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2021年の説教





No.710 12月26日:「主が共におられる恵み」 マタイの福音書9章14節〜17節


(みことば)「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむこ とができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日 が来ます。そのときには断食をします。」 マタイの福音書9章15節

_パリサイ人は、キリストが収税人や罪人達と食事を共にするのを見て、キ リストへの非難を口にする。それに続き、今度はヨハネの弟子達が、「なぜ あなたの弟子たちは断食しないのですか」と食事の事でキリストに尋ねた。
_ キリストもヨハネからバプテスマを受けており、信仰的に同じ所から出発 していたが、彼らは、パリサイ人と同様に「たびたび断食をしている」点で キリストの弟子と違っていた。彼らには、その姿が宗教的でないと思われた。



No.709 12月19日:クリスマス「飼葉桶に寝ているみどりご」 ルカの福音書2章1節〜20節


(みことば)「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを 見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 ルカの福音書2章12節

_この聖書箇所には、救い主キリストが誕生した状況が克明に記されいる。 この世の人の中には、キリストが歴史に実在したことを信じない人もいる。
_ キリストが架空の存在なら、聖書の記事は、全て作り話に過ぎず、私達は、 何の実態のないものを信じている事になる。キリストは、アウグストのよう に権力者の家に生まれた訳ではないので、歴史の資料に何も記されていない。



No.708 12月12日:「神が人となられる」 マタイの福音書1章18節〜25節


(みことば)「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 マタイの福音書1章21節

_マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書き記すが、彼は、ユダヤ人が待望 した救い主が、イエスであることを系図から証明し、その誕生の次第を記す。
_ まず、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1)とあ る様に、キリストは、ダビデ王の家系に誕生した。主は、ダビデに「あなた の身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(U サム 7:12)と約束した。従って、ユダヤ人はメシヤを「ダビデの子」と呼んだ。



No.707 12月5日:「収税人や罪人を招く」 マタイの福音書9章9節〜13節


(みことば)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。…わたし が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 マタイの福音書9章12節

_キリストは、更に進んで行き、収税所に座るマタイをご覧になり、「わた しについて来なさい。」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(9)
_ マタイは、1節のみで簡潔にこの出来事を記すが、それは、彼自身の上に 起こった事である。彼は、この時から12弟子の一人となる。そこには、彼 の人生の転機が記されており、主は、収税人マタイを召し弟子として用いる。



No.706 11月28日:「罪の赦しの権威」 マタイの福音書9章1節〜8節


(みことば)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがた が知るために。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を 担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」 マタイの福音書9章6節

_キリストは、舟に乗り、向こう岸からご自分の町カペナウムに戻られる。
_ 「すると見よ。人々は中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。」 マタイは、その状況を省略するが、他の福音書は、戸口まで溢れた群衆の為、 4人の人が中風の人を床のまま担ぎ、屋根をはがして吊り降ろしたと記す。



No.705 11月21日:「悪霊の支配からの解放」 マタイの福音書8章28節〜34節


(みことば) 「すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるので すか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」 マタイの福音書8章29節

_キリストは、弟子達とカペナウムから向こう岸ガダラ人の地に舟で渡られ るが、その地で最初にイエスを迎えたのは悪霊に憑かれた二人の人であった。
_ カペナウムでも悪霊に憑かれた人の記述があるが、ここでは、それがどの 様な人かを詳しく記す。彼らは「墓場から出て来た」事に異常さがあり、人 が忌嫌う場所に棲み、「ひどく凶暴で、誰もその道を通れない」程であった。



No.704 11月14日:「どうして怖がるのか」 マタイの福音書8章23節〜27節


(みことば) 「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それか ら起き上がり、風と湖を叱りつけられた。するとすっかり凪になった。」 マタイの福音書8章26節

_キリストは、カペナウムで多くの奇跡を行われ、大勢の人々が集まって来 たが、その人々を残して、「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」
_ 「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」(23)しかし、 ガリラヤの湖を舟で渡る旅は、天候の急変により、弟子たちにとって恐怖の 体験となる。「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。」(24)



No.703 11月7日:「弟子としての道」 マタイの福音書8章18節〜22節


(みことば)「イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があ るが、人の子には枕するところもありません。」 マタイの福音書8章20節

_キリストは、カペナウムを中心に宣教活動を行い、病気の人々を癒す奇跡 を行うが、その合間にマタイは、主に従う「弟子としての道」をここに記す。
_ 「イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡る ように命じられた。」(18)キリストは、敢えて群衆から分かれて、弟子達を 向こう岸に渡らせる。それは、ガダラ人への宣教と弟子の訓練の為であった。



No.702 10月31日:「病を負われる方」 マタイの福音書8章14節〜17節


(みことば)「イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起き てイエスをもてなした。」 マタイの福音書8章15節

_キリストは、山から下りて来られ、カペナウムに入られた後で、ペテロの 家に行き、彼の姑の熱病を癒す。キリストの奇跡は、これで3度目である。
_ これまでキリストの奇跡を経験した人は、ツァラアトの人、異邦人、女性 であり、彼らは、当時のユダヤ社会で神殿の内庭に入れない、神の恵みから 遠いと思われた人々であったが、主の恵みは、まず、その様な人に注がれる。



No.701 10月24日:「主のおことばへの信仰」 マタイの福音書8章5節〜13節


(みことば) 「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。 ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」 マタイの福音書8章8節

_山から下りて来られたキリストの第2回目の奇跡は、百人隊長のしもべの 癒しであるが、キリストは、それをカペナウムに入られて直ぐに行われた。
_ カペナウムは、イエスのガリラヤ宣教の拠点で、ペテロの出身地であり、 マタイも取税人として働いていた。ここにはローマ軍の駐屯地があり、百人 隊長は、百人の兵士の指揮官であったが、主の「みもとに来て懇願」する。



No.700 10月17日:「きよめる主のみこころ」 マタイの福音書8章1節〜4節


(みことば)「イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくな れ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」 マタイの福音書8章3節

_キリストは、山上の説教を語り終わり山を下りると、「大勢の群衆がイエ スに従った。」この個所からキリストが行われた10の奇跡が書き記される。
_ その第1の奇跡は、「ツァラアトに冒された人のきよめ」であるが、その 前にキリストの奇跡について考察する。奇跡とは、通常の自然法則では起こ り得ない超自然的出来事を言う。世界は、自然の法則に従って運動している。



No.699 10月10日:「揺るがぬ人生の土台」 マタイの福音書7章24〜29節


(みことば)「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者は みな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」 マタイの福音書7章24節

_キリストは、山上の説教の最後に「岩の上に…家を建てた賢い人」と「砂 の上に…家を建てた愚かな人」の譬えを語るが、「群衆はその教えに驚いた。」
_ 「これらのことばを語り終えられると」(28)とは、単に話の終わりではな く「完了・完成」の意味があり、キリストは、人が生きる上で必要な全てを ここに語り尽くされた。私達が生き方に迷う時、主の言葉に聞くべきである。



No.698 10月3日:「主に会う備えをせよ」 マタイの福音書7章21〜23節


(みことば) 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでは なく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」 マタイの福音書7章15節

_前回の箇所で、偽預言者に用心する事が語られたが、今回は、更に範囲が 広く、「偽キリスト者」或いは「見せかけの信者」について語られている。
_ 「偽預言者」とは、神の言葉を語る者の中に偽物がいる事になるが、「偽 キリスト者」とは、神の言葉を聞く者の中に偽の信者がいる事になる。それ は、聞き捨てならない言葉であり、誰が本物で、誰が偽物か疑心暗鬼になる。



No.697 9月26日:「偽預言者の惑わし」 マタイの福音書7章15〜20節


(みことば)「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがた のところに来るが、内側は貪欲な狼です。」 マタイの福音書7章15節

_キリスト者は、「狭い門」から入り、それに続く細い道を歩み始めた。そ の道は、いのちに至るが、その途上において偽預言者による惑わしが起こる。
_ 預言者は、神の言葉を預り、それを神の民に語り、神の群れを霊的に導く 働きをした。しかし、イスラエルには、しばしば、偽預言者が現れ、神の御 心と違う事を語り、神の民を惑わし、多くの者が道を外れて滅びに向かった。



No.696 9月19日:「狭い門から入る選択」 マタイの福音書7章13〜14節


(みことば)「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、 そこから入って行く者が多いのです。」 マタイの福音書7章13節

_山上の説教の終盤になるが、その第1は「狭い門から入りなさい」の勧め で始まる。これは、私達の人生において神を信じる生き方を迫る言葉である。
_ 「狭き門」と言うと「受験戦争」の時代の人は、難関大学への入学を思い 出す事だろう。主は、神の国に生きる者が、目指すべき人生の方向と歩むべ き道を譬えて、このように語っているが、それは、全ての人が傾聴に値する。



No.695 9月12日:「黄金律」 マタイの福音書7章12節


(みことば)「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも 同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」 マタイの福音書7章12節

_キリストは、これ迄「天に宝を蓄える」生き方、「この世の事で心配をし なくてよい」事、「人をさばかない」事、「神を求める」事などを語って来た。
_ 本日の御言葉は、神の国に生きる者の根本的な行動の原理を教えているが、 「ですから」とは、これまで語って来た事を総括した結論的な教えの意味で ある。それは、キリスト者の倫理的な戒めの最も大切な行動原理を指し示す。



No.694 9月5日:「良き物を主に願い求めよ」 マタイの福音書7章7節〜11節


(みことば)「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれ ば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 マタイの福音書7章7節

_キリストは、これ迄「天に宝を蓄える」御国との関係を、「衣食の心配を しない」この世との関係を、「さばかない」と言う人との関係を語って来た。
_ 今日の箇所は、「求めなさい」と言う「神との関係」が語られる。ここに は、「祈る」と言う言葉も、神の名も出て来ないが、「求めなさい」「探しな さい」「たたきなさい」と言う表現で、神に向かう姿勢が教えられている。



No.693 8月29日:「聖なるものを聖く保つ」 マタイの福音書7章6節


(みことば)「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に 投げてはいけません。犬や豚は、それらを足で踏みつけ、向き直 って、あなたがたをかみ裂くことになります。」 マタイの福音書7章6節

_キリストは、これまで「さばいてはいけません」と言う主題で、人をさば く罪を戒めて来たが、今日の御言葉は、その主題と正反対の勧めと言える。
_ 「豚に真珠」の諺は、聖書が出典であるが、「価値の分からない者に価値 ある物を与えても無駄なこと」の意味である。犬や豚は、聖なるものや真珠 の価値を理解しない。イスラエルは、犬や豚を汚れた動物として忌み嫌った。



No.692 8月22日:「目の梁に気づかぬ盲目さ」 マタイの福音書7章1〜5節


(みことば)「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が 量るその秤で量り与えられるのです。」 マタイの福音書7章2節

_キリストは、これまで、世の事や明日の事で「心配しなくてよい」と信仰 の内面を語って来たが、ここから「さばく」と言う「他者への態度」を語る。
_ 人が人をさばくのは、公的に裁判所で裁判官が行うが、一般的には、多く の人が日常生活の中で、それを行っており、言葉で相手をさばく事もあれば、 心でさばきの感情を抱く事もある。主は「さばいてはいけません。」と語る。



No.691 8月15日:「神の国と神の義を求めよ」 マタイの福音書6章31〜34節


(みことば)「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの はすべて、それに加えて与えられます。」 マタイの福音書6章33節

_キリストは、私達が衣食等の生活の事で心配しなくて良い実例として、「空 の鳥を見なさい。」「野の花がどうして育つか…考えなさい。」と語って来た。
_ 改めて、キリストは、「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を 着ようかと言って、心配しなくてよい」(31)と語る。その第1の理由は、神 が自然界の創造者であり、そこに神の絶えざる御業と摂理があるからである。



No.690 8月8日:「空の鳥、野の花を見よ。」 マタイの福音書6章25〜30節


(みことば) 「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何 を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」 マタイの福音書6章19

_キリストは、御国の民が「何を目指して生きるべきか」を語って来たが、 天を目指して生きる私達の一つの誘惑は、「地上に宝を蓄える」事であった。
_ 「ですから…」(25)とは、「天を目指して生きる」前の文脈のテーマの続き であり、私達に生じるの別の誘惑は、「食べ物や着る物」等への生活の不安 や心配に関してである。それは、概して生活に余裕のない人への誘惑となる。



No.689 8月1日:「天を見据えた人生観」 マタイの福音書6章19〜24節


(みことば)「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫 やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」 マタイの福音書6章19節

_キリストは、私達がこの地上を「何を目指して生きるか」人生の指針を語 る。しかし世の哲学や宗教は、この人生の究極のテーマに誰も答えられない。
_ キリストは、「自分のために、地上に宝を蓄える」生き方と、「自分のため に、天に宝を蓄える」2つの異なる生き方を対比する。前者は、「この世が 全て」と考える人の人生観であり、後者は「天に望みを置く」人生観である。



No.688 7月25日:「神に心を向ける為の自制心」 マタイの福音書6章16〜18節


(みことば)「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食 していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの 父に見えるようにするためです。」 マタイの福音書6章17節

_キリストは、これまで「人に見せるための善行」、即ち「偽善」を警戒す る様に語って来たが、善行の第1は施し、第2は祈り、最後は、断食である。
_ 施し、祈り、断食は、当時の人々の考える信仰生活の基本をなすものであ るが、主は、私達の信仰を調える基本を具体的な形で問い直された。しかし、 断食は、祈りほどに、今日の私達に身近ではなく、断食の習慣すら余りない。



No.687 7月18日:「試みと悪からの救」 マタイの福音書6章13節


(みことば)「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」 マタイの福音書6章13節

_「主の祈り」の後半の第3は、将来の信仰の歩みの中で起こる「試みと悪 からの救い」を求める祈りであるが、私達が試みあうことは避けて通れない。
_ 「試み」は、「試練」とも「誘惑」とも訳す事ができるが、「試練」は、「神 に関係し、信仰の成長や訓練の為に必要」であるが、「誘惑」は、「悪魔に関 係し、人を神から引き離し、罪をもたらすために起る働き」と区別できる。



No.686 7月11日:「負い目の赦し」 マタイの福音書6章12節,14節〜15節


(みことば)「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目 のある人たちを赦します。」 マタイの福音書6章12節

_主の祈りの後半の第2は、「負い目の赦し」を求める祈りであるが、「負い 目」は、「負債」を意味し「当然支払われるべき」(ローマ 4:4)借金等を指した。
_ 私達は、創造者である神の定める道徳的要求を満たす事が出来ないという 負い目(負債)を負っている。「負い目」を同じ意味で「過ち」(14,15)と 表現し、同じ言葉を「背きの罪」(ローマ 4:25)「違反」(5:15)と訳している。



No.685 7月4日:「日ごとの糧の為の祈り」 マタイの福音書6章11節


(みことば)「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」 マタイの福音書6章11節

_主の祈りの後半は、「人の願いと祈り」であるが、第1は「日ごとの糧の 備え」第2は「負い目の赦し」第3は「試みと悪からの救い」に区分できる。
_ 第1は、「日ごとの糧」を求める祈りであるが、「糧」は、パンの事であり、 私達の食生活に関わる事である。主は、「負い目の赦し」や「試みや悪から の救い」の様な霊的事柄より先に、肉体の必要を優先して祈るように命じる。



No.684 6月27日:「みこころを求める祈り」 マタイの福音書6章10節


(みことば)「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも 行われますように。」 マタイの福音書6章10

_主の祈りの前半3つは、神に関する祈りで、後半4つは人間の為の祈願で ある。キリスト信仰は、神への祈りを第1にする点で異邦人の祈りと異なる。
_ 神に関する祈りの第2は、「御国が来ますように。」である。「御国」とは、 「あなたの国」即ち「神の国」であるが、マタイは「天の御国」と表現した。 主の宣教の第1声は、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」である。



No.683 6月20日:「御名が聖とされる祈り」 マタイの福音書6章9節


(みことば)「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たち の父よ。御名が聖なるものとされますように。」 マタイの福音書6章9節

_主は、「偽善者たち」や「異邦人のよう」に祈ってはならないと注意した が、更に、積極的に「ですから…こう祈りなさい。」と祈りの模範を示す。
_ 主が教えた祈り(主の祈り)には、キリスト者が祈るべき内容の真髄が凝 縮されている。従って、祈る者は、それを繰り返し唱えるのではなく、主の 祈りを模範として、自分の思いと言葉で神に向かって真実に祈るべきある。



No.682 6月13日:「主を御名を呼び求める幸い」 マタイの福音書6章5節〜8節


(みことば)「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そし て戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」 マタイの福音書6章6節

_キリストは、御国の民が善行を行う際の注意の第2として祈りについて語 る。キリスト者にとって、祈りは、神からの最高の恵みであり特権である。
_ 祈りは、この地上における神との関係を最も良く表わす行為であり、キリ スト者生活の中で最も重要な位置を占める。それは、人間の魂における最高 の働きであり、我々は、祈りによって神と交わり、神と繋がる事ができる。



No.681 6月6日:「人前で善行をなす偽善」 マタイの福音書6章1節〜4節


(みことば)「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」 マタイの福音書6章1節

_キリストは、ユダヤ人達が律法の実践として重視して来た「善行」(施し ・祈り・断食)に対して、天の御国の民としてどの様に生きるべきかを語る。
_ 善行は、これから語られる施し、祈り、断食の総称であるが、それぞれの テーマに共通した言葉は、「偽善者たちのようであってはいけません。」であ る。主は、ユダヤ人達が行っていた偽善的な行為に注意を促す必要があった。



No.680 5月30日:「愛の教えの極み」 マタイの福音書5章43節〜48節


(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自 分を迫害する者のために祈りなさい。」 マタイの福音書5章44節

_キリストは、『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていた」 教えに対し、「わたしはあなたがたに言います。」と第6の新しい宣言をする。
_ 前半の教え「あなたの隣人を愛し」とは、十戒の後半の道徳律法を要約し た言葉である。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ 19:18) それは、主がこれまで律法に対応して語ったテーマを総括した言葉である。



No.679 5月23日:「天の御国に生きる者の自由」 マタイの福音書5章38節〜42節


(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かって はいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」 マタイの福音書5章39節

_キリストは、「目には目を、歯には歯を」(38)の律法の教えに対応し「し かし、わたしは、あなたがたに言います。」と第5番目の新しい教えを語る。
_ 「目には目を、歯には歯を」は、一般的に復讐の原理として使われる。古 くはハムラビ法典にも「同害復讐法」としてこの言葉がある。しかし、それ は、復讐を促す勧めではなく、寧ろ、過剰な報復を抑制する為の法律である。



No.678 5月16日:「神への誓いと言葉の真実」 マタイの福音書5章33節〜37節


(みことば)「あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は 「いいえ」としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」 マタイの福音書5章37節

_旧約律法に対応する主の教えの第4は、「誓い」に関してであるが、「偽っ て誓ってはならない。…誓ったことを主に果たせ。」は律法の要約と言える。
_ 律法には、「わたしの名によって偽って誓ってはならない。」(レビ 19:12)「誓 う場合には、自分のことばを破ってはならない。」(民数 30:2)と書かれている。



No.677 5月9日:「結婚の神聖さと人の罪深さ」 マタイの福音書5章31節〜32節


(みことば)「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、 妻に姦淫を犯させることになります。」 マタイの福音書5章32節

_キリストは、第7戒の「姦淫してはならない。」に対比してご自身の独自 な見解を述べられたが、前回は、それに関連して「結婚の神聖さ」を語った。
_ 人間の罪は、神の定めた結婚関係の崩れとなって現れる。キリストは「姦 淫てはならない」の戒めに関連して、結婚関係の破綻である離縁、或いは、 離婚に関して語る。それは、伝統的なユダヤ人の律法の解釈と異なっていた。



No.676 5月2日:「罪との決別と神への純潔」 マタイの福音書5章27節〜30節


(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見 る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」 マタイの福音書5章22節

_キリストは、旧約の律法の中心である「十戒」に対比して独自な見解を山 上の説教の中で述べられた。その第2回は、「姦淫してはならない。」である。
_ 「姦淫」の定義は、広い意味で「性に関する不道徳」であるが、その規準 は、宗教や社会通念上異なる。聖書では、原則的に「結婚関係にある夫婦以 外の性的な交渉」を意味する。今日もそれが概ね社会規範として生きている。



No.675 4月25日:「罪の結末と和解の道」 マタイの福音書5章21節〜26節


(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者 は、だれでもさばきを受けなければなりません。」 マタイの福音書5章22節

_キリストは、旧約の預言の成就として来られ、律法の真の意味を説かれた。 その第1は、第六戒「殺してはならない」に対する主の教えと宣言に始まる。
_ イスラエルの先祖(昔の人々)は、これを「人を殺す者はさばきを受けなければ ならない。」(21)と解釈したが、主は「わたしはあなたがたに言います。」と 「律法学者たちのようではにではなく、権威ある者として」(7:29)教えた。



No.674 4月18日:「神のことばの普遍性」 マタイの福音書5章17節〜20節


(みことば)「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなり ません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」 マタイの福音書5章17節

_キリストは、御国に生きる者の幸い(2~12)と使命(13~16)を語った後、彼 らが律法と預言(聖書)をどの様に解釈し、どの様な態度を取るべきかを語る。
_ 第1に、キリストは、否定的な意味で「律法や預言者を廃棄するために来 た」のではない。主の教えは、律法学者やパリサイ人の教えと違っていたが、 決して、聖書の言葉を打ち消して、独自に新しい教えを語ったわけではない。



No.673 4月11日:「世の光として輝く」 マタイの福音書5章14節〜16節


(みことば)「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができ ません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。」 マタイの福音書5章14節

_天の御国に生きるキリスト者は、この世においてどの様な存在で、どの様 な性質であるかを「地の塩」に譬えたが、第2は「世の光」に譬えている。
_ 光は、主にそこに存在する物を照らす働きをする。キリスト者であるなら、 誰でも、世を照らす光として神によって創造され、この世に生かされている。 世とは(コスモス)であるが、光の存在は、自然界の生命にとって欠かせない。



No.672 4月4日:「主の復活の証人として」 ルカの福音書24章36節〜53節


(みことば)「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わ たしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。」 ルカの福音書24章39節

_キリストの復活を記念するイースターは、春分の日の後の満月の最初の日 曜日であるが、それは、過越の祭りの安息日の翌日、週の初めの日となる。
_ キリストの復活イースターは、クリスマスと同様にキリスト教にとって重 要な出来事であり、重要な教義である。キリストの復活がなければ、私達の 信仰も実質の無いものとなり、キリスト教の歴史も存在しなかっただろう。



No.671 3月28日:「あなたがたは地の塩です」 マタイの福音書5章13節


(みことば)「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によ って塩気をつけるのでしょうか。」 マタイの福音書5章13節

_キリストは、天の御国に生きる者の幸いを語った後で、この箇所から天の 御国生きる者が、この世においてどのような存在であるかを明らかされる。
_ その第1は、「あなたがたは地の塩です。」という言葉である。「あなたが た」とは、キリストに従う弟子達であるが、原文では、これが文頭に置かれ 強調されているので、「あなたがただけが地の塩です。」との意味と言える。



No.670 3月21日:「義の為に迫害されている者」 マタイの福音書5章10節〜12節


(みことば)「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人た ちのものだからです。」 マタイの福音書5章10節

_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の最後 は、「義のために迫害されている者は幸いです。」(8)と言う御言葉である。
_ 人が悪を行った為に受ける苦しみは、当然の刑罰であるが、義のために受 ける苦しみは、刑罰ではなく迫害である。「迫害されている」は、現在完了 受動分詞形であるので、現在の行為が継続して進行している事を示している。



No.669 3月14日:「平和をつくる者」 マタイの福音書5章8節〜9節


(みことば)「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるか らです。」 マタイの福音書5章9節

_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の第6は 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)である。
_ 「きよい」とは、「混じりけのない」「純粋」の意味があるが、主は、心の きよさを求めている。心は、知性、感情、意思の中心であり、人格そのもの である。「心のきよい者」それは、多くの人が願う道徳的な理想と言える。


No.668 3月7日:「義に飢え渇く者」 マタイの福音書5章6節〜7節


(みことば)「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」 マタイの福音書5章6節

_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の第4は 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは、満ち足りるから」(6)である。
_ 「義」と言う言葉は、道徳的な「正義」「公平」等の意味でもあるが、そ れが単に道徳な意味であるなら、正義を愛し、不正を憎むような正しい行い を心掛ける人と言える。勿論、倫理的に正しい人は、この世の中に大勢いる。


No.667 2月28日:「柔和な者は幸いです」 マタイの福音書5章4節〜5節


(みことば)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和 な者は幸いです。その人たちは、地を受け継ぐからです。」 マタイの福音書5章4、5節

_キリストは、山上の説教の初めの教えとして、天の御国に生きる者の8つ の幸いな人の特徴を語るが、それは、世の人の考える幸いと異なっている。
_ その第2は、「悲しむ者は幸いです。」であるが、それは、深い嘆き悲しみ の感情的な表現である。何故その様な人が幸いと言えるのか。…人は人生の 深い悲しみの経験を通して、自分の存在の意味や目的を思索するからである。



No.666 2月21日:「心の貧しい者は幸いです」マタイの福音書5章1節〜3節


(みことば)「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから です。」 マタイの福音書5章3節

_キリストが山の上で語った「山上の説教」の最初には、8つの幸いな人の 例が記されているが、主の教える幸福は、この世の幸福の概念と随分違う。
_ その違いは、まず、この世に生きる者と天の御国に生きる者との違いにあ る。8つ幸いな人の最初と最後に、「天の御国はその人のものだから」とあ るが、「その人のもの」とは、「所属する」「入る資格がある」の意味である。



No.665 2月14日:「キリストの宣教の働き」 マタイの福音書4章23節〜25節


(みことば)「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ 伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」 マタイの福音書4章23節

_キリストの宣教活動は、総括的に述べて、第 1 に「会堂で教え」、第2に 「御国の福音を宣べ伝え」、第3に「病を癒された」と要約する事ができる。
_ 第1に、教える事は、教会の働きにおいて重要な要素である。キリストは、 福音書の前半において人々を教えられたと何度も記されている。主は、地上 を離れる最後に「すべてのことを守るように教えなさい。」(28:20)と命じた。



No.664 2月7日:「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節〜22節


(みことば)「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間を とる漁師にしてあげよう。彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」 マタイの福音書4章19,20節

_キリストは、ガリラヤで宣教を開始されるが、後に12弟子の中心的な人 物となる4人を「ガリラヤの湖のほとりを歩いておられたとき」(18)に招く。
_ 救いの御業が、何時の時代にも途絶える事無く継続する為に弟子を造る意 義は大きい。キリストに従う者は、キリストの弟子であるが、主は「あなた がたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(28:19)と命じられた。



No.663 1月31日:「闇の中に輝く光」 マタイの福音書4章12節〜17節


(みことば)「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んで いた者たちの上に光が昇る。」 マタイの福音書4章16節

_キリストは、悪魔の試みに討ち勝たれた後で、救い主の活動を始められる が、「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)
_ ユダヤの指導者達は、エルサレムの権威と別にバプテスマを授けるヨハネ の活動を快く思わず、特にローマ帝国を刺激する事を恐れヨハネを投獄する。 また、ヨハネは領主ヘロデの不貞を責めたので、やがて獄中で首を切られる。



No.662 1月24日:「悪魔の試みと勝利」 マタイの福音書4章1節〜11節


(みことば)「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神 の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 マタイの福音書4章4節

_キリストは、ヨハネからバプテスマを受け、救い主の公生涯を始められる が、その初めに、悪魔から試みを受ける為に御霊に導かれて荒野に上られた。
_ アダムは悪魔の試みを受け、それに従った事で堕落し、世界に悪が入った。 従って、キリストは、救い主として悪魔の試みを受け、それに打ち勝つ必要 がある。悪魔の3度の試みには、人類が受ける誘惑の全ての要素が含まれる。



No.661 1月17日:「キリストのバプテスマ」 マタイの福音書3章13節〜17節


(みことば)「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに 来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。」 マタイの福音書3章13節

_マタイは、キリストの誕生に関する記事以降、ナザレでのキリストの生涯 について沈黙し、バプテスマのヨハネの記事からキリストの公生涯を記す。
_ キリストは「ヨハネのもとに来られた。」とあるが、「やって来る」(パラギ ノマイ)は、特別な使命を持って来る事を意味する。救い主を「来るべき方」 と表現する様に、キリストは、救い主としての使命を果たす為に来られた。



No.660 1月10日:「神の子孫とまむしの子孫」 マタイの福音書3章7節〜12節


(みことば)「ヨハネは、…彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫 り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。』」 マタイの福音書3章7節

_ヨハネは、荒野で悔い改めのバプテスマを説いていたが、人々がユダヤ全 土からやって来て罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
_ 「ヨハネは、大勢のパリサイ人とサドカイ人が、バプテスマを受けに来る のを見ると」彼らに「まむしの子孫たち…」(7)と辛辣に叫ぶ。彼らは、確 かにヨハネのもとに来るが、罪を悔改めてバプテスマを受けたとは思えない。


No.659 1月3日: 「天の御国は近づいた」 マタイの福音書3章1節〜6節


(みことば)「そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣 べ伝えて、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言った。」 マタイの福音書3章1,2節

_マタイは、キリストの誕生を記した後、キリストの公生涯に移るが、主の 来臨の前に、バプテスマのヨハネが現れ、荒野で教えを宣べ伝えた事を記す。
_ イザヤは、ヨハネについて、「荒野で叫ぶ者の声がする。」と預言した。そ れは、荒野において姿は見えないが、声だけ響き渡るイメージである。その 様にヨハネは、神の言葉を語り、自らは、消えて行く預言者の使命を果たす。



21年1月1日:新年礼拝 「城壁は崩れ落ちる」 ヨシュア記6章1節〜21節


(みことば)「 民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛 の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。」 ヨシュア記6章20節

_イスラエルは、神の約束の通りヨルダン川を渡って乳と蜜の流れるカナン に入ったが、そこに立ちはだかるのは、堅固な城壁を備えたエリコであった。
_ 彼らは、この町を攻略しない限り、約束の地を手に入れたと言えない。難 攻不落のエリコをどの様に攻め落とすのかが課題である。エリコは、異教の 宗教や習慣を持つ人々であり、彼らとの共存はあり得ない。彼らの存在は、 イスラエルを堕落に招く事になる。「この世と調子を合わせてはいけません。」



No.658 20年12月27日:「主の救いを見よ」 出エジプト記13章17節〜14章31節


(みことば)「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのため に行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジ プト人をもはや永久に見ることはない。」出エジプト14章13節

イスラエルは、エジプトでの奴隷から解放され、自由を与えられて約束の 地に向けて旅を始めるが、その旅の初めに、神の驚くべき救いの御業を見る。
_ イスラエルの60万の民は、乳と蜜の流れるカナンに向けて40年の旅を 続けるが、神が共にいなければ、到底その旅が実現する事はない。また、彼 らがどの道を行くべきか、それを決めるのは、彼ら自身ではなく神である。



No.657 20年12月20日:「東方の博士の礼拝」マタイの福音書2章1節〜12節


(みことば) 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私た ちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 マタイの福音書2章2節

マタイの福音書はユダヤ人に向けて書かれているが、特に「ユダヤ人の王 としてお生まれになった方」とある様に、キリストが王である事を強調する。
_ 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2)それは、ユダヤ人にとっ てメシアとしての条件であった。「わたしは、彼の王国の王座をとこしえに 堅く立てる。」(Uサムエル 7:13)異国の博士がユダヤ人の王の誕生を証言する。



No.656 20年12月13日: 「インマヌエルと呼ばれる」 マタイの福音書1章18節〜25節


(みことば)「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 マタイの福音書1章21節

マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書き記すが、彼は、ユダヤ人が待望 した救い主が、イエスであることを系図から証明し、その誕生の次第を記す。
_ まず、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1)とあ る様に、キリストは、ダビデ王の家系に誕生した。主は、ダビデに「あなた の身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(U サム 7:12)と約束した。従って、ユダヤ人はメシヤを「ダビデの子」と呼んだ。