2026年の説教
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No.920 - 1月4日: 「主の来臨の輝きと救い」 テサロニケ第2の手紙2章8節〜17節 |
(みことば)「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御
口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」
テサロニケ第2の手紙2章8節
世の終わりに、背教の中で「不法の者」或いは「滅びの子」が現れる。彼
は、黙示録に記された「悪魔から権威を授けられた獣」即ち反キリストである。
「その時になると、不法の者が現れますが…」しかし「今はその者を引き
止めているものがある…」即ち、それは、教会に与えられた聖霊の働きと力
によるのであり、教会が存在する間、邪悪な独裁者の台頭が抑えられている。
だが、彼が現れても、その支配は暫くの間である。「彼は一周の間…堅い契約
を結び、半周の間…ささげ物をやめさせる」(ダニ 9:27)彼の世界支配は 7 年で、
エルサレムの支配は3年半続くが、彼は、主の来臨の輝きと伴に滅ぼされる。
不法の者が、どれほど勢力を増し加えても、「主イエスは、彼を御口の息
をもって殺し…」滅ぼされる。「御口の息」は、「キリストの霊」を表すが、
主の霊は、正しい人を生かし、悪しき者の息の根を一瞬で絶つ事ができる。
「来臨の輝き」は、「キリストが栄光の姿で再臨される」事を表す。テサロニケの
手紙で、「来臨」(パルーシア)は、6回「キリストの再臨」に関して用いられ、例外と
して1度だけ「不法の者は…到来し」と反キリストと対比して用いられている。
キリストは、父なる神の権威と力を受けて、この世に来られたが、反キリス
トは、サタンの働きによって到来し、彼には、「あらゆる力、偽りのしるし
と不思議、あらゆる悪の欺き」が伴っている。それが「滅びる者たちに」臨む。
その時、「いのちの書に…名が記されていない者は…獣を拝むようになる。」
(黙示録 13:8)逆に聖徒達は、混迷した時代の中で「捕らわれの身となり、剣で殺
される」(10)地上に残った聖徒とは、回心したユダヤ人キリスト者と言える。
敵対者が滅びるのは、「自分を救う真理を愛をもって受け入れなかった」
からである。直訳は「真理の愛」であるが、それは、キリストを指している。
彼らは、「真理と愛」に満ちたキリストを拒絶し、邪悪な支配者を信奉する。
又、彼らが滅びるのは、神が「惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるよ
うになる」からである。それは、神の主権的な意志によるが、それは、彼ら
がキリストを拒絶したからである。神は、決して人の意志を無視されない。
それは、「真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれ
る」為である。人は「誰に従うか」によって、その結末が全く変わる。人が取った
行動や態度は、やがて明るみに出され、正当な裁きを受ける時がやって来る。
そのパウロの語調が一転し、聖徒たちへ感謝と信頼に満ちた言葉に変わる。
それは聖徒達の「信仰が大いに成長し、互いに対する愛が増し加わっている」
(1:3)からである。彼らは、確かに「神の子」とされ、「主に愛された者」である。
彼らの救いは、第1に「御霊の聖別」により、第2に「真理に対する信仰」
により、第3に「神の選び」により、第4に「福音による神の召し」による。
最後に、救いは、「キリストの栄光に預かる」完成に向かって進んでいる。
それ故、聖徒達は「堅く立って…学んだ教え」をしっかりと守らなければ
ならない。それは、この世にはない唯一無二の神の救いの啓示である。神は、
恵みによって、ご自身の愛、永遠の慰め、救いの望みを聖徒達に与えて下さる。
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新年特別号 - 1月1日: 「創造者である神を思う」 伝道者の書3章11節 |
(みことば)「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、・・・までを見極めることができない。」
伝道者の書3章11節
人の持つ人生観は、様々であるが、神を信じる者は、この世界や人生に神
の支配や摂理を認める。だが、神を信じない人は、それを偶然の結果と考える。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」この御言葉には、神の支配や摂理が良く現わされている。もし、神の支配を否定するなら、この世界は、偶然の結果であり、人生に意味などはなく、虚無的な生き方になる。
だが、この世界は、決して偶然の産物ではなく、そこには、神が定めた自然界の法則があり、秩序があり、摂理がある。神が創造された宇宙や生命や人間のいのちを見る時に、そこには、神が創造された絶妙な美しさがある。
科学の進歩に伴い宇宙が解明されるにつれ、科学者を困惑させる事実が発見されている。それは「人間原理」と呼ばれ、宇宙に存在する様々な定数が「この値でなければ人間が存在し得ない」という絶妙な値を示している事である。
人間の身体を構成する細胞の仕組みにしても、その内部において、人間の意志に関係なく、生命が維持される為に必要な活動が絶え間なく行われている。 宇宙にしても、生命にしても、神の存在を前提にしなければ説明が出来ない。
創造者である神を信じる者は、この世界と人生に働く神の支配や摂理の御手を覚える事ができる。「神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」それは、神が人の心に与えた永遠の概念であり、「人は何処から来て、何処へ行くのか」という人類の永遠の課題である。それは、人間の起源や魂の行末を思索する宗教的概念である。
それは、目に見えない観念的な世界なので、科学で説明できない領域である。唯物論的世界観を持つ者は、「人は死んだら無になる」と考える。そうであるなら「この世が全て」であり、必然的に現世的、快楽的な生き方になる。
だが、人間は、神に似せて創造され、人間のいのちの根源は、魂や霊の内にある。魂の実在は、科学で証明できないが、人間の知性、感情、意志等の意識は、魂の実在を前提にしなけば説明ができない。人間の宗教性もそこにある。
この世の宗教は、人類の永遠の課題に答える事ができない。神道は、現世的な宗教で、人の生き方を問う事がなく、死後の裁きの概念もない。だが、神が人の心に与えた永遠への思いは、神を覚えさせ、その生き方を問う為である。
「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」これは、人間の知性の限界性を述べている。生来の理性では、魂の起源や行末は勿論、世界の存在の根拠や人間のいのちの起源を解明できない。
哲学者が真理を探究しても「不可知論」か「虚無主義」に陥るかどちらかである。だが、伝道者の書は「空の空。」と言う言葉で始まるが、それは、逆説的な言い方で「神を認めず、現世の幸福のみを追求する空しさ」を説いている。
「見極めることができない」とは、「見つけられずに失敗する」の意味で、知性を極めた哲学者や科学者が、どんなに神や真理を探究してもそれを見出す事ができない。それは、特別啓示である聖書とキリストと聖霊の御業による。
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No.919 - 12月28日: 「不法の者の到来」 テサロニケ第2の手紙2章1節〜7節 |
(みことば)「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者
を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。」
テサロニケ第2の手紙2章6節
テサロニケの手紙のテーマの一つは、「世の終わり」即ち「終末に起こる
出来事」に関してであるが、特にそれは「主の再臨」に関連した事柄である。
「さて兄弟たち。…キリストの来臨と…集められることに関して…」パウロ
は、「主の再臨」と「聖徒達が集められる」事に関して、既に、前回の手紙で
述べた。その時、聖徒達は、「…引き上げられ、空中で主と会う」(4:17)事になる。
パウロは、主の再臨に関して「霊によってであれ…主の日がすでに来たか
のように」と騙る偽りの言葉に惑わされないよう注意を促す。「主の再臨」は、
将来に起こる事であり「イエスは…見たのと同じ有様で…」天から再臨される。
悪魔はあらゆる手段を用いて聖徒達の信仰を惑わす。「霊によって…」その
霊が神からのものかどうか良く吟味すべきである。「ことばによって…」言葉
巧みに人を騙す詐欺が横行している。真実な神の言葉に信頼すべきである。
「手紙によって…」パウロの名を騙る者が多く現れ、人々を惑わした。この
世には、似て非なるものが沢山ある。キリスト教を真似た宗教は五万とある。
だが、神の言葉によらない信仰は、風と波に揺れ動く舟のように翻弄される。
パウロは、「どんな手段によっても、誰にも騙されないように」と注意を
促す。主の日が来る前に、人類の歴史に必ず起こる出来事がある。「まず背教
が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない…」
「背教」と訳された言葉は、「政治的・軍事的な反乱」を意味し、旧約で
は「主に対する反逆」の意味で使われている。即ち、主の再臨の前に、神に
敵対する勢力が現れ、その首謀者となる人物、即ち「不法の者」が登場する。
「不法の者」とは、「神の律法や定めに背き、それを無視する者」の意味で
あり、彼は、同時に「滅びの子」と呼ばれているので、その人物は一時的に
世界を支配し、神に反旗を翻すが、最後は神により滅びが定められている。
「不法な者は、すべて神と呼ばれるもの…に対抗して自分を高く上げ…神
であると宣言して、神の宮に座る…」彼は、政治的権力を握り、世界を制覇し、
宗教的力を用いて神のように尊大に振る舞う。悪魔が彼に権威を授けている。
彼は、黙示録に登場する「獣」であり、即ち反キリストである。「神の宮に座
る」とは、エルサレム神殿と思われるが、やがてエルサレム神殿が再建される
だろう。ダニエルは、「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つ」と預言した。
パウロは、「不法の者の到来の時期」について語る。「その定められた時に現
れるようにと、今は…引き止めているものがある…」第1に、不法の者の到来は、
神の定めと計画に基づいており、神の許しがなければ、それは起こらない。
第2に、今彼が現れないのは、彼を「引き止めている力」が働いているからで
ある。「引き止めているもの」とは、次の「今引き止めている者が取り除かれる
時まで」と合せて考えると「教会に与えられた聖霊の力と働き」と理解できる。
聖霊は、信者の新生だけでなく、社会の罪を抑制し、福祉を向上させる等一
般的な働きもある。聖霊が取り除かれる時、即ち、信者が天に上げられる事に
より、この地上に悪の抑制が無くなり、一挙に独裁者の台頭を許す事になる。
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No.918 - 12月21日: 「救い主の誕生と栄光」 ルカの福音書2章1節〜20節 |
(みことば)「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに
なりました。この方こそ主キリストです。」
ルカの福音書2章11節
ルカの福音書は、キリストの誕生を記す唯一の書簡であるが、著者は、キ
リストの誕生を「この世の王と神の国の王」との対比の中で、それを語る。
キリストの誕生の際、世界の支配者は、皇帝アウグストゥスであった。彼
の名は、オクタヴィアヌスだが、アクグストゥスは、元老院から受けた初代
ローマ皇帝の称号である。キリストとは、救い主の称号で、イエスと呼ばれた。
マリヤは、既に聖霊によって身籠り、ヨセフもその事実を信仰によって受
け入れ出産の準備をする。だが、その直前に皇帝アウグストゥスから住民登録
の勅令が出され、彼らはナザレから出身地ダビデの町ベツレヘムへ旅をする。
それは、彼らにとって突然の出来事で、身重のマリヤには辛い旅となった。
だが、キリストがベツレヘムで誕生する事は、主の約束とご計画に基づく事
であった。「ベツレヘム…あなたから…イスラエルを治める者が出る。」(ミカ5:2)
神を信じる者は、苦難の中においても、神のご計画の内を生きており、そこ
には、確かな導きがある。だから、動揺したり失望する必要はない。人類の歴
史は、キリストの誕生(西暦)を起源とし、神の国の完成に向かって進んでいる。
「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。…飼葉桶に寝かせた。」何
故、キリストは、飼葉桶に寝かされたのか。それは、「宿屋には彼らのいる
場所がなかった」からである。宿屋は、住民登録の為の帰省客で満室であった。
能力と財力のある者が先に部屋を確保し、力のない弱い者は、そこから締
め出される。この世は、愛のない非情な世界である。だが、天の御国の栄光
を受け、神の国の王となる方が、最も貧しい所に下り、飼葉桶を産屋とされる。
そこは、この世のどんな豪華な宮廷より神の栄光で満ちている。教会は、権
力も財力もない貧しい者の集まりだが、そこには、主の恵みとまことがある。
キリストの誕生は、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼い達に
知らされる。羊飼いと羊の群れは、神と神の民を象徴している。「主は、私
の羊飼い。私は乏しいことがありません。」教会は、神の民の群れである。
神は、小さな貧しい群れ(教会)を主の栄光で照らされる。その牧者はキリスト
である。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
御使いは、彼らに「大きな喜びを告げ知らせます」と語る。直訳すると「福
音を宣べ伝える」であるが、それは、教会に与えられた使命である。「喜び
の知らせ」とは、「今日ダビデの町で…救い主がお生まになりました。」である。
ユダヤ人は、長年メシヤの誕生を待望して来たが、それが「今日」実現す
る。即ち、彼らにとって「今日」は、救いの記念日である。同様に「今日」キ
リストを救い主と信じるなら、その人には、罪の赦しと神の救いが実現する。
救いのしるしは「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」である。キ
リストは、貧しい彼らの為に、神の栄光の全てを捨てて地上に下り、宮廷では
なく、家畜小屋で生まれ、十字架の死によって神の民を罪から贖い出された。
「栄光が神に…地の上に平和が…」主に贖われた者は、神との平和を持ち、
主の栄光の為に生きる者となる。彼らはベツレヘムを巡って幼子を見出した。
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No.917 - 12月14日: 「神の審判と聖徒の証し」 テサロニケ第2の手紙1章8節〜12節 |
(みことば)「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わ
ない人々に罰を与えられます。」
テサロニケ第2の手紙1章8節
キリスト者が苦難の中でも忍耐して信仰を保つ事が出来るのは、神の正し
い裁きがあり、やがて、キリストが天から現れる事を知っているからである。
冒頭の御言葉は、「神の正しさ」が全ての人に証明される「神の審判」の
時に実現する。それは、世の人にとって聴き辛い、或いは、聞きたくないと
思える言葉であるが、それは神の義に基づく、神のご計画による定めである。
「神の正当な裁きがある」のは、人間が神によって「神に似た性質を持つ道
徳的な被造物として創造されている」からである。人間は、他の動物と違って
理性、道徳性、宗教性を備え、人格性や自由性を持つ存在として造られている。
だが、人間はアダムの違反以降、全ての人が罪の性質を持って生まれ、神
に背き、神を神として崇めず、感謝もせず、偶像を神として拝むようになる。
その結果、人類の歴史が物語るように、罪の渦巻く世界となってしまった。
神の裁きの対象の第1は「神の知らない人々」である。それは、神に対す
る無知によるが、それは、日本人一般について言える。多くの人は、創造者で
ある神を知らず、神社、仏壇、神棚などの偶像を作り、それを神と信じている。
それは、人々がまことの神を知らないからであるが、知らないからと言っ
て、それで無罪になる訳ではない。人は、社会の法律に違反すれば処罰を受け
る様に、創造者である神の定めに従わなければ、罰を受けるのは当然である。
神の裁きの対象の第2は「福音に従わない人々」である。これは、知識以
上に意志や行動を問われている。彼らは、多くのユダヤ人の様に福音を聞い
ていながら、故意にそれに反抗する。神の刑罰の時、彼らに弁解の余地はない。
従って、神を知らない人々にも、福音に従わない人々にも神の刑罰が下る。
原語の8節冒頭には「燃える炎の中で」とあり、それは、神の刑罰の状況を
示す修飾語であり、それは「永遠の滅びという刑罰」を表していると言える。
神を知らない者や神に逆らう者が「永遠の火の刑罰を受ける」と知ってい
るなら、愛する家族や知人がそのような悲惨な末路を辿らないように、たとえ
伝道が困難でも、福音を伝える努力をし、彼らの救いの為に祈るべきである。
「その日に主イエスは来て…感嘆の的となられ…」神の審判は、主イエス
の来臨と共に実現し、不信者への審判が下され、信者には永遠の安息が与え
られる。その時キリストは、全ての人に主として崇めれ「感嘆の的」となる。
彼らは、パウロの福音の証言を受け入れた。「あなたがたは信じたのです。」
パウロは、彼らに、これ迄「世の終わり」「神の裁き」「キリストの来臨」と
「信者の安息」を語って来たが、それは、世の人には愚かと思える事ある。
パウロは「神が…召しにふさわしい者にして下さるように」と祈る。「婚礼
の披露宴を催した王」(マタイ 22:1~14)の譬えの中で、「礼服を着ていない」一人
の人は、外に締め出される。礼服とは、聖徒に相応しい装い、生き方と言える。
第2に、パウロは、「御力によって、善を求め…信仰から出た働きを実現し
てくださるように。」と祈る。「道徳的善と宗教的事柄において、神の御旨を
行い、神の栄光と証しになるように。」それが、私達の生きる目的である。
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No.916 - 12月7日: 「神の正当な裁きと報い」 テサロニケ第2の手紙1章1節〜7節 |
(みことば)「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、
報いとして苦しみを与え…あなたがたに…安息を与えることです。」
テサロニケ第2の手紙1章6,7節
パウロは、テサロニケ第1の手紙に続き、「パウロ、シルワノ、テモテ」の3
人から教会に宛てて第2の手紙を書き送るが、それは、ユダヤ人の迫害によ
って離れざるを得なかったテサロニケの聖徒の信仰を励ますためであった。
パウロは、テモテから「苦難の中で堅く信仰つ」彼らの信仰を聞いて、「恵み
と平安が…あるように」と祈り、再度、苦難の中にある者を励まし、気落ちした
者を慰め、怠惰な者を戒め、終わりの日に来る不法な者に備える様に勧める。
「私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。」
パウロは、彼らの信仰に関し、神に感謝するのが当然の義務のように語る。世
の人は、神の恵みに対し、神を崇めず感謝もしないが、それは当然ではない。
パウロは、異教の地でも、彼らの「信仰が大いに成長し…愛が増し加わってい
る」事を神に感謝する。植物が自然の恵みによって成長する様に、彼らの信仰
は、健全な霊と御言葉の養いと神の恵みにより目を見張る程の成長を遂げる。
第2に「愛が増し加わっている」事であるが、愛の対象は、「教会の交わり」
と「一人ひとりの互いに対する」ものである。信仰の成長と愛を切り離して考
える事は出来ない。信仰は、「教会の交わり」と兄弟愛を土壌として成長する。
「神の諸教会の間で…誇りに思っています。」パウロは、人に対して「誇りに思
う」と余り言わないが、それは伝道者パウロが、どれ程、「彼らの信仰を喜んで
いたのか」を物語る。私達の信仰は、「神の喜びと誇りになっている」だろうか。
パウロが彼らを誇りに思うのは、彼らが「あらゆる迫害と苦難に耐えなが
ら、忍耐と信仰を保っている」からである。信仰と愛が分離できないように、
「信仰と忍耐」或いは「苦難に耐える」事は、切り離す事が出来ない要素である。
「敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受ける」妥協すれば、安泰でいら
れるが、それでは、神への誠実さが失われる。「信仰」(ピスティス)は「誠実」とも訳
せる。苦難に耐え、神への誠実さを保つなら、神も勝利と力を与えて下さる。
「それは、…神の正しいさばきがあることの証拠です。」「信仰に伴う苦難や
迫害が起こる」事は、「神の正しいさばき」の証拠となる。「証拠」は、「兆候」
「兆し」の意味なので、それは、神が人間に為される将来の審判を意味する。
将来、神の裁きは、必ずあるが、その前に、神に敵対する者の迫害が必ず起
る。それは、神が忍耐して裁きの時を待っておられる証拠である。「ノアの
時代の洪水」「ソドムの滅び」「エジプトへの裁き」が、その歴史的実例である。
それは、聖徒達が「神の国にふさわしいものと認め」られる為であり、彼
らが「苦しみを受けているのは、この神の国のため」である。今の時代が、
悪魔の支配する世界であるなら、キリスト者が迫害を受けるのは当然である。
神の正義は、「苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、…苦しめられて
いる」者には、「報いとして安息を与える」事である。義なる神は、人に正当な
報いを求める。「罪から来る報酬は死です。…神の賜物は、…永遠のいのちです。」
信仰に生きる者は、やがて「報いとして安息」を与えられる。それは、「主イ
エスが…天から現れる」時に起こる。その日、神に逆らう者への審判が下る。