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2024年の説教




No.832 - 4月28日: 「キリストにある自由」 コリント第1の手紙7章17節〜24節


(みことば)「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じ ように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」 コリント第1の手紙7章22節

 パウロは、これまで結婚をテーマに語って来たが、この箇所では、少し脇 道に逸れて、「割礼と奴隷」に関連して、神を信じる者の生き方を述べる。
 彼は、この箇所で、「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべ きです。」と繰り返して強調する。それは、前節で語った結婚の場合も同様 であるが、原則的に「召されたときのままの状態で歩む」ことを勧めている。



No.831 - 4月21日: 「平和を得させるため」 コリント第1の手紙7章8節〜16節


(みことば)「そのような場合には、…縛られることはありません。神は、 平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」 コリント第1の手紙7章15節

 パウロは、結婚した者の義務について語って来たが、彼自身は、独身でい ることを勧めた。だが、それも人それぞれ、神の賜物と生き方の違いがある。
 次に彼は、置かれた立場に従い、まず「結婚していない人とやもめ」に、 「私のようにしていられるなら、それが良いのです」と勧める。但し、それ も強制ではなく、「自制することができないなら、結婚しなさい。」と命じる。



No.830 - 4月14日: 「結婚と信仰」 コリント第1の手紙7章1節〜7節


(みことば)「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。 しかし、…自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」 コリント第1の手紙7章7節

 パウロは、これまで教会の不品行と不道徳の問題について語って来たが、 それに関連して、男女の関わり方、夫婦の問題、結婚について意見を述べる。
 コリントの教会の内外において、不品行が蔓延る状況において、教会には、 「男が女に触れないのは良いことだ」と禁欲的に考える人がいたようである。 パウロは、教会が「淫らな行いを避けるため」にどうすべきか質問に答える。



No.829 - 4月7日: 「神への愛が問われる時」 ヨハネの福音書21章15節〜19節


(みことば)「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、 わたしを愛していますか。」 ヨハネの福音書21章15節

 主は、ティベリヤ湖畔で弟子達の前に三度目の復活の姿を現されたが、イ エスは、岸辺で朝の食事を済ませた後で、シモンにご自身への愛を問われた。
 主の愛の問いかけは、ヨハネの福音書の最後の記述として相応しい。「イ エスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)主の愛の極みは、十字架の贖い の上にに現わされているが、主は、復活の後に、その愛を弟子達に問われた。



No.828 - 3月31日: 「岸辺に立たれる主」 ヨハネの福音書21章1節〜14節


(みことば)「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現 されたのは、これですでに三度目である。」 ヨハネの福音書21章14節

 ヨハネの福音書は、主の復活に関し、週の始めの日に弟子達の前に現われ た記事に続いて「ディベリヤ湖畔で…ご自分を現わされた」次第を述べる。
 「弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である」(14) 主は、復活の事実を繰返えし明らかにし、弟子達の疑いを取り除いて行く。 その後、彼らは、誰も「あなたはどなたですか」(12)と尋ねる者はなかった。



No.827 - 3月24日: 「神の栄光を現わす」 コリント第1の手紙6章12節〜20節


(みことば)「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、 自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」 コリント第1の手紙6章20節

 コリント人は、自由を謳歌し、「すべてのことが私には許されている」と 言い、「淫らな行い、姦淫、男色等、何をしても自由である」と主張した。
 パウロは、「正しくない者は神の国を相続できません」と語る。たとえ自 由があっても、善悪の区別を設け、神の国と他者の益にならない行為はする べきでない。罪に支配された人は、自由とは言えず、罪と悪魔の奴隷である。



No.826 - 3月17日: 「キリスト者の自由」 コリント第1の手紙6章7節〜12節


(みことば)「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべて が益になるわけではありません。…どんなことにも支配されはしません。」 コリント第1の手紙6章12節

 コリントの教会は、教会内の個人的な争いごとをこの世の法廷に訴えたり、 教会の中で軽んじられている人を裁判官として立てて解決を謀ろうとした。
 パウロは、「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」と語 る。世において兄弟が遺産相続を巡り骨肉の争いを繰り広げる事があるが、 兄弟同士の争いほど醜いものはなく、それなら、相続権を放棄した方が良い。



No.825 - 3月10日: 「聖徒に与えられた恵み」 コリント第1の手紙6章1節〜7節


(みことば) 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北 です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。」 コリント第1の手紙6章7節

 パウロは、不品行の問題から、再び、教会の中の争いの問題に言及するが、 それは、前回の様な分派ではなく、個人的な紛争とその解決についてである。
 それは、教会員同士の揉め事と言えるが、それが裁判沙汰にまで発展して しまう。ギリシャ人は、日常的な問題を直ぐに裁判に訴えて解決を図る習慣 があったので、弁論術や詭弁述が発達し、それを職業とする人も大勢いた。



No.824 - 3月3日: 「神の聖さを失わない」 コリント第1の手紙5章9節〜13節


(みことば)「外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中か らその悪い者を除き去りなさい。」 コリント第1の手紙5章13節

 パウロは、これまでコリントの教会の不品行の問題について論じ、教会が 聖さを保つことを勧めて来たが、最後の箇所は、その補足の説明と言える。
 「私は前の手紙で…と書きました。」パウロは、不品行の問題にいてコリ ント教会に「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と書簡を送っ たが、その手紙を誤って解釈する者がいたので、ここでその真意を伝える。



No.823 - 2月25日: 「古いパン種を取り除く」 コリント第1の手紙5章1節〜8節


(みことば)「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかな パン種が、こねた粉全体をふくらませることを…知らないのですか。」 コリント第1の手紙5章6節

 パウロは、これまでコリント教会に起っていた「分派の問題」について語 って来たが、5章から新しいテーマである「不品行の問題」について述べる。
 パウロは、コリントの教会に「淫らな行いがある」と聞いていたが、「淫 らな行い」(ポルネイア)は、ポルノの語源で「不適切な性的関係」を意味する。 自由な社会は、放縦に陥る危険があるが、日本は、性風俗等の倫理観が低い。



No.822 - 2月18日: 「信仰の模範者に倣う」 コリント第1の手紙4章14節〜21節


(みことば) 「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってくだ さい。そのために、私はあなたがたのところにデモテを送りました。」 コリント第1の手紙4章16節

 パウロは、教会において自らを誇り、神の言葉を越えて思い上がる人々に 対して、辛辣に皮肉を込めて彼らの霊的な幼さや信仰の欠点を指摘して来た。
 だが、彼は、 「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思 いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すため」であると語る。 人は、どんなに厳しい言葉も、愛から出ている言葉であるなら聞く耳を持っ。



No.821 - 2月11日: 「驕らず御言葉に生きる」 コリント第1の手紙4章6節〜13節


(みことば)「書かれていることを越えない」ことを…学ぶため…一方にく みし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。」 コリント第1の手紙4章6節

 パウロは、これまで彼自身とアポロに当てはめて、教会の指導者がキリス トのしもべ、神の奥義の管理者として忠実でなければならないと語って来た。
 それは、彼らの例から「書かれていることを越えない」事を学ばせる為で ある。「書かれていること」とは、聖書を指すが、神の言葉を越えた教えや 行動は、偽りである。聖書は、神の霊感によって書かれた真実な言葉である。



No.820 - 2月4日: 「神の家の管理者」 コリント第1の手紙4章1節〜5節


(みことば)「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える べきです。…管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」 コリント第1の手紙4章1、2節

 コリント教会は、パウロやアポロなど教会の指導者を頭に立て、人間を誇 る分派があったが、パウロは、本来、牧師や教師がどのような者かを語る。
 パウロは「私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える」べき であると語る。「しもべ」(ヒュペレース)は、「船の下で櫓を漕ぐ」の意味がある。 牧師は、権威を誇示するのではなく、教会に仕える者でなければならない。



No.819 - 1月28日: 「神の御霊の住む神の宮」 コリント第1の手紙3章16節〜23節


(みことば)「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうち に住んでおられることを知らないのですか。」 コリント第1の手紙3章16節

 パウロは、建物を建てる時に、揺るがない人生の土台としてキリストを据 える大切さと、その上にどの様な建物を建てるべきか注意するように語った。
 パウロは、教会を建物に譬え「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の 御霊が…住んでおられる…」と語る。「家」「建物」(オイコス)「建てる」の語根 は、「住む」(オイケオー)であり、その思想の中心に「住む」と言う原理がある。



No.818 - 1月21日: 「どのような家を建てるか」 コリント第1の手紙3章10節〜15節


(みことば)「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることは できないからです。その土台とはイエス・キリストです。」 コリント第1の手紙3章11

 パウロは、「信仰の成長」に関し「幼子と植物の成長」にたとえて語って 来たが、最後に、それを「神の建物」にたとえ、家を建てる時の注意を語る。
 パウロは、「私は…賢い建築家のように土台を据えました。」と語るが、彼 の賢さは、「神の恵み」により「神の奥義」に関する豊かな知恵を与えられ た事と、彼は、「家を建てるためにしっかりとした土台を据えた」事にある。



No.817 - 1月14日: 「御霊の人と肉の人」 コリント第1の手紙3章1節〜9節


(みことば)「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させた のは神です。…大切なのは…注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」 コリント第1の手紙3章6節

 パウロは、「成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べたが、コリ ント教会は、神の奥義である知恵を語る事ができない信仰の未熟さがあった。
 パウロは、コリント教会に対して「御霊に属する人に対するように語るこ とができずに、肉に属する人、…幼子に対するように」語った。彼らは、確 かに神の御霊を持つ聖徒達であったが、未だに肉に属する人、幼子であった。



No.816 - 1月7日: 「キリストの心を持つ」 コリント第1の手紙2章6節〜16節


(みことば) 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の 心に思い浮かんだこと・・・神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」 コリント第1の手紙2章9節

 パウロは、 「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによる ものではなく・・・」と、福音が、この世の知恵によらないことを語って来た。
 だが、彼は、 「私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と知 恵や知識を否定しない。キリスト者は、成熟した大人として知恵の言葉を語 るべきであるが、コリントの教会は、その点で未だに未成熟のままであった。



新年特別号 - 1月1日: 「主のあわれみと救い」 ルカの福音書1章57節〜80節


(みことば)「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住 んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」 ルカの福音書1章79節

 不妊のエリサベツとザカリヤ夫婦に待望の男の子が与えられる。彼は、キ リストの来臨の前に人々に悔い改めを説き、救いの道を備える人物となる。 だが、ザカリヤは、親族や妻と一緒に、我が子の誕生を喜ぶ事ができない。
 彼は、主の言葉を信じなかったので、口がきけず、話しができなかった。 だが、彼にとってその試練も意味のある事であった。「神の言葉を聞き、た だ、黙って神の御業を待つ。」それが彼の信仰にとって必要なことであった。