2022年の説教
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No.762 - 12月25日: クリスマス「東方の博士の来訪」 マタイの福音書2章1節〜12節 |
(みことば)「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられま
すか。…その方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
マタイの福音書2章2節
キリストは「ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」
が、東の博士達は「星が昇るのを」見て、エルサレムにやって来て言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私た
ちは…礼拝するために来ました。」彼らは、バビロンかペルシャの天文学者
と思われるが、星の出現した時から旅を始め、数か月経っていたと思われる。
彼らは、「星が昇る」自然現象を見て、遠くユダヤまで旅をした。その星
は、「彼の星」と訳せるが、偉大な王の誕生を告げるキリストの星である。
預言者バラムは「ヤコブから一つの星が進み出る。」(民数 24:17)と預言した。
天に輝く星は、世界のどの地に住む人々にも見えるが、神は、ユダヤから
遠く離れた東の国の人々に、星を通してキリストの誕生を啓示された。それ
は、「神を求めさせ」、全ての人々が「神を見出す」(使徒 17:27)ためである。
博士達は、星の出現を「ユダヤ人の王の誕生」と考えた。彼らは、ユダヤ
人のバビロン捕囚を通して「メシア預言」を知っていたと思われる。彼らは、
ユダヤの文書と天文学の知識を重ね合わせ、メシアの誕生の事実に辿り着く。
神は、自然啓示と御言葉により神の救いを示されるが、世に来られた御子
キリストこそ最高の啓示である。西暦は、キリストの誕生を紀元としている。
博士達はエルサレムに着いたが、人々は王の誕生を喜ぶどころか、誰も王
が誕生した事すら知らなかった。イエスは既にベツレヘムの家畜小屋で静か
に生まれていた。皮肉にも人々は異邦人によってユダヤ人の王の誕生を知る。
だが、「これを聞いてヘロデ王は動揺し…エルサレム中の人々も…同じで
あった。」ヘロデは、正統なユダヤ人の血筋ではなく、エドム人だったので
ユダヤ人の王の誕生を聞き狼狽する。権力や地位に固執する者は平安がない。
ヘロデは、「キリストはどこで生まれるのか」と問い質すと、学者らは、「ユ
ダヤのベツレヘムです」と答える。預言者は「ベツレヘムからイスラエルを
治める者が出る」と預言していた。だが誰一人ベツレヘムに行く者がいない。
ヘロデは、博士達に「幼子について詳しく調べ…知らせてもらいたい」と
言って送り出す。彼は、幼子を殺す魂胆があったが、権力者の力でそうする
事は容易い。だが、幼子の命は守られ、ヘロデは、その年に命を絶たれる。
彼らがベツレヘムに向かうと「かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に
立って進み、ついに幼子のいるところまで来て…」自然現象では、あり得な
い事だが、神は、奇跡と摂理の御業で、彼らを幼子のいる家まで導かれた。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」あなたの人生には、あな
たを神の救いへと導く星が輝いているだろうか。彼らは「幼子を見、平伏し
て礼拝した。」彼らの旅(人生)の目的は、キリストを礼拝する事であった。
彼らは、「黄金、乳香、没薬」を贈り物として献げた。それは、王に仕え
る献身の証であり、彼らの行為は、その後永遠に讃えらえ、彼らの誉となる。
「彼らは夢で…警告されたので、別の道から…帰って行った。」神は、彼
らにヘロデの所に戻らないよう警告する。私達は罪の道に戻ってはならない。
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No.761 - 12月18日: 「主のはしため」 ルカの福音書1章26節〜38節 |
(みことば)「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお
ことばどおり、この身になりますように。」
ルカの福音書1章38節
ガリラヤのナザレに住むマリヤは、御使いガブリエルから神の子の受胎告
知を受ける。彼女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけであった。
彼女は、御使いの言葉に「ひどく戸惑って」「どうしてそのようなことが
…」と驚く。彼女は、ナザレの片田舎に住む未婚の処女で、歴史に名を刻む
様な人ではなかった。その人が、今や救い主の母として知らない人はいない。
新約における神の救いの御業は、「処女マリヤが救い主となる男の子を産
む」ことから全てが始まる。神の御子が彼女の胎に宿る事は、彼女自身が予
想も計画もしていなかった出来事で、彼女自身も信じ難い神の奇跡であった。
キリスト者は、キリストが内に宿ることにより、それまで想像もしなかっ
た驚くべき人生が備えられる。「おめでとう。(喜べ)恵まれた方、主があな
たとともにおられます。」喜びと恵みは、主が共におられる所から始まる。
主の御霊が宿る者は、どんな時も恐れる必要はない。「恐れることはあり
ません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」その人の人生が無
駄に終わり、惨めな最期を遂げる事はない。それは、ただ、神の恵みによる。
「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を生みます。その名をイエスと
つけなさい。」それは、八百年前の預言者イザヤの言葉の成就である。「見よ、
処女が身ごもっている。…男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
「その子は大いなる者となり…主は、…ダビデの王位をお与えになります。」
ヨセフはダビデの家系であったが、王の栄光は長く没落してた。だが、預言
者は、「ダビデの王国の王座がキリストにより永遠に確立する」と約束した。
「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配は終わりがありません。」
天の御国は、イエスの十字架と復活によって完成し、今や全世界に福音が伝
えられている。私達は、天の御国を治める王のしもべとして仕える者である。
彼女は「どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りま
せんのに」と言った。未婚の処女が子を産む前例は一度もない。神の言葉は、
必ずしも自然界の法則や常識的な考えや世間一般の規準に当て嵌まらない。
「聖霊があなたの上に臨み…神の子と呼ばれます。」聖霊の働きがなけれ
ば、その様な奇跡は起らない。それ故、生まれる子は「聖なる者、神の子」
と呼ばれる。聖霊によらなければ、誰も「イエスは主です」と告白できない。
御使いは、神の言葉がマリアに実現する事を「不妊と言われていた」親類
のエリサベツに起った事で証明する。「今はもう六か月です。」旧約の神の御
業は、アブラハムを始め、不妊の夫婦への超自然的な神の御業に始っている。
「神にとって不可能なことは何もありません。」神の祝福は、神の言葉へ
の信頼にかかっている。勿論、キリスト者は、全能の神の力を信じているだ
ろう。だが、それは、人の願い通りに「神が何でもして下さる」事ではない。
神の救いは派手な奇跡によらず、御子が処女の胎に宿り、馬小屋で生まれ、
十字架の贖いにより実現する。彼女は「あなたのおことばどおり…」と主の
はしためとして全てを主に委ねる。主の母としての祝福は、そこに実現する。
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No.760 - 12月11日: 「何度まで赦すべきか」 マタイの福音書18章21節〜35節 |
(みことば)「イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回
を七十倍するまでです。」
マタイの福音書18章22節
キリストは、天の御国の構成員である兄弟が罪を犯した時の処遇について
述べて来たが、次に、ペテロの質問から兄弟の罪に対する赦しについて語る。
ペテロは、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。
7回まででしょうか。」と尋ねる。その兄弟の罪とは、教会で審議されるよ
うな重大なものではなく、寧ろ、ペテロに対する個人的な罪についてである。
ペテロは、12弟子のリーダー的な存在であったので、他の兄弟から妬み
や謂れの無い批判を受ける事があったのだろう。神を信じる者の交わりでも、
その様な肉の感情が起こり、相手に皮肉を言い、冷たい態度を取る事もある。
その兄弟の罪は、個人的なものであるので、自分が我慢すれば済む。だが、
彼は、それを何回まで赦すべきかと考えた。通常3回が忍耐の限界であるが、
彼は、キリストの弟子として「7回まででしょうか」と模範な回答を示した。
確かに、兄弟の罪を七回赦せたら立派であるが、主は、「わたしは七回ま
でとは言いません。七回を七十倍するまで」と答える。その数は、厳密に言
うなら490回だが、それは数の問題ではなく、赦しの本質的な問題である。
人は、傷を受けた者に復讐心が起こる。「カインに七倍の復讐があるなら、
レメクには七十七倍。」(創世 4:24)人は、他人の罪に厳しく、自分の罪に甘い。
だが、主は兄弟に対して裁きや復讐ではなく赦しを求めた。それは3回や
7回ではなく「七を七十倍するまで」である。どの様にしたら主の言葉を実
行できるだろう。主は、その為に「負債を免除されたしもべ」の譬えを話す。
一人の王が家来達と清算をしたいと考え、まず「一万タラントの負債のあ
る者」が連れて来られた。その負債額は、現在の金額で6千億円に相当する。
王は、彼に「持っている物もすべて売って返済するように」命じる。彼は、
「もう少し待ってください…」と答えるが、彼に返済の目途など全く無い。
だが、「君主はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」驚
く事であるが、それは、ただ君主の憐みによる。「かわいそうに思う」は、「内
臓が震える」の意味で、キリストが民を憐れむ感情の表現として用いられる。
しもべは、王の憐みにより、自分では到底返済できない負債を免除される。
私達は、神に対して大きな罪の負債を負っていたが、キリストが全ての負債
を負って十字架にかかって下さったので、私達の罪の負債は全額免除された。
だが、莫大な負債を免除されたしもべは、出て行くと「自分に百デナリの
借りのある仲間」に出会うと彼の首を絞め「借金を返せ」と言った。その額
は、彼が免除された60万分の1であるが、彼はその僅かな負債を赦せない。
彼の仲間は、「もう少しまってください…」と嘆願するが、「彼は承知せず
…牢に放り込んだ。」神の愛と赦しを知る者は、兄弟の罪を赦すべきであり、
赦せないのは理不尽な事である。だが、我々は、それを平然とやってのける。
「彼の仲間たちは…心を痛め…主君に話した。」彼の仲間とは小さな者に
寄り添う彼らの御使いかも知れない。王は、彼を呼んで「仲間を憐れんでや
るべきであった」と叱責する。主と御使いが天で心を痛める事が無いように。
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No.759 - 12月4日: 「教会が聖さを保つため」 マタイの福音書18章15節〜20節 |
(みことば)「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つ
にして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」
マタイの福音書18章6節
キリストは、天の御国の構成員に対する態度を語って来たが、次に、その
構成員(兄弟と呼ばれる者)が罪を犯した場合の対応と処遇について語る。
教会は、神の御心を行う聖なる集まりであるから、兄弟が犯す罪を有耶無
耶にする事なく厳正に対処すべきである。他方で、その人が悔い改めるなら、
罪を赦す寛容さも必要である。教会はその両面を正しく実行する必要がある。
「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの
ところで指摘しなさい。」まず、同じ兄弟が罪を犯している事を知ったなら、
その人は黙っていないで、個人的に罪を指摘し、悔い改めを迫るべきである。
「その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得
たことになります。」その人が悔い改めるなら、神の裁きを受ける事が無く、
神との正しい関係と救いを回復する。人を恐れず、真実を告げるべきである。
「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。」
彼が忠告を聞き入れない場合、複数の証人の証言によって事実が立証される
必要がある。人の罪は、軽々しく個人の偏った感情で裁かれるべきではない。
「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。」最
終手段は、兄弟の犯している罪を教会に伝え、審議する事である。教会は、
神の民の共同体であるから、兄弟の犯す罪は、個人の問題で済まされない。
だが、その人が、「教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人
か取税人のように」扱わなければならない。その人はもはや天の御国と関係
なく、救いから除外された者である。教会にとって、これ程の痛みはない。
「聞き入れる」と言う言葉が4回繰り返されるが、神は、教会の交わりを
通して、神の民が罪を犯さないように、或いは、罪を犯しても悔い改める機
会を与えて下さる。ですから、教会と主にある兄弟の忠告を聞くべきである。
神の民は、羊に譬えられるが、羊は迷いやすい動物で、弱い生き物である。
単独で行動する羊は、簡単に狼の餌食となり命を落とす。神の羊は、命を保
つ為に、良い牧者のいる羊の群れ、即ち、教会にしっかり留まるべきである。
「あなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ…」同じ言葉は、主の
「天の御国の鍵を与える」約束の後で語られる。「つなぐ」は「拘束する」
の意味で禁止を、「解く」は「解放する」の意味で「赦し・許可」を表す。
教会の勧告に基づく決定は、その人の後の運命と直結する。罪を悔い改め
ない者は、教会の宣言により天の御国から除外される。教会は、キリストか
ら「天の御国の鍵」即ち、天の御国の入国の許可と禁止の権威を与えられた。
最後に、地上の教会に留まる者の恵みが語られる。「あなたがたのうちの
二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら…」複数の者が主の
名によって心を一つにして祈る時、神はその祈りを天において聞いて下さる。
「二人か三人が…ところには、わたしもその中にいる」複数の兄弟は、罪
の指摘の為ではなく、心を一つに祈る為に集まる。神は主の名によって集ま
る祈りと礼拝の真ん中におられる。その交わりは神の命と恵みが溢れている。
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No.758 - 11月27日: 「失われた小さな者への愛」 マタイの福音書18章6節〜14節 |
(みことば)「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。」
マタイの福音書18章6節
キリストは、「子どものようにならなければ…」と天の御国で求められる
大切な資質を語り、小さな者をご自分の名の故に受け入れるよう命じられた。
更にキリストは「小さい者たちの一人をつまずかせる者は…」と躓きを与
える者に厳しく警告する。「つまずかせる」(スカンダロン)は、スキャンダルの語源で、
故意に天の御国に入る事を妨げる行為で、躓きの原因を作る者の事である。
それは福音を歪め、小さな者を惑わし、主の教えと違う生き方に人を導く
誘惑者の事である。その様な者は「大きな石臼に首をかけられて、海の深み
に沈めら」れた方が良い。パウロも「その者はのろわれるべきです」と語る。
「つまずきが起こるのは避けられませんが…」教会は、常にこの世から誘
惑を受け、それを避ける事はできない。政治家やタレントにスキャンダルが
付き纏う様に、キリスト者も常に誘惑に晒されている。私達は心して歩もう。
「つまづきをもたらす者はわざわいです。」「わざわい」は、嘆き(ああ)の意
味で、主は「わざわいだ、偽善の律法学者…」と躓きを齎す者を嘆かれた。
人類への最初の誘惑は、悪魔によるが、その罠に陥らない様に気を付けよう。
主は、「手か足があなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。」
と命じる。それは他者への配慮ではなく、自らの問題である。それは比喩的
に解釈されるべきで、誘惑に対して断固とした態度と処置を取る必要を語る。
不具な体で「いのちに入るほうが」健全な体で「永遠の火に投げこまれる」
より良い。自分や家族が、永遠の火で焼かれる時を想像できるだろうか。あ
なたを天の御国に入らせない、つまずきの要因を早急に取り除く必要がある。
「小さい者たちの一人を軽んじたりしないように…」それは、彼らの真ん
中に立たせた子どもが実物教育であるが、「誰が偉いか」と議論している時
には、小さな者達は無視されて来た。教会は小さな者を排除してはならない。
この世は、「裕福な人、能力のある人、学歴や地位のある人」が重んじら
れるが、ヤコブは、「人をえこひいき」し、「裕福な人と貧しい人を差別して
はならない」と語る。「彼らの御使いたちは…父の御顔をいつも見ている」
最後に、キリストは、「失われた一匹の羊」の譬えを語る。「そのうちの一
匹が迷い出たら…迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。」その否定の
疑問形には、「失われた羊への所有者の愛と強い意志」が込められている。
羊の所有者は、百匹の羊を持っていても、失われた一匹の羊を心にかけて
いる。彼が、羊の一匹一匹をかけがえのない存在として見ていなければ、一
匹が失われても気にかけなかっただろう。神は、私達をその様に見ていない。
迷った羊は、所有者から離れ、呑気に歩んでいたかも知れない。だが、群
れから離れた羊の最後は滅びであり、それは神から離れた罪人の姿である。
「その人は九十九匹を山に残して…」残りの羊がどうでも良い訳ではない。
彼は、失われた羊を放っておけず、それを探して見出したいと願っている。
「この小さい者たちの一人が滅びることは、…父の御心ではありません。」
失われた者への愛こそ、キリストが十字架にかかり、命を捨てる動機である。
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No.757 - 11月20日: 「天の御国に生きる者の資質」 マタイの福音書18章1節〜5節 |
(みことば)「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、
天の御国で一番偉いのです。」
マタイの福音書18章4節
キリストは、ガリラヤの活動を終えてエルサレムに向けて出発する前に、
弟子達が「天の御国の共同体においてどのように生きるべきか」を語る。
弟子達は、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」とイエス
に尋ねた。それは、キリストがエルサレムにおいて苦しみを受ける告知の後
の事であるが、彼らの中には、まだ、互いの間に比較と競争意識があった。
彼らは、天の御国に向って進んいでいても、まだ、多くの肉の弱さを抱え
ていた。それは、今日の教会にも起こる問題であり、他の人と比べて優って
いると思うと優越感や高ぶりが生じ、劣っていると劣等感や卑屈さが生じる。
その露骨な態度は、エルサレムに上る途上で、ゼベダイの母が、「私の二
人の息子があなたの御国で、一人はなあたの右に、一人は左に座れるように」
との願いに現れる。しかし、天の御国は、この世の権力闘争の世界と違う。
そこで、「イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立た」せる。
その子どもは、彼らの問いに対する実物教育である。イエスは「向きを変え
て子どものようにならなければ、決して天の御国入れません。」と言われた。
子どもの第1の特徴は、素直に委ねて、信頼する事である。子どもは、親
の愛を疑わない。同様に、子どものように、素直に神に信頼しなければ、天
の御国に入る事はできない。多くの人は、大切な子どもの性質を失っている。
世の人は、自分が何でも出来る大人のように錯覚し、他のものに頼る事は、
弱い者のする事と考える。だが、人は、産まれた時に何もできなかった幼い
頃の事を忘れ、幼子の心を失い、神を信じる事が、愚かな事の様に考える。
「向きを変えて」とは、「方向を変える」の意味であり、神なしの生き方
を止め、方向転換しなければ、天の御国に入る事は出来ない。多くの人は、
今の生き方や習慣を変えようとしないが、その行き着く先は、滅びである。
主は、弟子達の問いに「この子どものように自分を低くする人が、天の御
国で一番偉いのです」と答える。彼らは、「誰が偉いか」の問いに、功績や
実績を残した人を連想したに違いない。だが、御国の評価はそれと全く違う。
私達は、これまでの自分の態度や評価を見直す必要がある。もし、私達が
自分の行為を誇るなら、それにより、これまでの功績さえ無駄にしてしまう。
寧ろ、私達は、「なすべきことをしただけです。」と謙遜に言うべきである。
天の御国で求められる資質は「低くなる」事である。それは、偽りと見せ
かけの謙遜ではない。世の人は、人の評価を気にするが、「誰が偉いか」を
決めるのは神である。人の評価ではなく、神の誉を受けられる歩みをしよう。
最後に、イエスは、「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名の
ゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と語る。「このような
子どもの一人」とは、この世から無視されるような小さな存在を意味する。
教会は、その様な小さな人々の群れである。この社会では無視される様な
人々が、神の恵みにより救いを受け、御国に属する者とされた。神は、小さ
な群れを通して神の栄光を現わされる。「小さな群れよ。恐れることはない。」
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No.756 - 11月13日: 「主イエスの献金」 マタイの福音書17章22節〜27節 |
(みことば)「湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。そ
の口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを…納めなさい。」
マタイの福音書17章27節
キリストは、彼らがガリラヤに集まっていた時…「人の子は、人々の手に
渡され…三日目によみがえります。」と2度目の受難と復活の予告をされた。
主の受難の告知は、イエスがガリラヤの活動を終え、エルサレムに向け出
発する転換期を意味する。「ガリラヤを去り…ユダヤ地方に入られた。」(19:1)
受難の告知は、弟子達に受け入れ難く、ペテロは、前回、その言葉を否定
して叱責されたが、彼らは、今回も主の復活を信じられず、「大変悲しんだ。」
「渡され」「よみがえる」は受動態で記され、それは、神の計画に基づて
いる。神を信じる者は、世の人のように、将来を不安に怯える必要はない。
又「渡される」は、教会にとって重要な言葉で、キリストの贖いを記念す
る「主の晩餐」の際に朗読される。「主イエスは渡される夜、パンを取り…」
その後、「神殿税を納めるべきか否か」の問題でイエスとペテロの個人的
なやり取りが記される。神殿税の徴収人がペテロの所に来て「あなたがたの
先生は神殿税を納めないのですか。」と問い、彼は、「納めます。」と答えた。
ユダヤ人は、2ドラクマを神殿税として納めたが、それは労働者2日分の
賃金で、律法は「半シュケルが主への奉納物である。」(出エジ 30:13)とある。
神殿税は、税金であるから納める義務がある。しかもそれは、神殿に関す
る事なので神への献金としての性質がある。神を畏れる者は、「神殿に関わ
る事を疎かにしたら、仕事や生活も祝福を失う。」と考えただろう。特に神
殿では、罪の贖いが為されて、それは、「罪の赦しや救い」と関係していた。
ペテロは、「神殿税はユダヤ人の義務であり、納めるべきもので、イエス
もそれに同意するはず」と考えた。だが、主は、ペテロと徴収人との会話の
全てを知って、家に入って来たペテロに、先手を打って一つの譬えで尋ねた。
「地上の王たちは、誰から税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからで
すか…」通常、王は、自分の子どもからではなく、他の人から税金を徴収す
る。イエスは、彼に「ですから、子たちにはその義務がない」と答えられた。
即ち、神の子であるキリストが、神殿の税金を納める必要はない。何故な
らイエスは、父なる神と同様、神殿で礼拝される方だからである。ペテロは、
イエスを「生ける神の子」と告白したが、人々の手前その様に表明できない。
又、「子たち」とあるが、それは、キリストを神の子と告白した者も含め
ている。「義務がない」とは、「自由である」の意味で、神の子とされた者は、
献金を義務ではなく、罪を赦され、救われた喜びと感謝をもって主に献げる。
主は、神殿税を納める義務はないが、彼らを「つまづかせないために…」
とその義務を果たす。キリスト者は、自分の権利を主張せず、他者に合わせ、
人に仕える自由を持つ。「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を…」
主は、彼に「釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい…スタテル銀貨
一枚が見つかる」と命じる。自然界も主の支配の内にある。労働の対価は人
の努力と収穫量によるが、主は一匹の魚で報酬を備える事が出来る。「わず
かだけ蒔く者はわずかだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります。」
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No.755 - 11月6日: 「からし種ほどの信仰があるなら」 マタイの福音書17章14節〜23節 |
(みことば)「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここから
あそこに移れ』と言えば移ります。…できないことは何もありません。」
マタイの福音書17章20節
キリストと共に山に登った3人の弟子達は、山の上での栄光と裏腹に、下
山の途中で、イエスが「人々から苦しみを受けることになる」と告げられる。
福音書は、いよいよキリストの受難と復活に向けて進んで行く事になるが、
そこには、この世の罪に渦巻く現実がある。山の麓では、キリストが「ああ、
不信仰な曲がった時代だ。いつまで…」と嘆くような出来事が起こっていた。
一人の人が御前に跪き、「主よ、私の息子をあわれんでください。てんか
んで、たいへん苦しんでいます。」と懇願した。「てんかん」の語源は「月に
打たれる」であるが、月との関係で周期的な発作が起る事からそう呼ばれた。
親が、我が子の苦しむ姿を見ても何もできない。彼は無力感を覚える中で、
山を下りて来たイエスに救いを求める。「主よ、あわれんでください。」(キリエ
・エレイソン)とは、「主の憐みに縋る他に生きる術を持たない」との告白である。
彼は、「息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治す
ことができませんでした」と告げる。キリストの不在の間、残りの弟子達が
それに対応したが、彼らは、病気を治せず、自分達の無力さを痛感していた。
主は、「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで…我慢していなければ
ならないのか」と嘆くが、それは、病気を治せない弟子達だけでなく、それ
を取り巻く不信仰な群衆への嘆きであり、今の時代の人々への嘆きでもある。
主が本気で「一緒にいるのに耐えられない。我慢できない。」と思われた
なら、彼らを放って何処かへ行かれただろう。今、この世界が滅びないのは、
主の憐れみと忍耐による。だが、主の忍耐と恵みは、無限い続く訳ではない。
「イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒さ
れた。」それは、親が悪さをする子を叱るような言葉であるが、子供は、親
から叱られる経験も大切である。叱られる事で曲がった生き方を矯正される。
弟子達は、「なぜ私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」と恥じな
がら尋ね、主は「あなたがたの信仰が薄いからです。」と答える。「薄い」は
「小さい、少ない」の意で、彼らは「信仰の薄い人たちよ」と度々言われた。
ただ、「信仰が薄い」と言われても、彼らがキリストを信じているなら、
どんなに小さくても、彼らに信仰がない訳ではない。「もし、からし種ほど
の信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。」
「からし種」は小ささの象徴であるが、たとえ小さな信仰でも、信仰があ
るなら山を動かす事も出来る。「山が移る」とは象徴であるが、キリスト信
仰は、決して観念でなく、神に祈る時に大きな山が動くという実体験である。
種は、どんなに小さくとも、そこにいのちがあり力がある。人は、無力さ
を覚える事が多い。人には、出来る事より、出来ない事の方が遥かに多い。
だが、主は、「あなたがたにできないことは何もありません。」と断言する。
最後に主は、「人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」と
宣言する。「すると彼らはたいへん悲しんだ。」とあるが、悲しむ必要はない。
何故なら、死者を生き返らせる神の力が信じる者のうちに宿るからである。
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No.754 - 10月30日: 「エリヤが来て立て直す」 マタイの福音書17章9節〜13節 |
(みことば)「イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。
しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。」
マタイの福音書17章9節
キリストと共に高い山に登った3人の弟子達は、山の上で「キリストの御
姿が変わり、モーセとエリヤが現れ、天の神の声を聞く」特別な経験をする。
だが、山の上での特別な経験も長く続くことはなく、彼らは、再び、山を
下りる。イエスはその途中で「あなたがたが見たことを、だれにも話しては
いけません。人がの子が死人の中からよみがえるまでは。」と厳しく命じる。
彼らは、もし、キリストから命じられなければ、山の麓にいた残りの弟子
達に、山の上での経験を得意げに話していただろう。だが、主は「人の子が
死人の中からよみがえるまで」との条件のもとで、一切話す事を禁じられた。
その理由の第1は、イエスの受難の前に、イエスの栄光を人々に話すなら、
メイヤの働きが歪められる可能性があるからである。主は、彼らに「自分を
捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と命じられた。
第2に、それを他の人に話す事は、3人の弟子達にとっても良くないから
である。山の上での出来事は、特別な経験で、誰もができる事ではない。彼
らが、それを他の弟子達に話す時、自慢げに、優越感で話す事になるだろう。
第3に、彼らにその様な誇りがあれば、それは、他の弟子達にとっても不
愉快で、諍いの原因になり兼ねない。彼らの特別な経験は、自分を誇り、人
に自慢する為ではなく、キリストの栄光の目撃者として証言する為である。
私達は、キリストを知っている事を優越感で他の人に伝えるべきではない。
その様な意識があれば、相手の人は、福音を快く受け入れないだろう。寧ろ、
私達は、キリストの十字架を覚えながら遜って福音を伝える努力をしよう。
彼らは、「エリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どうい
うことなのか」を尋ねる。彼らは、イエスが「死者の中からよみがえる」事
で救いを完成するなら、律法学者達が言うエリヤとは誰なのか疑問に思った。
預言者マラキは、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤを
あなたがたに遣わす。」と預言した。「エリヤ」とは、バプテスマのヨハネに
おいて成就し、彼は、救い主が来られる道を整え、人々に悔い改めを説いた。
「エリヤが来て、すべてを立て直します。」「立て直す」とは「本来のある
べき姿に戻す」の意味である。神に造られた世界が本来のあるべき姿を失っ
ている。エリヤは、それを立て直す働きをし、キリストは、それを完成する。
弟子達は、「立て直す」を「国を再興する」(使徒 1:6)と考えたが、イエス
は、「社会の変革」以前に、人々に「心の変革」を求めた。マラキは、エリ
ヤに関し「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」と語る。
主は、「エリヤは、もうすでに来たのです。」と語る。律法学者の「エリヤ
が来るはず」との教えは間違っていないが、彼らの誤りはエリヤが来ても、
認めない事である。彼らの教えは正しいが、信仰と実践において誤っている。
彼らには、律法の教師の自負があったが、彼らも、ヨハネの悔い改めの言
葉を聞くべきであった。「人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なこ
とをしました。」彼らの頑なな態度は、やがて、キリスト自身に向けられる。
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No.753 - 10月23日: 「山上の変貌」 マタイの福音書17章1節〜8節 |
(みことば)「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽
のように輝き、衣は光のように白くなった。」
マタイの福音書17章2節
キリストは3人の弟子を連れて高い山に登られ、神の栄光の輝きを放つ御
姿に変わり、弟子達は、そこでキリストの栄光に輝く姿を目撃する事になる。
キリストの山上の変貌は、その生涯の中でも特別な記事であり、それは
奇跡と言うより、キリストの神としての御姿の啓示であった。山上の変貌
は、ペテロの信仰告白とその後の彼の失敗から6日目の出来事であった。
「高い山」とは、ヘルモン山などが考えられるが、高い山に登る事は、非
日常の特別な時間である。その特別な経験をしたのは、弟子達の中で3人だ
けであり、彼らは、主の栄光の目撃者として証言する為に特別に選ばれた。
「御姿が変わる」とは、表面的な変化ではなく、根本的な変化を意味し、
普通の人の顔が「太陽の様に輝く」事も、「服が光のように白くなる」事も
ない。栄光のキリストは、「顔は強く照り輝く太陽のよう」(黙示 1:16)である。
モーセも、シナイ山から降りて来た時、「顔の肌は輝きを放って」いた。
だが、彼の場合は、神との交わりを反映した間接的な栄光であったが、キリ
ストは「神の栄光そのもの」である。「このいのちは人の光であった。」(ヨハネ 1:4)
更に「モーセとエリヤが彼らの前に現れて」イエスと語り合う。モーセは、
神から十戒を授かる律法の代表であり、エリヤは、預言者の代表と言える。
「律法と預言者」即ち、彼らは、旧約を代表するシンボル的な存在である。
ルカは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話
し合っていた」と記す。即ち、律法と預言者の言葉は、キリストの十字架の
贖いにおいて完成する。その意味で、キリストは、神の栄光の輝きである。
彼らが見た光景は、時代と次元を超えた出来事であり、本来、この地上で
起こり得ない事であるが、それは、やがてキリスト者が天の御国で経験する
前例である。「あなたがたは…神の都、天にある…大祝会に近づいている」
ペテロは、天の啓示に対し「主よ、私たちがここにいることはすばらしい
…幕屋を三つ造ります。」と興奮して口を挟む。ルカは「彼は自分の言って
いることが分かっていなかった」と記す。彼は、再び的外れな事を口にする。
彼は「私が…幕屋を造る」と公言するが、モーセやエリヤの住まいは、地
上ではなく天にある。彼は、栄光の中に留まる事を願ってその様に発言する
が、彼らは、寧ろ、主の栄光の目撃者として地上で証言する為に立てられた。
キリストは、この地上の幕屋が壊れても、天にある永遠の住まいに導いて
下さる。「それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Uコリント 5:2)
そのペテロの言葉を打ち消す様に「光輝く雲」が彼らを覆い、雲の中から
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」と
神の声がかかる。キリストの言葉に聞き従う事が、弟子としての条件である。
「弟子達は…非常に恐れた。」高い山の上での出来事は、彼らにとって忘
れ難い特別な経験である。「するとイエスが近づいて彼らに触れ…イエス一
人のほかには、だれも見えなかった。」私達は、特別な経験が日常的にある
訳ではないが、逆に日常に追われ、主の栄光を忘れた生き方をしないように。
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No.752 - 10月16日: 「受難と復活、再臨の予告」 マタイの福音書16章21節〜28節 |
(みことば)「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自
分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
マタイの福音書16章24節
キリストは、ピリポ・カイザリヤにおいて、ペテロの信仰の告白に対して、
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」(18)と宣言された。
キリストは、その宣言の直ぐ後で、エルサレムでの受難と復活の予告をさ
れる。「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならな
い」十字架と復活は、キリスト信仰において最も重要で核心的な事柄である。
キリストの死と復活の告知は、これが始めてであり、弟子達は、信仰の告
白の後で、キリストの贖いの御業について、更に、深く教えられる。だが、
彼らは、キリストが「苦しみを受け、殺される」事など想像もできなかった。
キリストの死は、敗北ではなく、「よみがえらなければならない」神の主
権的な計画と御業によることであるが、弟子達には、その真実が全く理解で
きなかった。すると、ペテロは、「イエスをわきお連れして、いさめ始めた。」
彼は、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはず
がありません。」と主の言葉を強く打ち消す。それは、彼の人間的な言葉で
あり、たとえそれが善意であっても、神の計画を打ち壊す不遜な意見である。
彼の言葉は、キリストの働きを理解しない無知から出た事であり、出過ぎ
た行為であった。キリスト者は同様な失敗をする事がある。キリストは、彼
に「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまづかせる者だ。」と叱責する。
彼は、「神のことを思わないで、人のことを思って」いたので失敗した。
彼は、神の計画や御心より、人間的な規準で判断して行動する。「今なお人
々を喜ばせようとしているなら、私は、キリストのしもべではありません。」
主は、受難と復活の予告の後で、弟子として従う時の覚悟を語る。「自分
を捨てる」とは、自分中心の生き方を止める事であり、「捨てる」とは、「所
有権を放棄する」の意味で、信仰に歩む時に邪魔になる物を捨てる事である。
第2は「自分の十字架を負ってキリストに従う」事である。十字架は、処
刑の道具で恥辱であるが、主が十字架を負われた様に、私達も十字架を負わ
なければ生きる事はできない。十字架は、私達の救いであり、誇りである。
最後に弟子の歩みには、いのちが約束されている。「自分のいのちを救お
うと思うの者はそれを失い…失う者はそれを見出す」キリストが世から憎ま
れ迫害された様に、キリストと同じ道を生きる者は、永遠のいのちを受ける。
「人はたとえ全世界を手に入れても…」いのちは、いのちをもって償わな
ければならない。この世のどんな物でも、人のいのちの代償とはならない。
唯一、キリストのいのちだけが、人の罪の代償となり、いのちの贖いとなる。
最後に、主は、十字架の死と復活の予告だけでなく、再臨を予告する。「人
の子は、やがて父の栄光を帯びて…」主は、裁判の時も「人の子が…天の雲
とともに来る」と証言する。私達は、主の日を覚えて今を生きるべきである。
「人の子が御国とともに来るのを見るまで…死を味わわない」主の証言か
ら2千年経つが、再臨の時はまだ来ていない。だが、「主の日は盗人のよう
にやって来る。」その時、生きている者は、生きたまま天に引き上げられる。
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No.751 - 10月9日: 「天の御国の鍵を与える」 マタイの福音書16章13節〜20節 |
(みことば)「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会
を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」
マタイの福音書16章18節
キリストは、ピリポ・カイザリヤにおいて、ペテロの信仰の告白に対して
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と重要な宣言をされる。
ピリポ・カイザリヤは、ユダヤから遠く離れた最北の地にあり、領主ピリ
ポは、この地に自分と皇帝の名を付けていた。人間崇拝のシンボルのような
異邦人と接する地で、キリストへの信仰告白と教会を建てる宣言が為される。
主は、弟子達に「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねる。イ
エスの評判は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも及んでいたが、人々の見方は、
千差万別である。「バプテスマのヨハネだ…エリヤだと言う人たちもいます。」
この世の王であるなら歴史家の見解も一致しているが、キリストほど、人
々の見解が分かれ、謎の多い人物はいない。主は、世の人の様々な評価があ
る中で、弟子達に「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねる。
それは、キリスト信仰にとって大切な問いであり、教会に加わる者は「あ
なたは、キリストを誰だと信じるか」を問われる。世の人の評価は、様々で
あるが、弟子達は、2年以上イエスと共に歩み、その人格と御業を見て来た。
キリストを知りたいと思うなら、人の噂や意見ではなく、自分自身の目で
確かめて見るべきである。主は、二人の弟子に「来なさい。そうすれば分か
ります。」と言った。ピラトは、群衆に向かって「この人を見よ。」と告げた。
そこで、ペテロは、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と答える。
彼の言葉は、簡潔であるが非常に明瞭な信仰の告白である。主は、「バルヨ
ナ・シモンあなたは幸いです…血肉ではなく…わたしの父です」と言われた。
真に幸いな人とは、イエスを主と告白する人である。その人は、滅びから
救われ、永遠の命を持つからであり、人生にこれ以上の幸福はない。信仰の
告白と救いは、人の努力や知性(血肉)によらず、神の啓示と恵みによる。
主は、ペテロの告白に対して「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建て
ます。」と宣言する。「この岩」とは、カトリックの様にペテロと解釈すれば
人間崇拝になるが、寧ろ、この岩とは、神の子キリストと理解すべきである。
教会は、キリストと言う揺るぎない岩の上に建てられているので、どんな
試練の時も、その建物は、決して倒れる事がない。私達の人生も「岩の上に
家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」に譬える事ができる。
「よみの門もそれに打ち勝つことはできません。「よみ」(ハデス)とは、英
語で(hell,deth)「地獄」「死」を意味するが、キリストは、地獄や死の門に
かんぬきをかけ、神を信じる者が、死の世界に下る事の無い様にして下さる。
「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。」ペテロは、弟子を代表し
て告白したので、主は、教会に「天の御国の鍵を与えられた」と言える。「恐
れることはない。…わたしは…死とよみの鍵を持っている。」(黙示録 1:18,19)
「あなたが地上でつなぐことは天においても…地上で解くことは天におい
ても…」有罪を宣言するか、無罪を宣言をするか、天の御国の権威は、教会
に与えられている。地上において天と繋がる唯一の場所は、教会だけである。
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No.750 - 10月2日: 「主が我らを遣わされる」 ヨハネの福音書4章31節〜38節 |
(みことば)「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と
言ってはいませんか。…目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈
り入れるばかりになっています。」
ヨハネの福音書4章35節
キリストは、サマリヤの地で一人の女を信仰と救いに導くが、弟子達は、
その時、食物を買いに町に出かけていて、戻った時にイエスに食事を勧めた。
その時、イエスは、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物がありま
す。」と言われた。弟子達は、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか。」
と不思議に思ったが、イエスは、宣教の御業に伴う霊的な食物の事を語った。
「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわ
ざを成し遂げることです。」キリストの内にあって魂を突き動かす霊的な力
は、遣わされた方の「みこころを行い、そのわざを成し遂げること」である。
神の救いを受けたキリスト者は、神の御心を行う事とそのわざを成し遂げ
る事を人生の目標とすべきである。キリストは、弟子達が不在の間、井戸の
傍らでサマリヤの女の魂を神のもとに導き、彼女の霊的な渇きを満たされた。
宣教の働きは、キリスト者に与えられた最大の使命であり、その神の業を
行おうとする者には、天からの賜物と力が与えられる。「聖霊があなたがた
の上に臨むとき、あなたがたは力を受け…わたしの証人となります。」(使徒 1:8)
イエスは、彼らに「『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言って
はいませんか。」と問う。それは「種蒔きから刈り入れまで四か月を要する。」
とのユダヤ人の格言であるが、霊的な意味で、刈り入れは既に始まっている。
「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
麦の穂は、刈り入れの時期になると時を経ずに一斉に黄金色に変わる。宣教
の畑を見上げるなら、既にそこに魂の刈り入れを待つ穂が豊かに実っている。
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。」
キリスト者が宣教の働きの為に畑に出て行くなら、そこで「永遠のいのちに
至る実」を集めることができる。それは、何と尊い価値ある働きであろうか。
「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」種を蒔く者と収穫する
者が共に刈り入れの喜びを味わう。宣教の働きを通して人が救われる時、天
において大きな喜びが伴う。労苦して種を蒔く者は、やがて喜びながら刈り
入れの時を迎える。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」
更に、イエスは、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』のもう一つ
の格言を用いて、宣教の働きにおける霊的な恵みと真理を語る。主は、弟子
達を「自分たちの労苦したのではないものを刈り入れるために」遣わされる。
「ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっている」
宣教の働きにおける収穫は、神がその実を養い育って下さった結果である。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました…成長させたのは神です。」(Tコリント 3:6)
キリストは、弟子達の知らない所でサマリヤの女を導き、彼女を通して多
くのサマリヤ人が主の元に導かれる。宣教の働きに参加しようと思う者が目
を上げて畑を見るなら、そこには、既に刈り入れを待つ実が備えられている。
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No.749 - 9月25日: 「時のしるしを見分けよ」 マタイの福音書16章1節〜12節 |
(みことば)「あなたがたは、『夕焼けだから晴れる』と…空模様を見分ける
ことを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」
マタイの福音書16章2,3節
イエスは、異邦人の地でパンの奇跡を行った後ユダヤ人の地に戻るが、パ
リサイ人とサドカイ人がイエスを試そうと近づき、天からのしるしを求めた。
「天からのしるし」とは、イエスが救い主である証拠であるが、既に、主
は、数多く奇跡を行っており、彼らは、これ以上どんなしるしを要求すれば
気が済むのだろうか。主は、ご自分を試すような者に何一つ奇跡を行わない。
主は、彼らに「夕焼けだから晴れ…空模様を見分けることをができるのに、
何故、時のしるしを見分けることができないのか」と答える。彼らは空模様
を見て、将来起こる気象を予想する知恵があっても霊的な事柄に無知である。
「時のしるし」とは、救い主が来られる時の兆候であるが、彼らは、預言
者を通して、主の来られる時を予測できたはずである。彼らが「時のしるし
を見分ける」事が出来たら、こんな不信仰な態度は取らなかったはずである。
「悪い姦淫の時代はしるしを求めます。…ヨナのしるしのほかに…しるし
は与えられません。」悪い時代は「神がいる証拠はどこにあるのか。」と誰も
神を信じようとしないが、不義の世に「神の怒りが天から啓示されて」いる。
だが、主は、悪い姦淫の時代に、御子イエス・キリストを天から遣わし、
十字架の贖いの死と三日目のよみがえりによって救いを明らかにされた。そ
れが「ヨナのしるし」であり、それは、愛と救いと罪の赦しのしるしである。
「ユダヤ人はしるしを要求し…」とあるが、彼らがイエスにしるしを求め
たのは2度目である。(12:38)ニネベは、ヨナの宣教によって悔い改めたが、
彼らは、悔い改めようとしない。「イエスは、彼らを残して去って行かれた。」
イエスは、もう一度、湖の反対側に向うが、その際「弟子たちはパンを持
って来るのを忘れてしまった。」恐らく舟の上の事であるが、イエスは、「パ
リサイ人とサドカイ人のパン種に、くれぐれも用心しなさい。」と忠告する。
パリサイ人は、厳格な律法主義者であり、サドカイ人は、祭司階級を中心
に形成されたグループで、この世に迎合した世俗主義的な信仰であった。主
は、「パン種」に譬えて、両者の誤った教えに影響されない様にと警告した。
私達は、パリサイ人の様に律法的で形式的な信仰に陥り、信仰の喜びや新
鮮さを失う事が無い様に、又、サドカイ人の様に世俗的な信仰に陥り、この
世と調子を合わせ、目に見える物に心を奪われる事の無い様に気を付けよう。
すると弟子達は「私たちがパンを持ってこなかったからだ」と議論する。
彼らは、イエスの「パン種」と言う言葉に反応するが、それはパンを忘れた
事が頭を占めているからである。滑稽であるが、笑えないエピソードである。
人は、お金の事が心配になれば、それが頭を駆け巡り、信仰によって考え
る事が出来なくなる。主は、彼らに「信仰の薄い人たち…まだ分からないの
ですか」と答え、2度のパンの奇跡を「覚えていないのですか」と言われた。
彼らは、舟の中でキリストを抜きにパンの事で議論を始めるが、彼らは、
パンを忘れた事より、キリストを忘れて議論する方が遥かに愚かである。「何
が大切か」を忘れてしまうと些細な事が気になり、本質を見失ってしまう。
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No.748 - 9月18日: 「異邦人に注がれる恵み」 マタイの福音書15章29節〜39節 |
(みことば)「群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった
人たちが治り・・・見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。」
マタイの福音書15章31節
キリストは、ツロとシドンを「去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた」が、
そこは、マルコによるなら湖の反対側の異邦人の地デカポリス地方であった。
キリストが山に登り、座っておられると「大勢の群衆が、足の不自由な人
たち…そのほか多くの人をみととに連れて来て…」と記す。主のもとに様々
な障害を持つ人々が連れて来られ、イエスは、彼らを一人一人みな癒された。
更に、群衆は、キリストのなさる一つ一つの奇跡を見て驚き、「イスラエ
ルの神をあがめた。」キリストによる癒しの奇跡は、これまで何度も記され
て来たが、これほど多岐に渡る種類の障害を癒す記事はこれまでなかった。
「イスラエルの神をあがめた。」と言う言葉は、彼らが異邦人であった事
を証しする。主は、ユダヤの敵対する人々を逃れ、ツロ、シドン、デカポリ
スなど異邦人の地に退くが、その人々は、ユダヤ人以上にキリストを求める。
ツロの地のカナン人の女も、主に熱心に救いを求めたが、その信仰は、イ
スラエルにも見られない程だった。皮肉にも、異邦人がユダヤ人以上に熱心
に救いを求め、主の恵みに預かる。それは、後の異邦人宣教を暗示している。
キリストが異邦人に為された第2の御業は、パンの奇跡であった。「食べ
た者は、女とこどもを除いて男四千人であった。」マタイは、前章で「五つ
のパンと二匹の魚で五千人を養う」これと良く似たパンの奇跡を記している。
聖書を批評的に見る人は、これを「同じ一つの出来事を後から創作して2
つの記事として書いた」と言う。しかし、同じような奇跡が2度あっても不
思議ではないし、同じ奇跡だから、もう、そこに学ぶ事がないとは言えない。
神の奇跡は、信仰者の歩みにおいて一度や二度ではない。それは、一度経
験したから十分とは言えず、繰り返し経験する事で神の力や信仰を学ぶ。イ
スラエルの民は、40年の間日毎のマナの奇跡によって養われ信仰を学んだ。
主は、この奇跡において、ご自分から「かわいそうに…空腹のまま帰らせ
たくありません。」と群衆を労わり、人々が「食べる物を持っていない」と
言う現状を知り、「途中で動けなくなるといけない。」と人々の将来を案じる。
弟子達は、「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に…どこから手
に入れることができるでしょうか」と答える。彼らは、五千人のパンの奇跡
をすっかり忘れている。人は、一度の奇跡でなかなか学習しないものである。
彼らは、何度か神の御業を経験する必要があった。不信仰の体質は、なか
なか抜けないものである。そこで、イエスは、「パンはいくつありますか。」
と尋ね、彼らは、「7つです。それに小さな魚が少しあります。」と答える。
主は、たとえ少しでも、弟子達が持っている僅かな食物を用いられる。主
はどんなに小さな弱い者でも、人を用いて神の栄光を表される。そこで、「群
衆に地面に座るように命じられた。」主に信頼するなら心配する必要はない。
主は、「パンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き…お与え
になった」それは、主の晩餐を彷彿させるが、主の祝福の祈りは、信じる者
に継続して与えられ、それは、ユダヤ人だけでなく、異邦人の全てに及ぶ。
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No.747 - 9月11日: 「主よ、そのとおりです。」 マタイの福音書15章21節〜28節 |
(みことば)「しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬
でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
マタイの福音書15章27節
キリストは、パリサイ人や律法学者との対立が深まる中で、暫くの間、ユ
ダヤの地を去って、信仰や文化の異なる「ツロとシドンの地方に退かれた。」
「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て…叫び続けた。」カナ
ンは、フェニキアとも呼ばれ、モーセの時代からイスラエルの仇敵であった。
そのカナン人の女が、ユダヤ人であるキリストに救いを求めてやって来る。
彼女は、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫ぶが、そ
の呼び名は、神と救い主に対する称号であり、これまで、ユダヤ人でも、こ
れほどの敬意さを込めてキリストに救いを求めた者は、僅かしかいなかった。
彼女は、自国の神ではなく、イスラエルの神がダビデの子孫から出ると約
束した方を救い主キリストと信じた。「主よ…あわれんでください。」とは、
「救いを受ける資格のない者が神のご好意にすがる」思いを表わしている。
神の救いに預かる者は、主の憐みにすがる以外に道がない。寧ろ、自分に
誇りや自信のある人はその様に叫ばない。パリサイ人や律法学者の中で、そ
の様に主に救いを求めた者はいない。しかも、彼女は、それを「叫び続けた。」
だが、主は、彼女の叫びに「一言もお答えにならなかった。」いつもは、
信仰に答えて下さる主が、彼女には、沈黙される。神が沈黙される事もある。
「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」
見兼ねた弟子達は、「あの女を去らせてください。」と言うが、彼らは、女
に同情したのか、煩わしく思ったのか分からない。だが、主は、「わたしは、
イスラエルの家の失われた羊たち以外…遣わされていません。」と答える。
「キリストは全世界の人の主である」と信じる者には、意外であるが、神
の救いの計画には、順序があり、救いは、まずイスラエル人に与えられる。
「彼らはイスラエル人です。子とされることも、…約束も彼らのものです。」
その意味で異邦人は、神の国から除外され、救われる資格のない者であった
が、ユダヤ人が神の約束を拒んだので、異邦人がその救いに預ったのである。
彼女は、「イエスの前にひれ伏して…「主よ、私をお助けください。」と言
った。「ひれ伏す」とは、礼拝の意味であるが、異邦人の女がイスラエルの
誰よりも一途に、又、謙遜にキリストを求める。それこそ霊的な礼拝である。
だが、主は、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良
くない」と答える。神の救いは、まず、神の子であるユダヤ人に与えられる
べきであり、それを子犬である異邦人に投げ与える訳には行かないと言う。
それは、異邦人の女からすれば、差別的で不愉快とも思える言葉であり、
パリサイ人の様に、腹を立てて去っても不思議ではない。だが、彼女は、主
に一切反論せず「主よ、その通りです。」(然り、確かにそうです)と答える。
彼女は、それで終わらず「子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑は頂きま
す。」と食い下がる。「子どもたちのパンのおこぼれでかまわない。憐み深い
主は、子犬にも目を留めて下さるはずだ。」と言う機転の利いた答えである。
主は「あなたの信仰は立派です」と誉め、彼女の願いを聞き、娘は癒された。
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No.746 - 9月4日: 「盲人の案内をする盲人」 マタイの福音書15章12節〜20節 |
(みことば)「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人
です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」
マタイの福音書15章14節
ユダヤの宗教的な指導者であるパリサイ人は、「パンを食べるときに、手
を洗う」「きよめの儀式」に関する規定で、キリストの弟子達を批難した。
イエスは、彼らに対し「あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の
戒めを破り、無にしている」と反論し、彼らを容赦なく「偽善者」と呼んだ
が、弟子達は「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てた」事を伝える。
勿論、彼らが腹を立てたのは、キリストが原因であるが、それは、キリス
トに問題があったからではない。イエスは、相手が誰であろうと臆する事な
く真実のみを語った。その真実な姿勢こそ、キリストの人間的な魅力である。
世の人は、どうしても人の顔色を伺いながら物を言う。人へ配慮は大切だ
が、「善は善、悪は悪」とはっきり言わなければならない時がある。その姿
勢を失えば、神の言葉は語れない。彼らは、神の言葉に腹を立てたのである。
イエスは、彼らに「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎ
にされる」と答える。彼らは、神の植えた木ではないから実を結ぶ事がない。
しかし、人がキリストに留まるなら、「その人は多くの実を結ぶ」者となる。
イエスは、「彼らのことは放ってきなさい。」と命じる。神が罪人を放って
おかれる事も神の裁きの一つの現れである。神は、何度も人に語り掛け導こ
うとされるが、その忠告や導きを拒み続けるなら、回復や救いの余地はない。
「彼らは盲人を案内する盲人です…二人とも穴に落ちます。」盲人に案内
される盲人ほど悲劇的な事はない。新興宗教の教祖は、多くの人を惑わすが、
彼らは「盲人を案内する盲人」である。だが、羊は、真の牧者を知っている。
ペテロは、「私たちに、そのたとえを説明してください。」と尋ねるが、主
は、「あなたがたも、まだ分からないのですか。」と彼らの無理解に驚く。彼
らは、2年近くもイエスの言葉を聞いていながら、霊的な事柄に無知だった。
神を信る者は、年数に見合った成長をしなければならない。乳飲み子は、
乳だけを慕うが、成長すれば、堅い物も食べる事ができる。「堅い食物はお
となの物で…良い物と悪い物を見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
神を信じる者は、いつまでも「盲人の案内をする盲人」ではなく、盲人を
安全な救いの場所、キリストの元に案内できる人に成長しなければならない。
主は、きよめの儀式に対して「口に入る物はみな、腹に入り…外に出され
る」と答える。ユダヤ人は、汚れた物を口にしないように細心の注意を払っ
ていたが、主は、寧ろ、儀式的な習慣と行為より、「口から出て来るものは
心から出て来ます。それが人を汚すのです。」と人の心と内面を問われた。
人の心から出て来るものは、「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、
偽証、ののしり」等であるが、それは、十戒の第6戒から9戒までの列挙で
ある。人は、聖なる神の戒めに対して、全く正反対の思いが心から出て来る。
「義人はいない。一人もいない。」キリストにより罪を赦された者だけが、
神の前に立つ事ができ、目の開かれた者だけが、人を救いに導く事ができる。
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No.745 - 8月28日: 「人の教えと神の言葉」 マタイの福音書15章1節〜11節 |
(みことば)「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離
れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。」
マタイの福音書15章8,9節
マタイ15章は、ユダヤの宗教的な指導者達による、キリストの集団への
批判から始まり、その批判に対するキリストの反論という形で話が展開する。
「パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムから…来て言った。」彼
らは、ユダヤ議会から派遣され、イエスを調査し、逮捕して裁判にかける準
備を始めた。この論争からユダヤ教とキリスト信仰の違いを知る事が出来る。
彼らは、イエスの弟子達が「長老たちの言い伝え」を破り、「パンを食べ
るとき手を洗っていない」と批難する。それは、汚れた手で食事する事を禁
じたユダヤ教の戒律で、その他「きよめの儀式」に関し様々な規定があった。
「言い伝え」とは、ユダヤ教の伝承であり、それは、神の律法と本質的に
異なる。彼らは、モーセの律法とは別に、「口伝律法」(タルムード)と呼ばれた
規則を作り、ユダヤ教徒の生活を規定し、それが聖書と同等の権威を持った。
これがキリスト信仰とユダヤ教との違いである。私達は、聖書66巻のみ
を神の言葉と信じるが、ユダヤ教は、聖書以外にユダヤ人の口伝や伝承(タル
ムード)にも権威があると考える。カトリック教会も、その点で同様である。
カトリックは、聖書以外の教会の教え(聖人や教皇の言葉)も無謬であると
教える。そこから「煉獄」「行いによる義」「免罪符」等の誤った教義が始ま
る。ルターは、教会の教えに抗議し、聖書のみが唯一の権威であると唱えた。
同様に、基督教異端も「モルモン経」「原理講論」「目覚めよ」等に、聖書
以上の権威を与える。だが、人の教えには矛盾や誤りがあり、それに従う者
は滅びに至る。しかし聖書には誤りがなく、信仰と生活の唯一の規範である。
イエスは、彼らに「なぜ…自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るの
ですか。」と問う。彼らは、自分達の言い伝えを優先し、神の戒めを破って
いた。主は、実例として「神は『父と母を敬え』…と言われました」と語る。
これは十戒の第5戒であるが、それは人の教えではなく、神が命じた戒め
である。聖書には「神は…言われた」との表現が3800回以上ある。従っ
て、聖書は、神の言葉そのものであり、それは、世の教えと本質的に異なる。
主は、人の言い伝えを無視されるが、神の戒めを破る者に「必ず殺されな
ければならない。」と警告する。だが、彼らは、神の戒めを無視し『父また
は母に向かって…ささげ物になります…父を敬ってはならない』と教えた。
彼らは、両親を扶養する義務から逃れる為に、神への献げ物を言い訳に用
いる。勿論、神への信仰と献げ物を大切にすべきだが、それを果たせば、親
への義務を免れる訳ではない。私達は、神と人とに責任と義務を負っている。
「父を敬ってはならない」とは、神の言葉と反対の教えであり、人の教え
は、悪魔と同様に偽りと欺きがある。「偽善者」は俳優の意味で、俳優が舞
台と素顔の両面を持つ様に「口先では、神を敬うが、その心は…離れている。」
主は、群衆に「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人
を汚す」と語る。人の心は、手を洗う「きよめの儀式」等で清くはならない。
人の心を支配する罪は、キリストの血によって清められなければならない。
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No.744 - 8月21日: 「漁師の家から王子の庭へ」 マタイの福音書14章34節〜36節 |
(みことば)「それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。その地の
人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。」
マタイの福音書14章34,35節
マタイは、14章の最後に短い記述でゲネサレの地での宣教の有様を記す。
「彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた」とあるが、弟子達は、そこに
着く迄に劇的な経験をしてる。弟子達だけが乗った舟は、風と波に翻弄され
るが、イエスが湖の上を歩いて近づき、ペテロも、水の上を歩く経験をした。
それは、この舟に乗っている者だけが経験できた事であり、他の人には、
分からない。信仰は、実際に主に従う事を通して神の生きた御業を経験でき
る。「汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていた」(ヨハネ 2:9)
次に主は、弟子達を「向う岸のベッサイダに行かせ」(マルコ 6:45)とある
が、彼らは、ベッサイダではなくゲネサレに着いた。彼らは、風と波の為に
当初の予定と違う別の地に着いた。しかし、そこにも神の摂理が働いている。
ベッサイダは湖の北東に位置し、ゲネサレは北西に位置する。そこは、当
初の予定ではないが、人々は、キリストに非常に良い反応を示す。キリスト
は、これまでカペナウムを中心にベッサイダや郷里のナザレで宣教して来た。
だが、主は、カペナウムやベッサイダの不信仰を「ああ、ベッサイダ。…
カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。」と嘆かれた。
郷里のナザレの人々も「この人は大工の息子ではないか。」とイエス躓いた。
だが、ゲネサレは、この個所だけに記された印象の薄い地であるが、他の
人々と違い良い反応を示す。「後の者が先になり、先の者が後になる。」ゲネ
サレは、「王子の庭」の意味があり、肥沃な地に作物や果実が豊かに実った。
「ベッサイダ」は、「漁師の家」と呼ばれ、弟子達は、貧しい漁師の家の
出身であったが、主は、湖の試練の後で、彼らを「王子の庭」と呼ばれた肥
沃な地に導かれた。それは、キリスト者の希望のある未来を暗示している。
ゲネサレは、土地の素晴しさだけでなく、その人々は、他の地方に見られ
ない良い反応を示す。「人々は、イエスだと気づいて」とあるが、「気づく」
は、「はっきり認識する」の意味で、彼らは、キリストを良く理解していた。
彼らの信仰は、パンの奇跡で集まった群衆とも違い、また、日本人のよう
に信仰の対象を明確にしない宗教観とも違う。「この方以外には、だれによ
っても救いはありません。」彼らは、キリストこそ救い主であると認めた。
また、彼らは、「周辺の地域にくまなく知らせた」とあり、ゲネサレ以外
の人々にもキリストを伝えた。キリスト者は、彼らの様に福音を全ての人に
伝える責務がある。「良い知らせを伝える人たちの足は、何と美しいことか。」
「人々は病人をみなイエスのもとに連れてきて」とあるが、「病人」とは
「悪いものを持つ者」の意味で、病気だけでなく、主の忌み嫌う一切の悪を
含む。彼らは、全ての悪い物を主の御前に明け渡す事で、癒され聖められた。
彼らは「せめて、衣の房にでもさわらせてください」と懇願した。衣の房
は、神の律法と聖さを象徴した。(民数 15:37)彼らは、長血を患う女がイエス
の衣の房に触れた様に、房に触れるだけで直ると信じた。「そして、さわっ
た人たちはみな癒された。」主の御業は完全で、信じる者は誰でも救われる。
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No.743 - 8月14日: 「幽霊ではなく神の子」 マタイの福音書14章22節〜33節 |
(みことば)「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれ
は幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。」
マタイの福音書14章25節
キリストは、パンの奇跡の後で、弟子達を舟で「向こう岸に向かわせ、そ
の間に群衆を解散させられた。」その行動には、キリストの意図を覚える。
第1に「イエスは祈るために一人で山に登られた。」とある様に、群衆か
ら離れ、一人で祈る必要を覚えられた。主の御力の源は、父との祈りにある。
第2に主は、弟子達を群衆から引き離す必要があった。パンの奇跡に熱狂
した人々はイエスを王と担ぎ上げる。(ヨハ 6:15)だがイエスは、この世の王や
新興宗教の教祖ではない。弟子達も群衆を離れ、祈りと訓練が必要であった。
弟子達は、「向かい風だったので、波に悩まされていた。」彼らは、キリス
トが不在の中で、真夜中に湖の真ん中で右往左往する。彼らは、以前にキリ
ストが嵐を静める御業を経験をしたが、今回は、キリストが同じ舟に居ない。
だが、彼らは、キリストに従って舟に乗ったのだから、どんな試練の時に
も神の守りと導きを信じるべきであった。キリスト者は、人生の歩みの全て
に神を信じる平安があるが、神を知らない人は、頼るべきものが何もない。
「イエスは湖を歩いて弟子たちのところに来られた。」イエスは、波に悩
まされていた弟子達の元に水上を徒歩で近づく。世の人は、その特異な奇跡
を俄かに信じないが、嵐を静めた方が、湖の上を歩く事等、容易い事である。
だが、信仰の未熟な弟子達は、イエスを見て「あれは幽霊だ。」と怯える。
彼らは、2年以上主と共に歩み、多くの奇跡を見ながら、未だにキリストを
理解していない。イエスが神の子なら、解決できない事は何もなく、彼に信
頼する者は、慌てる事がない。「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる。」
「幽霊」とは、英語で(ファンタジー)「実体のない架空の存在」の意味である
が、世の人は「鰯の頭も信心から」の諺の様に「どんな宗教であっても信仰
心が人を支える」と捉える。だが、キリスト者が、もし実在しない架空の神
を信じているなら、「すべての人の中で一番哀れな者」(Tコリント 15:19)である。
だが、主は、彼らに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
と言われた。幽霊の様な架空の存在なら、話しかけはしない。キリスト者は、
漠然とした神信仰ではなく、真剣に神の言葉を聞き、神に祈るべきである。
「わたしだ。」とは、「私がここに存在している」の意味で、それは、モー
セの召命の際「わたしは『ある』という者である」と答えた、神の言葉と同
義語である。キリストは、万物が存在する前から永遠に存在する神である。
ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いて…」と願
った。彼は、キリストを見るだけでなく、実体験をしたいと考えた。信仰は、
主観的な神との交わりの経験で、神の実在は、信仰体験の中で証しされる。
彼は、「来なさい」との命令に舟から出て水の上を歩き始める。その行動
は、これ迄の自分の経験や努力に拠らず、ただ神への信仰だけが求められる。
だが、彼は、「強風を見て怖くなり…『主よ、助けてください。』と叫んだ。
彼が沈みかけたのは、主の言葉を疑い、風を恐れたからである。主は、彼
の手を掴んで助けて下さった。それは、生ける神の子だけがお出来になる。
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No.742 - 8月7日: 「パンの奇跡」 マタイの福音書14章13節〜21節 |
(みことば)「弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかあり
ません。」 マタイの福音書14章17節
キリストは、ヨハネ殉教の知らせを聞くと「舟でそこを去り、ご自分だけ
で寂しいところに行かれた。」それは、ヘロデの手を逃れ、祈る為であった。
神の働きが、敵の手によって妨害され、継続できなくなる事がある。だか
ら、主の助けを求めて、祈る必要がある。だが、キリストの働きは、その途
中で悪魔の手に陥る事はない。キリストは悪魔に勝利し、救いを完成された。
だが、群衆は、イエスの後を追って先回りして集まってしまう。キリスト
は、彼らをご覧になり、「深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒された。」
そこには、イエスの助けと救いがなければ、生きられない大勢の人がいた。
それは、今の時代も同様であるが、多くの人は、その解決と癒しを神に求め
ようとしない。だが、キリストは彼らを深く憐み、癒す力を持っておられる。
群衆は、病気の癒しでけでなく、主の教えと神の国の話しを聞いた。人々
には、病気の癒しだけでなく、魂の癒しと回復が必要であった。多くの人が、
魂の虚しさを抱えているが、その空洞を満たすのは、キリストだけである。
その時、弟子達は、夕方になったので、群衆が「食べ物を買うことができ
るように…解散させて下さい」とイエスに言った。弟子達の方がキリストよ
り群衆の体を心配している様に見えるが、それは彼らの取り越し苦労である。
逆に、主は、弟子達を試し「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげな
さい。」と命じる。勿論、その食べ物は、神が備えて下さるはずである。主
は、神の救いと神の言葉を求める者を決して飢えさせることはなさらない。
但し、「あなたがたがあの人たちに…」と言っても、主は、「弟子達の持っ
ている物」や「自分の力で何とかしなさい。」と命じている訳ではない。寧
ろ、彼らが、「信仰によって、神を信頼するかどうか」を試しておられる。
「群衆を解散させてください」と言う彼らの言葉は、一見、常識的で、妥
当に思えるが、そこには、全く信仰が見られない。彼らは、まだ、イエスと
いうお方を何も知らない。主は、求める者の全ての必要を満たして下さる。
そこで、彼らは、「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」と言
った。それは、彼らなりに精一杯努力した結果であったが、そんな僅かな物
では、何の足しにもならない。それは、彼ら自身が、一番良く自覚していた。
だが、主は、たとえ僅かな物でも「それを、ここに持って来なさい。」と
命じる。人間的には、「何の役にも立たない」と思える物が、主には、そう
ではない。勿論、主は、全能なお方で、石をパンに変える事もお出来になる。
だが、キリストは、主の為に献げられた僅かな物を豊かに用いて下さる。
主は、「群衆に草の上に座るように命じられ」彼らは、食事の準備をする。
弟子達は、そこに「五つのパンと二匹の魚しか」ない事を承知しているが、
主がその責任を取って下さる。弟子達は、ただ黙ってそれを見ていれば良い。
「イエスは…魚を取り…神をほめたたえ…群衆に配った。」主の御手にあ
る僅かな物が、主の祈りと祝福により五千倍、一万倍に増える。「人々はみ
な、食べて満腹し…12のかごが一杯になった」残りのパンは、弟子達への
報酬となったはずである。主と共に生きる者には、豊かな恵みと報酬が伴う。
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No.741 - 7月31日: 「聖書が教える教育」 創世記2章15節〜25節 |
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(みことば)「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」創世記2章15節
16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
18 また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。
20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。
21 神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。
22 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
25 そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
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No.740 - 7月24日: 「神を畏れない罪」 マタイの福音書14章1節〜12節
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(みことば)「ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼ら
がヨハネを預言者と認めていたからであった。」
マタイの福音書14章5節
バプテスマのヨハネは、キリストを救い主と証言したが、彼は、既に、ヘ
ロデによって投獄されており、獄中で首を跳ねられ、殉教することになる。
「領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて…」ヨハネが「死人の中からよみ
がえったのだ」と考えた。勿論、そうではないが、それは、彼が、ヨハネを
殺害した事の良心の呵責による。彼の悪行の経緯が回顧される形で記される。
彼の第1の罪は、兄弟ピリポの妻ヘロディアとの不貞をヨハネに責められ、
彼を「捕らえて…牢に入れていた」事である。ヨハネは、領主であってもそ
の不義を責めたが、ヘロデは自分の罪を悔い改めず、逆に預言者を投獄する。
だが、ヘロデは、ヨハネを殺せないでいた。それは、民衆が「ヨハネを預
言者と認めていたから」であり、「民衆を恐れた」からである。彼がヨハネ
を殺さないのは、神を畏れたからではなく、人の目を気にしたからである。
彼は、神を畏れないから不貞を犯し、兄弟の妻を奪い、罪を指摘した者を
投獄する。だが、ダビデは、同様の罪に対して、「私はあなたに、ただあな
たに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と告白した。
だが、ヘロデは、思わぬ形でヨハネを殺すことになる。それは、ヘロディ
アの娘が、ヘロデの誕生祝いの余興に、皆の前で踊りを踊って彼を喜ばせた。
それで彼は、上機嫌になり「娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。」
彼は、ガリラヤとペレヤの領主であり、娘の願う物を何でも与える権力と
財力を持っている。だが、自分の願った物を何でも思い通りにできると考え
る所に彼の驕りがある。人は、自分の寿命を一日でさえ伸ばす事は出来ない。
すると、娘は、母親に唆され「ヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言
った。娘の背後で、それを言わせているのは、母親であるが、彼女は、夫を
ピリポからヘロデに鞍替えし、ヘロデ以上にヨハネを恨み殺したいと願った。
ヘロデには、ヨハネを殺す事への躊躇いや戸惑いを感じるが、彼の妻ヘロ
ディアは、彼以上に悪魔的である。この二人は、イスラエルの王アハブとイ
ゼベルに似ている。彼女がヘロデに鞍替えしたのも、打算があったと思える。
「王は心を痛めたが…牢の中でヨハネの首をはねさせた。」彼は、躊躇い
と葛藤を覚えつつも、自分の手で預言者を殺害してしまう。それは、権力者
の面子と威厳を保つ為であり、彼の優柔不断さと罪が誤った決断をさせる。
「その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので…」少女の踊りの褒
美には、全く似つかわしくない血生臭い出来事が起こる。あどけない娘がそ
の盆を受け取り、それを母親のもとに運ぶ姿を想像するだけで不気味である。
たとえ少女であっても、事の善悪を判断し、行動しなければならない。彼
女は、母親の命令に奴隷か機械のように応答する。だが、人は、その行動や
判断の責任を神の前で問われる。神を知らなければ、誰かの言いなりになる。
最後に誕生日の祝いに列席した人にも責任がある。客の中で誰一人ヘロデ
の暴挙を諫める者がいなった。支配者を恐れるより、神を畏れるべきである。
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No.739 - 7月17日: 「神に召された者への敬意」 マタイの福音書13章51節〜58節 |
(みことば)「ご自分の郷里に行って…すると、彼らは驚いて言った。「この
人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」
マタイの福音書13章54節
キリストは、7つのたとえを語られた後で、弟子達に「あなたがたは、こ
れらのことがみな分かりましたか。」と尋ねると、彼らは、「はい」と答えた。
弟子達は、キリストの言葉をどれ程理解していたか分からない。それでも、
彼らが「はい」と同意する事から更に深い神理解へと進んで行く。信仰告白
も、それと同様に救いの招きに「はい」と答える事から信仰の歩みが始まる。
キリストは、弟子達の然りの応答に答え、最後の譬えを語る。それは「天
の御国」の譬えではなく、「天の御国の弟子となった学者」を「倉から取り
出す主人」に譬える。「学者」とは、「律法学者」と同じ言葉が使われている。
だが、弟子達は律法の学者ではなく、天の御国の学者である。大学が、卒
業者に学位を与える様に、主は、彼らに天の御国の学位を与える。その学者
は「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のよう」である。
倉には、「宝の箱」の意味があるが、「自分の倉」とは、その人が持つ知識
を譬えている。倉には「新しい物と古い物」を含め沢山の知恵の宝が蓄えら
れる。家の主人は、必要な時に必要な物を取り出し、必要な事の為に用いる。
主人を master と訳すが、大学で教える資格「修士」を master と言う。そ
れは、知識を駆使して教える力のある人を指す。「一家」とは、神の家、教
会を指し、その教師は、新約・旧約の教えを必要に応じ人々に提供できる。
この世にも様々な専門家や学者がいるが、その多くは、神を離れた知識に
基づく学者であり、その学問に、人間の罪や死など魂に関する解決や答えは
ない。「キリストのうちにこそ、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」
キリストは、「これらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、ご自分
の郷里に」行かれ、会堂で教えられた。イエスの郷里であるナザレの人々は、
「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と驚く。
故郷の人々は、イエスが公生涯を始める以前と以後のギャップに戸惑う。
彼らはキリストを幼少期から知っており、「この人は大工の息子ではないか。」
と呟く。彼らは、キリストの知恵と奇跡の力が、どこから来たかを知らない。
イエスは、罪の贖いの為に、私達と同じ肉体と精神を持たれた。彼は、「大
工の息子」と呼ばれたが、ヨセフの子ではなく、処女マリヤの胎に聖霊によ
って宿った神の子である。彼らは、肉的な視点からしかキリストを見ない。
「御子は、肉によればダビデの子孫として産まれ、聖なる霊によれば、死
者の中から復活により力ある神の子として公に示された方」(ローマ 1:3)即ち、
キリストは、天からの完全な神の啓示であり、神の本質の完全な現れである。
人は、御霊の働きなしに、天の御国に入ることはできない。「肉によって
生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ 3:6)肉の
人にキリストを知ることはできない。「わたしは天から下って来たパンです。」
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」預言者は、
神の言葉を語る者であるが、神に召された器としての敬意がなければ、その
人の言葉を神の言葉として聞けない。それは聞く者にとって不幸な事である。
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No.738 - 7月10日: 「価値ある宝を見出す者」 マタイの福音書13章44節〜50節 |
(みことば)「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つ
けた人は、…持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」
マタイの福音書13章44節
キリストは、天の御国を種にたとえて語って来たが、この箇所で「畑に隠
された宝」「良い真珠を探す商人」「魚を集める網」の3つのたとえを語る。
第1は、「畑に隠された宝」のたとえであるが、その宝を誰が隠したか分
からないが、耕す者が偶然に畑に隠された宝を発見する。農夫は、思いもよ
らない宝の発見に驚く。「天の御国は畑に隠された宝のようなもの」である。
キリスト者は、教会に来て神を信じる事で「罪の赦し」「死者の復活」「永
遠のいのち」等、宝の様な神の真理を知った。「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの…神の備えてくださったものはみなそうである。」
「その宝を見つけた人は、…持っている物を売り払い、その畑を買います。」
その畑は、彼の所有地ではないので、宝を手に入れる為に、まず、畑を買わ
なけばならない。その畑は、彼の全財産を費やしても、余りある価値がある。
天の御国は、財産を代償に得られる訳ではないが、天の御国を得ようとす
る時、世の富が足かせになる。世の富を惜しむ余り、天の宝を失う事がない
ように。金持ちの青年は、永遠のいのちを求めながら財産を手放せなかった。
第2は、「良い真珠を探す商人」のたとえであるが、「畑に隠された宝」と
の共通点は「高価な真珠」の為に財産を売ってそれを買う点にあり、異なる
点は、真珠の商人が初めから価値ある一つの真珠を探し求めている点にある。
「天の御国」は、「良い真珠を探す商人」の様に、それを求める者によっ
て見出される。御国の価値は、真剣に求める者でなければ分からない。「求
めなさい。そうすれば与えられます。…誰でも求める者は受け…開かれます。」
次に、ここから「真に価値あるものは一つだけである。」事を教えられる。
古来、天然の真珠は高価で稀な存在であった。その一つ真珠は、何ものにも
代え難い価値がある様に、天の御国は、世の全ての物を凌駕する価値がある。
人の価値観はそれぞれであるが、神を知らない世の人は、この世の富、地
位、名誉等に人生の価値を置く。だが、パウロは「キリスト・イエスを知っ
ていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています」と語る。
第3は、「魚を集める網」のたとえであるが、それは、漁師であった弟子
達にとって身近なたとえであった。主は、彼らを「人間をとる漁師にしてあ
げよう。」と言って召されたが、海に投げ入れる網は、福音の宣教と言える。
「天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなもの」
である。弟子達の宣教の働きを通して、ユダヤ人と異邦人の区別なく、福音
の招きに答えるあらゆる種類の人々が、天の御国と言う網の中に入って来る。
「網がいっぱいになると…良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ
捨てます。」漁師は、網の中の魚を良いものと悪いものに選別する。それは、
世の終わりの審判の時を表わす。「この世の終わりにもそのようになります。」
網に入った魚は、救いの招きに答えた者を表わすが、そこから更に正しい
者と悪い者に選別され、悪い者は、外に投げ捨てられる。「招かれる者は多
いが、選ばれる者は少ない。」火の燃える炉に投げ込まれないよう心しよう。
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No.737 - 7月3日: 「種の持つ成長と力」 マタイの福音書13章31〜35節 |
(みことば)「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔
きます。…空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」
マタイの福音書13章31、32節
マタイは、毒麦のたとえと解説の間に「からし種」と「パン種」のたとえ
を挿入し、最後に、イエスがたとえで語る事が、預言の成就であったと記す。
第1に、イエスは、天の御国をからし種にたとえる。からし種は、「どん
な種よりも小さい」が、「成長すると、どの野菜よりも大きく」なる。から
し種は、香辛料となる「カラシナ」の種で、0.5ミリ程の小さな種である。
だが、それが成長すると2~3mの鳥が巣を作る程の木に成長する。イエ
スは、この他に「からし種ほどの信仰があったら、この山に、ここからあそ
こに移れと言えば移る」(マタイ 17:20)と小さな物の表現としてこれを用いた。
天の御国は、からし種と同様に、その始まりは、小さな集まりに過ぎない
が、それは、やがて大きな集団へと成長する。ガリラヤの片田舎から始まっ
た小さな集団が、やがて、ローマ帝国の国教となるほど大きな組織となる。
キリストがこれを語った時、誰がそれを信じただろう。それは、神がおら
れる証明であり、そこには、小さくとも計り知れない力と可能性を秘めてい
る。たとえ、教会は小さくとも、キリスト者が信じている神は小さくはない。
それ故、キリスト者は、たとえ小さな者であっても「からし種ほどの信仰
があったら」山を動かす事もできる。それが実現するか否かは、ただ信仰に
かかっている。「神にとっては不可能なことは何もありません。」(ルカ 1:27)
第2に、イエスは、天の御国をパン種にたとえる。パン種は、パンを発酵
させ膨らませる時に使うイースト菌の事であるが、それは、種の様に生きて
いて発酵する微生物である。それは、人の目に見えない小さな酵母菌である。
「女の人が…3サトンの小麦粉の中に混ぜると…」3サトンは、40リットル程
の大量のパンであるが、僅かなパン種は、粉全体を膨らませる。からし種は、
外面的、量的な変化を強調し、パン種は内面的、質的な変化に焦点を当てる。
天の御国は、外面的な数の成長だけでなく、内面的な性質の変化を伴う。
数や大きさだけなら、この世にも勢力や力を持つ宗教や団体がある。だが、
天の御国は、その性質においても麗しい神の香りを放つ聖さや敬虔さを伴う。
僅かなパン種は、粉全体の性質を変えて行くように、僅かなキリスト者が、
その周辺の人々、即ち、地域や社会や世界を変えて行く貴重な存在となる。
これ迄、政治や経済や福祉の世界でキリスト者が果たして来た役割は大きい。
キリスト者は、「世の光、地の塩」である。だから光を失い、塩気を無く
す事のないようにしよう。キリスト者の香りは、新生した神の性質から醸し
出され、神の人に宿る御霊は、その人自身を変え、周囲を変える力を持つ。
最後にマタイは、イエスがたとえで話す理由を「それは、預言者を通して
語られたことが成就するため」と説明し、「私は口を開いて、たとえ話を…
隠されていることを語ろう」(詩篇 78:2)と告げる。たとえは、謎の意味がある。
主の教えは、信仰をもって聞かなければ、聞こえて来ない神の声である。
「私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。」(詩篇 78:1)
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No.736 - 6月26日: 「毒麦のたとえ」 マタイの福音書13章24〜30節、36〜43節
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(みことば)「ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔
いて立ち去った。麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。」
マタイの福音書13章25、26節
主のたとえ話の第2は、「毒麦のたとえ」であるが、「種を蒔く人」の場合、
種の落ちる土地に違いがあったが、これは良い種と毒麦の種の性質が異なる。
「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」その解説は、「良い種を蒔く人は
人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子」とある
様に、キリストが福音の種を蒔くことで、この世界に御国の子らが生まれる。
「畑」は、世界を表すが、「自分の畑」とあるので、それは、世と区別さ
れた教会を表す。御国の子らは、教会において、良い地に蒔かれた種のよう
に豊かな実を結び、しもべたちも、豊かな収穫を期待して、良い麦を育てた。
だが、しもべたちが予想もしなかった事態が起こる。「人々が眠っている
間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて…実ったとき、毒麦も現れた。」弟子
達は、何故「毒麦が生えたのか」尋ね、主人は「敵がしたことだ」と答える。
主の解説によると「毒麦を蒔いたのは悪魔」を指す。悪魔は、時には、教
会の中に入り込み、良い麦の中に毒麦を撒き散らし、宣教の働きを妨害する。
教会は、キリストの贖いより、聖別された聖徒の集まりであるが、しかし、
教会は、常に純粋で、混り気がなく、理想的な交わりと言うのではない。教
会も、この世に存在する以上、悪魔の誘惑やこの世の罪の影響を免れない。
ルターは、「主が教会を建てる時、悪魔もその隣に悪魔の教会を建てる。」
と言った。教会が順調に成長する時、それを一番嫉むのは、悪魔であり、彼
は、教会の働きを妨害し、駄目にしようと企む。「あなたがたの敵である悪
魔が、吼えたける獅子ように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」
しかし、私達は、「毒麦のたとえ」を聞いて、疑心暗鬼になる必要はない。
主を告白し、神の子とされた者は、良い種として神の畑に蒔かれた者である。
一方で、私達は、自分の心と思いが悪魔によって汚され、キリストへの純
潔を失わない様に気を付ける必要がある。「イスカリオテと呼ばれるユダに
サタンが入った。」12使徒の一人でさえ、誘惑に陥って滅びの子となった。
そこで、しもべは、主人に「毒麦を抜き集めましょうか。」と提案するが、
主人は、「麦も一緒に抜き取るかもしれない。…収穫まで…育つままにして
おきなさい。」と命じる。「収穫は、世の終わり、刈る者は御使い」である。
人は、確実に毒麦だけを抜き取る事が出来れば良いが、その様に旨く行か
ず、良い麦も間違って抜き取る過ちを犯す。「抜き集め、刈り取る」のは、
御使いの仕事で、私達のすべき事ではない。それは、主に委ねるべきである。
私達は、その点で、忍耐さや寛容さが足りず、人の悪を見て簡単に裁き、
善と悪、白と黒の判定を早急に下し易い。戦争が起こるのもその理由による。
完全な義人もいなければ、完全な悪人もいない。「正しすぎてはならない。」
だが、収穫の時、終わりの日には、良い麦と毒麦が分けられ、「御国の子
らは、父の御国で太陽のように輝き、つまづきと不法を行う者は、御国から
取り集められ、燃える炉の中に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりする」事になる。
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No.735 - 6月19日: 「キリストを知る幸い」 マタイの福音書13章10節〜17節 |
(みことば)「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、
聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」
マタイの福音書13章13節
キリストは、群衆に天の御国の奥義をたとえで話されるが、第1の「種を
蒔く人」のたとえと解説の間に、「なぜ、たとで話されるのか」を説明する。
弟子達は、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話になるのか」と尋ね、主
は、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あ
の人たちには許されていません。」と答える。奥義は、「秘密」の意味がある。
天の御国の奥義は、覆いが取り除かれなければ分からない。人々は、霊的
真理を具体的なたとえで聞いても理解できない。「たとえ」には、ヘブル語
で「謎」の意味もあり、人が信仰をもって聞かなければ、謎のままである。
「許されている」は、「与えられている」の意味で、それは、人間の知恵
や理性によって理解できるものではなく、神によって与えられた賜物である。
「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による。」
「人はどこから来て、どこへ行くのか。」それは、人類永遠のテーマであ
り、哲学者はその答えを見出そうと叡智を駆使して来たが、誰もそれに答え
た者はいない。だが、弟子達は「天の御国の奥義を知る」事が許されている。
「持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は…」そ
れは、資本主義経済の原理を表すような言葉であるが、主は、貧富の格差を
是認してるのではなく、御国の法則をこの世の原理にたとえて説明された。
「持っている人」とは、「天の御国を持つ人」の事であり、その人は、地
上で神の祝福を受け、天の御国でも豊かな相続に預かる。だが「持っていな
い人」即ち「御国の希望を持たない人」は、人生の終わりに全ての物を失う。
キリストは、たとえで話す理由を「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはい
るが聞かず、悟ることもしないから」と答える。人々は、キリストの御業を
見ても信じず、それを神の言葉として聞こうともせず、悟ろうともしない。
彼らに御国の奥義が分からないのは、彼らが聞こうとせず、知ろうとしな
いからである。それは、彼らの心のダイヤルがキリストと合っていないから、
その扉が開かず、神の言葉も届かない。「聞く耳のある者は、聞きなさい。」
「イザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現した」イスラエルは、預言者
の言葉に頑なで、北イスラエルはアッシリヤに、ユダ王国は、バビロンに捕
囚となる。預言者は、自分の知恵や悟りでなく、神に信頼するように命じる。
その救いのしるしは、「見よ。処女が身ごもている。」であった。「彼の救
いを見よ。彼の言葉に聞け。」それは、キリストの時代の人々への神の言葉
である。イスラエルは、その言葉に聞かず、神の祝福を失い、世界を彷徨う。
「あなたがたの目は見ているから幸いです。」何を幸いと考えるか、人の
価値観は様々であるが、真の幸福は、キリストを救い主と信じ、彼に望みを
持つ人である。天の御国に望みを持つ人は、与えられた恵みを失う事がない。
多くの預言者は、キリストを預言したが、彼らはその方を見る事が出来な
かった。だが、弟子達は、今、キリストを見ている。そこに真の幸いがある。
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No.734 - 6月12日: 「種を蒔く人のたとえ」 マタイの福音書13章1節〜9節、18節〜23節
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(みことば)「また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」
マタイの福音書13章8節
キリストは、舟に乗って腰を下ろされ、岸辺に集まる群衆に向かって「多
くのことをたとえで語られた。」その第1は、「種を蒔く人」のたとえである。
マタイのテキストは、種蒔きのたとえ(3~9)と解説(18~23)に分けて
語られる。主は、群衆に霊的真理を日常の事柄にたとえて話される。確かに、
たとえは分り易いが、天の御国の奥義を知る事は弟子達だけに許されている。
「種を蒔く人」のたとえで、蒔かれた種は、4種類の異なる地「道端、土
の薄い岩地、茨の生えた地、良い地」に落ちる。それぞれの種は「鳥が食べ
る」「枯れてしまう」「茨でふさがれる」「実を結ぶ」等、異なる結果となる。
「種」は、「御国のことば」(19)を意味し、それぞれの土地は、御言葉を
「聞く人の心」を表す。神の言葉は、今も昔も変わらず、力があるが、それ
を聞く人の心により、良い結果を齎す事も、何の効果も齎さない事もある。
第1の「道端に蒔かれた種」は、「御国のことばを聞いても悟らない人」
の事で、「鳥」は、「悪い者」即ち、悪魔を指す。悪魔は、「その人の心に蒔
かれた」御言葉の種を奪って行く。その人は霊的真理に何の関心も示さない。
その人は、二度と教会に来る事も聖書を読む機会も訪れないかも知れない。
日本の国も「道端に蒔かれた種」の様であり、幾ら宣教がなされても、堅い
心に蒔かれた福音の種を鳥が啄ばんで行く。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
第2の「土の薄い岩地に落ちた種」は、「みことばを聞くと、すぐに喜ん
で受け入れる」が、「困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう」人
を指す。信仰の歩みは、決して順風の時だけでなく、苦難の逆境の時もある。
信仰が長く続かないのは、薄い岩地の為に「根がない」からであり、直ぐ
に芽を出しても日照りが続くと枯れてしまう。その為に、根を深く張る必要
があり、それは御言葉の豊かさを学び、神と救いの恵み深さを知る事である。
第3の「茨の中に蒔かれた種」とは、「みことばを聞くが、この世の思い
煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人」を指す。信仰の
歩みには様々な誘惑が生じる。「この世」は罪と悪魔が支配する世界である。
神は、この世界の全てを創造された。だが、神を信じていても、現実の生
活では、「この世の思い煩いと富の誘惑」が茨の様に「みことばをふさぐた
め」信仰がそれ以上成長しない。御言葉と信仰に生きているかを吟味しよう。
第4の「良い地に蒔かれた種」とは、「みことばを聞いて悟る人」の事で、
「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実」を結ぶ。御
言葉に心に留め、信仰と恵みによって、それを育む人は、豊かな実を結ぶ。
結ぶ実は、人によって百倍、六十倍、三十倍の違いがあるが、それは、神
の言葉をどの様に受け留め、悟るかの違いであり、その人自身の能力や力量
の差によるのではない。神の言葉には、計り知れない力と豊かな命がある。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
(イザヤ 40:8)私達は、神の言葉によって豊かな実を結ぶ生き方をしよう。
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No.733 - 6月5日: 「神の家族とされる」 マタイの福音書12章46節〜50節 |
(みことば)「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、そ
の人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
マタイの福音書12章50節
キリストは、敵対する勢力パリサイ人との間に「安息日」「悪霊」「しるし」
等の緊迫した論争を展開して来たが、その最後に、主の家族が訪ねて来る。
主の家族は、血の繋がりがあり、幼い時からイエスを知る身内であるが、
福音書には、誕生と宮参り以外家族の記述がなく、兄弟について初めて記さ
れる。家族の記述が無いのは、それが救いに関して重要でないからである。
母は、マリヤ、兄弟は、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」等がいた。(13:55)
何故、家族が尋ねて来たのか、マルコは、人々が「イエスはおかしくなった。」
と聞いて、イエスの身内が「イエスを連れ戻しに来た。」(マルコ 3:21)と記す。
主の家族は、イエスを幼い時から良く知っていたが、その家族ですらキリ
ストを何も知らない。血の繋がりや目に見える関りでキリストを知る事は出
来ない。彼らは肉の家族に過ぎず、キリストを信じて生まれ変わっていない。
だが、主は、肉の家族と神の家族を区別する。彼らは「外に立っていた」
が、戸の内にいるのは、主に従う者である。「母上と兄弟方が…外に立って
おられる」と告げる者がいた。その言葉に主の家族への特別な意識を感じる。
イエスの家族も、「大勢の人のためにそばに近寄れ」(ルカ 8:19)なくとも、
「家族なら中に入れてくれるはず」と考えただろう。世の人は「血は水より
濃い」の諺の通り「血縁の絆は他人より深く家族こそ信頼できる」と考える。
だが、主の対応は「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟とは…」
とそっけない。主は、ご自分の家族を特別扱いにしない。寧ろ、「外に立っ
ていた」とは、主を信じる者と信じない者との霊的な区別を暗示している。
主は、カナの婚礼の席でも、母マリヤに「女の方、あなたは、わたしと何
の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と言われた。主は、
親子関係ではなく、御子キリストを信じる者に、神の御業と栄光を現される。
「大勢の人のためにそばに近寄れない」同じ状況でも、中風で床に寝かさ
れた人は、友により屋根から吊り下ろされ、主のもとに近づく。主は、彼ら
の信仰を見て「あなたの罪は赦された。」と宣言された。「信仰は血より濃い」
主は、弟子たちの方に手を伸ばして「見なさい。わたしの母、わたしの兄
弟たちです。」と言われ、彼らを「神の家族」として祝福する。ユダヤ人は、
神の家族としてアブラハムの子孫である事を誇りとした。だが、「キリスト
を信じて、キリストのもとに集まる者こそが、神の家族である。」(ローマ 2:29)
教会は、イエスを主と告白する者を兄弟姉妹と呼ぶ。それは、信仰によっ
て神の家族とされた証しであり、そこには、肉の家族を越えた絆と交わりが
ある。主にある者を兄弟姉妹と呼ぶ事は、神の国である教会の本質を表す。
「だれでも天におられるわたしの父みこころを行うなら…兄弟、姉妹、母
なのです。」誰でもキリストを信じるなら、ユダヤ人と異邦人の区別なく、
神の家族となる。神は、信じる者に「アバ、父」と呼ぶ特権をお与えになる。
神の家族とされた者は、神の子に相応しい聖い生き方を目指し、神の家族
を愛するべきである。神と神の家族との交わりの内に真の慰めと望みがある。
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No.732 - 5月29日: 「しるしを求める悪い時代」 マタイの福音書12章38節〜45節 |
(みことば)「しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを
求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」
マタイの福音書12章42節
この箇所には、「この時代」と言う言葉が6回繰り返されているが、人は、
誰でも、神の定めた計画と意志の下に、ある時代の中で生まれ死んで行く。
聖書の時代観は、直線的であり、それぞれの時代に生きた人が、やがて終
わりの時に、同じ一点に立つ事を示唆する。「ニネベの人々が、さばきのと
きにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。」
終わりの時に、それぞれの時代の中で、神を信じた者が、信じなかった者
を罪に定める。人がどの時代に生きるかは、主権的な定めによるが、人は、
どの時代に生きても、神を信じて生きたかが問われ、それが最も大切である。
「悪い、姦淫の時代」とある様にアダムの罪以来、人類は、普遍的に罪の
性質を持ち、悪を行って来た。「姦淫」とは、婚姻関係にない男女の不貞を
表すが、それは神の契約を破棄し、偶像の神に向かう宗教的姦淫を意味する。
この個所は、律法学者とパリサイ人がキリストに「しるしを見せていただ
きたい」と要求した事に始まる。彼らは、これまで何度もキリストを非難し
て来たが、今度は、イエスが救い主である確かなしるし(証拠)を求める。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します」(Tコリント 1:22)
だが、主は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられま
せん」と語る。彼らの要求は、神を信じようとしない頑なな罪の性質による。
キリストは、これまで人々の前で多くの奇跡を行って来たが、それ以上の
しるしが必要だろうか。結局、神を信じない人は、どんな奇跡を見ても信じ
られない。しかし、この世界は、神の創造の御業と神秘で満ち溢れている。
但し、「預言者ヨナのしるしは別です。」ヨナは、ニネベに宣教を命じられ
たが、神に背いて嵐の海に投げ込まれ、大魚の腹の中で三日三晩死の淵を彷
徨う。「ヨナのしるし」とはキリストの十字架と三日目のよみがえりを表す。
神が人類に与えた救いのしるしは、十字架と復活である。救いの為には、
これ以外どんなしるしも必要ない。主は、多くの病人を癒したが、癒しが目
的ではなく、救いは、十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちにある。
「ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めた」ヨナは何一つ奇跡を行わなか
ったが、彼らはヨナの説教に応答し滅びを免れた。「ヨナにまさるもの」即
ち、キリストがおられる。キリストを信じないなら、その人に救いはない。
次に「南の女王」は「ソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た」彼
女はソロモンを難問で試すが、彼に答えられないものは何もなかった。だが、
「ソロモンにまさる」キリストには「知恵と知識の宝」が全て隠されている。
最後に、汚れた霊は人から出て行くが、休み場が見つからない。人は、キ
リスト以外に休み場を求めても、何処にも安らぎを見出せない。そこで、汚
れた霊は、元の家に戻るが、「家は空いていて、掃除され…片付いて」いた。
その家はパリサイ人の様に自らを律してきよめるが、家の主(あるじ)を持た
ない。その家は7つの悪い霊が棲みつき「最後の状態は、初めより悪くなる」
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No.731 - 5月22日: 「聖霊を冒涜する罪」 マタイの福音書12章31節〜37節 |
(みことば)「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も
冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。」
マタイの福音書12章31節
冒頭の御言葉よると、人は、キリストの贖いの故に、どんな罪でも神に赦
していただけるが、例外として「御霊に対する冒涜は赦されません」とある。
キリスト者でも、信仰の歩みにおいて失敗し過ちを犯す。しかし、憐み深
い神は、どんな罪や過ちも、悔い改めるなら赦して下さる。「今や、キリス
ト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ 8:1)
だが、御霊に対する冒涜は赦されない。次節の並行記事に「人の子に逆ら
う…者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らう…者は、赦されません。」と
ある。それでは「御霊を冒涜し、聖霊に逆らう」とは、何を指すのだろうか。
31節の冒頭に「ですから」とあるが、それは、前文を受けた記述である。
主は、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人を癒やすが、パリサイ人
は、それを見て、「ベルゼブルによって悪霊を追い出している」と批判した。
つまり、「御霊を冒涜する」とは、御霊による明らかな御業がなされても、
それを「神の働きではなく、悪霊の業である」と言い張る心の頑なさを指し
ている。彼らは、聖霊の顕著で、絶えざる働きを見ても、神を拒絶し続ける。
彼らは、律法の教師であり、聖書を知らない訳ではない。彼らは、預言者
の言葉がキリストにおいて成就し、その奇跡を目の前で見ても、それを悪霊
の仕業だと言う。それは、人の心の内に働く聖霊を拒絶し冒涜する罪である。
「死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。」
(Tヨハ 5:16)死に至る罪とは、十字架の贖いと聖霊の働きを故意に拒む人であ
る。その人を「もう一度悔い改めに立ち返らせることはでき」ない。(ヘブ 6:4)
「木の良し悪しはその実によって分かります。」良い木が、悪い実を結ぶ
ことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともない。キリストが病人を癒し、悪
霊を追い出しているなら、その御業をどうして悪霊の業と言えるだろうか。
「まむしの子孫たち、おまえたち悪い者にどうして良いことが言えますか。」
辛辣な言葉であるが、主は、彼らを「悪魔の子」と呼ぶ。それは、彼らが良
い実を結ばないからであり、それはもともと彼らが「悪い木」だからである。
人は、「心に満ちていることを口が話す」のである。彼らは、キリストを
殺そうと相談するが、それは、彼らの心に闇があり、そこに悪魔が住んでい
るしるしである。人の心は、キリストの血によらなければ、きよめられない。
「良い人は良い倉から良い物を出し、悪い者は悪い倉から悪い物を出しま
す。」人には、異なる2つの倉がある。悪い者の倉には、「ねたみ、殺意、争
い、欺き、悪巧み…」(ローマ 1:29)等々、あらゆる汚れた物で満ちている。
人は「口にするあらゆる無益な言葉について、さばきの日に申し開きをし
なければ」ならず、自分の言葉に責任を持たなければならない。それは、審
判の時に「自分のことばによって義とされ…不義に定められる」からである。
キリスト教は、言葉を重んじる宗教である。神は、ことばで世界を創造し、
契約の言葉を重んじられ、人は、信仰を告白する言葉によって救いを受ける。
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No.730 - 5月15日: 「神の御霊による奇跡の業」 マタイの福音書12章22節〜30節 |
(みことば)「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出してい
るのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」
マタイの福音書12章28節
_イエスのもとに「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来
られ」主は、その人を癒し「その人はものを言い、目もみえるようになった。」
_
彼は、「目が見えず、口もきけない」多重の苦難を負っていたが、主は、
求める者の願いを聞かれ完全に癒された。その障害は、悪霊の憑依が原因で
あったが、主が悪霊を追い出す事で「ものを言い、目も見えるように」なる。
_彼は、主に癒された目で救い主を見、その口で神を賛美したに違いない。
それは、多重の苦難を負った人に起こった奇跡である。ヘレン・ケラーのよ
うに神の愛によって苦難を克服し、神に変えられた人の奇跡の事例がある。
_
群衆は驚き「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
と言う。ダビデの子とは、メシヤの呼称だが、それは否定の疑問形で「まさ
か、そうではあるまい。」と否定とも肯定とも言えない曖昧な態度であった。
_
パリサイ人は、それを聞いて、主の御業を「悪霊どものかしらベルゼブル
によることだ。」と否定する。彼らは、群衆がイエスに靡くのを恐れ、阻止
しようとする。この世には、罪の闇に引戻そうとする悪魔の働きが常にある。
_
ベルゼブル(家の主人)は、悪魔、或いはサタンを指すが、彼らは「悪魔
の力で悪霊を追い出している」と言い張る。彼らこそ悪霊に支配され、目が
あっても見えず、耳があっても聞かず、神の御業を受け入れようともしない。
_
主は、彼らの思いを知って「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ…そ
の国は立ち行くのですか。」と反論する。悪魔もそんな愚かな事はしない。
国や家庭でも、争いや分裂のある所に?栄はなく、やがて衰退し滅んで行く。
_
分裂や争いは、自分がかしらになろうとするから生じる。コリント教会が
そうであった様に、パリサイ人は、キリストをかしらとせず、自分がかしら
になろうとし、真理を偽りと取り換え、神の働きを悪霊の働きと言い換える。
_
更に、主は、彼らの批判に「あなたがたの子らが追い出しているのは、だ
れによってなのか」と反論する。パリサイ人の仲間にも悪霊を追い出してい
る者がいた。彼らの批判は、結局、自分への批判と裁きとなって返って来る。
_
主は、「神の御霊によって…追い出しているのなら、もう神の国は…来て
いる」と語る。彼らは、神の国をダビデ王国の再興と考えたが、神の国は、
目に見える国家ではなく、御霊の働きによる、神を信じる者の集りである。
_
神は、救い主を拒むイスラエルではなく、異邦人を含むキリストを信じる
者を神の民とされた。「わたしは、彼らを知らないすべての国々に…吹き散
らした」(ゼカ 7:14)こうして彼らは、二千年間世界を彷徨う流浪の民となる。
_
主は、最後に強盗が家に押し入る譬えを話す。「強い者を縛り上げるので
なければ…」その家を自由に出来ない。キリストは、ベルゼブルを縛る力を
持っているので、悪霊につかれた人が自由にものを言い、見えるようになる。
_
そこには、キリストの御霊による奇跡があり、神の国が始まっている。「わ
たしに味方しない者はわたしに敵対し…」神の国において中立はあり得ない。
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No.729 - 5月8日: 「さばきを勝利に導くまで」 マタイの福音書12章15節〜21節 |
(みことば)
「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛
する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」
マタイの福音書12章18節
_パリサイ人は、キリストへの妬みから安息日の問題で批判を繰り返し、イ
エスを殺す相談を始める。「イエスは、それを知って、そこを立ち去られた。」
_
主は、彼らとの対立を避けて退かれるが、神の定めの時が来たならば、エ
ルサレムへの十字架の道を進まれる。主の時は、まだ満ちていなかった。「す
べてのことには定まった…時がある。」神の時を見極める思慮が必要である。
_だが、主は、その働きを辞められたのではなく、癒しを求める人々に答え
られる。「彼らをみな癒された。」「わたしの名によって父に求めるものは何
でも…与えてくださいます。」(ヨハネ 16:23)そこに、神の憐みと恵みがある。
_
但し、主は「ご自分のことを人々に知らせないように」戒めた。主の救い
は、病気の癒しが目的ではなく、罪の赦しと永遠のいのちを与える事であり、
そこに世の宗教との違いがある。キリストと福音を正しく知る必要がある。
_
マタイは、「これは…イザヤを通して語られたことが成就するためであっ
た。」とイザヤ書のメシヤ預言を引用する。イザヤは、アッシリアによる侵
略の危機の時代に、神に信頼し、メシヤに救いの望みを持つように預言した。
_
「成就する」(プレロー)は、「満ちる」の意味で、「時が満ちて…御子を…遣
わされました」(ガラ 4:4)の様に、全ての出来事には、神の定めと計画があ
る。歴史は、偶然にではなく、神の主権的な御業と必然的定めの中で起こる。
_
イザヤは、来るべきメシヤが「どのような方か」を預言する。「見よ。わ
たしが選んだわたしのしもべ…愛する者。」その方は、父なる神が選び、父
の心が喜び、父の愛する者である。預言者は「この方を見よ。」と宣言する。
_
第2に「彼の上にわたしの霊を授け」とあり、それは、父、子、聖霊の関
係を表す。「授け」は、「据える、定める」の意味で、イエスの内に神の霊が恒
久的に留まる事を意味する。キリスト者は、同様に御霊を内に宿す者である。
_
第3に「彼は異邦人にさばきを告げる。」とある。「さばき」とは、「分け
ること」(クリシス)を意味し、英語では(クライシス)「危機」を意味する。「さばき
の日」(36)とある様に、それは、キリストによる最後の審判と判決を指す。
_
人類は、終わりの日にキリストの前で判決を仰ぐ時が来る。ヒューマニズ
ムは、理性の絶対性を主張するが、人類はそれにより2度の大戦の惨禍を経
験し、今3度目の危機に怯える。だが人間の野望と思惑が勝利する事はない。
_
第4に「彼は争わず、叫ばず…声を聞く者もない。」とある様に、主は、
人と争わない平和で、柔和な方であった。主は、ろばの子に乗って神の都に
入城されるが、武力によってではなく、平和の王として神の国を建てられる。
_
第5に、「傷んだ葦を折る事もなく…」とある様に、主は、今にも折れそ
うな弱い葦や、くすぶる燈心を消す事なく守られる。教会は、迫害の歴史の
中で、何度も消えかけたが、宣教以来、二千年間その存在を保ち続けて来た。
_
「さばきを勝利に導くまで。」世の終わりに反キリストが現れ、苦難の時
代を迎えるが、主の勝利は、定まっている。「異邦人は彼に望みをかける。」
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No.728 - 5月1日: 「安息日に癒される人」 マタイの福音書12章9節〜14節 |
(みことば)「人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に
良いことをするのは律法にかなっています。」
マタイの福音書12章12節
_パリサイ人は、安息日にキリストの弟子達が麦の穂を摘む行為を非難した
が、その批判の対象は、安息日の会堂におけるキリストの癒しの行為に及ぶ。
_
「イエスは…会堂に入られた。」安息日の会堂においける礼拝は、ユダヤ
人にとって欠かす事の出来ない習慣であった。「安息日を覚えて、これを聖
なる日とせよ。」第4戒は、キリスト者にとっても信仰と生活の基盤である。
_キリストが会堂に入ると、そこに「片手の萎えた人がいた。」(10)神は、
たとえどんな障害を持つ者でも、神を求める者を差別する事なく顧みて下さ
る。何よりもキリストは、その様な障害や病いを負った多くの人を癒された。
_
パリサイ人は、イエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」
と質問した。彼らは、イエスが安息日に癒すかどうかを試し、もし癒やした
ら、安息日に医療行為として労働したと見なし、訴える事ができると考えた。
_
だが、「律法にかなっていますか」と質問する事自体が不思議である。彼
らは、人の幸福より法を守る事に執着し、偏狭な考えに支配される。彼らは、
自分の正統性を主張する為に、弱い人を利用するが、そこに真実な愛はない。
_
彼らは、「キリストなら安息日でも、人を癒すに違いない。」と仮定して、
この質問をする。それは、彼らの予想通りであった。しかし、もし、彼らに
それだけの想像力があるなら、何故、キリストを信じないのか不思議である。
_
偏狭な考えに固執した人は、どんなに大きな奇跡を見ても信じる事が出来
ない。神礼拝は、先入観や偏った考えを捨て、遜って神の声を聞く事である。
_
人の成そうとする事が神の御心なら、平安があり、神に従う喜びがあり、
その道は、必ず祝福される。だが、御心でなければ、どこかで必ず挫折する。
_
そこで、キリストは、「羊が安息日に穴に落ちたら…引き揚げてやらない
でしょうか。」と問う。安息日厳守を唱える彼らでも、自分の羊を助けない
人はいないだろう。羊は、神の民を現わし、片手の萎えた人を譬えている。
_
その人の背景は、何も分からないが、彼は、その障害の故に、仕事も十分
に出来ず、生活も苦しかったはずである。それでも彼は、安息日に会堂に集
っている。キリストは、信仰に生きる者を大切な神の民として顧みて下さる。
_
「人間は羊よりはるかに価値があります。」人間の価値は、神に似せて造
られている事にあり、人間だけが、神を礼拝できる。礼拝は、「価値がある」
(worship)の意味であり、神に価値を置く者にとって最も大切な時である。
_
主は、「安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」と明快に答
える。成すべき業が「御心にかなった良い事である」と確信するなら、何に
も縛られず自由に行う事ができる。神の御心を真っ直ぐに行う信念を持とう。
_
キリストは、彼に「手を伸ばしなさい。」と言われ、「彼が手を伸ばすと、
手は元通りになり…良くなった。」罪ある人は、良い事を行う手が萎え、そ
れを実行できない。主は、安息日の礼拝において、その手を癒して下さる。
_
パリサイ人が安息日にしようとしたのは、「どうやってイエスを殺そうか
と相談し始めた」事である。彼ら自身が安息日に悔い改める必要があった。
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No.727 - 4月24日: 「キリストは安息日の主」 マタイの福音書12章1節〜8節 |
(みことば)「人の子は安息日の主です。」
マタイの福音書12章8節
_キリストの福音宣教に対する応答は、疑い、拒絶、批判となって現れるが、
特に、批判の急先鋒に立ったのが、律法の教師であるパリサイ人であった。
_
彼らの批判は、宗教的な指導者としての妬みが原因である。彼らは「どう
やってイエスを殺そうかと相談し始めた。」(14)教師である彼らに陰険で根
深い罪がある。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」
_彼らは、キリストに過ちを見つけ出そうと躍起になる。まず、彼らは、キ
リストの弟子達が安息日に麦畑で「穂を摘んで食べ始めた」事を非難する。
_
彼らは、弟子達が畑から穂を摘んだ事を非難したのではない。神の律法は、
憐みに満ちており、貧しい者が畑から穂を摘んだり、落ち穂を拾う事を認め
ていた。寧ろ、彼らは、弟子達がそれを「安息日に行った」事を問題にした。
_
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。…いかなる仕事もしてはなら
ない。」神は、6日間で世界を創造し、7日目に御業を終えて休まれた。安
息日は、休息と神を賛美する為に、出エジプト以降イスラエルに与えられた。
_
パリサイ人は、弟子達が穂を摘む行為を収穫と見なし、穂をこなす行為を
脱穀と見なし、それを「安息日にしてはならない」労働と見なして非難した。
_
彼らは、真剣に、重箱の隅を突っつく様に、人々の些細な行為を断罪し、
必要ない重荷を負わせた。彼らの律法解釈は、本来、神が定めた安息日の意
味や目的から大きく反れ、返って、人々に安息日の喜びや自由を失わせた。
_
神は、イスラエルを奴隷の家から解放し、彼らに自由と安息を与えられた。
又、主は、私達を罪と死から解放し、魂に平安と自由を与えて下さった。「あ
なたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」
_
キリストは、「ダビデと供の者が空腹だった時、神の家で臨在のパンを食
べた」記事に言及する。ダビデは、「祭司以外…食べてはならない、臨在の
パンを食べ」祭司も、それを赦した。神の律法には、柔軟性と憐みがある。
_
祭司がそれを赦したのは、ダビデが神のしもべとして誠実な働きをしてい
たからである。しかし、サウルは、ダビデを妬み、彼にパンを与えた祭司を
虐殺する。サウルがそれを断罪した様に、パリサイ人も弟子達を糾弾する。
_
主は、「祭司たちは安息日をけがしても咎を免れる」と祭司が安息日に働
いても罪に問われないと述べ、更に祭壇のパンは、宮で仕える者に与えられ
た。主は「わたしがいのちのパンです。…飢えることがない。」と言われた。
_
主は、彼らに「読んだことがないのですか」と繰返し問う。どんなに聖書
を読んでも、キリストに焦点を当てて読まなければ、御言葉は理解できない。
「ここに宮よりも大いなるものがあります。」主は、ご自分を神と宣言した。
_
「わたしが喜びとするのは真実な愛。いけにえではない。」彼らの信仰は、
枝葉末節に拘り、律法の本質を失い、最も大切な神の愛や真実が欠けていた。
天の御国に最も近いと思われ人が、実は、天の御国から最も遠い人であった。
_
「人の子は、安息日の主です。」創造主は、7日目を聖なる日と定め安息
日を与えた。キリストこそ、人に魂の平安と永遠の安息を与える主である。
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No.726 - 4月17日: 「キリストは生きている神」 ルカの福音書24章13節〜32節 |
(みことば)「二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を
説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカの福音書24章32節
_二人の弟子は、エマオへの途上で、よみがえられたキリストにお会いする。
_
彼らは、エマオへの11キロ程の距離を失望と落胆の内を歩んでいた。そ
れは、キリストの十字架の死により、望みを失っていたからである。その一
方で、女達の「イエス様が生きておられる」との報告は、彼らを戸惑わせた。
_
彼らは、「これらの出来事すべてについて…話し合ったり論じ合ったり」
したが、その議論に、何の答えや解決を見い出せず、空しくエマオに向って
いた。そこに「イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩み始められた。」
_彼らは、キリストが近づいて来て共に歩むと言う幸いな経験をする。私達
の人生は、キリストが共に歩む時に、始めて意味を持つようになる。ところ
が、「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」
_
キリストは、幽霊や幻ではなく、肉体を持ってよみがえられた。「さえぎ
られ」とは、「支配され、捕らえられ、固執する」の意味で、彼らにイエス
が分からないのは、キリスト以外の物に支配され、固執しているからである。
_
キリストは、彼らに「話し合っているその話は何のことですか」と尋ねると
「二人は暗い顔をして立ち止まった。」彼らは、キリストが共に歩んでいても、
それが分らないから暗い顔になる。「主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。」(詩篇 34:5)
_
弟子の一人クレオパは、「エルサレムに滞在していながら…ご存じないの
ですか」とその人の無知に驚く。主は「どんなことですか。」と聞き返し、
彼らは「ナザレ人イエス様のことです」と答える。それは、当の本人である。
_
彼らは、何も知らず、懇切丁寧に起こった全てを得意げに話し始める。し
かし、主は、それを知らん振りをして黙って聞かれる。何とも滑稽であるが、
キリストは、彼らが話し終わった後で「ああ、愚かな者たち。」と言われた。
_
主は、彼らが自分の知識を得意げに話しながら、実は何も知らない事を自
覚させる必要があった。ソクラテスは、知者(ソフィスト)の無知を悟らせる為
に「汝自身を知れ」と語ったが、二人も、心の鈍さを悟らなければならない。
_
その愚かさは、知性の足りなさによるのではなく「預言者たちの言ったす
べてのことを信じらない」信仰の足りなさによる。その知恵は、ソクラテス
の「対話術」によるのでなく、イエスがなされた御言葉の説き明かしによる。
_
「キリストは必ず…入るはずった…」主の様に「必ず」と将来を断言でき
る人は誰もいない。人は、死後どうなるか何も知らない。だが、神の計画と
言葉は、必ずその通りに実現する。信仰の確かさと希望は、御言葉にある。
_
二人は、主から直接御言葉を聞く幸いを得る。クレオパは、使徒でもなく、
ここにしか出て来ないが、主は、そんな弟子にも丁寧に御言葉から教えられ
た。彼らは、先に行こうとする主を引き止め、同じ宿に滞在する事を求める。
_
「イエスは…裂いて彼らに渡された。」その時「彼らの目が開かれ、イエ
スだと分かった。」パンを裂く行為は、主の晩餐を想い起す。「私たちの心は、
内に燃えていた」私達は、御言葉と神との交わりによって心を燃やされる。
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No.725 - 4月10日: 「「主のくびきを負う幸い」 マタイの福音書11章25節〜30節 |
(みことば)「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来な
さい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
マタイの福音書11章28節
_福音宣教への否定的な応答は、ガリラヤの町々だけでなく、次章でパリサ
イ人の批判となって発展する。その前に、キリストの祈りの言葉が記される。
_主は、祈りの冒頭で「天地の主であられる父よ」と神を賛美する。神は、
全被造物に絶対的な主権を持ち、万物の根源である。唯一の神理解は、キリ
スト信仰の本質であり、他の宗教に比類がなく、神のみ賛美の対象である。
_父は、「これら…を、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わし
てくださいました。」知恵ある者とは、この世の知者を指すが、パリサイ人
はその典型である。神は、彼らに福音の真理を隠し、分からない様にされた。
_「幼子」とは、親にすがって生きる乳飲み子の事で、自分の知恵によらず、
神に信頼して生きる者の比喩である。現わすは、覆いを取り除くの意味であ
るが、天の御国は、隠された覆いが取り除かれなければ、誰にも分からない。
_従って、福音の奥義と真理は、知性があれば分かるものではなく、信仰が
なければ、覆いが取り除かれ、真理が明らかになる事はない。「事実、この
世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」
_神のみこころは、人間の知恵によって神を知るのではなく、ただ、信仰に
よって神を知るようにされた。それは、人が讃えられるのではなく、神だけ
が誉め讃えられる為である。「父よ、これはみこころにかなったことでした。」
_「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。」父は、絶
対的な主権を持っているが、子も父と同じ権威を持った神である。その一体
性の故に、父と子は、同質であり「父のほかに子を知っている者」はいない。
_父を知るのは、「子と、子が父を現わそうと心に定めた者のほか」誰もい
ない。即ち、人の救いは、神の主権的な定めと選びによる。これは神学的な
難題であるが、人の救いは、神の主権的選びと人間の自由意思の両面がある。
_しかし、神の救いは、限定された者だけに与えられるのではない。「すべ
て疲れた人、重荷を負ている人は…休ませてあげます。」キリストは、重荷
を負い、疲れた人に向かって「わたしのもとに来なさい」と招いておられる。
_主の招きは、キリストが神でなければ絶対に言えない。主の言葉は、国や
時代を越えて普遍的である。人は、無力さの中で失望し、自分の力でどうす
る事もできない様な時、キリストの言葉を信じることで、魂の安らぎを得る。
_「重荷を負う」とは、自分で負い切れない荷を負わされる事であり、その
ままでは潰れてしまう。しかし、キリストの荷とくびきは、それと違って負
い易い。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」
_私達は、自分の負い切れない奴隷と死のくびきを負って来た。しかし、キ
リストは、私達を罪と死の重荷から解放し、主のくびきを負って生きる様に
招く。人は神のもとに帰り、主の定めに従って生きる時に魂の安らぎを得る。
_神は、私達に負い切れない重荷を負わせない。「わたしのくびきは負いや
すく、わたしの荷は軽いからです。」主に従って生きる喜びと平安を知ろう。
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No.724 - 4月3日: 「恵みと救いの日の始まり」 マタイの福音書11章13節〜24節 |
(みことば)『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌
ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』
マタイの福音書11章17節
_歴史には、時代の転換となる出来事があるが、神の国における大きな分岐
点は、ヨハネである。「すべての…預言したのは、ヨハネの時まででした。」
_旧約の最後の預言は、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ 3:5)
で終わるが、主は、ヨハネを「この人こそ来るべきエリヤなのです。」と告
げる。エリヤは、偶像礼拝の蔓延る不信仰なイスラエルに悔い改めを命じた。
_旧約聖書は、マラキを最後に400年間沈黙するが、その間隙を破り、エ
リヤの再来のヨハネが現れ、悔い改めを説く。彼は旧約の扉を開き、新しい
時代の到来を宣言し、その門からキリストが来られた。誰でも、「受け入れ
る思いがあるなら」救いを受ける日が到来した。「耳のある者は聞きなさい。」
_キリストは、「この時代は何にたとえたらよい」かと尋ね、「広場で座って、
ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのよう」であると譬える。
人々は、新しい時代が始まっても、ヨハネやキリストに応答しようとしない。
_他の子たちは「笛を吹いて…弔いの歌を歌って」も、それに合わせて踊ら
ず、悲しまない。人々はヨハネの語る悔い改めに答えず「悪霊につかれてい
る」と言い、イエスの救いの招きに答えず「大食いの大酒飲み」と批難する。
_それは、結婚式や葬式ごっこの遊びに興じてくれない、他の子供達への不
満を歌っている。その一方で「広場に座って」いる子供達からの見方もある。
_彼らは、広場に座って他の子に呼びかけ、自分の都合の良いように相手を
動かそうとし、自分の思う通りに行動しないと不満を言う。人々は、ヨハネ
が悔い改めを説いても、自分を変えようとせず、頑固に自分の意思を貫く。
_「知恵の正しいことは、その行いが証明します」主は、不信仰な人々に、
神の力で相手を捻じ伏せ、ご自分の正しさを主張されない。寧ろ、黙って、
神の御業を行い、福音を伝える。私達は、一生涯をかけて真実を証明しよう。
_「イエスは…町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。」
キリストが責められたのは、ご自分が活動の拠点としたカペナウムやコラジ
ン、ベッサイダなど「力あるわざを数多く行った」ガリラヤの町々である。
_主は、それらの町々に辛辣で厳しい裁きの宣言をする。「ああ」とは、キ
リストの嘆きの言葉で「わざわい」とも訳せる。それは、彼らが、キリスト
の数多くの奇跡を見て、福音を聞きながら、悔い改めなかったからである。
_「さばきの日」は、今ではなく、世の終わりの審判の時に明らかになる。
寧ろ「今は、恵みの時、今は、救いの日」である。しかし、キリストが、さ
ばきを宣告し、滅びを宣言したなら、終わりの日には、必ずその通りになる。
_もし、ツロとシドンでキリストの御業がなされていたら、「彼らは…悔い
改めていた」だろう。彼らが滅んだのは、福音を聞く機会がなかったからで
ある。同様にソドムも、福音を聞く機会があったなら滅びに済んだ事だろう。
_カペナウムは、誰よりも多くの福音の恵みに預かり、悔い改めの機会を与
えられていた。それでも悔い改めないなら、審判の時にその責任を問われる。
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No.723 - 3月27日: 「天の御国を攻める者たち」 マタイの福音書11章7節〜12節 |
(みことば)「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激し
く攻められています。…激しく攻める者たちが…奪い取っています。」
マタイの福音書11章12節
ヨハネは、獄中で「おいでになるはずの方はあなたですか」と信仰が揺ら
ぐが、キリストの御業と福音の宣教は、救い主としての確かな証明である。
キリストは、ヨハネについて「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったの
ですか。風に揺れる葦ですか。」と人々に問う。川の流れや風に揺れる葦は、
世に流されて生きる人の象徴であるが、ヨハネは、信仰と信念の人であった。
神を信じる者は、時代が変わっても変わらない普遍的な賜物を持っている。
信仰に生きる者の魅力は、そこにある。世の人は、困難な時に、葦のように
簡単に折れてしまうが、「この方に信頼する者は失望させられることがない。」
次に、主は、「何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。
…王の宮殿にいます。」と問う。ヨハネは、粗末な「らくだの毛の衣」を着
ていた。人は、高価な服を着た金持ちに憧れるなら、王の宮殿に行けば良い。
キリスト者は、この世の物がやがて儚く消え去ることを知っている。私達
は、いつまでも残り、変わる事のない永遠の賜物と天の栄光を目指して、神
の宮に集っている。「あなたがたは…上にあるものを求めなさい。」(コロサイ 3:1)
更に、主は、「そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。」
と問う。人々は、神の言葉を真っ直ぐに語る預言者としてのヨハネに魅力を
覚えた。預言者が語る神の言葉には、この世の人にはない救いの希望がある。
パウロは「十字架につけられたキリストのほか…何も知るまいと決心」し
た。それは「信仰が人間の知恵によらず、神の力によるものとなる」為である。
更に、主は、ヨハネを「預言者よりもすぐれた者」と評価し、この人こそ、
「わたしは…使いをあなたの前に遣わす…道を整える」…人です。」と語る。
彼は、主の道を整え、キリストを指し示す点で、他の預言者より優れていた。
主は、「ヨハネより偉大な者は現れませんでした。」と彼に最大の賛辞を贈
る。彼は、獄中において信仰が揺らいだが、それでも、主は、彼の働きを賞
賛する。この地上の働きを評価され、主から褒められる人は、幸いである。
主は、「天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」と言う。天の
御国とは、キリストから始まり、信仰によって罪を赦された者が生きる霊的
な世界である。では、御国の子らは、何がヨハネより優れているのだろうか。
ヨハネは、キリストを救い主と紹介したが、救いの方法、即ち「十字架の
贖い」「三日目のよみがえり」「聖霊の働き」等は、何も知らなかった。だが、
御国の子らは、御言葉により福音の詳細を知り、確信をもって宣教できる。
「天の御国は激しく攻められ…」とは、「敵から攻められる」のか、「御国
に入ろうとする者から」なのか解釈が分かれるが、前後関係から後者が妥当
である。「激しく攻め」「奪い取る」等、天の御国は、霊的な戦闘状態にある。
イスラエルは、約束の地に入っても、敵と戦って相続地を獲得する必要が
あった。天の御国を攻め落とす気概がなければ、それを得る事はできない。
士気の弱い軍隊は、幾ら軍備と兵員があっても、その国を攻め落とせない。
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No.722 - 3月20日: 「キリストにつまづかない」 マタイの福音書11章1節〜7節 |
(みことば)「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです。」
マタイの福音書11章6節
_ キリストは、「十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝え
るために…立ち去られた。」福音宣教は、弟子達を加えて益々拡大して行く。
_しかし、福音に対する反応は、「疑い、拒絶、批判」の形で現れ、13章
の終わりまで続く。「不信仰のゆえに…奇跡をなさらなかった。」(13:58)そ
の象徴的言葉は、「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです」である。
_福音に対する最初の応答は、バプテスマのヨハネからであった。「牢獄で
キリストのみわざについて聞いたヨハネは、弟子たちを通じて「おいでにな
るはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきですか」と尋ねる。
_ヨハネは、やがて来られるキリストについて「私よりも力のある方で…聖
霊と火で…バプテスマを授けられる」と紹介し、イエスにバプテスマを授け
た人物である。彼は、キリストの宣教が始まる前に投獄されていた。(4:11)
_ヨハネは、この時、信仰の確信を失い、キリストが救い主である事さえ疑
いを抱く。あれほど信仰の確信に満ちた人が、何故、これほど弱くなってし
まったのか。しかし、私達にも同じ弱さがあり、信仰の確信を失う事がある。
_ヨハネが投獄されたのは、彼が領主ヘロデの不貞を指摘し、罪を糾弾した
事による。彼は、やがてヘロデの誕生日に不貞の妻ヘロディアの唆しにより
首を切られる。彼は、毅然とした態度で最後まで預言者の責務を全うした。
_神の言葉に生きる者が踏み躙られ、悪が横行する時代に、「神がおられる
ならどうして…」という疑問が生じる。権力者が自分の欲望を貫く為に正し
い者の声を暴力で封じる。信仰と勇気がなければ、信念を貫く事ができない。
_キリストは、彼について「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのです
か。風に揺れる葦ですか」と問う。水辺に漂う葦は、世に流される弱い人の
象徴である。キリスト以外に救いを求め、転々としても失望するだけである。
_主は、彼の弟子達に「自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに
伝えなさい」と命じる。キリストの言葉は、信仰の確信を失いかけた者を励
まし勇気づける。確かに「目の見えない者たちが見…福音が伝えられている」
_主の言葉は、キリストがガリラヤで行われた御業であるが、罪と悪の時代
にも、神の働きは、絶える事なく続いている。ヨハネも「牢獄でキリストの
みわざについて」聞いていた。ここに、神の存在と希望が証しされている。
_暗いニュースばかりが聞こえる中で、暗闇に灯る光のように、キリストの
みわざが輝いている。「異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は、大き
な光を見る。」神のわざは、観念ではなく、信じる者に生きて働く力である。
_キリストの御業の最後は、「貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」
事である。「貧しい者」とは、「苦難の中にあって神に救いを求める人々」を
指す。キリストの福音は、罪の世における唯一の救いであり、望みである。
_「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからで
す」(ローマ 1:17)神の救いを受ける条件は、キリストを救い主と信じ、この方
につまづかない事である。「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです。」
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No.721 - 3月13日: 「小さき者になす業の報い」 マタイの福音書10章40節〜42節 |
(みことば)「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ…わたしを
受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
マタイの福音書10章38節
_キリストは、弟子たちを宣教に遣わす際に注意と警告を語って来たが、そ
の最後に、遣わされた弟子達への対応によって受ける報いについて述べる。
_「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」弟子達は、
キリストの使者として世に遣わされるが、世の人が彼らを歓迎してくれる訳
ではない。彼らの家族さえも敵となる時、失望落胆し辛く悲しい経験をする。
_私達は、その様な時こそ、キリストの使者として誇りを持つべきである。
「受け入れる」は、「歓迎する、支える」の意味でここに6回も記される。
キリストの弟子を受け入れる事は、即ち、キリストを受け入れる事である。
_キリストは、今、天にある神の右の座に着いておられ、私達は、キリスト
の証人として世に立てられている。パウロは、「私達はキリストに代わる使
節」(Uコリント 5:20)或いは「使節の務めを果たしています。」(エペソ 6:20)と語る。
_使節は、国の全権を委託されて派遣されるが、私達は、天の御国の権威を
キリストから委託されて派遣された者である。父なる神は、罪の世に御子キ
リストを遣わされた。御子を「受け入れる」とは、父を受け入れる事である。
_「遣わす」(アポステンロー)は、遣わす者が遣わされる者に全権を委託して、代
理者として派遣する場合にのみ使われる。従って、派遣された者への対応は、
派遣した者への行為と見なされる。全権を委託された大使の責任は大きい。
_キリストは、使徒達を遣わす際「汚れた霊どもを制する権威をお授けにな
った。」福音の言葉は、世の人に神と和解させ、滅びの支配から解放し、永
遠のいのちを与える。神の権威を託された使者としての誇りと自覚を持とう。
_「預言者を預言者だからということで…」預言者は、神の言葉を預かり語
る者であるが、預言者の職務と働きを敬う者は、預言者と同じ報いを受ける。
礼拝の説教を真剣に聞く者は、御言葉の恵みに預かり神の祝福を共に受ける。
_「義人を義人だから…」義人は、神の人と言えるが、神の人を敬い信頼す
る者は、彼と同じ報いを受ける。ツァレファテのやもめは、エリヤの言葉を信じ、
飢饉の時に「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならない」奇跡を経験する。
_それは、単に地上での恵みに留まらない。預言者や義人に対し成した行為
は、天における豊かな報いとして返って来る。「朽ちることも…ない資産を
受け継ぐように…あなたがたのために天に蓄えられています。」(Tペテロ 1:4)
_「わたしの弟子だからと言うことで…」その行為は、主の弟子への善行で
あるが、たかが水一杯を差し出す細やかな行為に過ぎない。しかし神は、そ
の人自身も忘れる様な小さな善行さえ忘れず、その報いが失われる事もない。
_「失う」は「滅びる」の意味であるが、最後の審判の時に、そんな些細な
善行さえ神に覚えられ、報いがあるのなら、私達がキリストの名において、
今行っている礼拝や祈りや奉仕は、どれ程大きな意味や価値を持つ事だろう。
疫病の蔓延や戦争などの混迷した時代の中で、誰もが、言い知れぬ不安を
抱き怯えている。私達は、今している事の希望を未来に対して失う事はない。
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No.720 - 3月6日: 「十字架を負って主に従う」 マタイの福音書10章34節〜39節 |
(みことば)『自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」マタイの福音書10章38節
_キリストは、宣教に遣わす弟子達に、世から憎まれ、迫害される事を告げ
て来たが、そこに必然的に起こる事は、平和ではなく、争いや戦いである。
_わたしは平和ではなく剣をもたらすために来ました。」主の言葉は、キ
リスト者が好戦的な印象を受けるがそうではない。主は「平和を造る者は幸
いです」と言われた。それは、今の時代が神を信じない罪の世だからである。
_私達は、この罪の世に妥協せずに信仰に生きようとするなら、必然的に戦
いが生じる。主は、悪魔の試みに「主を礼拝し…主にのみ仕えなさい。」と
妥協せず毅然と答えた。ウクライナの人々のように、命をかけた戦いもある。
_「わたしは、人をその父に…逆らわせるために来たのです。」家族の中に
戦いが生じ、家族との関係で信仰が試される。私達の信仰は、たとえ家族で
あっても理解されない。寧ろ、家族だからこそ激しく反対される事がある。
_家族であっても、神の国に生きる者の人生観や価値観を共有できない。キ
リストにも、母や兄弟がいたが、主は、肉の家族より神の家族を大切にされ、
ご自分に従う者を見て、「わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われた。
_更に、主は「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者で
はありません」と言う。それは、即ち「自分の家族以上に主を愛せよ」との
命令である。私達の信仰が一番試されるのは、家族との関係においてである。
_親や兄弟や子供との関係で、「誰を一番愛しているか」が試される。「なす
べき正しいことを知っていながら行わないなら…その人の罪です」(ヤコブ
4:17)私達は、家族の意見に流され、毅然とした態度を示せない弱さがある。
_寧ろ、愛する家族だからこそ「神を信じる道」をはっきりと示さなければ
ならない。そうでなければ、家族が信仰を持つ事はない。神は、父や母、娘
や息子を愛する以上にキリストを愛する者を愛し、その様な人を祝福される。
_「自分の十字架を負って…」とあるが、十字架とは「他者の救いの為の犠
牲と献身の行為」である。私達はキリストの贖いによって救われた者である。
「弟子は師以上の者ではなく…」人それぞれに負うべき自分の十字架がある。
_私達は、キリストの犠牲の大きさに比べたら、どれほど神の国の為に生き
ているだろうか。「わたしにふさわしい者ではありません。」と3度繰り返さ
れている。主の弟子にふさわしい生き方をしているか自己吟味が必要である。
_神は、アブラハムを試み、ひとり子イサクを全焼のいけにえとして献げる
ように命じる。彼は、主の命令に答え、モリヤの山でイサクを祭壇の上に献
げる。主は、「あなたが、神を恐れていることがよく分かった。」と言われた。
_「自分のいのちを得る者はそれを失い…」逆説的で矛盾に思えるが、同じ
いのちでも、「この世のいのち」と天に続く「永遠のいのち」がある事を知
らなければ、この言葉を理解できない。いのちは、この世で終わりではない。
_主は、「剣をもたらすために来た」と言われたが、それは、権力者が人を
脅す為に使う剣ではなく、安逸を貪り、滅びに向かう者の目を覚まさせる為
の剣である。主の剣である神の言葉は、人を滅びから永遠のいのちへと導く。
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No.719 - 2月27日: 「誰を恐れるのか」 マタイの福音書10章24節〜33節 |
(みことば)「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはい
けません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことがで
きる方を恐れなさい。」 マタイの福音書10章28節
_キリストは、使徒達を宣教に遣わす際に、幾つかの注意を語って来たが、
この箇所では、弟子達を迫害する世の人々を「恐れてはいけません」と語る。
_その第1の理由は、主であるキリストが世から迫害されたからである。「弟
子は師以上の者ではなく」とは、一般的に「弟子は師の域を越える事がない」
の意味であるが、弟子は師によって成長し、師の特性を引き継ぐものである。
_私達は、主が歩まれた苦難の道を歩み、聖さや生き方に於いて主を模範と
して歩むべきである。主が、「ベルゼブルと呼ばれるくらいなら」主をかし
らと仰ぐ教会は、必然的に世の人から「ひどい呼び方をされる」はずである。
_第2の理由は、「隠れている物は、やがて明らかになる」からである。「お
おわれているもので現わされないものはなく…」神は、善悪の全てを後の日
に明らかにされる。誰も見ていなくても、隠れた所で見ておられる方がいる。
_私達の生き方は、神への恐れによって形造られる。宣教の為に生きても、
世から評価され、報いがあるわけではない。寧ろ、信仰の故に悪霊呼ばわり
される事もある。私達は、地上の栄光ではなく、天の栄冠を目指して歩もう。
_主は、宣教に関して「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで
言いなさい。」と命じる。私達が、本気で「キリストによる十字架の赦しと
滅びからの救い」を信じているなら、世の人を恐れて黙っていてはいけない。
_第3の理由は「からだを殺しても、たましいを殺せない者を恐れる必要が
ない」からである。世の人が弟子達を迫害し、命を奪ったとしても、それは、
地上の肉体に限った事であり、たましいに手を触れ、滅ぼす事はできない。
_多くの聖徒達は、宣教の歴史の中で迫害に耐え、命を懸けて戦い、殉教し
た。彼らは「鎖につながれて牢に入れられる経験をし…石で打たれ、のこぎ
りで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り…」(ヘブル 11:36)
_私達は、目に見える人を恐れ易い者であるが、隠れた所で見ておられ、滅
びの権威を持つ方を恐れよう。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことの
できる方を恐れなさい。」やがて主の前に立つ時、恥じない生き方をしよう。
_第4の理由は、「主は、神の子とされた者を愛し、価値ある者と認めて下
さる」からである。神は、二羽束ねて1アサリオンで売られている安価な「雀
の一羽でさえ…父の許しなしに地に落ちることはありません」と言われた。
_また「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」私達は、
自分の髪の毛の数さえ知らない。しかし、主は、私達以上に私達を知ってお
られ、子として愛しておられる。「あなたがたは多くの雀よりも価値がある」
_最後に、地上におけるキリストへの態度が、やがて天で問われる。「だれ
でも人々の前でわたしを認めるなら」主も、父の前でその人を認め、「人々
の前でわたしを知らない」と言うなら、主も「その人を知らない」と答える。
_キリストは、やがて栄光と主権をもって世界を治める為に再臨される。そ
の時、キリストを主と告白し、主の為に生きた者は、神の栄光と共に輝く。
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No.718 - 2月20日: 「世に遣わされる者」 マタイの福音書10章16節〜23節 |
(みことば)「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして…遣
わします。…蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」
マタイの福音書10章12節
_キリストは、使徒達を宣教に遣わす際の注意を語って来たが、この箇所は、
人々が、彼らを「むち打ち」にし「死に至らせ」る等迫害する事を予告する。
_彼らは、宣教の先で迫害される事を覚悟しなければならない。主は、彼ら
を「狼の中に羊を送り出すようにして…遣わす」と語る。弱い羊が彼らの餌
食にならない為に「蛇のように賢く、鳩のように素直で」なければならない。
_宣教の働き人は、敵の罠が何処にあるか警戒し、彼らの策略にかからない
思慮深さが必要であり、同時に、鳩のように純粋で素直でなければならない。
主から遣わされた者は、悪に染まらず、それに打ち勝つ力を与えられている。
_「人々には用心しなさい。」全ての人が彼らに好意を持つわけではなく、
寧ろ、敵意を抱いて滅ぼそうとする者も大勢いる。日本は、宣教の自由が保
障されているが、そうでない国も沢山ある。宣教は、この世との戦いである。
_彼らが迫害を受ける理由は、「わたしのために」「わたしの名のために」と
ある様に、彼らがキリストのために生きるからである。それは、キリスト者
の生きる目的である。「私にとって生きることは、キリスト…」(ピリピ 1:21)
_第2に、彼らは、迫害を通して、神を「証しすることになる」からである。
彼らは、それにより総督や王の前で福音を弁明する機会を与えられる。その
証しの機会に、恐れる事なく、毅然とした態度で信仰を表明するべきである。
_その際「何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。」話す言葉は、
御霊によって与えられる。御霊は、その人の唇を用いて自由に話し、敵対者
が反論できない言葉を備え、その人に代わって弁護人の様に弁明して下さる。
_更に「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し…」信仰を貫く事により、兄弟や
親子の間に亀裂が生じる。大変厳しい事態である。確かに家族に妥協すれば、
平和を保てるが、人の知恵による平和でなく、神の平和を求めるべきである。
_「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」宣教の旅
に出る時、彼らを受ける入れてくれる家もあるが、その様な好意的な態度を
取る人は、稀であり、多くの人は、無関心か憎しみや敵意を抱く者もいる。
_福音を宣教する者は、世に受け入れられようとして媚びる必要はない。何
故なら、キリストも世から拒絶され、十字架にかけられて殺されたからであ
る。「世があなたがたを憎むなら…わたしを憎んだことを知っておきなさい。」
_「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」罪の世において、信仰が試される事
が幾度もあり、悪魔は、手を変え品を変えて信仰を試みて来る。救いは、た
だ、信仰と恵みによるが、この世における信仰の戦いは終わりの日まで続く。
_主は、「一つの町で人々が…迫害するなら、別の町へ逃げなさい」と命じ
る。その言葉の通り、初期の宣教は、ユダヤ人から迫害を受け、弟子達が各
地に散らされるが、「散らされた人たちは、…福音を伝えながら巡り歩いた。」
_最後に、主は、「人の子が来るときまでに…イスラエルの町々を巡り終え
ることは、決してありません。」と言う。主の再臨の時まで、異邦人への宣
教が続き、その時まで、イスラエルが民族として救いを完成することはない。
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No.717 - 2月13日: 「福音に生きる者の覚悟」 マタイの福音書10章9節〜15節 |
(みことば)「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。…
あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、…」
マタイの福音書10章12節
_キリストは、使徒達を遣わす際に、幾つかの注意を語ったが、後半の第1
は、彼らが宣教の旅に出る時に、「何も持たずに出て行くように」と命じる。
_「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚の下着
も…」旅の前には、準備を整えてから出かけるのが普通であるが、彼らは、
何を持たずに出かける。それは、神が必要の全てを備えて下さるからである。
_彼らは、福音の宣教の為に遣わされる。「働く者が食べ物を得るのは当然
だからです。」一般的に、働く者は、その働きに見合う報酬を得るが、福音
の為に生きる者は、福音の働きから生活の支えを得るように定められている。
_彼らの報酬は、どの様に与えられるのだろうか。「どの町や村に入っても
…その人のところに留まりなさい。」彼らは、マナの奇跡の様に養われるの
ではなく、神を信じる家に留まり、彼らの支援により宣教活動を継続できる。
_キリストも、同様に、主を受け入れる家を拠点に宣教の活動を継続された。
各地に教会が存在する現在、キリストを信じる者が教会に集い、神の国の働
きの為に献げられる献金により、教会の宣教活動や牧師の生活が支えられる。
_「だれがふさわしい人かを良く調べ」弟子達が世話になる家は、誰でも良
い訳ではない。主の為に自らを献げる信仰の人でなければ後々問題が起こる。
その様に、福音の宣教と教会の働きは、献身的な信徒により支えられている。
_弟子達は、「家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」と命じ
られる。彼らは、世話になる家から物質的な支援を受けるが、「平安を祈る」
霊的な賜物をもって報いる事ができる。彼らが祈る時、平安がその家に来る。
_イスラエルの挨拶は「シャローム平安」であるが、人々が願い求めたのは
「神の平安」である。その家に病人や死人、悪霊に憑かれた人がいたなら平
安はない。弟子達の祈りは、災いを追い出し、平安が留る権威と力を持った。
_「あなたがたの祈る平安がその家に来るように」その家が、神の人を受け
入れ、彼らを持て成し、神の国の働きを支援するなら、その家には、神の祝
福と平安が留まる。「ふさわしくなければ…あなたがたところに返って来る」
_シュネムの女は、エリシャを神の人と敬い、彼の為に食事と部屋を提供し、
彼の働きを支援した。エリシャは、不妊の彼女の為に神に祈り、男の子が与
えられる。預言者は、その子が死んだ時も彼女の願いを聞き、生き返らせる。
_最後に弟子達は、福音を語っても、彼らの言葉に「耳を傾けないなら、そ
の家や町を出て行くとき、足のちりを払い落としなさい」と命じられる。「足
のちりを払い落とす」とは、汚れや災いがその場所に留まる事を意味する。
_使徒達の言葉を受け入れる者には、神の祝福と平安が留まり、それを拒絶
する者には、神の裁きと災いが下る。教会は、「天の御国の鍵」を与えられ
ているが、それは、永遠のいのちの約束と滅びる者への災いの宣告である。
_「ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすい」福音
を知らずに滅んだ町より、福音を聞く者の責任は大きい。私達は「足のちり
を払い落とし」「血の責任はない」と言える程、福音を語っているだろうか。
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No.716 - 2月6日: 「遣わされる者の心構え」 マタイの福音書1章5節〜8節 |
(みことば)「異邦人の道に行ってはいけません。…むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」
マタイの福音書10章5節
_キリストは、12人の使徒を宣教の為に遣わす前に、彼らに幾つかの注意を与えた。「イエスは、この十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。」(5)
_第1 に、主は、彼らに「異邦人の道に」行く事と「サマリヤ人の町に」入る事を禁じる。福音宣教は、異邦人を含めた全ての民が対象であるが、使徒達は、まず「イスラエルの家の失われた羊たち」の所に行く様に命じられる。
勿論、異邦人やサマリヤ人に福音を語る必要がないと言うのではない。主は、百人隊長の信仰に答え、サマリヤの女を導かれた。だが、神の救いには順序があり、救いの約束は、まず神の民イスラエルに語られる必要があった。
_神は、アブラハムを祝福し、その子孫に約束を告げられた。救い主も、約束の通り、彼らから出たが、その民は、弱り果てて倒れていた。使徒達は、異邦人の道に行く前に、まず、失われた羊に救いを宣べ伝える責任があった。
_神の救いは、彼らが福音を拒んだので、その恵みが異邦人に及ぶ事になった。イスラエルが頑なになったのは、「異邦人の満ちる時が来るまで」(ローマ 11:25)と定められている。やがて、イスラエルが救われる時がやって来る。
_使徒パウロは、異邦人に福音を宣べ伝えつつも、「私には大きな悲しみがあり…痛みがあります」(ローマ9:2) と失われた同胞の救いの為に祈り求めた。
_第2に、主は、彼らに「天の御国が近づいた」と宣べ伝えるように命じる。
「弱り果てて倒れている」羊に必要な事は、物質的な援助や具体的なアドバイス以上に神との関係が回復する事であり、霊的必要が満たされる事である。
_天の御国は、目に見えないが、決して観念的な架空の世界ではない。神は、
イスラエルの歴史を通してご自身を証しされ、キリストを通して、「天の御
国は近づいた」と宣言された。福音の宣教には、顕著なしるしが伴っている。
_第1に、宣教には、「病いを癒す」業が伴う。キリスト者は、病いを癒す
生ける神を知っている。主が多くの病気を癒された様に、神を信じる者は、
病の時も主が共におられる。「わたしは主、あなたを癒やす者」(エジ15:26)
_第2 に、宣教には「死人を生き返らせ」る業が伴う。使徒達が死人を生き
返らせた様に、神は、キリストを信じる者に死に勝利する力を与えられる。私達は死者をよみがえらせた神の力を信じ、天の御国に望みを持つ者である。
_第3に、宣教には「ツァラアトに冒されたものをきよめる」業が伴う。ツ
ァラアトは、重い皮膚病で汚れを意味した。キリストの救いの本質は、罪の
赦しにあり、「キリストの血がすべての罪から私たちをきよめてくださ」る。
_第4に、宣教には「悪霊どもを追い出す」業が伴う。聖書には、しばしば
悪霊の記述があるが、現代でも悪霊の活動は顕著にある。偽宗教が蔓延り、
多くの人が偽りの教えに惑わされている。福音の宣教の必要を切に覚える。
_最後に、主は、弟子達に「ただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
と命じる。神の救いは、行いや功績によらず、信仰による無償の賜物である。
私達は、見返りを求めず、救いの喜びと愛をもって福音を伝える者となろう。
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No.715 - 1月30日: 「使徒の選びと宣教の権威」 マタイの福音書10章1節〜4節 |
(みことば)「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお
授けになった。霊どもを追い出し…わずらいを癒やすためであった。」
マタイの福音書10章1節
_本日の箇所から、キリストに従って来た弟子達が、宣教の為に派遣される
新しい体制と展開が始まる。主は、宣教の働き人として12使徒を選ばれる。
_これまで、キリストは、ガリラヤの町や村において悪霊を追い出し、病気
を癒す多くの奇跡を行ってきたが、その全てはキリスト自身の働きであった。
弟子達は、これまでキリストに従いつつも、それを傍観するのみであった。
_弟子達は、この時からキリストのなさる働きと御業を共に担う事になる。
それは彼らの信仰の歩みにおいて新しい経験である。見ている事と実際にや
ってみる事には大きな違いがある。彼らは、傍観者から宣教の担い手となる。
_キリストは「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われた。主は、その
体現として12弟子を選び、「汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」
宣教の御業は、それ以降、教会に引き継がれ二千年間継続される事になる。
_キリストは、弟子達に宣教の働きを成す権威をお授けになるが、それは、
キリストが父から与えられた権威であり、使徒達は、神の権威を与えられ「あ
なたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられる。
_主の教えと御業は、使徒達に引き継がれ二千年間教会を通して変わる事な
く伝えられている。この世の宗教や思想は、たとえ一時代を風靡しても時代
と共に移り変わる。だが教会が語る神の言葉は、廃れる事も変わる事もない。
_キリストは宣教の為に12使徒を任命する。「使徒」とは、「遣わされた者」
の意味であるが、それはイスラエルの12部族に対応している。キリストの
宣教は、イスラエル民族から教会に委ねられ、全世界の人々に証しされる。
_12使徒の特徴であるが、ペテロを筆頭とする4名は、ベッサイダ出身の
漁師で、無学な一般庶民であった。それは他の弟子も同様である。神は、こ
の世の知者や権力者ではなく「取るに足りない…無に等しい者」を選ばれた。
_第2に、彼らは必ずしも信仰の模範者ではない。ペテロは、主を諫め「下
がれ。サタン」と叱責され、湖で沈みかけ「信仰の薄い人だ」と言われ、主
を3度否む。ヤコブとヨハネは雷の子と呼ばれ、トマスは復活の主を疑った。
_第3に使徒の集団は、思想や性格の全く違う者が一つになれる。熱心党員
シモンは、過激な国粋主義者であったが、取税人マタイと行動を共にする。
水と油ほど異なる者達が、主の贖いにより御国の宣教の為に一つになれる。
_最後に、「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」の名が記される。彼は、
使徒として召されていながら、銀貨30枚で祭司長達にキリストを売り渡し、
その為にキリストは処刑される。何故、キリストは、彼を選んだのだろうか。
_その責任は、彼を選んだキリストにではなく、主を裏切ったユダ自身にあ
る。彼は、他の弟子と同様に神の権威を与えられ、宣教の働き人となった。
だが、彼は、金入れを預かっていたが、何時からか、それを盗むようになる。
_彼には、悔い改める機会もあったが、最後まで悔い改める事なく、主を裏
切り、尊い職務さえ失う。ユダの記述は、今日の私達への教訓の為である。
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No.714 - 1月23日: 「羊飼いのいない羊の群れ」 マタイの福音書9章36節〜38節 |
(みことば)「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない
羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」
マタイの福音書9章36節
_キリストは「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆ
るわずらいを癒やされた」が、その活動と権威は、やがて教会に委ねられる。
_続いてこの箇所には、イスラエルの霊的状態と神の民に対するキリストの
心情が記される。神の民は、羊の群れに譬えられ、羊飼いがこれを養う。だ
が、神の民が、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」
_主は、教会の群れを通して神の民を形成し維持される。それは弱さを持つ
者が互い支え合う為である。共に集まる事は群れの本質的な姿である。狼は
群れから孤立した羊を奪う。羊が群れに留まる事は身を守る為の鉄則である。
_従って、羊の群れには、羊飼いが必要である。羊飼いは、羊を守り、導き、
養う働きをするが、イスラエルの民は霊的に弱り果てて倒れていた。それは、
祭司や律法学者が羊飼いの働きを怠り、羊を養っていなかったからである。
_主は、弱り果てた羊の群れを見て「深くあわれまれた。」その言葉は、「内
臓がわななく」の意味で、キリストの深い同情を表すが、それは、単なる同
情ではなく、自らの命を犠牲にし、血を流すほどの深い憐みの感情である。
_「深くあわれむ」(スプラングゾー)は、ギリシャ語であるが、ギリシャの思
想や文学に、人に対してこの様な感情を抱く神々の存在は描かれていない。
しかし、聖書は、キリストの人格的な心情をこの言葉で豊かに表現している。
_「弱り果てて倒れていた」とは、人々の霊的状態を示しているが、彼らは、
霊的に飢え渇き、さ迷っていたが、誰も、彼らの飢え渇きを癒す者がいない。
今の時代に、弱り果てた人々の魂を癒すのは、キリストの御言葉以外にない。
_神の民は、羊飼いの牧する群れの中で養われる。従って群れから離れた羊
は、いのちの危険が迫っている事を知るべきである。羊飼いであるキリスト
と羊の群れである教会に留まり、平安の中で信仰生活を送る人は幸いである。
_主は、弟子達に「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われた。主は、「神
の国に入る人々」を穀物の収穫に譬える。収穫の時は、世の終わりの神の救
いと裁きの日である。「麦を集めて倉に納め、殻を…焼き尽くされます」(3:12)
「収穫は多い」とあるが、伝道の困難さを覚える時に、なかなかその様に
思えない。しかし、現実を見て悲観するのではなく、主の言葉に立ち、望み
を持とう。「目を上げて畑を見なさい。…刈り入れるばかりになっています。」
_問題は、収穫の時に「働き手が少ない」事である。折角、主が収穫を備え
ていても、働き手が足りない為に収穫の実を刈り取る事が出来ない。献身し
て、牧師や伝道者になろうとする者が少なく、働き人の足りなさを痛感する。
_「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるよ
うに祈りなさい。」どれ程の収穫があるか、それは、人の思いや行動によら
ず、主の決定による事である。働き人が与えられる事も主の御心の内にある。
_収穫の時が迫っていても働き手がなければ、実りを刈り取る事ができない。
献身者が少なく、無牧の教会も多くある。働き手が起こされるように祈ろう。
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No.713 - 1月16日: 「神を讃える者となる」 マタイの福音書9章32節〜35節 |
(みことば)「悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うように
なった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだか
つて起こったことがない」と言った。」
マタイの福音書9章33節
_キリストがカペナウムで行われた最後の奇跡は「悪霊につかれて口のきけ
ない人」の癒しであるが、それは盲人の癒しと同様メシヤのしるしであった。
_「そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は
喜び歌う」(イザ 35:6)盲人の癒しに続いて「人々はイエスのもとに、悪霊に
つかれて口のきけない人を連れて来た」主は、信仰の人々の願いを聞かれる。
_口のきけない障害は悪霊が原因であった。悪霊の活動は、福音書に顕著に
現れるが、そもそも悪魔は、人間が罪を犯す誘因となり、彼の配下の悪霊は、
この世の罪と悪の現象に深く関わる。主は、その支配から解放する力を持つ。
_盲人の癒しも聾者の癒しも、そこに霊的な意味が含まれる。即ち、盲目の
人が神を見、神を賛美した事のない舌が神を誉め讃える。キリストによって
「悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。」(33)
_群衆は、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない。」
と驚いた。旧約の奇跡は、イスラエル民族に対する救出が中心であったが、
キリストは、寧ろ、個人の悩みや苦しみに答え、信じる者を救いに導かれた。
_キリストの奇跡の度にそれを見た人々の驚きが記されて来た。「いったい
この方は、どういう方なのだろうか。」(マタイ 8:27)「このような権威を人にお
与えになった神をあがめた。」(マタイ 9:8)信仰の歩みは、驚きの連続である。
_しかし、キリストの奇跡を批判的に見る人々もいた。パリサイ人達は「彼
は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。ル
カは、悪霊のかしらをベルゼブルと呼ぶが、それは、即ち、悪魔の事である。
_彼らがキリストに批判的なのは、キリストの存在が自分達の地位や名誉を
危うくすると考えたからである。大工上がりのイエスが人々を教え、多くの
人が彼の教えに耳を傾け、多くの人が奇跡を行うイエスのもとに集まった。
_彼らは、イエスの活動により自分達の面目が潰れ、権威が地に落ちる事を
恐れた。彼らは霊的な事柄によりも、地位や名誉など、この世の事に心を留
める。人の心には、神の言葉より自分の考えや感情を優先する頑なさがある。
_彼らの先祖イスラエルは、「うなじのこわい民」と呼ばれた。彼らは、紅
海が二つに分かれ、神の偉大な奇跡を見ても、その直ぐ後で、食べ物がない
と呟き、飲む水がないと不満を言い、エジプトは良かったと昔を懐かしむ。
_最後に、キリストの活動が総括的に要約されるが、その第1は、イエスが
全て町や村を巡って「会堂で教え」た事である。礼拝と説教はキリスト者の
歩みの基礎である。神への信頼と御言葉を愛する事から祝福の歩みが始まる。
_第2に「御国の福音を宣べ伝え」た事であるが、それは、教会に与えられ
た宣教の働きであり、キリスト者は、世に出て行って福音を語る使命がある。
_第3に「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」事であるが、
キリストは、体の癒しだけでなく、心のわずらいを含めて人々を癒された。
神は、信仰に生きる者の内に働き、神を愛する者の全ての問題を解決される。
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No.712 - 1月9日: 「盲人の目を開く」 マタイの福音書9章27節〜31節 |
(みことば)「イエスが、『わたしにそれができると信じるのか』と言われる
と、彼らは『はい、主よ』と言った。」
マタイの福音書9章28節
_キリストは、カペナウムを中心に数々の奇跡を行われたが、今回は二人の
盲人の目を開く奇跡が記される。旧約には盲人の目を開く奇跡が一度もない。
_福音書には盲人の目を開く奇跡が多く記されている。それは、メシヤの来
臨に伴うしるしであり、キリストが来るべきメシヤである事を証言している。
「その日…目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。」(イザヤ 29:18)
_また、福音書に盲人の目を開く奇跡が多いのは、「目の見えない人が、キ
リストによって見えるようなる」霊的な意味が重ね合わされているからと言
える。キリスト者は神により心の目を開かれ、霊の目で神を見る者とされた。
_イエスが進んで行かれると二人の盲人が「ダビデの子よ、私たちをあわれ
んでください」と叫びながらついて来た。「ダビデの子」とはメシヤに対す
る称号であった。彼らは、盲目であったがキリストを救い主と信じて叫んだ。
_パリサイ人は、キリストの業を見ても、それを悪霊の仕業であると批難す
るが、彼らこそ盲目である。「わたしはさばきのために世にきました。目の
見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(ヨハネ 3:39)
_「イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。」(28)主は、彼
らの叫びに何も答えられずに家まで来る。それは、大勢の人の前で奇跡を行
う事により、人々が奇跡を求めて集まる事を良しとされなかったからである。
_「ダビデの子」という称号には、ダビデの様な繁栄と幸福をもたらす現世
的な王のイメージがあった。キリストは、神の約束通りダビデの子として生
まれたが、この方は、世の罪を取り除く為に十字架にかかる救い主である。
_彼らは、何も答えないイエスに向かって叫び続けた。暗闇の中で叫んでも
何の答えもない。それは信仰が試されるが、主は、その声を聴いている。「わ
が神、昼に私は、あなたに叫び…夜にも、私は黙っていられません」(詩篇 22:2)
_主は、みもとに来た彼らに「わたしにそれができると信じるのか」と問い、
彼らは「はい、主よ」と答える。主の問いは、大変重要な意味を持つ。何故
なら、キリスト信仰と救いは、キリストへの告白にかかっているからである。
_彼らは、その問いに「はい、主よ」と答えるが、その短い告白に、彼らの
救いがかかっており、その告白は、彼らが神と結びつく鎖のような絆となる。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)
_主は、彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言わ
れた。「さわる」は、明かりを灯すと同じ言葉である。暗闇の世界に神の希
望の光が灯る。「このいのちは、人の光であった。光は闇の中に輝いている。」
_主は、全能なる方であり、暗闇に光を創造される方である。その光は、神
を信じる者の内に実現する。「あなたの信仰のとおりになれ」私達は人生の
歩みの中で「わたしを信じるか」と問われる神に「はい、主よ」と答えたい。
_主は、「だれにも知られないように」と厳しく戒めるが、彼らは「出て行
って…言い広めた。」イエスは、それにより益々妬みを買いやがて十字架に
かけられる。この世界が神から離れた闇の時代である事を意識すべきである。
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No.711 - 1月2日: 「信仰による救い」 マタイの福音書9章18節〜26節 |
(みことば)「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。すると、その時から彼女は癒された。」マタイの福音書9章22節
_この箇所には、キリストが「会堂司の娘を生き返らせる」奇跡と「長血の
女を癒す」2つの奇跡が一連の記事の中で折り重なるように記されている。
_一連の出来事は、一人の会堂司が御前にひれ伏し「私の娘が今、死にまし
た。」の一声で始まる。周囲の人も黙り込む衝撃的な言葉である。マルコは
詳細に、それが12歳の一人娘であったと記す。その悲しみは想像を絶する。
_会堂司は、「でも、おいでになって娘の上に…そうすれば娘は生き返りま
す」と主に望みを託す。死者を生き返らせる奇跡は、彼の信仰から始まる。
また、彼は、娘の死を経なければ、イエスの前に平伏す事もなかっただろう。
_「そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた」何気なく書かれてい
るが、それはキリストにしかできない。もし、死者を生かす力がなければ、
偽りの同情に過ぎない。主は病人を癒すだけでなく、死者を生かす力を持つ。
_会堂司は、不安と恐れを覚えつつ、自分の家に向かった事だろう。しかし、
主は、彼の背後から支えるように「彼について行かれた。」私達は、希望が
何も見えない悲しみの中で、気づくと主が背後から支えて下さる経験をする。
_主が会堂司の家に向かう途中、別の事件が起こる。「12年間、長血をわ
ずらっている女の人が…衣の房に触れた。」この女もまた、会堂司とは別の
次元の悲しみを抱えていた。長血は、婦人の病で宗教的に不浄とされていた。
_彼女が「イエスのうしろから近づい」た理由もそこにある。彼女は、長年
誰にも言えない悲しみを抱えていた。マルコは、彼女が「医者からひどい目
にあわされ…」と記すが、その為、財産も健康も人への信頼も失っていた。
_彼女も、悲しみの経験を経て、救いをキリストに求める。キリストなら、
その悲しみを理解し、解決できると考えた。彼女の信仰の一途さは、「この
方の衣に触れさえすれば、私は救われる。」と心のうちで考えた」事である。
_彼女の信仰によるひと触れは、会堂司の家に急ぐイエスの足を止めさせ、
振り向かせるほど強い思いと願いが込められていた。大勢の人が犇めく中で、
彼女の信仰の手は、他の人と違っていた。「あなたの信仰があなたを救った。」
_長血を患う女の問題は解決した。だが、会堂司の問題は、解決しないまま
長血の女の割込みにより棚上げにされる。彼は、やきもきしながら一連の出
来事を見ていたに違いない。彼には、長血の女の救いを喜ぶ余裕はなかった。
_それは、自分がまだ悲しみの中にいるからである。しかし彼は、その出来
事もキリストを信じる歩みの中で起っている事を覚えるべきである。キリス
トが、彼の事を忘れている訳でも、問題が置き去りにされている訳でもない。
_彼は、長血の女に起こった奇跡を通して、キリストへの愛と信仰を強めら
れて前進すべきである。彼の家では葬儀が始まっていた。イエスは「笛吹く
者たちや騒いでいる群衆を見て「出て行きなさい…眠っている」と言われた。
悲しみの笛も泣き叫ぶ涙も死の別離を変える事はできない。世の宗教に救
いはない。キリストの救いは、病気を癒すだけでなく死に打ち勝つ力を持つ。
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元日礼拝 - 2022年1月1日: 「神の宮に来て祈る者の祝福」 T列王記8章22節〜36節 |
(みことば)「あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれ
を聞いてください。聞いて、お赦しください。」
T列王記8章30節
_キリストの誕生を紀元とする2022年を迎えました。今年一年が、教会
に集う兄弟姉妹にとって、主の祝福に満ちた年でありますようお祈りします。
_新年初めの説教は、ソロモンが神殿を奉献した時の祈りから語る。「ソロ
モンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって」
祈りを捧げる。彼は、まず第1にイスラエルの神の偉大さを誉め讃えて祈る。
_「主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。」(23)
主は、唯一なる神であり、この方に比べられる存在は他にない。主は、天地
万物を創造し、イスラエルを力強い御手をもってエジプトから救い出された。
_次に彼は、「あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対
し、契約と恵みを守られる方」と祈る。「契約」とは、「二人以上の当事者の
合意によって成立する法的関係」であるが、それは我々の信仰の特徴である。
_人格的な意思を持つ神は、イスラエルと契約を交わされるが、それはイス
ラエルをご自分の民とし、彼らに恵みと祝福を授ける契約である。契約の一
方の当事者である主は、義であり真実な方なので、その約束を必ず守られる。
_そこで、もう一方の契約の当事者イスラエルの信仰が問われる。神がダビ
デの子孫を祝福する条件は、「あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に
歩みさえするなら」である。義なる神は、契約に対し真実な者を祝福される。
_人は、一年の初めに様々な抱負を持ち、神に願い事を祈る。主は、その祈
りに耳を傾けられる。だが、同時に、人は、神への願いだけでなく、自らの
信仰の在り方を吟味すべきである。この世の宗教は、それを全く問わない。
_たとえ、ソロモンの神殿がどれ程立派でも、創造者である神を人の手で造
った宮に収める事はできない。しかし主は、ソロモンが建設したエルサレム
の神殿に、ご自身の名を置き「この場所に向かって捧げる祈り」を聞かれる。
_キリストの時代以降、エルサレム神殿は、実質的に崩壊し「嘆きの壁」の
一部が残るのみである。しかし、キリスト以降、エルサレム神殿に代わる神
の宮として教会が世界各地に建てられ、神殿と全く同じ意味を持つ事になる。
_最後に神の宮は、祈りの場所でもあり、同時に罪の赦しと悔い改めの場所
でもある。義なる神は、悪者にはその生き方への正当な報いを与え、正しい
者には義をもって報いられる。人は、悪の報いを自らの歩みの中で刈り取る。
_ソロモン以降イスラエルの歴史は、彼ら自身の悪の故にバビロンの捕囚等
苦難の連続であった。「敵に打ち負かされ…天が閉ざされて雨が降らなくな
ったとき…飢饉や疫病がおこり」それらの災いは彼らの不信仰が原因である。
_ソロモンは、人が罪を犯す事を想定して祈る。「罪に陥らない人は一人も
いません」(46)人は、誰でも弱さを持っているが、憐れみに満ちた神は、
人が神の宮に来て罪を悔い改めるなら、その罪を赦し恵みを回復して下さる。
_キリストの十字架のもとには罪の赦しが約束されている。誰でも罪を悔い
改め、キリストを信じるなら、神の子とされ、神の祝福と恵みを相続する。