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2023年の説教




No.815 - 12月31日: 「神の恵みと御業への賛美」 ルカの福音書1章39節〜56節


(みことば)「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはし ために目を留めてくださったからです。」 ルカの福音書1章47,48節

 マリアは、御使いから救い主イエスの懐妊の知らせ受けた時、同じように 親類のエリサベツが主によって男の子を宿している事を聞き彼女を訪ねる。
 マリアがエリサベツを尋ねるのは、神によって同じ経験をし、同じ使命を 与えられた者と交わる為であった。それは単に親類だからではなく、神から 特別な賜物と使命を与えられた者でなければ共有できない事だからである。



No.814 - 12月24日: 「世を照らすまことの光」 ヨハネの福音書1章9節〜14節


(みことば)「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしてい た。…世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」 ヨハネの福音書1章9,10節

 キリストは、「すべての人を照らす…まことの光」として世に来られた。 全ての人に救いの希望を与える事のできる方は、キリスト以外に存在しない。
 この世の中は、生まれながらに貧しい人も、富んだ人もおり、病弱な人も、 健康な人もいる。この世は、必ずしも公平で平等な社会とは言えない。だが、 キリストの救いは、この世の光の当たらない闇の中を生きる全てを照らす。



No.813 - 12月17日: 「この世の知恵と神の力」 コリント第1の手紙1章26節〜2章5節


(みことば)「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者 を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」 コリント第1の手紙1章27節

 パウロは、教会において分派や争いの火種となる人間的な知恵や誇りを取 り除き「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」と宣言する。
 パウロは、それを「人間的に見れば知者は多くはなく…」と教会に当て嵌 めて彼らの誇りを砕く。教会において神の救いに預かった者の中で、この世 の「知者」「力のある者」「身分の高い者」等、優れた人がいたわけではない。



No.812 - 12月10日: 「十字架の言葉」」 コリント第1の手紙1章18節〜25節


(みことば)「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救わ れる私たちには神の力です。」 コリント第1の手紙1章18節

 パウロは、分派のあった教会に一致を勧め、彼からバプテスマを受けたと 人々に誇らせないように配慮し、言葉の知恵によらずに福音を宣べ伝えた。
 それは、キリストの十字架が空しくならないようにするためであった。「十 字架の言葉」は、それを分岐点として、滅びる者と救われる者の道を分ける。 滅びる者は、十字架を愚かと思うが、救われる者は、それを神の力を考える。



No.811 -12月3日: 「神の家族としての一致」 コリント第1の手紙1章10節〜17節


(みことば)「兄弟たち…キリストの名によって…どうか皆が語ることを一 つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」 コリント第1の手紙1章10節

 パウロは、手紙の序文に続き、コリントの教会に起っている諸問題につい て述べるが、その最初は、冒頭の言葉のように教会の分派の問題であった。
 教会は、パウロが「コリントにある神の教会へ」と語るように、キリスト を主とする神の国の共同体である。この世の集団ならいざ知らず、神の国の 共同体である教会に仲間割れがあり、争いがあるのは、由々しき事態である。



No.810 - 11月26日: 「主に愛された神の教会」 コリント第1の手紙1章1節〜9節


(みことば)「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・ キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。」 コリント第1の手紙1章8節

 コリントの手紙は、使徒パウロによってエペソにおいて書かれた書簡であ るが、コリント教会は、第2回の伝道の際に建て上げられた教会であった。
 パウロは、冒頭で「神のみこころにより…使徒として召された」と紹介す る。彼が使徒となったのは、自分の考えや計画ではなく、神の意志と計画に よる。彼は教会を迫害する者であったが、主に召されイエスの使徒となる。



No.809 - 11月19日: 「教会に与えられた使命」 マタイの福音書28章16節〜20節


(みことば)「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子と しなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け…教えなさい。」 マタイの福音書28章19節

 マタイの福音書の最後は、ガリラヤにおける「宣教の命令」で締め括られ るが、それはユダヤ人に向けて語られたマタイの福音書の特徴を示している。
 マタイは、エルサレムにおけるイエスの復活の記録を省き、弟子達が召さ れたガリラヤに視点を移す。新たな宣教の拠点は、エルサレムではなく、ガ リラヤからであり、その使命は、イスラエルではなく、使徒達に与えられる。



No.808 - 11月12日: 「復活が虚偽ならば」 マタイの福音書28章11節〜20節


(みことば)『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天 においても地においても、すべての権威が与えられています。』 マタイの福音書28章18節

 女達は、週の始めの日の朝、イエスの葬られた墓に行き、主の使いからキ リスト復活の知らせを聞き、主ご自身とお会いし、新たな希望を与えられる。
 一方、番兵達は、女達がイエスの復活を伝えに行く間に、「起こったこと を祭司長達に報告した。」兵士達は、祭司長から墓の番を依頼されたが、屈 強な兵士でも、死者の中から復活したキリストを阻止する事はできなかった。



No.807 - 11月05日: 「キリストの復活の希望」 マタイの福音書28章1節〜10節


(みことば)『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなた がたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』 マタイの福音書28章7節

 キリストの十字架の死は、私達の信仰にとって最も大切な教義であるが、 それに続く復活の出来事もキリスト信仰において欠かせない事柄である。
 「週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと…が墓を見に行った。」教 会は、主の復活を記念して「週の初めの日」を「主の日」として礼拝する事 になる。女達は、主を納めた墓に向かうが、死者を納めた墓に希望はない。



No.806 - 10月29日: 「キリストの葬り」 マタイの福音書27章57節〜66節


(みことば)「ヨセフはからだを受け取ると…岩を掘って造った自分の新し い墓に納めた。…大きな石を転がしておいて、立ち去った。」 マタイの福音書27章59節

 キリストの十字架の死に続いて、埋葬について記される。パウロは、キリ スト信仰の最も大切な要素を「キリストの死と葬りと復活」であると語る。
 イエスの葬りに関して最も重要な役割を果たしたのがアリマタヤのヨセフ である。「彼自身もイエスの弟子になっていた。」彼は、議員の一人であった が、神の国を待ち望み、「議員たちの計画や行動には同意していなかった。」



No.805 - 10月22日: 「十字架の贖いの完成」 マタイの福音書27章45節〜56節


(みことば)「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サ バクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨 てになったのですか」という意味である。」 マタイの福音書27章46節

 キリストは、ゴルゴダの十字架上で最後を迎えるが、「さて、十二時から 午後三時まで闇が全地をおおった。」と十字架に伴う自然界の異変を語る。
 「闇」とは暗黒の意味なので、自然現象以上のものと言える。その原因が 何であれ、それは、イエスが過越の贖いの犠牲として受ける神の刑罰の象徴 である。エジプトは過越の子羊が屠られる前に、三日間、闇が全土を覆った。



No.804 - 10月15日: 「イスラエルの王」 マタイの福音書27章39節〜44節


(みことば)「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。 今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」 マタイの福音書27章42節

 キリストは、総督官邸からゴルゴダまで辱めを受けながら引いて行かれ、 処刑台である十字架にかけられ、十字架を取り巻く多くの人から嘲られる。
 第1に「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。」 彼らは、野次馬のように十字架を見学し、他人事のようにイエスを嘲る。そ れが家族や知り合いなら、そんな態度は取らず、その為に悲しんだ事だろう。



No.803 - 10月08日: 「ユダヤ人の王イエス」 マタイの福音書27章27節〜38節


(みことば)「彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持 たせた。…ひざまずき「ユダヤ人の王様、万歳」と言ってからかった。」 マタイの福音書27章29節

 キリストは、総督ピラトのもとでローマ法に従って「十字架による死刑」 の判決が下され、ピラトの官邸から処刑場まで十字架を担いで歩かされる。
 「総督の兵士たちは…イエスの周りに全部隊を集めた。」一人の囚人の為 に全部隊を集めるのは物々し過ぎるが、イエスの支持者が奪回するのを警戒 したのなら理解できる。だが、弟子達に、イエスを奪い返す力も気力もない。



No.802 - 10月01日: 「十字架の血の責任」 マタイの福音書27章11節〜26節


(みことば)「ピラトは彼らに言った。『では、キリストと呼ばれているイエ スを私はどのようにしようか。』彼らはみな言った。『十字架につけろ。』」 マタイの福音書27章22節

 キリストは、祭司長や民の長老たちの手により総督ピラトに引き渡され、 ローマ法に基づく裁判が開始する。「さて、イエスは総督の前に立たれた。」
 キリストが、ユダヤ人以外の世の権力者の前に立つのは初めてであった。 ピラトの在任期間は、歴史の資料により Ad26 年~36 年と判明している。だ が、主は、この世の権力を持たなかったので、聖書以外に生涯の記録がない。



No.801 - 9月24日: 「悔い改めなき終わり」 マタイの福音書27章1節〜10節


(みことば)「そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出 て行って首をつった。」 マタイの福音書27章5節

 キリストは、夜明け前に行われた大祭司カヤパの家での尋問において、「神 の子キリストである」事を証言したことにより「死に値する」と宣言される。
 「夜が明けると、祭司長たち…は全員で、イエスを死刑にするために協議 した。」通常、議会は70名の議員で構成されるが、全会一致の判決が、必 ずしも真実とは言えない。少数の意見が多数の意見により無視され潰される。



No.800 - 9月17日: 「信仰が試される時」 マタイの福音書26章69節〜75節


(みことば)「そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知 らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。」 マタイの福音書26章75節

 ペテロは、キリストが大祭司の家で祭司長や最高法院から尋問を受けてい る間、「大祭司の中庭まで…入り、成り行きを見ようと下役たちと…座った。」
 ペテロは、大祭司の中庭において3度「キリストを知らない」と否定する。 彼は、キリストから3年間の薫陶を受けた12弟子の筆頭であったが、キリ ストの受難の時に、信仰を試され、キリストを否定すると言う失態を演じる。



No.799 - 9月10日: 「キリストの裁判と証言」 マタイの福音書26章57節〜68節


(みことば)「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、 そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」 マタイの福音書26章64節

 キリストは、ゲッセマネで、ユダの手引きによって祭司長達から差し向け られた群衆に捕らえられ、大祭司カヤパの邸宅に連行され、尋問を受ける。
 それは、夜明け前であったが、彼らが事を急いだのは、過越の祭りの安息 日の前にキリストと決着を付けたかったからである。ペテロは、イエスが尋 問されている間、大祭司の中庭まで行き事の成り行きを見ようと座っていた。



No.798 - 9月3日: 「暗闇の力と神の支配」 マタイの福音書26章47節〜56節


(みことば)「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、 今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」 マタイの福音書26章53節

 イエスは、ゲッセマネの祈りを終え、いよいよ生涯のクライマックス「十 字架の贖いの死」に向われるが、まず、それは、キリストの逮捕から始まる。
 その事件は「イエスがまだ話しておられるうちに」起こる。ゲッセマネの 祈りは、神の御心である「十字架の死に従う」為の心の備えであった。主は、 霊的な格闘と祈りの中で備えたが、弟子達は、目を覚ましていられなかった。



No.797 - 8月27日: 「ゲッセマネの祈り」 マタイの福音書26章36節〜46節


(みことば)「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあま り死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」 マタイの福音書26章38節

 主は、ゲッセマネという所に来たが、そこは弟子達との交わりと祈りの場 であった。ゲッセマネは「油搾り」と言う意味のオリーブが茂る園であった。
 主は、「いつものように…いつもの場所」(ルカ 22:39)で祈りの時を持つ。「ユ ダもその場所を知っていた。」(ヨハネ 18:2)同じ場所で祈りを献げる敬虔な人 は多い。教会は、聖徒達がいつも変らずに祈りと礼拝を献げる場所である。



No.796 - 8月20日: 「新しい契約の血」 マタイの福音書26章26節〜35節


(みことば)「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わた しの契約の血です。」 マタイの福音書26章15節

 主は、過越の食事の席で、弟子達に「裏切る者がいる」と告げ、ユダは「ま さか私ではないでしょう」と答えるが、主は、「いや、そうだ。」と言われた。
 恐らく、ユダは、その直後に食事の席を立ち、金を貰った祭司長達の所へ 向かったと思われる。主は、ユダのいなくなったその交わりにおいて、この 「過越しの食事」の特別な意味、即ち「新しい契約」についてお語りになる。



No.795 - 8月13日: 「「ユダの裏切りと最後の晩餐」 マタイの福音書26章14節〜25節


(みことば)「『私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡し ましょう。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」 マタイの福音書26章15節

 この箇所は、イスカリオテのユダがキリストを裏切る事件と「過越の食事」 即ち、キリストと弟子達の「最後の晩餐」が折り重なるように語られている。
 ユダは、祭司長達の所へ行ってイエスを引き渡す密談をする。時系列的に それは、祭司長達が「イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談した」事に続く。 ユダの来訪と申し出は、彼らとって願ってもない好都合な出来事であった。



No.794 - 8月6日: 「主の葬りの備え」 マタイの福音書26章1節〜13節


(みことば)「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、 …そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」 マタイの福音書26章7節

 キリストは、これまで「神の国」や「世の終わり」について語って来たが、 いよいよ、ここからイエスの生涯の最後「十字架の道」(受難)へと進む。
 「二日たつと過越の祭りになり…人の子は十字架につけられるために引き 渡されます。」過越は、ユダヤ人にとって罪の贖いの為の最も重要な祭りで あった。キリストの受難が過越の祭りとの関連で初めて弟子達に告げられる。



No.793 - 7月30日: 「最後の審判の時」 マタイの福音書25章31節〜46節


(みことば)「人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをよ り分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」 マタイの福音書25章32節

 終末に関する譬えの最後は、「主の再臨の後にどの様な事が起こるか」と 言う究極の出来事、即ち「神による審判」を「羊飼いと羊とやぎ」に譬える。
 「人の子は、…その栄光の座に着きます」キリストは、再臨の後で全世界 の王となり、彼に一切の裁きの権威が与えられる。その時「すべての国の人 々が…御前に集められ」「善であれ悪であれ…行いに応じて」報いを受ける。



No.792 - 7月23日: 「タラントを生かして用いる」 マタイの福音書25章14節〜30節


(みことば)「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠 実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」 マタイの福音書25章21節

 キリストは、弟子達に「タラントのたとえ」を語るが、それは、「御国の 民がキリストの再臨の時まで、どのような生き方をすべきか」を教えている。
 「天の御国は…しもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。」主人は キリストを指し、しもべはキリストに従う弟子を指す。主人は、しもべ達に 財産を預けるが、どのように用いるか、裁量権は全てしもべ達に委ねられる。



No.791 - 7月16日: 「賢い娘と愚かな娘」 マタイの福音書25章1節〜13節


(みことば)「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎え に出る、十人の娘にたとえることができます。」 マタイの福音書25章1節

 主は、第2の譬えで「ともしびを持って花婿を迎える十人の娘」の話しを され、「目を覚ましていなさい。」とある様に、主の再臨に備える事を教える。
 主は天の御国を「花婿を迎える十人の娘」に譬えるが、花婿はキリストを、 十人の娘は、花嫁に付き添う娘たち、即ちキリストの花嫁である教会を指す。 「清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させ…」(Uコリ 11:2)



No.790 - 7月9日: 「忠実で賢いしもべ」 マタイの福音書24章45節〜51節


(みことば)「主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に 彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。」 マタイの福音書24章45節

 主は、終末の預言の最後に、「主人の家の管理を任されたしもべ」の譬え を通して、主の再臨の時まで、委ねられた働きを忠実に果たす責任を教える。
 キリストは、弟子達に「忠実で賢いしもべはだれでしょう。」と問いかけ るが、それは、今日の私達への問いかけであり、疑問形で「だれでしょう」 と問うが、それは、寧ろ「忠実で賢いしもべになるように」との勧めである。



No.789 - 7月2日: 「目を覚ましていなさい。」 マタイの福音書24章32節〜44節


(みことば)「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人 の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」 マタイの福音書24章33節

 キリストは、これまで、エルサレムの神殿の崩壊に関連して、世の終わり の兆候と反キリストの到来、それに主の再臨に伴う天のしるしを語って来た。
 主は、終末の預言を語った後で「いちじくの木から教訓を学びなさい。」 と語る。イスラエルに自生する常緑樹の中で、いちじくの木は、冬に葉を落 とす落葉樹で、6月に葉が茂り夏に実を結ぶ。「夏の近いことが分ります。」



No.788 - 6月25日: 「天に現れるしるし」 マタイの福音書24章23節〜31節


(みことば)「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じよ うにして実現するのです。」 マタイの福音書24章27節

 主は、ダニエルが語る「荒らす忌まわしもの」即ち、反キリストの到来を 警告したが、それは、現代の我々とって近未来の苦難の時代の予告と言える。
 苦難の時代には、「『見よ、ここにキリストがいる』とか、『そこにいる』」 と、誰かが根拠のない情報を語るようになるが、主は「信じてはいけません。」 と警告する。デマ情報は、混沌とした不安な社会に瞬く間に拡散してしまう。



No.787 - 6月18日: 「読者はよく理解するように」 マタイの福音書24章15節〜22節(ダニエル2章、9章)


(みことば)「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌 まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら─読者はよく理解せよ─」 マタイの福音書24章15節

 主は、神殿の荘厳さに驚く弟子達に、エルサレムの神殿の崩壊を預言し、 弟子達の質問に答え「世の終わる時のしるしは、どのようなもの」かを語る。
 この世が終わる前に、偽キリストが現れ、戦争や飢饉や地震や迫害などの 兆候がある。だが、世の終わる前に「御国の福音が全世界に宣べ伝えられ… 証しされ…終わり」が来る。福音こそ、世の終わりに臨む人々の希望である。



No.786 - 6月11日: 「世の終わりのしるし」 マタイの福音書24章1節〜14節


(みことば)「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。 あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」 マタイの福音書24章3節

 主は神殿において、律法学者やパリサイ人に対し「わざわい」の説教を語 って来たが、宮を出て行く時、弟子達が「近寄って…宮の建物を指し示した。」
 弟子達は、「なんと素晴らしい建物でしょう。」とマルコ書で神殿の荘厳さ に驚嘆している。その神殿は46年の歳月をかけ、白亜の大理石で建てられ、 前面を金で飾られていた。彼らがその華麗さに目を奪われたのも無理はない。



No.785 - 6月4日: 「神の子孫とまむしの子孫」 マタイの福音書23章29節〜39節


(みことば)「蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどう して逃れることができるだろうか。」 マタイの福音書23章33節

 偽善の律法学者やパリサイ人に対するわざわいの説教の最後は、「預言者 の墓を建て、義人たちの記念碑を飾っている」彼らの行為に言及している。
 預言者の中には、同胞のイスラエルの王や民から迫害を受け、殉教の死を 遂げた者が多くいた。それは、預言者が神に代わって王や民の罪を叱責し、 裁きを宣告したからである。人々は、罪と裁きを語る預言者を憎み迫害した。



No.784 - 5月28日: 「白く塗った墓」 マタイの福音書23章23節〜28節


(みことば)「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白 く塗った墓のようなものだ。…死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」 マタイの福音書23章25節

 主は、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」と厳しい言葉で、彼 らの偽善的行為を非難して来たが、その4度目の「わざわい」の叱責となる。
 主は、彼らが「律法の細部に至る定めを厳格に守ろとしながら、それより 大切な戒めを疎かにしている。」と非難する。特に、ここで「おまえたちは …十分の一を納めているが…」と十分の一の律法の規定が問題となっている。



No.783 - 5月21日: 「わざわいの偽善的行為」 マタイの福音書23章13節〜22節


(みことば)「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人 々の前で天の御国を閉ざしている。」 マタイの福音書23章13節

 キリストは、この箇所から7回「わざわいだ」という厳しい口調で、ユダ ヤの宗教的指導者である「律法学者、パリサイ人」の偽善の罪を糾弾する。
 「わざわいだ」とは、深い嘆きを表わす感嘆詞で「いまわしい、不幸」と 訳せるが、それは山上の説教の「幸い」の説教と対照的な厳しい言葉である。



No.782 - 5月14日: 「仕える者となる」 マタイの福音書23章1節〜12節


(みことば)「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者 は高くされます。」 マタイの福音書23章12節

 マタイ23章には、キリストによって「わざわいだ」と言うユダヤの宗教 的指導者達の偽善的な行為に対する呪いと裁きの言葉が繰り返し語られる。
 彼らは、「モーセの座に着いて」教える者でありながら、それと矛盾した 生き方をしていた。「多くの者が教師になってはいけません。…より厳しい さばきを受けます。」彼らは、指導者として自らを吟味しなければならない。



No.781 - 5月7日: 「キリストは主である。」 マタイの福音書22章41節〜46節


(みことば)「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着い ていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」 マタイの福音書22章44節

 キリストは、パリサイ人やサドカイ人から「税金」「復活」「律法」の問題 で試みを受けたが、最後に主イエスは、彼らに「キリスト」に関して尋ねる。
 主は、前回、「どの戒めが一番重要ですか」との質問を受け、それを「神 を愛する」事と「隣人を愛する」第1と第2の戒めに要約された。それは律 法の中心的主題であるが、聖書全体の主題は、やはりキリストの救いである。



No.780 - 4月30日: 「最も重要な神の戒め」 マタイの福音書22章34節〜40節


(みことば)「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あ なたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。」 マタイの福音書22章37、38節

 パリサイ人たちは、「イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒 に集まり」、律法の専門家を呼んで、律法の問題でキリストを試そうとする。
 彼は、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねるが、キリ ストの返答によって、彼は、「第2と第3の戒めは、重要でないのか。」「そ の戒めは、軽んじて良いのか。」と言うような質問を準備していたのだろう。



No.779 - 4月23日: 「死者を生かす神」 マタイの福音書22章23節〜33節


(みことば)「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」 マタイの福音書22章32節

 キリストは、パリサイ人から「カエサルに納める税金」の問題で試みを受 けたが、次にサドカイ人から「死者の復活」に関する教理の問題で試される。
 サドカイ人は、祭司階級に属し、信仰の教義において「復活はない」と考 える現実主義、或いは現世主義者であり、「復活はある」と考えたパリサイ 人と鋭く対立した。勿論、もし復活がないなら、私達の信仰も宣教も空しい。



No.778 - 4月16日: 「神と世に真実に生きる」 マタイの福音書22章15節〜22節


(みことば)「どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納め ることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」 マタイの福音書22章17節

 キリストは、3つの譬えを通して、神の招きや願いに答えない頑なな人々 の態度を語って来たが、それは、エルサレムの宗教的な指導者を指していた。
 彼らは、それが「自分たちについて話しておられる」と気づくと、「どの ようにしてイエスをことばの罠にかけようか」(15)と相談した。「人の心は何 よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ 17:9)人の罪は、自分で癒し難い。



No.777 - 4月9日: 「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19節〜31節


(みことば)「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…わた しの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 ヨハネの福音書20章27節

 週の初めの日の朝、マクダラのマリヤは、墓で「私は主を見た」と弟子達 に証言したが、その日の夕方、彼らがいた部屋にキリストが入って来られる。
 弟子達の居た場所は、「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」彼ら は、ユダヤ人の追及を警戒し、不安と恐れの中で家に引き籠っていた。だが、 主は、恐れと不安を抱く彼らの真ん中に、戸の鍵を開けずに入って来られる。



No.776 - 4月2日: 「天の御国の祝宴への招き」 マタイの福音書22章1節〜14節


(みことば)「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、 彼らは来ようとしなかった。」 マタイの福音書22章3節

 イエスは、神の宮で「王の催す結婚披露宴に招待した客」の譬えを語る。
 この譬えは、神の言葉に従おうとしない祭司長や律法学者に対して語って いる。キリストは、頑なな彼らに対し「ご自分の権威がどこから来たのか」 「その権威ある言葉に従わないならどうなるのか」を譬えによって答える。



No.775 - 3月26日: 「家を建てる者が捨てた石」 マタイの福音書21章33節〜46節


(みことば)「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これ は主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」 マタイの福音書21章42節

 キリストは、宮において「ぶどう園を任された悪い農夫」の譬えを語る。
 家の主人が「ぶどう園を造って垣根を巡らし…」農夫達に貸して旅に出る。 主人は、収穫の時に収穫を受け取ろうとしもべを遣わすが、彼らはしもべを 捕え石打にする。最後に主人は息子を遣わすが、彼らは息子も殺してしまう。



No.774 - 3月19日: 「神と共に生きる選択」 マタイの福音書21章28節〜32節


(みことば)「兄は『行きたくありません』と答えたが…思い直し、出かけ て行った。…弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。」 マタイの福音書21章29,30節

 主は、「父からぶどう園の働きを命じられた二人の兄弟」の譬えを語るが、 この後に続く譬えも同様、招きに答える者と拒絶する二種類の人が登場する。
 兄は、初め「行きたくありません」と断るが、「思い直し、出かけて行っ た。」一方、弟は「行きます」と答えるが、結局「行かなかった。」主は、「ど ちらが父の願ったとおりにしたか」を問うが、彼らは「兄です」と即答する。



No.773 - 3月12日: 「何の権威によるのか」 マタイの福音書21章23節〜27節


(みことば)「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれ があなたにその権威を授けたのですか。」 マタイの福音書21章23節

 キリストは、エルサレム入城の翌日、神の宮で教えておられたが、そこは、 前日に、キリストが売り買いしている者達を追い出された異邦人の庭である。
 商売人達は、キリストの宮清めによりその行いを悔い改めたか分からない。 だが、少なくともキリストの前では、それを続けなかっただろう。キリスト は、律法学者達のようではなく、権威ある者のように教えられたからである。



No.772 - 3月5日: 「枯れたいちじくの木」 マタイの福音書21章18節〜22節


(みことば)「一本のいちじくの木が…イエスはその木に「今後いつまでも、 おまえの実はならないように」と言われた。…いちじくの木は枯れた。」 マタイの福音書21章19

 イエスは、エルサレム入城の翌日朝早くベタニヤからエルサレムに向かう。
 エルサレム入城は、紀元30年ニサンの月の10日(ユダヤ暦)の日曜日だが、 その日から過越の祭りの準備が始まる。その日に贖いの羊を用意し14日に 屠り、羊の血を二本の門柱と鴨居に塗るように定めている。(出エジプト 12:2~7)



No.771 - 2月26日: 「神の宮をきよめる」 マタイの福音書21章12節〜17節


(みことば)「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなの に、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」 マタイの福音書21章13節

 キリストは、ろばに乗ってエルサレムに入城し神の宮に入るが、当時の神 殿はヘロデにより改築され、ソロモンの神殿に匹敵する荘厳なものであった。
 後に、弟子達は神殿を見て「なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆する が、主は、寧ろ、神の宮の庭で行われている行為を怒り、「その中で売り買 いしている者たちをみな追い出し、…鳩を売る者たちの腰掛を倒された。」



No.770 - 2月19日: 「主がお入り用なのです」 マタイの福音書21章1節〜11節


(みことば)「もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言い なさい。すぐに渡してくれます。」 マタイの福音書21章3節

 キリストの一行が、「エルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテ パゲまで来たとき」キリストは、二人の弟子を「向こうの村へ」遣わされた。
 彼らの使命は、イエスがエルサレム入城の際に乗るろばの子を連れて来る 事である。それは、「預言者を通して…成就するため」(4)と解説している様 に「シオンの娘に言え…子ろばに乗って」のゼカリヤの言葉の実現であった。



No.769 - 2月12日: 「主よ、あわれんでください」 マタイの福音書20章29節〜34節


(みことば)「群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主 よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」 マタイの福音書20章31節

 キリストはエルサレムに上る途上、弟子達に十字架と復活の予告をされた。 その後「一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。」
 「目の見えない二人の人」が主に救いを求めて叫ぶ。マタイ9章でも似た 奇跡が記されているが、その2つは異なる出来事である。旧約には、盲人が 癒される奇跡は一度もないが、福音書では、イエスによって何度も為される。



No.768 - 2月5日: 「偉くなりたいと思うなら」 マタイの福音書20章17節〜28節


(みことば)「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたが たの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」 マタイの福音書20章26節

 キリストは、エルサレムに上る途中で12弟子に3度目の受難と復活の予 告を語る。エルサレムは、キリストの救いが成就する場所として重要である。
 3度目の受難の予告は、以前に比べ「異邦人に引き渡し…嘲り、むちで打 ち、十字架につける」と詳細に語られる。「祭司長や律法学者たち」ユダヤ 人は、キリストを異邦人に引き渡し、神を知らない異邦人の手で殺させる。



No.767 - 1月29日: 「恵み深い主の御心」 マタイの福音書20章1節〜16節


(みことば)「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あ なたと同じだけ与えたいのです。」 マタイの福音書20章14節

 主は、天の御国を「ぶどう園で働く者を雇う…家の主人」に譬えが、それ は、天の御国が人の努力によらず、神の主権的な恵みによる事を譬えている。
 主人は、早朝に働く者を雇う為に市場に行き、「労働者たちと一日一デナ リの約束をすると…に送った。」主人は、1デナリ(一日の労働者の賃金) で、労働者と雇用契約を結ぶ。彼らは、仕事を与えられ、報酬を約束される。



No.766 - 1月22日: 「天の栄冠を目指して」 マタイの福音書19章23節〜30節


(みことば)「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るより は、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 マタイの福音書19章24節

 富める青年は、永遠のいのちを得る方法を求めて、主のもとに来るが「あ なたの財産を売り払って…」の命令に答えられず、悲しみながら立ち去った。
 彼は、救いを真剣に求めながら、目に見える財産を手放せない。彼は、そ の様な選択しかできない自分を嘆いて悲しんだのかも知れない。彼の様に暫 く教会に来ても、この世の物を捨てられず、悲しみながら去る人も多くいる。



No.765 - 1月15日: 「永遠のいのちを得るには」 マタイの福音書19章13節〜22節


(みことば)「一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいの ちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 マタイの福音書19章16節

 「イエスに手を置いていただくために、子どもたちがみもとに連れて来ら れた。」だが、弟子達は、子どもたちが来るのを疎ましく思い彼らを叱った。
 キリストは、弟子達に「子どもたちを来させなさい…天の御国はこのよう な者たちのものなのです」と言われた。主は、既に「子どものようにならな ければ…天の御国に入れません」と語っていたが、彼らはそれを忘れていた。



No.764 - 1月8日: 「神聖な結婚の定め」 マタイの福音書19章1節〜12節


(みことば)「イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのです か。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。」 マタイの福音書19章4節

 キリストは、ガリラヤでの活動を終え、ヨルダンを経てユダヤ地方に入り、 エルサレムに向うが、その途上でパリサイ人から離婚問題について試される。
 結婚制度は、社会の根幹を成す重要な事柄であるが、罪の社会において最 も大切な結婚の有り方が崩れている。その結果、離婚の問題が起こって来る。



No.763 - 23年1月1日: 新年「主の癒しと救いを求めて」 U列王記5章1節〜19節


(みことば)「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれ ば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 U列王記5章10節

 アラムの将軍ナアマンは、主君に重んじられ、尊敬されていたが、「ツァ ラアトに冒されていた。」ツァラアトは不治の病と恐れられた皮膚病である。
 地位や名誉があっても、どうにもならない事がある。歴戦の強者でも、重 い病や死に自力で打ち勝つ事はできない。彼の成功も災いも主が与えている。