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2022年の説教




No.762 - 12月25日: クリスマス「東方の博士の来訪」 マタイの福音書2章1節〜12節


(みことば)「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられま すか。…その方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 マタイの福音書2章2節

 キリストは「ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」 が、東の博士達は「星が昇るのを」見て、エルサレムにやって来て言った。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私た ちは…礼拝するために来ました。」彼らは、バビロンかペルシャの天文学者 と思われるが、星の出現した時から旅を始め、数か月経っていたと思われる。



No.761 - 12月18日: 「主のはしため」 ルカの福音書1章26節〜38節


(みことば)「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお ことばどおり、この身になりますように。」 ルカの福音書1章38節

 ガリラヤのナザレに住むマリヤは、御使いガブリエルから神の子の受胎告 知を受ける。彼女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけであった。
 彼女は、御使いの言葉に「ひどく戸惑って」「どうしてそのようなことが …」と驚く。彼女は、ナザレの片田舎に住む未婚の処女で、歴史に名を刻む 様な人ではなかった。その人が、今や救い主の母として知らない人はいない。



No.760 - 12月11日: 「何度まで赦すべきか」 マタイの福音書18章21節〜35節


(みことば)「イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回 を七十倍するまでです。」 マタイの福音書18章22節

 キリストは、天の御国の構成員である兄弟が罪を犯した時の処遇について 述べて来たが、次に、ペテロの質問から兄弟の罪に対する赦しについて語る。
 ペテロは、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。 7回まででしょうか。」と尋ねる。その兄弟の罪とは、教会で審議されるよ うな重大なものではなく、寧ろ、ペテロに対する個人的な罪についてである。



No.759 - 12月4日: 「教会が聖さを保つため」 マタイの福音書18章15節〜20節


(みことば)「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つ にして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」 マタイの福音書18章6節

 キリストは、天の御国の構成員に対する態度を語って来たが、次に、その 構成員(兄弟と呼ばれる者)が罪を犯した場合の対応と処遇について語る。
 教会は、神の御心を行う聖なる集まりであるから、兄弟が犯す罪を有耶無 耶にする事なく厳正に対処すべきである。他方で、その人が悔い改めるなら、 罪を赦す寛容さも必要である。教会はその両面を正しく実行する必要がある。



No.758 - 11月27日: 「失われた小さな者への愛」 マタイの福音書18章6節〜14節


(みことば)「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、 大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。」 マタイの福音書18章6節

 キリストは、「子どものようにならなければ…」と天の御国で求められる 大切な資質を語り、小さな者をご自分の名の故に受け入れるよう命じられた。
 更にキリストは「小さい者たちの一人をつまずかせる者は…」と躓きを与 える者に厳しく警告する。「つまずかせる」(スカンダロン)は、スキャンダルの語源で、 故意に天の御国に入る事を妨げる行為で、躓きの原因を作る者の事である。



No.757 - 11月20日: 「天の御国に生きる者の資質」 マタイの福音書18章1節〜5節


(みことば)「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、 天の御国で一番偉いのです。」 マタイの福音書18章4節

 キリストは、ガリラヤの活動を終えてエルサレムに向けて出発する前に、 弟子達が「天の御国の共同体においてどのように生きるべきか」を語る。
 弟子達は、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」とイエス に尋ねた。それは、キリストがエルサレムにおいて苦しみを受ける告知の後 の事であるが、彼らの中には、まだ、互いの間に比較と競争意識があった。



No.756 - 11月13日: 「主イエスの献金」 マタイの福音書17章22節〜27節


(みことば)「湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。そ の口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを…納めなさい。」 マタイの福音書17章27節

 キリストは、彼らがガリラヤに集まっていた時…「人の子は、人々の手に 渡され…三日目によみがえります。」と2度目の受難と復活の予告をされた。
 主の受難の告知は、イエスがガリラヤの活動を終え、エルサレムに向け出 発する転換期を意味する。「ガリラヤを去り…ユダヤ地方に入られた。」(19:1)



No.755 - 11月6日: 「からし種ほどの信仰があるなら」 マタイの福音書17章14節〜23節


(みことば)「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここから あそこに移れ』と言えば移ります。…できないことは何もありません。」 マタイの福音書17章20節

 キリストと共に山に登った3人の弟子達は、山の上での栄光と裏腹に、下 山の途中で、イエスが「人々から苦しみを受けることになる」と告げられる。
 福音書は、いよいよキリストの受難と復活に向けて進んで行く事になるが、 そこには、この世の罪に渦巻く現実がある。山の麓では、キリストが「ああ、 不信仰な曲がった時代だ。いつまで…」と嘆くような出来事が起こっていた。



No.754 - 10月30日: 「エリヤが来て立て直す」 マタイの福音書17章9節〜13節


(みことば)「イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。」 マタイの福音書17章9節

 キリストと共に高い山に登った3人の弟子達は、山の上で「キリストの御 姿が変わり、モーセとエリヤが現れ、天の神の声を聞く」特別な経験をする。
 だが、山の上での特別な経験も長く続くことはなく、彼らは、再び、山を 下りる。イエスはその途中で「あなたがたが見たことを、だれにも話しては いけません。人がの子が死人の中からよみがえるまでは。」と厳しく命じる。



No.753 - 10月23日: 「山上の変貌」 マタイの福音書17章1節〜8節


(みことば)「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽 のように輝き、衣は光のように白くなった。」 マタイの福音書17章2節

 キリストは3人の弟子を連れて高い山に登られ、神の栄光の輝きを放つ御 姿に変わり、弟子達は、そこでキリストの栄光に輝く姿を目撃する事になる。
 キリストの山上の変貌は、その生涯の中でも特別な記事であり、それは 奇跡と言うより、キリストの神としての御姿の啓示であった。山上の変貌 は、ペテロの信仰告白とその後の彼の失敗から6日目の出来事であった。



No.752 - 10月16日: 「受難と復活、再臨の予告」 マタイの福音書16章21節〜28節


(みことば)「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自 分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」 マタイの福音書16章24節

 キリストは、ピリポ・カイザリヤにおいて、ペテロの信仰の告白に対して、 「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」(18)と宣言された。
 キリストは、その宣言の直ぐ後で、エルサレムでの受難と復活の予告をさ れる。「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならな い」十字架と復活は、キリスト信仰において最も重要で核心的な事柄である。



No.751 - 10月9日: 「天の御国の鍵を与える」 マタイの福音書16章13節〜20節


(みことば)「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会 を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」 マタイの福音書16章18節

 キリストは、ピリポ・カイザリヤにおいて、ペテロの信仰の告白に対して 「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と重要な宣言をされる。
 ピリポ・カイザリヤは、ユダヤから遠く離れた最北の地にあり、領主ピリ ポは、この地に自分と皇帝の名を付けていた。人間崇拝のシンボルのような 異邦人と接する地で、キリストへの信仰告白と教会を建てる宣言が為される。



No.750 - 10月2日: 「主が我らを遣わされる」 ヨハネの福音書4章31節〜38節


(みことば)「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と 言ってはいませんか。…目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈 り入れるばかりになっています。」 ヨハネの福音書4章35節

 キリストは、サマリヤの地で一人の女を信仰と救いに導くが、弟子達は、 その時、食物を買いに町に出かけていて、戻った時にイエスに食事を勧めた。
 その時、イエスは、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物がありま す。」と言われた。弟子達は、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか。」 と不思議に思ったが、イエスは、宣教の御業に伴う霊的な食物の事を語った。



No.749 - 9月25日: 「時のしるしを見分けよ」 マタイの福音書16章1節〜12節


(みことば)「あなたがたは、『夕焼けだから晴れる』と…空模様を見分ける ことを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」 マタイの福音書16章2,3節

 イエスは、異邦人の地でパンの奇跡を行った後ユダヤ人の地に戻るが、パ リサイ人とサドカイ人がイエスを試そうと近づき、天からのしるしを求めた。
 「天からのしるし」とは、イエスが救い主である証拠であるが、既に、主 は、数多く奇跡を行っており、彼らは、これ以上どんなしるしを要求すれば 気が済むのだろうか。主は、ご自分を試すような者に何一つ奇跡を行わない。



No.748 - 9月18日: 「異邦人に注がれる恵み」 マタイの福音書15章29節〜39節


(みことば)「群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった 人たちが治り・・・見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。」 マタイの福音書15章31節

 キリストは、ツロとシドンを「去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた」が、 そこは、マルコによるなら湖の反対側の異邦人の地デカポリス地方であった。
 キリストが山に登り、座っておられると「大勢の群衆が、足の不自由な人 たち…そのほか多くの人をみととに連れて来て…」と記す。主のもとに様々 な障害を持つ人々が連れて来られ、イエスは、彼らを一人一人みな癒された。



No.747 - 9月11日: 「主よ、そのとおりです。」 マタイの福音書15章21節〜28節


(みことば)「しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬 でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 マタイの福音書15章27節

 キリストは、パリサイ人や律法学者との対立が深まる中で、暫くの間、ユ ダヤの地を去って、信仰や文化の異なる「ツロとシドンの地方に退かれた。」
 「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て…叫び続けた。」カナ ンは、フェニキアとも呼ばれ、モーセの時代からイスラエルの仇敵であった。 そのカナン人の女が、ユダヤ人であるキリストに救いを求めてやって来る。



No.746 - 9月4日: 「盲人の案内をする盲人」 マタイの福音書15章12節〜20節


(みことば)「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人 です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」 マタイの福音書15章14節

 ユダヤの宗教的な指導者であるパリサイ人は、「パンを食べるときに、手 を洗う」「きよめの儀式」に関する規定で、キリストの弟子達を批難した。
 イエスは、彼らに対し「あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の 戒めを破り、無にしている」と反論し、彼らを容赦なく「偽善者」と呼んだ が、弟子達は「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てた」事を伝える。



No.745 - 8月28日: 「人の教えと神の言葉」 マタイの福音書15章1節〜11節


(みことば)「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離 れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。」 マタイの福音書15章8,9節

 マタイ15章は、ユダヤの宗教的な指導者達による、キリストの集団への 批判から始まり、その批判に対するキリストの反論という形で話が展開する。
 「パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムから…来て言った。」彼 らは、ユダヤ議会から派遣され、イエスを調査し、逮捕して裁判にかける準 備を始めた。この論争からユダヤ教とキリスト信仰の違いを知る事が出来る。



No.744 - 8月21日: 「漁師の家から王子の庭へ」 マタイの福音書14章34節〜36節


(みことば)「それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。その地の 人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。」 マタイの福音書14章34,35節

 マタイは、14章の最後に短い記述でゲネサレの地での宣教の有様を記す。
 「彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた」とあるが、弟子達は、そこに 着く迄に劇的な経験をしてる。弟子達だけが乗った舟は、風と波に翻弄され るが、イエスが湖の上を歩いて近づき、ペテロも、水の上を歩く経験をした。



No.743 - 8月14日: 「幽霊ではなく神の子」 マタイの福音書14章22節〜33節


(みことば)「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれ は幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。」 マタイの福音書14章25節

 キリストは、パンの奇跡の後で、弟子達を舟で「向こう岸に向かわせ、そ の間に群衆を解散させられた。」その行動には、キリストの意図を覚える。
 第1に「イエスは祈るために一人で山に登られた。」とある様に、群衆か ら離れ、一人で祈る必要を覚えられた。主の御力の源は、父との祈りにある。



No.742 - 8月7日: 「パンの奇跡」 マタイの福音書14章13節〜21節


(みことば)「弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかあり ません。」 マタイの福音書14章17節

 キリストは、ヨハネ殉教の知らせを聞くと「舟でそこを去り、ご自分だけ で寂しいところに行かれた。」それは、ヘロデの手を逃れ、祈る為であった。
 神の働きが、敵の手によって妨害され、継続できなくなる事がある。だか ら、主の助けを求めて、祈る必要がある。だが、キリストの働きは、その途 中で悪魔の手に陥る事はない。キリストは悪魔に勝利し、救いを完成された。



No.741 - 7月31日: 「聖書が教える教育」 創世記2章15節〜25節


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(みことば)「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」創世記2章15節

16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」



No.740 - 7月24日: 「神を畏れない罪」 マタイの福音書14章1節〜12節


(みことば)「ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼ら がヨハネを預言者と認めていたからであった。」 マタイの福音書14章5節

 バプテスマのヨハネは、キリストを救い主と証言したが、彼は、既に、ヘ ロデによって投獄されており、獄中で首を跳ねられ、殉教することになる。
 「領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて…」ヨハネが「死人の中からよみ がえったのだ」と考えた。勿論、そうではないが、それは、彼が、ヨハネを 殺害した事の良心の呵責による。彼の悪行の経緯が回顧される形で記される。



No.739 - 7月17日: 「神に召された者への敬意」 マタイの福音書13章51節〜58節


(みことば)「ご自分の郷里に行って…すると、彼らは驚いて言った。「この 人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」 マタイの福音書13章54節

 キリストは、7つのたとえを語られた後で、弟子達に「あなたがたは、こ れらのことがみな分かりましたか。」と尋ねると、彼らは、「はい」と答えた。
弟子達は、キリストの言葉をどれ程理解していたか分からない。それでも、  彼らが「はい」と同意する事から更に深い神理解へと進んで行く。信仰告白 も、それと同様に救いの招きに「はい」と答える事から信仰の歩みが始まる。



No.738 - 7月10日: 「価値ある宝を見出す者」 マタイの福音書13章44節〜50節


(みことば)「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つ けた人は、…持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」 マタイの福音書13章44節

 キリストは、天の御国を種にたとえて語って来たが、この箇所で「畑に隠 された宝」「良い真珠を探す商人」「魚を集める網」の3つのたとえを語る。
 第1は、「畑に隠された宝」のたとえであるが、その宝を誰が隠したか分 からないが、耕す者が偶然に畑に隠された宝を発見する。農夫は、思いもよ らない宝の発見に驚く。「天の御国は畑に隠された宝のようなもの」である。



No.737 - 7月3日: 「種の持つ成長と力」 マタイの福音書13章31〜35節


(みことば)「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔 きます。…空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」 マタイの福音書13章31、32節

 マタイは、毒麦のたとえと解説の間に「からし種」と「パン種」のたとえ を挿入し、最後に、イエスがたとえで語る事が、預言の成就であったと記す。
 第1に、イエスは、天の御国をからし種にたとえる。からし種は、「どん な種よりも小さい」が、「成長すると、どの野菜よりも大きく」なる。から し種は、香辛料となる「カラシナ」の種で、0.5ミリ程の小さな種である。



No.736 - 6月26日: 「毒麦のたとえ」 マタイの福音書13章24〜30節、36〜43節


(みことば)「ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔 いて立ち去った。麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。」 マタイの福音書13章25、26節

 主のたとえ話の第2は、「毒麦のたとえ」であるが、「種を蒔く人」の場合、 種の落ちる土地に違いがあったが、これは良い種と毒麦の種の性質が異なる。
 「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」その解説は、「良い種を蒔く人は 人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子」とある 様に、キリストが福音の種を蒔くことで、この世界に御国の子らが生まれる。



No.735 - 6月19日: 「キリストを知る幸い」 マタイの福音書13章10節〜17節


(みことば)「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、 聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」 マタイの福音書13章13節

 キリストは、群衆に天の御国の奥義をたとえで話されるが、第1の「種を 蒔く人」のたとえと解説の間に、「なぜ、たとで話されるのか」を説明する。
 弟子達は、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話になるのか」と尋ね、主 は、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あ の人たちには許されていません。」と答える。奥義は、「秘密」の意味がある。



No.734 - 6月12日: 「種を蒔く人のたとえ」 マタイの福音書13章1節〜9節、18節〜23節


(みことば)「また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、 あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」 マタイの福音書13章8節

 キリストは、舟に乗って腰を下ろされ、岸辺に集まる群衆に向かって「多 くのことをたとえで語られた。」その第1は、「種を蒔く人」のたとえである。
 マタイのテキストは、種蒔きのたとえ(3~9)と解説(18~23)に分けて 語られる。主は、群衆に霊的真理を日常の事柄にたとえて話される。確かに、 たとえは分り易いが、天の御国の奥義を知る事は弟子達だけに許されている。



No.733 - 6月5日: 「神の家族とされる」 マタイの福音書12章46節〜50節


(みことば)「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、そ の人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 マタイの福音書12章50節

 キリストは、敵対する勢力パリサイ人との間に「安息日」「悪霊」「しるし」 等の緊迫した論争を展開して来たが、その最後に、主の家族が訪ねて来る。
 主の家族は、血の繋がりがあり、幼い時からイエスを知る身内であるが、 福音書には、誕生と宮参り以外家族の記述がなく、兄弟について初めて記さ れる。家族の記述が無いのは、それが救いに関して重要でないからである。



No.732 - 5月29日: 「しるしを求める悪い時代」 マタイの福音書12章38節〜45節


(みことば)「しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを 求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」 マタイの福音書12章42節

 この箇所には、「この時代」と言う言葉が6回繰り返されているが、人は、 誰でも、神の定めた計画と意志の下に、ある時代の中で生まれ死んで行く。
 聖書の時代観は、直線的であり、それぞれの時代に生きた人が、やがて終 わりの時に、同じ一点に立つ事を示唆する。「ニネベの人々が、さばきのと きにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。」



No.731 - 5月22日: 「聖霊を冒涜する罪」 マタイの福音書12章31節〜37節


(みことば)「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も 冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。」 マタイの福音書12章31節

 冒頭の御言葉よると、人は、キリストの贖いの故に、どんな罪でも神に赦 していただけるが、例外として「御霊に対する冒涜は赦されません」とある。
 キリスト者でも、信仰の歩みにおいて失敗し過ちを犯す。しかし、憐み深 い神は、どんな罪や過ちも、悔い改めるなら赦して下さる。「今や、キリス ト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ 8:1)



No.730 - 5月15日: 「神の御霊による奇跡の業」 マタイの福音書12章22節〜30節


(みことば)「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出してい るのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」 マタイの福音書12章28節

_イエスのもとに「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来 られ」主は、その人を癒し「その人はものを言い、目もみえるようになった。」
_ 彼は、「目が見えず、口もきけない」多重の苦難を負っていたが、主は、 求める者の願いを聞かれ完全に癒された。その障害は、悪霊の憑依が原因で あったが、主が悪霊を追い出す事で「ものを言い、目も見えるように」なる。



No.729 - 5月8日: 「さばきを勝利に導くまで」 マタイの福音書12章15節〜21節


(みことば) 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛 する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」 マタイの福音書12章18節

_パリサイ人は、キリストへの妬みから安息日の問題で批判を繰り返し、イ エスを殺す相談を始める。「イエスは、それを知って、そこを立ち去られた。」
_ 主は、彼らとの対立を避けて退かれるが、神の定めの時が来たならば、エ ルサレムへの十字架の道を進まれる。主の時は、まだ満ちていなかった。「す べてのことには定まった…時がある。」神の時を見極める思慮が必要である。



No.728 - 5月1日: 「安息日に癒される人」 マタイの福音書12章9節〜14節


(みことば)「人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に 良いことをするのは律法にかなっています。」 マタイの福音書12章12節

_パリサイ人は、安息日にキリストの弟子達が麦の穂を摘む行為を非難した が、その批判の対象は、安息日の会堂におけるキリストの癒しの行為に及ぶ。
_ 「イエスは…会堂に入られた。」安息日の会堂においける礼拝は、ユダヤ 人にとって欠かす事の出来ない習慣であった。「安息日を覚えて、これを聖 なる日とせよ。」第4戒は、キリスト者にとっても信仰と生活の基盤である。



No.727 - 4月24日: 「キリストは安息日の主」 マタイの福音書12章1節〜8節


(みことば)「人の子は安息日の主です。」 マタイの福音書12章8節

_キリストの福音宣教に対する応答は、疑い、拒絶、批判となって現れるが、 特に、批判の急先鋒に立ったのが、律法の教師であるパリサイ人であった。
_ 彼らの批判は、宗教的な指導者としての妬みが原因である。彼らは「どう やってイエスを殺そうかと相談し始めた。」(14)教師である彼らに陰険で根 深い罪がある。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」



No.726 - 4月17日: 「キリストは生きている神」 ルカの福音書24章13節〜32節


(みことば)「二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を 説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 ルカの福音書24章32節

_二人の弟子は、エマオへの途上で、よみがえられたキリストにお会いする。
_ 彼らは、エマオへの11キロ程の距離を失望と落胆の内を歩んでいた。そ れは、キリストの十字架の死により、望みを失っていたからである。その一 方で、女達の「イエス様が生きておられる」との報告は、彼らを戸惑わせた。
_ 彼らは、「これらの出来事すべてについて…話し合ったり論じ合ったり」 したが、その議論に、何の答えや解決を見い出せず、空しくエマオに向って いた。そこに「イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩み始められた。」



No.725 - 4月10日: 「「主のくびきを負う幸い」 マタイの福音書11章25節〜30節


(みことば)「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来な さい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 マタイの福音書11章28節

_福音宣教への否定的な応答は、ガリラヤの町々だけでなく、次章でパリサ イ人の批判となって発展する。その前に、キリストの祈りの言葉が記される。
_主は、祈りの冒頭で「天地の主であられる父よ」と神を賛美する。神は、 全被造物に絶対的な主権を持ち、万物の根源である。唯一の神理解は、キリ スト信仰の本質であり、他の宗教に比類がなく、神のみ賛美の対象である。



No.724 - 4月3日: 「恵みと救いの日の始まり」 マタイの福音書11章13節〜24節


(みことば)『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌 ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』 マタイの福音書11章17節

_歴史には、時代の転換となる出来事があるが、神の国における大きな分岐 点は、ヨハネである。「すべての…預言したのは、ヨハネの時まででした。」
_旧約の最後の預言は、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ 3:5) で終わるが、主は、ヨハネを「この人こそ来るべきエリヤなのです。」と告 げる。エリヤは、偶像礼拝の蔓延る不信仰なイスラエルに悔い改めを命じた。



No.723 - 3月27日: 「天の御国を攻める者たち」 マタイの福音書11章7節〜12節


(みことば)「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激し く攻められています。…激しく攻める者たちが…奪い取っています。」 マタイの福音書11章12節

ヨハネは、獄中で「おいでになるはずの方はあなたですか」と信仰が揺ら ぐが、キリストの御業と福音の宣教は、救い主としての確かな証明である。
キリストは、ヨハネについて「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったの ですか。風に揺れる葦ですか。」と人々に問う。川の流れや風に揺れる葦は、 世に流されて生きる人の象徴であるが、ヨハネは、信仰と信念の人であった。
神を信じる者は、時代が変わっても変わらない普遍的な賜物を持っている。 信仰に生きる者の魅力は、そこにある。世の人は、困難な時に、葦のように 簡単に折れてしまうが、「この方に信頼する者は失望させられることがない。」


No.722 - 3月20日: 「キリストにつまづかない」 マタイの福音書11章1節〜7節


(みことば)「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです。」 マタイの福音書11章6節

_ キリストは、「十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝え るために…立ち去られた。」福音宣教は、弟子達を加えて益々拡大して行く。
_しかし、福音に対する反応は、「疑い、拒絶、批判」の形で現れ、13章 の終わりまで続く。「不信仰のゆえに…奇跡をなさらなかった。」(13:58)そ の象徴的言葉は、「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです」である。



No.721 - 3月13日: 「小さき者になす業の報い」 マタイの福音書10章40節〜42節


(みことば)「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ…わたしを 受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」 マタイの福音書10章38節

_キリストは、弟子たちを宣教に遣わす際に注意と警告を語って来たが、そ の最後に、遣わされた弟子達への対応によって受ける報いについて述べる。
_「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」弟子達は、 キリストの使者として世に遣わされるが、世の人が彼らを歓迎してくれる訳 ではない。彼らの家族さえも敵となる時、失望落胆し辛く悲しい経験をする。



No.720 - 3月6日: 「十字架を負って主に従う」 マタイの福音書10章34節〜39節


(みことば)『自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」マタイの福音書10章38節

_キリストは、宣教に遣わす弟子達に、世から憎まれ、迫害される事を告げ て来たが、そこに必然的に起こる事は、平和ではなく、争いや戦いである。
_わたしは平和ではなく剣をもたらすために来ました。」主の言葉は、キ リスト者が好戦的な印象を受けるがそうではない。主は「平和を造る者は幸 いです」と言われた。それは、今の時代が神を信じない罪の世だからである。



No.719 - 2月27日: 「誰を恐れるのか」 マタイの福音書10章24節〜33節


(みことば)「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはい けません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことがで きる方を恐れなさい。」 マタイの福音書10章28節

_キリストは、使徒達を宣教に遣わす際に、幾つかの注意を語って来たが、 この箇所では、弟子達を迫害する世の人々を「恐れてはいけません」と語る。
_その第1の理由は、主であるキリストが世から迫害されたからである。「弟 子は師以上の者ではなく」とは、一般的に「弟子は師の域を越える事がない」 の意味であるが、弟子は師によって成長し、師の特性を引き継ぐものである。



No.718 - 2月20日: 「世に遣わされる者」 マタイの福音書10章16節〜23節


(みことば)「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして…遣 わします。…蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」 マタイの福音書10章12節

_キリストは、使徒達を宣教に遣わす際の注意を語って来たが、この箇所は、 人々が、彼らを「むち打ち」にし「死に至らせ」る等迫害する事を予告する。
_彼らは、宣教の先で迫害される事を覚悟しなければならない。主は、彼ら を「狼の中に羊を送り出すようにして…遣わす」と語る。弱い羊が彼らの餌 食にならない為に「蛇のように賢く、鳩のように素直で」なければならない。



No.717 - 2月13日: 「福音に生きる者の覚悟」 マタイの福音書10章9節〜15節


(みことば)「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。… あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、…」 マタイの福音書10章12節

_キリストは、使徒達を遣わす際に、幾つかの注意を語ったが、後半の第1 は、彼らが宣教の旅に出る時に、「何も持たずに出て行くように」と命じる。
_「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚の下着 も…」旅の前には、準備を整えてから出かけるのが普通であるが、彼らは、 何を持たずに出かける。それは、神が必要の全てを備えて下さるからである。



No.716 - 2月6日: 「遣わされる者の心構え」 マタイの福音書1章5節〜8節


(みことば)「異邦人の道に行ってはいけません。…むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」 マタイの福音書10章5節

_キリストは、12人の使徒を宣教の為に遣わす前に、彼らに幾つかの注意を与えた。「イエスは、この十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。」(5)
_第1 に、主は、彼らに「異邦人の道に」行く事と「サマリヤ人の町に」入る事を禁じる。福音宣教は、異邦人を含めた全ての民が対象であるが、使徒達は、まず「イスラエルの家の失われた羊たち」の所に行く様に命じられる。



No.715 - 1月30日: 「使徒の選びと宣教の権威」 マタイの福音書10章1節〜4節


(みことば)「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお 授けになった。霊どもを追い出し…わずらいを癒やすためであった。」 マタイの福音書10章1節

_本日の箇所から、キリストに従って来た弟子達が、宣教の為に派遣される 新しい体制と展開が始まる。主は、宣教の働き人として12使徒を選ばれる。
_これまで、キリストは、ガリラヤの町や村において悪霊を追い出し、病気 を癒す多くの奇跡を行ってきたが、その全てはキリスト自身の働きであった。 弟子達は、これまでキリストに従いつつも、それを傍観するのみであった。



No.714 - 1月23日: 「羊飼いのいない羊の群れ」 マタイの福音書9章36節〜38節


(みことば)「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない 羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」 マタイの福音書9章36節

_キリストは「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆ るわずらいを癒やされた」が、その活動と権威は、やがて教会に委ねられる。
_続いてこの箇所には、イスラエルの霊的状態と神の民に対するキリストの 心情が記される。神の民は、羊の群れに譬えられ、羊飼いがこれを養う。だ が、神の民が、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」



No.713 - 1月16日: 「神を讃える者となる」 マタイの福音書9章32節〜35節


(みことば)「悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うように なった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだか つて起こったことがない」と言った。」 マタイの福音書9章33節

_キリストがカペナウムで行われた最後の奇跡は「悪霊につかれて口のきけ ない人」の癒しであるが、それは盲人の癒しと同様メシヤのしるしであった。
_「そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は 喜び歌う」(イザ 35:6)盲人の癒しに続いて「人々はイエスのもとに、悪霊に つかれて口のきけない人を連れて来た」主は、信仰の人々の願いを聞かれる。



No.712 - 1月9日: 「盲人の目を開く」 マタイの福音書9章27節〜31節


(みことば)「イエスが、『わたしにそれができると信じるのか』と言われる と、彼らは『はい、主よ』と言った。」 マタイの福音書9章28節

_キリストは、カペナウムを中心に数々の奇跡を行われたが、今回は二人の 盲人の目を開く奇跡が記される。旧約には盲人の目を開く奇跡が一度もない。
_福音書には盲人の目を開く奇跡が多く記されている。それは、メシヤの来 臨に伴うしるしであり、キリストが来るべきメシヤである事を証言している。 「その日…目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。」(イザヤ 29:18)



No.711 - 1月2日: 「信仰による救い」 マタイの福音書9章18節〜26節


(みことば)「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。すると、その時から彼女は癒された。」マタイの福音書9章22節

_この箇所には、キリストが「会堂司の娘を生き返らせる」奇跡と「長血の 女を癒す」2つの奇跡が一連の記事の中で折り重なるように記されている。
_一連の出来事は、一人の会堂司が御前にひれ伏し「私の娘が今、死にまし た。」の一声で始まる。周囲の人も黙り込む衝撃的な言葉である。マルコは 詳細に、それが12歳の一人娘であったと記す。その悲しみは想像を絶する。



元日礼拝 - 2022年1月1日: 「神の宮に来て祈る者の祝福」 T列王記8章22節〜36節


(みことば)「あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれ を聞いてください。聞いて、お赦しください。」 T列王記8章30節

_キリストの誕生を紀元とする2022年を迎えました。今年一年が、教会 に集う兄弟姉妹にとって、主の祝福に満ちた年でありますようお祈りします。
_新年初めの説教は、ソロモンが神殿を奉献した時の祈りから語る。「ソロ モンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって」 祈りを捧げる。彼は、まず第1にイスラエルの神の偉大さを誉め讃えて祈る。