2021年の説教
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No.710 12月26日:「主が共におられる恵み」 マタイの福音書9章14節〜17節 |
(みことば)「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむこ
とができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日
が来ます。そのときには断食をします。」
マタイの福音書9章15節
_パリサイ人は、キリストが収税人や罪人達と食事を共にするのを見て、キ
リストへの非難を口にする。それに続き、今度はヨハネの弟子達が、「なぜ
あなたの弟子たちは断食しないのですか」と食事の事でキリストに尋ねた。
_
キリストもヨハネからバプテスマを受けており、信仰的に同じ所から出発
していたが、彼らは、パリサイ人と同様に「たびたび断食をしている」点で
キリストの弟子と違っていた。彼らには、その姿が宗教的でないと思われた。
_断食は、食を断つ事で祈りに専念したり、悔い改めの証であった。キリス
ト者には、余り断食の習慣がないが、ユダヤ教やイスラム教徒は、断食を頻
繁に行う。当時、信仰に熱心であるなら、断食するのが当然と思われていた。
_
キリストは、第1に、「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、
悲しむことができるでしょうか」との譬えで答える。主は、食卓に連なる幸
いを「婚礼の喜び」に譬える。婚礼は人生で最も華やかで喜ばしい時である。
_
花婿に付き添う友人は、花婿の喜びを共に喜ぶ。それは、花婿であるキリ
ストと共に生きる弟子の姿でもある。断食は、嘆き悲しむ思いを食を断つ事
で表すが、花婿が一緒にいる晴れやかな結婚式に、断食するのは似合わない。
_
「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食し
ます」それはキリストが取り去られる十字架の時を指す。主は罪と死の為に
徹底的に戦われた。神との交わりを回復する為に、主の大きな犠牲がある。
_
主の日の礼拝は、キリストが死からよみがえった喜びと希望の日であり、
弟子達は、この日を記念し共に集まり主の晩餐を祝った。私達は、キリスト
の弟子として、主の日を喜びに満ちた晴れやかな心で迎えているだろうか。
_
第2に主は、既存の宗教とキリストの弟子との本質的な違いを「布切れ」
と「皮袋」の譬えで説明する。それは当時の日常生活で、誰もが知る常識的
な事である。「だれも、真新しい布切れで古い衣の継ぎを当てたりしません。」
_
新しい布と古い衣では、布の強度や伸縮性が違うので、両者を継ぎ合わせ
ても、バランスが取れずに破れてしまう。新しい布は、新しくされたキリス
ト者を表し、古い衣は、この世の習慣や仕来りやこの世的な考え方を表す。
_
私達には、断食と言う古い習慣が似合わない様に、新しくされたキリスト
者の歩みに古い習慣や考え方を継ぎはぎする様な生き方をすべきでない。私
達は、新しく造らた者で、神の国に生きる者であり、御国を目指す者である。
_
第3に、「人は新しいぶどう酒に古い皮袋を入れたりはしません。」と語る。
発酵力の強い新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると耐え切れずに破れてしま
うが、伸縮性に優れた新しい皮袋は、発酵力の強い新しい酒でも保存できる。
_
新生した者は、この世の人の生き方や考え方と本質的に異なる。それは、
神との交わりに生きる者とそうでない者との違いである。「肉に従う者は肉
に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」
_
「キリストが共にいてくださる。」この以上の幸いと恵みがあるだろうか。
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No.709 12月19日:クリスマス「飼葉桶に寝ているみどりご」 ルカの福音書2章1節〜20節 |
(みことば)「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを
見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
ルカの福音書2章12節
_この聖書箇所には、救い主キリストが誕生した状況が克明に記されいる。
この世の人の中には、キリストが歴史に実在したことを信じない人もいる。
_
キリストが架空の存在なら、聖書の記事は、全て作り話に過ぎず、私達は、
何の実態のないものを信じている事になる。キリストは、アウグストのよう
に権力者の家に生まれた訳ではないので、歴史の資料に何も記されていない。
_しかし、ルカは、イエスの誕生を皇帝アウグストから住民登録の勅令が出
された時で「キリニウスがシリアの総督であった」時と記す。マタイは、そ
れをヘロデ王の治世の時と記すので、その出来事は Bc 4年頃と推定できる。
_
多少の誤差があるが、世界の暦は、アウグストではなく、キリストの誕生
を紀元としている。「今日ダビデの町で…お生まれになりました。この方こ
そ主キリストです。」(11)神による救いの御業は、キリストの誕生から始まる。
_
マリヤとヨセフは、皇帝の勅令に従い、ナザレからヨセフの出身地ベツレ
ヘムに向けて旅をする。身重のマリヤには辛い旅であったが、それでもキリ
ストがベツレヘムで生まれる事は、神の御言葉の約束に基づく摂理であった。
_
「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」しかし、マリヤが出産し
た場所は、暖かな宿屋でなく、寒空の家畜小屋であった。「その子を布にく
るんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
_
宿屋の良い部屋は、先に着いた者から順に埋まったのだろう。マリヤとヨ
セフのように弱く力のない者は、到着が遅く、そこから締め出される。弱い
者を顧みる律法があっても、ユダヤ社会はそうではなく、現代も同じである。
_
居場所がない事ほど辛い事はない。家があっても居場所がなく、学校や職
場にも居場所を見出せない人が多くいる。キリストの生涯も同様である。「こ
の方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民は…受け入れなかった。」
_
それ故、キリストは、この世に居場所を持たない人々の友となり、その人
々は、キリストのもとで憩いと平安を見出した。ベツレヘムは、「パンの家」
と言うの意味であるが、教会も一つのパンを皆で分け合う愛の家でありたい。
_
「キリストの誕生」と言う喜びの知らせを最初に聞いたのは、同じく宿を
持たない羊飼いであった。「野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。」
主の栄光は、宿もなく、明かりもなく、闇の中にたたずむ人々に照らされる。
_
羊飼いと羊の群れは、教会の姿である。牧師(パスター)は羊飼いの意味で
あり、羊は弱く力がなく、羊飼いを必要とする。「主は私の羊飼い」(詩篇 23 篇)
「…飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。…それが、…しるしです。」
_
アウグストは、ローマの平和を打ち立てたが、キリストは、永遠の平和と
支配を全世界に齎す。その時「天の軍勢が現れて、神を賛美した。」小さな
群れは、天の軍勢で守られている。「いと高き所で、栄光が神にあるように」
_
彼らは、「この出来事を見て来よう」とベツレヘムに向かう。「この出来事」
とは、実際に起こった神の言葉の成就である。彼らは、それを「探し当てた。」
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No.708 12月12日:「神が人となられる」 マタイの福音書1章18節〜25節 |
(みことば)「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
マタイの福音書1章21節
_マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書き記すが、彼は、ユダヤ人が待望
した救い主が、イエスであることを系図から証明し、その誕生の次第を記す。
_
まず、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1)とあ
る様に、キリストは、ダビデ王の家系に誕生した。主は、ダビデに「あなた
の身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(U
サム 7:12)と約束した。従って、ユダヤ人はメシヤを「ダビデの子」と呼んだ。
_しかし、それは「マリヤの夫ヨセフ」(16)の系図であり、「キリストと呼
ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった」とある。女性が系図に
記載されるのは異例の事であり(タマル,ラハブ,ルツ,ウリヤの妻)マリヤも同様であった。
_
「母マリヤはヨセフと婚約していたが…聖霊によって身ごもっていること
が分かった。」(18)キリストの誕生の特異性がここにある。即ち、処女降誕
であるが、ユダヤ人達は、これを聞いて驚いた事だろう。キリストの一方の
起源は、アブラハム・ダビデであり、もう一方は、聖霊、即ち神自身である。
_
キリストの処女降誕は、復活と同様に他の宗教にない特異さがある。それ
は、キリストの救いがどの様なものかを示している。即ち、キリストは、人
としてこの世に来られたが、同時に、罪のない完全な人格を持つ神であった。
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ユダヤ人は、メシヤにダビデ王国の再建を期待したが、キリストは、社会
改革の為でなく、罪を贖う為に来られた。「この方がご自分の民をその罪か
らお救いになる」(21)その資格を持つ方は、神であり人でなければならない。
_
一方、その事実を知った「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者に
したくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)結婚の神聖さを
重んじるユダヤ社会において不貞は許されない。ヨセフは、彼女を公に訴え
る事もできたが、彼女に対する憐れみの故に、そうする事を望まなかった。
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「正しい人」とは、厳格に正義だけを突き付ける人ではなく、憐れみを持
って相手を生かす人である。同様に、神の正しさも、罪人を赦し、信じる者
を義とする憐れみに満ちた義である。福音には、神の義が啓示されている。
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その時、ヨセフに「主の使いが夢に現れ」(20)マリヤが聖霊によって懐
妊し、男の子を産む事を示される。彼は、その後も夢を通して、エジプトへ
逃れ(2・13)エジプトから戻り(19)ガリラヤに退く(22)啓示を受ける。
_
創世記で、ヤコブの子ヨセフが、夢を通して神の救いの計画の為に用いら
れた様に、マリアの夫ヨセフも夢を通して神の器として用いられる。彼の父
もヤコブであり、それは、神の摂理でありユダヤ人へのメッセージでもある。
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キリストの誕生は、「処女が身ごもっている。…男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる。」(23)と語った預言の成就であった。イザヤは、
キリストの誕生の800年前に、処女懐妊を神の救いのしるしと預言した。
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神の子は、人となって世に来られた。それは「インマヌエルと呼ばれる」
の成就である。「ことばは、人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ 1:14)
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No.707 12月5日:「収税人や罪人を招く」 マタイの福音書9章9節〜13節
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(みことば)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。…わたし
が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
マタイの福音書9章12節
_キリストは、更に進んで行き、収税所に座るマタイをご覧になり、「わた
しについて来なさい。」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(9)
_
マタイは、1節のみで簡潔にこの出来事を記すが、それは、彼自身の上に
起こった事である。彼は、この時から12弟子の一人となる。そこには、彼
の人生の転機が記されており、主は、収税人マタイを召し弟子として用いる。
_取税人は、ローマに雇われ、ユダヤ人から税金を搾取した為に同胞から忌
み嫌われた。主は、彼が取税人として金を数える最中に招いており、彼が心
を入れ替えてからではない。主は、罪人の生き方の真ん中に入って来られる。
_
主が彼を招いた時、他の人も驚いただろうが、何より彼自身が一番驚いた
はずである。数々の奇跡を行う方が、収税人である自分を招いたからである。
彼は、主の言葉に躊躇なく従う。「すると彼は立ち上がってイエスに従った。」
_
彼がそこを「立ち上がる」とは、取税人を辞め、主の弟子になる事を意味
し、二度と元の仕事に戻れない。収税人なら、人に嫌味を言われながらも、
生活の保証はある。主に従う道に生活の保証はないが、彼はその道を選ぶ。
_
もし、彼が収税所に座ったままなら、一生税金を数え、それを帳簿に書き
記す仕事をしただろう。しかし、彼は、キリストに従う事で12弟子の一人
となり、やがてキリストの生涯を証する福音書、即ち、神の言葉を書き記す。
_
マタイは、「イエスが家の中で食事の席に着いておられた時…収税人や罪
人たちが大勢来て…食卓に着いていた」と記す。マルコはそれをマタイ(レビ)
の家であったと記す。マタイは、仲間にキリストを伝えたかったに違いない。
_
パリサイ人達は、弟子達に「なぜあなたがたの先生は、収税人たちや罪人
たちと一緒に食事をするのですか」と批判する。彼らは、直接、主に言わず、
その批判を弟子達に向ける。しかしそれに答えたのは弟子ではなく主である。
_
「イエスはこれを聞いて言われた。」それは、キリストにしか答える事の
できない事柄である。何故、キリストが、そのような人々と交わるのか。そ
れは、そのような罪人こそ、キリストの救いを必要とする人々だからである。
_
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です…わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」医者は、キリストを
指し、病人は、取税人や罪人を、丈夫な人や正しい人は、パリサイ人を指す。
_
病人が医者を必要とする様に、罪人はキリストを必要とする。主のもとに、
罪人が集まるのは当然である。更に、主は「わたしが喜びとするのは真実な
愛。いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。」と語る。
_
それは「愛と憐れみを欠けたいけにえの空しさ」を語っており、真実な愛
の欠けたパリサイ人の信仰を指している。彼らの問題は「自分たちは正しい。
病人ではない。」と思う事である。自分を正しいと思う人ほど他の人を裁く。
_
そもそも、この世に正しい人など一人もいない。自分を正しいと思う人ほ
ど深い闇と罪の病を抱えている。一番厄介なのは、自覚症状のない病である。
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No.706 11月28日:「罪の赦しの権威」 マタイの福音書9章1節〜8節 |
(みことば)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがた
が知るために。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を
担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」
マタイの福音書9章6節
_キリストは、舟に乗り、向こう岸からご自分の町カペナウムに戻られる。
_
「すると見よ。人々は中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。」
マタイは、その状況を省略するが、他の福音書は、戸口まで溢れた群衆の為、
4人の人が中風の人を床のまま担ぎ、屋根をはがして吊り降ろしたと記す。
_「イエスは、彼らの信仰を見て…あなたの罪は赦された」(2)と言われた。
「彼らの信仰」とは、中風の人を屋根から吊り降ろした4人の事であり、中
風の人もそれに同意しなければ実現しないから、彼も含めているはずである。
_
この記事は、中風の人を4人の友がキリストのもとに導く信仰と友情の物
語である。それは、弱い一人の人を皆で支え合う教会の姿である。教会は、
一人の人を何としてでもキリストのもとに導きたいと考える集まりである。
_
キリストは、彼らの信仰を見て「あなたの罪は赦された」と宣言する。キ
リストの言葉は、教会の本質を最も端的に表している。教会の本質は、罪の
赦しにある。病気や悪霊の働きは、人間が罪を犯し神から離れた結果である。
_
しかし、律法学者たちは、キリストの言葉に敏感に反応し、「心の中で『こ
の人は神を冒涜している。』と言った。」(3)それは、神だけが罪を赦す権威
を持つのに、人に過ぎないイエスが罪の赦しを宣言したと考えたからである。
_
彼らの理屈は、キリストが「神ではなく人に過ぎない」という前提による。
しかし、キリストと3年間共に歩んだ弟子達は、「この方には罪がなかった。」
と証言している。罪の赦しの資格を持つのは、罪のない神の子だけである。
_
主は、彼らの思いを知り「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」(4)と
言った。主は、人の心の思いの全てを見抜かれる。人は、外見を装っても、
心まで装う事はできない。人の心にある悪い思いが、やがて行動に現れる。
_
彼らは、やがてキリストを十字架にかけるが、それは、キリストが罪を犯
したからではなく、ご自分を神と等しい者としたからである。彼らの悪い考
えとは、キリストによる罪の赦しを否定し、神を冒涜したと考える事である。
_
主は、『あなたの罪は赦された』…と『起きて歩け』と言うのと、どちら
が易しいか」(5)と問う。勿論、どちらも易しくはない。もし、言葉だけで「罪
は赦された」と言うなら別であるが、罪ある人に罪を赦す権威も資格もない。
_
キリストは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを…知るた
めに」(6)と言われた。主は、中風の人を癒す事で、確かに罪の赦しの権威
を持つ事を示された。そして罪の赦しは、キリストを信じる者に適用される。
_
罪を赦された者は、神の裁きを受ける事がなく、天の御国に入る約束を与
えられる。罪の赦しの事実は、十字架の贖いと信じる者に働く聖霊の啓示に
よる。十字架は、信じる者にとって観念ではなく、罪の贖いの事実である。
_
「群衆は…権威を人にお与えになった神をあがめた。」(8)「人」とは、まず
人となられたキリストの事であり、更に、主は、その権威を教会に与えられた。
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No.705 11月21日:「悪霊の支配からの解放」 マタイの福音書8章28節〜34節 |
(みことば)
「すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるので
すか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
マタイの福音書8章29節
_キリストは、弟子達とカペナウムから向こう岸ガダラ人の地に舟で渡られ
るが、その地で最初にイエスを迎えたのは悪霊に憑かれた二人の人であった。
_
カペナウムでも悪霊に憑かれた人の記述があるが、ここでは、それがどの
様な人かを詳しく記す。彼らは「墓場から出て来た」事に異常さがあり、人
が忌嫌う場所に棲み、「ひどく凶暴で、誰もその道を通れない」程であった。
_彼らは、社会生活ができず、自分や人を傷つけ、誰も彼らに関わらない。
人々は、彼らに手を焼き、困ったに違いない。悪霊の存在は、この時代に限
定された事ではなく、悪の蔓延る今の世も悪霊の存在なしに説明できない。
_
マタイは、「悪霊につかれた人が二人」と複数であったと記す。凶悪な事
件が度々報道されるが、異常な行動を取る人は、一人や二人ではない。神の
創造による素晴しい世界は、同時に人間の罪と悪霊の支配する世界でもある。
_
「悪霊につかれた人が…イエスを迎えた」とあるが、彼らは、イエスを歓
迎した訳ではない。「迎えた」は、「対抗する」の意味がある。彼らは「神の
子よ、私たちと何の関係があるのですか…苦しめに来たのですか。」と叫ぶ。
_
彼らは、イエスを「神の子」と呼ぶが、人間より先に悪霊の方がイエスを
神の子と認めている。ペテロは、マタイ16章でようやくイエスを「生ける
神の子」と告白するが、悪霊の方が人間より敏感で、神の知識を持っている。
_
しかし、悪霊にどれほど神知識があっても、彼らは、神を信じている訳で
も、救いの可能性がある訳でもない。彼らは、イエスに「私たちと何の関係
があるのですか。」と叫ぶ。彼らは、イエスと関りを持ちたくないのである。
_
彼らは、「まだその時ではないのに…苦しめに来たのですか。」とイエスを
恐れる。悪霊は、世の終わりに滅びが定まっているが、今はまだこの世を自
由に活動している。だがイエスの来臨と宣教により、その活動も制限される。
_
従って、悪霊は、キリストが来られた事で、二人から出て行かざるを得ず、
何とか生き残る術を考え「豚の群れの中に送ってください」と懇願する。悪
霊は、生き物に憑依して延命を図るが、神の霊を宿す者に入る事はできない。
_
イスラエルで豚は、汚れた動物であるが、異邦人のゲラサ人は、沢山の豚
を飼っていた。「豚に真珠」の譬えの通り、豚は神の救いを拒絶する者の象
徴である。悪霊が乗り移るのは、神の救いを受け入れ様としない人々である。
_
イエスは彼らに『行け』と命じる。悪霊は、権威ある神の言葉に従わざる
を得ず、その為、豚の群れは「崖を下って湖になだれ込み…おぼれて死んだ。」
同様に悪霊は世の終わりの近い事を知り、世の人を道ずれに滅びに突き進む。
_
「飼っていた人たちは逃げ出し」事の次第を町の人に知らせた。すると人
々は、イエスに「この地方から立ち去ってほしい」と懇願する。彼らは、悪
霊につかれた人が正気に戻った事より、豚を失った事にしか目を向けない。
_
イエスが立ち去った後で誰が彼らに福音を語るのだろう。マルコは、悪霊
を追い出してもらった人が正気に帰って、家族や人々に神を証した事を語る。
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No.704 11月14日:「どうして怖がるのか」 マタイの福音書8章23節〜27節 |
(みことば)
「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それか
ら起き上がり、風と湖を叱りつけられた。するとすっかり凪になった。」
マタイの福音書8章26節
_キリストは、カペナウムで多くの奇跡を行われ、大勢の人々が集まって来
たが、その人々を残して、「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」
_
「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」(23)しかし、
ガリラヤの湖を舟で渡る旅は、天候の急変により、弟子たちにとって恐怖の
体験となる。「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。」(24)
_弟子達は、嵐の中で慌てふためき、キリストに「主よ。助けてください。
私たちは死んでしまいます。」と叫ぶ。キリストが弟子達を向こう岸に渡ら
せる目的は、弟子の訓練の為でもあるが、それが荒天の湖において行われる。
_
信仰が試されるのは、順風の時ではなく、寧ろ想定外の事態に見舞われた
時である。確かに、彼らは、予想を超えた嵐に見舞われたかも知れないが、
彼らも漁師のはずである。しかし、熟練した者がいるから安全とは言えない。
_
「大荒れとなり」は、「この上もない揺れが生じる」の意味であるが、彼
らは、舟板が激しく揺れる度に死の恐怖に怯える。「板子一枚下は地獄」の
諺の様に、人の一生は、いつ滅びるかも分からない不安定な上に立っている。
_
私達は、少しの嵐で揺れ動き、波をかぶり、湖の底に沈むような小さな舟
に乗っている。人は、その様な時こそ「何を信じているのか」その信仰が試
される。熟練した船乗りでもその経験や自信が何の役にも立たない時がある。
_
まことに小さな舟で、大荒れの湖でも、それが沈まない確信は、キリスト
が同じ舟に乗っているからである。「イエスが舟に乗られると、弟子たちも
従った。」弟子達の歩みの先にキリストがおられ、それは主に従う旅である。
_
又、不思議な光景は、舟が沈みそうになる嵐の湖で「イエスは眠っておら
れた」事である。キリストは、多くの御業を行い、夜中になっていたからな
のか、兎に角、弟子達に起されなければ、起きないほど熟睡しておられた。
_
この状況の中で熟睡できるキリストこそ、神に信頼して生きる者の姿であ
る。人は、心配事が先に立つと夜も眠る事が出来ない。しかし主が私達に先
立って歩まれ、私達の乗る舟で休んでおられるなら、何も恐れる必要はない。
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「イエスは言われた。『どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」(26)「信
仰の薄い」とは、「小さい信仰」の意味であるが、信仰が小さくなると不安
や恐れが大きくなる。世界を創造された全能なる主が私達と共におられる。
_
「風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。」それは、「悪
さをする子供を叱って大人しくさせる」ような不思議な言い方である。主は、
荒れ狂う自然さえ、治める権威と力を持っており、弟子達はその奇跡に驚く。
_
「人間は自然の驚異の前に無力である」と良く言うが、その言葉は、キリ
ストに該当しない。キリストは、世界を創造され、今も自然界を治めておら
れる神ご自身である。「すべてのものは、この方によって造られた。」(ヨハネ 1:3)
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人々は、それを見て「いったいこの方はどういう方なのだろうか。」と驚
く。信仰は、私達の主が「どういう方なのか」を人生の中で知る経験である。
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No.703 11月7日:「弟子としての道」 マタイの福音書8章18節〜22節 |
(みことば)「イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があ
るが、人の子には枕するところもありません。」
マタイの福音書8章20節
_キリストは、カペナウムを中心に宣教活動を行い、病気の人々を癒す奇跡
を行うが、その合間にマタイは、主に従う「弟子としての道」をここに記す。
_
「イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡る
ように命じられた。」(18)キリストは、敢えて群衆から分かれて、弟子達を
向こう岸に渡らせる。それは、ガダラ人への宣教と弟子の訓練の為であった。
_大勢の人がキリストの元に集まる事は、弟子達にとって心地良い事である。
しかし、主は、群がる人々の求めに応じながらも、ご自分が人気を博する事
を拒否され、舟で湖を渡られる。それは、主に従う弟子訓練の為でもあった。
_
「烏合の衆」と言う言葉があるが、病気の癒しと奇跡だけを求めて集まる
群衆は、奇跡が無くなれば潮が引く様に去って行く。主は、群がる人々の脆
さや危うさを良く知っている。主は苦難の中でも共に歩む弟子を求められた。
_
そこに一人の律法学者が来て「先生。あなたがどこに行かれても、私はつ
いて行きます。」と言った。彼は、律法学者として知性と道徳性に優れ、人
々から師と敬われていた。彼の言葉は、主に従う弟子として模範的と思える。
_
しかし、主は、彼に対して明らかに厳しい拒絶の意味合いを含んだ言葉を
返す。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところ
もありません。」それは、キリストに従う者の困難さを暗示した言葉である。
_
彼は、キリストを先生と呼び、イエスに師事したい考えた。だが、やがて
主に敵対するのは、ユダヤの律法学者達であった。主に従うと言うなら、学
位や地位さえ捨てなければならないが、彼はそこまで覚悟していないだろう。
_
主は、ご自分を「人の子」と名乗るが、それは、栄光の姿を帯びて来られ
るメシヤを預言した言葉である。(ダニエル 7:13)神の権威と力を持つ方が枕
するところもなく、人から蔑まれ、除け者にされる。その方と共に歩めるか。
_
次に、別の一人の弟子がイエスに「主よ。まず行って父を葬ることをお許
しください。」と言った。彼は、既にキリストの弟子であったが、主が向こ
う岸に渡ろうとした矢先、父親を亡くし、葬儀をしなければならなくなった。
_
彼は、「父を葬るのだから、許されるだろう。」と思ったに違いない。だが、
主は「わたしに従ってきなさい。死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい。」
と言う。無情な言葉に思えるが、もし彼が葬儀に行けば、主の道を歩めない。
_
「葬儀」は、死人の為の儀式であるが、宣教は、生きた者への働きである。
死んだ者に、幾らお金と時間を使っても生き返る訳ではない。福音は、死に
行く者がいのちを得るためにあり、主の弟子は、その為に生きるべきである。
_
彼が主に従ったかどうか記されていない。主の問いは、全ての弟子に適用
される。主の弟子は、枕する所がなくとも、立派な家に住む人より平安があ
り、親族の葬儀に出れなくとも、死に行く者に命の希望を語る事ができる。
_
ヤコブは、故郷を離れ旅立った時、石を枕にして横になる。その夜、彼は、
天に届く梯子の夢を見、「あなたがどこに行っても、あなたを守り…決して
捨てない。」と語る神の声を聞く。「神の家」こそ枕する安らぎの場所である。
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No.702 10月31日:「病を負われる方」 マタイの福音書8章14節〜17節 |
(みことば)「イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起き
てイエスをもてなした。」
マタイの福音書8章15節
_キリストは、山から下りて来られ、カペナウムに入られた後で、ペテロの
家に行き、彼の姑の熱病を癒す。キリストの奇跡は、これで3度目である。
_
これまでキリストの奇跡を経験した人は、ツァラアトの人、異邦人、女性
であり、彼らは、当時のユダヤ社会で神殿の内庭に入れない、神の恵みから
遠いと思われた人々であったが、主の恵みは、まず、その様な人に注がれる。
_キリストは、「ペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのを
御覧になった。」(14)マルコは、「会堂を出るとすぐに…シモンの家に入った。」
と記す。主は、弟子の家族の病の事情を知り、彼の家を訪問したと思われる。
_
ペテロは、姑の看病の為礼拝に行けなかったかも知れない。主は、弟子だ
けでなく、その家族も案じて下さる。「イエスは彼女の手に触れられた。」「触
れる」は「火を灯す」とも訳せるが病の為に消えかけた希望の光が再び灯る。
_
「すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」(15)「起きる」
は、不定過去で一回の動作を表わし、「もてなす」は、「仕える」の意味で、
未完了形の継続的動作を表わす。即ち、彼女は、それ以降、主に仕え続けた。
_
キリストの働きは、これで終わらず「夕方になると、人々は悪霊につかれ
た人を、大勢みもとに連れてきた。」(16)悪霊は、悪魔と共に天から堕落し
た一群の天使の集団である。この世は今も神に逆らう汚れた霊の働きがある。
_
精神病者を「悪霊につかれている」と考えるべきではない。人間に正常と
異常の区別を設ける事はできない。神に創造された人間が、神を信じないな
ら、正常とは言えない。この世は、悪魔と悪霊の支配する異常な世界である。
_
「イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し…」百人隊長の信仰のよう
に、キリストの言葉には、神としての権威と力ある。悪魔の支配にある人も
神の言葉を聞き、それを信じるなら、悪霊の支配から解放され一新される。
_
「病気の人々をみな癒された。」悪霊の追い出しが霊的回復なら、病気の
癒しは、肉体の回復と言える。主は、悪霊に囚われた魂を解放し、生きる力
を与える。現代、コロナに感染して亡くなる人より自殺者の方が遥かに多い。
_
最後に、キリストの御業は、預言者イザヤの言葉の成就である。「彼は私
たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」これは、イザヤ書53章の
一節であるが、聖書に精通したユダヤ人にも、それは、難解な御言葉である。
_
「彼」とは、キリストを指しており、「キリストが私たちのわずらいを担
い…病を負った。」と読まなければ、聖書を理解できない。ユダヤ教は、今
でもメシヤを待ち続けており、旧約聖書のみで、救いは未完成のままである。
_
キリストが、「私たちのわずらいを担い…病を負った。」と信じるなら、そ
の人は、救われる。「担う」は「取り除く」、「負う」は「抱える」の意味が
ある。わずらいと病は、人間の罪に起源があり、主は、その全てを負われた。
_
主は、私達の罪の為に十字架にかかり、その罪科を負われた。「彼への懲
らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」
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No.701 10月24日:「主のおことばへの信仰」 マタイの福音書8章5節〜13節 |
(みことば)
「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」
マタイの福音書8章8節
_山から下りて来られたキリストの第2回目の奇跡は、百人隊長のしもべの
癒しであるが、キリストは、それをカペナウムに入られて直ぐに行われた。
_
カペナウムは、イエスのガリラヤ宣教の拠点で、ペテロの出身地であり、
マタイも取税人として働いていた。ここにはローマ軍の駐屯地があり、百人
隊長は、百人の兵士の指揮官であったが、主の「みもとに来て懇願」する。
_イスラエルは、皇帝ティベリウスの支配下にあり、ピラトがユダヤの総督
であった。主の最初の奇跡は、ユダヤ社会から疎外されたツァラアトの人に
為され、2度目の奇跡は、神の民ではないローマ人、即ち異邦人になされる。
_
主は、「イスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰をみたことがない」
とお褒めになるが、それは、後のキリスト教宣教の歴史を暗示している。や
がて福音は、全世界の民に伝えられ、ローマ帝国もキリスト教を国教とする。
_
百人隊長は、ローマ人の中で最初に信仰を持った人であり、キリストは、
イスラエルの誰にも見る事のできない程の見事な彼の信仰に驚かれる。彼は、
キリストを「主」と呼ぶが、ローマ兵にとって主とは皇帝以外にあり得ない。
_
彼は、被征服民族のユダヤ人であるキリストを「主」と呼んだ。「主」(キュ
リオス)は、旧約の「主」(ヤハウェー)と同義語であり、彼は、キリストを皇帝以
上の存在として崇める。主も彼の願いを聞き「行って彼を治そう」と言った。
_
ローマ人は、ユダヤ人に課税を課し、労働を強要した。ユダヤ人は、異邦
人であるローマ人の家に入る事さえ忌嫌った。しかし、主は、ユダヤ人と異
邦人の区別なく、神を信じる全ての人の願いを聞き入れ、それに答えられる。
_
ところが、彼は「あなた様を…お入れする資格は…ありません」と断る。
彼は、社会的な地位があり、謙遜で部下を思いやる徳の人である。それでも、
主を迎える資格がないとは、聖なる方の前に立つ者の宗教的な感覚である。
_
「ただ、おことばを下さい。そうすれば…癒されます。」彼の信仰の素晴
らしさは、キリストのお言葉への絶対的な信頼にある。彼は、経験上、権威
を持った者の言葉の力を知っていた。「一人に『行け』と言えば行きます」
_
彼は、それ以上に「神の権威を持つキリストの言葉はどんな事も成す力が
ある。」と信じた。神の言葉には力があり、神が「光よ、あれ。」と仰せられ
ると光が生じる。主は、イスラエル人と比べて異邦人の彼の信仰を褒める。
_
「多くの人が東から…天の御国でアブラハム…一緒に食卓に着きます。」
神を求める全ての民が神の救いに連なる事を宣教の歴史が証ししている。神
から遠く離れた異邦人が、キリストを通して神の民となり、神の祝福に預る。
_
一方、祝福を受けるはずの神の民が救いから除外される。「御国の子らは
外の暗闇に放り出され…」それは、彼らが主の言葉を信じないからである。
神は、イスラエルに代え、主を信じる異邦人(教会)に宣教の働きを委ねる。
_
「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」人の願った事がそ
の通りに実現するかどうかは、ただ、神の言葉を信じる信仰にかかっている。
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No.700 10月17日:「きよめる主のみこころ」 マタイの福音書8章1節〜4節 |
(みことば)「イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくな
れ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」
マタイの福音書8章3節
_キリストは、山上の説教を語り終わり山を下りると、「大勢の群衆がイエ
スに従った。」この個所からキリストが行われた10の奇跡が書き記される。
_
その第1の奇跡は、「ツァラアトに冒された人のきよめ」であるが、その
前にキリストの奇跡について考察する。奇跡とは、通常の自然法則では起こ
り得ない超自然的出来事を言う。世界は、自然の法則に従って運動している。
_地球の自転や公転など自然法則は、神が定め保っておられる。従って、自
然の法則が絶対ではなく、それを定めた神が絶対であり、神は、ご自身の意
図を成し遂げる為に、時に自然の法則を変え、自由に奇跡を行う事が出来る。
_
キリストは、数々の奇跡を行うが、それによりご自分が神の子であり、救
い主である事を証明される。しかし、キリストは、手品師の様に奇跡を見せ
る為ではなく、キリストを信じ、救いを求める者に答える形でそれを行う。
_
「イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒され
た。」(16)主の御業は、「彼は、私たちのわずらい担い、私たちの病を負った。」
と語ったイザヤの言葉の成就であり、それは、約束された救い主の姿である。
_
最初の奇跡は、ツァラアトがきよめられる御業である。ツァラアトは、重
い皮膚病で感染症であり、社会的な隔離を余儀なくされた。キリストに救い
を求めて来た最初の人は、社会から疎外され、孤独の中を生きる人であった。
_
主は、貧しい者に目を留め、神の御業をなさる。「この世の愚かな者…弱
い者…無に等しい者を神は選ばれた」(Tコリ 1:28)彼は、イエスに向ってひ
れ伏し、「主よ」と叫び、誰よりも早く、謙って主の前に膝まづき礼拝する。
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彼は、「お心一つで…」と語るが、それは、「主の為そうとするご意志次第
で全て実現する。」と言う全き信頼を表わしている。また、自分の願いや意
志の前に、主の御心を求め、主の為さる事を全て受け入れる謙虚さがある。
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彼は、キリストが「私をきよくすることがおできになる」と信じる。「き
よめる」とは、病気の性質上、汚れからの回復を意味する。祭司は、社会復
帰の為にきよめの判定を下すが、人をきよめるのは、神だけがおできになる。
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主は「手を伸ばして彼に」さわる。律法には、「いかなるものであれ、触れ
れば汚れる」とあるが、主は、彼にさわる事を厭わない。「さわる」は男女の
交わりを意味する事もある。「主と交わる者は主と一つの霊になる」(Tコリ 6:17)
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「わたしの心だ。きよくなれ」主の御心は、神を信じる者がきよくなる事
である。私達は、欲望と快楽の渦巻く罪の世から贖われ、きよい者に変えら
れた。「あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ 1:18)
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主は、この奇跡を「だれにも話さないように」命じる。主の御業は、病気
の癒しが目的ではなく、それを通して全ての人がキリストを信じる事である。
主は、彼に「自分を祭司に見せ…証しのため…ささげ物を」する事を命じる。
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祭司は、きよめの儀式でヒソプを用いきよめを宣言した。(レビ 14:4)「ヒソ
プをもって私の罪を除いてください。そうすれば…きよくなります。」(詩 51:7)
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No.699 10月10日:「揺るがぬ人生の土台」 マタイの福音書7章24〜29節
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(みことば)「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者は
みな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」
マタイの福音書7章24節
_キリストは、山上の説教の最後に「岩の上に…家を建てた賢い人」と「砂
の上に…家を建てた愚かな人」の譬えを語るが、「群衆はその教えに驚いた。」
_
「これらのことばを語り終えられると」(28)とは、単に話の終わりではな
く「完了・完成」の意味があり、キリストは、人が生きる上で必要な全てを
ここに語り尽くされた。私達が生き方に迷う時、主の言葉に聞くべきである。
_群衆がその教えに驚く理由は、「イエスが…律法学者たちのようではなく、
威ある者として教えられた」(29)からである。主の教えには、権威があり、
それが世の教えとの違いである。権威とは絶対的な規準と力を持つ事である。
_
世の倫理的教えは、絶対的な規準を何も持たず、相対的で、曖昧であるが、
キリストの言葉は、明確な権威を持った宣言的命令である。キリストは、善
悪の区別を明確に語り、人が行くべきいのちと滅びの道をはっきり示された。
_
また「権威がある」とは、語られた言葉が空しく終わらない事を意味する。
即ち、キリストの言葉には、力があり、語られた通りに実現する。神の言葉
は、世界を創造し、歴史を動かし、人を造り変える計り知れない力がある。
_
キリストの最後の譬え「岩の上に自分の家を建てた賢い人」とは、主の言
葉を「聞いて、それを行う者」(24)を譬えており、「砂の上に自分の家を建て
た愚かな人」は、主の言葉を「聞いて、それを行わない者」(26)を譬えている。
_
人は、どんな家を建てるかに興味と関心を持つが、どこに家を建てるかが
重要である。家を建てた時には、その違いは分からない。その真価が試され
るのは「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲った」時である。
_
岩の上に土台を据えた家は、災害の時も倒れないが、砂の上に建てた家は、
簡単に倒れてしまう。どんなに立派で綺麗な家も、災害時に倒れてしまえば、
全ての労苦が無駄に終わる。賢い人とは、人生を思慮深く見通す人である。
_
家の土台は、建ててしまえば見えない部分である。人は、デザインや見栄
えを重視するが、大切なのは目に見えない土台である。世の人が幾ら幸福そ
うに見えても、人生の基盤を何も持たないなら、それは見せ掛けに過ぎない。
_
賢い人は、キリストを人生の土台に据える。その真価は、試練の時に明ら
かになる。試練は、神を信じる者にも信じない者にも襲うが、神を信じる者
は、そこに神の御意志と守りを信じる。無神論者は、それを偶然と考える。
_
この自然界に偶然はない。神が雨を降らせ、風を起こす。神を知らない者
は、災いの時「何故、こんな事が起こるのか。」と嘆くが、そこに何の解決
もない。全てが偶然の結果なら、将来何が起こるか、誰も何も予想できない。
_
近年、これまで予想できなかった大災害が頻発している。終末に向かって
自然の災害は、益々大規模なものとなることだろう。それは、自然災害だけ
に留まらず、やがて、この世界そのものが土台から崩れ去る時がやって来る。
_
愚かな人の家は「その倒れ方は酷いものでした。」英語の great crash は、「壊
滅的な破滅」であるが、神を信じない者に下る目を覆う惨状がそこに広がる。
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No.698 10月3日:「主に会う備えをせよ」 マタイの福音書7章21〜23節 |
(みことば)
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでは
なく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
マタイの福音書7章15節
_前回の箇所で、偽預言者に用心する事が語られたが、今回は、更に範囲が
広く、「偽キリスト者」或いは「見せかけの信者」について語られている。
_
「偽預言者」とは、神の言葉を語る者の中に偽物がいる事になるが、「偽
キリスト者」とは、神の言葉を聞く者の中に偽の信者がいる事になる。それ
は、聞き捨てならない言葉であり、誰が本物で、誰が偽物か疑心暗鬼になる。
_私達は、「信仰によって救われた」のであり、「行いによる」(エペソ 2:8)の
ではない。しかし、「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではな
く…みこころを行う者が入る」の御言葉は、それと矛盾するように思える。
_
救いの前提は、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(使徒 2:21)の
様に、信仰のみで善行を必要としない。「良い木は良い実を結び、悪い木は
悪い実を結ぶ」(17)それは新生した者とそうでない者の本質的な違いによる。
_
新生した者は、必然的に父のみこころを行うはずである。そうでなければ、
まだ新生していないのである。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見
ることはできません。」たとえ主の名を呼んでも、新生していない者もいる。
_
彼らは、熱心に主の名を呼ぶが、父のみこころを行わない。真実な信仰は、
必然的に神への従順を伴う。神を知っていると言いながら、神に不従順なら、
偽り者である。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。」(Tヨハネ 5:3)
_
同様に、新生した者は、罪の中に留まることはできない。本物の信者と見
せかけの信者の違いがそこにある。「豚は身を洗って、また泥の中に転がる。」
の譬えの通り、豚も一時は身を洗って綺麗になるが、結局元の木阿弥である。
_
聖徒らしく振舞い、聖徒が受ける多くの恵みを共有しながら、救われてい
ない事がある。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊に預る者
となって…堕落してしまうなら…立ち返らせる」(ヘブル 6:4)事は出来ない。
_
本物か偽物か、それは、終わりの日にはっきり分かる。「その日には多く
の者がわたしに言う」それは、終わりの裁きの時であり、大きな門から入り、
広い道を行った者の結末である。その人々は、神から有罪の宣告を受ける。
_
その日、主の名を連呼する偽りの信者は、「あなたの名によって預言し…
悪霊を追い出し…多くの奇跡を行った」と弁明するが、主は、「おまえたち
を全く知らない。不法を行う者たち…離れて行け。」と厳しい宣告を下す。
_
彼らは、自称信者であり、神の多くの働きをしたと自認するが、それらは、
全て自己義認、欺瞞、無意識の偽善による。ユダヤの宗教家は、その熱心の
故にキリストを十字架にかける。パウロも、情熱を傾けて教会を迫害した。
_
「あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時がきます。」
(ヨハネ 16:2)誤った宗教的な熱心は、取返しのつかない結果を招く。異端の宗
教の信者は、最後の審判の座に着かれる主が、キリストである事を知らない。
_
神の審判の時に問われるのは、「何をしたか」ではなく、「主をどの様に信
じ生きたか」である。「イスラエルよ。あなたの神に会う備えをせよ」(アモス 4:12)
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No.697 9月26日:「偽預言者の惑わし」 マタイの福音書7章15〜20節 |
(みことば)「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがた
のところに来るが、内側は貪欲な狼です。」
マタイの福音書7章15節
_キリスト者は、「狭い門」から入り、それに続く細い道を歩み始めた。そ
の道は、いのちに至るが、その途上において偽預言者による惑わしが起こる。
_
預言者は、神の言葉を預り、それを神の民に語り、神の群れを霊的に導く
働きをした。しかし、イスラエルには、しばしば、偽預言者が現れ、神の御
心と違う事を語り、神の民を惑わし、多くの者が道を外れて滅びに向かった。
_牧師は、教会において神の言葉を語るが、神の群れは、牧師を預言者と認
めるから、神の言葉として説教を聞く事ができる。もし、牧師が、偽預言者
ならどうなるだろう。神の群れは、いのちに至る事が無く、滅びに導かれる。
_
「彼らは羊の衣を着て…来るが内側は貪欲な狼です」外見は、柔和で謙遜
に見えるが、内実は狼のように貪欲である。多くの者が外見の装いに騙され、
その言葉に欺かれる。「狂暴な狼が…容赦なく群れを荒らし回る。」(使徒 20:28)
_
悪魔は、全精力を注いで、神の働きを阻止しようと試みる。悪魔は、初め、
蛇の姿をもってエバに近づき、彼女は、無警戒に蛇の言葉に欺かれる。「驚
くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。」(Uコリント 11:13)
_
悪魔は、狡猾にも神の言葉を利用して邪悪な意図を成し遂げようとするが、
エバには、「神は本当に言われたのですか」と神の言葉に疑いを抱かせる。
その狡猾さは、神の言葉に偽りを混ぜ入れ、神への信頼を失わせる事にある。
_
多くの者は、彼らの偽善と巧みな言葉に欺かれるが、その偽りを見抜く方
法がある。「あなたがたは彼らの実によって見分けることになります」(16)
彼らの本性から必然的に現れる「悪い実」によって、その偽りを識別できる。
_
預言者は、「父のみこころを行う」(21)が、偽預言者は、例え神の言葉を
使っても「父のみこころ」を語らない。エレミヤの時代に、偽預言者は、指
導者の気に入る事を語り、真の預言者は、「神が語れ」と命じた事を語った。
_
もし、牧師が説教で「聖書が語っていない事を語っている」なら、会衆は、
注意すべきである。何故なら、権威は、牧師にあるのではなく、神の言葉に
あるからである。牧師も、間違いを犯す事があるが、神の言葉に誤りはない。
_
礼拝の中で最も重要な時間は、神の言葉を語る説教であるが、牧師が、礼
拝で、神の言葉を語らなくなったら注意すべきである。神の言葉こそ、人を
罪と滅びから解放し、救いに導き、永遠のいのちに至らせる権威と力を持つ。
_
世の人は、天の御国や霊的な事柄よりも、道徳や、処世術や、この世の幸
福等に関心を持つ。牧師も、世の人の願う事を語ろうとする誘惑がある。教
会において、福音と神の言葉が語られなくなれば、救われる人も起されない。
_
「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(17)御霊を持ち、
神に遣わされた者でなければ、神の言葉を語る事も解き明かす事もできない。
悪い働き人は、良い実を結ぶ事がなく、「切り倒されて、火に投げ込まれる。」
_
パウロは博学であったが「十字架につけられたキリストのほかには、何も
知るまいと決心」した。それは十字架にこそ救いがあると信じるからである。
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No.696 9月19日:「狭い門から入る選択」 マタイの福音書7章13〜14節 |
(みことば)「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、
そこから入って行く者が多いのです。」
マタイの福音書7章13節
_山上の説教の終盤になるが、その第1は「狭い門から入りなさい」の勧め
で始まる。これは、私達の人生において神を信じる生き方を迫る言葉である。
_
「狭き門」と言うと「受験戦争」の時代の人は、難関大学への入学を思い
出す事だろう。主は、神の国に生きる者が、目指すべき人生の方向と歩むべ
き道を譬えて、このように語っているが、それは、全ての人が傾聴に値する。
_狭い門と大きな門の2つがあり、狭い門は「いのちに至る」が、大きな門
は「滅びに至る。」更に、大きな門に続く道は、広く「そこから入って行く
者が多い」が、狭い門に続く道は、細く「それを見出す者はわずか」である。
_
多くの人は、大きな門から入り、広い道を行くが、その道が滅びに至る事
を誰も知らない。先が見えず、その終わりを誰も知らないから、大勢の人が
平然と呑気にその道を進んで行く。滅びとは、永遠の刑罰である地獄を指す。
_
一方、狭い門から入り細い道を行く人は、僅かであり、余り人の通らない
道は、荒れていて危険を伴う。しかしそこを行く人は、その道がいのちに至
る事を知っており、それが僅かな数でも、平安と確信をもって歩んで行ける。
_
人は、どの道を行くべきか選択を迫られる。それは、人生における最も大
切な選択であり、その後の人生を大きく左右する。結婚も、人生を左右する
大きな決断であるが、その選択によっては、幸福にもなり、不幸にもなる。
_
ただ、その選択を幾ら後悔しても、過去に戻り人生をやり直せない。人生
は、選択と決断の連続であるが、神を信じる者は「右に行くにも左に行くに
も、うしろから『これが道だ。これに歩め』という言葉を…聞く。」(イザヤ 30:21)
_
神を信じる道を選択し、狭い門から入った人は、それがたとえ険しく細い
道でも後悔する事はない。その旅の途上において、戸惑いや不安や疑いが無
い訳ではないが、それでも、その道には、神と共に生きる幸いと確信がある。
_
一方、大きな門から入り、広い道を行く人は、その道を選択して歩んだわ
けではない。「入って行く者が多い」とは、「ほとんどすべて」の意味であり、
「見出す者はわずかです」とは、狭い門の存在にさえ気づかないのである。
_
彼らは、それが滅びの道であっても、何の疑いもなく進んで行く。それは、
大勢の人が広い道を行くからである。多数だから正しいとは言えない。「人
の目には、まっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言 14:12)
_
第1に、門の狭さは、「救いの道がキリストのみである」という狭さにあ
る。それは、何でも受容する日本人の宗教観と異なる。神は唯一であり、救
いも唯一である。「わたしは門です…わたしを通って入るなら、救われます。」
_
第2に道の細さは、僅かな人しか行かない険しさにある。モーセの妻は、
エジプトに下る夫に「あなたは…血の花婿です」(出エジ 4:25)と呪う。エジ
プトに下る事は、迫害下にある「奴隷の子」になる事を意味したからである。
_
神と共に生きる者は、苦難の中でも神の偉大な御業を経験し、ヘブル人の
様に奴隷から解放され、紅海を渡り、約束の地に向って前進する事ができる。
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No.695 9月12日:「黄金律」 マタイの福音書7章12節 |
(みことば)「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも
同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
マタイの福音書7章12節
_キリストは、これ迄「天に宝を蓄える」生き方、「この世の事で心配をし
なくてよい」事、「人をさばかない」事、「神を求める」事などを語って来た。
_
本日の御言葉は、神の国に生きる者の根本的な行動の原理を教えているが、
「ですから」とは、これまで語って来た事を総括した結論的な教えの意味で
ある。それは、キリスト者の倫理的な戒めの最も大切な行動原理を指し示す。
_「これが律法と預言者です。」即ち、全ての律法は、この言葉に要約され、
この教えに尽きる。3世紀のローマ皇帝セウェルスは、この言葉に感銘を受
け、これを金の文字で壁に掲げたと言われ「黄金律」の呼び名の由来となる。
_
「黄金律」は、他に比類のない独自な教えと言えるが、この世には「自分
がされたくない事は人にもするな」等の似た教えがある。しかし、それは、
消極的な教えであり、極端だが人と関わらなければ、それを守った事になる。
_
主の教えは、世の一般的な教えの様に消極的な戒めではなく、人に無関心
で、関わらなければ済むものではなく、積極的な行動を促す。「人がなすべ
き善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ 4:17)
_
良きサマリヤ人の譬えで、強盗に襲われた同胞を助けずに通り過ぎた祭司
やレビ人は、世の道徳律なら罪に問われないが、主の言葉に照らすなら、隣
人への愛の欠如を問われる。主の言葉は、愛の律法の要約であり金言である。
_
キリストの視点は、「自分が願う善行を他の人に成す事」を求めており、
自分の利益の為でなく、隣人の利益の為に生きる事を命じる。私達は、往々
に自分の利益を優先し、他者に自分の願いを要求し、そこに争いが起こる。
_
全ての人が、自分の利益でなく、他者の利益を求め、その為に行動し、人
が喜ぶ事を成すなら、この世界に争いが無くなり、エデンの園か天国の様に
なるだろう。しかし、人は、罪の故に、それを実践できない所に問題がある。
_
しかし、主の教えは、決して理想論でも、実践不可能な事でもない。その
言葉は至ってシンプルで、何の難しさもなく、私達が生きる上で最も大切な
行動の原理を示している。それは、誰でも、今日から実践できる教えである。
_
人がそれを実践するなら「自分も相手も幸せになる」基本の教えである。
この言葉に動かされ、社会の中でそれを実践し、慈善事業を起し、実業家と
して成功した人も多くいる。その共通点は、他者の益の為に生きた事である。
_
主の言葉は、律法の要約であるが、同様に、倫理に関する律法の要約は、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」である。又パウロは、キリ
ストの教えを要約して「受けるより与えるほうが幸いである。」と言われた。
_
更に「だれも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」(Tコリント
10:24)と語った。それらは、全てキリスト教倫理の特徴であり、主の言葉「黄
金律」から出た教えである。貧しくても、豊かに捧げる賜物を持つ人がいる。
_
主は、それを十字架の上で実践された。私達は、自らを与え尽す主の愛に
よって神の救いに預った。物惜しみする事なく、主と隣人の為に生きよう。
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No.694 9月5日:「良き物を主に願い求めよ」 マタイの福音書7章7節〜11節 |
(みことば)「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれ
ば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
マタイの福音書7章7節
_キリストは、これ迄「天に宝を蓄える」御国との関係を、「衣食の心配を
しない」この世との関係を、「さばかない」と言う人との関係を語って来た。
_
今日の箇所は、「求めなさい」と言う「神との関係」が語られる。ここに
は、「祈る」と言う言葉も、神の名も出て来ないが、「求めなさい」「探しな
さい」「たたきなさい」と言う表現で、神に向かう姿勢が教えられている。
_世の人は「求めよ。さらば与えられん。」を安直に用いるが、誰に何を求
めるかが重要である。世の人は、神を知らないが、私達の天の父は、目に見
えなくても、生ける全能の神であり、私達の求めに答えて下さる方である。
_
私達は、地上の生涯に起こる様々な出来事において神の助けを必要とする。
その時、祈り求める神を知っている人は、何と幸いで希望と慰めに満ちてい
る事だろう。偶像の神は、人の叫びを聞く事も、それに答える事もできない。
_
「求める」「探す」「たたく」は、より深く、熱心に求める3つの段階的動
作を表す。「求める」は、心に抱く行為で、「探す」は、何かを見出そうとす
る行為で、「たたく」は、扉の向こう側の人に、何かを求める行為である。
_
これらは、現在命令形で「求め…探し…たたき続けなさい」の意味であり、
動作の継続が求められている。私達は、「異邦人のように、同じ言葉をただ
繰り返す」必要はないが、失望せずに、諦めないで、求め続ける必要がある。
_
何を求めるべきか、何も書かれていないが、御国の民は、世の人と求める
ものが違う。主は「まず神の国と神の義を求めよ」と言われた。ソロモンは、
神に「民をさばく知恵と判断」を求めたので、それ以上の恵みと祝福を得た。
_
私達は、神の国の為に大いなる志を持つべきであり、全てはそこから始ま
る。神は、神の子に恵みと豊かな賜物を与えたいと願っている。神の祝福を
受ける為には、まず「求め」「探し」「たたく」と言う行動を起こす事である。
_
多くの人は、主を信じていても行動せず、「どうせ駄目だ」と否定的な思
いに支配される。イスラエルは、カナンを偵察した時、ヨシュアとカレブだ
けが「上って行って占領しよう」と言うが、残りの民は、それを否定した。
_
キリスト者の人生の祝福は、神を求める姿勢に掛かっている。それが、イ
スラエルの旅路の様に信仰の分岐点となり分水嶺となる。祝福された結婚の
為に、家族の救いの為に、又、神の国の栄光の為に熱心に神に祈り求めよう。
_
本当に大切なものは、隠れて見えない。簡単に見出し、手に入る物は、泡
の様に儚く消えて行く。神の存在も「ここにある。あそこにある。」と簡単
に言えるものではない。それは、人生をかけて探し、見出すべきものである。
_
最後に、主は、この言葉を親子の譬えで説明する。「自分の子がパンを求
めているのに石を与える」親はいない。「魚を求めているのに、蛇を与える」
親はいない。たとえ、罪ある悪い者でも、親は子どもが求める物を与える。
_
天の父は、愛と知恵と力において完全である。神は、求める者に最も良い
物を与えて下さる。御霊による知恵と救いの賜物が与えられるように祈ろう。
|
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No.693 8月29日:「聖なるものを聖く保つ」 マタイの福音書7章6節 |
(みことば)「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に
投げてはいけません。犬や豚は、それらを足で踏みつけ、向き直
って、あなたがたをかみ裂くことになります。」
マタイの福音書7章6節
_キリストは、これまで「さばいてはいけません」と言う主題で、人をさば
く罪を戒めて来たが、今日の御言葉は、その主題と正反対の勧めと言える。
_
「豚に真珠」の諺は、聖書が出典であるが、「価値の分からない者に価値
ある物を与えても無駄なこと」の意味である。犬や豚は、聖なるものや真珠
の価値を理解しない。イスラエルは、犬や豚を汚れた動物として忌み嫌った。
_「聖なるもの」とは、福音等神に属する聖い価値あるものを表し、「犬や
豚は、それらを足で踏みつけかみ裂く」人を指す。主は、弟子達に「狼の中
に羊を送り出すように…蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と命じた。
_
主は、犬や豚のように福音を拒絶する者に、価値ある聖なるものを与える
無意味さを語る。それは、これまでの主の教えに逆行する様に思えるが、「さ
ばく」と言う言葉には、肯定的に「正しく評価し、判断する」の意味がある。
_
第1に、私達は、人間の邪悪さを正しく知る必要がある。主は、神に背く
人を犬と豚に譬えているが、ペテロも「犬は自分の吐いたものに戻る。」「豚
は身を洗って、また泥の中に転がる。」を罪を繰り返す人の譬えとして語る。
_
人は、神に似せて造られた価値ある者であるが、同時に、神から離れ、と
ことん堕落した存在でもある。その為、神に関わる「聖なるもの」を認めず、
それを平然と踏み躙り牙を向く。人間の堕落の深刻さを意識するべきである。
_
第2に伝道の際、福音を語る困難さを思い知らされる。私達は、救いの喜
びを他の人に伝え様としても大抵冷やかな扱いを受ける。その時、神と人の
間にある隔ての壁の大きさを実感し、悲しみの中で福音を伝える経験をする。
_
第3に救いは、神の御業による事を知る。私達は、罪の世にあって神の救
いに預ったが、それはただ神の憐れみによる。「事は人の願いや努力による
のではなく、憐れんでくださる神による」まず救いの為に神に祈り求めよう。
_
従って、私達は、福音を語る際に毅然としているべきである。多くの人に
福音を理解して欲しいと願うが、その為に人に媚びたり、卑屈になる必要は
ない。「人々があなたがたを受け入れないなら…足のちりを払い落しなさい。」
_
私達は、寛容と愛をもって人々に福音を語るべきだが、神から与えられた
聖なるものと信仰の信念は、世と妥協する事も譲る事もできない。「本能に
支配され…理性のない滅ぶべき動物」に、聖なるものを汚されてはならない。
_
教会は、全ての人に福音を伝え、寛容であるべきだが、同時に聖なるもの
を聖く保つ必要がある。神の家族である教会に加わるためには、キリストの
新生を経験し、信仰の告白に基づくバプテスマを受ける事が必要条件である。
_
教会は、会員を増やす為に条件を引き下げ、明確な告白のない者にバプテ
スマを授けるべきではない。その様にしても、会員は増えるが、天に国籍を
持たない者が増えるだけである。「聖なるものを犬に与え」るべきではない。
_
主の晩餐も同様にキリストに贖われ、バプテスマを受け、教会の告白に同
意する者だけが聖なるパンと杯に預る。教会はその一線を崩してはならない。
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No.692 8月22日:「目の梁に気づかぬ盲目さ」 マタイの福音書7章1〜5節
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(みことば)「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が
量るその秤で量り与えられるのです。」
マタイの福音書7章2節
_キリストは、これまで、世の事や明日の事で「心配しなくてよい」と信仰
の内面を語って来たが、ここから「さばく」と言う「他者への態度」を語る。
_
人が人をさばくのは、公的に裁判所で裁判官が行うが、一般的には、多く
の人が日常生活の中で、それを行っており、言葉で相手をさばく事もあれば、
心でさばきの感情を抱く事もある。主は「さばいてはいけません。」と語る。
_人が人をさばくのは、「自分は正しく相手は間違っている」確信に基くが、
その典型はパリサイ人や律法学者である。その自己義認は、自分の評価であ
って神の評価ではない。彼らには、偽善や高慢や頑なさと言う別の罪がある。
_
同じ罪の根は、私達の内にもある。主は、「神の国と神の義を求めよ」と
命じたが、直ぐ後で「さばいてはいけません」と命じる。信仰の誇りと確信
を持つべきであるが、その信念の故に、そうでない者を蔑んではならない。
_
「さばく」には、「分ける」の意味であるが、否定的には「見下げる、批
判する、中傷する」等の意味がある。他者をさばく人は、優越的な立場から
相手を見下す傾向があり、さばく人には、ある種の傲慢さが必然的にある。
_
何故、さばいてはいけないのか。それは「自分がさばかれないため」「自
分が量るその秤で量り与えられる」からである。ここには、「誰からさばか
れるのか」書かれていないが、当然、それは、神からさばかれない為である。
_
マタイは、意図的に神と言う言葉を用いなかったと思える。それは、読者
に目に見ない神を意識させる為である。目に見えない方が天におられ、確か
に私達の言動を見ておられる。神こそ、審判の最終的権威を持つお方である。
_
義なる神は、人が人をさばくその同じ秤で量り与える。「憐れみを示した
ことのない者に対して…憐れみのないさばきが下される」(ヤコブ 2:13)厳粛
な言葉であるが、安易に人をさばいた為に自らの罪を刈り取る事がない様に。
_
律法は、さばきの時に複数の証人を要求するが、それは、証言の客観性と
真実性を保つ為である。「自分が量るその秤」は、他者に対し狭く小さく厳
くないか。「人に厳しく、自分に甘い」その異なる秤が、諍いの元凶となる。
_
主は、異なる2つの秤を「ちりと梁」に例え、「兄弟の目にあるちりは見
えるのに、自分の目にある梁には…気がつかない」と語る。人の些細な欠点
を見て非難するが、自分の欠点は見ようとしない。多くの人の罪の姿である。
_
梁は、家を支える材木であるが、「ちりと梁」は、少々極端な対比にも思
える。しかし、梁は、罪の比喩であり、私達の罪の大きさを譬えている。キ
リストは、十字架の太い梁の上に、私達の罪の身代わりとして磔になられた。
_
私達は、十字架に磔になられたキリストを覚える事なく、兄弟の目のちり
に目を留めるべきではない。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取り除きな
さい。」神の愛と赦しを覚える事なく、兄弟の目のちりを除く事はできない。
_
キリストの死と苦しみの深さ、計り知れない神の愛を知る時に、隣人を癒
し、生かす言葉を語る事ができる。神の愛に育まれた豊かな交わりを築こう。
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No.691 8月15日:「神の国と神の義を求めよ」 マタイの福音書6章31〜34節 |
(みことば)「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの
はすべて、それに加えて与えられます。」
マタイの福音書6章33節
_キリストは、私達が衣食等の生活の事で心配しなくて良い実例として、「空
の鳥を見なさい。」「野の花がどうして育つか…考えなさい。」と語って来た。
_
改めて、キリストは、「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を
着ようかと言って、心配しなくてよい」(31)と語る。その第1の理由は、神
が自然界の創造者であり、そこに神の絶えざる御業と摂理があるからである。
_自然界は、誰の指図も何の意図もなく法則だけで運行しているのではない。
世の人は、自然の現象と因果関係で全てを説明しようとするが、世界は目に
見えない神に原因と根源を持つ。一羽の鳥一輪の花にさえ、神の摂理がある。
_
「心配しなくてよい」第2の理由は、「これらのものはすべて、異邦人が
切に求めているもの」だからである。世の人は、食べる事や着る事等この世
の事に最終的な目標を置くが、衣食住は、生きる手段であって目的ではない。
_
私達は、「この世が全て」と考える異邦人の世界観ではなく、目に見えな
い神の約束を目指し「天に宝を蓄える」生き方をすべきである。何故なら、
この地上に多くの宝を蓄えても、野の花の様に儚く消えて行くからである。
_
「心配しなくよい」第3の理由は、天の父が、私達の全ての必要を知って
おられるからである。父なる神は、御国を目指して歩む人々が、天に辿り着
く時まで、生きる為に必要な食べる物や着る物を与えて下さらないだろうか。
_
イスラエルは、神の契約の民として約束の地を目指して40年の荒野の旅
を続けた。神は、彼らのいのちの為に毎日マナで養い、岩から湧き出す水で
潤し、必要な時には肉も与えた。「小さな群れよ。恐れることはありません。」
_
主は、積極的な勧めとして「まず神の国と神の義を求めなさい。」と語る。
私達は、この地上に生きていても、「神の国」に国籍を持つ者であり、この
世に望みを置くのではなく、天の御国に永遠のいのちを見出した者である。
_
「まず」とは、「第1に、最初に」の意味であり、「神の国」は優先順位の
筆頭に置かれ、主の日の礼拝を他の働きより最優先にすべきである。自分の
からだやお金や友人や家族を第1にすれば、主の日の礼拝は、後回しになる。
_
「神の義」とは、「神の定め」で「神の御旨」「神の御心」とも言える。主
は、偽善者の様に「人前で善行をしないように」注意したが、「善行」は、「義」
と同じ言葉で、彼らは、神の義ではなく、自らの義と自己の満足を求めた。
_
人は、神の義と自己の欲(自己の義)との狭間で葛藤する。什一献金、バプテス
マ、主日礼拝等を神の定めと知りながら、自己の欲がそれに従う事を妨げる。
「まず神の義を求める」なら、その他の必要は、「それに加えて与えられる。」
_
最後に、今の生活への心配から将来への不安に関心が移る。「明日のこと
まで心配しなくてよい」人は、将来、何が起こるか誰も分からない。しかし、
歴史は、神の計画と預言の通りに進み、主の再臨により新しい時代が始まる。
_
「明日のことは明日が心配する」歴史も未来も全て神の計画と御手の中に
ある。天に望みを持つ者は、将来に不安を覚える必要はない。「労苦はその
日その日に十分ある」主の日を待ち望み、目を覚まして今を誠実に生きよう。
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No.690 8月8日:「空の鳥、野の花を見よ。」 マタイの福音書6章25〜30節
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(みことば)
「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何
を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」
マタイの福音書6章19
_キリストは、御国の民が「何を目指して生きるべきか」を語って来たが、
天を目指して生きる私達の一つの誘惑は、「地上に宝を蓄える」事であった。
_
「ですから…」(25)とは、「天を目指して生きる」前の文脈のテーマの続き
であり、私達に生じるの別の誘惑は、「食べ物や着る物」等への生活の不安
や心配に関してである。それは、概して生活に余裕のない人への誘惑となる。
_「心配する」は、7回繰り返されるが、「思い煩う」とも訳せる。それは、
この世に生きる者の実際的な課題であり、食べ物や着る物は、生きる上で必
要不可欠であるが、主は、それらの事で「心配するのはやめなさい」と語る。
_
それは、「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のもの」だか
らである。主の言葉は、当然の事であるが、世の人は、いのちよりも食べ物
に、からだよりも着る物に関心を払い、その方が大切であるかの様に生きる。
_
「いのち」は、魂とも訳せるが、人間の全存在を指し、人としてのかけが
えのない価値を意味する。いのちの価値は、「人が神に似せて造られた」事
にあり、それは、持ち物の豊かさによらず、貧しさの故に軽くなる事もない。
_
私達は、キリストのいのちの代償によって贖われ、神の子として愛されて
おり、神は私達のいのちを価値あるものと見ておられる。神が私達のいのち
を心配して下さるなら、自分のいのち以上に衣食の事で心配する必要はない。
_
キリストは、いのちの事で心配する必要のないことを「空の鳥」と「野の
花」と言う自然界の具体的実例を用いて教える。空の鳥は、人間のように計
画的に種を蒔き、刈り入れ、収穫する事はしないが、元気に空を飛んでいる。
_
それは、天の父が養って下さるからである。自然界には、神の絶え間ない
配剤と摂理の御手が働いている。「そんな雀の一羽でさえ…父の許しなしに
地に落ちる」(10:29)事はない。人は「その鳥よりもずっと価値」がある。
_
幾ら自分のいのちを心配しても、「少しでも自分のいのちを延ばすことが
できる」訳ではない。「心配する」は、「心が分かれる」の意味であるが、私
達が、天の父に心を向けるなら、不要な心配から解放され平安を与えられる。
_
次に、主は、弟子たちの足元に咲く「野の花」に目を向け、「なぜ着る物
のことで心配するのですか。野の花がどうして育つか考えなさい。」と語る。
「野の花」は、人の手で栽培された花ではなく、何処にでも咲く野草である。
_
人の手によらず、自然界に咲く花の種類の豊かさや美しさに魅了されるこ
とがある。野に咲く花の一つ一つにも神の配剤と栄光を見ることができる。
「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装って」いなかった。
_
イスラエルは、昔のソロモンの繁栄を見たいと願ったが、神の栄光と力は、
彼らの足元で輝いている。人は、なかなかそれに気づかない。花の命は、儚
いが「明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこのように装って」下さる。
_
主は、信仰がありながら、いざと言う時に信仰に生きない人々に、「信仰
の薄い人たちよ。」と言われた。実生活の中で私達の信仰の真価が試される。
|
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No.689 8月1日:「天を見据えた人生観」 マタイの福音書6章19〜24節 |
(みことば)「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫
やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」
マタイの福音書6章19節
_キリストは、私達がこの地上を「何を目指して生きるか」人生の指針を語
る。しかし世の哲学や宗教は、この人生の究極のテーマに誰も答えられない。
_
キリストは、「自分のために、地上に宝を蓄える」生き方と、「自分のため
に、天に宝を蓄える」2つの異なる生き方を対比する。前者は、「この世が
全て」と考える人の人生観であり、後者は「天に望みを置く」人生観である。
_世の人は、限りあるこの地上の人生に最終目標を置くが、死で終わる一生
に人生の究極の目標も答えもない。私達は、地上の命やこの世界に限りがあ
る事を覚え、地上の命の後の世界を見据え、天に望みを置く生き方をしよう。
_
人は、「地上に宝を蓄え」ても、「そこでは、虫とさびで傷物になり、盗人
が穴をあけて」盗む事もある。主は、地上の宝の儚さと地上に宝を蓄える愚
かさを語る。しかし、「天に宝を蓄え」る人は、それが失われる事はない。
_
地上の宝は、人が蓄える物であるが、天の宝は、この地上において神の為
に成した働きに対する報酬である。人の成す行為と動機が、天で問われる。
キリスト者は、「神の栄光の為に生きる」と言う明確な人生の目的がある。
_
「自分のために」とは、「あなた自身のために」と直訳できるが、地上に宝
を蓄える事は、その人自身の益にならず、天に蓄える事は、その人自身の益
と幸福となる。宝とは、財産だけでなく、人が一番大切にしている物である。
_
「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」人は一番大切にし
ている物に心を向ける。私達が主の日に礼拝に集うのは、何より神を大切に
してる証であり、私達は、地上の物ではなく、天を仰ぎ見る為に教会に集う。
_
「あなたの目が健やかなら全身が明るくなり…目が悪ければ全身が暗く」
なる。「目は、口ほどに物を言う。」真っ直ぐに神を仰ぎ見る目は、キラキラ
と輝いているが、この世の物に目が曇ると、神の輝きさえ霞んで見えて来る。
_
「あなたのうちにある光が闇なら…」光を感じる器官は目であるが、目が
霞んでいれば歩く事も覚束ない。又「あなたのうちにある光」は、キリスト
自身でもある。あなたの内にキリストが輝いているなら、闇になる事はない。
_
「目が悪ければ」は、「物惜しみする・欲が深い」の意味がある。ケチで
貪欲な目は、この世の宝に囚われ、執着する。人に分け与え、神に献げる事
を惜しむ人は、天に心を向けていない。命の安全は、財産にあるのではない。
_
多額の貯蓄も手厚い生命保険も、人の命の保証にはならない。命と魂の保
証は、どこに宝を蓄えるかに掛かっている。キリストこそ、私達の命の保証
である。ですから十字架を見上げ、その先にある天の御国を仰ぎ見て歩もう。
_
「だれも二人の主人に仕えることはでき」ない。「仕える」とは、「奴隷」
に由来するが、奴隷は、一人の主人にのみ仕える。「一方を憎んで他方を愛
することになる」からである。人は、「神と富とに仕えることは」できない。
_
「あなたは、世も世にあるものも、愛してはいけません。もし、だれかが
世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」(Tヨハネ 2:15)
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No.688 7月25日:「神に心を向ける為の自制心」 マタイの福音書6章16〜18節 |
(みことば)「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食
していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの
父に見えるようにするためです。」 マタイの福音書6章17節
_キリストは、これまで「人に見せるための善行」、即ち「偽善」を警戒す
る様に語って来たが、善行の第1は施し、第2は祈り、最後は、断食である。
_
施し、祈り、断食は、当時の人々の考える信仰生活の基本をなすものであ
るが、主は、私達の信仰を調える基本を具体的な形で問い直された。しかし、
断食は、祈りほどに、今日の私達に身近ではなく、断食の習慣すら余りない。
_キリストの弟子は、「断食しない」と言う理由で非難され、キリスト自身
も、断食する事に余り熱心ではなかった。しかし、キリストは、断食を否定
された訳ではなく、ユダヤ人が行う断食の真の意味を改めて問い直された。
_
イスラム教は、ラマダンの様な断食の月を設けて戒律として行うが、その
習慣のない私達は、断食をどう捉えるべきだろうか。断食は、「人がどの様
に神の前に立とうとしているか」信仰の歩みにおける魂の姿勢が問われる。
_
断食の目的は、「心と体の全てを集中して神に身を向ける為の行為」であ
るが、人は、祈る時にも欲望や雑念が起り、それが祈りを妨げる。断食は、
一切の邪念を除き、純粋に心を神に向け、祈りに専心する為の努力である。
_
しかし、人間の罪は、その宗教行為にさえ、深く入り込む。キリストは、
その偽善を見抜き、「断食をするときには、…暗い顔をしてはいけません。
彼らは、…人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」(16)と指摘した。
_
彼らは、断食している事をアピールする為に暗い顔つきをし、顔をやつれ
させるが、それにより人からの評価や誉れを得ようとする。その偽善の行為
は、本来の断食の意味を忘れた、不純で歪んだものであり、滑稽でさえある。
_
彼らは、断食していながら、神に心を向けず、人の気を引き、関心を買お
うと努力する。断食は、悲しみの表現であり、罪の悔い改めと赦しを乞う祈
りと共に行った。私達は、誰にその悲しみを訴え、赦しを乞うべきだろうか。
_
キリストは、「断食するときには頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」と語る。
「それは、断食していることが、人にではなく、隠れた…父に見えるように
する」為である。その人は、人の報いではなく、神からの報いを与えられる。
_
私達は、辛く悲しい経験をする時、誰かに悩みを打ち明け、相談する。勿
論、それも必要なことであるが、私達の全ての悩みと悲しみを理解でき、解
決できる方は、天の父以外におられない。私達の心をまず神に注ぎ出そう。
_
サムエルの母ハンナは、募る憂いと悩みを「主の前に心を注ぎだして」祈
った。主は、彼女の真実な請願と祈りに心に留め、それを実現して下さった。
祈りの後「その顔は、もはや以前のようではなかった。」(Tサム 1:18)とある。
_
主は「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代
わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる」(イザ 61:3)
_
私達は、神に向かう純粋な心を妨げる一切の物を排除し、自制する心を持
とう。パウロは、「全てのことが私には許されている」が、「全てが益になる
わけでは」ない。「自制力を欠く時、サタンの誘惑にかからない」為と語る。
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No.687 7月18日:「試みと悪からの救」 マタイの福音書6章13節 |
(みことば)「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
マタイの福音書6章13節
_「主の祈り」の後半の第3は、将来の信仰の歩みの中で起こる「試みと悪
からの救い」を求める祈りであるが、私達が試みあうことは避けて通れない。
_
「試み」は、「試練」とも「誘惑」とも訳す事ができるが、「試練」は、「神
に関係し、信仰の成長や訓練の為に必要」であるが、「誘惑」は、「悪魔に関
係し、人を神から引き離し、罪をもたらすために起る働き」と区別できる。
_それを前提に考えると、「試みにあわせないで」とは、私達が、悪魔の試
みにあって信仰を失う事がないようにとの祈りである。主は、ゲッセマネの
園で「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。」と命じられた。
_
キリストが公生涯の初めに悪魔の試みを受けた様に、私達もその信仰の歩
みの中で様々な試みに遭い、時には、その試みにより信仰が揺らいでしまう
事もある。その中で私達の信仰が支えられるのは、神の働きと憐れみによる。
_
私達は、信仰によって神の約束を与えられ、天の御国を目指す旅の途上を
歩んでいるが、悪魔は、信仰者が神の約束に向かわせない様に試みる。イス
ラエルは、荒野の旅で様々な試みに遭い、その度に信仰の旅路が中断した。
_
イスカリオテのユダは、12使徒に選ばれていたが、悪魔の試みにあい、
銀貨30枚でキリストを裏切る。悪魔が人を誘惑するのは、人に罪を犯させ
るだけでなく、神の交わりから引き離し、永遠の刑罰に至らせる為である。
_
私達は、「自分は、大丈夫」と信仰を過信してはならない。寧ろ、自らの
弱さを覚え、悪魔の狡猾さを警戒し、その罠と策略に嵌らない様に目を覚ま
しているべきである。この世は、神に背く、罪と姦淫の時代だからである。
_
蛇に誘惑されたエバは、「善悪の知識の木」を見ると、「その木は食べる
のに良さそうで、目に慕わしく…好ましかった。」彼女には、神の戒めより、
それを犯す事に甘美を覚え、それに近づき、手に取り、食べてみたくなる。
_
「試みにあう」とは「連れ込む、引き入れる」の意味があるが、人は、神
の導きと異なる力により、罪の道に誘われる。「誘惑にあうのは…自分の欲
に引かれ…誘惑され…欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
_
私達は、悪魔の巧妙な試みに遭わない為に、肉の思いを抱かせないほど神
を愛するべきである。その為に主日礼拝と祈りと御言葉の交わりを疎かにし
てはならない。悪魔は、群れの交わりから離れた羊に真っ先に襲い掛かる。
_
祈りの後半は、「悪からお救いください」であるが、前半の「試みにあわ
ないで」と後半の「悪からの救い」は、一対で切り離せない祈りである。「誘
惑」は、悪魔の働きによるが、「悪」は、より広い範囲の形態・形相を表す。
_
「悪」は、「悪い事」「邪悪な事」と訳せるが、私達は、この世のあらゆる
悪から救われる様に祈る必要がある。罪と悪の時代に生きながら、悪に染ま
らずに生きる事は、至難の業である。そこには、当然、罪との戦いが生じる。
_
それは、聖化への欲求がなければ実現できない。肉の欲求もあるが、御霊
に導かれるなら肉欲を満たす事はない。「あなた方のからだは…聖霊の宮で
あり…神の栄光を現わしなさい。」主の祈りに続き、教会は伝統的に「国と
力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」と頌栄を告白して来た。
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No.686 7月11日:「負い目の赦し」 マタイの福音書6章12節,14節〜15節 |
(みことば)「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目
のある人たちを赦します。」
マタイの福音書6章12節
_主の祈りの後半の第2は、「負い目の赦し」を求める祈りであるが、「負い
目」は、「負債」を意味し「当然支払われるべき」(ローマ 4:4)借金等を指した。
_
私達は、創造者である神の定める道徳的要求を満たす事が出来ないという
負い目(負債)を負っている。「負い目」を同じ意味で「過ち」(14,15)と
表現し、同じ言葉を「背きの罪」(ローマ 4:25)「違反」(5:15)と訳している。
_私達は、祈りの中で過去に犯した過ちや罪を思い起こす事がある。大きな
罪もあれば、日常的に犯す罪もある。私達は、祈りの中で罪の悔い改めと赦
しを乞う必要がある。新生したキリスト者でも、罪を犯さない人はいない。
_
私達は、キリストの贖いの故に全ての罪過を赦されている。従って、負い
目の赦しは、救われる為の祈りでなく、神の御心に生きる為の聖化の祈りで
ある。私達は罪を赦された罪人であり、日々犯す罪を悔い改める必要がある。
_
キリストは、最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗い、「水浴した者は、足
以外は、洗う必要がありません。全身がきよい」と言われた。キリスト者は、
既に、きよい者とされているが、体がきよくても、外を歩けば足は汚れる。
_
日々の歩みの中で犯した罪は、足を洗いきよめる様に、一つ一つの罪に対
して神に赦しを乞い、清める必要がある。「もし、私たちが、自分の罪を告
白するなら…罪を赦し…全ての不義をきよめてくださいます。」(Tヨハネ 1:8~9)
_
キリスト者でも、犯した罪をそのまま放置するなら、撒いた罪を刈り取る
事になる。積み重なった負債は、どこかで清算をしなければならない。「人
は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。…肉から滅びを刈り取り…」
_
「負い目の赦し」の後に「私たちも…負い目のある人たちを赦します。」
の祈りが続く。これは、他の人が私に対して犯す罪への態度である。「赦し
ます。」とは、告白と宣言であり、それは、罪を赦す事が前提の祈りである。
_
後半の祈りは、前半の「負い目の赦し」とリンクする。私達は、キリスト
の贖いの故に過去の全負債を免除された。その人が他者の負債を赦せない事
等あり得ない。主は、兄弟の罪を「7回を7十倍するまで」赦す様に命じた。
_
これは、キリスト教の倫理がこの世の倫理規準と比較して遥かに高い事を
示す一例である。その倫理は、キリストの救いと福音の理解に基盤を置いて
いる。神の無条件の愛と赦しを知る者は、隣人に愛と寛容を示すはずである。
_
1万タラントの借金のあったしもべが王によって全額免除されるが、彼は、
出て行って100デナリの借金のある仲間を捕まえて彼を牢に投げ入れる。
キリスト者が神に赦されている証拠は、他者の罪を赦す事と密接に関係する。
_
「もし人の過ちを赦すなら…天の父も…赦してくださいます。…人を赦さ
なさいなら…お赦しになりません。」「神の赦しと人を赦す」ことは、一対で
あり、互いに矛盾しない。神に愛されている者は、兄弟を愛するべきである。
_
勿論、キリスト者は、「人を赦す」行為によって救われている訳ではない
が、神の救いに預る者は、他者に対しても、寛容で慈悲深くあるべきである。
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No.685 7月4日:「日ごとの糧の為の祈り」 マタイの福音書6章11節 |
(みことば)「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」
マタイの福音書6章11節
_主の祈りの後半は、「人の願いと祈り」であるが、第1は「日ごとの糧の
備え」第2は「負い目の赦し」第3は「試みと悪からの救い」に区分できる。
_
第1は、「日ごとの糧」を求める祈りであるが、「糧」は、パンの事であり、
私達の食生活に関わる事である。主は、「負い目の赦し」や「試みや悪から
の救い」の様な霊的事柄より先に、肉体の必要を優先して祈るように命じる。
_天の父は、私達のいのちが保たれる為にどうしても必要な食物の為に心を
用いて下さる。特に家庭の主婦は、日々の食卓の事に心を遣うが、創造者で
ある神が、真に些細な私達の食卓の事まで心配して下さるのは驚きである。
_
主は、「何を食べようか…自分のからだのことで心配したりすのはやめな
さい」(25)と言われた。食べ物の事でどんなに心配しても解決はないが、糧
の為に祈る時、父なる神が私達の事を心配し、全ての必要を備えて下さる。
_
私達は、この祈りを通して、神が確かに生きておられる事を確信する。キ
リスト信仰は、観念的なものではなく、架空の存在を気休めとして信じてい
るのでもない。それ故、私達は、日々の糧を感謝の祈りを献げてから頂く。
_
「日ごとの」とは、「その日に必要な分」とも訳せる。イスラエルの民は、
40年の荒野の旅において、天から与えられたマナで養われた。「民は外に
出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。」(出エジプト 16:4)
_
マナの奇跡は、日ごとの糧が神によって与えられるしるしである。その際、
「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないこ
とはなかった。」神は、神の民に丁度良い必要な分だけを与えて下さった。
_
また、マナは、「朝まで残しておいてはならない。」と命じられた。それは、
翌日には、それに虫がわき、臭くなって食べる事ができなかったからである。
主は、その日毎の糧を神が与えて下さる事を覚えさせる為にその様にされた。
_
私達は、世の人の様に日ごとの糧を「自分の努力や稼ぎの結果得た報酬」
と考えない。日々健康で仕事ができるのは、神の働きと恵みによる。私達の
営みの全ては、神の御業によるのであり、神を忘れた飲食は貪りに過ぎない。
_
私達は、イスラエルの民と同様に日ごとの糧が「天から与えられている」
事を覚え、感謝して食卓に預るべきである。主は、イスラエルの為に6日目
に2日分のマナを調えて下さったが、それは、次の安息日を守る為であった。
_
神は、主の日を覚え神を愛する者を祝福し必要を満たされる。神の言葉に
背き荒野に出て行った者は、そこで何も得る事が出来ない。「私が…年老い
た今も、正しい者が見捨てられたり、…食べ物を乞うのを見たことがない。」
_
肉体の為には、日ごとの糧が欠かせない様に、私達の魂の為には、霊的な
糧、即ち、神の言葉が欠かせない。私達は、主の日の礼拝と御言葉の糧によ
って養われ、霊的に成長する。これを疎かにして健康を損なう事の無い様に。
_
「日ごとの糧」とある様に、私達は日々の歩みの中で、主との交わりと御
言葉の時を大切にしよう。御言葉は、健全な信仰の為に欠かす事が出来ない。
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No.684 6月27日:「みこころを求める祈り」 マタイの福音書6章10節 |
(みことば)「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも
行われますように。」
マタイの福音書6章10
_主の祈りの前半3つは、神に関する祈りで、後半4つは人間の為の祈願で
ある。キリスト信仰は、神への祈りを第1にする点で異邦人の祈りと異なる。
_
神に関する祈りの第2は、「御国が来ますように。」である。「御国」とは、
「あなたの国」即ち「神の国」であるが、マタイは「天の御国」と表現した。
主の宣教の第1声は、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」である。
_第1に神の国は、この地上の国家と異なり、キリストによって始まった霊
的な神の支配の事である。神の国に入る条件は、キリストを信じて新しく生
まれる事である。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
_
神の国は、既に来ているが、多くの人は、神を信じず、御国に入ろうとし
ない。それは、悪魔がこの世を支配し、人間の罪が心を暗くしているからで
ある。「この世の神が信じない者たちの思いを暗くし…輝かせないように…」
_
第2に神の国は、キリストによって始まったが、完成の途上にあり、完全
な形では現れていない。神は、福音の宣教を通して罪と滅びの世に生きる者
が救われる事を願っている。神は、天の御国の鍵を地上の教会に与えられた。
_
第3に神の国は、キリストが栄光の姿で現れる時に地上に完成する。イエ
スの昇天の際、御使いは、「イエスは…同じ有様で、またおいでになる」と
告げた。「しかり、わたしはすぐに来る。」目を覚まし御国が来るよう祈ろう。
_
神に関する祈りの第3は、「みこころが天で行われるように、地でも行わ
れますように。」である。「みこころ」とは、「あなたの意志」即ち、「神の意
志」であるので、祈りの中で、神の意志を求め、その実現を願う祈りである。
_
神の御心は、天において完全な形で行われる。天には、悪魔も罪を持つ者
もいないからである。しかしこの地上は、神の御心を求め、その実現を願う
者は誰もいない。彼らは悪魔の「欲望を成し遂げたい思って」(ヨハ 8:44)いる。
_
従って、これは、キリスト者だけの祈りの特徴である。その模範は、十字
架を前にしたキリストの祈りである。「この杯をわたしから過ぎ去らせてく
ださい。しかし、…あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ 26:39)
_
私達の祈りは、父なる神の御心よりも、自分の願いや欲求が優先する事が
ある。神に祈った事が全てその通りになるとは限らない。病気の回復、進路
の選択等、どれほど真剣に祈っても、願った事と違う結果になる事がある。
_
「全て祈った通りになる。」「祈っても聞かれないなら神を信じない。」と
言うなら神を試みる事である。「神が何を成すのか」その主権は、神ご自身
にある。神は、「アラジンの魔法のランプ」の様な都合の良い召使ではない。
_
パウロは、肉体に一つの棘を持ち、それを去らせて下さるように、3度主
に願ったが、主は、彼に「わたしの恵みはあなたに十分である。」と答える。
彼は、それを通して、弱さのうちに現れるキリストの力を知る。(Tコリント 12:9)
_
みこころを求める祈りを通して謙遜と主に委ねる信仰と神の御心が最善で
ある事を学ぶ。「私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします」(詩篇 40:8)
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No.683 6月20日:「御名が聖とされる祈り」 マタイの福音書6章9節 |
(みことば)「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たち
の父よ。御名が聖なるものとされますように。」
マタイの福音書6章9節
_主は、「偽善者たち」や「異邦人のよう」に祈ってはならないと注意した
が、更に、積極的に「ですから…こう祈りなさい。」と祈りの模範を示す。
_
主が教えた祈り(主の祈り)には、キリスト者が祈るべき内容の真髄が凝
縮されている。従って、祈る者は、それを繰り返し唱えるのではなく、主の
祈りを模範として、自分の思いと言葉で神に向かって真実に祈るべきある。
_主は、祈りの初めに「天にいます私たちの父よ」と呼ぶ事を教えた。当時、
神に向かって「父」と呼ぶ事は斬新であった。しかも、主は、アラム語で「ア
バ、父」と呼ぶ。それは、幼子が「パパ」と呼ぶ親しさが込められている。
_
神は天におられ、全能の御力をもって世界を治めておられる。しかし神は、
御子を信じ、新しく生まれた者に「アバ、父」と呼ぶ特権を与えて下さった。
天の父は、御子の贖いにより子とされた者を愛し、その祈りを聞いて下さる。
_
「私たちの父」とは、一人称複数であるが、それは、神の共同体である教
会を指す。教会は、天に同じ父を持つ神の家族であり、その構成員を兄弟姉
妹と呼ぶ。神の家族は、主の日に神を礼拝する為に、共に集まるべきである。
_
祈りの第1は、「御名が聖なるものとされ」る事である。主の祈りは、神
への3つの祈りと人への4つの祈願で構成されている。異邦人は、自分の幸
福の為に祈るが、神の民は、まず「御名が聖とされる」事を祈るべきである。
_
「聖なるものとされる」(ハギアゾー)は、「神の為に選び別ける」「聖別する」
の意味がある。イスラエルは、「祭司の王国、聖なる国民」と呼ばれた。そ
れは、彼らを通して御名が崇められる為であるが、教会もそれと同じである。
_
教会が世から聖別されたのは、教会を通して神の御名が誉め讃えられ、世
の光として輝き、福音を伝える為である。従って、私達の第1の願いは、失
われた人々が神に立ち返り、神を信じて御名が聖なるものとされる事である。
_
「御名が聖なるものとされる」とは、この世の人への祈りと願いだけでな
く、神の民にも適用されるべきである。私達は、一日の内どれだけ神との交
わりの為の時間を聖別しているだろうか。私達の命や生活は、神に支えられ
ている。祈りは、神との会話であり、私達の呼吸の様に大切なものである。
_
次に、神の民は、一週間のうち「主の日」を聖別して神の家に集まり、神
を礼拝する事が定められている。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせ
よ。」私達は、主の日の礼拝を通して、霊的な力を神から与えられ成長する。
_
神は、御言葉に従い、主の日を聖なるものとする者を豊かに祝福して下さる。
最後に、神の民は、主から与えられた収入の十分の一を主に聖別する事が
定められている。什一献金は、アブラハムの時代から神の民に普遍的に命じ
られている。マラキは、これを疎かにする神の民に「神のものを盗んでいる。」
_
と語った。主の言葉を疎かにした為に、かえって乏しくならない様にしよう。
天の父は、キリストによって神の子とされた者に、あらゆる恵みを持って
祝福して下さる。私達を通して、神の御名が聖なるものとされる事を祈ろう。
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No.682 6月13日:「主を御名を呼び求める幸い」 マタイの福音書6章5節〜8節 |
(みことば)「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そし
て戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
マタイの福音書6章6節
_キリストは、御国の民が善行を行う際の注意の第2として祈りについて語
る。キリスト者にとって、祈りは、神からの最高の恵みであり特権である。
_
祈りは、この地上における神との関係を最も良く表わす行為であり、キリ
スト者生活の中で最も重要な位置を占める。それは、人間の魂における最高
の働きであり、我々は、祈りによって神と交わり、神と繋がる事ができる。
_主は、偽善者がする祈りに忠告する。「彼らは人々に目えるように…祈る」
本来、祈りは、心を神に向け、自らの罪と無力さを告白し、神の憐れみと助
けを求める行為であるが、彼らは、それを自分の見栄と誇りの手段にする。
_
「彼らはすでに自分の報いを受けている」彼らは、「人の誉れ」と言う陳
腐な報いを受けるが、神に祈る者は、遥かに勝る霊的な賜物「罪の赦し、永
遠のいのち、神の愛」等の報いを受ける。祈りこそ全ての解決の手段である。
_
主は、「祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい」と命じる。そ
れは、祈りが人に見られず、純粋に神に向かう為である。どれほど真剣に神
と向き合う時を持っているか、それは、神を大切に思う信仰と愛に比例する。
_
「奥の自分の部屋に入り…戸を閉め」とは、物理的な問題だけでない。密
室で祈っても、「世の執着や煩い」があるなら神に心が向かない。それらを
整理し、自己の奢りや誇りや虚栄を戸の外に締め出してから祈るべきである。
_
そうすれば、「隠れたところにおられる…父が…報いて」下さる。その意
識こそ、キリスト者の倫理と信仰の根幹になければならない。見えない神を
父と呼んで祈る事は、他の宗教にはない、人格的な神との交わりに基づく。
_
「異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」それは、
世の宗教の祈りの特徴である。「彼らは、ことば数が多いことで聞かれると
思っている」その祈りには、父との交わりや信頼の様な人格的な関係はない。
_
主の預言者エリヤは、カルメル山でバアルの預言者達と対決するが、バア
ルの預言者は、朝から真昼まで、「バアルよ。私たちに答えてください。」と
祈り、剣や槍で身を傷つけて叫ぶが、何の声もなく、答える者もなかった。
_
しかし、エリヤが、「アブラハム、イサク、イスラエルの神…私に答えて
ください。」と祈ると、天から「火が降り、全焼のささげ物を…焼き尽くし
…なめ尽くした。」天の父を知る者は、その祈りによってどんな事もできる。
_
ですから、我々は、同じ言葉を繰り返して、くどくど祈る必要はない。「あ
なたがたの父は、あなたがたが求める前から…必要なものを知っておられる」
天の父に祈る者は、それが必ず聞かれ、与えられたと信じて祈るべきである。
_
それでは、父が「求める前から…必要なものを知っておられる」なら、何
故祈る必要があるだろうか。天の父は、御国の子らが神を呼び求め、祈る事
を待っておられる。神の祝福は、主の御名を呼び求め、祈る者に与えられる。
_
「主が私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求め
る。…『主よ。どうか私のいのちを助け出してください。』」(詩篇 116:2~4)
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No.681 6月6日:「人前で善行をなす偽善」 マタイの福音書6章1節〜4節 |
(みことば)「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」
マタイの福音書6章1節
_キリストは、ユダヤ人達が律法の実践として重視して来た「善行」(施し
・祈り・断食)に対して、天の御国の民としてどの様に生きるべきかを語る。
_
善行は、これから語られる施し、祈り、断食の総称であるが、それぞれの
テーマに共通した言葉は、「偽善者たちのようであってはいけません。」であ
る。主は、ユダヤ人達が行っていた偽善的な行為に注意を促す必要があった。
_善行(ディカイオス)は、「義」とも訳せるが、「義」とは、神の本性であり、
御心に適う人の状態や行動を指す。主は、「あなたがたの義が、律法学者や
パリサイ人の義にまさっていなければ…天の御国に入れません。」と語った。
_
ユダヤ人達は、熱心に宗教的な業である善行に励んでいたが、そこには、
「人に見せるために人前で善行を」する偽善が入り込んでいた。「見せる」
は、「劇場」の語源になった言葉で、「偽善者」は、「役者」の意味である。
_
主は、善行を成す人々の動機を問われる。「施しをするとき…人にほめて
もらおうと」して施しをすべきではない。人は上辺を見るが、主は、人の心
を見られる。人が賞賛する素晴らしい行為も、主に覚えられない善行がある。
_
人に見せる善行は、天の「父から報いを受けられ」ない。世の人は、善を
行う際に「お返しや感謝や賞賛」等、何らかの人からの見返りを期待する。
しかし、御国の民は、人からの報いではなく、神の報いに期待すべきである。
_
キリスト者にも同様の誘惑や弱さがある。何らかの善行を成す時、それに
見合う感謝や評価等の見返りがあると満足するが、そうでないと不満を覚え
る。しかし、神の報いに心を向ける人は、人の態度や評価に自由でいられる。
_
施しは、貧しい人への慈善的な行為であるが、社会福祉の充実していない
当時は、人々の信仰と愛が問われた。主の御心は「多く集めた人も余ること
はなく、少しだけ集めた人も足りないことがない」愛の平等の精神である。
_
「自分の前でラッパを吹く」とは、善行をアピールする行為であるが、そ
れは神殿の献金の際にも見られた。世の宗教は、寄進者の額により評価が決
まり、人々の名誉心を駆り立てる。「彼らはすでに自分の報いを受けている」
_
「右の手がしていることを左の手に知られないように」それは、両方自分
の手であるので、互いに知られない事等本来不可能であるが、主は、自分自
身の心の中でさえ「その施しの行為を意識せず、した事を忘れよ」と命じる。
_
人は、自分のした悪は直ぐに忘れるが、自分のした良い事は何時までも覚
えている。その意識がいつの間にか誇りや自慢となり、誤った虚像を自分の
中に作り上げる。それが罠となり、天の御国から脱落する事がないように。
_
「あなたの施しが隠れたところにあるように」神が本当に注目しているの
は、人が誰も見ていない隠れた所での姿である。人からの評価が何も無くて
も、「隠れたところで見ておられるあなたの父があなたに報いてくだ」さる。
_
偽善者は「自分の報いをすでに受けている」が、神の報いは、後の日に天
の御国で与えられる。現世的な物で満足し、天の御国で貧くならないように。
|
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No.680 5月30日:「愛の教えの極み」 マタイの福音書5章43節〜48節
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(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自
分を迫害する者のために祈りなさい。」
マタイの福音書5章44節
_キリストは、『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていた」
教えに対し、「わたしはあなたがたに言います。」と第6の新しい宣言をする。
_
前半の教え「あなたの隣人を愛し」とは、十戒の後半の道徳律法を要約し
た言葉である。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ 19:18)
それは、主がこれまで律法に対応して語ったテーマを総括した言葉である。
_後半の「あなたの敵を憎め」は、聖書の言葉ではなく、ユダヤ人の独自な
解釈であり、隣人を限定し、愛の対象を区別する。「敵を憎む」ことは、人
間の自然の感情であるが、主は、「自分の敵を愛し…祈りなさい。」と命じる。
_
それは、キリストの究極の愛の勧めと言えるが、それを誰が実践できるだ
ろう。人は、自分の敵を憎みこそすれ、愛する事は至難の業である。主は、
この世の人にではなく、御国の民、即ち、父の子とされた者にそれを命じる。
_
「父の子どもになるため」とは、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」
事が、神の子となる条件ではなく、寧ろ神の子とされた結果であり証である。
子どもは、父に似ているはずであり、また似た者となるよう命じられている。
_
「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、…正しくない者にも雨を
降らせてくださる」神は、人の態度や行いによって自然の恵みを止める事は
なさらない。自然の恩恵は、敵・味方関係なく万人に平等に注がれている。
_
ユダヤ人の間違った選民意識は、神が万人に公平であるという意識に欠け、
同胞と敵とを区別し、「敵を憎め」と言う発想になる。ユダヤ人が神の民と
して選ばれたのは、全世界への証の為であり、全ての人が神を知る為である。
_
主は、「自分を愛してくれる人を愛したとしても…何の報いがあるでしょ
うか。」「収税人…異邦人でも同じことをしているではありませんか。」と語
る。彼らの行いは、彼らが軽蔑した収税人や異邦人に何ら優るものがない。
_
神の子らが、この世の子らに比べて、何ら優るものがなければ、この世に
存在している意味や価値を失う。神を信じると公言しながら、振る舞いにお
いて、世の人と何ら変わらないか、或いは劣るなら、誰が神を信じるだろう。
_
主は、弟子達に「あなたがたは、地の塩です。…世の光です。」と言われ
た。私達は、神を証する為に救われたのである。世の人と同じ生き方で満足
すべきでなく、主の命じた崇高な教えの目標を目指して生きるべきである。
_
神の子への愛の挑戦は、「自分を敵を愛し、迫害する者のために祈る」事
である。主は、良きサマリヤ人への譬えで、「誰が強盗に襲われた人の隣人
になったか」と問い、「あなたも行って、同じようにしなさい。」と命じた。
_
主は、それを文字通り実践され、神に敵対していた我々の隣人となる為に
世に来られ、十字架の刑罰を負われ、「父よ。彼らをお赦しください。彼ら
は、自分が何をしているのかが分っていないのです。」(ルカ 23:34)と祈られた。
_
「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」神の子
は、必然的に天の父に似た者であり、更に、神に似た者と成るように励もう。
|
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No.679 5月23日:「天の御国に生きる者の自由」 マタイの福音書5章38節〜42節
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(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かって
はいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」
マタイの福音書5章39節
_キリストは、「目には目を、歯には歯を」(38)の律法の教えに対応し「し
かし、わたしは、あなたがたに言います。」と第5番目の新しい教えを語る。
_
「目には目を、歯には歯を」は、一般的に復讐の原理として使われる。古
くはハムラビ法典にも「同害復讐法」としてこの言葉がある。しかし、それ
は、復讐を促す勧めではなく、寧ろ、過剰な報復を抑制する為の法律である。
_旧約聖書には、「目には目を、歯には歯を、手には手を…もって償わなけ
ればならない。」(出エジ 21:23~25)とあり、それは、加害者側の被害者への同
等の償いを命じた教えで、実際は、目や歯ではなく、代償物で償いをした。
_
人間の感情の中に復讐の本能が潜在的に存在し、たとえ復讐しなくとも、
受けた傷を恨み続ける心理がある。主は、人間のその復讐の心に反し「右の
頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と復讐心を諫め、それを抑制させる。
_
主の教えは、一般的に受け入れられず、実践も不可能である。その教えは、
神を信じる者に命られ、信仰が無ければ実践できない。「あなたを憎む者が
飢えているなら、パンを食べさせ…主が…報いてくださる」(箴言 25:21,22)
_
それは、聖徒が行う愛と忍耐の行為を主が覚えて下さり、それに報いて下
さると信じるから実行できる事である。従って復讐は、人のする事ではなく、
主の成さる事である。「復讐はわたしのもの。わたしが復讐する。」(ローマ 12:20)
_
第2に主は、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取ら
せなさい。」と命じる。上着は、その人の最後の保証であり権利であった。
従って、それは、主に望みを置かなければ、上着を手放す事等到底できない。
_
主は、地上に何も残さず、着ていた衣服さえローマ兵にくじ引きにされた。
主を信じ天に心を向ける人は、この世の物から自由でいられる。「気前よく
施し…なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで…乏しくなる者がある」
_
第3に主は、「一ミリオン行くように強いる者がいれば、…二ミリオン行
きなさい。」と命じる。「強いる」は、クレネ人シモンが十字架を「無理やり
背負わされた」(27:32)に使われている強制的な労働を意味する言葉である。
_
たとえ強いられた労苦でも、誠実に生きる人は、それにより訓練され成長
する。主は、その労苦を覚えおられる。クレネ人シモンは十字架を負う事で、
後に「アレクサンドロとルフォスとの父」(マルコ 15:21)と呼ばれる恵みに預る。
_
第4に主は、「求める者には与えなさい。借りようとす者には背を向けて
はいけません」と命じる。「貧しい人に施し、惜しまず分け与える」ことは、
律法の命令であり、主も、「受けるより、与える方が幸いである。」と教えた。
_
人に与えることも、貸すことも利害を計算してではなく、愛の報酬として
成すべきである。主は、食事の振舞いをする時、貧しい人を招く様に命じる
が、それは「義人の復活のときに、お返しを受ける」(ルカ 14:14)からである。
_
「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ 10:8)
主からの恵みを覚え、神の報いに期待しなければ、主の命令を実践できない。
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No.678 5月16日:「神への誓いと言葉の真実」 マタイの福音書5章33節〜37節 |
(みことば)「あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は
「いいえ」としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」
マタイの福音書5章37節
_旧約律法に対応する主の教えの第4は、「誓い」に関してであるが、「偽っ
て誓ってはならない。…誓ったことを主に果たせ。」は律法の要約と言える。
_
律法には、「わたしの名によって偽って誓ってはならない。」(レビ 19:12)「誓
う場合には、自分のことばを破ってはならない。」(民数 30:2)と書かれている。
_キリスト教の結婚は、神と会衆の前で夫婦の誓約を交わして成立する。離
婚や姦淫は、神への誓いを破る行為であり、それは、主への誓いに不誠実で
あった事を意味する。必然的に、誓約や誓いには、その言葉に責任が伴う。
_
誓約を誠実に果たす事は、社会や人間関係において大切な責務である。自
分の都合によって約束を簡単に破る人は、信頼できないし、信用を失う。神
に祝福される真実な人は、「損になっても、誓ったことは変えない。」(詩篇 15:4)
_
キリスト者は、神と誓約を交わした者として「主の日の礼拝、什一献金
神のみに仕える事」において誠実であるべきである。それは倫理的な面でも
同様である。誰も見ていなくても、主が全てをご覧になり、人に報いられる。
_
何より主ご自身は誓約に真実な方である。主は、アブラハムに夜空の星を
見上げさせ「あなたの子孫は、このようになる」と約束する。主は、その約
束の真実を「二つに切り裂かれた」犠牲の間を「燃えるたいまつが通り過ぎ
る」という方法で証しされた。主の約束は、十字架の贖いよって成就した。
_
主は、誓約に関連した律法に対し「しかし、わたしはあなたがたに言いま
す。決して誓ってはいけません。」(34)と誓約そのものを禁止される。それ
は、ユダヤ人の誓いに対する詭弁的な解釈と不誠実な信仰姿勢に原因がある。
_
彼らは、主の名を使って誓ったなら、その誓いを必ず果たさなければなら
ないが、誓いの対象を変えることで、「守るべき誓い」と「守らなくても良
い誓い」を区別した。それは詭弁であり、責任を言い逃れる方便に過ぎない。
_
「天にかけて…地にかけて…エルサレムにかけて…頭にかけて誓っても」
主の名によって誓った事に変わりがない。何故なら、天は「神の御座」であ
り、地は「神の足台」であり、エルサレムは「偉大な王の都」だからである。
_
私達にも、彼らと同じ弱さがある。神への信仰の誠実を誓いながら、自分
の都合や状況に応じて「主の日の礼拝や献金」の信仰の姿勢を変えてしまう。
しかし、主は、全ての主権を持ち、私達の髪の毛の一筋まで覚えておられる。
_
神は、誠実な信仰に生きる者に報いて下さる。逆に神への不敬虔な誓いの
故に、返って大きな代償を支払う事がある。ヘロデは、ヘロデヤの娘への褒
美を安易に誓った為に、自分の意に反してヨハネを処刑せざるを得なくなる。
_
主は、「『はい』は『はい』『いいえ』は『いいえ』としなさい。」と命じる。
それは真実な証言を意味するが、人の顔色を伺うと真実を証言出来なくなる。
アハブの時代、エリヤのほか誰も、「主に従う」と証言する者はいなかった。
_
「それ以上のことは、悪い者から出ている」(37)「はい」を「はい」と言え
ないのは、人の虚栄や頑なさや素直になれない心に原因がある。主は、砕か
れた心と魂をご覧になる。真実に罪を告白し、主を信頼して歩む者となろう。
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No.677 5月9日:「結婚の神聖さと人の罪深さ」 マタイの福音書5章31節〜32節 |
(みことば)「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、
妻に姦淫を犯させることになります。」
マタイの福音書5章32節
_キリストは、第7戒の「姦淫してはならない。」に対比してご自身の独自
な見解を述べられたが、前回は、それに関連して「結婚の神聖さ」を語った。
_
人間の罪は、神の定めた結婚関係の崩れとなって現れる。キリストは「姦
淫てはならない」の戒めに関連して、結婚関係の破綻である離縁、或いは、
離婚に関して語る。それは、伝統的なユダヤ人の律法の解釈と異なっていた。
_第7戒の倫理規準は、今日の社会にも生きているが、その倫理観は、甚だ
しく崩れている。現代の倫理の崩れは、そのまま結婚生活に反映されている。
現在、結婚した夫婦の三分の一が離婚し、その半数が4年以内に離婚し、更
に、離婚理由は、過半数が「性格の不一致」「価値観の相違」を挙げている。
_
ユダヤ人は、離婚に関して「妻を離縁する者は離婚状を与えよ」と教え、
離婚状を渡すなら、離婚が許されると理解した。その根拠は「妻に何か恥ず
べき事を見つけたために…離縁状を書いて…手に渡し」(申命記 24:1)である。
_
律法を厳密に解釈するなら「妻の恥ずべきこと」(不貞)以外の性格の不
一致や夫の身勝手な都合は離婚の理由にならない。主も「淫らな行い(不貞)以
外の理由で妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになる」(32)と語る。
_
主は、「妻を離縁することは、律法にかなっているか」(マタイ 19:3)との質問
に、神による「男と女の創造の原理」「夫婦の一体性と結婚の神聖さ」を語
り「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。」(6)と宣言された。
_
モーセが「離婚状を渡して…妻を離縁することを許した」のは、彼らの「心
が頑な」だからであり、「はじめの時からそうだったのでは」(8)ない。たと
え、「離婚状を渡す」法的な手続きを踏んでも、離婚は、主の御心ではない。
_
唯一相手の不貞は、離婚の条件となるが、それも絶対的ではなく、それは、
相手と和解や回復の余地がない場合に限る。3割の夫婦が離婚している現実
は、「結婚の神聖さ」や「夫婦の一体性」の観念が軽んじらた結果である。
_
夫婦関係の破綻は、そのまま家庭の崩壊を意味する。必然的に親の離婚は、
子にも影響を与え、子の人生に暗い陰を落とす。「妻を憎んで離婚するなら
…暴虐がその衣を覆う。…霊に注意せよ。裏切ってはならない。」(マラキ 2:16)
_
聖なる律法の定めの前に、人間が如何に不完全な者であるかを知らされる。
アブラハムやダビデでさえも、主の定めに不完全な罪人であった。モーセが
離婚状を与えて妻を離別することを許したのは、神の許容的な聖定と言える。
_
しかし私達は、律法を厳密に今の時代に適用させ「離婚が許されるか、再
婚が許されるか」と議論し始めたら、離婚経験者や再婚者は、教会に来れな
い。寧ろ、主の言葉や律法から罪の本質が、何処にあるかを知るべきである。
_
私達は、キリストによる罪の赦しの故に神の前に立てる。神はダビデが犯
した姦淫も、彼が悔い改めた時にその罪を赦された。多くの弱さを持った夫
婦の間に、愛と赦しがあり、誓約への真実があるなら一つになる事ができる。
_
キリストは、律法の真意を説かれたが、5回の離婚を繰り返したサマリヤ
の女を救いに導かれ、姦淫の現場で捕らえられた女を裁くことなく赦された。
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No.676 5月2日:「罪との決別と神への純潔」 マタイの福音書5章27節〜30節 |
(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見
る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」
マタイの福音書5章22節
_キリストは、旧約の律法の中心である「十戒」に対比して独自な見解を山
上の説教の中で述べられた。その第2回は、「姦淫してはならない。」である。
_
「姦淫」の定義は、広い意味で「性に関する不道徳」であるが、その規準
は、宗教や社会通念上異なる。聖書では、原則的に「結婚関係にある夫婦以
外の性的な交渉」を意味する。今日もそれが概ね社会規範として生きている。
_しかし、この戒めへの違反の罰則は、大きく異なる。姦淫は、律法におい
て殺人と同様に死刑であり、姦淫も殺人も刑罰の重みから言うなら同等であ
る。何故なら、姦淫は、神が定めた神聖な結婚関係の破壊行為だからである。
_
しかし、今日の社会の倫理は、益々崩れて来ているが、それは、結婚観の
崩れから始まっている。聖書の姦淫の定義によるなら、未婚の男女の性的交
渉も姦淫である。現代人の倫理観念は、その点での貞操意識が殆んどない。
_
ノアの時代の洪水の裁きは「地上に人の悪が増大し」た事によるが、その
切っ掛けは、神の子らの結婚の崩れによる。「神の子らは…それぞれ自分が
選んだ者を妻とした。」(創世記 6;2)主の導きを祈りながら結婚相手を決めよう。
_
律法では、第7戒に違反した時、姦淫の行為が裁かれた。しかし、キリス
トは、姦淫の罪を「情欲を抱いて女を見る…心の中…」から既に始まってい
ると宣言する。当時、そこまで高い基準で律法を教える者は誰もいなかった。
_
主は、「情欲を抱いて女を見る者は…」と男性に向けこの戒めを語る。男
性は視覚的に異性を求める傾向があり、女性は、寧ろ情緒や感性を重んじる。
神は、人を男と女とに創造されたので、男女の気質も罪の現われ方も異なる。
_
神は、異なる性を持つ男女の結婚を通して社会を形成する秩序を定めた。
しかし、今日、神の定めと秩序が崩れている。「女との自然な関係を捨てて、
男同士で情欲に燃え」(ローマ 1:27)混沌とした時代の中で、真理に堅く立とう。
_
主の教えには、第八戒「盗んではならない」と第十戒「貪ってはならない」
に該当する記述がない。しかし、第十戒は「あなたの隣人の妻を欲しがって
はならない。」(申命 5:21)と適応され、姦淫は、隣人の妻を盗む行為と言える。
_
従って、主の教えは、「心の中で情欲を抱く」だけでなく、「心の中で貪欲
を抱く」こともこれに該当する。人は、他人の持つ物が良く見え、それを羨
み、妬み、欲しがるという肉欲がある。サタンは、人の一番弱い部分に働く。
_
主は、「もし右の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出して…」と命
じる。主の言葉は大変厳しく思えるが、それは罪に対する厳しさである。罪
に対し覚悟と痛みを伴わなければ、そこから抜け出し勝利する事はできない。
_
罪には、多くの場合「薬物・アルコール・ギャンブル・ネット」等の様に依
存性がある。それに安易に手を出した為に一生罪の支配に苦しむ人がいる。
そこから逃れる為には、目を抉り出し、手を切り捨てる英断が必要である。
_
「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」とある様に、悪魔に誘惑され罪
に引きずられて「燃えるゲヘナに投げ込まれる」事の無い様に心して歩もう。
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No.675 4月25日:「罪の結末と和解の道」 マタイの福音書5章21節〜26節 |
(みことば)「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者
は、だれでもさばきを受けなければなりません。」
マタイの福音書5章22節
_キリストは、旧約の預言の成就として来られ、律法の真の意味を説かれた。
その第1は、第六戒「殺してはならない」に対する主の教えと宣言に始まる。
_
イスラエルの先祖(昔の人々)は、これを「人を殺す者はさばきを受けなければ
ならない。」(21)と解釈したが、主は「わたしはあなたがたに言います。」と
「律法学者たちのようではにではなく、権威ある者として」(7:29)教えた。
_キリストは、ユダヤ人の伝承と異なり、律法を行為に限定せず、人の心の
内面にまで適用させる。それは「人を殺す」行為に至る前の動機や感情が問
われる。「兄弟に対して怒る者は、だれでもばきを受けなければなりません。」
_
人間の罪は、この世の法律で裁かれなくとも、既に心の中から始まり、神
の定めでは、それも裁きの対象である。同様に「ばか者」と言う者は最高法
院で裁かれ、「愚か者」と言う者は「火の燃えるゲヘナに投げ込まれ」(22)る。
_
人類の最初の殺人は、兄弟の間で起るが、カインが弟を殺した動機は、妬
みと怒りであった。主は、彼に「あなたはそれを治めなければならない」と
戒めたが、彼は、それを治める事が出来ず、弟の血を流し呪われた者となる。
_
人間の内側から出て来る罪の本質(原罪)は、人類の先祖アダムの罪に始まり、
その子孫の全てに例外なく受け継がれている。しかし御霊によって新しく生
れた者は、完全ではないが、徐々に神に似た聖い性質へと変えられる。(聖化)
_
次に、キリストは、「兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら」(23)
どうすべきかを語る。それは自分の感情ではなく、相手の感情が問われてい
る。相手が自分に悪い感情を持つのは、自分の方にも非が無いとは言えない。
_
特に、主は、それを「祭壇の上にささげ物を献げようとしているとき」と
言う状況の設定で語る。つまり、主は、礼拝の中で彼に兄弟と和解する事を
示された様に、私達に御言葉や礼拝を通して罪を示し、正しい道に導かれる。
_
人は、神との交わりの中で過去の非を示される事があるが、それを主の導
きと受け留めて行動を起こすべきである。何故なら信仰と生活は分離できず、
悔い改めと和解なしに、どんな献げ物も神に受け入れられないからである。
_
「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)相
手がこちらを訴える以上、自分の方にも何らかの非があるはずである。そう
であるなら、自我や誇りを捨て、赦しを乞い、早く相手と和解すべきである。
_
「そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し…牢に投げ込まれ
る」(25)人は、必ず、自分がした事の正当な裁きを受ける事になる。「最後の
一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」(26)
_
裁判で判決が下ったら、それを覆す事はできない。「一緒に行く途中」即
ち、猶予期間のある間に、赦しを乞い、相手と和解すべきである。神との関
係も同様である。人は、必ず人生の終わりに神の前で罪を清算する事になる。
_
人は、犯した罪の負債を「火の燃えるゲヘナ」で清算する以外にない。し
かし、キリストは、罪を悔い改める者に、赦しと和解の道を備えて下さった。
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No.674 4月18日:「神のことばの普遍性」 マタイの福音書5章17節〜20節 |
(みことば)「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなり
ません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」
マタイの福音書5章17節
_キリストは、御国に生きる者の幸い(2~12)と使命(13~16)を語った後、彼
らが律法と預言(聖書)をどの様に解釈し、どの様な態度を取るべきかを語る。
_
第1に、キリストは、否定的な意味で「律法や預言者を廃棄するために来
た」のではない。主の教えは、律法学者やパリサイ人の教えと違っていたが、
決して、聖書の言葉を打ち消して、独自に新しい教えを語ったわけではない。
_第2に、キリストは、肯定的な意味で「律法や預言者を…成就するために
来た。」主の多くの御業は、聖書の預言の成就であり、救い主の証明と言え
る。同様に律法においても山上の説教は、モーセの十戒の完成を意味する。
_
主の教えは、十戒と比較しても、戒めを人の内面まで適用させる事におい
て、遥かに高い倫理性を示している。「成就する」は「満たす」の意味があ
るが、キリストは聖書解釈と行為において、完全に律法の要求を満たされた。
_
或いは十戒は、「してはならい」禁止の命令であるが、主は、御国の子ら
に「自分の敵を愛し…迫害する者のために祈りなさい」と命じた。律法の究
極の目標は「人からしてもらいたいことは…人にもしなさい」(7:12)である。
_
主の崇高な教えは、御国に生きる者に命じられた事であり、新しく生まれ
変わった者により実現が可能である。主は、この箇所から「わたしはあなた
がたに言います」と一人称で語るが、それは主の権威と力によって成就する。
_
次に主は、神の言葉の永遠性と不滅性について「天地が滅び去るまで、律
法の一点一画も…消え去ること」がないと語る。聖書は、「一点一画」まで
霊感された神の言葉であり、それ故、聖書66巻は無謬であり普遍的である。
_
聖書は、歴史上激しい攻撃に晒された時代もあったが、3千5百年前に書
かれた文書が今尚人々の生き方の規範となっている事実は、聖書が神の言葉
である確かな証である。「草はしおれ、花は散る…神のことばは永遠に立つ。」
_
最後に、神の教えである律法に「どの様な態度を取るのか」その姿勢が天
の御国における人の評価となる。「戒めの最も小さいものを…破るように教
える者は、天の御国でもっとも小さい者と呼ばれ…偉大な者と呼ばれます。」
_
「廃棄」も「破る」も同じ語源(ルオー)「解放する」であるが、御国の子ら
は、信仰の義によって律法の定めから解放され救われたが、御霊によって、
神の言葉に仕える者とされた。それ故、私達の倫理の規準は神の言葉にある。
_
キリスト教の倫理は、この世の倫理と本質的に異なる。この世の倫理は、
絶対的な規準を何も持たず、全て相対的であるが、キリスト教の倫理は、普
遍的、或いは、絶対的な神の言葉(律法)に倫理の規準と根拠を持っている。
_
主は「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなけれ
ば…天の御国に入れません」と語る。それは神の子らとこの世の子らの本質
的な違いによる。彼らは新生経験を知らず肉の力で律法の義を得ようとする。
_
彼らは、律法を行為に限定された範囲に止め、心の内面まで適用させない。
彼らは、戒めを禁止された範囲に止め、愛の対象(隣人)も限定的である。御霊
の賜物を持つ御国の子らが倫理と信仰において、彼らに勝るのは当然である。
|
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No.673 4月11日:「世の光として輝く」 マタイの福音書5章14節〜16節 |
(みことば)「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができ
ません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。」
マタイの福音書5章14節
_天の御国に生きるキリスト者は、この世においてどの様な存在で、どの様
な性質であるかを「地の塩」に譬えたが、第2は「世の光」に譬えている。
_
光は、主にそこに存在する物を照らす働きをする。キリスト者であるなら、
誰でも、世を照らす光として神によって創造され、この世に生かされている。
世とは(コスモス)であるが、光の存在は、自然界の生命にとって欠かせない。
_神は創造の初めに「光、あれ」と言われ、そこから全てが始まる。その光
は自然界にある太陽の光ではなく、神から発する超自然的な光である。同様
にキリスト者も、この世の者でなく、神によって生まれた特別な存在である。
_
世界は光の創造により「光と闇」「昼と夜」とに区別される。キリスト者
は闇の者ではなく「光の子ども、昼の子」に譬えられる。「あなたがたの光」
(16)とは、自らの輝きではなく、キリスト者の内に住むキリストの光である。
_
第1に「世の光」としての存在を「山の上にある町」に譬える。山の上に
ある町は、どこからも見え、夜になれば遠くからその存在が分る。実際にベ
ッサイダの近くに「ガムラ」(らくだ)と呼ばれた山の上にあった町が存在した。
_
キリスト者は、良くも悪しくも世の人から言動や振舞いを注目されている。
キリスト者として相応しくない行動を取るなら「それでもクリスチャンです
か」と非難される。世の人に赦される事も、キリスト者の故に赦されない。
_
逆に、キリスト者は、その信仰の故に明確な価値観と信念を持っている点
において世の人と違う。また、聖さや真実さにおいて世の人に遥かに勝って
いる。世の人は、そこにキリスト者としての特別な存在の魅力を感じている。
_
第2に「燭台の上に置く明かり」に譬えられる。「明かり」は一般的にラ
ンプの様な入れ物に油を入れて燭台の上に置いた。従って、誰も、それを「升
の下に置いたり」(15)しない。それでは、明かりを灯した意味を成さない。
_
同様にキリスト者には、キリスト者として居るべき相応しい場所がある。
キリスト者が相応しくない場所に居るなら、それは「明かりを升の下に置く」
事であり、自らの輝きを失わせ、自らの存在の意味や価値を失う事になる。
_
灯した明かりは、燭台の上でこそ、最も輝きその役目を果たす事ができる。
燭台は、聖書でしばしば教会に譬えられる。「7つの燭台は、7つの教会で
ある。」(黙示録 1:20)キリスト者が神と教会から離れる時その輝きも失われる。
_
神は、神から離れた人に「あなたは、どこにいるのか。」と語りかける。
キリスト者が本来居るべき場所から離れた為に、「油の備えを怠った5人の
愚かな娘」の様に人生を無駄にし、後悔する事の無い様に神のもとに帰ろう。
_
「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」(16)それは、即ち私達の
内に住むキリストを証する事である。キリスト者の存在の意味がここにある。
世の人への証しの為には、当然そこに良い行いが伴っていなければならない。
_
その「良い行い」は、人に見せる為でも、人からの評価を期待する為でも
なく、人々が「天におられる…父をあがめるようになるため」(16)である。
|
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No.672 4月4日:「主の復活の証人として」 ルカの福音書24章36節〜53節 |
(みことば)「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わ
たしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。」
ルカの福音書24章39節
_キリストの復活を記念するイースターは、春分の日の後の満月の最初の日
曜日であるが、それは、過越の祭りの安息日の翌日、週の初めの日となる。
_
キリストの復活イースターは、クリスマスと同様にキリスト教にとって重
要な出来事であり、重要な教義である。キリストの復活がなければ、私達の
信仰も実質の無いものとなり、キリスト教の歴史も存在しなかっただろう。
_弟子達は、イースターの朝に、墓からキリストが復活した知らせを聞き、
エマオに向かう二人の弟子は、主にお会いした次第を話していた。すると「イ
エスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があるように。』と言われた。」(36)
_
ヨハネは、同じ記事を「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」と
記す。キリストは、鍵のかかった部屋をすり抜けるように突然弟子達の真ん
中に立たれ、恐れを抱く弟子達に対し「平安があるように」と語りかける。
_
それは、単なるユダヤ人の挨拶でも気休めでもない。失望と恐怖に打ちひ
しがれた弟子達は、死に勝利された方を見て不安と恐れが消え、平安で満さ
れるはずである。主は、どんな場所や状況にも制限されずに入る事ができる。
_
しかし、彼らは、復活の主を見て「おびえて震え上がり、幽霊を見ている
のだと思った。」(37)それは、ガリラヤの湖上を歩いて近づく主を見て幽霊
と思って怯えたのに似ている。人は、実体のない霊に恐怖を抱く者である。
_
主は、彼らに「なぜ取り乱し…心に疑いを抱くのか」と言われた。人は、
漠然とした事や不確かな将来を幽霊の様に不安を抱き怯える。しかし、主は、
実体のない霊ではなく、彼らに「わたしの手や足を見なさい。」 と言われた。
_
主の復活は、幻想でもなく、架空の事でもなく、観念でもない。しかし、
アテネの人々が、復活の話を「ある人たちはあざ笑い…ほかの人は…いずれ
また聞くことにしよう」(使徒 17:32)と一蹴した様に、現代の人も同様である。
_
主は、「まさしくわたしです」と語るが、「それはわたし自身である」と直
訳できる。苦難から助け出された時、「それをしたのはわたしだ」と語る主
の御声を聞かないだろうか。「わたしが主である。他にはいない。」(イザヤ 45:6)
_
主は、彼らに「わたしにさわって、良く見なさい。」と招く。主のからだ
に触れた者は、実際の感触を生涯忘れなかっただろう。ヨハネは「じっと見
つめ、自分の手で触ったもの…いのちのことばについて」(Tヨハネ 1:1)と記す。
_
「幽霊なら肉や骨はありません。」(39)主は、肉のからだを持っていたが、
それは、私達の様な朽ちるからだではなく、手足を持っていても、それは時
間や空間に制限される事がない。私達はやがて天の御国で主に似た者となる。
_
主は、「信じられず、不思議がって」いる弟子に、食べ物を求め、「焼いた
魚を一切れ」召し上がる。それは、ご自分の為ではなく、復活の事実を彼ら
に証する為である。主は、魚を食べる私達の日常の歩みの中に共におられる。
_
最後にキリストは、神の言葉から復活の事実を証する。聖書に「書いてあ
ることは、すべて成就」(44)し、福音は「あらゆる国の人々に宣べ伝えられ
る。」(47)それは宣教の歴史の中で成就した。私達も主の復活の証人である。
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No.671 3月28日:「あなたがたは地の塩です」 マタイの福音書5章13節 |
(みことば)「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によ
って塩気をつけるのでしょうか。」
マタイの福音書5章13節
_キリストは、天の御国に生きる者の幸いを語った後で、この箇所から天の
御国生きる者が、この世においてどのような存在であるかを明らかされる。
_
その第1は、「あなたがたは地の塩です。」という言葉である。「あなたが
た」とは、キリストに従う弟子達であるが、原文では、これが文頭に置かれ
強調されているので、「あなたがただけが地の塩です。」との意味と言える。
_キリスト者が「地の塩」であるとは、キリスト者としてあるべき性質或い
は失ってはならない性質を語っている。「あなたがたは、自分自身のうちに
塩気を保ち」(マルコ 9:50)「いつも親切で塩味の効いた者である様に」(コロサイ 4:6)
_
また、「地の塩」の地とは、天と対比した言葉で、キリスト者としての地
上での使命や働きを意味する。キリスト者は、天の御国に生きる者であるが、
この地上に存在する意味や責任を持っている。世の光も、それと同様である。
_
また「地の塩です」との表現は「〜である」との状態を表す現在形である。
従って「塩になれ」と言う命令でも、「成れたら良い」と言う願望でも、「し
てあげよう」と言う約束でもなく、既に「〜である。」と言う宣言と言える。
_
塩の役目や性質は多く有るが、基本的に料理の「味をつける」「全体の味
を調える」「味に深みを与える」「他の味を引き立たせる」等がある。その他
「腐敗の防止」や「清める」性質があるが「地の塩」とはその総称と言える。
_
キリスト者が地に存在する事で平和と清さが生まれ、世の腐敗を防ぐ事に
なる。アブラハム、イサク、ヤコブは、カンナにおいて地の塩の役目を果し
た。もし、キリスト者が地から取られたら、時代は一挙に滅びに向って進む。
_
塩は希少な価値があり、僅かな量でも重要な働きをする。キリスト者は、
たとえ僅かな数でも、地に存在している事で意味を持つ。日本においてキリ
スト者が僅か1%でも、数の少なさを悲観的に捉え、卑下する必要はない。
_
僅か8人のノアの家族だけが滅びの世に向って警告を鳴らし、箱舟を造り、
神を証をした。エリヤは、たった一人で450人のバアルの預言者とカルメ
ル山で戦い勝利した。神は、信仰と御霊に満ちた者に大きな力を与えられる。
_
キリスト者が地の塩である為には、塩気を失わない事である。「塩気をな
くす」は、「愚かで馬鹿になる」とも訳せる。「ネジが馬鹿になる」等と言う
が、塩気を失ったキリスト者は、地における存在の意味と価値を失っている。
_
「花婿を迎える10人の娘」のうち「5人は愚かで、5人は賢かった。」(マ
タイ 25:2)灯火を灯しながら油を持たず、花婿を迎えられなかった愚かな娘の
様にならないように。「もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ…」(13)
_
エルサレムの南東に「塩の海」があるが別名「死海」と呼ばれ、文字通り
生物の住めない湖である。死海沿岸はロトの時代に肥沃で潤った地であった
が、そこは、硫黄の火によるソドムへの裁き以降、神に捨てられた地となる。
_
死海には不純な鉱物が多く混り込んでいる。北イスラエルはアッシリアに
滅ぼされるが、それは神の民が塩気を失い、信仰の純粋さを失った事による。
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No.670 3月21日:「義の為に迫害されている者」 マタイの福音書5章10節〜12節 |
(みことば)「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人た
ちのものだからです。」
マタイの福音書5章10節
_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の最後
は、「義のために迫害されている者は幸いです。」(8)と言う御言葉である。
_
人が悪を行った為に受ける苦しみは、当然の刑罰であるが、義のために受
ける苦しみは、刑罰ではなく迫害である。「迫害されている」は、現在完了
受動分詞形であるので、現在の行為が継続して進行している事を示している。
_即ち、今、迫害の只中にあり、それに耐え忍んでいる人々に向って語られ
ている。また「義のため」とは、人が行う道徳的義ではなく、救いを求める
者に与えられる神の義であり、それは、神の救いや福音のためとも言える。
_
自由と人権が保障された日本社会で信仰の故に迫害を受ける事は少ない。
しかし信教の自由が保障されていな国でキリスト信仰に生きる事はいのちが
けである。自由が保障されている故に、信仰が生ぬるくなる事がないように。
_
それでも、信仰に真剣に生きるなら、家族からその信仰の違いの故に苦言
や反対を受ける事もある。その苦難の故に憤ったり、落ち込んだりする事な
く、寧ろ「迫害されている者は幸いです」と語られた御言葉を思い起こそう。
_
そして、幸いである理由は、「天の御国はその人のものだから」である。
その言葉は、第1の事例と同様であり、即ちキリストの教える幸いとは、「天
の御国」に生きる者の幸いであり、この世の人が考える幸いとは全く異なる。
_
しかし、天の御国は、世の人が思うように観念でも、架空の世界でもない。
キリスト信仰から天の御国の概念を除いたら、単なる道徳宗教に過ぎなくな
る。キリスト者の幸いは、天の御国を目指して生きる希望にかかっている。
_
これまで、キリストの幸いの説教は、韻を踏んだ詩的な形式で語られてき
たが、第8の幸いの説教に加えて、散文的な形式で「義のために迫害されて
いる者」に関して付加されている。その違いは、文章の形式だけではない。
_
キリストは、語る対象を「その人たちは〜です。」と言う一般的表現から
「あなたがた」と言う親しみを込めた呼び方を用いる。「あなたがた」とは、
キリストに従う弟子達であり、それは、キリストのために生きる者である。
_
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し…」(11)キリス
トの名の故に、世の人から不当な扱いを受けることがある。それは、キリス
ト者が悪いのではなく、この世が罪と悪魔に支配された世界だからである。
_
信仰の故に世から憎まれるのは、キリスト者がこの世の者ではなく、キリ
ストに属する御国の子である証しと言える。従って、迫害は、天の御国に入
る証明書である。主は、迫害されている者に「大いに喜びなさい。」と語る。
_
その第1の理由は、「天において…報いは大きい」からである。主のため
に誠実に生きた者には、天での報いがある。同じキリスト者でも報いが違う。
_
第2の理由は、人々は「預言者たちを…同じように迫害した」からである。
預言者は、神の側に立ち神の言葉を語った。やがて大牧者の前で、全ての民
が羊とやぎを分けるように、右と左に分けられる。神の側に立つ者となろう。
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No.669 3月14日:「平和をつくる者」 マタイの福音書5章8節〜9節
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(みことば)「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるか
らです。」
マタイの福音書5章9節
_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の第6は
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)である。
_
「きよい」とは、「混じりけのない」「純粋」の意味があるが、主は、心の
きよさを求めている。心は、知性、感情、意思の中心であり、人格そのもの
である。「心のきよい者」それは、多くの人が願う道徳的な理想と言える。
_しかし、人は、清く純粋な者でありたいと願いながら、それと反対の不純
で汚れた思いが出て来る。人の内側から出るものは「悪い考え、殺人、姦淫、
…盗み…心から出て来る…これらのものが人を汚します。」(マタイ 15:18~20)
_
人は、どのようして心をきよく保てるだろうか。これを単に道徳的な方向
から語っても意味がない。それは、人の努力によらず、ただ神の恵みと御霊
の賜物による。「御子イエスの血がすべての罪から…きよめてくださいます。」
_
人の意志や感情は、神を中心に神に向う時に、初めて純粋と言える。何故
なら、人が創造された目的は、神の栄光を表す為であるからだ。神に向かな
い心は、自己愛、自己義認に過ぎず、見せ掛けの信仰や善行は、偽善である。
_
私達の心に、神の栄光ではなく、自己の誉と満足という偽りの動機がない
だろうか。アナニヤは、偽りの動機の故に神に打たれた。パウロは、「生き
るとすれば、主のために生き、…主のために死にます。」と語った。(ローマ 14:8)
_
幸いの理由は、「その人たちは神を見るから」である。私達は、やがて天
の御国で「顔と顔を合わせて」神を見る事になる。それ迄、私達と神との間
を遮る障害を取り除き、真っ直ぐに神に向かい、天の御国を仰ぎ見て歩もう。
_
第7の幸いの事例は、「平和をつくる者」である。「心のきよさ」は、神へ
の方向性が問われたが、「平和をつくる」は、神との関係性が問われる。人
は、アダムの違反以来、神と平和の関係を失い、神に背き、敵対して来た。
_
従って、神と人の平和をつくったのは、人ではなくキリストご自身である。
「十字架の血によって平和をもたらし、御子によって…万物を和解させ…」
(コロサイ 1:20)私達は、「キリストによって神との平和を持って」いる。(ローマ 5:1)
_
神との平和を持つ者は、試練を恐れず、死に向っても希望を持てる。その
人は、キリストによる罪の赦しと天の御国の約束があり、御霊による平安と
確信がある。従って平和をつくる第1の働きは、福音を宣べ伝える事である。
_
その人は、人間関係でも平和をつくる事ができる。「すべての人と平和を
保ちなさい…復讐してはいけません。」(ローマ 12:18)敵対する者に応戦しなけ
れば、平和を保てる。「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」
_
主は、天の御国に生きる者に、崇高な倫理を教えた。これは、この世の子
らに命じたことではなく、神の子と呼ばれる者に命じられた事である。私達
は、キリストの和解の務めによって神の子とされ、神に愛された者である。
_
その人は、やがて天の御国に招かれ、神の子として御国を相続する。「子
どもであるなら…神の相続人であり、キリストと…共同の相続人なのです。」
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No.668 3月7日:「義に飢え渇く者」 マタイの福音書5章6節〜7節 |
(みことば)「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
マタイの福音書5章6節
_キリストが山上の説教で語られた天の御国においける幸いな事例の第4は
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは、満ち足りるから」(6)である。
_
「義」と言う言葉は、道徳的な「正義」「公平」等の意味でもあるが、そ
れが単に道徳な意味であるなら、正義を愛し、不正を憎むような正しい行い
を心掛ける人と言える。勿論、倫理的に正しい人は、この世の中に大勢いる。
_神は、義なる方であり、それは神の本性の一つである。しかし、神が義な
る方であるなら、誰が神と交わり、御前に立てるだろうか。「義人はいない。
ひとりもいない。」従って、もし義が単なる道徳的意味なら誰も救われない。
_
第1義的に、義とは、「神が人間の為に備えて下さる義」であり、人間の
正しさではなく、神の救いと憐れみの事である。従って「義に飢え渇く」と
は、正義を成そうと努力する人ではなく、神の救いを熱心に求める人である。
_
神の義に対する視点は、ユダヤ教とキリスト教では全く異なる。ユダヤ教
は、これを「人間が神に向かって立てる義」考えた。「彼らは、神の義を知
らず、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ 10:3)
_
「義に飢え渇く」とは、神の救いを熱心に求め、それを得たいと渇望する
人である。キリストの元には、自らを義とする者ではなく、多くの罪人と呼
ばれる人々が集った。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」
_
「その人たちは満ち足りるから」幸いである。満ち足りるのは、霊的な神
の賜物と言える。主は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲
みなさい…生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ 7:37)と言われた。
_
天の御国の幸いな事例の第5は、「あわれみ深い者は幸いです。その人た
ちはあわれみを受けるから」である。「憐れみ深い」は、日本語で情緒的な
意味が強いが、ヘブル的背景は、人の為に愛によって行動する事を意味する。
_
「憐れむ」はマタイで8回使われ、5回は、キリストに救いを求める「あ
われんでください」に表現される。主は、てんかんで苦しむ息子の父親、悪
霊につかれて苦しむ娘の母親、盲人達の叫びを聞き、彼らを憐れみ癒された。
_
我々の救いは、神の憐れみの御業にかかっている。マタイの残り2回の「憐
れむ」は、1万タラントの負債を免除された僕の譬えに出て来る。彼は、王
から多額の負債を赦されていながら、僅かな負債を抱えた仲間を赦さない。
_
王は、彼に対し「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の
仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」と叱責する。我々は、主か
らどれ程大きな憐れみによって罪を赦され、救われたかを忘れてはならない。
_
主は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法の実践とし
て良きサマリヤ人の譬えを話す。祭司とレビ人は、強盗に襲われた人を見て
見ぬ振りをするが、サマリヤ人は、その人を見て憐れみ、献身的に介抱する。
_
主は、「誰が強盗に襲われた人の隣人になったか」と尋ね、律法学者は「あ
われみ深い行いをした人です」と答える。主は「あなたも行って、同じよう
にしなさい」と命じた。義なる神は、憐れみ深い者に、憐れみ深くあられる。
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No.667 2月28日:「柔和な者は幸いです」 マタイの福音書5章4節〜5節 |
(みことば)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和
な者は幸いです。その人たちは、地を受け継ぐからです。」
マタイの福音書5章4、5節
_キリストは、山上の説教の初めの教えとして、天の御国に生きる者の8つ
の幸いな人の特徴を語るが、それは、世の人の考える幸いと異なっている。
_
その第2は、「悲しむ者は幸いです。」であるが、それは、深い嘆き悲しみ
の感情的な表現である。何故その様な人が幸いと言えるのか。…人は人生の
深い悲しみの経験を通して、自分の存在の意味や目的を思索するからである。
_キリスト者の多くは、悲しみの経験を通して、人生の意味や自らの欠けや
弱さを覚え、神を求めて教会に導かれる。そうであるなら、その悲しみは、
人にとって、決して不幸な事ではなく、神の救いに至る幸いな経験と言える。
_
悲しむ者に必要な事は、慰めであるが「…慰められるから」は、受動態で、
それは「父は…太陽を…昇らせ…雨を降らせ」の様に、聖書独特の表現で、
主体的な神の御業を表す。主は深い悲しみの中に居る人を覚え慰めて下さる。
_
また「慰められる」は、未来時制であるので、それは第1に天の御国で成
就する事である。その視点が世の幸福観と天の御国に生きる者の違いである。
「金持ちと貧乏人のラザロ」(ルカ 16:19~31)の話は、その典型と言える。永
遠の時間をを忘れ、世の幸福を追求する人は、それが終わる時に惨めである。
_
しかし天の御国は、神を信じる時に既に始まっている。キリスト者は、「助
け主」(パラクレイトス)が共にいて慰め、導き、励まし、力づけて下さる。御霊の
慰め(パラカレオー)を経験する人は、悲しみと苦難に耐え抜く力を与えられる。
_
第3は、「柔和な者は幸いです。」であるが、「柔和な者」とは、「親切で優
しい」とも訳せるが、ヘブル的には「忍耐深いく、謙った、従順な者」の意
味である。或いは、自分に関する権利を主張せず、弁解しない人とも言える。
_
「柔和な者」とは、そのままキリストの姿でもある。「柔和」(プラウス)と
言う言葉は、4回のうち2回がキリストに適用される。「わたしは柔和でへ
りくだっているから」(マタイ 11:29)「柔和な方で、のばに乗って。」(マタイ 21:5)
_
その言葉は、詩篇37篇と深い関連がある。「柔和な人は、地を受け継ぎ、
豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(37:11)そこに表現された「柔和な人」の
特徴は、「悪を行う者に腹を立てない」「不正を行う者に妬みを起こさない」
(1)人であり、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待つ」(7)人の事である。
_
我々は、自分にされた悪や不正に対して憤り、それを忘れられず、反撃し
たいと考える。しかし、それは、人間的な肉の性質であり、柔和な人の姿で
はない。霊的な指導者の多くは柔和な人であった。モーセは「地上の誰より
も謙遜であった。」とあり、ダビデは、自分の手で悪者に手を下さなかった。
_
柔和な者への約束は、「その人たちは、地を受け継ぐから」である。「受け
継ぐ」とは、「くじで割り当てる」の意味であるが、イスラエルが40年の
旅の末に約束の地を割り当てられた事に由来する。彼らが苦難の中でも旅を
続けられたのは、乳と蜜の流れるカナンの地を相続する約束があったからだ。
_
キリスト者の約束はキリストの再臨に伴う「新しい天と新しい地」である。
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No.666 2月21日:「心の貧しい者は幸いです」マタイの福音書5章1節〜3節 |
(みことば)「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから
です。」
マタイの福音書5章3節
_キリストが山の上で語った「山上の説教」の最初には、8つの幸いな人の
例が記されているが、主の教える幸福は、この世の幸福の概念と随分違う。
_
その違いは、まず、この世に生きる者と天の御国に生きる者との違いにあ
る。8つ幸いな人の最初と最後に、「天の御国はその人のものだから」とあ
るが、「その人のもの」とは、「所属する」「入る資格がある」の意味である。
_主の教える幸いとは、天の御国に生き、そこに入る資格を持つ者だけが経
験できる幸いであり特徴である。それは、「御国の福音」を聞き、それを信
じた事によって始まる。その幸いの第1の条件は、「心の貧しい者」である。
_
原文は「幸いなるかな。心の貧しい者は。」という詩の形式で8回繰り返
され、幸いの理由を「その人は〜だからです」と説明する。しかし、最初と
最後だけ形式と時制が異なり、現在形であるが、他は未来形で書かれている。
_
即ち、天の御国の幸いは、彼岸信仰的な遠い将来の約束ではなく、神を信
じた時から始まる信仰経験である。同時に、他の6つの幸いは、未来時制な
ので、それは、キリストによる救いが完成した時に実現する幸いと言える。
_
そこで、第1の幸いは、「心の貧しい者」であるが、それは、天の御国に
入る者の特徴であり資格である。それは、世の人が考える幸いの規準と随分
異なる。世の人は、「心の豊かさ」を求め、「物質的な豊かさ」を願い求める。
_
「心の」(プニューマ)は「霊」とも訳せるが、人間の精神面を指す。「貧しい」
は、「他の援助に頼らなければならない貧困な状態」を指す。つまり、「心の
貧しい」とは、謙遜と言う様な人の性質ではなく、何もない空の状態を指す。
_
それは、人間的に何一つ誇れる物を持たず、自信と思える物を何も持たな
い人の事である。世の人の規準からは、全く幸いと思えないが、その人は、
自分自身に頼るべき物が何もないので、返って、神に救いと助けを求める。
_
詩篇 34:18 に「心の打ち砕かれた者」或いは「たましいの砕かれた者」と
の表現があるが、その様な魂の状態に近い人のことである。その人は、完全
に神に打ち砕かれた人であり、自らを神の救いに値しないと認めた人である。
_
旧約には、主は「貧しい者を顧みて下さる。」と何度も記されているが、
それは単に物質的に貧しい者だけではない。「わたしが目を留める者、それ
は、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ 66:2)
_
その様に、「心の貧しい」とは、心の飢え渇いた霊的な状態を表している。
しかし、同時に、それは、物質的な面でも同様の事が言える。主は「金持ち
が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい。」と語った。
_
世の人から見ると、寧ろ、不幸で惨めと思える人が、天の御国の幸いに預
かり、神の計り知れない恵みを受ける人となる。キリストが弟子として選ん
だのは、この世の知者ではなく、無学な漁師であった。キリストに救いを求
めて来たのは、健康な人ではなく「様々な病や痛みに苦しむ」人々であった。
_
天の御国は、飢え乾いた者の為にあり、主の恵みは、貧しい者に注がれる。
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No.665 2月14日:「キリストの宣教の働き」 マタイの福音書4章23節〜25節 |
(みことば)「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ
伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」
マタイの福音書4章23節
_キリストの宣教活動は、総括的に述べて、第 1 に「会堂で教え」、第2に
「御国の福音を宣べ伝え」、第3に「病を癒された」と要約する事ができる。
_
第1に、教える事は、教会の働きにおいて重要な要素である。キリストは、
福音書の前半において人々を教えられたと何度も記されている。主は、地上
を離れる最後に「すべてのことを守るように教えなさい。」(28:20)と命じた。
_主の教えは、ユダヤの律法学者のように、人から学んだものではなく、神
の御子としての啓示による神ご自身の教えである。人々は、キリストについ
て「こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろうか。」(13:54)と驚く。
_
キリストは、その教えをおもに会堂で語られた。会堂は、ユダヤ人の安息
日の礼拝の場所であり、御言葉を学ぶ場所であり、コミュニティーの中心で
あった。そのユダヤ人の伝統と習慣は、今日の教会に引き継がれている。
_
主は、ユダヤ人の伝統と習慣に根差し、御言葉から神の権威をもって新し
い教えを語る。教会は、神の国の共同体として、礼拝において御言葉を学び、
神から受けた信仰と救いを確かにし、次の世代に信仰を伝える使命がある。
_
第2に、御国の福音を宣べ伝える事は、教会の最も重要な働きである。「宣
べ伝える」とは、「宣言する」「端的に伝える」の意味であり、それは、「教
える」と異なり、まだ、キリストを信じていない者への宣教の働きと言える。
_
礼拝の説教は、宣教と教育の両面を含んでいる。しかし、時間的な順序で
言うなら宣べ伝える事が先である。「宣べ伝える人がいなければ、どのよう
に聞くのでしょうか。」(ローマ 10:14)教会は、宣教の使命を果たすべきである。
_
宣べ伝える内容は、御国の福音であるが、御国とは、マタイが何度も記す
「天の御国」の事であり、目に見ないが霊的に実在し、信じた者に約束され
た場所である。福音は「良い知らせ」の意味であり、神の救いを端的に表す。
_
キリストの教えが福音と呼べるのは、この世の道徳的な教えと異なり、罪
人がキリストの贖いの故に、信仰によって罪を赦され、義とされるからであ
る。「福音は、…信じるすべての人に、救いをもたらす神の力です。」(ローマ 1:16)
_
第3にキリストは、「民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒された。」
次節に、具体的な病の種類が記されているが、肉体的な障碍、先天的な病気、
精神的、霊的な原因による疾患など、多くの人が病と痛みに苦しんでいた。
_
「癒された」は、今日のセラピーの語源であるが、(ペットセラピー・アロマセラピー)
等、様々な癒しの形態があるが、どれも表面的である。「病」と「わずらい」
の違いは前者が肉体的な病気で、後者が精神的な要因に伴う不安定さを表す。
_
病やわずらいの要因は、今日の社会の歪みから来るストレス、自身の気質
や生い立ちなど様々あるが、キリストは、「私たちの病を負い、わたしたち
の痛みを担った。」(イザヤ 53:4)とある様に、私達の全ての重荷を負われた。
_
医療がどんなに進歩しても、全能な医者はおらず、万能な薬もない。人は、
病と死に無力であるが、主は病を癒やし、死に打ち勝つ力を持っておられる。
|
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No.664 2月7日:「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節〜22節 |
(みことば)「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間を
とる漁師にしてあげよう。彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」
マタイの福音書4章19,20節
_キリストは、ガリラヤで宣教を開始されるが、後に12弟子の中心的な人
物となる4人を「ガリラヤの湖のほとりを歩いておられたとき」(18)に招く。
_
救いの御業が、何時の時代にも途絶える事無く継続する為に弟子を造る意
義は大きい。キリストに従う者は、キリストの弟子であるが、主は「あなた
がたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(28:19)と命じられた。
_キリストは、ガリラヤの漁師であったペテロとアンデレ、それにヤコブと
ヨハネを最初の弟子として選ばれた。彼らは、権力も財力も知名度も学問も
無い漁師であった。後にエルサレムの人々は、「ペテロとヨハネの大胆さを
見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。」(使徒 4:13)と語る。
_
キリストは、人を誇らせない為に、敢えて弱く小さな者を選ばれた。「し
かし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強
い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(Tコリント 1:27)
_
キリストは、彼らが「湖で網を打っている」「舟の中で網を繕っている」
最中に招かれた。彼らは、キリストの招きがなければ、一生涯漁師として生
きた事だろう。しかし彼らの人生は、キリストに出逢う事で大きく転換する。
_
彼らがキリストを選んだのではなく、キリストが彼らを弟子として選ばれ
た。主の召しは「わたしについて来なさい。」(19)と簡潔であるが、それは、
人生の全てをキリストに賭ける事であり、ただ、主を信頼する事を意味する。
_
彼らの将来の保証や安全は、彼らを召されたキリストが約束される。我々
は、一体、何を将来の安心と安全の担保とするべきだろうか。確かに、生命
保険は、病気や死亡の時にお金の保証をするが、いのちや魂の保証はしない。
_
キリストは、彼らを「人間をとる漁師にしてあげよう。」と招く。ユニー
クな表現であるが、それは魚を捕る漁師に掛けた言葉である。彼らはこれ以
降、失われた魂を神の救いに導く、キリストの宣教者となる為に訓練される。
_
「網を打つ」とは、3メートル四方の網を舟から湖に投げる事であるが、
そこに魚がいれば舟に引き上げることができる。神は、闇の中をさ迷ってい
た我々を救いの網の中に捕らえ、滅びからいのちへと引き上げて下さった。
_
キリストの招きに対し、「彼らはすぐに網を捨てて従った。」(20)それは、
ヤコブやヨハネも同様であった。主に従う者は、躊躇わずに「すぐに」従っ
て行く潔さが求められる。人間的に思い煩い、躊躇っても何の解決もない。
_
「網を捨てる」とは、生活手段の一切を放棄し神に信頼する事を意味する。
ペテロにも家族がおり、ヤコブとヨハネには、舟があり父が居たが、彼らは、
それを「残してイエスに従った。」(22)しかし、残された家族は、彼らが案
ずる前に主が心配して下さる。主は後にペテロの姑の熱病を癒された。(8:14)
_
主は、弟子として従う者に、家族も含めて祝福して下さる。捨てる事は、
失うことはない。「だれでも、神の国のために…捨てた者は、必ずこの世で、
その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」(ルカ 18:29,30)
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No.663 1月31日:「闇の中に輝く光」 マタイの福音書4章12節〜17節 |
(みことば)「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んで
いた者たちの上に光が昇る。」
マタイの福音書4章16節
_キリストは、悪魔の試みに討ち勝たれた後で、救い主の活動を始められる
が、「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)
_
ユダヤの指導者達は、エルサレムの権威と別にバプテスマを授けるヨハネ
の活動を快く思わず、特にローマ帝国を刺激する事を恐れヨハネを投獄する。
また、ヨハネは領主ヘロデの不貞を責めたので、やがて獄中で首を切られる。
_主は、ユダヤを避けガリラヤで宣教を開始するが、それはユダヤ人の罪と
不信仰による。「ナザレを離れ…カペナウムに来て住まわれた。」(13)郷里ナ
ザレの人々もイエス受け入れられず、崖から突き落とそうとした。(ルカ 4:29)
_
それは、「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されない。」の諺の通りで
ある。そこで、主は「湖のほとりの町カペナウム」を中心に宣教を開始する。
カペナウムは、やがて弟子となるペテロやヤコブやヨハネの出身地である。
_
キリストのガリラヤ宣教は、イザヤの預言の成就であった。「ゼブルンと
ナフタリの地、…異邦人のガリラヤ。…闇の中に住んでいた民は大きな光を
見る。」(15)この地はゼブルンとナフタリの分割地でイスラエル領であった。
_
しかし、ユダヤから離れた辺境地であった為、アッシリアなど度重なる侵
略を受けて異邦人の混在した地となる。政治的には、ローマの支配下にあり、
文化的にはギリシャの影響を色濃く受け、ユダヤの人々からも低く見られた。
_
しかし、主は、苦難と絶望に喘ぐガリラヤの地から宣教を開始する。「死
の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(16)光は、闇の中でこそ光
り輝く。主の栄光は、救いの望みから遠く離れた人々に最初に照らされる。
_
主は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれた地を宣教地に選ばれるが、それは、
福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも伝えられる為もある。やがて多くの異
邦人が主の下に来る。主は、「闇の中…死の陰の地」に住む人々の光となる。
_
「この時からイエスは宣教を開始」する。(17)「この時」とは、主の宣教
の開始を告げる時である。キリスト者は、誰でもこの時から人生が変わった
と言える転換期を持つ。それは、キリストを知った新生と回心の時である。
_
主のメッセージは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」である。
それは、ヨハネのメッセージと全く同じであるが、ヨハネは、悔い改めに基
づく罪の赦しの約束を告げたが、主は、人々に罪の赦しと救いを宣言される。
_
天の御国に入る条件は、罪を悔い改める事である。悔い改めとは、生き方
や考え方の方向を転換する事である。ユダヤ人異邦人の区別なく全ての人が
悔い改める必要がある。何故なら「義人はいない。一人もいない。」からだ。
_
マタイは、キリストの御国が、地上的な国家でない事を「天の御国」で表
現した。天の御国は、目には見えないが観念的世界ではない。キリスト者は、
信仰によって、神が生きておられ、天の御国が実在する事を確信している。
_
キリスト者は、罪の闇の中に輝く大きな光をキリストの内に見た。「死の
陰の地に」住む人々は、死からよみがえったキリストの内に希望の光を見た。
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No.662 1月24日:「悪魔の試みと勝利」 マタイの福音書4章1節〜11節 |
(みことば)「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神
の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
マタイの福音書4章4節
_キリストは、ヨハネからバプテスマを受け、救い主の公生涯を始められる
が、その初めに、悪魔から試みを受ける為に御霊に導かれて荒野に上られた。
_
アダムは悪魔の試みを受け、それに従った事で堕落し、世界に悪が入った。
従って、キリストは、救い主として悪魔の試みを受け、それに打ち勝つ必要
がある。悪魔の3度の試みには、人類が受ける誘惑の全ての要素が含まれる。
_主は、「四十日…断食をし…空腹を覚え」た後、肉体の極限状態で試み受
ける。イスラエルは、荒野での試みの日に神に逆らったが、主は、アダムや
イスラエルと違い、神に敵対する霊的実在者サタンの試みに完全に勝利する。
_
その第1の試みは、「あなたが神の子なら…石がパンになるように命じな
さい」(3)である。「神の子なら」とは、神の子を前提とした誘惑であり、「神
の子」としての力を行使し、石をパンに変え、飢えを凌いだら良いと試みる。
_
しかし、主は、「人はパンだけで生きるのではなく…」(4)と答えるが、「と
書いてある」とは(申命記 8:3)の御言葉である。主は、荒野の旅を通してイス
ラエルを訓練し、日毎の糧マナによって、神の言葉に信頼する事を学ばせた。
_
キリスト教と世の宗教の違いがここにある。世の宗教はパンを与える事を
約束し、人はご利益を求めて参拝する。しかし、世のパンは、魂を満たす事
も永遠を約束する事も出来ない。神の言葉には、永遠のいのちの約束がある。
_
第2に悪魔は、イエスを「神殿の屋根の端に立たせ…下に身を投げなさい。
『神は…打ち当たらないようにする』と書いてある」と試みる。悪魔は狡猾
にも詩篇の御言葉を使い(91:11~12)、神殿から身を投げても大丈夫だと言う。
_
悪魔の御言葉の引用には、「あなたのすべての道であなたを守られるから
だ。」が抜けている。悪魔の様に、神の言葉を自分の都合の良い部分だけ抜
き出し、自分勝手に解釈し、自らの考えを正当化する為に用いてはならない。
_
主は、御言葉を使い「あなたの神である主を試みてはならない。」(7)と反
論する。「試みる」とは、上の者が下の者に対してのみ資格を持つが、悪魔
は、主を試みる。蛇は、エバに「食べるその時…神のようになる」と試みた。
_
最後に悪魔は「イエスを…高い山に連れて行き…この世の栄華を見せ…私
を拝むなら…すべてあなたにあげよう」と試みる。この世界は、神のもので
あるが、人類が悪魔に従った事により、悪魔の支配する罪に満ちた世となる。
_
悪魔は、イエスに「十字架の苦しみを避け、私と手を組めば、もっと簡単
に世界が手に入る」と妥協案を示す。主は、悪魔の試みを断り、「下がれ、
サタン。『あなたの神…主にのみ仕えなさい』と書いてある」(10)と答える。
_
キリスト者が、信仰に生きようとすれば、自ずと迫害や戦いが生じる。妥
協すれば、世と平和を保てるが、キリスト者の良心は痛まないだろうか。「わ
たしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
_
神は、主を第1にする者を全ての道で守られる。アブラハムがひとり子イ
サクを神に献げたように、主の言葉を信じて歩み、悪魔の試みに勝利しよう。
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No.661 1月17日:「キリストのバプテスマ」 マタイの福音書3章13節〜17節 |
(みことば)「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに
来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。」
マタイの福音書3章13節
_マタイは、キリストの誕生に関する記事以降、ナザレでのキリストの生涯
について沈黙し、バプテスマのヨハネの記事からキリストの公生涯を記す。
_
キリストは「ヨハネのもとに来られた。」とあるが、「やって来る」(パラギ
ノマイ)は、特別な使命を持って来る事を意味する。救い主を「来るべき方」
と表現する様に、キリストは、救い主としての使命を果たす為に来られた。
_ただ、キリストは、狭い意味で、ヨハネから「バプテスマを受けるために」
来た。それは、パリサイ人らが「バプテスマを受けに来る」(7)のと異なる。
彼らはヨハネの様子を見る為に来たが、主は、バプテスマを受ける為に来た。
_
ヨハネは、キリストを見て、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必
要があるのに…」(14)と告白する。即ち、ヨハネは、キリストが誰であるか
を一瞬にして悟った。彼は、救い主キリストへの最初の信仰告白者であった。
_
ヨハネは、水のバプテスマを授けていたが、キリストは、聖霊と火のバプ
テスマを授ける方で、罪の赦しと裁きの権威を持っておられる。多くの宗教
がある中で、キリストに対して、ヨハネのように告白する人は幸いである。
_
ヨハネは、キリストにバプテスマを授ける事を固持するが、主は「今はそ
うさせてほしい」(15)と答える。今とは、公生涯に入る今を指す。王が油を
注がれて職務に就く様に、主はバプテスマを受けて救い主の職務に即位する。
_
主は、「正しいことを実現することが、わたしたちにはふさわしい」(15)
と答える。「正しい」とは、「義」と訳されるが、それは神の契約に忠実な事
である。バプテスマを受ける事は、キリスト者にとって正しい義の道である。
_
キリストがバプテスマを受ける行為は、単に神に従順なだけでなく、救い
主の職務への就任の意味がある。また「実現する」とは、「完成する」の意
味があるが、キリストは罪の赦しを十字架の上で完了し、職務を全うされた。
_
「わたしたちにふさわしい」とは、天の御国に生きる共同体としての私達
の事であり、主は、その模範を示された。天の御国と神の計画に対して、パ
リサイ人のような傍観者や批評家ではなく、主の御跡に従い倣う者となろう。
_
キリストがバプテスマを受けた後で、2つの出来事が起こる。第1は、「天
が開け、神の御霊が鳩のように」(16)降った事である。「天が開け」とは、「天
の御国が近づいた」と語るヨハネのメッセージの実現であり、始まりである。
_
それは、御霊が鳩の様に降ることによって始まる。それは、キリストにだ
け起った特別な啓示であるが、御霊は、やがて神を信じる群れに注がれる。
鳩は素直さと平和の象徴であるが、主に素直に従う者は、神との平和を持つ。
_
第2に、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と語る
声がある。それは父なる神による天からの声であり、キリストへの認証の証
言である。父と御霊による確かな証言を持つ方こそ来たるべき救い主である。
_
御霊が鳩のように降る可視的な顕現も、天からの声を聞く特別な恵みも、
受け留める人に素直さと従順さがなければ、その人への祝福とはならない。
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No.660 1月10日:「神の子孫とまむしの子孫」 マタイの福音書3章7節〜12節
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(みことば)「ヨハネは、…彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫
り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。』」
マタイの福音書3章7節
_ヨハネは、荒野で悔い改めのバプテスマを説いていたが、人々がユダヤ全
土からやって来て罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
_
「ヨハネは、大勢のパリサイ人とサドカイ人が、バプテスマを受けに来る
のを見ると」彼らに「まむしの子孫たち…」(7)と辛辣に叫ぶ。彼らは、確
かにヨハネのもとに来るが、罪を悔改めてバプテスマを受けたとは思えない。
_彼らは、荒野で独自に宗教活動を行い、エルサレムの権威を離れて民衆に
バプテスマを授けるヨハネを偵察する為に来た。サドカイ人は、祭司階級を
中心に政治と深く繋がり、パリサイ人は、律法学者を中心に律法を教授した。
_
それでも、指導者を「まむしの子孫」と呼ぶのは、辛辣過ぎると思えるが、
キリストも、彼らに「まむしの子孫よ…ゲヘナの刑罰をどうして逃れること
ができるだろうか。」(マタイ 23:33)と語った。蛇は、聖書で悪魔を指している。
_
人類が悪魔の誘惑を受けて堕落して以来、悪魔に従う子孫は、神に敵対し
続ける。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の
間に置く」(創世記 3:15)その系譜は、この世の子らと御国の子らに続いている。
_
ヨハネは、彼らに「だれが、迫り来る怒りを逃れるように教えたのか。」(7)
と語る。神に敵対する「まむしの子孫」は、やがて神の審判の時に裁きを受
けて滅びる。「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記 3:15)
_
彼らが、悔い改めることが出来ないのは、「われわれの父はアブラハムだ」
と心の中で思う誇りに原因がある。人は、この誇りを捨てなければ、謙って
神の言葉に従う事ができない。バプテスマは、神への従順と謙遜の証である。
_
アラムの将軍ナアマンは、預言者の言葉に従いヨルダン川に7度身を沈め、
ツァラアートを癒される。謙遜に神の言葉に従う者は、神の祝福を受けるが、
そうでなければ、パリサイ人やサドカイ人と同様に「まむしの子孫」である。
_
ヨハネは、彼らに「悔い改めにふさいわしい実を結びなさい。」(8)と命じ
た。悔い改めは、生き方の方向転換であるが、人生の方向を転換した人は、
それにふさわしい実を結ぶ。木の良し悪しは、実によって知る事が出来る。
_
従って、「良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれ」(10)
る。それは、神の審判の時に明らかになる。「人間には、一度死ぬことと死
後にさばきを受けることが定まっている」それを逃れる事は誰も出来ない。
_
最後に、ヨハネは、自分とキリストとの違いを「私には、その方の履物を
脱がせ…る資格も」ないと語る。それは、神の御子と罪を持った人間の違い
であり、釈迦もマホメットも孔子もどんな人間もキリストの前に同様である。
_
ヨハネは、水のバプテスマを授けていたが、キリストは、「聖霊と火で…
バプテスマを授けられ」(11)る。水のバプテスマは、罪の赦しを証するが、
キリストは、罪の赦しの権威を持ち、人を聖霊によって新生させる力を持つ。
_
収穫の時、脱穀場で麦と殻が分けられる。「麦を集め倉に納め、殻を消え
ない火で焼き尽く」すように、終わりの日に、永遠のいのちを持つ者と地獄
の火で焼かれる者とに分かれる。一度死んだ者は、二度と後戻りが出来ない。
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No.659 1月3日: 「天の御国は近づいた」 マタイの福音書3章1節〜6節 |
(みことば)「そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣
べ伝えて、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言った。」
マタイの福音書3章1,2節
_マタイは、キリストの誕生を記した後、キリストの公生涯に移るが、主の
来臨の前に、バプテスマのヨハネが現れ、荒野で教えを宣べ伝えた事を記す。
_
イザヤは、ヨハネについて、「荒野で叫ぶ者の声がする。」と預言した。そ
れは、荒野において姿は見えないが、声だけ響き渡るイメージである。その
様にヨハネは、神の言葉を語り、自らは、消えて行く預言者の使命を果たす。
_彼の使命は、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」と叫
ぶ事である。それは、福音書の主役であるキリストにスポットを当てる役目
であり、人々の心を整え、キリストを心に迎え入れる準備をする事である。
_
ヨハネの語るメッセージは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」
と要約できる。それは「主の通られる道をまっすぐにする」為に必要不可欠
であり、第1に罪を悔改める事が、主を迎える為に不可分な要素であった。
_
「悔い改める」とは、一般的な「悔いる」「後悔する」と本質的に異なる。
これは、キリスト教独特の用語であるが、「悔い改める」(メタノエオー)は、考え
や心の転換を意味する。罪(ハマルティア)も「的外れ」な方向の違いを意味する。
_
従って、主を裏切ったユダの様に自分の罪を幾ら後悔しても、心が主に向
かなければ、真の回心と言えず、救いには至らない。「神のみこころに添っ
た悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせ」(Uコリント 7:10)る。
_
第2のヨハネのメッセージは、「天の御国が近づいたから」である。「天の
御国」は、新約で33回使われ、全てマタイの福音書で使われ、他の福音書
は「神の国」と表現されている。マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書い
たので、ユダヤ人が理解する地上的な「神の王国」と区別する必要があった。
_
天の御国は、罪を悔改め、キリストを信じる者だけが入る事ができる。ヨ
ハネは、バプテスマを受けようとして来たパリサイ人やサドカイ人に向かっ
て「まむしの子孫たち」(7)と呼んだ。アブラハムの子孫で、割礼を受けて
いても、天の御国に入る保証にならない。神は魂の砕かれた人を受け入れる。
_
ヨハネは、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物は
いなごと野蜜であった。」(4)その風貌は、預言者エリヤの再来であった。人
々は、長く預言者のいない時代を過ごしたが、ヨハネに神の人の姿を見た。
_
ユダヤに霊的な覚醒運動が起こる。「ユダヤ全土、…人々がヨハネのもと
にやって来て、罪を告白し…バプテスマを受けていた。」(6)人々がヨハネ
に魅せられたものは、煌びやかの服を纏った、この世の華やかさではない。
_
それは、世俗の権力やこの世の繁栄を離れ、ただ、神の言葉を語り、そこ
に生きる人の真実さである。教会の魅力は、そこになければならない。神の
言葉を語る人には、罪の赦しの権威が与えられ、魂を変えて行く力がある。
_
罪を悔い改めた者は、証としてヨハネからバプテスマを受けた。それは、
バプテスマの起源とも言える。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、天
の御国に入る保証は、ただ、罪を悔改めて、バプテスマを受けることである。
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21年1月1日:新年礼拝 「城壁は崩れ落ちる」 ヨシュア記6章1節〜21節 |
(みことば)「 民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛
の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。」
ヨシュア記6章20節
_イスラエルは、神の約束の通りヨルダン川を渡って乳と蜜の流れるカナン
に入ったが、そこに立ちはだかるのは、堅固な城壁を備えたエリコであった。
_
彼らは、この町を攻略しない限り、約束の地を手に入れたと言えない。難
攻不落のエリコをどの様に攻め落とすのかが課題である。エリコは、異教の
宗教や習慣を持つ人々であり、彼らとの共存はあり得ない。彼らの存在は、
イスラエルを堕落に招く事になる。「この世と調子を合わせてはいけません。」
_主は、この町を聖絶せよと命じる。「民は…町のものをすべて…剣の刃で
聖絶した。」(21)それは、一見無慈悲とも思えるが、彼らに救いの機会がな
かった訳ではない。遊女ラハブは斥候を匿った事により滅びの町から救い出
される。彼らは「城門を堅く閉ざし」悔改める事も神と和解する事もしない。
_
しかし、イスラエルは、この戦いの前に既に神から勝利を約束されている。
「わたしはエリコ…をあなたの手に渡した。」(2)私達の歩みは、決して不確
かなものではなく、どんな敵にも屈する事なく、勝利を確信して前進できる。
_
しかし主の命じたエリコ攻略法は、かなり奇抜なものであった。その隊列
は、契約の箱を中心に角笛を持った祭司がその前を進み、武装した者がその
前後を進む。祭司は、角笛を吹きながら一日一回黙って周り、それを6日繰
り返し7日目に7回周る。最後に、一斉にときの声をあげると城壁が崩れる。
_
エリコ攻略の命令は、人間の理性への挑戦である。その攻略方法は、多く
の人に不合理で納得できないと思えるが、たとえ、それが不合理に思えても、
主の言葉は、絶対で力がある。御言葉に従う者の勝利の秘訣がここにある。
_
彼らの成すべき第1の事は、ただ黙って神の言葉に従う事であった。「声
をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはな
らない。」(10)そこに人間の介入は赦されず、ただ神への信頼が求められる。
_
第2に戦いの結果は、直ぐに現れる訳ではない。彼らは一日一回町を回り、
同じ事を6日繰り返すが、町と城壁に何の変化もない。しかし、この戦いは、
そこで不満や批判が出て来ると成功しない。主に信頼し祈り続ける事である。
_
第3にこの戦いは、個人の戦いではなく、神の民の戦いである。その隊列
の中心には契約の箱があり、それは神の臨在の象徴であった。神は、教会の
群れを通して、神の栄光を現わされる。教会を離れて神の祝福も守りもない。
_
第4に、彼らは、7日目に7回町を回り、ときの声をあげ、そこに神の栄
光が現わされる。神の民は、一週間のうち主の日を聖別し、神への礼拝と賛
美の為に献げるべきである。主は、主を愛する者の上に栄光を現わされる。
_
第5に、祭司が吹き鳴らす角笛は、彼らの行動の規範であり合図であった。
同様に、神の言葉は、信仰と生活の規範である。その務めは、祭司が果たす
が、教会では、牧師が主の日の御言葉を語る。御言葉に心を開いて聞こう。
_
最後に、祭司が7周目に角笛を長く吹き鳴らす時、民は、一斉にときの声
をあげる。神が民が心を一つにして祈るなら、そこに主の栄光が現わされる。
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No.658 20年12月27日:「主の救いを見よ」 出エジプト記13章17節〜14章31節 |
(みことば)「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのため
に行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジ
プト人をもはや永久に見ることはない。」出エジプト14章13節
イスラエルは、エジプトでの奴隷から解放され、自由を与えられて約束の
地に向けて旅を始めるが、その旅の初めに、神の驚くべき救いの御業を見る。
_
イスラエルの60万の民は、乳と蜜の流れるカナンに向けて40年の旅を
続けるが、神が共にいなければ、到底その旅が実現する事はない。また、彼
らがどの道を行くべきか、それを決めるのは、彼ら自身ではなく神である。
_神は、彼らを最短のペリシテ人の地への道ではなく、「葦の海に向かう荒
野」(18)の道を行かせる。それは、「民が戦いを見て心変わりし」ないよう
にとの配慮であった。神は、彼らの信仰の弱さを知って最善の道を選ばれる。
_
「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照
らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。」(21)彼らは雲の柱に導
かれて旅を続けるが、主の導きに従う者は、神の約束の地に確実に辿り着く。
_
しかし、神の成さる事は、人の思いを遥かに超えている。神が彼らを葦の
海に面する地を行かせたのは、エジプト軍を滅ぼし、イスラエルを敵から救
い出し、神の御力を示す為であったが、神の意図を知る者は誰もいなかった。
_
ファラオは、イスラエルの不可思議な行動を見て、「彼らはあの地で迷っ
ている」と勘違いし、再びイスラエルを追跡する。そこにも神の主権的な意
志が働く。「わたしはファラオの心を頑なにするので…彼らの後を追う。」(4)
_
ファラオは、神の言葉より奴隷を失う事の実益を優先した。彼はその為に
イスラエルを追跡するが、その彼の行動が滅びを招く事になる。この世の多
くの人は、神の言葉よりこの世の物を追い求めるが、それは滅びの道である。
_
一方、神の民は、目の前に葦の海が広がり、背後からエジプト軍が迫る絶
体絶命の危機を迎える。この時、彼らは、指導者モーセに不満をぶちまける。
「エジプトには墓がないからといって…エジプトに仕える方がよかった」(11)
_
「エジプトに墓がない」とは皮肉である。彼らは、奴隷時代に巨大なピラ
ミッドという墓を幾つも造らされた。しかし、人は、立派な墓を造っても、
死からよみがえる訳ではない。彼らは、その空しい絶望から贖い出されたは
ずである。彼らは、信仰において幼く、未だに奴隷意識が抜け切れていない。
_
しかし、モーセは、「恐れてはならない。しっかり立って…主の救いを見
なさい。」(13)と励ます。神の民は、どんな時でも神を信じて前に進むべき
である。神は、全能の御手をもって海を分け、道を造り、敵に対して、雲の
柱が、彼らの後ろに立って盾となり、彼らに近づかないように守って下さる。
_
「モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻
し、海を乾いた地とされた。水は分れた。」(21)イスラエルは、神の言葉を
信じて歩む時に「水は彼らのために右も左も壁とな」る奇跡を経験をする。
_
エジプトは、神の民と同じ道を行くが、そこは彼らの滅びの道である。「主
はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。」(27)こうして「あなたがたは、
今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」(13)が実現する。
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No.657 20年12月20日:「東方の博士の礼拝」マタイの福音書2章1節〜12節 |
(みことば)
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私た
ちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
マタイの福音書2章2節
マタイの福音書はユダヤ人に向けて書かれているが、特に「ユダヤ人の王
としてお生まれになった方」とある様に、キリストが王である事を強調する。
_
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2)それは、ユダヤ人にとっ
てメシアとしての条件であった。「わたしは、彼の王国の王座をとこしえに
堅く立てる。」(Uサムエル 7:13)異国の博士がユダヤ人の王の誕生を証言する。
_キリストは、「ナザレ人と呼ばれる」(23)が、救い主は、ベツレヘムから
出ると預言されていたので、多くのユダヤ人が彼に躓いた。しかし、マタイ
は、イエスが、預言の通りダビデの町ベツレヘムで誕生した事を証言する。
_
キリストの十字架の罪状書きは、「これはユダヤ人の王イエスである」(マタ
イ 27:37)と記された。キリストは、地上の王ではなく、全人類の罪を贖う天
の御国の王である。その為、イエスは、王宮ではなく家畜小屋を宿とされた。
_
東方の博士達は、「その方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ま
した。」(3)と証言する。彼らはバビロンかペルシャの天文学者かも知れない。
神は、天に現れた星の啓示を通して、彼らをキリストのもとに導かれた。
_
彼らは、星による啓示を「ユダヤ人の王の誕生」と結びつけた。それは、
バビロンの捕囚(Bc586)によりメイア預言をユダヤ人から聞いた事による。
神は、遠く離れた異邦人にも、自然と歴史を介してキリストを啓示された。
_
博士らは、ユダヤが喜びで満たされていると期待してエルサレムを訪ねる
が、以外に、キリストの誕生を知る者が誰もいなかった。寧ろ、ヘロデは、
新しい王の誕生の知らせを聞いて恐れ、エルサレムの人々も不安に慄いた。
_
猜疑心の強いヘロデは、ひそかに幼子の殺害を目論み、「星が現れた時間」
(7)を聞き出し、幼子を詳細に調べさせる。「私も行って拝む」(8)とは偽り
であり、幼子のうちに殺しておけば全てが安泰と考える。その彼の猜疑心が、
ベツレヘムの2歳以下の子を巻き添えにし、自分の2人の息子さえ殺害する。
_
一方、博士らは、「かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み
…」(9)キリストのもとに導かれる。それは、荒野でイスラエルを導いた雲
の柱と火の柱のようである。神は、主を求める者を確かな救いへと導かれる。
_
彼らは、長い旅の後で「母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝
した。」(11)人生の長い旅の中でキリストを求め、キリストを見出した人は
幸いである。その人は、この世の宝に勝る天の御国の宝を見出した人である。
_
彼らは、「宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11)
その宝は、ヘロデの手を逃れ、エジプトに行く為の費用として役立った。彼
らの贈り物が主の働きの為に用いられる。主の為に人生を献げる者となろう。
_
彼らは、「夢でヘロデのところに戻らないようにと警告されたので、別の
道から…帰って行った。」(12)その道は多くの人が行かない道かも知れない。
私達は、世の人が行く滅びの道ではなく、天の御国に続く救いの道を歩もう。
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No.656 20年12月13日: 「インマヌエルと呼ばれる」 マタイの福音書1章18節〜25節 |
(みことば)「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
マタイの福音書1章21節
マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書き記すが、彼は、ユダヤ人が待望
した救い主が、イエスであることを系図から証明し、その誕生の次第を記す。
_
まず、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1)とあ
る様に、キリストは、ダビデ王の家系に誕生した。主は、ダビデに「あなた
の身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(U
サム 7:12)と約束した。従って、ユダヤ人はメシヤを「ダビデの子」と呼んだ。
_しかし、それは「マリヤの夫ヨセフ」(16)の系図であり、「キリストと呼
ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった」とある。女性が系図に
記載されるのは異例の事であり(タマル,ラハブ,ルツ,ウリヤの妻)マリヤも同様であった。
_
「母マリヤはヨセフと婚約していたが…聖霊によって身ごもっていること
が分かった。」(18)キリストの誕生の特異性がここにある。即ち、処女降誕
であるが、ユダヤ人達は、これを聞いて驚いた事だろう。キリストの一方の
起源は、アブラハム・ダビデであり、もう一方は、聖霊、即ち神自身である。
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キリストの処女降誕は、復活と同様に他の宗教にない特異さがある。それ
は、キリストの救いがどの様なものかを示している。即ち、キリストは、人
としてこの世に来られたが、同時に、罪のない完全な人格を持つ神であった。
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ユダヤ人は、メシヤにダビデ王国の再建を期待したが、キリストは、社会
改革の為でなく、罪を贖う為に来られた。「この方がご自分の民をその罪か
らお救いになる」(21)その資格を持つ方は、神であり人でなければならない。
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一方、その事実を知った「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者に
したくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)結婚の神聖さを
重んじるユダヤ社会において不貞は許されない。ヨセフは、彼女を公に訴え
る事もできたが、彼女に対する憐れみの故に、そうする事を望まなかった。
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「正しい人」とは、厳格に正義だけを突き付ける人ではなく、憐れみを持
って相手を生かす人である。同様に、神の正しさも、罪人を赦し、信じる者
を義とする憐れみに満ちた義である。福音には、神の義が啓示されている。
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その時、ヨセフに「主の使いが夢に現れ」(20)マリヤが聖霊によって懐
妊し、男の子を産む事を示される。彼は、その後も夢を通して、エジプトへ
逃れ(2・13)エジプトから戻り(19)ガリラヤに退く(22)啓示を受ける。
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創世記で、ヤコブの子ヨセフが、夢を通して神の救いの計画の為に用いら
れた様に、マリアの夫ヨセフも夢を通して神の器として用いられる。彼の父
もヤコブであり、それは、神の摂理でありユダヤ人へのメッセージでもある。
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キリストの誕生は、「処女が身ごもっている。…男の子を産む。その名は
インマヌエルと呼ばれる。」(23)と語った預言の成就であった。イザヤは、
キリストの誕生の800年前に、処女懐妊を神の救いのしるしと預言した。
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神の子は、人となって世に来られた。それは「インマヌエルと呼ばれる」
の成就である。「ことばは、人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ 1:14)