2024年の説教
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No.832 - 4月28日: 「キリストにある自由」 コリント第1の手紙7章17節〜24節 |
(みことば)「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じ
ように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」
コリント第1の手紙7章22節
パウロは、これまで結婚をテーマに語って来たが、この箇所では、少し脇
道に逸れて、「割礼と奴隷」に関連して、神を信じる者の生き方を述べる。
彼は、この箇所で、「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべ
きです。」と繰り返して強調する。それは、前節で語った結婚の場合も同様
であるが、原則的に「召されたときのままの状態で歩む」ことを勧めている。
その第1の理由は、そこに神の摂理や御計画があり、神がそれぞれの境遇
や環境の中で、召しを与えておられるからである。従って、それぞれが召さ
れた境遇の中で、神の証人としてできる最善の道を求めて歩むべきである。
また、「それぞれ」と繰返し語っているように、神から与えられている境
遇や立場や身分や賜物は、それぞれに違いがある。だから、それぞれが置か
れた状況の中で、神との関係において自覚的な信仰をもって歩むできである。
「神から召された」とは、「神から呼ばれ」「招かれた」の意味で、神を信
じる者は、個人的に神から召された救いの経験を持っている。信仰告白によ
って新しく生まれ変わったキリスト者は、教会において兄弟姉妹と呼ばれる。
パウロは、基本的に「召されたときのままの状態で歩むべきです」と勧め
るが、それを「割礼」と「奴隷の状態」の人を例に挙げて説明する。「召さ
れたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。」
「割礼」は「神の民のしるし」として施されて来たが、ギリシャ世界のユ
ダヤ人の中には、それを疎ましく思い「割礼の跡をなくそう」とする人もい
た。逆にユダヤ人の習慣に強く共鳴する人は、新たに割礼を受ける人もいた。
「割礼は取るに足りないこと…重要なのは神の命令を守ることです。」神
に召された者とって大切な事は、神の命令を守る事であり、この世の地位、
名誉、学歴、財力など一切関係なく、それらの外見を気にする必要はない。
パウロは、「奴隷」に対して「召されたときの状態にとどまっていなさい
…そのことを気にしてはいけません」と告げる。彼は、奴隷制度を容認して
いる訳ではなく「自由の身になれるなら、その機会を用いる」事を勧める。
パウロは、教会に対して、「奴隷解放運動」を勧めてはおらず、原則的に
「その状態のままとどまる」事を勧める。救いの目標は、「社会改革」にあ
るのではなく、神と人との和解、即ち神と人との人格的交わりの変革にある。
キリストによる、人間の内的な変革、即ち、「救いや新生」の経験は、こ
の世の社会制度の枠を超える霊的な力を持つ。「主にあって召された奴隷は、
主に属する自由人であり…召された者はキリストに属する奴隷だからです。」
人は、この世の社会制度の下で必ずしも平等とは言えない。奴隷もいれば、
自由人もおり、富む者もいれば、貧困な者もいる。だが、主に召された者は、
外見的な制度に支配されず、神が与えた平安と自由を誰も奪う事はできない。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」それは、「十字架の贖
い」を意味するが、「贖う」は、「身代金を払って奴隷を買い戻す」意味がある。
主に召された者は、神の奴隷であり、「人間の奴隷」になってはいけない。
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No.831 - 4月21日: 「平和を得させるため」 コリント第1の手紙7章8節〜16節 |
(みことば)「そのような場合には、…縛られることはありません。神は、
平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」
コリント第1の手紙7章15節
パウロは、結婚した者の義務について語って来たが、彼自身は、独身でい
ることを勧めた。だが、それも人それぞれ、神の賜物と生き方の違いがある。
次に彼は、置かれた立場に従い、まず「結婚していない人とやもめ」に、
「私のようにしていられるなら、それが良いのです」と勧める。但し、それ
も強制ではなく、「自制することができないなら、結婚しなさい。」と命じる。
「欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」キリスト者は、御
霊によって自制心が与えられているが、それでも、罪の支配から完全に自由
ではない。欲情に燃え、自制心を失い、人生の歯車を狂わせてはならない。
次にパウロは、「すでに結婚した人たちに」対して、「命じるのは私ではな
く主です」と断わり、「妻は夫と別れてはいけません。」と命じる。主イエス
は、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」と教えられた。
パウロは、主の教えに従い「もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と
和解するか、どちらかにしさない。」と勧める。即ち、信者の夫婦は、離婚
や再婚が赦されない。それは、神の前で貞操を誓い、誓約した厳粛さによる。
次に夫婦の一方が未信者の場合、相手が「一緒にいることを承知している
場合は、離婚してはいけません」と命じる。「これを言うのは主ではなく私
です。」それは異邦人社会にある事例で、主はこれに関し何も述べていない。
結婚の相手が、未信者で信仰や価値観が違っても、夫婦でいる事に同意し
ているなら別れる必要はない。寧ろ、その結婚の関係を大切にすべきである。
それは、信者の信仰により、相手も「聖なるものとされている」からである。
「聖なるものとされている」とは、「神のものとして選び別けられている」
の意味で、相手が未信者でも、既に、神の摂理の中に生かされ、救いの計画
の中に置かれてる。信者の子は、汚れておらず「聖なるもの」とされている。
主は、神を信じる者だけでなく、その夫や妻それに家族や子孫も含めて祝
福を与えられる。神は、アブラハムに彼の子孫の祝福を告げ、それは、イサ
ク、ヤコブへと続き、やがてキリストを信じる全ての民にその祝福が及ぶ。
最後にパウロは、「信者でないほうの者が離れていくなら、離れて行かせ
なさい。」と勧める。それは、相手が「信仰を認めず、一緒にいる事を拒絶
する」事例であるが、「そのような場合には、…縛られることはありません。」
「縛られる」は、「奴隷のような状態」を意味するが、その人は、結婚に
よって、この世の制度や人の奴隷になったわけではない。その人が、たとえ
離婚しても、神の戒めに背いた事にはならず、寧ろその支配から自由になる。
「神は平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」信仰を
持つ事で、逆に夫婦の中に信仰を巡る対立や諍いが起こる事がある。「平和」
とは、偶像に満ちる世の平和ではなく、神との平和、和解、絆の事である。
「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか」信者の側
は、相方の救いの為に祈り努力するが、その願いも空しく届かない事がある。
その時、信仰や祈りの不足を嘆く必要はない。救いは、主のなさる業である。
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No.830 - 4月14日: 「結婚と信仰」 コリント第1の手紙7章1節〜7節
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(みことば)「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。
しかし、…自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」
コリント第1の手紙7章7節
パウロは、これまで教会の不品行と不道徳の問題について語って来たが、
それに関連して、男女の関わり方、夫婦の問題、結婚について意見を述べる。
コリントの教会の内外において、不品行が蔓延る状況において、教会には、
「男が女に触れないのは良いことだ」と禁欲的に考える人がいたようである。
パウロは、教会が「淫らな行いを避けるため」にどうすべきか質問に答える。
まず、「男女の関りと接し方」に関する事であるが、「触れる」には、「火
をつける」の意味があり、男が女に触れることで情欲が燃える事がある。私
達は、誘惑に陥らないために、聖さへの意識と自制する心を持つべきである。
パウロは、不品行を避けるために、男女に結婚することを勧める。結婚が
罪を犯さないための手段のように思えるが、彼は、エペソ書で結婚が、キリ
ストと教会の愛の一体性を現わす、神の祝福であり奥義であると語っている。
彼は、この箇所で結婚を必ずしも積極的に勧めておらず、寧ろ、「独身で
いられるなら、その方が良い」と語る。そうであるなら、結婚は、「最高の
祝福」でも「幸福の条件」でもない。それを誤解すると結婚が幻想に終わる。
彼は、結婚した夫婦の義務と権利について述べる。「夫は自分の妻に対し
て義務を果たし…」それは、夫婦生活に関する教えであるが、聖書の教えは、
実際的で具体的である。結婚したなら互いに義務を果たさなければならない。
「妻は自分のからだについて権利を持っておらず、それは夫のものです。
…妻のものです。」夫婦は、結婚の神聖な定めにより「ふたりは一体となる」
の通り、自らの権利を主張せず、相手の為に自分を献げなければならない。
夫婦の一体的な関係は、神と信者との一体性を現わす信仰の奥義でもある。
「主と交わる者は、主と一つの霊となる」主に贖われたからだは自分のもの
ではなく、主のものである。自分のからだを主に献げる時に神と一つになる。
夫婦は、互いに義務を果たす事で夫婦としての生活が成り立つ。それは、
独身時代の様な自由気儘な生き方ではなく、結婚相手や家族に対して義務を
負っている。同様に、信仰者は、神と神の家族に対して義務を負う者である。
パウロは、夫婦が義務を果たす事において「互いに相手を拒んではいけま
せん」と語るが、その権利も、無条件ではない。「祈りに専心するために合
意の上でしばらく離れて…」夫婦の交わりの中心に祈りがなければならない。
「専心する」(スコラゾー)は、学校(スクール)の語源であるが、神への祈りを学
ばなければ、信仰は成長せず、良い家庭も築けない。「自制力が無い」とは、
「別の力が自分を支配する」の意味で、その人は、悪魔の支配に陥り易い。
最後に、パウロは、「以上は譲歩として…命令ではありません。」と断わる。
パウロは、不品行を避ける為に結婚を勧めたが、それは、譲歩の勧めであっ
て、決して、命令ではない。即ち、彼は、結婚が最善の選択と考えていない。
「私が願うのは…私のように独身であることです。」独身であるなら、主
の事に専念できるが、家庭を持つとそのように行かない。だが、それも強制
ではなく、一人ひとり神からの賜物の違いがあり、それぞれに生き方が違う。
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No.829 - 4月7日: 「神への愛が問われる時」 ヨハネの福音書21章15節〜19節 |
(みことば)「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、
わたしを愛していますか。」
ヨハネの福音書21章15節
主は、ティベリヤ湖畔で弟子達の前に三度目の復活の姿を現されたが、イ
エスは、岸辺で朝の食事を済ませた後で、シモンにご自身への愛を問われた。
主の愛の問いかけは、ヨハネの福音書の最後の記述として相応しい。「イ
エスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)主の愛の極みは、十字架の贖い
の上にに現わされているが、主は、復活の後に、その愛を弟子達に問われた。
主は、特にペテロに「この人たちが愛する以上に…」と問い、他の弟子達
に勝る愛を求められた。それは、愛の比較と言うより、彼が特別に主から愛
された事を考えると当然である。「多く与えられた者は、多くを求められる。」
彼は、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
と答えるが、何故、彼は、「私は、誰よりもあなたを愛しています。」と答え
なかったのだろうか。彼が誰より主を愛している事は、間違いないだろう。
だが、彼が自信をもって答えられないのは、主を三度も否定していたから
である。彼は主への愛を失っていないが、主への愛に自信を失っていた。愛
の確かさは、自分の中にではなく、弱さを含め全て知る主の御手の中にある。
主は、彼の答えに対して、「わたしの子羊を飼いなさい。」と、彼にもう一
度、牧者としての働きを委ねる。一度、大きな失敗を犯したペテロは、主の
憐れみにより、もう一度、牧者として回復し、神の子羊を飼う者とされる。
2度目の愛の問いかけも1度目とほぼ変わらない。何故、主は、彼に信仰
ではなく、愛を求めたのだろうか。主を信じる者は、信仰によって救われて
いる。だが、主に対する愛は、同じ信仰を持つ弟子でも、各々に違いがある。
私達は、愛を問い直さなければならない。「友のためにいのちを捨てる…
これより大きな愛は誰も持っていません。」主は、私達の友となり、いのち
を犠牲にされた。主を信じていると言いながら、愛に生きていない事がある。
主は、原語で(アガパオー)「無償の愛」で「愛していますか。」と尋ねるが、
ペテロは、(フィレオー)「友の愛」で「愛している」と答える。それは、彼が、
愛の欠けを十分承知してたからであり、それは、彼の真実な告白と言える。
ペテロは、愛の失敗の経験以来、主の弟子として誇りを粉々に砕かれた。
主への愛は、確かであっても、それは完全なものでも模範的でもない。たと
え、不完全な親でも、自分の子供に対する愛情は真実であるのに似ている。
主は、ペテロに対して、三度も愛を問うが、彼もそれに心を痛めた。だが、
主は、彼の証言を疑っていたわけではなく、それは、彼が大祭司の中庭で三
度「キリストを知らない」と誓った、偽りの行為を全て打ち消すためである。
三度目の主の問いは、(アガパオー)「神の愛」ではなく、(フィレオー)「友愛」で
「愛していますか」と尋ねる。主は、ペテロに対して愛の規準を下げ、「た
とえ不完全で小さな愛でも構わない」と大きな愛で包むように愛して下さる。
最後に主は、ペテロの将来に起こる殉教の死を予見する。「あなたの行き
たくないところに連れて行きます。」究極のところで、主への愛が試される。
聖徒の死は、神の栄光を現わし、神の愛を実現する。「わたしに従いなさい。」
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No.828 - 3月31日: 「岸辺に立たれる主」 ヨハネの福音書21章1節〜14節 |
(みことば)「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現
されたのは、これですでに三度目である。」
ヨハネの福音書21章14節
ヨハネの福音書は、主の復活に関し、週の始めの日に弟子達の前に現われ
た記事に続いて「ディベリヤ湖畔で…ご自分を現わされた」次第を述べる。
「弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である」(14)
主は、復活の事実を繰返えし明らかにし、弟子達の疑いを取り除いて行く。
その後、彼らは、誰も「あなたはどなたですか」(12)と尋ねる者はなかった。
主の復活の三度目は、ディベリヤ湖畔で起こったが、そこは、弟子達の出
身地で、彼らが主に召された場所であった。彼らの何人かはティベリヤの漁
師であったが、ユダを除く11名のうち7名の弟子がガリラヤに戻っていた。
シモン・ペテロとゼベダイの子たち、即ち、ヤコブとヨハネは、ティベリ
ヤの漁師であった。それに主の復活を疑ったトマス、「ナザレから何の良い
ものが出るだろうか」と証言したナタナエル、他に二人の弟子がそこにいた。
彼らは、主の十字架の試練の後で、既に2度の復活の出来事を経験してお
り、信仰を捨て、絶望して故郷に帰っていたわけではない。寧ろ、主の約束
は、「イエスは…先にガリラヤに行かれ…そこでお会いできる」事であった。
7人の弟子は、主の復活を信じてはいるが、これからどのように生きるべ
きかを模索していた。ティベリヤは、彼らにとって「信仰の原点に立ち返る」
場所であり、主の弟子として従った、最初の召しを思い起す場所であった。
ペテロは、彼らに「私は漁に行く」と言うと、彼らも「一緒に行く」と言
い出す。主は、彼らに「人間をとる漁師にしてあげよう。」と招き、彼らは
それに答えて網を捨てた。だが、彼らは、再び網を取って漁に出ようとする。
彼らは、何を成すべきか分からない中で、取り合えず漁に出て生計を立て
ようと考えた。「だが、その夜は何も捕れなかった。」「労多くして報いが少
ない。」彼らは、「何も捕れない」と言う疲労感と空しさの中で朝を迎える。
「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。」どんなに暗い夜
でも、朝の来ない夜はない。弟子達が徒労の夜を過ごす間も、主は岸辺に立
って彼らを見守っている。だが、彼らは、それがイエスであると気づかない。
その距離は「陸から遠くなく、二百ペキス(90m)ほど」であった。主は、
「子どもたちよ。食べる魚がありませんね。」と声をかけ、彼らは「ありま
せん。」と答えた。母親がお腹を空かせた子供に優しく尋ねるのに似ている。
主は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と命じる。「す
ると、おびただしい数の魚のために、もはや…網を上げることができなかっ
た。」主は、彼らがかつてティベリヤで経験した過程をなぞっておられる。
それは、主の心憎い演出と言えるが、主は、それにより「岸から語り掛け
た方が誰なのか」を気づかせる。主の愛された弟子、即ちヨハネが、ペテロ
に「主だ」と叫ぶと、ペテロは、それを聞いて上着を纏い、湖に飛び込んだ。
それは彼の愛の表現であるが、主は冷えた体で戻って来る弟子達の為に炭
火を起こし魚を焼きパンを用意していた。彼らは、153匹の捕れた魚を引
き揚げて主の元に戻る。信仰の網を広げる時、恵みと祝福は尽きる事がない。
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No.827 - 3月24日: 「神の栄光を現わす」 コリント第1の手紙6章12節〜20節 |
(みことば)「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、
自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
コリント第1の手紙6章20節
コリント人は、自由を謳歌し、「すべてのことが私には許されている」と
言い、「淫らな行い、姦淫、男色等、何をしても自由である」と主張した。
パウロは、「正しくない者は神の国を相続できません」と語る。たとえ自
由があっても、善悪の区別を設け、神の国と他者の益にならない行為はする
べきでない。罪に支配された人は、自由とは言えず、罪と悪魔の奴隷である。
だが、キリストの御霊を持つ者は、神の御心である善を行うことにおいて
自由に振る舞う事ができる。キリスト者は、罪と悪魔の支配下にではなく、
キリストの支配下にあり、善を行う自由が与えられ、その為に召されている。
「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが…」食物
と腹には、密接な関係があり、人は、食べなければ生る事が出来ない。だが、
人は食べる為に生きているのではない。「神は、そのどちらも滅ぼされます。」
「なくなってしまう食べ物のためではなく…永遠のいのちに至る食べ物の
ために働きなさい。」私達のからだは、「淫らな行いのためではなく、主のた
めにあり、主はからだのためにおられる。」ここに私達の倫理の根幹がある。
私達は「何をしても自由である」と奔放な罪の生き方でをするのではなく、
神の栄光の為に主から与えられたからだを聖く用いるべきである。そこには、
復活の希望がある。「神は…御力によって…よみがえらせてくださいます。」
「あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。」キリスト者
は、キリストとの結合によりキリストのからだの一部となった。「それなの
に、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。」
遊女と交わる行為は、快楽的な社会で一般的に為されていたが、キリスト
者の結婚の倫理からするなら許されない。「遊女と交わる者は、彼女と一つ
のからだになります。」それは、「ふたりは一体となる」結婚の奥義に反する。
それは、罪の社会で普通に行われていても、妻への不貞行為であり、「キ
リストのからだの一部」である私達にとってキリストへの不貞でもある。そ
れは、神殿娼婦がいたコリント社会において、偶像の神々との姦淫でもある。
「しかし、主と交わる者は、主と一つ霊となるのです。」それは、キリス
トとの霊的結合を意味するが、私達は世の汚れた霊から解放され、聖な神と
の交わりにおいて霊的に一つとなり、神にまことの礼拝を献げる者となった。
「淫らな行いを避けなさい。」私達は、肉体を汚す罪の力を警戒し、そこ
から逃れるべきである。多くの人が誘惑に陥って神の恵みや栄光を失って行
く。「淫らな行い」の特殊性は、「自分のからだに対して罪を犯す」事である。
「あなたがたのからだは…神から受けた聖霊の宮であり…」教会は、「神
の宮」と呼ばれているが、キリスト者は、御霊を宿す「聖霊の宮」である。
そうであるなら、私達は、聖霊を悲しませ、聖霊の宮を汚す行為を避けよう。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」私達のからだは、
キリストの贖いの代償により、もはや「私のもの」ではなく、「キリストの
もの」となった。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
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No.826 - 3月17日: 「キリスト者の自由」 コリント第1の手紙6章7節〜12節 |
(みことば)「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべて
が益になるわけではありません。…どんなことにも支配されはしません。」
コリント第1の手紙6章12節
コリントの教会は、教会内の個人的な争いごとをこの世の法廷に訴えたり、
教会の中で軽んじられている人を裁判官として立てて解決を謀ろうとした。
パウロは、「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」と語
る。世において兄弟が遺産相続を巡り骨肉の争いを繰り広げる事があるが、
兄弟同士の争いほど醜いものはなく、それなら、相続権を放棄した方が良い。
「どうして…不正な行いを甘んじて受けないのですか。」自分の側に義が
あっても、それがお金の問題なら、騙し取られても、黙っていれば争わずに
済む。それは、この世の物に執着してもっと大切な霊的賜物を失うより良い。
兄弟同士の争いには、被害者だけでなく、加害者の問題もある。「それど
ころか、あなたがた自身が不正を行い…」教会の中にそのような人がいるこ
と自体が問題だが、その人の二重の罪は、それを兄弟に対して行う事である。
「不正を行う」は、「義」の反意語「不義」の意味であり、「だまし取る」
は、第十の戒め「貪ってはならない。」への違反である。キリストの贖いと
信仰によって救われた者が、「不正を行い」「だまし取る」事など論外である。
「正しくない者は神の国を相続できません。」信仰によって義とされた者
が、尚、罪の中に生きているなら、その人の新生と救いを疑わざるを得ない。
「思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者…相続…できません。」
列挙された10の悪徳の前半は、「自分自身を霊的、肉的に汚す罪」と言
える。それは性的な不品行に関わる罪であるが、「偶像を拝む」事も霊的な
姦淫であり、「男娼、男色」は、異教の神殿で宗教行為として行われていた。
悪徳の後半は、「人に害を及ぼす罪」を列挙しているが、その内、「盗む」
「貪欲」「奪い取る」は、霊的な貧困さに起因する。だが、人の心は、この
世の物で満足できない。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ…利益を得る道です。」
「酒におぼれる者」は、一時的な快楽に浸る事ができても、依存症で苦し
み、家族を巻き込んで不幸にさせる。「そしる者」は、他人を悪く言う事で
優越感の快楽に耽るが、言葉で人を傷つけながら、自らの醜さに気づかない。
彼らは、福音を聞く「以前はそのような者」であったが、主の御名と御霊
により悪徳に満ちた世界から「洗われ、聖なる者とされ、義と認められ」た。
その人は、性質と立場において聖なる者となり、罪を赦され義と宣言された。
最後にパウロは、「『すべてのことが私には許されている』と言いますが…」
と自由について言及する。その言葉は、自由を謳歌するコリント人の主張で
あるが、彼らは、「姦淫」「男娼」「男色」等「何をしても自由だ」と考える。
だが、その主張には、倫理や道徳等一切ない。人間にとって、無制限の自
由など存在しない。アダムとエバには、エデンの園において自由があったが
それも無制限ではなかった。人の幸福は神の言葉に従う自由の中で実現する。
隣人の益にならない行為は、たとえ自由があってもすべきでなく、罪に支
配されるなら罪の奴隷である。キリスト者は善を行う自由が与えられている。
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No.825 - 3月10日: 「聖徒に与えられた恵み」 コリント第1の手紙6章1節〜7節 |
(みことば) 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北
です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。」
コリント第1の手紙6章7節
パウロは、不品行の問題から、再び、教会の中の争いの問題に言及するが、
それは、前回の様な分派ではなく、個人的な紛争とその解決についてである。
それは、教会員同士の揉め事と言えるが、それが裁判沙汰にまで発展して
しまう。ギリシャ人は、日常的な問題を直ぐに裁判に訴えて解決を図る習慣
があったので、弁論術や詭弁述が発達し、それを職業とする人も大勢いた。
だが、彼らの問題は、兄弟同士が互いに争い、その解決を図る為に「正し
くない人たちに訴え出た」ことである。 「正しくない」とは、教会以外の未
信者の事であり、彼らは、争いの解決を世の詭弁家に求め、裁判官に訴えた。
当時、賄賂で裁きを曲げる裁判官や金の為に詭弁を使う論者も大勢た。 「嘘
も方便」とは、世の手法だが、そのような歪んだ裁きに訴える必要はない。
教会は、公平で真実な場所であり、神の言葉に基づく裁きには、誤りはない。
そこで、パウロは、教会の内部の問題を外部の人に訴える愚かさを幾つか
挙げる。その第1は、 「聖徒が世界をさばくようになる」と言う事実である。
それは、「世の終わりの出来事」であるが、 「さばく」は「治める」と訳せる。
教会が、そのような栄誉を与えられていながら「ごく小さな事件さえさば
く力がない」のは驚きである。聖徒達は、やがて「キリストとともに・・・王と
して治める」者であり、 「すべての主権は、彼らに仕え、服従する。」とある。
パウロは、 「私たちは御使いたちをさばくようになる」とさえ語る。御使
いは、 「仕える霊」であり、 「神の奉仕者」として創造されたが、聖徒達は、
キリストの贖いにより神の子とされ、御国を相続する恵みを与えられている。
だが、彼らは、日常の些細な事柄さえ自分でさばく力がなく、日常的な紛
争が起こると「教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に」選んだ。そ
の人々は、神や信仰に熱心ではないが、世において力や権威を持つ人である。
霊的ではない、寧ろ、世俗的な人に、一体どんな解決ができると言うのか。
争いの渦中にいる人にとって一番必要なことは、神の言葉を聞き、静かに御
心.を求める事であり、その間題は、教会の中で霊的な人に相談すべきである。
パウロは、彼らを「恥じ入らせるために」このように語った。それは彼ら
の無知を示し、神の知恵に信頼させる為である。 「賢い人が、一人もいない
のですか。」教会に与えら神の知恵は、世の知恵より遥かに勝っている。
彼らの愚かさは「兄弟が兄弟を告訴し・・・それを信者でない人たちの前です
る」事である。 「告訴する」は、 「さばく」と訳せる。 「さばいてはいけませ
ん。 ・・・さばかれないためです。」私達は、安易に裁判官になるべきではない。
「互いに訴え合う事が・・・敗北です。」この世の裁判に「勝訴」があっても、
兄弟同士の裁判に勝者はなく敗北だけである。 「どうして・・・不正な行いを甘
んじて受けないのですか。」聖徒は、主の為に不利益さえ甘んじて受ける。
それは、天の御国に希望を持つ者だけができる高潔な倫理である。怒りは
神の栄光を現わさない。私達は、自分に関する限り、全ての人と平和を保つ
べきである。その為に心の怒りを静め、魂に平安が与えられるように祈ろう。
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No.824 - 3月3日: 「神の聖さを失わない」 コリント第1の手紙5章9節〜13節 |
(みことば)「外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中か
らその悪い者を除き去りなさい。」
コリント第1の手紙5章13節
パウロは、これまでコリントの教会の不品行の問題について論じ、教会が
聖さを保つことを勧めて来たが、最後の箇所は、その補足の説明と言える。
「私は前の手紙で…と書きました。」パウロは、不品行の問題にいてコリ
ント教会に「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と書簡を送っ
たが、その手紙を誤って解釈する者がいたので、ここでその真意を伝える。
彼の言葉は、「この世の淫らな者…と…付き合わないように」という意味
ではない。そうであるなら、「この世から出ていかなければ」ならない。教
会の中に、彼の言葉を曲解し、世の人と一切交際を絶つ人がいたようである。
この世は、悪魔の支配する罪に満ちているが、キリスト者として、この世
遣わされている意味がある。主は、「彼らをこの世から取り去ってくださる
ようにというのではなく、悪い者から守ってくださるように」と祈られた。
この世は、確かに「淫らで、貪欲で、奪い取る者や、偶像を拝む者」で満
ちている。その罪の世で、聖く生きることは、並大抵のことではない。だが、
キリストの救いと御霊を持つ者は、世の光、地の塩として生きる事ができる。
彼は、以前の手紙で書いた真意を語るが、それは、「兄弟と呼ばれる者で、
淫らな者…がいたなら、そのような者と付き合ってはいけない」と言う意味
である。その対象は、教会の外部の人ではなく、教会の内部の人の事である。
「付き合う」は、「教会の交わり」に関して使われているが、それは3つ
の言葉の合成語で「一緒に、連続して、混じり合う」の意味であり、そのよ
うな親密な、聖なる交わりを汚す者とは、「交際しないように」と忠告する。
教会の交わりは、この世の集まりと本質的に異なる。私達も、かつては、
この世の人と同じように「淫らな者、貪欲な者…偶像を拝む者」であったが、
キリストの贖いによって罪を聖められ、「新しく造り変えられた者」である。
新しく造られた者は、神の聖さに倣って新しい生き方をする。「良い木は
みな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」木の良し悪しは、その実によ
って知ることができる。御霊を持つ者は、心も生活も神によって聖くされる。
だが、私達は、罪の世に生きても、罪の世に影響されないように気を付け
よう。宣教の為に世の人と関り、彼らの救いの為に祈るべきであるが、その
行いを真似てはいけない。教会が、霊的な力と神の聖さを失ってはならない。
「外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。」私達は、
世の人を裁くのではなく、彼らの為に祈るべきである。「外部の人たちは、
神がおさばきになります。」誰もが死の後で神の前に裁きを受ける時が来る。
その時に、人生を後悔することがないように、神の言葉を真剣に聞くべき
である。キリスト者の使命は、世の人が、永遠の火の刑罰を受けることがな
いようにキリストの福音を伝える事である。それが教会の最大の使命である。
「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」イスラエルは、エ
リコを征服するが、たった一人のアカンの罪よって小さな町アイに敗北する。
彼が聖絶の物に手を出したからである。誘惑に陥り自らを汚してはならない。
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No.823 - 2月25日: 「古いパン種を取り除く」 コリント第1の手紙5章1節〜8節 |
(みことば)「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかな
パン種が、こねた粉全体をふくらませることを…知らないのですか。」
コリント第1の手紙5章6節
パウロは、これまでコリント教会に起っていた「分派の問題」について語
って来たが、5章から新しいテーマである「不品行の問題」について述べる。
パウロは、コリントの教会に「淫らな行いがある」と聞いていたが、「淫
らな行い」(ポルネイア)は、ポルノの語源で「不適切な性的関係」を意味する。
自由な社会は、放縦に陥る危険があるが、日本は、性風俗等の倫理観が低い。
コリントは、淫行に満ちたソドムのような街であったが、その頽廃した不
道徳の社会の中で、教会が聖さを保つのは並大抵の事ではない。しかも、コ
リント教会の不道徳は、「異邦人の間にもないほどの淫らな行い」であった。
「父の妻を妻にしている」とは、父親が再婚した義理の母親の事と思われ
るが、教会の中に、一般社会でも認められていない近親者と婚姻関係にある
者がいた。律法にも「父の妻と寝る者は…のろわれる。」(申命記 27:20)とある。
パウロは、教会の罪に対する無頓着さを「あなたがたは思い上がっていま
す。」と嘆く。教会は、「どんな罪でも赦される」という福音があるが、何を
しても自由なのではない。その自由を肉欲と放縦のために使ってはならない。
教会の中に、公然と不品行を行う者がいたなら、そのような者を取り除く
べきである。それは痛みと悲しみが伴うが、教会が聖さを失わない為に必要
な処置である。教会は、不道徳な者に除名処分の戒規を執行すべきであった。
「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて…」パウロは、今
コリントにいないが、彼は、霊的な意味で罪を犯している者を神の裁きに委
ねた。「神など見ていない。」と言って侮り、肉欲のままに生きてはならない。
彼は「あなたがたと私の霊が…御力とともに集まり…」と教会の霊的一体
性を語る。原語は、「集まる」を中心に「主イエスの名」と「私の霊と共に
主の力」が前後に来る。教会は、主の名のもとに集まる聖徒の集まりである。
「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」パウロは、もはや、不
道徳な者の回復ではなく、彼を「サタンに引き渡す」事で、彼自身が痛みの
中で罪の刈り取り、それにより「彼の霊が主の日に救われる」事を願った。
パウロは、罪を「わずかのパン種がこねた粉全体をふくらませる」事に譬
えるが、それは、主の晩餐を背景に語っている。「古いパン種をすっかり取
り除きなさい。」罪を犯している者は、主の晩餐から除外するべきである。
主の晩餐のパンは、古いパン種の入らないパンでなければならない。僅か
な罪が聖なる教会の交わりを駄目にする事がある。教会と言う聖なるキリス
トの交わりが、サタンの支配する世俗の交わりに堕落しないよう注意しよう。
「古いパン種をすっかり取り除きなさい。」これは、「徹底的に綺麗にする」
の意味があるが、教会は、「私たちの過越の子羊キリスト」の贖いによって
聖なる者とされているのだから、聖さを保ち、汚れた者となってはならない。
最後にパウロは、「古いパン種」を「悪意と邪悪のパン種」とこの世の陰
険で意地悪で悪魔的な性質にたとえ、逆に、混り気のない純真な生き方を「誠
実と真実の種なしパン」とたとえる。私達は聖い心と生き方を神に献げよう。
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No.822 - 2月18日: 「信仰の模範者に倣う」 コリント第1の手紙4章14節〜21節 |
(みことば) 「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってくだ
さい。そのために、私はあなたがたのところにデモテを送りました。」
コリント第1の手紙4章16節
パウロは、教会において自らを誇り、神の言葉を越えて思い上がる人々に
対して、辛辣に皮肉を込めて彼らの霊的な幼さや信仰の欠点を指摘して来た。
だが、彼は、 「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思
いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すため」であると語る。
人は、どんなに厳しい言葉も、愛から出ている言葉であるなら聞く耳を持っ。
パウロは、偶像と滅びの世界から彼らを救い出す為に福音を伝えた者であ
り、彼らにとってパウロは、霊的な父のような存在であった。 「たとえあな
たがたに・・・養育係が一万人いても・・・この私が・・・あなたがたを生んだのです。」
彼らがパウロの言葉に聞こうとしないなら、それは、親の恩を忘れるに等
しい。人は、誰でも自分を救いに導てくれた恩人がいる。その霊的なへ父の
感謝や恩を忘れてはならない。同様に、私たちの天の父もただひとりである。
パウロは、霊の父として「私に倣う者となってください」と勧めるが、彼
は、他の書簡でも同様の勧めをしている。 「倣う」は、 「模範」 「手本」の意
味であり、武道等でも技術が上達する早道は、師匠の模範を真似る事である。
先の者が模範となる良い生き方を示さなければ、後の者がそれに倣う事は
ない。教会において模範となる信徒がいる事で、後から導かれた人がその良
い実例を真似る事ができる。私達は、悪い模範とならないように注意しよう。
パウロは、コリント教会の為に信仰の模範としてテモテを送る。 「テモテ
は、私が愛する、主にあって忠実な子です。」彼はパウロと宣教を共にした
者で、彼を通して「キリストにある・・・生き方を・・・思い起させる」事ができた。
テモテは、コリントの教会にとって生きた実物教育 であり、彼によって「キ
リストにあるパウロの生き方」を示す事が出来た。「生き方」 とは、 「道」と
訳せるが、教会は、彼の模範的な生き方を通して、キリストの道を示された。
パウロは、コリント教会の中に「パウロがコリントに来る事はないだろう。」
と思い上がている人々に忠告する。テモテは、パウロが行く迄の間の代理の
務めを果たしたが、彼らは、彼の言葉をパウロの言葉として聞くべきである。
彼らは、 「パウロが来ない」と言う事で高ぶり、パウロから派遣されたテ
モテさえ認めようとしない。 「父がわたしを遣わされたように、わたしもあ
なたがたを遣わします。」神の権威を認めなければ、神に従う事はできない。
だが、パウロは、 「主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのとこ
ろに行きます。」と宣言する。彼は、第3次伝道旅行の最後にコリントを訪
問しているが、彼らは、それ迄の間、慎みと恐れをもって歩むべきであった。
「思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。」
人を救う力は、この世の知恵の言葉にはないが、神のことばは、人を救い、
人を造り変える力がある。 「神の国は、ことばではなく、力にあるのです。」
「どちらを望みますか。 ・・・むちを持って行くことですか。 ・・・柔和な心で行
ことですか。」それは彼らの態度と振る舞いに掛かっている。主が来られ、
叱責されて、恥じ入る前に、悔い改めて、父の御言葉に聞き従う者となろう。
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No.821 - 2月11日: 「驕らず御言葉に生きる」 コリント第1の手紙4章6節〜13節 |
(みことば)「書かれていることを越えない」ことを…学ぶため…一方にく
みし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。」
コリント第1の手紙4章6節
パウロは、これまで彼自身とアポロに当てはめて、教会の指導者がキリス
トのしもべ、神の奥義の管理者として忠実でなければならないと語って来た。
それは、彼らの例から「書かれていることを越えない」事を学ばせる為で
ある。「書かれていること」とは、聖書を指すが、神の言葉を越えた教えや
行動は、偽りである。聖書は、神の霊感によって書かれた真実な言葉である。
次に「一方にくみし、他方に反対して思い上がることのない」為である。
「一方にくみし」とは、「一人の人を上げる(越える)」の意味であり、教会の交
わりも「一人を崇め、別の人を軽蔑する」ような不公平があってはならない。
パウロは、教会の中で「自分を誇り、他の人を見下している」者に「いっ
たいだれが、あなたをほかの人よりすぐれていると認めるのですか」と問う。
その人の評価は、人が決めることではなく、神がその真実の審判者である。
「あなたには…もらわなかったものがあるのですか。…なぜ…誇るのです
か。」私達が持っている物で、自分の力で得た物など何もない。「私は、裸で
母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。」
パウロは、自分を誇る者に「あなたがたは、もう満ち足りています。…王
様になっています。」と皮肉を込めて語る。彼らは、この世で満足しても霊
的に「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」事が分っていない。
彼らは、パウロの宣教によって救われた事を忘れたかのように驕り高ぶる。
「私たち抜きで王様になています。」それは、裸の王様のようである。パウ
ロは、彼らに「本当に王様になっていたらよかった」と皮肉を込めて語る。
だが、彼らに福音を語ったパウロは、彼らと違い「死罪に決まった者」の
ように「人々の見せ物」になり、「飢え、乾き、着る物もなく…」と語り、
彼らのように、福音の本質から外れていながら誇る者の愚かさを気づかせる。
パウロは、「神は私たち使徒を…最後の出場者として引き出され…人々に
も見せ物になり…」と円形闘技場で人々の見せ物になる殉教者の姿を描く。
彼らは、見せ物の最後に、主の名の故に火炙りにされ、獣に?み殺される。
パウロは、「私たちは…愚かな者ですが…」と、彼らと比較して、「愚かな
者と賢い者」「弱い者と強い者」「卑しめられた者と尊ばれている者」と対照
的に語るが、両者の違いは、この世の人の評価と神の国の評価の違いである。
彼らは、この世で「満ち足り…すでに豊かになって」王のようであるが、
パウロは、「飢え、渇き…住む所も」ない。主も、同様に「狐には、穴があ
り空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない。」と言われた。
「ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び…」パウロは、たとえ人
からどのような扱いを受けても、悪に悪をもって報いず、かえって善をもっ
て悪に報いる事で、一人でも多くの人をキリストのもとに導こうと心掛けた。
彼は、「私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。」と自
己を卑下するが、それは、単なる謙遜ではなく、寧ろ真実な自己評価である。
神は、「この世の屑、かす」のような人を清め、神の人に造り変えられる。
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No.820 - 2月4日: 「神の家の管理者」 コリント第1の手紙4章1節〜5節 |
(みことば)「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える
べきです。…管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」
コリント第1の手紙4章1、2節
コリント教会は、パウロやアポロなど教会の指導者を頭に立て、人間を誇
る分派があったが、パウロは、本来、牧師や教師がどのような者かを語る。
パウロは「私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える」べき
であると語る。「しもべ」(ヒュペレース)は、「船の下で櫓を漕ぐ」の意味がある。
牧師は、権威を誇示するのではなく、教会に仕える者でなければならない。
パウロは、福音によって啓示された「神の奥義」を語り、キリストと言う
建物の土台を据えた。「管理者」(オイコノモス)は、「家を治めるしもべ」の意味
であるが、牧師や教師は、主人である神から神の家を任された管理者である。
「その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められる」事である。
牧師に求められる資質は、神への忠実さである。その人に、どんな優れた能
力があっても、忠実さに欠けているなら、神の働きを続ける事はできない。
「忠実」(ピスティス)は、「信仰」と訳せるので、それは、全てのキリスト者
に求められる資質である。イスラエルの初代の王サウルは、優れた能力を持
っていたが、神の言葉に不忠実であったので、王の職務と神の祝福を失った。
キリストのしもべは、船の下で櫓を漕ぐ働きに徹するべきで、舵を取るの
はキリストである。「船頭多くして、船山に登る」の諺のように、人が人生
の舵を取ると船を座礁させたり、嵐に遭う等、想定外の事態に巻き込まれる。
教会には、パウロ等の教師に対する様々な批評があったが、彼は「私にと
って…さばかれたりすることは、非常に小さなことです」と語る。「さばき」
とは、人のいい加減な批評に過ぎず、それを過重に受け留める必要はない。
「それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。」それは、「自
己吟味をしない」と言う意味ではない。彼は、「私には、やましいことは少
しもありませんが」と語る通り、良心的に責められることは何一つなかった。
だが、彼は、自分に良心的責めが無くても、それで「自分が正しい」と判
定を下さない。「さばく」(アナクリノー)は、裁判における最終判決の前の「判定」
の意味である。「主が来られるまでは、…先走ってさばいてはいけません。」
全ては、主が来られた時に、最終的な判決(クリノー)が下される。私達は、
その前に、軽々しく他人や自分をさばくべきではない。「私には、…少しも
ありませんが、だからといって、それで義と認められるわけではありません。」
私達は、キリストの贖いによって、既に義と認められているが、「神に対
して忠実であったかどうか」その判定と評価は、主が下される。「私をさば
く方は主です。」その「さばき」も、最終判決の前の判定(アナクリノー)である。
人は、「善であれ悪であれ…行いに応じて…さばきの座の前に」立つ時が
来る。だが、私達は、御霊により善悪を判断でき、悪を行えば心に平安はな
い。「自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。」
「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも…」神は、
人が心に抱く聖なる志も、邪悪な計画も、全て知っておられる。「隠されて
いるもので知られずにすむものはない」神から称賛を受ける生き方をしよう。
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No.819 - 1月28日: 「神の御霊の住む神の宮」 コリント第1の手紙3章16節〜23節
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(みことば)「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうち
に住んでおられることを知らないのですか。」
コリント第1の手紙3章16節
パウロは、建物を建てる時に、揺るがない人生の土台としてキリストを据
える大切さと、その上にどの様な建物を建てるべきか注意するように語った。
パウロは、教会を建物に譬え「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の
御霊が…住んでおられる…」と語る。「家」「建物」(オイコス)「建てる」の語根
は、「住む」(オイケオー)であり、その思想の中心に「住む」と言う原理がある。
「幕屋」も「住む」(ミシュカーン)が語源である。同様にパウロは、(6:19)で
「あなたがたのからだは…聖霊の宮であり」と個人のからだを指して語って
いるが、この箇所は神の共同体である教会を指して「神の宮」と語っている。
神は、永遠で無限なる方だが、教会の小さな集まりに御住まいを定める。
「あなたがたも…御霊によって神の御住まいとなる」(エペソ 2:22)住む家のな
い人は、浮浪者・ホームレスと呼ばれるが、その人は、寒空の下でも帰る家がない。
「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。」時に
は、神の教会を破壊するような者が現れる。それは、悪魔の働きによるが、
神は、神の宮の破壊者を容赦せず、その悪の行為に厳粛な刑罰で報いられる。
教会を破壊するのは、一瞬でできるが、それを建て上げるには、御霊の一
致と愛がなければできず、そこには、忍耐と労苦と長い時間が必要である。
「自分を欺いてはいけません。…知恵ある者となるために愚かになりなさい。」
教会を批判し破壊する行為は、人の誇りと高ぶりから生じる。悪魔は、そ
のような人を用いて神の御業を破壊しようと試みる。自分を世の知者と誇る
事なく、謙って主と教会に仕える者でなければ、神に用いられることはない。
「神は知恵ある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」これは、ヨブ
記の引用であるが、この世の知恵は、神の御前では愚かである。アブサロム
は、その知恵によって謀反を企てダビデを追放して自分が王になろうとする。
彼は、ダビデを追跡する途中で「頭が樫の木に引っ掛かり、宙づり」にな
り、ヨアブの槍に突き刺されて滅びる。それが神の国の破壊者の結末である。
「主は、知恵ある者の思い計ることがいかに空しいかを知っておられる。」
「だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。」
私達の中に何かの誇りがあってはならない。全ては神から与えられている。
「誇る者は主を誇れ」私達は、十字架以外に誇るものがあってはならない。
「パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ…」それらの人は、彼ら
の信仰の成長の為に、神から与えられた働き人に過ぎない。だから、「私は
パウロにつく、私はアポロに…」と人間を誇ることは、愚かなことである。
「世界であれ、いのちであれ、死であれ…あなたがたのもの…」一切のも
のは、神から教会に与えられている。キリスト者は、キリストが悪魔に勝利
した事で、死に打ち勝ち、いのちを与えられ、御国を相続する恵みに預かる。
「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」「私たちは、
…生きるにしても、死ぬにしても…主のものです。」(ローマ 14:8)キリスト者
の希望は、神の永遠の住まい「天に御国」にあり、神と共に生きる事にある。
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No.818 - 1月21日: 「どのような家を建てるか」 コリント第1の手紙3章10節〜15節
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(みことば)「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることは
できないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
コリント第1の手紙3章11
パウロは、「信仰の成長」に関し「幼子と植物の成長」にたとえて語って
来たが、最後に、それを「神の建物」にたとえ、家を建てる時の注意を語る。
パウロは、「私は…賢い建築家のように土台を据えました。」と語るが、彼
の賢さは、「神の恵み」により「神の奥義」に関する豊かな知恵を与えられ
た事と、彼は、「家を建てるためにしっかりとした土台を据えた」事にある。
賢い建築家は、家を建てる時に地盤の堅固さを確認する。「岩の上に家を
建てた賢い人は、雨が降って、洪水が押し寄せても…倒れない」が、「砂の
上に家を建てた人は、…倒れてしまい、その倒れ方はひどいもの」であった。
家も人生も、いつ何が起こるか分からない。だから、決して揺るがない人
生の土台をしっかり据えるべきである。「すでに据えられている土台以外の
ものを据えることはできない…その土台とは、イエス・キリスト」である。
だが、土台を据える事と家を建てる働きは違う。一度、据えた土台は、建
物が建った後で変える事はできない。パウロは、賢い建築家として、揺るが
ないキリストと言う土台を据えた。「ほかの人がその上に家を建てるのです。」
「だれかが…金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると…」その際、どの
様な材料で家を建てるか問われる。長く続く立派な建物を建てようと願うな
ら「金、銀、宝石」を使い、安く建てようと願うなら「木、草、藁」を使う。
一般的に金、銀、宝石で自分の家を建てる人はいないので、この建物は、
個人の家ではなく、神の神殿と言える。自分の為には、惜しみなくお金を使
っても、神の家の為には、木、草、藁を使う人もいるが、その逆の人もいる。
「それぞれの働きは明らかになり…『その日』がそれを明るみに出すので
す。」それが明らかになるのは、「終わりの日」即ち「主の再臨の日」であり、
「その日は火とともに現れ、この火がそれぞれの働き…を試す」事になる。
即ち、「金、銀、宝石」で建てた建物は残るが、「木、草、藁」で建てた建
物は焼かれて何も残らない。それは震災の跡地のようである。「自分のため
に、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。…自分のために天に宝を蓄えなさい。」
「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。」その報いと
は、「天における報い」を指している。この地上で、財産も名誉も功績も何
も残さなくても、天において豊かな報いを受ける人がおり、逆に、世の富み
や名声を得ていながら、天において僅かな報いしか与えられない人もいる。
「だれかの建てた建物が焼ければ、…損害を受けますが…火の中をくぐる
ようにして助かります。」その人が「木、草、藁」で家を建てるなら、その
家は、火によって焼かれるが、その人は憐れみにより、かろうじて救われる。
その人は、ロトのように、いのちが助かっても何も残らない。アブラハム
は、信仰によって神の豊かな祝福を受け継ぐが、ロトは、ヨルダンの低地、
罪人の町ソドムに住んだために、その町が滅びる時に全財産を失ってしまう。
神を信じる者がこの世的な生き方をする事で、天の祝福を失う事がないよ
うに自戒したい。「あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。」
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No.817 - 1月14日: 「御霊の人と肉の人」 コリント第1の手紙3章1節〜9節 |
(みことば)「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させた
のは神です。…大切なのは…注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
コリント第1の手紙3章6節
パウロは、「成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べたが、コリ
ント教会は、神の奥義である知恵を語る事ができない信仰の未熟さがあった。
パウロは、コリント教会に対して「御霊に属する人に対するように語るこ
とができずに、肉に属する人、…幼子に対するように」語った。彼らは、確
かに神の御霊を持つ聖徒達であったが、未だに肉に属する人、幼子であった。
「私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。…今で
もまだ無理なのです。」パウロは、彼らが年数に見合った成長を遂げていな
い事を嘆く。キリスト者は、何時までも幼子の様に未熟なままではいけない。
彼らの未熟さは、「まだ肉の人だから」であった。「肉の」とは、「肉的、
物質的な」の意味で、神の御心に反する罪に向かう性質を指す。彼らは、神
を信じていたが、御霊の人ではなく、肉の人、即ち、この世的な人であった。
彼らが「肉の人」である証拠は、彼らの間に「ねたみや争いがあった」か
らである。妬みや争いは、この世の集まりの何処でも起こる事だが、それが
教会の中にも起って来る。だが、それは、肉の性質から生じる問題である。
「ただの人」とは、原文で「人に向って」「人に対して」生きる人の事で
ある。即ち「肉に属する人」とは、その人の関心が人にあり、心を人に向け
て生きる人であり、「御霊に属する人」は、神に心を向ける人の事である。
「ある人は『私はパウロにつく』と言い、別の人は『私はアポロにつく」
と言っている。」教会の中に分派があり、競争意識や対抗意識から確執が生
じる。その原因は、肉的な思いで人を誇り、人につこうとする姿勢にある。
パウロは、既に分派の問題に関して「キリストが分割されたのですか。パ
ウロが、あなたがたのために十字架につけられたのですか。」と肉的なあり
方を批判した。コリント教会は、この世と変わらない肉的な集まりであった。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。…」人は、何者でもな
い自分を誇り、虚栄心や高ぶりを持ちやすい。だが、主は、この世の愚かな
者、弱い者、取るに足りない無に等しい者を選んで、神の栄光の器とされた。
「奉仕者」とは、「仕える人、給仕人」の意味であるが、主は、十字架に
かかる前に弟子達の足を洗われた。妬みや争いのある人は、人に仕えること
はできない。自分を誇らず、「なすべきことをしたまでです」と言えば良い。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。…成長させたのは神です。」宣
教の種蒔き、植える働きも、水を注ぎ、教会を養う牧会の働きも重要である。
だが人を成長させるのは、神の働きである。それを忘れて誇ってはならない。
「植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き…」それぞれの働きの優劣は
ない。それが一つに調和して、初めて良い働きができる。又、その奉仕と働
きには、報酬が伴う。「それぞれ自分の労苦に応じて自分の報いを受ける」
「私たちは神のために働く同労者であり、」牧師は、神が教会を建てる為
に選んだ器である。主が立てた権威への信頼がなければ、良い働きは出来な
い。神の畑で良い実を結ぶ為には、正しい心で御言葉を受け入れる事である。
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No.816 - 1月7日: 「キリストの心を持つ」 コリント第1の手紙2章6節〜16節 |
(みことば) 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の
心に思い浮かんだこと・・・神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」
コリント第1の手紙2章9節
パウロは、 「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによる
ものではなく・・・」と、福音が、この世の知恵によらないことを語って来た。
だが、彼は、 「私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と知
恵や知識を否定しない。キリスト者は、成熟した大人として知恵の言葉を語
るべきであるが、コリントの教会は、その点で未だに未成熟のままであった。
その知恵は、「この世の知恵でも、この世の・・・支配たちの知恵でも」ない。
世の知恵では、神を知る事も、救いに至る事もない。 この世の支配者は、 知
恵と権力を持って神を否定するが、 それは、 過ぎ去って行く支配に過ぎない。
だが、パウロは、「奥義のうちにある、隠された神の知恵」 を語る。 それ
は、キリストによって啓示された救いの真理であり、その福音の知恵は、「神
が私たちの栄光のために、 世界の始まる前から定めておられたもの」である。
「この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。」 世
の支配者は、一般の民衆より勝る優れた知恵と権力を持っていたが、彼らは、
その知恵で神を知ろうとせず、寧ろ「栄光の主を十字架につけて」しまった。
「目が見た事のないもの・・・神を愛する者たちに備えてくださった。」神の
救いの御業は、人間が計り知る事も、 想像することもできない「隠された神
の知恵」による事であり、神は「それを・・・御霊によって啓示して」下さった。
「啓示」とは、「覆いを取り除き、隠れている事柄を明らかにする」事で
あるが、キリスト者は、 神の御霊によって「罪について、義について、さば
きについて」神の御心を知り、救いの真理をはっきりと理解する事ができる。
「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」人の内に
御霊が宿るなら、御霊はその人の内にあって、神の隠された奥義を明らかに
する。「人間のことは、・・・ 人間の霊のほかに、・・・だれが知っているでしょう。」
人の人格は、固有のものであり、誰もその人の心の内を知る事はできない。
「同じように、神のことは、神の霊のほかにだれも知りません。」神の御霊
が、その人の内に住まなければ、人は、神について何も知る事はできない。
私達は、福音を語るのに「人間の知恵によって教えられたことばではなく、
御霊に教えられた言葉」を用いる。「その御霊のことばによって御霊のこと
を説明」する。福音は、御霊の働きがなければ、誰も理解する事ができない。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。」肉
に属する生来の人は、どんなに賢く知識があっても、神の御霊に関して全く
無知である。そこにキリスト者とこの世の人の高い壁があり、深い溝がある。
その溝は、人間的な知恵や方法で埋まらない。それは、ただ、十字架の贖
いと信仰によるが、 世の人にとって、それは 「愚かなことであり、理解する
ことが」できない。人は御霊によって回心しなければ、救いが分からない。
神の御霊を受けた人だけが言える言葉がある。それは、「イエスは主です。」
と告白することである。誰も、自分の知恵で「主を知り、主に助言」できる
人はいない。だが、私達は、御霊によって「キリストの心」を持っている。
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新年特別号 - 1月1日: 「主のあわれみと救い」 ルカの福音書1章57節〜80節 |
(みことば)「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住
んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
ルカの福音書1章79節
不妊のエリサベツとザカリヤ夫婦に待望の男の子が与えられる。彼は、キ
リストの来臨の前に人々に悔い改めを説き、救いの道を備える人物となる。
だが、ザカリヤは、親族や妻と一緒に、我が子の誕生を喜ぶ事ができない。
彼は、主の言葉を信じなかったので、口がきけず、話しができなかった。
だが、彼にとってその試練も意味のある事であった。「神の言葉を聞き、た
だ、黙って神の御業を待つ。」それが彼の信仰にとって必要なことであった。
人々は、幼子をザカリヤと名づけようとしたが、母親は、「名をヨハネと
しなければなりません。」と言った。それは、主の使いによる命令だったか
らである。彼らは、ユダヤ人の伝統や習慣よりも神の命令に従う道を選んだ。
ザカリヤは、「口がきけなくなる」という試練を通して、神への信頼を教
えられる。彼が「その子の名はヨハネ」と書いた時、彼の「口が開かれ、舌
が解かれ…神をほめたたえた。」賛美の口が与えられる事も主の恵みである。
人々は、これらの事を聞き「この子は何になるのでしょうか」と彼の将来
を好奇な目で想像した。「末は博士か大臣か」それは、世の人の価値観であ
る。彼は、やがてらくだの毛衣を着て、ヨルダンの荒野で悔い改めを説いた。
「幼子よ、あなたこそ、いと高き方の預言者と呼ばれる。」父ザカリヤは、
幼子がどのような者になるかを預言する。彼は、「主の御前を先だって行き、
その道を備え…」彼は、主の救いの道を備え「罪の赦しによる救い」を説く。
「罪の赦し」とは、キリストの十字架の贖いによる神の御子の代償的な死
を意味する。救いの中心は、ここにある。その救いを人々に語る働きこそ、
最も価値ある尊いものと言える。福音を宣べ伝える価値ある人生を歩もう。
「ザカリヤは聖霊に満たされて預言した。」その前半は、救い主を遣われ
た神への賛美であり、後半は、ヨハネが語る救い主キリストの「罪の赦しに
よる救い」についてである。彼の預言の中心は、キリストによる救いである。
「ほむべきかな、イスラエルの神…ダビデの家を立てられた。」イスラエ
ルの神は、私達の神であり、神がイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出
されたように、神は、キリストによって、私達を罪と滅びから救い出された。
「救いの角」とは、神の救いの権威である王としてのキリストを表わす。
「救いの角」即ちキリストは、「預言者の口を通して語られた」通りに現れ、
救いを完成し、神の敵である悪魔に勝利し、私達を敵の手から救い出された。
「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し…」神は、イスラエルとの契約
を決して忘れない。バビロンの捕囚、二千年間の離散など、ユダヤ人ほど数
奇な運命を辿った民族はいない。だが彼らは、主によって常に守られて来た。
私達が「敵の手から救い出され」たのは、主に仕える為であり、「主の御
前で、敬虔に、正しく」生きるためである。「これは、私たちの神の深いあ
われみによる。」ヨハネの意味は、「主は、あわれみ深くあり給う」である。
「曙の光が…暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし…」夜がどんなに
暗くても、朝の来ない夜はない。主が曙の光として、暗闇の世を照らされる。