するものです」パウロは、福音の為に
「苦労し、苦闘して」来た。それは「生ける神に望みを置いている」からである。
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No.930 - 3月15日: 「執事としての資質」 テモテへの第1の手紙3章8節〜16節 |
(みことば)「執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、
不正な利を求めず…信仰の奥義を保っている人でなければなりません。」
テモテへの第1手紙3章8~9節
パウロは、監督、即ち牧師の資質を述べた後で執事の資質について述べる。
「執事」とは、「仕える人」「世話係」の意味であるので、それは、教会に
仕える働き人の事である。初代教会において、食事の配給の事で問題が起こ
った時、使徒達は、「御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち7人」を選んだ。
彼らは、教会の実務を管理し、それにより使徒達は「祈りとみことばの奉
仕」に専念できた。執事は、牧師と同様に、次の倫理的な資質を求められる。
第1に「品位があり」であるが、それは「尊敬すべき」「立派な」の意味
で、崇高な人間性を表す。7人の執事は「信仰と聖霊に満ちた人」であった。
第2は「二枚舌を使わず」だが、「二枚舌」とは「人によって矛盾した事
を語る不誠実さ」を表す。「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。」
第3は「大酒のみでなく」だが、監督や執事は信徒の模範となり、酒や快
楽に溺れず、寧ろ主との交わりに喜びと平安を見出す者でなければならない。
第4は「不正な利を求めず」であるが、それは、「卑しい利得」の意味である。
人は、様々な点で躓く者だが、お金で失敗する事が無いように気をつけたい。
最後は「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人」であるが、私
達は、神に清められた良心を持ち、御心に叶う歩みをすべきである。「信仰
の奥義を保つ」とは、神の啓示による福音と御言葉に立ち続ける事である。
「この人たちも、まず審査を受けさせなさい。」「審査する」とは、「試験
の上で承認する」の意味だが、それは、教会の決定による。神は、教会に霊
的一致を与え、その人が「御霊と知恵に満ちた人かどうか」を吟味させる。
「この奉仕に就く女の人も同じように…」それは、教会における婦人の働き
人の事である。献身的な女性の働きは、教会においてどれだけ力となるだろ
うか。ただ、女性の場合も執事と同様に「品位があり」と言う条件がある。
第2に「中傷する者でなく」であるが、「中傷する者」(ディアボロス)は「悪魔」と
訳せる。人を中傷する噂話が教会を分裂させる事がある。それは、悪魔の思う
壺である。第3に「自分を制し」であるが、それは「酒を控える」の意味である。
酒を飲んで自制心を無くす人ではなく、御霊に満たされ、感情を抑制できる
人でなければならない。第4に「すべての人に忠実な人」であるが、「忠実」は
「信仰」と同じ言葉である。神の人は、何よりも信仰的でなければならない。
執事に関しては、監督と同様に「一人の妻の夫であり、子どもと家庭をよ
く治める」事が条件である。神の家を治める人は、まず、自分の家庭を治める
人でなければならない。「執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め…」
「地歩」とは「位」「階級」の意味であるが、それは、天の御国の報いを約束して
いる。又、その人は、地上でも「信仰について、強い確信を持つ」事ができる。
パウロは、「近いうちにあなたの所に行きたいと思いながら、これを書いて
いる」と語る。それは「神の家でどのように行動すべきか」を教える為である。
監督や執事は、御言葉により自らを吟味すべきである。「神の家とは、真理
の柱と土台である。」柱と土台が揺らいだら「生ける神の教会」は建たない。
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No.929 - 3月8日: 「牧師としての資質」 テモテへの第1の手紙3章1節〜7節 |
(みことば)「次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと
思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
テモテへの第1手紙3章1節
パウロは、テモテがエペソで担う「監督」即ち牧師の職務について言及する。
「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら…」それは、教会の中で「牧師に
なりたい」と願う人を想定しているが、献身者が起こされる事は幸いである。
ただ、パウロは、そのような願いを持つ者に対し、その人は「立派な働き
を求めるように」と真実を語る。それは、単に牧師職への願望だけでなく、
職務の重要さを覚え、それを担う者がどのような者であるべきかを勧める。
第1に「非難されるところがなく」とあるが、監督は、道徳的な非難を受
ける者であってはならない。その点で自分の振る舞いに注意し、寧ろ「群れの
模範」とならなければならない。第2に「一人の妻の夫であり」が条件である。
それは、「一人の妻の夫」として貞操を守り、聖さを保ち、不道徳によっ
て主の御名を汚すことのない為である。パウロは独身であったが、これを一
般論として語る。第3に「自分を制し、慎み深く、礼儀正しく」と勧める。
「自分を制し」とは「酒に酔っていない状態」を表すが、神の人は、御霊
による自制心を持たなければならない。「慎み深く」は、「分別がある」の意
味だが、牧師は霊的な洞察力を持ち、思慮深く群れを導かなければならない。
「礼儀正しく」は、「整頓された」の意味で、その語源は「宇宙」(コスモス)である。
創造の世界に秩序と美があるように、神の人の生き方や人との関係に於いて
も、秩序と正しさがなければならない。「人をもてなす」ことも同様である。
最後は、「教える能力があり」であるが、牧師は、何よりも御言葉を教え
る賜物が求められる。それは、この世のどんな教育より優れた、人に「いのち
と救い」を与える神の知恵による。更に「酒飲みでなく、乱暴でなく」と続く。
牧師が、「酒飲み」で「乱暴である」なら、それは論外である。教会に口
論や争いがあるなら、神の栄光を表さない。寧ろ「柔和で、争わず」とある
ように、自分に関して「できる限り、すべての人と平和を保つ」べきである。
最後は「金銭に無欲で」とあるが、牧師は、その点で、卑しい貪欲な者で
あってはならない。福音の宣教は、お金や自分の為ではなく、神の国の為に
行っている。それに続いて、牧師の条件は、「自分の家庭をよく治め…」である。
「家庭」は、裏表や偽善の効かない場所である。教会の牧師と家庭での父
親の顔に二面性があるなら、子どもはそれを鋭く見抜く。教会は、神の家族
であるから、自分の家庭を治められなければ、神の家を治める事はできない。
「信者になったばかりの人であってはいけません。」原語は「新しく植えられ
た」の意味で植物に例えられている。新芽は勢いがあるが風雪に耐えていない
ので弱くて脆い。試練を経験し充分に訓練されないとこの務めを果たせない。
それは、「高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならない」為
である。牧師は、何度も失敗し、信徒を躓かせながら遜る事を学ばされる。
「教会の外の人々にも評判の良い人でなければ…。」神の人は、世から迫
害を受けるが、福音以外の事で謗られたり、非難されてはならない。悪魔は、
狡猾なので、些細な事で罠を張り、神の国の為に生きる者を全力で攻撃する。
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No.928 - 3月1日: 「男と女に対する勧め」 テモテへの第1の手紙2章8節〜15節 |
(みことば)「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり
言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」
テモテへの第1手紙2章8節
パウロは、テモテに「王たちと高い地位にあるすべての人のために」祈る
事を教えて来たが、次に、神の創造の特性である「男と女」に分けて勧める。
「私はこう願っています。」とは、パウロの願望であり、それは、使徒の言葉な
ので、神の意志でもある。テモテは、その教えに従い教会を導く必要があった。
パウロは、まず男性に対して「男たちは怒ったり言い争ったりせず」と勧
める。原語は「怒りから離れ」であるが、人の怒りは、罪の感情の筆頭に置か
れる。「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」
誰でも、「人に対して怒り、その感情を治められない。」経験をしたことが
あるだろう。聖書は、「人の怒りは、神の義を実現しません。」「怒っても、罪を犯
してはなりません。」と命じる。激しい怒りの為に人生を駄目にする事もある。
カインは、アベルに対して激しく怒り、同じ兄弟を殺し、生涯負い切れない
罪責を負った。「怒りと争いから離れる」為には、神への祈りが必要である。
「どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」怒りの感情が込み上げて来
る時、一人になって静かに祈るなら、不思議と怒りが静まる経験をする。主は、
激しく怒るカインに「あなたはそれを治めなければならない。」と命じられた。
カインは、そもそも、礼拝の姿勢が正しくなかった。罪を犯さない為にも、礼
拝は欠かせない。その祈りの手は、怒りではなく、聖められた祝福の手となる。
次にパウロは、女性に対して「同じように女たちも、つつましい身なりで
…」と外見上の身なり、服装、身に着ける装飾品について言及する。人は、
外見だけで判断できないが、身なりは、その人の生活のあり方や心が表れる。
又「控えめに慎み深く身を飾り」とあるが、それは、外見上の装いではなく、
その人の態度や行動や立ち振る舞いに関係している。それは、女性としての
内面的な敬虔さや思慮深さや貞潔さが、整えられた美しさとなって表れる。
「はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく…」それは、裕福な女性
に対する警告である。現代も、高価なブランド品に興味のある人は多いが、
人の価値は、身に着ける装飾品によらない。神は人の魂の値打ちを量られる。
「神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさ
い。」外見を装うより、「神を敬う」敬虔さから醸し出される美しさを磨くべ
きである。「柔和で穏やかな霊という…心の中の隠れた人を飾りとしなさい。」
「女は、よく従う心をもって静かに学び…。」パウロの教えは、現代において保
守的で古い考えとして批判されて来た。だが男女の違いは、神の創造の秩序か
ら語られる必要がある。「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた…」
聖書の教えは、現代の視点からすると封建的とさえ感じるが、時代や思想
が変わっても、神の言葉を変えてはならない。「私は、女が教えたり男を支配
したりすることを許しません。」神が定めた秩序や順序は、決して変わらない。
「女はだまされて過ちを犯した…」蛇は、アダムから間接的に神の言葉を聞
いていたエバを誘惑する。だが、罪の責任は、女の頭である男にある。ただ、女
性には「子を産む」と言う特別な賜物と祝福がある。そこに女性の慰めがある。
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No.927 - 2月22日: 「唯一の神と信仰の真理」 テモテへの第1の手紙1章18節〜2章7節 |
(みことば)「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを
望んでおられます。」
テモテへの第1手紙2章4節
パウロは、少し脇道に逸れる形で「律法と福音の関係」を語って来たが、
再びこの手紙の主題に戻り、エペソに留まるテモテに対して命令を書き送る。
「私の子テモテよ。…私はあなたにこの命令を委ねます。」この「命令」とは、
「立派に戦い抜く」と言う表現が示すように、軍隊用語で、上官が部下に命令を
下す時の言葉である。それは、パウロとテモテの信頼関係の上に成り立つ。
「以前あなたについてなされた預言」とは、テモテが伝道者として召され
た時の主からの召命の言葉と言える。彼の伝道者としての生涯は、その召命の
言葉に支えられて来た。教会は、主に召された者が牧師として立てられる。
パウロは、宣教の働きを戦場の兵士に譬え、彼に「立派に戦い抜く」よう
に命じる。彼は、「キリスト・イエスの兵士として」戦わなければならない。
パウロがそのようにテモテを励ますのは、彼の周りに、そうでない人々が
幾人もいたからである。「ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船に
あいました。」それは、「意図的に健全な良心を捨てる」ような行動を意味する。
「信仰の破船にあう」とは、信仰を航海に見立て、嵐などで船が沈む事を譬
えている。キリストがその船に乗っているなら、どんな嵐でも沈む事はない。
パウロは、信仰の破船にあった人物の実名を挙げ「その中には、ヒメナイ
とアレクサンドロがいます。」と語る。ヒメナイは「真理から外れ…復活はす
でに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえして」(Uテモテ2:2)いた。
パウロは、彼らを「神を冒涜してはならないことを学ばせるため、サタン
に引き渡しました。」と厳しく処罰する。それは、彼らが除籍処分を受けた事
を意味するのだろう。それは、彼らが罪を悔い改めて主に立ち返る為である。
次にパウロは一般的な命令として、テモテに「王たちと高い地位にあるすべ
ての人のために願い、祈り、とりなし…」と命じる。私達は、兎角、自分と周囲
の人々への狭い祈りになり易いが、もっと広い視点から祈る大切さを覚える。
「それは、私たちがいつも敬虔で…生活を送るためです。」この社会は、主が定
めた権威と秩序の下にあり、その社会基盤の下で私達の生活が成り立つ。だか
ら、社会の安定の為に祈るべきである。「そのような祈りは…良いことであり…」
「神は、すべての人が救われて、真理を知る…ことを望んでおられ…」そ
れは、全ての人に対する神の御心である。勿論、全ての人が神の救いを受け
入れる訳ではないが、その神の普遍的な人類に対する愛は変わることがない。
「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり…」全ての人は、唯
一の神によって創造されている。又、罪人が救われる為には、神と人との間を
執り成す祭司が必要であるが、キリストは、完全で、永遠の祭司となられた。
キリストは、完全な神であり、完全な人となられた。「定められた時になさ
れた証し」とは、二千年前の「主の来臨」と「十字架の贖い」と「復活」の出来事
を指す。「時」とは、「機会」の意味だが、救いの機会を無駄にしてはならない。
「その証しのために、私は宣教者、使徒、…教師に任命されました。」彼
がその職務を任命されたのは、「信仰と真理を異邦人に教える」為である。
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No.926 - 2月15日: 「福音の神髄」 テモテへの第1の手紙1章12節〜17節 |
(みことば)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という
ことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」
テモテへの第1手紙1章15節
パウロは、福音と律法を対比して語って来たが、律法の定めによるなら全て
の人が罪人である。律法は人を罪に定めるが、福音は人を義とする力がある。
その福音の神髄とも言える言葉が、「キリスト・イエスは罪人を救うため
に来られた」である。パウロは、「私はその福音を委ねられたのです。」と語る。
パウロは、誰よりも力強く福音を証しして来たが、その彼の力は、キリス
トから来る。「私を強くしてくださる…イエスに感謝しています。」誰でも弱り
果てる事があるが、「私を強くしてくださる」キリストを知る人は幸いである。
パウロは、「キリストは私を忠実な者と認め…」と語るが、主は、彼の信
仰の忠実さをご覧になり、彼に宣教の務めを委ねられた。信仰に忠実な者は、
神からの使命感と目的意識を持って生きる事ができ、それが生きる力となる。
「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」
彼は、神を知らない時の無知で暴力的な過去を告解する。キリストを知らない
事がどれほど無謀で、危険で、誤った道に人を進ませるかを思い知らされる。
それでも、彼は「信じていないときに知らないでしたことだったので、あ
われみを受けたのです。私たちの主の恵みは…満ちあふれました。」と語る。
彼は、自らの回心の経験を通して、主の憐みと神の計り知れない恵みを知る。
彼は、更に、「キリストイエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。」
と語る。主の恵みは、キリストにある信仰と愛を伴い、それは彼のその後の人
生に豊かに満ち溢れる。信仰と愛は、新生した者に生きる大きな力を与える。
彼は、福音の神髄とも言える表現で「キリスト・イエスは罪人を救うために
世に来られた」と簡潔に語る。それは、キリストが語った言葉の要約でもある。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
それは、世の一般的な考えと全く異なる。多くの宗教は「善人は救われ、悪人
は滅びる」と説く。律法学者達は、主に対して「収税人や罪人たちと一緒に食
事をする。」と言って批難した。だが、この世に正しい、義人など誰もいない。
「ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値する…。」この救い
の言葉を信じる者は救われる。救いは、人の手の届かない高嶺の花ではない。
彼は、「私はその罪人のかしらです。」と告白する。「かしら」とは、「第1の者」
「代表」の意味である。それは、16節の「人々の先例」と言う言葉に似ており、そ
れは、「手本、模範、典型」の意味である。彼は、自分を罪人の代表、典型と言う。
それは、以前の彼が神に敵対し教会を迫害する者だったからである。罪の自
覚が無ければ、神の救いは分からない。それが無ければ、主の恵みや憐れみは
理解できない。自らを義とするパリサイ人や律法学者にはそれが分からない。
「罪人のからし」であるパウロが救われたのは、それに続いて「永遠のいの
ちを得ることになる人々の先例にする」為であった。聖書には、パウロだけで
なく、そのような実例が数多くある。神の救いは、形而上学でも観念でもない。
最後に彼は「世々の王…朽ちることなく、目に見えない唯一の神に」と「神
こそ永遠の王である」と告白し、主に誉と栄光があるようにと神を賛美する。
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No.925 - 2月8日: 「神の定めに対する違反」 テモテへの第1の手紙1章8節〜11節 |
(みことば)「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な
者や不従順な者…健全な教えに反する行為のためにあるのです。」
テモテへの第1手紙1章9〜10節
パウロは、テモテに「違った教えを説き…果てしない作り話と系図に心を
寄せ…愛の目標を見失い、空しい議論に迷い込む者」を警戒するよう命じた。
偽りの律法の教師達は、律法の目標を理解していなかった。パウロは、律
法の意義を「次のことを知っていて適切に用いるなら良いものです」と語る。
律法の中心は十戒であり、それは、石の板に神の指で刻まれた普遍的な定
めである。律法とは「神の国の法」であり、それは「日本国憲法」と同様である。
つまり、律法は、「神の国に生きる者の生き方」を定めた「神の国の法律」
であり、それ故に、パウロは、律法を福音と対立するものと捉えていない。
パウロは、「律法の目的とそれがどのような人の為にあるか」を述べる。
まず、彼は、「律法は正しい人のためにあるのではなく」と否定的な点から述
べる。この世に正しい人だけが住んでいるなら、律法を定める必要もない。
それは、日々のニュースを聞けば、明らかだが、この地上に理想的な社会
等どこにもない。「義人はいない。一人もいない。…善を行う者はいない。だれ
一人いない。」寧ろ、律法は、罪の社会であるが故にどうしても必要である。
そこで、パウロは、人間の様々な罪の実例を列挙する。それは、十戒に定
められた順序と対応している。その前半は、神に対する義務であるが、最初
の6種類の罪のうち、初めの5つは、(a)という否定形が付いた言葉である。
「不法な者」とは「律法を持たない者」、「不従順な者」とは「反抗的な者」、「不
敬な者」とは「礼拝する」の否定形、「罪深い者」の語源は(ハマルティア)で「罪を犯す
者」、「俗悪な者」とは「聖なる領域を離れた」の意味で全て神に関係している。
十戒の第一戒は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならな
い。」であるが、前半の戒めだけでも、日本の99%の人は有罪宣告を受ける
事になる。更に、後半は、「人に対する定め」で、「倫理に関する戒め」である。
後半の第一は「父を殺す者や母を殺す者」であるが、「父と母を敬え」は人の
定めの第一に置かれる。神が立てた権威への尊敬なしに、社会の秩序も平和も
生じない。次に「人を殺す者」とあるが、それが罪であるのは言うまでもない。
殺人は、「妬み、憎しみ、怒り」の動機が発端となって起こるが、その罪の性質
は、誰の中にもある。「淫らな者」は、(ポルノス)を語源とする「不品行」や「姦淫」
を意味する。皮肉な事に自由な社会であればあるほど不品行が蔓延し易い。
「男色をする者」とは、現代において(バイセクシャル)(ホモセクシャル)等の「性的少数
者」の事であるが、性の倒錯は、神が人を「男と女に創造された」神の秩序への
挑戦である。次の「人を誘拐する者」とは、金で人身売買をする人の事である。
人の価値は、「神に似せて造られている」ことにある。次に「嘘をつく者、
偽証をする者」は、第九戒「偽りの証言をしてはならない。」に対応する。これま
で罪を犯していない人でも、「嘘をついたことがない」と言える人はいない。
「健全な教えに反する」とは、「神の栄光の福音」に従わない事である。律法
は、福音と対立せず、寧ろ、人に罪を意識させ、十字架の贖いを覚えさせるため
にある。「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ 3:24)
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No.924 - 2月1日: 「真のわが子テモテ」 テモテへの第1の手紙1章1節〜7節 |
(みことば)「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのな
い信仰から生まれる愛です。」
テモテへの第1手紙1章5節
テモテへの手紙は、パウロがローマで投獄されている時に若いテモテを励
まし教える為に書かれたが、それはパウロの晩年の遺言書の様な手紙である。
パウロは、手紙の冒頭で自己の紹介文を記すが、それを簡潔に記すと「神
とキリストの命令によって使徒となったパウロ」となる。彼が使徒となった
のは、彼自身の意志を超えた、神の主権的な意志とご計画に基づく事である。
パウロは、テモテについて「信仰による、真のわが子」と記すが、彼らは、
実の親子以上に深い信頼関係にあった。「真の」は、血縁関係の「実子」を意味
するが、それは、「約束の子イサク」の様に信仰によって与えられた子である。
本題に入るが、パウロは、テモテに「エペソに留まるよう」に勧める。エペソ
は、アジアの宣教の拠点であり、パウロは、テモテに「ある人たちのように違
った教えを説いたり…系図に心を寄せたりしないように命じなさい。」と記す。
パウロは、テモテに、福音の本質を変えてしまうような「異なる教え」に
警戒するように命じる。「作り話」とは、「伝説」や「神話」の事で、それら
は、事実ではない。だが、聖書は、全て事実に基づいた、真実な言葉である。
「系図に心を寄せたり」とあるが、ユダヤ人は、民族的な系譜や血筋を重んじ
た。聖書の系図は、確かに歴史の真実性を証明しているが、系図や血筋に救い
があるのではない。「この人々は、血によってではなく…神によって生まれた…」
パウロは、更に積極的に「この命令が目指す目標は、きよい心と…信仰か
ら生まれる愛です。」と語る。「この命令」とは、「神の律法」と置き換えて
も良いが、律法の目標は、「神を愛する」事と「隣人を愛する」事に尽きる。
愛の源泉は、第1に「きよい心」から生じる。心は、神に似せて造られた
人間存在の中心の座である。「きよい」は、「清潔、汚れのない、純粋な」の
意味である。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」
第2に愛は「健全な良心」から生じる。良心とは「善悪を判断する心に記され
た道徳意識」であり、人間固有の賜物である。全ての人に良心があるが、その規
準は相対的である。だが、聖徒達は、新しく生まれ変わった健全な良心がある。
最後に、愛は、「偽りのない信仰」から生じる。「偽りのない」は、「偽善」の
反意語であるが、主は、偽善者の信仰を厳しく非難した。彼らは、「善行を人に
見せることで、人から誉を得よう」とした。愛は、純粋な信仰から生まれる。
パウロは、「ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込
み、…」と嘆いている。「走者が正規のコースを外れ、脇道に逸れる」なら失格
者となる。彼らは「律法の教師でありたいと望みながら…理解して」いない。
彼らは、律法の教師を自認しても「律法の命じる目標が何か」さえ知らな
い無知な教師達である。彼らが教会の指導者、或いは、教師であるなら、教会
に集う者は、彼らの説教を通して「神の救い」について何も知る事は出来ない。
教会において「神の言葉が正しく語られない」事ほど、空しく哀れな事は
ない。「聖書は、誤りのない神の言葉であり、キリストの十字架と復活にこそ、
救いがある。」その福音の真理を講壇から正しく宣言する説教者でありたい。
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No.923 - 1月25日: 「主の言葉に従う信仰」 テサロニケ第2の手紙3章14節〜18節 |
(みことば)「もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれ
ば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。」
テサロニケ第2の手紙3章14節
パウロは、この箇所の前の段落で、「怠惰な歩みをしている兄弟たちを戒め
た」が、最後に、「この手紙に書いた…ことばに従わない者」への注意を述べる。
まず、パウロが「私たちのことばに従わない者がいれば」と語るのは、前
回と同様に「兄弟」と呼ばれる者であり、それは、即ち「キリストを信じて
いながら、パウロの言葉に従わない不従順な者」に対する戒めの言葉である。
「信じる」とは、その人の「心の内面」の事であり、その人自身の「意志
の問題」である。だが、「従う」とは、「意志を行動に移す」事である。日本
人は、一般的に「信仰」と言うと「内面的な心の問題」に限定する傾向がある。
だが、「信じる」と「従う」事を区別する事はではない。即ち、「主の言葉に従っ
ていない」なら、「信仰に生きている」とは言えない。キリストは、嵐の湖をそ
の言葉によって静められたが、「風や湖までが言うことを聞く」のである。
イエスは、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたし
の声を聞いて戸を開けるなら…」(黙示録 3:20)と語る。「聞いて信じる」だけでな
く、「開ける」という行動を伴わなければ、神との交わりに入る事は出来ない。
パウロは、信仰を持ちながら、主の言葉に従わない兄弟に対し「そのよう
な人には注意を払い、交際しないように」と命じる。「注意を払う」は、「しる
しを付ける」「チェックする」の意味であるが、その人は、要注意人物と言える。
「交際しない」と言う言葉は、(Tコリント 5:11)で「付き合ってはいけない」と訳
されているが、パウロは、その箇所で「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲
な者、偶像を拝む者、人をそしる者…」等の具体的事例を挙げて注意している。
「交際する」は、「組み合わせ」と「交換」と言う2つの助詞が付いた複合動詞
だが、教会は「キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは、互いに
器官」である。各器官は、組み合わされ、相互に必要を交換し合って命を保つ。
パウロが交際を禁じるのは、身体の中に悪い影響を齎す病原菌やウィルス
が入り込むのと同じである。人間の身体は、免疫機能が働き、異物をチャック
して排除する機能がある。神の言葉に従わない者も、同じ処置が必要である。
その警告は、「その人が恥じ入るようになるため」である。彼らは、警告
しなければ、自分の行動に気づかなかっただろう。だが、その人は、教会から
の指摘により恥じ入る事になっても、悔改めるなら、もっと大きな益となる。
但し、パウロは、「敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」と勧める。
どんなに正しい言葉も、愛がなければ、相手の心に届かない。その人への忠告
は、「交わり絶つ」為ではなく、「真の兄弟として交わりを回復する」為である。
最後に、パウロは、「平和の主ご自身が…平和を与えてくださいますように。」
と祈る。その平和は、「主が…ともにいてくださる」事で実現する。それは、「世
の与える平安」と異なり「どんな時にも、どんな場合にも」変わる事がない。
彼は、最後の言葉だけ直筆で書き、この手紙の真正性を証明する。「私パウ
ロが自分の手で挨拶を記します。」聖書が神の言葉である事は、聖霊の証印
による。偽りのない、真実な神の言葉に従う者には、神のいのちと祝福が伴う
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No.922 - 1月18日: 「たゆまずに歩む」 テサロニケ第2の手紙3章6節〜13節 |
(みことば)「主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをし
て、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。」
テサロニケ第2の手紙3章6節
パウロは、この手紙の最後に「怠惰なキリスト者を戒める言葉」を書き添
える。それは「キリスト者の私生活」或いは「生き方」に関する勧めである。
「命じる」は、軍隊用語で厳格さと威厳を持つ言葉でもあり、それは、主
イエスの命令でもあるので、それに従わなければ、主の弟子とは呼べない。
教会の中に、そのような気儘で怠惰な歩みをしている者がいたようである。
「怠惰」は、「放縦、自堕落」の意味で、軍隊用語で「軍規を守らない、隊列を
乱す」の派生語であり、それは聖徒達の私生活に関する事である。主の恵みに
よって新生した者は、以前のような放縦で自堕落な生き方をすべきではない。
「どのように私たちを見習うべきか…知っている」彼らには、手本とすべき
確かな模範があった。それは、彼らに福音を伝えた伝道者達の生き方である。
パウロは、「あなたがたの間で、私達は怠惰に暮らすことはなく」と証言する。
彼は、又「人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。」
と証言する。それは、「正当な働きによる収益」ではなく、「人から恵んで貰
う行為」を指す。彼は、他の人の負担で生活をするような卑しさを極力避けた。
寧ろ、彼は、「あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦し
みながら働きました。」と証言する。彼が福音宣教の働きを通して報酬を受け
る事は、決して不当な事ではない。だが、彼は敢えてその権利を用いなかった。
それは、「私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを
見習うように、身をもって模範を示すため」であった。彼が、敢えてそのよ
うに労苦するのは、自分の益の為ではなく、彼らの益となる為の行動である。
「権利」とは、「自分の好きなように振る舞う自由」を意味するが、パウ
ロは、自分の持つ権利を行使せず、他者の益となる為に労し苦しむ。それは、
キリスト者の模範的な生き方であり、私達もそのように生きるべきである。
パウロは、彼らに「働きたくない者は食べるな」と厳命する。彼らの中に
「仕事もせず議論を好む」ギリシヤ的風習が蔓延していたのか、それは、ユ
ダヤの格言かも知れないが、いずれにせよ聖書は、人に勤勉さを勧めている。
「怠け者よ、蟻のところへ行き、そのやり方を見て知恵を得よ。」(箴言)私達は、
人の評価を気にせず、与えられた働きを誠実に果すべきである。ヨセフは、主
が共におられ、「彼が何をしても主がそれを成功させてくださった。」とある。
パウロは、残念な事に、「あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人た
ち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいる」と聞かさ
れていた。彼らは、他の点では模範的であったが、この点では欠けがあった。
「おっせかいを焼く」は、「余計な仕事をする」の意味で、それは、相手の
益にならない行為である。私達は、その点で、人に対する思慮深さや配慮が必
要である。思慮と慎みのある人は、相手が必要な時に、必要な手を差し伸べる。
「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」主が共におられ
る人の歩みには、「落ち着き」と「静かさ」がある。主は、その人の生活に必要な
全ての物を備えて下さる。「あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。」
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No.921 - 1月11日: 「心の道を整える」 テサロニケ第2の手紙3章1節〜5節 |
(みことば)「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向
けさせてくださいますように。」
テサロニケ第2の手紙3章5節
パウロは、これ迄「世の終わり」と「主の来臨」及び「不法の者の到来」に関し
て語って来たが、それは人類の未来に関する事で興味をそそる内容でもある。
最近の世界情勢を鑑みるとこれ迄の常識や理性が通用しない状況が続け様
に起こり、世界が音を立てて終末に向って突き進んでいると感じる。それは、
私達の信仰や交わりの外の出来事であるが、神の支配や計画は揺るがない。
パウロは、「最後に兄弟たち。私たちのために祈ってください。」と彼らの
思いを現実に引戻し、祈りを要請をする。「歴史の未来を知る」事も大切だ
が、「この時代にどう生きるか」と言う現実も、決して疎かにしてはならない。
パウロには、神の国の為に成すべき働きが沢山あり、その為の戦いも多く
ある。それは、聖徒達の祈り無しに成し得ない働きである。聖徒達は、主の
働きの為に真剣に祈る必要があり、祈りなしに、神の国の進展はあり得ない。
祈りの第1は、「主のことばが、あなたがたのところと同じように速やか
に広まり、尊ばれるように。」である。福音は、テサロニケにおいてユダヤ
人の妨害にも拘わらず急速に広まった。それは、彼らの宣教の熱意による。
「速やかに広まり尊ばれる」は、直訳すると「光を輝かせて走る」の意味
である。箱根駅伝の競技者が「栄冠を目指して区間を走り襷を渡す」ように、
私達は、天の御国において「主の栄冠」を得る為にひた向きに走るべきである。
第2に彼は「ひねくれた悪人どもから救い出されるように」と祈るが、そ
れは、彼の宣教を妨害するユダヤ人達の事である。「ひねくれた」とは「不当、理
不尽、異常な」の意味であるが、この世の人の真理の規準は全く歪んでいる。
「ひねくれた」の語は、キリストの隣で十字架に付く強盗が「この方は、
悪いことを何もしていない。」と証言した同じ言葉である。キリストは真実な
方であるが、人の心は歪んでいる。「すべての人に信仰があるわけではない…」
「主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守って…」「強く
する」は「堅く据える」「支える」の意味で、建築の時の強固な地盤のようで
ある。偽り者が大勢いても、主に信頼する者は、失望させられることがない。
「私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし…確信していま
す。」「命じる」は、「軍隊で上官が部下に命令を下す」時に使われるが、その
言葉には、権威がある。それは、主イエスキリストの名による命令である。
人は、主の命令に従わなければ、当然の刑罰があり、逆に、主の命令に従う
なら、いのちと祝福が約束されている。彼らは、忠実に主の言葉を実行して
いたが、パウロは「これからも実行してくれる」と主にあって確信していた。
それは、彼らの「人間性へ信頼」ではなく、「主の真実さへの信頼」である。
パウロは、最後に「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐
に向けさせ…」と祈る。「心を導く」とは、「真っ直ぐに向ける」の意味である。
私達は、曲った心ではなく「神の愛とキリストの忍耐」に心を向け、イザヤが
バプテスマのヨハネについて「主の道を用意せよ。…大路をまっすぐにせよ。」
と預言したように、私達も、彼のように主の道を真っ直ぐに歩む者となろう。
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No.920 - 1月4日: 「主の来臨の輝きと救い」 テサロニケ第2の手紙2章8節〜17節 |
(みことば)「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御
口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」
テサロニケ第2の手紙2章8節
世の終わりに、背教の中で「不法の者」或いは「滅びの子」が現れる。彼
は、黙示録に記された「悪魔から権威を授けられた獣」即ち反キリストである。
「その時になると、不法の者が現れますが…」しかし「今はその者を引き
止めているものがある…」即ち、それは、教会に与えられた聖霊の働きと力
によるのであり、教会が存在する間、邪悪な独裁者の台頭が抑えられている。
だが、彼が現れても、その支配は暫くの間である。「彼は一周の間…堅い契約
を結び、半周の間…ささげ物をやめさせる」(ダニ 9:27)彼の世界支配は 7 年で、
エルサレムの支配は3年半続くが、彼は、主の来臨の輝きと伴に滅ぼされる。
不法の者が、どれほど勢力を増し加えても、「主イエスは、彼を御口の息
をもって殺し…」滅ぼされる。「御口の息」は、「キリストの霊」を表すが、
主の霊は、正しい人を生かし、悪しき者の息の根を一瞬で絶つ事ができる。
「来臨の輝き」は、「キリストが栄光の姿で再臨される」事を表す。テサロニケの
手紙で、「来臨」(パルーシア)は、6回「キリストの再臨」に関して用いられ、例外と
して1度だけ「不法の者は…到来し」と反キリストと対比して用いられている。
キリストは、父なる神の権威と力を受けて、この世に来られたが、反キリス
トは、サタンの働きによって到来し、彼には、「あらゆる力、偽りのしるし
と不思議、あらゆる悪の欺き」が伴っている。それが「滅びる者たちに」臨む。
その時、「いのちの書に…名が記されていない者は…獣を拝むようになる。」
(黙示録 13:8)逆に聖徒達は、混迷した時代の中で「捕らわれの身となり、剣で殺
される」(10)地上に残った聖徒とは、回心したユダヤ人キリスト者と言える。
敵対者が滅びるのは、「自分を救う真理を愛をもって受け入れなかった」
からである。直訳は「真理の愛」であるが、それは、キリストを指している。
彼らは、「真理と愛」に満ちたキリストを拒絶し、邪悪な支配者を信奉する。
又、彼らが滅びるのは、神が「惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるよ
うになる」からである。それは、神の主権的な意志によるが、それは、彼ら
がキリストを拒絶したからである。神は、決して人の意志を無視されない。
それは、「真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれ
る」為である。人は「誰に従うか」によって、その結末が全く変わる。人が取った
行動や態度は、やがて明るみに出され、正当な裁きを受ける時がやって来る。
そのパウロの語調が一転し、聖徒たちへ感謝と信頼に満ちた言葉に変わる。
それは聖徒達の「信仰が大いに成長し、互いに対する愛が増し加わっている」
(1:3)からである。彼らは、確かに「神の子」とされ、「主に愛された者」である。
彼らの救いは、第1に「御霊の聖別」により、第2に「真理に対する信仰」
により、第3に「神の選び」により、第4に「福音による神の召し」による。
最後に、救いは、「キリストの栄光に預かる」完成に向かって進んでいる。
それ故、聖徒達は「堅く立って…学んだ教え」をしっかりと守らなければ
ならない。それは、この世にはない唯一無二の神の救いの啓示である。神は、
恵みによって、ご自身の愛、永遠の慰め、救いの望みを聖徒達に与えて下さる。
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新年特別号 - 1月1日: 「創造者である神を思う」 伝道者の書3章11節 |
(みことば)「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、・・・までを見極めることができない。」
伝道者の書3章11節
人の持つ人生観は、様々であるが、神を信じる者は、この世界や人生に神
の支配や摂理を認める。だが、神を信じない人は、それを偶然の結果と考える。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」この御言葉には、神の支配や摂理が良く現わされている。もし、神の支配を否定するなら、この世界は、偶然の結果であり、人生に意味などはなく、虚無的な生き方になる。
だが、この世界は、決して偶然の産物ではなく、そこには、神が定めた自然界の法則があり、秩序があり、摂理がある。神が創造された宇宙や生命や人間のいのちを見る時に、そこには、神が創造された絶妙な美しさがある。
科学の進歩に伴い宇宙が解明されるにつれ、科学者を困惑させる事実が発見されている。それは「人間原理」と呼ばれ、宇宙に存在する様々な定数が「この値でなければ人間が存在し得ない」という絶妙な値を示している事である。
人間の身体を構成する細胞の仕組みにしても、その内部において、人間の意志に関係なく、生命が維持される為に必要な活動が絶え間なく行われている。 宇宙にしても、生命にしても、神の存在を前提にしなければ説明が出来ない。
創造者である神を信じる者は、この世界と人生に働く神の支配や摂理の御手を覚える事ができる。「神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」それは、神が人の心に与えた永遠の概念であり、「人は何処から来て、何処へ行くのか」という人類の永遠の課題である。それは、人間の起源や魂の行末を思索する宗教的概念である。
それは、目に見えない観念的な世界なので、科学で説明できない領域である。唯物論的世界観を持つ者は、「人は死んだら無になる」と考える。そうであるなら「この世が全て」であり、必然的に現世的、快楽的な生き方になる。
だが、人間は、神に似せて創造され、人間のいのちの根源は、魂や霊の内にある。魂の実在は、科学で証明できないが、人間の知性、感情、意志等の意識は、魂の実在を前提にしなけば説明ができない。人間の宗教性もそこにある。
この世の宗教は、人類の永遠の課題に答える事ができない。神道は、現世的な宗教で、人の生き方を問う事がなく、死後の裁きの概念もない。だが、神が人の心に与えた永遠への思いは、神を覚えさせ、その生き方を問う為である。
「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」これは、人間の知性の限界性を述べている。生来の理性では、魂の起源や行末は勿論、世界の存在の根拠や人間のいのちの起源を解明できない。
哲学者が真理を探究しても「不可知論」か「虚無主義」に陥るかどちらかである。だが、伝道者の書は「空の空。」と言う言葉で始まるが、それは、逆説的な言い方で「神を認めず、現世の幸福のみを追求する空しさ」を説いている。
「見極めることができない」とは、「見つけられずに失敗する」の意味で、知性を極めた哲学者や科学者が、どんなに神や真理を探究してもそれを見出す事ができない。それは、特別啓示である聖書とキリストと聖霊の御業による。