2023年の説教
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No.815 - 12月31日: 「神の恵みと御業への賛美」 ルカの福音書1章39節〜56節 |
(みことば)「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはし
ために目を留めてくださったからです。」
ルカの福音書1章47,48節
マリアは、御使いから救い主イエスの懐妊の知らせ受けた時、同じように
親類のエリサベツが主によって男の子を宿している事を聞き彼女を訪ねる。
マリアがエリサベツを尋ねるのは、神によって同じ経験をし、同じ使命を
与えられた者と交わる為であった。それは単に親類だからではなく、神から
特別な賜物と使命を与えられた者でなければ共有できない事だからである。
エリサベツの胎の子は、やがて救い主が来られる前に、人々に悔い改めを
説き、救いの道を備えるバプテスマのヨハネとなる。「エリサベツがマリア
のあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」
神は、人の中に神を喜び、キリストを讃える性質を与えておられる。「聖
霊に満たされる」とは、神との交わりに生きる者だけが経験できることであ
り、教会において霊的な礼拝を献げる者は、魂が喜び踊るという経験をする。
年長者のエリサベツは、若いマリアに「あなたは女の中で最も祝福された
方」と最大限の賛辞を贈る。また、彼女は、マリアに向かって「私の主の母
が私のところに来られるとは…」と、彼女の内に宿るキリストを見ていた。
エリサベツは、マリアに「主によって語られたことは必ず実現すると信じ
た人は幸いです」と信仰を讃える。一方、ザカリヤは、神の言葉を信じるこ
とができず、その不信仰の故に、ヨハネが誕生するまで口がきけなくなる。
続いて、主の母となるマリアの賛歌が記される。彼女の歌は、「私のたま
しは主をあがめ、私の霊は…神をたたえます」と賛美から始まる。神礼拝は、
主への賛美が第1の目的であり、神を賛美することは、最高の奉仕である。
彼女が神を讃える第1の理由は、神が「この卑しいはしために目を留めて
くださった」からである。彼女は自分を「卑しいはしため」と呼ぶが、それ
は見せかけの謙遜ではなく、自らを低く卑しい者と自覚した者の告白である。
彼女は「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と、
主から与えられた恵みと幸いを感謝する。主は、その幸いがマリアだけでな
く、「幸いなのは、むしろ、神の言葉を聞いてそれを守る人です。」と語った。
彼女が神を讃える第2の理由は、「力ある方が、私に大きなことをして下
さった」からである。「神にとって不可能なことは何もありません。」全能の
神を信じる者は、どんな困難や試練の中でも、平安や希望を失うことはない。
マリアは、恵みの体験から神のご性質を深く瞑想する。「その御名は聖な
るもの…恐れる者に及びます。」誰も、聖なる方の前に立つ事はできない。
だが、我々は、主の憐れみによる贖いにより罪を赦され、聖なる者とされた。
彼女は、「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を…」
と主の御力を賛美する。その時この世と神の国に生きる者の立場が逆転する。
「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。」
最後に、彼女は、神の契約に対する真実を賛美する。「主はあわれみを忘
れずに…助けてくださいました。」神は、信仰に生きる者との契約を誠実に
果たされる。「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けよう…」
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No.814 - 12月24日: 「世を照らすまことの光」 ヨハネの福音書1章9節〜14節 |
(みことば)「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしてい
た。…世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」
ヨハネの福音書1章9,10節
キリストは、「すべての人を照らす…まことの光」として世に来られた。
全ての人に救いの希望を与える事のできる方は、キリスト以外に存在しない。
この世の中は、生まれながらに貧しい人も、富んだ人もおり、病弱な人も、
健康な人もいる。この世は、必ずしも公平で平等な社会とは言えない。だが、
キリストの救いは、この世の光の当たらない闇の中を生きる全てを照らす。
キリストは、全ての人を照らすまことの光となり、人として生まれ、最も
貧しい所に下って来られた。「あなたがたは、布にくるまって飼い桶に寝て
おられるみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
「この方はもとから世におられ…世はこの方を知らなかった。」キリスト
は、この世の宗教の教祖と違い、この世界の創造者であり、世界が存在する
前から存在し、神の栄光と神の力、神の性質が完全に宿った神ご自身である。
だが、この世は、神の子として来られたキリストを知らない。人類は、ア
ダムの堕落以来、神に逆らい、罪と悪魔と闇の支配の中にある。この罪の解
決なしに救いはない。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。」
「この方はご自分のところに…受け入れなかった。」キリストは、預言者
が約束した通り、救い主としてご自分の民イスラエルに誕生した。だが、神
の民であるユダヤ人は、彼を救い主と認めず、十字架の上で処刑してしまう。
「しかし、この方を受け入れた人々…特権をお与えになった。」神の救い
の恵みは、ユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられた。人は罪よって神の怒
りを受けるべき者であったが、罪を赦されて神の子となる特権が与えられる。
「この人々は、血によってではなく…神によって生まれたのである。」神
は王の家系であれ、奴隷の家系であれ、血筋に関係なく、神を信じる者を救
いに定める。神を信じて子とされる事において、何の不公平も不平等もない。
又、「肉の望むところでも、人の意志によってでもなく…」神の救いは、
人間の努力や欲求など、人の力によって達成できることではない。「だれも
天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」キリストは、人の姿
で世に来られ、私達の中に住まわれた。第1にそれは、御霊によって実現す
る。「あなたがたは…神の御霊が…住んでおられることを知らないのですか。」
第2にそれは、キリストを信じる者に約束された天の御国において実現す
る。「見よ、神の幕屋が人々とともにる。神は人々とともに住み、人々は神
の民となる。」(黙示録 21:3)神による永遠の約束はキリストにおいて実現した。
「私たちはこの方の栄光を見た。…ひとり子としての栄光である。」キリ
ストは、目に見えない神の似姿であり、神の人格と性質の完全な現れである。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
「この方は恵みとまことに満ちておられた。」救いに値しない罪人が、キ
リストの恵みの故に神の子とされる。キリストは、真実な方であり、「彼に
信頼する者は失望させられることがない。」私達の救いはこの方の内にある。
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No.813 - 12月17日: 「この世の知恵と神の力」 コリント第1の手紙1章26節〜2章5節 |
(みことば)「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者
を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」
コリント第1の手紙1章27節
パウロは、教会において分派や争いの火種となる人間的な知恵や誇りを取
り除き「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」と宣言する。
パウロは、それを「人間的に見れば知者は多くはなく…」と教会に当て嵌
めて彼らの誇りを砕く。教会において神の救いに預かった者の中で、この世
の「知者」「力のある者」「身分の高い者」等、優れた人がいたわけではない。
彼らは、この世的に優れていたから神に選ばれたのではなく、寧ろ、その
反対で、神は、「この世の愚かな者を選び、…弱い者を」敢えて選ばれた。
神の国は、世の規準と全く違い、人間的な優秀さ等を何一つ必要としない。
それは「有るものを無いものとするため」とある様に、人間的に力のある
者や身分の高い者が、そのまま教会において幅を利かせるのではなく、神は、
取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれたからである。
本来、神の国に入る資格の無い者が、ただ神の恵みとキリストの贖いの故
に、神に愛される者へと変えられた。神が敢えて無に等しい者を選ばれたの
は、「肉なる者がだれも神の御前で誇ることのないようにするため」である。
「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」彼らは、
コリントの異教の地と偶像の神々の内を歩んでいたが、今は、パウロによる
福音の宣教の言葉によって、まことの神による救いの道を歩む者とされた。
「キリストは、…神からの知恵…義と聖と贖いとになられ…」キリストは、
神の知恵であり、彼の内に「知恵と知識の宝がすべて隠されている。」罪人
の我々は、彼の聖と贖いにより罪を赦され、義と認められ聖なる者とされた。
パウロは、コリントの教会で「すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を
宣べ伝えることは」しなかった。神の奥義とは「隠された神の救いのご計画」
の事で、それは、哲学のような人間の知恵によって解明できるものではない。
神の奥義は、預言者によって語られ、時至りキリストによって完成した神
の救いを意味する。だが、博学なパウロは、福音の宣教の際に「十字架につ
けられたキリストのほかには、何も知らないことにする。」と堅く決意した。
それは、十字架が色褪せないようにするためであった。彼は、宣教の際、
「弱く、恐れおののいていた」と告白する。彼の宣教は、「説得力のある知
恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現われによるもの」であった。
彼は、ギリシャの哲学者の様に詭弁述、修辞学、弁証学等、世の知恵によ
って福音を論証したのはではく、御霊と御力によって福音を宣教した。そこ
に彼の宣教の力の秘訣があり、彼は、他の誰よりも大きな働きを成し遂げた。
人は、病気になれば医者や薬に頼る。それも必要であるが、神以上にそれ
らに信頼するなら、それも偶像である。世の人が福音を受け入れないのは、
霊的な病気だからである。この病は、世の知恵と言う処方箋では癒やせない。
宣教の働きは、人の力によるのではなく、人の救いも世の知恵によらない。
「それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものと
なるためだったのです。」信仰も教会も、ただ神の言葉によって建てられる。
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No.812 - 12月10日: 「十字架の言葉」」 コリント第1の手紙1章18節〜25節 |
(みことば)「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救わ
れる私たちには神の力です。」
コリント第1の手紙1章18節
パウロは、分派のあった教会に一致を勧め、彼からバプテスマを受けたと
人々に誇らせないように配慮し、言葉の知恵によらずに福音を宣べ伝えた。
それは、キリストの十字架が空しくならないようにするためであった。「十
字架の言葉」は、それを分岐点として、滅びる者と救われる者の道を分ける。
滅びる者は、十字架を愚かと思うが、救われる者は、それを神の力を考える。
病いに喘ぐ者には、健康な食事も不快に思い、見舞の友人も家族も煩わし
く感じる。キリストの十字架による愛の行為も、病んで滅び行く魂にとって
は、不快としか感じない。この世の多くの人が霊的な重い病いを患っている。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし…」イザヤの時代に、ユダヤの指導
者は、自分の知恵を誇り、神に信頼しなかったので、神は、彼らの目を閉ざ
し悟りを取り除かれた。世の知者は、十字架の言葉に救いがあると信じない。
「知恵ある者はどこに…学者は…世の論客は…」世の知者も学者も、自分
知恵で神を知る事はできない。従って、神を否定する科学も哲学もこの自然
界や人間の存在を説明できない。神は、この世の知恵を愚かなものにされた。
この世が自分の知恵によって神を知る事がないのは、神の知恵による。こ
の世界は、神の啓示と恵みで満ち溢れているが、人は、誰も神を求めない。
それ故「神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救うことにされた。」
人は、神の救を知る為に宣教の言葉を聞かなければならない。だが、十字
架は、滅びる者には愚かと思える。パウロが、アテネで死者の復活を語ると
「ある人達はあざ笑い、他の人達は、いずれまた聞く事にしよう」と言った。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。」それは、
ユダヤ人とギリシャ人の民族的気質の端的な違いであるが、ユダヤ人は、神
が歴史において為される力ある御業(奇跡)等に、神の存在の証拠を求めた。
ギリシャ人は、それと対照的に人間の知性に重きを置き、思弁的な哲学に
よって真理を探究しようとした。しかし、哲学に救いはない。救いは、ただ、
キリストにある。「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。」
「ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かなこと…」キリス
トの十字架は、しるしを要求するユダヤ人にとって神の栄光や力とは思えな
い。また、異邦人は、十字架で処刑されたキリストなど信じようとしない。
「ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとって…」「召
された者」とは、主に呼び集められた教会である。教会は、民族等の壁を越
え、「キリストこそ神の力、神の知恵」と告白する神の民の集まりである。
「ユダヤ人はしるしを要求し」とあるが、キリストこそ、神が人の救いの
為に与えられた唯一のしるしである。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めま
すが、しるしは与えられません。ただしヨナのしるしは別です。」(マタイ 12:39)
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」人は、
神の言葉を愚かと判断するべきではない。そこには、神の絶対的な主権と完
全な知恵と力がある。神は、キリストの弱さを通して人を救いに定められた。
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No.811 -12月3日: 「神の家族としての一致」 コリント第1の手紙1章10節〜17節 |
(みことば)「兄弟たち…キリストの名によって…どうか皆が語ることを一
つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」
コリント第1の手紙1章10節
パウロは、手紙の序文に続き、コリントの教会に起っている諸問題につい
て述べるが、その最初は、冒頭の言葉のように教会の分派の問題であった。
教会は、パウロが「コリントにある神の教会へ」と語るように、キリスト
を主とする神の国の共同体である。この世の集団ならいざ知らず、神の国の
共同体である教会に仲間割れがあり、争いがあるのは、由々しき事態である。
パウロは、多くの問題の中で、分派の問題を真っ先に取り上げるが、それ
は、教会そのものを破壊してしまう危険を孕んでいるからである。パウロは、
それを「クロエの家の者から知らされました」とその情報源を明らかにする。
パウロは、教会の分派と争いを単に噂や推論で話すのではなく、事実を確
認した上で問題の解決を述べる。人は、曖昧な推論や、主観的な感情で人を
裁き易い者だが、正しい秤を持たなければ、信頼関係や愛の関係は築けない。
彼は「兄弟たち…キリストの名によってお願いします」と主にある兄弟、
神の家族として勧める。神の家族は、社会的地位、貧富の差、年齢、性別、
血筋を越えた関係である。家族が分裂し、分れる事ほど悲しいことはない。
「どうか…同じ心、同じ考えで一致してください。」完全な一致など、人
間中心の社会では、理想に過ぎず、実現不可能だが、神の権威と愛の交わり
によって建てられた教会においては、架空でも、非現現実的な事でもない。
教会は「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに…」と言ってい
た。彼らは教会の中の影響力のある人につき、派閥を作り対立していた。「寄
らば大樹の陰」人は、力の強い者に靡き、自分の立場や安全を保とうとする。
「キリストが分割されたのですか。」教会はキリストのからだである。か
らだの各器官が自己主張をし始めるとからだの調和を保つ事が出来ない。「私
は…私は…」と言う自我が、教会の一致と調和を乱し、不協和音を生み出す。
「パウロが…十字架につけられたのですか。」私達はキリストによって罪
を赦され神の民とされた。教会に問題が起こると十字架が脇に追いやられ自
己主張が始まる。キリストにあって死んでいない肉の人が問題を引き起こす。
「パウロの名によってバプテスマを受けたのですか。」主の名によってバ
プテスマを受け、神の民とされた教会が、非常に人間臭い世の集団と変わら
なくなる。そのような人は、信仰が幼く未熟で、新生した事を忘れている。
パウロは「クリスポとガイオのほか」誰にもバプテスマを授けなかった事
を神に感謝する。それは、「私はパウロからバプテスマを受けた。」と人々に
誇らせない為である。それよりも、自らの信仰と人格を磨く方が大切である。
パウロは、自分が教会において誇りの原因になる事を嫌い「ですから、あ
なたがたが私の名によって…だれにも言えない」と語る。人には、誰にも名
誉心がある。彼は、他の人々から評価され、讃えられる事を意識的に避けた。
彼は、思い出した様に「ステファナの家の者たち」を加えるが、それは、
彼がこれまでの実績を誇りにしていないからである。パウロは福音を宣べ伝
える事を使命とし、「キリストの十字架が空しくならないように」心掛けた。
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No.810 - 11月26日: 「主に愛された神の教会」 コリント第1の手紙1章1節〜9節 |
(みことば)「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・
キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。」
コリント第1の手紙1章8節
コリントの手紙は、使徒パウロによってエペソにおいて書かれた書簡であ
るが、コリント教会は、第2回の伝道の際に建て上げられた教会であった。
パウロは、冒頭で「神のみこころにより…使徒として召された」と紹介す
る。彼が使徒となったのは、自分の考えや計画ではなく、神の意志と計画に
よる。彼は教会を迫害する者であったが、主に召されイエスの使徒となる。
神は、福音の宣教の為にどのような人でも用いることが出来る。その人が、
主の召しに答えるなら、その人生は空しく終わる事がなく、意味ある人生を
送り、価値ある生涯を過ごす事が出来る。私達のいのちは、主のものである。
手紙の差出しは「兄弟ソステネから」と連名で記されているが、ソステネ
はパウロのコリント宣教の初期にユダヤ人から迫害を受けた会堂司ソステネ
かも知れない。パウロの宣教は、彼の様な多くの協力者によって支えられた。
手紙の受け取りは「コリントにある神の教会へ」と記される。教会(エクレシ
ア)は、世の集まりも指すが、コリント教会は世の集まりと異なる神の民の
集まりである。それは滅びの世からキリストによって召された集まりである。
コリントの教会は、後に語る様に分裂、分派、不品行、偽りの教え等の問
題を多く抱えていたが、パウロは、それでもコリントを「神の教会」と呼ぶ。
それは、教会がキリストの贖いによって聖められた神の会衆だからである。
パウロは、彼らを「聖なるものとされ、聖徒として召された」と記すが、
それは、「いたるところで…キリストの名を呼び求めているすべての人」と
変わらない。「聖なる者とされた」は完了形で主の贖いと選びの確かを示す。
パウロは、最後に「主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」
と語る。教会で礼拝する私達の主は、時代を越え、民族を越えて讃えられる
神であり、世界の創造者である。「小さな群れよ。恐れることはありません。」
序文の最後にパウロは、「恵みと平安」を祈る。恵みは、神が無償で与え
て下さる慈愛であり、罪人に与えられる神の救いを意味する。又、戦争と戦
争の噂を聞く罪の時代に、神との和解と平和こそ魂に安らぎを得る道である。
パウロは、序文の後で教会に「私は…神に感謝しています」と記す。教会
に様々な問題があったとしても、彼は、教会に与えられた恵みに目を留める。
たとえ多くの欠けがあっても、教会に与えられた恵みは、それ以上に大きい。
更に、彼は、教会が「あらゆることばと知識において…豊かな者とされた」
と記す。その知識の豊かさは、神の言葉に基づくものであり、コリントの偶
像の神々から贖われ、キリストを知った事による神の救い知識を示している。
その結果パウロは、彼らの中で「キリストについての証しが…確かなもの」
となったと記す。その証しとは十字架の贖いと復活による基づくものであり、
その証しが彼らの生活を変え「キリストの現われを待ち望む」希望を与えた。
「主はあなたがたを最後まで堅く保って…」彼らの信仰が、終わりの日ま
で堅く保たれるのは、彼らの行い如何によらず、神の憐みと保持の御業によ
る。「神は真実な方です。」私達の信仰の保証は、神の真実さにかかっている。
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No.809 - 11月19日: 「教会に与えられた使命」 マタイの福音書28章16節〜20節 |
(みことば)「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子と
しなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け…教えなさい。」
マタイの福音書28章19節
マタイの福音書の最後は、ガリラヤにおける「宣教の命令」で締め括られ
るが、それはユダヤ人に向けて語られたマタイの福音書の特徴を示している。
マタイは、エルサレムにおけるイエスの復活の記録を省き、弟子達が召さ
れたガリラヤに視点を移す。新たな宣教の拠点は、エルサレムではなく、ガ
リラヤからであり、その使命は、イスラエルではなく、使徒達に与えられる。
ユダヤ人は、神の選びの民であったが、不従順の故にイエスを十字架にか
けてしまう。今日のパレスチナ紛争は、元を糺せばそこから始まる。それに
より宣教はイスラエル民族ではなく、イエスを主と信じる教会に委ねられる。
弟子達は、「イエスに会って礼拝した。」 ユダヤ人は、神の神殿あるエル
サレムで主を礼拝したが、弟子達は、ガリラヤでイエスを主と仰ぎ礼拝する。
イスラエルに本当の平和が訪れるは、彼らがイエスを主と認めた時である。
「ただし、疑う者たちもいた。」神を信じる者も疑いの狭間で揺れ動く弱
さがある。イスラエルは小さな民族であったが、信仰と礼拝と御言葉により
保たれて来た。教会も小さな群れだが、礼拝と御言葉の交わりで支えられる。
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。」世界を創造された全能
の神が小さな群れに近づかれる。インマヌエルの神は、私達と共におられる。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」
キリストは、あらゆる被造世界において無限の力を持つ全能の神である。
「神にとって不可能なことは何もありません。」神は、どんな苦難の中でも
信じる者を助け出す力を持つ。教会は主から天の御国の鍵を与えられている。
教会はユダヤ人に代わり「祭司の王国、聖なる国民」となった。パウロは、
始めユダヤ人の会堂で福音を語ったが、彼らが口汚く罵ったので「私たちは、
これから異邦人の方に向います。」(使徒 13:46)と宣言し異邦人伝道に移った。
教会の第1の使命は、「あらゆる国の人々を弟子とする」事である。「弟子
とする」はマタイ特有の表現で、アリマタヤのヨセフは、「イエスの弟子に
なっていた」とある。信仰は、出発であるが、それは終点でも完成でもない。
信仰の目標は、主の弟子となり、主の教会の奉仕者となって仕える事である。
第2の使命は、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」る
事である。バプテスマは、三位一体の神の名において教会に与えられた最も
大切な礼典である。それはキリストの死と復活を表し、悔い改めと信仰と献
身を表明する告白である。人はバプテスマの告白をもって教会の一員となる。
第3の使命は、主が命じられた「すべてのことを守るように教える」事で
ある。ユダヤ人は、律法を永遠不変の教えとして代々教育して来た。同様に、
主の教えは、世界の秩序と人間存在の意義を学ぶ事であり、神を中心とした
生き方の教育である。それは、人格教育であり、人にいのちと希望を与える。
最後に、主は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたととも
にいます。」と告げる。「世の終わり」とは、即ち、イエスの再臨の時であり、
神の共同体は、再臨の時まで主の証人として使命を果たし、天に迎えられる。
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No.808 - 11月12日: 「復活が虚偽ならば」 マタイの福音書28章11節〜20節 |
(みことば)『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天
においても地においても、すべての権威が与えられています。』
マタイの福音書28章18節
女達は、週の始めの日の朝、イエスの葬られた墓に行き、主の使いからキ
リスト復活の知らせを聞き、主ご自身とお会いし、新たな希望を与えられる。
一方、番兵達は、女達がイエスの復活を伝えに行く間に、「起こったこと
を祭司長達に報告した。」兵士達は、祭司長から墓の番を依頼されたが、屈
強な兵士でも、死者の中から復活したキリストを阻止する事はできなかった。
祭司長達は、集まって協議し、「兵士たちに多額の金を与えて『弟子達が
…イエスを盗んで行った』と言いなさい」と指示する。彼らは、兵士達の報
告を聞き、イエスのからだが墓にないと聞いても、イエスの復活を信じない。
彼らは、イエスの復活を揉み消す為に「弟子達がイエスを盗んで行った。」
と兵士達と口裏を合わせる。その嘘は、兵士達にとって処罰されるリスクを
伴うが、彼らは、多額の金を払い、裏工作する事で、嘘を覆い隠そうとする。
だが、彼らの努力は無駄に終わり、嘘が明らかになる。「それで、この話
は今日までユダヤ人の間に広まっている。」どんな巧妙な嘘も、必ず誰かか
ら漏れるものである。「隠れているもので、あらわにされないものはなく…」
逆に、キリストの復活もそれと同様で、その証言が嘘なら、まことしやか
な真実として言い広められることはない。「キリストは五百人以上の兄弟た
ちに同時に現れました。…大多数は今なお生き残っています。」(Tコリント 15:6)
マタイの福音の最後は、主が弟子達に与えた宣教の命令で締め括られる。
イエスの敵が復活の対応に追われる中、弟子達は彼らが召されたガリラヤの
地に行き、そこで主にお会いする。彼らは「イエスが指示された山に登った。」
彼らは、主が指示された山で「イエスに会って礼拝した。」その山は、彼
らの宣教の起点となるが、それは今日では教会と言える。私達は、教会にお
いてキリストとお会いし、神を礼拝し、ここからそれぞれの地に遣わされる。
「ただし、疑う者たちもいた。」信仰は、哲学のような観念的な思索でも、
禅のような瞑想でもない。信仰は、ただ、啓示された神の言葉とキリストへ
の信頼である。主の日の礼拝は、信仰を確かなものとする為に欠かせない。
主は、彼らに近づき「わたしにには、…すべての権威が与えられています。」
と言われた。キリストは、万物の創造者であり、支配者であられる。救いの
宣言、即ち、天の御国の鍵は、イエスを神の子と告白する教会に与えられた。
従って、教会のなすべき事は、第1に「あらゆる国の人々を弟子とする」
ことである。国籍や人種の壁を越えて福音が宣教される必要がある。主の復
活から二千年経った今、主の言葉が、文字通り全世界において実現している。
第2に、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授ける」ことで
ある。バプテスマは、キリストを信じて弟子となった証しであり、教会に加
わる為の信仰の告白である。主ご自身がヨハネからバプテスマを受けられた。
第3に、主の命令を「守るように教える」ことである。福音宣教と御言葉
の教育こそ教会の働きである。神を信じた者は、主の弟子として生涯をかけ
て証しする務めと使命がある。主は、世の終わりまで、いつも共におられる。
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No.807 - 11月05日: 「キリストの復活の希望」 マタイの福音書28章1節〜10節 |
(みことば)『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなた
がたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』
マタイの福音書28章7節
キリストの十字架の死は、私達の信仰にとって最も大切な教義であるが、
それに続く復活の出来事もキリスト信仰において欠かせない事柄である。
「週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと…が墓を見に行った。」教
会は、主の復活を記念して「週の初めの日」を「主の日」として礼拝する事
になる。女達は、主を納めた墓に向かうが、死者を納めた墓に希望はない。
女達は、香料を準備して墓に向うが、幾ら死者に香料を塗っても気休めに
過ぎない。人は、誰もが例外なく死に向かって歩んでいる。イエスが復活さ
れた「主の日」の朝に希望を持って目覚め、主を礼拝できる恵みを覚えたい。
女達は、墓の前で「大きな地震」と「主の使いが天から降りて」来る経験
をする。それは、死の終焉と復活の宣言である。主は、死を打ち破り、石を
脇に転がし、世の一切の権威を足の下に従わせる。「その石の上に座った。」
主の使いは、「稲妻のようで、衣は雪のように白かった。」その姿は、神の
栄光と聖さを表すが、主に贖われた者も、やがて御国で栄光に輝き、罪を聖
められ雪のように白くなる。番兵達は、「震えあがり、死人のようになった。」
御使いは、女達に「恐れることはありません。十字架につけられたイエス
を捜しているのは分っています」と告げる。女達は、イエスの死による先の
見えない未来に不安を抱いた。主はその悲しみや痛みの全て知っておられる。
「ここにはおられません。…よみがえられたのです。」復活の確かさは、「前
から言っておられたとおり」主の語られた御言葉の証言にあり、「納められ
ていた場所を見なさい」の様に観念や幻想でなく、復活の事実の証言にある。
御使いは、女達に「イエスの復活の事実」と「ガリラヤでお会いできる」
事を弟子達に伝えるよう命じる。「私は確かにあなたがたに伝えました。」御
使いが責任を果たした様に、キリスト者は、福音を伝える使命と責任がある。
多くの人が、復活の希望を知らずに死と滅びに向っている。人が、復活を
信じるか、信じないかは、その人自身の責任である。だが、福音を伝える機
会があるのに伝えないなら、その血の責任は、福音を伝えなかった人にある。
主は、「あなたがたより先にガリラヤに行く」と言われた。そこは、弟子
達の出身地であり、主は、エルサレムで躓いた彼らをよみがえった姿で導か
れる。人は、どんな失敗を犯しても、信仰の原点に立ち返るなら回復がある。
女達は、命じられた通り、墓を立ち去り弟子達のもとに走った。女達の失
望は希望に、悲しみは喜びに変わる。「すると…イエスが…彼女たちの前に
現れた。」主は、彼女達の報告を確かなものとする為に直接復活の姿を現す。
信仰は他の人の経験を聞いて信じるのではなく、自分自身の神との交わり
の経験である。「彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」神礼
拝は、目の前に神を見る事である。「おはよう。」主の日の朝には希望がある。
主は、御使いと同じ事を語るが、御使いと違い、主ご自身がそれを行う。
「わたしの兄弟たち…わたしに会えます」主は、現代において、神を信じる
者を「わたしの兄弟」と呼び、天の御国で「わたしに会える」と約束する
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No.806 - 10月29日: 「キリストの葬り」 マタイの福音書27章57節〜66節 |
(みことば)「ヨセフはからだを受け取ると…岩を掘って造った自分の新し
い墓に納めた。…大きな石を転がしておいて、立ち去った。」
マタイの福音書27章59節
キリストの十字架の死に続いて、埋葬について記される。パウロは、キリ
スト信仰の最も大切な要素を「キリストの死と葬りと復活」であると語る。
イエスの葬りに関して最も重要な役割を果たしたのがアリマタヤのヨセフ
である。「彼自身もイエスの弟子になっていた。」彼は、議員の一人であった
が、神の国を待ち望み、「議員たちの計画や行動には同意していなかった。」
彼は、ピラトに「イエスのからだの下げ渡しを願い出た。」その行動は、
他の議員達の手前、かなり勇気のいることであった。それまでの彼は、「弟
子であったが、ユダヤ人を恐れ、それを隠していた」(ヨハネ 19:38)とある。
ヨセフは、イエスの十字架の死を境にして、大胆な行動を起す弟子となる。
彼の信仰の変化は、神から与えれた使命感からであろう。即ち、それは、有
力な議員で、新しい墓を持つ金持ちであるヨセフにしか出来ない事であった。
彼の立場や賜物が神の計画の為に用いられる。モルデカイは、ユダヤ人の
絶滅計画が知らされた時、王妃エステルに「あなたがこの国に来たのは、も
しかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル 4:14)と進言した。
ヨセフは、イエスを「きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新
しい墓に納めた。」本来、十字架上の犯罪人は、両脚を折られ、共同墓地に
埋葬された。だがイエスは、脚を折られず、王のように荘厳に墓に葬られる。
「そして墓の入口には大きな石を転がしておいて、立ち去った。」その墓
石は、通常、次に葬られる者の葬儀の時に開けられるが、順当ならヨセフ自
身の死の時にその石が開かれ、彼がイエスと同じ墓に葬られるはずであった。
彼が去った後、彼の名は一度も記されず、彼の死も記されていない。だが、
その墓石は、彼を葬る為でなく、キリストのよみがえりの為に開かれ、彼は、
キリストがよみがえった同じ墓に、復活の希望を抱いて葬られたはずである。
「マグダラのマリヤともう一人のマリヤは…墓の方を向いて座っていた。」
彼女達は、イエスの死と復活の確かな証言者となる。キリスト者の使命は、
主の十字架の死と復活を証言する事である。それは信じる者にしか出来ない。
「備えの日の翌日」とは「安息日」だが、マタイは、敢えて「安息日」と
言わない。安息日は、主の復活の日に替わるからである。祭司長達は、その
日、キリストが「わたしは三日後によみがえる」と言っていたのを思い出す。
彼らは、弟子達でさえ思い出さなかった言葉を思い出し、ピラトに、弟子
達がイエスを盗み出し、復活したと言いふらす事ないように墓を警護してく
れるように願い出る。「この世の子らは、…光の子らよりも抜けめがない」
彼らは、イエスを恐れたのではなく、人間の惑わしを恐れ、新しい宗教が、
そのように始まると考えた。彼らは、キリストの復活をそれを信じる者の妄
想に過ぎないと考えた。だが、それは、神の力を知らない者の幻想である。
ピラトは、「できるだけしっかりと番をするがよい。」と命じた。彼らの警
護は、外からの敵に有効でも、内からの復活の力には無力である。彼らは、
「石に封印をし、墓の番をした」が、彼らに死を封印することはできない。
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No.805 - 10月22日: 「十字架の贖いの完成」 マタイの福音書27章45節〜56節 |
(みことば)「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サ
バクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨
てになったのですか」という意味である。」
マタイの福音書27章46節
キリストは、ゴルゴダの十字架上で最後を迎えるが、「さて、十二時から
午後三時まで闇が全地をおおった。」と十字架に伴う自然界の異変を語る。
「闇」とは暗黒の意味なので、自然現象以上のものと言える。その原因が
何であれ、それは、イエスが過越の贖いの犠牲として受ける神の刑罰の象徴
である。エジプトは過越の子羊が屠られる前に、三日間、闇が全土を覆った。
「しかし、イスラエルの子らのすべてには…光がった。」(10:22)ヨエルは、
終わりの日に「太陽は闇に、月は血に変る。しかし、主の名を呼び求める者
は、みな救われる。」(2:31)と語る。キリストの十字架は、救いの光である。
イエスは、十字架上で「わが神、わが神、どうして…お見捨てになったの
ですか。」と叫ばれた。それは、詩篇22篇1節と同じ言葉であるが、ダビ
デの詩篇は、信頼、勝利、賛美へと続くが、イエスの言葉は、絶望で終わる。
何故、イエスは、失望と絶望の言葉で人生を終ったのか。それは、古来、
多くの人を悩ませて来た。事実、神はイエスを救わず、見捨てられる。神は、
私達を死の恐怖に見捨てない代わりに、神の御子を絶望の淵に見捨てられた。
人々は、イエスの叫びを聞き「エリヤを呼んでいる」と勘違いする。同様
に、世の人は、神の言葉を自分勝手に解釈し、「神の言葉が科学や理性に合
わない」と言って受け入れない。だが、霊感された聖書の言葉は誤りがない。
他の者達は、「エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。勿論、それ
は、仲間内の冗談であるが、エリヤの時代も、人々は、カルメル山でたった
一人でバアルの預言者と戦うエリヤに対し、どっちつかずの傍観者であった。
人々は、イエスに「酸いぶどう酒を…飲ませようとした。」それは、鎮痛
剤の代わりであったが、主は、晩餐の席で「今から後…ぶどうの実からでき
た物を飲むことがない」と言われた通り、死の苦しみの全てを味わわれた。
「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」主の最後の言葉は「完了し
た」である。「霊を渡された」は通常の死と違い、霊を神に自ら委ねた事を
意味する。人が死を恐れるのは、自分の霊を委ねる方を知らないからである。
その時「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」祭司は、過越の祭
りの際、神殿の幕の内側に子羊の血を携えて入る事で罪の赦しと贖いが実現
する。その隔ての幕は、キリストの贖いよって破られ、神の救いが完成した。
その時、「地が揺れ動き、…からだが生き返った。」主の救いの御業は、大
地を揺るがす力と死者を生かす力を持つ。「復活の後で、墓から出てきて…
多くの人に現れた」イエスの十字架の死は人々によみがえりの希望を与える。
百人隊長達は…出来事を見て…「この方は本当に神の子であった。」と証
言した。多くの人が十字架を見てイエスを嘲ったが、最後にイエスを神の子
と告白する者達が現れる。十字架の贖いが人々の心を神の救いに向かわせる。
「大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。」彼女らは主の埋葬の準備と
復活の証言等の重要な働きをした。教会には敬虔な婦人の存在が欠かせない。
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No.804 - 10月15日: 「イスラエルの王」 マタイの福音書27章39節〜44節 |
(みことば)「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。
今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」
マタイの福音書27章42節
キリストは、総督官邸からゴルゴダまで辱めを受けながら引いて行かれ、
処刑台である十字架にかけられ、十字架を取り巻く多くの人から嘲られる。
第1に「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。」
彼らは、野次馬のように十字架を見学し、他人事のようにイエスを嘲る。そ
れが家族や知り合いなら、そんな態度は取らず、その為に悲しんだ事だろう。
人は、十字架が自分と関係ないと思うと無責任なことを平気で言える。彼
らは、キリストの十字架を深く考えもせず、その理由を知ろうともせず、「神
殿を壊して三日で建てる人よ。…十字架から降りて来い。」とイエスを罵る。
その言葉は、キリストの十字架の死と復活を意味するが、彼らは、その霊
的な意味を何も知らない。彼らは「もしおまえが神の子なら自分を救ってみ
ろ」と嘲るが、イエスは、神の子だから自分を救わず、十字架から降りない。
「キリストは、ご自分が私たちにためにのろわれた者となることで、私た
ちを律法ののろいから贖いでしてくださいました。」(ガラテヤ 3:13)十字架の
上で、呪われた神の子の姿にこそ、神の愛と人類の救いが啓示されている。
第2に、「同じように祭司長たちも…イエスを」嘲った。彼らは、通りす
がりの人々と違い、イエスを十字架にかけた張本人である。その人々が、キ
リストの死を確認するかのように現場に来て、他の人と同様にイエスを嘲る。
彼らは、良心の呵責や罪の意識もなく平然とイエスを罵る。十字架は罪の
裁きのしるしでもある。彼らはイエスに罪を着せて平然としているが、自ら
に罪を認めるべきである。今は罪を罪と感じない良心の麻痺した時代である。
まず、彼らは「他人は救ったが、自分を救えない。…そうすれば信じよう。」
と嘲る。確かにキリストは、他人を救うために数多くの奇跡を行ったが、自
分を救う為に何一つ奇跡をなさらない。そこに神の愛が明らかにされている。
次に、彼らは「彼はイスラエルの王だ」と皮肉る。確かに主は、イスラエ
ルの王として来られたが、彼らはその方を拒絶し十字架にかけ「その人の血
は、私たち…の上に」と語った。そこからイスラエルの苦難の歴史が始まる。
更に彼らは「十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」と嘲る。
「ユダヤ人はしるしを要求し…」とあるが、彼らは、奇跡を条件に信じると
言う。だが、主は、既に多くの奇跡を行って来た。それでも彼らは信じない。
更に、彼らは「彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら…今、救い
出してもらえ…」と嘲る。それは、ダビデの詩篇 22 篇 8 節の成就であるが、
父は、愛する御子を十字架にかける事で、罪人を贖うご計画と御心があった。
第3に「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエ
スを」罵る。イエスの両側に二人の強盗が十字架についていたが、その一人
は「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」(ルカ 23:39)と嘲る。
彼は、同じ境遇にある神の子に向って、最後まで悪態をついて人生を終わ
る。人は生きて来たように死んで行く。極悪非道の限りを尽くし、最後まで
悔い改める事なく人生を終わる時に、彼には、更に苛酷な運命が待っている。
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No.803 - 10月08日: 「ユダヤ人の王イエス」 マタイの福音書27章27節〜38節
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(みことば)「彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持
たせた。…ひざまずき「ユダヤ人の王様、万歳」と言ってからかった。」
マタイの福音書27章29節
キリストは、総督ピラトのもとでローマ法に従って「十字架による死刑」
の判決が下され、ピラトの官邸から処刑場まで十字架を担いで歩かされる。
「総督の兵士たちは…イエスの周りに全部隊を集めた。」一人の囚人の為
に全部隊を集めるのは物々し過ぎるが、イエスの支持者が奪回するのを警戒
したのなら理解できる。だが、弟子達に、イエスを奪い返す力も気力もない。
主は、武力でローマ軍に対抗しようと思われないが、もし、それを願うな
ら「天の十二軍団よりも多くの御使い」を配下に置く事もできた。それは、
ローマの全部隊の120倍であるが、主は、ただ一人黙って処刑場に向かう。
彼らは、「ユダヤ人の王」であるイエスを侮辱し、王の格好をさせ、「緋色
のマント」を着せた。「緋色のマント」は、皇帝のしるしで、王としての職
務、支配、統治を表す。主は、世の終わりに世界を治める王として来られる。
第2に彼らは、王のしるしである「いばらの冠」をイエスの頭に置く。「冠」
は、王としての栄光の象徴である。王であるキリストに忠誠を尽くす者は、
やがて、「朽ちない冠」「義の冠」「栄光の冠」「いのちの冠」が与えられる。
第3のしるしは、「杖」であるが、彼らは、右手に「葦の棒」を持たせた。
王の杖は、権威と力の象徴であるが、彼らには、イエスが葦の棒のように弱
々しく見えた。だが主は、全世界を創造し、支配する権威と力を持っている。
彼らは、「ひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と…からかった。」「万歳」
とは、本来、万感の喜びを表す日本古来の表現だが、原文も「喜べ。」であ
る。キリストの救いを経験した者は、「キリスト、万歳」と喜びを表したい。
彼らは、「唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。」主は、人々から
最大の侮辱を受けるが、ただ、黙ってそれに耐える。「イエスは、自ら試み
を受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができる」
兵士は、イエスが十字架を負い切れないのを見て、クレネ人シモンにそれ
を負わせる。彼は強制的に十字架を負わされるが、それが彼の人生の転機と
なる。彼の息子「アレキサンデルとルフォス」(マルコ 15:21)は、彼と同様に主の弟子となる。
「ゴルゴダ」即ち「どくろの場所」は、罪人の処刑場であった。誰もが例
外なく、死と刑罰の場所に向かっている。十字架の贖いと罪の赦しを経験し
た者だけが死に向かって希望を持つ。主は、苦き杯を最後まで飲み干される。
「彼らはイエスを十字架につけ…くじを引いて衣を分けた。」彼らは、頭
上の王よりも、足元にある一枚の衣に価値を見出す。「それから…イエスを
見張っていた。」誰も「この方が世界を変える王となる」事を予想しない。
イエスの頭上に「これはユダヤ人の王イエスである」と罪状書き掲げられ
た。この罪状は、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれ全世界の人々が
それを読んだ。今、私達は、この福音を私達の国の言語で読む事ができる。
「イエスと一緒に二人の強盗が…十字架につけられていた」人は犯した罪
の清算をしなければならない。罪の刑罰を受けるはずの者が、バラバのよう
に主の身代わりにより罪を赦され無罪放免となる。それは福音の恵みによる。
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No.802 - 10月01日: 「十字架の血の責任」 マタイの福音書27章11節〜26節
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(みことば)「ピラトは彼らに言った。『では、キリストと呼ばれているイエ
スを私はどのようにしようか。』彼らはみな言った。『十字架につけろ。』」
マタイの福音書27章22節
キリストは、祭司長や民の長老たちの手により総督ピラトに引き渡され、
ローマ法に基づく裁判が開始する。「さて、イエスは総督の前に立たれた。」
キリストが、ユダヤ人以外の世の権力者の前に立つのは初めてであった。
ピラトの在任期間は、歴史の資料により Ad26 年~36 年と判明している。だ
が、主は、この世の権力を持たなかったので、聖書以外に生涯の記録がない。
総督は、イエスに「あなたはユダヤ人の王なのか。」と尋ねる。彼らは、
イエスを政治犯として訴えた。「自分を王キリストだと言っている」(ルカ 23:2)
主は「あなたがそう言っている」と肯定するが、イエスは地上の王ではない。
主は、総督の問いに答えても、彼らには一言も答えになかった。彼らが主
の言葉に聞こうとしないからである。だが、沈黙を続ければ益々不利になる。
「それには総督も非常に驚いた。」総督はイエスを助ける妙案を思い浮かぶ。
「総督は祭りのたびに、群集のために彼らが望む囚人を一人釈放すること
にしてた。」彼は、恩赦の制度を利用してイエスを釈放しようと考えた。「ピ
ラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡しことを知っていたのである。」
彼は、「バラバ・イエスという、名の知れた囚人」を連れて来て、「おまえ
たちはだれを釈放してほしいのか」と群集に問う。群集は一人を釈放する権
利を得た。総督には、ユダヤを旨く統治する為に寛容さを示す下心もあった。
この時、ピラトの妻が裁判に対し「あの正しい人と関わらないで下さい。」
と異例の注文を付ける。彼女は「あの人のことで…夢でたいへん苦しみ目に
あいました」と証言する。主は、彼女の妻を通しても彼に真実を告げられた。
だが、ピラトは、イエスを釈放したいと願いつつも、群集の機嫌を伺い、
判断を彼らに委ねる。だが、祭司長達は「バラバの釈放を要求してイエスを
殺すよう」群集を説得した。彼らは、狡猾な言葉で群衆を取り込み扇動する。
総督は、「どちらを釈放してほしいのか。」と問うが、群衆は「バラバだ。」
と答えた。理性的には、考えられないが、それは、「群集心理」と呼ばれる
現象である。人は、神の言葉に立たないと周囲に流され、誤った判断をする。
ピラトは、群集に「イエスを私はどのようにしようか。」と問うが、彼ら
は「十字架につけろ。」と叫んだ。彼の目論見は見事に外れ、群集は、益々
激しく叫び出す。理性の歯止めの効かない群衆を止める事は誰にもできない。
ピラトは、「かえって暴動になりそうなのを見て…群衆の目の前で」手を
洗う。彼は、群集が暴徒化する事を何より恐れたが、それは彼の政治能力を
問われるからである。彼は、この問題に関係しない事を手を洗う事で示した。
「この人の血について私には責任がない。」だが、この事件に関して、彼
にも責任がある。彼は、真実な方を釈放する事もできたはずである。だが、
もっと大きな責任は、ユダヤの指導者とその言葉に扇動された群集にある。
彼らは、「その人の血は私たちや…子どもらの上に。」と叫ぶ。その証言通
り、彼らの上に苦難の歴史が続く。十字架は、神の救いの摂理であるが、罪
の刑罰でもある。「ピラトは、…バラバを釈放し、イエスは…引き渡した。」
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No.801 - 9月24日: 「悔い改めなき終わり」 マタイの福音書27章1節〜10節 |
(みことば)「そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出
て行って首をつった。」
マタイの福音書27章5節
キリストは、夜明け前に行われた大祭司カヤパの家での尋問において、「神
の子キリストである」事を証言したことにより「死に値する」と宣言される。
「夜が明けると、祭司長たち…は全員で、イエスを死刑にするために協議
した。」通常、議会は70名の議員で構成されるが、全会一致の判決が、必
ずしも真実とは言えない。少数の意見が多数の意見により無視され潰される。
議会は、全会一致の判決で、キリストを「総督ピラトに引き渡した。」彼
らは、主の言葉に従うのではなく、キリストを世俗の権威に引き渡す。父な
る神は、「これは、わたしの愛する子…彼の言うことを聞け。」と命じられた。
「イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って」銀貨30
枚を祭司長達に返しに行った。彼は自分の浅はかな行動を悔やむが、過去は
取り消せない。信仰と祈りと御霊に導かれた人は、こんな愚かな事をしない。
ユダは、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と告白するが、彼
の後悔は、「悔い改め」とは違う。彼は、祭司長達ではなく、キリストのも
とに行ってそれを告白すべきだった。「世の悲しみは、死をもたらします。」
だが、彼らの態度は、非常に冷淡で「われわれの知ったことか。自分で始
末をすることだ」と言い放つ。それは、即ち「自分で自分の責任を取れ」と
言うことだが、罪の責任を自分で刈り取るなら、死を選ぶ以外に方法がない。
「彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」
信仰も希望も失い、自暴自棄になり、虚無的な人生を送っている人がどれ程
いるだろうか。私達は、惨めで悲惨な最期を遂げる事がないように心しよう。
彼らは、ユダが死んだ後、「これは、血の代価だから、神殿の金庫に入れ
るのは許されない。」と判断し、「その金で陶器師の畑を買って、異国人のた
めの墓地にした。このため、その畑は、今日まで地の畑とよばれている。」
使徒の働きは、ユダの背教と呪いの地を「このユダは、不義の報酬で地所
を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて…」(1:18)と記す。それはアハブがイズ
レエル人ナボテの畑を不正に奪い、同じ地で裁きを受けた事と比較している。
人は欲望にまみれた罪の地で長く生きる事は出来ない。マタイはそれをエ
レミヤの預言の成就として「彼らは銀貨30枚を取った。イスラエルの子ら
に値積もりされた人の値である。…彼らは…陶器師の畑を買った。」と語る。
それは、ゼカリヤ書と深く関係するが、羊飼いである預言者は羊の商人に
契約破棄の代金として「銀貨30シェケルを量った。」彼は、それを「主の
宮の陶器師に投げ与えた。」(11:13)とあり、その預言は、主の上に実現する。
それは、エレミヤが語る陶器師の譬えと関係する。陶器師がろくろで器を
作るが、「彼の手の中で壊されたが…陶器師自身の気に入るほかの器に造り
替えられた。」(18:14)同様に、神の民は、幸いも災いも神の御手の中にある。
主は、エレミヤに「土の焼き物の瓶を買い…陶片の門の入口にあるベン・
ヒノムの谷に出かけ…瓶を砕く」(19:1)ように命じる。そこはゲヘナ地獄を
象徴している。神に逆らい呪われた地で裁きを受ける事がないように歩もう。
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No.800 - 9月17日: 「信仰が試される時」 マタイの福音書26章69節〜75節 |
(みことば)「そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知
らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。」
マタイの福音書26章75節
ペテロは、キリストが大祭司の家で祭司長や最高法院から尋問を受けてい
る間、「大祭司の中庭まで…入り、成り行きを見ようと下役たちと…座った。」
ペテロは、大祭司の中庭において3度「キリストを知らない」と否定する。
彼は、キリストから3年間の薫陶を受けた12弟子の筆頭であったが、キリ
ストの受難の時に、信仰を試され、キリストを否定すると言う失態を演じる。
主は、オリーブ山で弟子達に「みな、今夜わたしにつまづく」と語った。
だが、ペテロは、「私は決してつまづきません」と答えたが、主は、彼に「あ
なたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」と予告された。
彼は、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と主の言葉を否定
したが、実際は、主の語った通りになり、試練の時に躓いてしまう。弟子達
は、ゲッセマネで主と共に祈っている事ができず、眠り込んでしまっていた。
人が誘惑に陥る時、何らかの霊的な要因がある。ダビデは、姦淫の罪を犯
した時、家来と一緒に出陣せず、宮殿で休んでいた。信仰が崩れる時、「礼
拝に遅れ、休みがちになり、主の交わりに参加しない」等の兆候が現れる。
弟子達は、イエスが捕えられた時、「イエスを見捨てて逃げて」しまった。
ペテロは、その時、剣を取って大祭司のしもべに切りかかったが、主は、敵
と戦う為にゲッセマネで祈った訳ではない。彼らは霊的な備えに欠けていた。
人は、「誇り・自信・栄誉」等の護身の為の武装をするが、我々は、「真理の
帯・正義の胸当て・平和の福音・信仰の大盾・御霊の剣等、神の武具を備えよう。
ペテロは、イエスと同様に大祭司の家に居るが立っている場所が違う。イ
エスは尋問され、侮辱されるが、彼はそうではない。それは、彼が自分の立
場を表明しないからである。逆に、それは、中途半端で不安定な状態である。
そこへ、召使いの女が近づき「あなたも…イエスと一緒にいましたね」と
問う。内心ビクビクしていた彼は、女の問に過剰に反応し、皆の前で否定し、
「何を言っているのか…分からない。」と「イエスとの関係性」を否定した。
彼は、その言葉に怯え「入り口まで出て行く」が、再び別の女が「この人
は…イエスと一緒にいました」と証言する。彼は、誓って「そんな人は知ら
ない」と再度否定した。彼は、キリストの人格や存在を否定した事になる。
「そんな人は知らない。」と言うなら、彼は、「何の為にガリラヤから出て
来たのか」「何の為に漁師を辞めて弟子となったのか」それは、自分の人生
の目的や使命や意味を失うに等しい。「もし、生きるなら主のために生き…」
最後に、人々は、確信に満ちて「あなたもあの人たちの仲間だ。ことばの
なまりで分かる」と言った。強いガリラヤなまりは、消す事が出来ない。だ
が、それを恥じる必要はない。それを恥じ事は、キリストを恥じる事である。
彼は、呪いをかけ「そんな人は知らない」と誓った。「すると、すぐに鶏
が鳴いた。」彼は、それによりイエスの言葉を思い出し、外に出て行って激
しく泣いた。彼は、その失敗を通して自分の弱さを知り、自信と誇りを失う。
だが、それは彼にとって「キリストの弟子となる」為に必要な経験であった。
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No.799 - 9月10日: 「キリストの裁判と証言」 マタイの福音書26章57節〜68節 |
(みことば)「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、 そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」 マタイの福音書26章64節
キリストは、ゲッセマネで、ユダの手引きによって祭司長達から差し向け
られた群衆に捕らえられ、大祭司カヤパの邸宅に連行され、尋問を受ける。
それは、夜明け前であったが、彼らが事を急いだのは、過越の祭りの安息
日の前にキリストと決着を付けたかったからである。ペテロは、イエスが尋
問されている間、大祭司の中庭まで行き事の成り行きを見ようと座っていた。
彼らは、「イエスを死刑にするために…不利な偽証を得ようとした。」裁判
は、何よりも公平でなければならないが、彼らには、初めから「死刑にした
い」と言う意図がある。人を裁く時、偏見や憶測や推論があってはならない。
彼らが「イエスに不利な偽証」をする事も不当である。「偽りの証言をし
てはならない。」彼らは、その神の定めを知りながら、自分の欲望を成し遂
げようとする。彼らは、神の言葉によって自らの過ちと欲望を自制できない。
「多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。」この世は、平然
と偽りを言い人を騙す者もいる。偽りの世にあって罪のない方は、キリスト
だけである。私達は、傷も汚れもないキリストの尊い血によって贖われた。
最後に二人の人が「この人は『神殿を壊して…三日で建て直す』と言った」
と証言する。彼らは、イエスの人格や行為ではなく、宗教的表現を訴えるが、
イエスは、ご自分のからだを神殿にたとえ、十字架と復活を預言的に語った。
彼らは、主の言葉を文字通りに解釈し、神と神殿への冒涜と受け留めた。
世の人は、目に見えるものしか信じない。神は、人間の為に罪の贖いと赦し、
神との交わりの場所として神殿を設けた。キリストこそ、神の神殿である。
イエスは、その訴えに何一つ反論も弁明もせず、ただ黙っていた。大祭司
は、「何も答えないのか。…どういうことか。」と苛立つ。私達は、自分が間
違っていても自己弁護するが、主は、自分を守る弁明の権利さえ放棄される。
神は、人が真剣に救いを求めるなら、沈黙なさる事はない。だが、大祭司
のように神の言葉を聞こうとしないなら何も答えない。彼は、更に苛立ち「生
ける神によって…命じる。おまえは神の子キリストなのか。」と威圧する。
彼の尋問は、もしキリストが神の子なら、神に打たれても仕方がない不敬
虔な言葉であった。主は、彼に「あなたが言ったとおり」とそれを肯定され
た。主の言葉は、メシヤを待望していたユダヤ人にとって大きな意味を持つ。
だが、主は、それ以上に「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の
右の座に着き…来るのを見る」と栄光の主の再臨を預言する。イエスを死刑
にしたいと考えた彼らにとって、それは、神への冒涜以外の何物でもない。
彼は、「これ以上証人が必要か。…神を冒涜することばを聞いた」と宣言
し、他の議員に「どう思うか」と尋ね、彼らも「死に値する」と答えた。彼
らは自分自身で神とキリストを拒絶した。この世は神を否定する世界である。
人が神を拒否するなら「偶然」と言う「絶望」と「人生に意味はない」と
いう「虚無」しか残らない。人々は「イエスの顔に唾をかけ、拳で殴り…言
い当ててみろ」と嘲るが、やがて、彼らは、審判者の前でどう弁明するのか。
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No.798 - 9月3日: 「暗闇の力と神の支配」 マタイの福音書26章47節〜56節 |
(みことば)「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、
今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」
マタイの福音書26章53節
イエスは、ゲッセマネの祈りを終え、いよいよ生涯のクライマックス「十
字架の贖いの死」に向われるが、まず、それは、キリストの逮捕から始まる。
その事件は「イエスがまだ話しておられるうちに」起こる。ゲッセマネの
祈りは、神の御心である「十字架の死に従う」為の心の備えであった。主は、
霊的な格闘と祈りの中で備えたが、弟子達は、目を覚ましていられなかった。
「見よ、十二人の一人のユダがやって来た。…」イエスは、危機が迫って
いる事を知っていたが、弟子達にはそれが分らない。群衆を手引きしたユダ
は、もはや、神の側ではなく、悪魔の側に立ち、闇の力の手先となっていた。
彼は、イエスに敵対する側に立つが、「キリストに対してどのような態度
を取るか」によって、「神の子」か、「悪魔の子」か、はっきりと分れる。終
わりの日に、神と悪魔との対決が起こるが、玉虫色の曖昧な態度は取れない。
その時、弟子達の信仰も試される。ペテロは、大祭司の中庭で曖昧な態度
を取るが、悪魔は、彼の弱さに付け入り、彼は誘惑にずるずる引きずられる。
ユダは「イエスを裏切ろうとしていた者」と言う拭い切れない汚名を着る。
彼がイエスを裏切る事で得た物は、祭司長を背景とする「剣と棒を手にし
た大勢の群衆」であった。彼は、権力者の側に付く方が得策と考えたのだろ
う。キリストは世の権力も武器も持たないが、全能の神の御力を持っている。
ユダは、口づけを裏切りの合図と決めていた。口づけは、友を愛する愛の
行為であるが、彼も、以前はキリストを愛していた。だが、この時の彼の行
為は、愛のない偽善に過ぎない。悪魔に支配された人は平然とそれができる。
「先生、こんばんは」とは、「喜びがあるように」との挨拶だが、「イエス
を裏切ろとしていた」ユダに喜びはない。主は、彼に「あなたのしようとし
ていることをしなさい」と言われた。もはや彼の愚行を止める事はできない。
「イエスを手にかけて捕らえた。」それは、「キリストの敗北」と「悪の勝
利」のように思えるが、そうではない。神は、人の悪の行為を善への計らい
とし、神の救いの御業を完成される。だが、人の悪には、悪の報いが伴う。
その時、キリストの弟子が反撃し、剣で大祭司のしもべの耳を切り落とす。
だが、主は、彼の行為を諫め「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣
で滅びる」と警告する。敵意は、争いや憎しみを増すが、愛は、人を癒す。
もし、主が願うなら十に軍団より多くの御使いを配下に置くことができる。
主の言葉を信じるなら、恐れるものは何もない。ユダは、主の多くの奇跡を
見ながら、主の何を信じていたのか。お金や権力は、何の力にもならない。
「それでは、こうならなければならないと書いてある…」聖書の言葉は、
「必ず、そうなる」と断言できる。それは神の言葉だからである。主は、「毎
日、宮で座って」教えていたが、彼らは、イエスを捕える事ができなかった。
それは、主が罪のない真実な方だからである。主に関する預言は、全て成
就する。弟子達が「イエスを見捨てて逃げて」しまうのも、然りであった。
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No.797 - 8月27日: 「ゲッセマネの祈り」 マタイの福音書26章36節〜46節 |
(みことば)「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあま
り死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
マタイの福音書26章38節
主は、ゲッセマネという所に来たが、そこは弟子達との交わりと祈りの場
であった。ゲッセマネは「油搾り」と言う意味のオリーブが茂る園であった。
主は、「いつものように…いつもの場所」(ルカ 22:39)で祈りの時を持つ。「ユ
ダもその場所を知っていた。」(ヨハネ 18:2)同じ場所で祈りを献げる敬虔な人
は多い。教会は、聖徒達がいつも変らずに祈りと礼拝を献げる場所である。
ゲッセマネのような祈りの場所は、信仰生活に欠かせない。祈りを疎かに
する人は、油の切れた車のようだ。性能の良い車も油が切れれば動かない。
教会の祈りと交わり、それは、「頭に注がれた尊い油のようだ。」(詩篇 133:2)
主は、「祈っている間、ここに座っていなさい」と弟子達と距離を置く。
それはペテロとゼベダイの子二人も同様である。祈りは神との一対一の交わ
りで、誰もそこに入り込めない。神に向かう祈りは、多くの問題を解決する。
主は、祈りの中で「悲しみもだえ始められた。」主の苦悩は、人が経験す
るものと次元が違う。それは、人類の罪を贖う為に神の御子が人となられた
事による苦悩である。その心の苦悩の絶頂はゲッセマネの祈りの時であった。
主は、弟子達に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と告げる。それ
は、主の霊的な苦悩を意味するが、これまでのどの悲しみとは比較にならな
い。主は、「わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」と祈りの支援を求める。
主は、3回に分けて祈るが、その祈りは、まさに格闘のようであった。そ
の第1回目は、「この杯を…過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望む
ようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈られる。
「この杯」とは、人類の罪の為の十字架の刑罰と苦悩を意味する。「でき
ることなら」とは、人間的な願望を表わし、できれば、飲まずに済むことを
願った。だが主は、自分の願いではなく、主の御心が成るように委ねて祈る。
主が弟子達のもとに戻って来ると、彼らは眠っていた。弟子達は、イエス
が抱く死ぬほどの悲しみを共有できない。それは、彼らの肉的な弱さである。
「誘惑に陥らないように、目を覚まして…霊は燃えていても肉は弱いのです。」
人のいのちは、霊と肉によって構成される。霊は、信仰や意志を支える霊
的な部分であるが、肉的な弱さを含んだ人間的部分である。人は霊と肉の狭
間で生きている。だから誘惑に陥らない為に、目を覚まして祈る必要がある。
主は、2度目の祈りで、「この杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみ
こころがなりますように」と祈る。主は、祈り中で「十字架の苦しみ」が避
けられない神の定めである事を悟り、父の御心に従う覚悟と決意をされる。
主が、再び弟子の所に戻ると彼らは眠っていた。「まぶたが重くなってい
たのである。」彼らが試練の時に立てない理由はここにある。「帰って来た主
人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。」(ルカ 12:37)
主は、「彼らを残して再び…もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。」
繰返して祈ることは、意味のないことではない。主は、エレヤの3度目の祈
りを聞かれ、ダニエルは、日に三度目の祈りを献げた。「絶えず祈りなさい。」
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No.796 - 8月20日: 「新しい契約の血」 マタイの福音書26章26節〜35節 |
(みことば)「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わた
しの契約の血です。」
マタイの福音書26章15節
主は、過越の食事の席で、弟子達に「裏切る者がいる」と告げ、ユダは「ま
さか私ではないでしょう」と答えるが、主は、「いや、そうだ。」と言われた。
恐らく、ユダは、その直後に食事の席を立ち、金を貰った祭司長達の所へ
向かったと思われる。主は、ユダのいなくなったその交わりにおいて、この
「過越しの食事」の特別な意味、即ち「新しい契約」についてお語りになる。
イスラエルの家では、伝統的に家長が過越しの出来事や意味を子供に伝え
たが、主は、弟子達にエジプトの出来事ではなく、過越しの新しい意味を語
る。その過越しの食事は、キリストの流す血による新しい契約を意味する。
「イエスはパンを取り…これを裂き…」過越の食事は種なしパンを用いた
が、それは罪の入らない交わりを意味する。イエスを裏切るユダは、既にい
ない。主は「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」と言われた。
パンは、キリストのからだを象徴する。従って、主の晩餐のパンは、特別
な意味を持ち、それは、私達の罪の為に裂かれる御子のからだを表わす。パ
ンを取るとは、主の晩餐に預かる事で、主の言葉に従う者にその資格がある。
「また杯を取り、感謝をささげて後…」杯は、「契約の血」とあるように、
それは、イエスが十字架上で流す血を表わす。それは「多くの人の罪の赦し」
に関係する。主の杯に預かる者は、御子の血による赦しを受けた者である。
「みな、この杯から飲みなさい。」この杯とは、単数で一つの杯を指すが、
それは、主の共同体の一体性を示す。主の晩餐は、軽々しく預るものではな
く、それは、主の救いの実質を表し、主のからだと一体となる事を意味する。
その交わりの根底には「キリストの贖い」と「罪の赦し」である。それを
正しく理解しないとユダのように聖なる交わりから簡単に離れて行く。主の
からだとは、教会のことであり、救いは、教会の交わりの中で具体化される。
主は、「今から後…飲むことは決してありません。」と語るが、「新しく飲
むその日」とは、天の御国での祝宴を指す。彼らは、その日まで地上で主と
食卓を共にする事はない。それは、主との別れと十字架の死を暗示するが、
救いに預かる者は地上を去っても、天の御国で「新しく飲むその日」が来る。
主の晩餐の後に「彼らは…オリーブ山へ出かけた」が、主は、弟子達が「み
な、今夜わたしにつまづく」と語った。主の言葉は弟子達に衝撃であった。
様々な理由があるにせよ、彼らは人にではなく、主に対して躓いたのである。
「わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる。」羊飼いであ
る主が打たれると羊は散らされる。それは救いが成就する為であり、弟子達
を試す為である。「わたしは…銀を練るように彼らを練り…試す。」(ゼカ 13:9)
主は、試みの中でも彼らを見捨てない。「よみがえった後…ガリラヤへ行
きます。」彼らは躓いた後で召された原点に帰る必要がある。その時ペテロ
は、主に「皆がつまづいても、私はつまづきません」と自信をもって答えた。
彼の自信と自惚れは砕かれる必要があった。「あなたは今夜、鶏が鳴く前
に三度わたしを知らないと言います。」彼は、自分の本当の弱さを知らない。
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No.795 - 8月13日: 「「ユダの裏切りと最後の晩餐」 マタイの福音書26章14節〜25節 |
(みことば)「『私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡し
ましょう。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」
マタイの福音書26章15節
この箇所は、イスカリオテのユダがキリストを裏切る事件と「過越の食事」
即ち、キリストと弟子達の「最後の晩餐」が折り重なるように語られている。
ユダは、祭司長達の所へ行ってイエスを引き渡す密談をする。時系列的に
それは、祭司長達が「イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談した」事に続く。
ユダの来訪と申し出は、彼らとって願ってもない好都合な出来事であった。
ユダは、彼らに「私に何をくれますか」とイエスを引き渡す交換条件を提
示する。イエスを売り渡す対価として「何をくれるか」とは、かなり下劣で
浅ましい要求である。それを意識する事なしに行える所に罪の怖さがある。
ルカは、ユダの愚かな行為の原因として「ユダにサタンが入った」と記し、
ヨハネは、彼が金入れから「盗んでいた」と記す。主に仕える身でありなが
ら常習的に罪を犯し続け、それを悔い改めない心の隙にサタンが入り込む。
祭司長達は、見返りに「銀貨三十枚を彼に支払った。」それは奴隷一人の
値段であったが、三百デナリの香油の半額に満たない。ユダは、それを前金
で受け取る事で、後戻り出来なくなる。お金に支配された人は哀れである。
これ以降、「ユダは、イエスを引き渡す機会を狙っていた。」彼は銀貨30
枚を受け取り満足したのだろうか。それが正統な報酬ならまだしも、不正な
報酬で豪遊しても魂は空しい。悪魔は人を滅びに引き渡す機会を狙っている。
イエスと弟子達の「過越の食事」即ち「最後の晩餐」の時が迫っていた。
弟子達は、それがキリストとの最後の食事になるとは想像もしていない。寧
ろ、彼らは混雑する都で「過越の食事をどこで用意すべきか」心配していた。
主は、弟子達の心配をよそに食事の部屋を確保していた。「都に入り、こ
れこれの人のところに…」それが誰で、主はいつその人と話をしたのか分か
らない。それは主の超自然的な計らいによる。明日の事は心配しなくてよい。
「わたしの時は近づいた。」とは十字架の時であり、過越の祭りに屠られ
る小羊の贖いの血が流される時である。それは、神が人類に永遠の救いを成
し遂げる歴史的な時であり、それは、人が救いと滅びに分れる分水嶺となる。
「夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。」それは木曜
日の夕方の事であるが、そこには、ユダも平然と同席していた。主の晩餐の
際「自分自身を吟味して…パンを食べ、杯を飲みなさい。」と忠告している。
主は、その席上「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と衝撃
の告白をする。彼らは、「主よ、まさか私ではないでしょう。」と言い始めた。
弟子の中で、誰も「私は大丈夫。主を裏切らない。」と言える人はいない。
誰もが誘惑に陥る弱さと罪を持っている。主は、「わたしと一緒に手を鉢
に浸した者が…裏切ります」と告げ、信頼していた友が裏切る事を暗示する。
主は、彼について「人の子を裏切るその人はわざわいです。…生まれて来
なければよかった」と嘆く。十字架が神の定めであるにしても、誘惑に負け、
自らの意志で主を裏切るような人は災いである。彼は、他の弟子と同様「ま
さか私ではないでしょう」と白を切るが、主は「いや、そうだ。」と答える。
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No.794 - 8月6日: 「主の葬りの備え」 マタイの福音書26章1節〜13節 |
(みことば)「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、
…そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」
マタイの福音書26章7節
キリストは、これまで「神の国」や「世の終わり」について語って来たが、
いよいよ、ここからイエスの生涯の最後「十字架の道」(受難)へと進む。
「二日たつと過越の祭りになり…人の子は十字架につけられるために引き
渡されます。」過越は、ユダヤ人にとって罪の贖いの為の最も重要な祭りで
あった。キリストの受難が過越の祭りとの関連で初めて弟子達に告げられる。
主の受難に際し、第1に起こる出来事は、祭司長たちが「大祭司の邸宅に
集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談をした。」事である。祭司
長は、7千人の祭司階級を束ね、神殿の管理運営に関する権限を握っていた。
その頂点に立つのは大祭司カヤパであり、彼らは、カヤパの邸宅に集まり、
イエスの殺害計画を立てる。彼らの動機は、キリストが勢力を持つ事への警
戒と嫉妬である。だが権力者は、自分の利害や感情で人を裁くべきではない。
彼らの欠点は、神聖な神への畏れと健全な倫理感覚に乏しい事である。彼
らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と考
えた。だが、その意に反して、キリストは、祭りの間に十字架にかけられる。
即ち、それは、彼らの計画通りに成ったのではなく、神の永遠の計画が十
字架によって成就したのである。全ての出来事は、「神が定めた計画と神の
予知によって」神の栄光へと進んで行く。主の御前に、高ぶらないで謙ろう。
イエスの殺害計画が進む中で、ベタニヤでなされた麗しいエピソードが語
られる。それは「ツァラアトに冒された人シモンの家」での出来事であった。
ツァラアトは死の病であったが、シモンの家は、キリストによって「いの
ちの家」となる。「過越」は、子羊の血を門柱に塗った家に死の災いが入ら
ない神の御業に起源がある。イエスは「世の罪を取り除く神の子羊」である。
「ある女の人」とは、ヨハネ伝でベタニヤのマリヤと記す。彼女は、「非
常に高価な香油」を惜しげもなくイエスの頭に注ぐ。マルコ伝で弟子達はそ
れを「三百デナリ以上」と見積もるが、彼女は大胆にそれを一度で使い切る。
それは、彼女のイエスへの献身と愛の表われである。惜みなく献げた香油
は、イエスの死を目前にした最も麗しい行為と言える。だが、弟子達は、こ
れを見て憤慨し、「何のために、こんな無駄なことをするのか。」と非難した。
「憤慨する」は「腹を立てる」の意味だが、それは、彼らの肉の感情に過
ぎず、彼らが憤慨すべき事でもない。彼女自身の物をどう使うか、彼女の自
由である。「貧しい人たちに施すべき」との正論も、貪欲の口実に過ぎない。
主は、「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれま
した」と弁護する。彼女の純粋な献身は、天の御国で無駄にならず、記念と
して語られる。貧しい人への施しは良い事だが、今しかできない事がある。
「わたしはいつも一緒にいるわけではありません。…わたしを埋葬する備
えをしてくれた」主の死は二日後に迫っていた。弟子達はその備えがなかっ
たが、彼女は、純粋な献身を通して、無意識の中で、主の葬りの備えをした。
一途な献身の行為は「世界中どこでも…この人の記念として語られる。」
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No.793 - 7月30日: 「最後の審判の時」 マタイの福音書25章31節〜46節 |
(みことば)「人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをよ
り分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」
マタイの福音書25章32節
終末に関する譬えの最後は、「主の再臨の後にどの様な事が起こるか」と
言う究極の出来事、即ち「神による審判」を「羊飼いと羊とやぎ」に譬える。
「人の子は、…その栄光の座に着きます」キリストは、再臨の後で全世界
の王となり、彼に一切の裁きの権威が与えられる。その時「すべての国の人
々が…御前に集められ」「善であれ悪であれ…行いに応じて」報いを受ける。
王は、「羊飼いが羊をやぎから分けるように…羊を自分の右に、やぎを左
に」置く。羊とやぎの外見は良く似ているが、羊は、温厚で従順だが、やぎ
は、好奇が心旺盛で奔放である。羊飼いと羊は、神と神の民に譬えられる。
羊飼いは、昼間に羊とやぎを一緒に飼っても、夜には両者を2つに分ける。
王の右にいる者たちは、「父に祝福された…御国を受け継ぐ」人々であり、
王の左にいる者たちは、「のろわれた者」で、「永遠の火」の刑罰を受ける。
それは、終わりの日の神の審判を表わすが、父に祝福された人々は、キリ
ストの贖いと罪の赦しにより、その日に神の裁き受ける事がない。「こうし
て、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい者たちは永遠のいのちに入る」
そこで、御国を受け継ぐ民に対する、神の審判の規準は、「食べ物を与え」
「飲ませ」「宿を貸し」「服を着せ」「見舞い」「訪ねる」6つの善行による。
その全ては、「わたしが…」とあるように、キリストに対する善行であった。
勿論、善行が御国を受け継ぐ根拠となるのではなく、救いは、ただ、キリ
ストの贖いと信仰によるが、信仰によって御国の民とされた者は、主に喜ば
れる生き方をするはずである。信仰と善行を切り離して考える事はできない。
御国の民が為す善行は、主に対するものであり、主を意識した行動をすべ
きである。我々は、敬虔と恐れをもって主を礼拝し、日々の生活を送ろう。
「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心からしなさい。」
だが、彼らは、自分達が善行を為した意識がなく、逆に「主よ。いつ私た
ちはあなたが空腹なのを見て…でしょうか」と尋ねる。彼らは、無意識の内
に主に喜ばれる事を為している。それは主の為に生き者の自然な行為である。
「これらのわたしの兄弟たち…にしたことは、わたしにした…」「わたし
の兄弟」とは、御国の民、神の家族、教会の兄弟と言える。勿論、善行は全
ての人が対象であるが、「特に信仰の家族に善を行う」よう勧められている。
キリストと神の民である教会は、切り離せない一つのからだである。「私
は、キリストのからだ、すなわち教会の為に…キリストの苦しみの欠けたと
ころを満たしている」神は主と教会の為に為した善行を天で覚えておられる。
王は、それと対象的に王の左に置かれた人々の行為を責める。「おまえた
ちはわたしが空腹であったときに…」彼らは、王が苦難の中にいる時にも、
何一つ助けなかった。彼らは、王に「主よ。いつ私たちは…」と反論する。
王は、正しい人達とは反対に「おまえたちが…しなかったのは、わたしに
しなかったのだ。」と宣告する。彼らは御国の民の為に何一つ善を行わない。
彼らがこの世でどんなに善行や業績を残しても、御国を受け継ぐに値しない。
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No.792 - 7月23日: 「タラントを生かして用いる」 マタイの福音書25章14節〜30節 |
(みことば)「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠
実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
マタイの福音書25章21節
キリストは、弟子達に「タラントのたとえ」を語るが、それは、「御国の
民がキリストの再臨の時まで、どのような生き方をすべきか」を教えている。
「天の御国は…しもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。」主人は
キリストを指し、しもべはキリストに従う弟子を指す。主人は、しもべ達に
財産を預けるが、どのように用いるか、裁量権は全てしもべ達に委ねられる。
主人は、「それぞれ能力に応じて、一人に五タラント…を渡して旅に出か
けた。」主人は、しもべの個性や能力を良く知り、その人に応じてタラント
を与える。タラントの多少を比較し、自己卑下したり、高ぶるべきではない。
主は、誰にでも必要な分の賜物を与えておられる。その賜物を生かして用
いる事が大切である。「御霊は、みこころのままに一人ひとりそれぞれに賜
物を分け与えてくださる」それぞれ個性や能力の違いがあって、当然である。
1タラントは6千万円程の価値があり、主人は、相当な金額をしもべに委
ねた。芸能人をタレントと呼ぶが、それは、英語の talent 才能に由来する。
才能は、努力や訓練によって伸び、それを持っているだけでは意味がない。
「五タラント預かった者は…商売をし、ほかに五タラントをもうけた。」
彼は与えられた資産を元に商売し、資産を倍に増やす。そこには、しもべの
弛まぬ努力があったはずである。その動機は、主人に褒められる為であった。
タラントの違いはあるが、二タラントのしもべも、商売をして資産を倍に
増やす。だが、一タラントのしもべは「地面に穴を掘り、主人の金を隠した。」
彼がそうするのは、資産を失う事を恐れたからであるが、それを隠したら、
失うリスクはないが、それを用いる事も出来ない。キリスト者はその存在を
隠すべきではない。「あなたがたは世の光です。…隠れることができません。」
「かなり時がたってから…主人が帰って来て彼らと清算した。」私達は、
主の再臨の時に、主に対して人生を清算する時がやって来る。「私たちは、
何もこの世に持って来なかったし、…何かを持って出ることもできません。」
「すると、五タラント預かった者が進み出て…もうけました。」彼は主人
の資産を倍にした成果を報告する。「差し出す」は「献げる」の意味で献身
を表わす。主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ」と最大の賛辞を贈る。
主人は、「お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。」と
報いを約束する。主人から見れば僅かだが、しもべには相当な額である。主
は、忠実な者に天の御国の資産を与える。二タラントのしもべも同様である。
だが、最後のしもべは、他の二人と主人の認識において違っていた。「あ
なた様は撒かなかったところから刈り取り…」彼は主人が理不尽で厳しい方
と考えたが、彼にも一タラント与えられていたので、その非難は当たらない。
彼は、何もしない言い訳をする。或いは、主人を怖いと思うから何もしよ
うとしない。「悪い、怠け者のしもべだ。」主を愛する者は、主の為に何かを
したいと考える。御国の真理は、「持っている者は与えれて、もっと豊かに
なり、持っていない者は持っている物までも取り上げられる」ことである。
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No.791 - 7月16日: 「賢い娘と愚かな娘」 マタイの福音書25章1節〜13節 |
(みことば)「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎え
に出る、十人の娘にたとえることができます。」
マタイの福音書25章1節
主は、第2の譬えで「ともしびを持って花婿を迎える十人の娘」の話しを
され、「目を覚ましていなさい。」とある様に、主の再臨に備える事を教える。
主は天の御国を「花婿を迎える十人の娘」に譬えるが、花婿はキリストを、
十人の娘は、花嫁に付き添う娘たち、即ちキリストの花嫁である教会を指す。
「清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させ…」(Uコリ 11:2)
だが、十人の娘のうちで、「五人は愚かで、五人は賢かった。」その違いは、
ともしびと一緒に油を用意していたか、かどうかである。愚かな娘たちは、
「油を持っていなかった」が、賢い娘たちは、「入れ物に油を入れていた。」
「ともしび」はランプの事で、陶器の入れ物の口から芯を出して明かりを
灯す。そのともしびとは「キリスト者の救いの輝き」と言える。「あなたが
たは世の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」(マタイ 5:14)
十人の娘が、もしびを持つように、キリスト者は、誰もが救いのともしび
を持っている。十人の娘は、みな花婿を迎えようと待っていたが、「花婿の
来るのが遅く」なる。主の再臨が遅くなる時に、信仰の違いが明らかになる。
「娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。」賢い娘も含めて全員が寝込
んでしまう。敬虔な者でも体が疲れて寝込んでしまう事がある。気を張って
いても緊張の糸が切れる時もある。それは、弱さを持つ者に止むを得ない。
「ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい。』と叫ぶ声が
した。」花婿の到着が遅れたが、彼女達が待ちに待った花婿が来た。主の再
臨は、確実にやって来る。だから希望を失う事なく、待ち続けるべきである。
その時、愚かな娘と賢い娘の違いが明瞭になる。愚かな娘達は、賢い娘達
に「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。」
と言った。彼女達は、油を持っていなかったので花婿を迎える事ができない。
賢い娘は、「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って
自分の分を買ってください。」と答えた。彼女達は油を分けて上げる愛が足
りないのではない。それは「自分のともしび」であり、他人と共有できない。
神から与えられた救いのともしびは、自分自身が管理しなければならない。
それを輝かせるかどうかは、その人の信仰の問題であり、神との関係におい
て築かれ、保たれなければならない。他の人はそこに介入する事ができない。
「その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは彼と一緒に祝宴に入り
…」愚かな娘達は、油を買いに行っている間に「戸が閉じられた。」彼女達
は、「ご主人様、開けてください」と叫ぶが、婚礼の扉は、二度と開かない。
同じ様にともしびを持ち、花婿を待ちながら、祝宴に入る者と締め出され
る者がいる。それは油を備えているか否かの違いである。信仰の光を輝かせ
る油とは御言葉の学び、礼拝、祈りと言える。それを欠いて信仰は続かない。
「みことばの乳を慕い求めなさい。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせ
よ。」「絶えず祈りなさい。」賢さと愚かさの違いは、この油を備えているか
どうかである。「目を覚ましていなさい。…その時を…知らないのですから。」
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No.790 - 7月9日: 「忠実で賢いしもべ」 マタイの福音書24章45節〜51節 |
(みことば)「主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に
彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。」
マタイの福音書24章45節
主は、終末の預言の最後に、「主人の家の管理を任されたしもべ」の譬え
を通して、主の再臨の時まで、委ねられた働きを忠実に果たす責任を教える。
キリストは、弟子達に「忠実で賢いしもべはだれでしょう。」と問いかけ
るが、それは、今日の私達への問いかけであり、疑問形で「だれでしょう」
と問うが、それは、寧ろ「忠実で賢いしもべになるように」との勧めである。
「忠実で賢いしもべ」とは「主人によってその家のしもべたちの上に任命
され…食事を与える」人である。主は「目を覚まし、用心していなさい」と
命じたが、それは具体的に「主から任された働きを忠実に果たす」事である。
神を信じる者は、みな神のしもべであるので、家の管理者として「任命さ
れたしもべ」も特別な階層の人ではなく、全てのキリスト者への命令と言え
る。全てのキリスト者は、神から委ねられた働きを忠実に果たす責任がある。
第1に、キリスト者には、忠実さが求められる。タラントの譬えでも、主
人は「良い忠実なしもべだ」と誉め、パウロも「管理者には忠実であること
が要求される」と語る。私達は、与えられた奉仕を忠実に果たすべきである。
任命されたしもべは、「食事時に彼らに食事を与える」働きを与えられて
いるが、悪いしもべは、仲間に食事を与えず、自分が飲み食いする。だが、
忠実なしもべは、自分の飲み食いより、家のしもべの食事と健康に心を配る。
第2に「忠実で賢い」とあるが、キリスト者には、賢さが求められる。賢
さは、頭の良さではなく「花婿を迎える10人の娘」の譬えで「5人は愚か
で、5人は賢かった」とある様に、それは生きる上での賢明な知恵と言える。
「忠実で賢いしもべ」とは、「主人が帰って来たときに、そのようにして
いるのを見てもらえるしもべ」であり、その人こそ幸いである。その評価は、
主人が帰って来た時に明らかになる。即ち、それは、主の再臨を意味する。
しもべには、いつ主人が戻るか分からない。主人が家にいれば、忠実に仕
えるが、家にいなければ、その働きがいい加減になり易い。悪いしもべは、
いつの間にか、仲間のしもべに対し横暴に振る舞い、自堕落な歩みをする。
そのような失敗の事例は、この世の中に沢山ある。キリスト者は目を覚ま
し、用心して、主がいつ来られても良い備えをすべきである。主人は、忠実
なしもべに、タラントの譬えと同様に「自分の全財産を任せる」ようになる。
人生において何事かを成す人は、ヨセフの成功の例に見る様に、まず、小
さな事に忠実であり、主は、そのように神と人に誠実に生きる人の生き方を
見ており、彼に、更に大きな事を委ね、やがて、天の御国を任せる様になる。
悪いしもべは、「主人の帰りは遅くなる」と心の中で思う所に誘惑と隙が
生じる。彼は、「酒飲みたちと食べたり飲んだりして」いたが、それは、ノ
アの時代の人々と同様に、「食べたり飲んだり」してい時に突然滅びが襲う。
彼の愚かさは、主人と家のしもべの為ではなく、自分の為に快楽に耽る生
き方をする事にある。「主人は、予期していない日、思いがけない時に」帰
って来る。その時に「泣いて歯ぎしりする」ことのないように気を付けよう。
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No.789 - 7月2日: 「目を覚ましていなさい。」 マタイの福音書24章32節〜44節
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(みことば)「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人
の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」
マタイの福音書24章33節
キリストは、これまで、エルサレムの神殿の崩壊に関連して、世の終わり
の兆候と反キリストの到来、それに主の再臨に伴う天のしるしを語って来た。
主は、終末の預言を語った後で「いちじくの木から教訓を学びなさい。」
と語る。イスラエルに自生する常緑樹の中で、いちじくの木は、冬に葉を落
とす落葉樹で、6月に葉が茂り夏に実を結ぶ。「夏の近いことが分ります。」
いちじくの木を見れば、夏の収穫の時期が分かるように「これらすべてを
見たら…近づいていることを知りなさい。」主は、以前、実を結ばないいち
じくの木を枯らせたが、それはイスラエルの象徴であり、それも教訓である。
イスラエルは、主がいちじくの木を枯らされたように、紀元70年に神殿
が崩壊し、全世界に散らされた。だが、主の憐れみにより、再びカナンの地
に国を再建している。その出来事も、世の終わりが近い一つのしるしである。
キリストは、「あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りな
さい。」と弟子達に語られた。私達は、キリストが、突然、家の戸を開けて
入って来ても、慌てないように、普段から部屋を整頓して主の日を待とう。
「これらのことがすべて起こるまでは、この時代は過ぎ去ることはありま
せん。」主の言葉は、これまでの歴史において全て成就して来た。それは、
神の歴史の支配を物語るが、同時に将来の歴史も主の言葉の通りに実現する。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることが
ありません。」堕落したこの世界は、消え去るが、キリストによって新しい
世界が創造される。神のことばは、不変であり、全てを造り変える力がある。
キリストは、最後に主の日を待ち望む者の心構えを語る。「その日、その
時がつなのかは、だれも知りません。…」主の日が、いつ来るのかを知らな
くても良い。寧ろ、主の日が、いつ来ても良い備えをすることが大切である。
私達は、その日に向かて一心に努力し、主の栄冠を得られる歩みをすべき
である。「人の子の到来はノアの日と同じように実現する」ノアの時代の人
々は、洪水の警告を受けていながら、その日まで食べたり飲んだりしていた。
だが、その人々の上に、突然、滅びが襲いかかる。「洪水が来て、すべて
の人をさらってしまうまで…分りませんでした」その時、どんなに泣き叫ん
でも、時を戻す事ができない。「人の子の到来もそのように実現するのです」
その日は、何の前触れもなくやって来る。「そのとき、男が二人畑にいる
と…」畑で作業する二人の男と、家で臼をひく二人の女のうち、一人は取ら
れ、一人は残される。即ち一人は、天に挙げられ、もう一人は、地に残る。
主の再臨は、ノアの日と同様に、何の変哲もない日常の歩みの中で起こる。
「神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます…生き残
っている私たちが…雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」
「主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らない。」それは、
泥棒が夜の何時に来るか分からないのと同じである。だから目を覚まし、用
心していなければならない。「人の子は思いがけない時に来る」からである。
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No.788 - 6月25日: 「天に現れるしるし」 マタイの福音書24章23節〜31節 |
(みことば)「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じよ
うにして実現するのです。」
マタイの福音書24章27節
主は、ダニエルが語る「荒らす忌まわしもの」即ち、反キリストの到来を
警告したが、それは、現代の我々とって近未来の苦難の時代の予告と言える。
苦難の時代には、「『見よ、ここにキリストがいる』とか、『そこにいる』」
と、誰かが根拠のない情報を語るようになるが、主は「信じてはいけません。」
と警告する。デマ情報は、混沌とした不安な社会に瞬く間に拡散してしまう。
苦難の時代は、「偽キリスト…偽預言者」が現れるが、彼らは、悪魔的な
力で「選ばれた者たちさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議」を行う。選
ばれた者は、それが神の霊か、偽りの霊かを吟味し、惑わされてはならない。
「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話してきました。」神の言
葉を知らない人は、偽りの宗教、迷信的習慣、紛い物の教え、眉唾物の奇跡
等に簡単に騙されてしまうが、我々は、悪魔の策略を見抜く力を持っている。
「『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても…信じてはいけません。」「荒
野…奥の部屋」は前節よりも具体的だが、原文は「だれかが」の主語もない。
出処も根拠も分からない情報を鵜呑みにし、衝動的に行動してはならない。
「人の子の到来」即ち、主の再臨は、「稲妻が東から出て西にひらめくの
と同じように実現する」宣教が「東から西」に進展したように、主の再臨の
知らせは、人を介すること無く、稲妻のように瞬く間に全世界を駆け巡る。
「死体のあるところには、禿鷹が集まります。」暗示的であるが、禿鷹が
群がる所に死体があると推測できる。終末の兆候は、世の終わりの近さを暗
示する。アダムの違反により人類に死が入り、終焉を迎えようとしている。
最後に、主の来臨の際に全地球的、全宇宙的規模で起こる超自然的な異変
を記す。「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放
たなくなり、星は天から落ち…」それは、艱難時代に起こる天の現象である。
それは、「皆既日食」の様な自然界の法則による現象ではなく、これまで
の人類の歴史に一度も無かったような、天における超常的な現象である。自
然界は、これまで神の定めた自然の法則に則って運行し、営みを続けて来た。
宇宙の運行は、万有引力の法則の発見以来、自然界の法則によって解明さ
れるが、近代の科学者は、神を否定し、法則の絶対性を唱える。だが神は「天
のもろもろの力」を創造し、万物を「揺り動かす」力を持つ絶対者である。
「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」全世界の人々は、その時、
「人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光ともに来るのを見る」それは、
全ての人が可視的にキリストを神と認めざるを得ない明らかな現象である。
人々は、その日にキリストを信じなかった事を後悔し、嘆き悲しむ。だが、
どんなに「胸をたたいて悲しん」でも、救いには至らない。救いは、ただ「キ
リストを信じる信仰」による。我々は、その時に後悔しない生き方をしよう。
「人の子は大きなラッパの響きと共に…選んだ者たちを集めます。」ラッ
パは、神の民の行動の合図であったが、それは、世の終わりの時の選びの民
の召集の号令である。その時、御使いは「人の子が選んだ者たち」を集める。
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No.787 - 6月18日: 「読者はよく理解するように」 マタイの福音書24章15節〜22節(ダニエル2章、9章) |
(みことば)「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌
まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら─読者はよく理解せよ─」
マタイの福音書24章15節
主は、神殿の荘厳さに驚く弟子達に、エルサレムの神殿の崩壊を預言し、
弟子達の質問に答え「世の終わる時のしるしは、どのようなもの」かを語る。
この世が終わる前に、偽キリストが現れ、戦争や飢饉や地震や迫害などの
兆候がある。だが、世の終わる前に「御国の福音が全世界に宣べ伝えられ…
証しされ…終わり」が来る。福音こそ、世の終わりに臨む人々の希望である。
キリストは一般的な終末の兆候を語った後で、世の終わりが直前に迫る出
来事について語る。「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわ
しい者』が…」それは、患難時代に現れる反キリストの到来を預言している。
預言者ダニエルは、バビロニンに捕囚となり、ネブカドネツァルの夢を解
き明かす知恵を与えられ、バミロンの四代の王に仕えた。彼は、王の見た巨
大な像の夢を解き明かし、バビロニヤ帝国以降に起る三つの帝国を預言する。
巨大な像の「すねと足」はローマ帝国を表わす。「一つの石が人手によら
ずに切り出され…粉々に砕き…」(2:34)「一つの石」とはキリストと御国を表
わす。「天の神は一つの国を起こされ…これらの国を…滅ぼし尽くす」(2:44)
ダニエルは、世の終わりに現れる「荒らす忌まわしいもの」を「あの」と
言う冠詞で注意を喚起し、やがて来られるキリストと対比して語る。「再建
せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週」(9:25)
キュロスの神殿再建命令(Bc538)から 500 年後に「油注がれた君主」キ
リストが来られた。だが、「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。」(26)
とある。それこそ「荒らす忌まわしい者」即ち、反キリストの現れである。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささ
げ物をやめさせる。」(27)彼は、終末の時代に世界を支配し、エルサレムで
の神殿礼拝を禁止する。だが、彼の上に「定められた破滅が…降りかかる。」
パウロも、彼を「不法の者、滅びの子」と表現し「自分こそ神であると宣
言し、神の宮に座る」(Uテサ 2:4)と語る。ヨハネは黙示録でその人物を「一頭
の獣」「その数字は六百六十六である」(13:18)と語る。「読者はよく理解せよ」
「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」エルサレムの都に下る災いに
遭わない為には、一刻も早く山に逃れるべきである。それは、ロトを滅びの
町ソドムから救う為に「山に逃げなさい」と命じた御使いの言葉に似ている。
「屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけませ
ん。」それは、緊急を要する事態である。家にある財産等に未練を残し、命
を失う事のないように。ロトの妻は後ろ「振り返ったので、塩の柱になった。」
「身重の女たち…は哀れです。」女性の最も幸福な時が苦難の時に変わる。
それは主の勝利と支配が始まる時まで続く。「逃げるのが冬や安息日になら
ないように祈りなさい。」主は、苦難の中にいる聖徒達の祈りを聞かれる。
「もしその日数が少なくされないなら一人も救われない。」ノアの時代の
洪水の時のように「すべての肉なるものの終わりが…来ようとしている。」
だが、主は聖徒を覚え「選ばれた者たちのために、その日数は少なくされる。」
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No.786 - 6月11日: 「世の終わりのしるし」 マタイの福音書24章1節〜14節 |
(みことば)「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。
あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
マタイの福音書24章3節
主は神殿において、律法学者やパリサイ人に対し「わざわい」の説教を語
って来たが、宮を出て行く時、弟子達が「近寄って…宮の建物を指し示した。」
弟子達は、「なんと素晴らしい建物でしょう。」とマルコ書で神殿の荘厳さ
に驚嘆している。その神殿は46年の歳月をかけ、白亜の大理石で建てられ、
前面を金で飾られていた。彼らがその華麗さに目を奪われたのも無理はない。
彼らは外見の荘厳さに見惚れ、神の都の荒廃を告げた主の言葉を理解して
いなかった。「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してあり
ません。」それは、紀元70年ローマ軍によるエルサレムの陥落で実現する。
弟子達は、オリーブ山で「お話しください。」とイエスに「主の再臨」と
「世の終わる時のしるし」を尋ねる。オリーブ山は、エルサレムを臨む丘で、
イエスは、復活後にオリーブ山から昇天し、やがてこの場所に再臨される。
終末の預言は、弟子達だけに告げられたキリスト独自の教えと歴史観であ
る。「世の終わり」は、一般的な終末思想と違い、それは「完成」を意味し、
罪の世界が終わり、主の再臨により神の国が到来し、完成する事を意味する。
従って、神の計画と目的は、世の終りが来るまでに達成される必要がある。
「福音は全世界に宣べ伝えられて…それから終わりが来ます。」主の来臨か
ら二千年が経ち、福音は、全世界に伝えられ、世の終わりの条件は整った。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」教会は長い歴史において横
道に逸れ、彷徨う事も度々あった。第1に「私こそキリストだ。」と言う自
称メシヤが現れ、多くの人が異端的な宗教に騙され、真理から逸れて行った。
第2に「戦争と戦争のうわさを聞くことになる。」人類の歴史は堕落によ
り殺戮の連続で、第2次世界大戦、東西の冷戦、民族主義の台頭等、戦争と
戦争のうわさが絶えない。だが、主の支配を知る者は、狼狽える必要はない。
第3に「あちこちで飢饉と地震」が起こる。近年異常気象に伴う自然災害
が世界中で起きている。だが、それは「産みの苦しみの始まり」である。「被
造物自体も、滅びの束縛から解放され…うめき…産みの苦しみ」をしてる。
第4に、キリスト者は、世の人々から憎まれ迫害される。それは、終末に
限ったことではないが、キリストが世から憎まれたように、我々も世から憎
まれ迫害される事を覚悟すべきである。それは、教会の外からの攻撃である。
但し、残念なことに教会の内部でも、「つまづき、互いに裏切り、憎み合
う」ようになる。苦難の時こそ、信仰の本質が試される。更に「偽預言者が
大勢現れて、多くの人を」惑わす。悪魔は、教会の内外から激しく攻撃する。
「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」「不法」は「律法を無
視する生き方」であり、「愛」は(アガペー)なので「神の愛」を表わす。教
会の内にも不法が入り込み、信仰による愛の交わりが希薄になり冷めて行く。
終わりの日は、教会にとっても試練と苦難の時代である。「躓き、裏切り、
憎しみ、不法、惑わし」等、悪魔は、「吠えたける獅子のように、誰かを食
い尽くそう」と探し回っている。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われる。」
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No.785 - 6月4日: 「神の子孫とまむしの子孫」 マタイの福音書23章29節〜39節 |
(みことば)「蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどう
して逃れることができるだろうか。」
マタイの福音書23章33節
偽善の律法学者やパリサイ人に対するわざわいの説教の最後は、「預言者
の墓を建て、義人たちの記念碑を飾っている」彼らの行為に言及している。
預言者の中には、同胞のイスラエルの王や民から迫害を受け、殉教の死を
遂げた者が多くいた。それは、預言者が神に代わって王や民の罪を叱責し、
裁きを宣告したからである。人々は、罪と裁きを語る預言者を憎み迫害した。
彼らが「預言者の墓を建てる」のは、殉教した預言者を悼み、敬っている
事を誇示する為で、「義人たちの記念碑を飾る」のも、時代を経て讃えられ
る偉人を顕彰する事で、自分達が彼らと同列の義人である事を示す為である。
その行為は歴史に対する後からの意味付けに過ぎない。彼らは「もし私た
ちが先祖の時代に生きていたら」と先祖の過ちを簡単に批評するが、「自分
達は同じ過ちを犯さない」と言えるだろうか。彼らは自省の念に欠けている。
「こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであると…証言して
いる。」彼らは、預言者や義人を敬うと表明しながら、心の内でキリストを
殺そうと考えていた。「おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。」
神に逆らう先祖の体質は、彼らにおいても何も変わらない。イスラエルは、
その罪の升が満ちた時、バビロンによって捕囚となった。神は、預言者を度
々遣わして、彼らに悔い改めを迫ったが、彼らはそれを聞こうとしなかった。
主は、彼らを「蛇よ、まむしの子孫よ。」と呼び、「おまえたちは、ゲヘナ
の刑罰を…逃れることができようか。」と断罪する。彼らは、「蛇」即ち、悪
魔の子孫であり、悪魔と同様に、その子孫も刑罰を逃れることは出来ない。
神は、人類の堕落の直ぐ後で、人を誘惑した蛇に「彼は、お前の頭を打ち、
お前は彼のかかとを打つ。」と裁きの宣告をする。その預言は、キリストの
十字架と復活により成就し、主は、悪魔に支配された人を解放し勝利された。
「だから、見よ、わたしは預言者…を遣わすが…迫害して回る。」神は、
何時の時代でも、人々に悔い改めと救いを語って来たが、彼らは神の言葉に
逆らい続けた。人類の堕落以来、罪の根深さと悪魔の狡猾さを痛切に覚える。
だが、彼らの流すその血の責任が、必ず問われる時が来る。「それは、義
人アベルの血から…降りかかるようになる」人類は、神の子孫と悪魔の子孫
との対決の歴史であった。それは、アダムの子孫カインによる殺人に始まる。
「これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。」イスラエルは、
預言者の血を流した責任を歴史の中で問われる。エルサレムは、紀元70年
にローマ軍により陥落し、ユダヤ人は二千年間世界を彷徨う流浪の民となる。
「エルサレム、エルサレム。預言者達を殺し…それなのに、おまえたちは
望まなかった。」神は、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」、彼らを
愛をもって養い、敵から守り、平安を与えたが、彼らは、神に逆らい続けた。
「おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」その言葉は、文字
通りイスラエルの歴史の上に実現した。だが、彼らが、キリストに『祝福あ
れ、主の御名によって来られる方に』と告白する時、彼らに救いが訪れる。
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No.784 - 5月28日: 「白く塗った墓」 マタイの福音書23章23節〜28節
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(みことば)「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白
く塗った墓のようなものだ。…死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」
マタイの福音書23章25節
主は、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」と厳しい言葉で、彼
らの偽善的行為を非難して来たが、その4度目の「わざわい」の叱責となる。
主は、彼らが「律法の細部に至る定めを厳格に守ろとしながら、それより
大切な戒めを疎かにしている。」と非難する。特に、ここで「おまえたちは
…十分の一を納めているが…」と十分の一の律法の規定が問題となっている。
十分の一は、アブラハムが神の祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の
一を彼に与えた」事に由来し、ヤコブもそれを行い、律法も「それは主の聖
なるものである」と定めているので、神への普遍的真理と理解すべきである。
彼らは、その点で落ち度がないが、それより「はるかに重要な…正義とあ
われみと誠意」を疎かにしていた。第1の「正義」は「正しさと公平さ」の
事で、律法は「不正な裁判」「異なる升があってはならない」と定めている。
第2の「あわれみ」は、「弱い者への深い同情心」の事で、神が人に求め
ているのは「真実な愛」(ヘセドあわれみ)である。第3の「誠実」は、「信仰」と
も訳せるが、神は人に対し「真実な信仰」と「誠実さ」を求めておられる。
「目の見えない案内人」とは、霊的に盲目な宗教的指導者を指すが、彼ら
の特徴は「ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」愚かさにある。
律法主義的な異端は、律法の枝葉末節に拘るが、救いの本質を見失っている。
第5の「わざわい」の警告は、「杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲
と放縦で満ちている」との非難である。「強欲」は、「激しい欲望によって物
を奪う」悪徳で、「放縦」は、「制御不能」或いは「自制心の欠如」を表わす。
人は、自分の激しい欲望を自分で抑えることができず、してはならないこ
とをして、良い評判を貶め、社会的地位を失う人もいる。それは、人間の内
にある罪が原因で、たとえ外側をきよめても、その内側は、何も変わらない。
「杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。」人は、自分の内
面を変えたいとどんなに願っても、自分の努力で変わる事ができない。それ
には、キリストを信じる信仰と御霊により新しく生まれる経験が必要である。
主は、第6の「わざわい」の警告として、彼らを「白く塗った墓のような
ものだ」と辛辣に非難した。墓は、死者を葬る場所で、人々から忌み嫌われ
ていたが、その為に誤って墓に触れ、汚れないように白く塗ったと思われる。
だが、白く塗れば、墓がきよくなるわけではない。墓は人間の罪の結末で
ある死の象徴でもあり、誰もが罪の結果である死と墓に向かっている。だが、
多くの人は、死の事実から逃避し「死後の裁き等ない」と死を美化している。
主は、「わざわいだ」と嘆きを繰返して来たが、それは、神による「怒り、
嘆き、悲しみ」の渦巻く呻きとも言える。多く人は、死と災いが近づいても、
神を知ろうともしない。それは、「忌まわしく、不幸で、哀れ」な事である。
「白く塗った墓」と同様、彼らは「外側は人に正しく見えても、内側は偽
善と不法でいっぱい」である。この世も一見正しそうに見えて、偽りと欺瞞
と不法で満ちている。罪と悪の時代の中で偽善のない真実な生き方をしよう。
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No.783 - 5月21日: 「わざわいの偽善的行為」 マタイの福音書23章13節〜22節 |
(みことば)「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人
々の前で天の御国を閉ざしている。」
マタイの福音書23章13節
キリストは、この箇所から7回「わざわいだ」という厳しい口調で、ユダ
ヤの宗教的指導者である「律法学者、パリサイ人」の偽善の罪を糾弾する。
「わざわいだ」とは、深い嘆きを表わす感嘆詞で「いまわしい、不幸」と
訳せるが、それは山上の説教の「幸い」の説教と対照的な厳しい言葉である。
彼らのわざわいの第1は、「人々の前で天の御国を閉ざしている」ことで
ある。彼らは宗教的指導者として、人々を「天の御国に導く」働きを委ねら
れていたが、その大切な使命を忘れ、「入ろうとしている人々も入らせない。」
キリストの宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
である。彼らが「天の御国を閉ざしている」一つの要因は、彼らは自らの義
を主張し、罪の悔い改めがなく、人々に悔い改めを説かなかった事にある。
第二に、彼らは、キリストを救い主と信じず、人々がキリストに行く道を
妨げていた。たとえ彼らが敬虔そうに見え、知識を持ち、地位や権威を持っ
ていてもそれは何の役にも立たない。悔い改めと信仰こそ救いの条件である。
わざわいの第2は「一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く」事である。
彼らは、宣教の熱心さを人にアピールするが、それは「見栄のために長い祈
りをする」のと同様である。しかも改宗者を「倍も悪いゲヘナの子に」する。
異端的な宗教もそれと同様で、彼らは、宗教の勧誘に熱心だが、「その熱
心は知識に基づくもの」ではなく、そこに救いはなく、その改宗者は、「倍
も悪いゲヘナの子」となる。「霊だからといって、みな信じてはいけません。」
わざわいの第3は、「目の見えない案内人たち」に対してであるが、それ
は、霊的に盲目な「律法学者やパリサイ人」を指す。主は、彼らを「盲人の
案内をする盲人」と言われた。その盲目さは、誓約に関する不敬虔さにある。
彼らは「だれも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。」と、神
殿と黄金への2種類の誓いを使い分けていた。それは、誓いを果たせない時
の「言い逃れの道」を作るためであり、それは欺瞞であり、詭弁に過ぎない。
主は、彼らに対して「愚かで目の見えない者たち」と辛辣に叱責された。
それは、神を畏れる敬虔さを教えなければならない人々が、誓いの対象を変
えることで、言い逃れの道を作る不敬虔な信仰のあり方に対して非難された。
彼らの行為は、律法の教師として、誓約を果たせない時の面目を保つ為で
あるが、人は、約束した事を果たすべきで、果たせないなら誓うべきでない。
主は「神殿の黄金と…神殿と、どちらが重要なのか」と問われる。誓いの
対象が何であれ、神への誓いに変わりはなく、義務のない誓い等ない。同様
に、神への信仰を告白する者は、生涯、その誓いに誠実に歩むべきである。
それは「祭壇」と「祭壇の上のささげ物」にかけて誓う場合も同様である。
「祭壇にかけて誓う者」は神に対して誓うのである。主は、旧約の預言者を
通して救いを約束したが、その誓約の全てにおいて、違う事なく果たされた。
神に人を救う義務は、何一つないが、主は、ご自身の憐み深い性質と真実
の名にかけて十字架の贖いを完成し誓いを果たされた。神に誠実に生きよう。
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No.782 - 5月14日: 「仕える者となる」 マタイの福音書23章1節〜12節 |
(みことば)「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者
は高くされます。」 マタイの福音書23章12節
マタイ23章には、キリストによって「わざわいだ」と言うユダヤの宗教
的指導者達の偽善的な行為に対する呪いと裁きの言葉が繰り返し語られる。
彼らは、「モーセの座に着いて」教える者でありながら、それと矛盾した
生き方をしていた。「多くの者が教師になってはいけません。…より厳しい
さばきを受けます。」彼らは、指導者として自らを吟味しなければならない。
「彼らの…言うことはすべて実行し、守りなさい。」だが、たとえ彼らが
模範にならなくとも、その教えは聞くべきである。それは、聞く者の霊的成
長と祝福の為である。「指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」
だが、「彼らの行いをまねては」ならない。何故なら「彼らは言うだけで
実行しないから」である。群れの指導者は語る教えと生活が一致していなけ
ればならない。それは「自分自身が失格者にならないようにする」為である。
彼らは、「重く負い切れない荷を束ねて…指一本貸そうと」しない。キリ
ストは、彼らの「愛の欠如」や「無慈悲な態度」を指摘する。だが、私達の
主は、私達の全ての罪の重荷を負って、十字架の上で刑罰を受けて下さった。
「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。」私達は、自らの行
動の動機と目的を吟味すべきである。たとえ、どんな善行も「人に見せるた
め」であるなら偽善が生じる。「すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」
彼らは、「聖句を入れる小箱を大きくし…衣の房を長くしたり」するが、
それは、敬虔さを人に見せる手段であった。神は、人の上辺ではなく、心を
ご覧になる。人の評判や評価ではなく、天の神を意識した歩みを心がけよう。
彼らは、人の誉を受ける為に「宴会では上座を、会堂では上席」を好む。
上座は身分の高い人の場であり、世の人は、競って上座に着きたがる。だが、
神の国において上座に着くのは、「仕える者」「自分を低くした人」である。
彼らは、「広場であいさつされ…先生と呼ばれること」を好む。人からの
挨拶は身分や権威への敬いの証である。彼らは「先生」と呼ばれる事で満足
し、偉くなったように錯覚する。地位や権威を誇る人の最期は、惨めである。
「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」それは、文字通りの意味
ではなく、そのように呼ばれる人が名誉心や虚栄心を持つ事への警告である。
牧師は、「先生」と呼ばれるが、それは、神から委ねられた職務に過ぎず、
寧ろ、神を畏れ、謙遜に群れを導く牧者でなければならない。「割り当てら
れている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
「あなたがたの父はただ一人…」「父」は、尊敬の意味を込めた名称だが、
天の父だけが子に対して真の愛と必要を備え、責任を負われる。どんな偉大
な人でも、天の父の立場を曖昧にする様な、人間崇拝は避けるべきである。
「師と呼ばれてはいけません」「師」とは「導く人・案内人」の意味である。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
「偉い者は皆に仕える者になりなさい。」「仕える者」は「給仕する者」の
意味であり、神の国は仕える者によって建てられる。「自分を高くする者は
低くされ、自分を低くする者は高くされる」これが、神の国の原理である。
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No.781 - 5月7日: 「キリストは主である。」 マタイの福音書22章41節〜46節
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(みことば)「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着い
ていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」
マタイの福音書22章44節
キリストは、パリサイ人やサドカイ人から「税金」「復活」「律法」の問題
で試みを受けたが、最後に主イエスは、彼らに「キリスト」に関して尋ねる。
主は、前回、「どの戒めが一番重要ですか」との質問を受け、それを「神
を愛する」事と「隣人を愛する」第1と第2の戒めに要約された。それは律
法の中心的主題であるが、聖書全体の主題は、やはりキリストの救いである。
主は、パリサイ人の集まりで「あなたがたは、キリストについてどう思い
ますか。彼はだれの子ですか。」と尋ねる。「キリスト」とは、「メシヤ」(油注
がれた者)のギリシャ語訳で、「メシヤとは誰か」が聖書の中心的な主題である。
彼らは「だれの子ですか」との問いに「ダビデの子です」と答える。ユダ
ヤ人には、「メシヤはダビデの家系から出る」と言う認識があった。「あなた
の身から出る世継ぎの子を…起こし、彼の王国を確立させる」(Uサムエル 7:12)
主の約束は、キリストにおいて成就した。「アブラハムの子、ダビデの子、
イエスキリストの系図」(マタイ 1:1)だが、「ダビデの子」と言う名は、メシヤ
の本質を表していない。キリストはダビデの子であり、同時に神の子である。
ペテロは、「あなたは、生ける神の子キリストです」と告白したが、その
告白こそ、ユダヤ人との信仰の違いである。「御子は、肉によればダビデの
子孫として生まれ、聖なる霊によれば、力ある神の子と示された方」(ローマ 1:2)
イエスは、彼らに「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを
主と呼び、『主は、私の主に言われた。…』と言っているのですか。」と問う。
イエスは、ダビデが詩篇で、キリストを「私の主」と呼んでいると論証する。
「主」は、神(ヤハウェ)を表わすが、ダビデはメシヤを指して「私の主」と
呼び、神と同格の名である「主」(キュリオス)「絶対的な主権者」をメシヤに適
用する。ダビデは御霊に導かれて、三位一体の第二位格キリストを啓示した。
神は、メシヤに「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。」と命じ
る。キリストは、十字架にかかり復活した後40日後に天に昇られた。今は、
神の右の座に着き、この世の一切の権威と権力をご自分の足の下に置かれた。
「あなたの敵をあなたの足台とするまで」キリストが再臨するの時、悪魔
とその手下どもは滅ぼされ、キリストの統治する新しい時代が到来する。「私
の神、主が来られる。全ての聖なる者たちも、主とともに来る。」(ゼカリヤ 14:5)
彼らがメシヤに期待したのは、ダビデ王国の様なイスラエル国家の再興で
あった。だが、キリストが築く神の国は、一民族に限定されず、キリストは、
全ての主となられる。「主は地のすべてを治める王となられる」(ゼカリヤ 14:9)
「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして…」ダビデはキリ
ストを主と呼んで、自分より遥かに偉大な方である事を示した。それは、ダ
ビデが御霊に導かれて語った「三位一体の神の本質」を暗示した言葉である。
キリストは「メシヤがどのようなお方か」一般論として語ったが、ダビデ
はイエスを「私の主」と呼んだのである。「だれ一人、一言もイエスに答え
られなかった。」「キリストは主である。」これが聖書の中心のテーマである。
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No.780 - 4月30日: 「最も重要な神の戒め」 マタイの福音書22章34節〜40節 |
(みことば)「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あ
なたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。」
マタイの福音書22章37、38節
パリサイ人たちは、「イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒
に集まり」、律法の専門家を呼んで、律法の問題でキリストを試そうとする。
彼は、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねるが、キリ
ストの返答によって、彼は、「第2と第3の戒めは、重要でないのか。」「そ
の戒めは、軽んじて良いのか。」と言うような質問を準備していたのだろう。
ユダヤ教は、モーセの律法の他に口伝や伝承などダルムード、ミシュナー
と呼ばれた経典を持ち、様々な規定を設けていた。彼の質問は、キリストを
試す為であったが、聖書の中で最も大切な要点を知る事は信仰の助けになる。
主は、躊躇なく申命記の一節を示し、「『あなたは心を尽くし…主を愛しな
さい。』これが、重要な第一の戒めです。」と言われた。その戒めは、ユダヤ
人達が「聞け。(シェマー)」と言う言葉で、礼拝の度に唱え復唱した言葉である。
「心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして」とは、全人格と全生涯をか
けて神を愛する命令であり、それが第1であるというのは、ユダヤ人の誰も
が納得する答えであった。神は信じる者に全身全霊で神を愛する事を命じる。
だが、その第1の命令は、神を信じる者だけに適用できる戒めで、信じて
いない人は、「神を愛する」ことさえ分からない。以前は、私達もその様な
者であったが、福音によって「私の神」となり、神を父と呼ぶ関係となった。
「神と主」は同格で「神が主である」事を強調している。主は、「全ての
支配と権威を持った方」であり、日本人の汎神論的な神観と違い、唯一で、
万物を創造された方である。キリスト信仰の厳密さと純粋さは、ここにある。
「愛しなさい」(アガペ)は「自らを無償で捧げる愛」を表し、「友愛」(フィ
レア)や「官能的愛」(エロス)と異なる。それは神の完全な愛を表わすが、神は
純粋な愛を信じる者に求める。だが、人はそうできない弱さや不純さがある。
主は、「これが重要な第1の戒めです」と答えるが、それは神に関する戒
め全体を要約した言葉であり、この戒めが第1にならないと自分の楽しみや
仕事や家族を優先させる。「だれも、二人の主人に仕えることはできません。」
次に、主は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二
の戒めも、それと同じように重要です」と答える。主は、彼に第二の戒めを
示すが、それは、第一と第二の戒めを切り離すことが出来ないからである。
第二の戒めは、隣人に対する愛が問われる。隣人とは、ユダヤ人の理解で
は家族や仲間や同胞に限定されていたが、主は、自分を愛してくれる人を愛
するだけでなく、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と命じた。
しかも、「自分自身のように」とあり、その愛もやはり無償の愛(アガペ)
である。「第二の戒めも、それと同じように重要です。」その崇高な愛の倫理
は、まず、キリストが十字架の上で示された。神の愛に倣う者でありたい。
「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」信仰と倫
理は、不可分の関係であり、2つの蝶番で扉が固定され、安定するように、
神への愛と隣人への愛が一つになる時、健全な信仰生活を保つことができる。
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No.779 - 4月23日: 「死者を生かす神」 マタイの福音書22章23節〜33節 |
(みことば)「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
マタイの福音書22章32節
キリストは、パリサイ人から「カエサルに納める税金」の問題で試みを受
けたが、次にサドカイ人から「死者の復活」に関する教理の問題で試される。
サドカイ人は、祭司階級に属し、信仰の教義において「復活はない」と考
える現実主義、或いは現世主義者であり、「復活はある」と考えたパリサイ
人と鋭く対立した。勿論、もし復活がないなら、私達の信仰も宣教も空しい。
その教義の誤りは「モーセ五書」のみを聖典とする聖書理解の偏りによる。
彼らは、「復活がない」事の論証として「死んだ長男の為に兄弟が妻を娶る」
モーセ律法を事例に出す。「もしある人が、子のないままで死んだなら…。」
彼らは、その定めを盾に「復活はない」とする仮説を立てる。長男の妻を
娶った兄弟達が次々に死んだ場合、復活の際にその女は誰の妻になるのか。
もし復活があるなら、そこに矛盾が生じる。だから「復活はない」と考えた。
世の人は、聖書に記された「神の創造・ノアの洪水・出エジプトの奇跡・キ
リストの奇跡や復活」等を「常識的、科学的でない」と言って信じない。だ
が「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」
「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。」「思
い違い」は、「迷う・惑わす」の意味である。人が真理から迷い出たのは、蛇
の惑わしによる。それ以来、人は「神はいない」と言う前提で物事を考える。
「神はいない」と言う思想を前提にすれば、「この世界は偶然に出来た」
と考え、その世界観では、「人の生きる意味」も「人の死後の世界」も、何
一つ答えを見い出せない。寧ろ、人は、死んだら終わり、無になると考える。
「復活はない」と言う考えは、無神論的で現世的である。彼らの誤りの第
1は、「聖書を知らない」事による。もし聖書がなければ、私達は神の創造
もキリストの救いも知らず、死に向って生きる、何の望みもない者であった。
彼らは、祭司として聖書を持っていた。だが、彼らは、聖書全巻(律法・
詩篇・預言書)の内、モーセ五書(律法)のみを聖典と考え、生来の理性で
解釈し、奇跡や復活を否定する。そこに残るのは、単なる道徳宗教である。
第2に、彼らの誤りは、「神の力を知らない」事による。聖書から「神の
力」を除いたら「道徳的な教え」しか残らない。もし、「神の力」がなけれ
ば、この世界の存在も、イスラエルの歴史も、私達の救いも存在しなかった。
「復活がない」とする考えは「神には力がない」と言うに等しい。神の偉
大さを人間の狭い考えに押し込める事はできない。「復活の時には、人はめ
とることも…」同様に有限な人間の理性で天の御国を推し測る事はできない。
主は、「死者の復活」に関して、神がモーセに「わたしはアブラハムの神、
イサクの神、ヤコブの神である」と告げた言葉から論証する。神は、族長達
に子孫の祝福と約束の地を誓ったが、それは、彼らの時代に実現しなかった。
神の約束は、天の御国で実現する。「彼らは…天の故郷にあこがれていた」
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」復活がなければ、
何の希望もないが、復活が真実なら、神を信じる者は、誰よりも幸いである。
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No.778 - 4月16日: 「神と世に真実に生きる」 マタイの福音書22章15節〜22節
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(みことば)「どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納め
ることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
マタイの福音書22章17節
キリストは、3つの譬えを通して、神の招きや願いに答えない頑なな人々
の態度を語って来たが、それは、エルサレムの宗教的な指導者を指していた。
彼らは、それが「自分たちについて話しておられる」と気づくと、「どの
ようにしてイエスをことばの罠にかけようか」(15)と相談した。「人の心は何
よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ 17:9)人の罪は、自分で癒し難い。
その最初の質問は、「カエサルに税金を納めるべきかどうか」であるが、
パリサイ人は、「自分の弟子たちをヘロデ党の者たちと一緒に」遣わした。
パリサイ人は、ローマの支配を排除してユダヤ国家の完全な独立を願った。
一方、ヘロデ党は、ローマの支配権を盾にユダヤを再建しようとした。異
なる信条を持つ二組が手を組んでキリストを罠にかけようとする。「カエサ
ルに税金を納めるべきかどうか」は、非常に神経質で、厄介な問題であった。
彼らは、本題の前に「先生。私たちは、あなたが真実な方で…」と、イエ
スに「税金を納める必要はない」と言わせる為の誘導尋問をする。それは、
彼らのお世辞であるが、敵対者も「イエスが真実な方である」と認めていた。
多くの人は、それと違い、人の目を気にし、人の顔色を伺いながら行動す
る。その為に真理に基づいて語れず、行動できない。だが、キリストの生涯
は、矛盾した行動や二面性が全く無く真実な方で、最期まで真理を貫かれた。
彼らは、本題の「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでし
ょうか。…」と尋ねる。もし、イエスが「納める必要はない。」と言えば、
ヘロデ党員が待機し、ローマの権威に逆らう者として捕らえることができる。
逆に、イエスが「納めるべきである」と言えば、メシヤの威厳や威信を失
い、「救い主として都に入城した」時の群衆の歓喜や賛美は失望に変る。そ
れは、どちらを答えても、彼らの思う壺で、窮地に陥る巧妙な罠であった。
主は、彼らの悪意を見抜き「なぜ、わたしを試すのか、偽善者たち」と言
う。悪魔がキリストを試した様に、彼らは、「メシヤとしての烙印」を押し
たかった。荒野のイスラエルが、主を試みた様に心を頑なにしてはならない。
主は、彼らに税として納める「デナリ銀貨を持って」来させ、「これはだれ
の肖像と銘ですか」と問い、彼らは「カエサルのです」と答える。銀貨に刻
まれた肖像と銘は、厳然としたローマの支配を意味し、それを逃れられない。
神を信じる者も、この世に生きている以上、世に対し責任や義務がある。
納税や選挙もその一つである。罪の世だからと言って、この世と関りを持た
ない訳には行かない。だが、同時に、私達は、神の国に生きる者でもある。
主は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と答
える。私達は、この世と神の国に義務と責任を負っている。主は「納める」
と言わず、「返す」と言われた。「返す」は、元の所有者への返済を意味する。
納税が国への義務であるように、私達は、いのちも財も神から与えられた
者として、神にお返しする義務がある。又、私達は、主の贖いの代価により
救われた者として、福音を伝えて行く責任を神とこの世に対して負っている。
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No.777 - 4月9日: 「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19節〜31節 |
(みことば)「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…わた
しの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ヨハネの福音書20章27節
週の初めの日の朝、マクダラのマリヤは、墓で「私は主を見た」と弟子達
に証言したが、その日の夕方、彼らがいた部屋にキリストが入って来られる。
弟子達の居た場所は、「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」彼ら
は、ユダヤ人の追及を警戒し、不安と恐れの中で家に引き籠っていた。だが、
主は、恐れと不安を抱く彼らの真ん中に、戸の鍵を開けずに入って来られる。
復活後の主のからだは、十字架以前と違い、何処にでも、どんな状況でも、
何にも制限されずに存在できる。だが、そのからだは、幻でも、単なる霊で
もなく、確かに実在し、生きておられ、聖徒の交わりの真ん中に立たれる。
主は、彼らの真ん中に立ち「平安が…あるように」と3度繰り返して言わ
れた。今は、紛争の絶えない時代だが、私達は、まず個人の生活に「平和が
ある」事を願う。人は病気になり、様々な問題を抱えた時に不安を覚える。
主は、困難の中でも、神を信じる者と共におられる。「イエスは手と脇腹
を示され、彼らは、主を見て喜んだ。主の復活は、彼らの心を恐れから喜び
と希望に変える。もし復活がなければ、私達の宣教は空しく、信仰も空しい。
彼らは、主の手と脇腹の傷の跡により「十字架の贖い」の確かさを知る。
魂の安らぎは、「神との和解」「十字架による罪の赦し」に基づく。私達は、
再び、神の裁きを受ける事はない。魂の慰めと救いは、十字架と復活にある。
主は、その後「父が…わたしもあなたがたを遣わす」と命じる。主は、彼
らを宣教の為に世に遣わされる。「あなたがたが誰かの罪を赦すなら」とは、
宣教に伴う罪の赦しの宣言である。私達の生きる使命や目的は、ここにある。
主は、「彼らに息を吹きかけて…聖霊を受けなさい…」と言われた。彼ら
は、御霊の賜物を与えられ、主の証人として福音を力強く語る。「聖霊があ
なた方の上に望むとき…地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:8)
だが、12弟子の一人で「デドモと呼ばれるトマス」だけは、その場に居
なかった。弟子達は「私たち主を見た」と証言したが、彼は、それを信じず、
「私は、その手に釘の跡を見て…信じません。」と頑なに復活を否定した。
彼が疑う原因の第1は、「主の日に交わりに参加しない」事にある。弟子
達が「戸に鍵をかける」ほど恐れを抱く試練の時に、彼だけが神の家族と共
にいない。「集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル 10:25)
第2に、彼は仲間の証言を信じないからである。苦難の中で共に歩んで来
た仲間が嘘を言い、彼を騙すはずがない。友からの忠告を素直に聞く謙遜さ
がないと自分の頑固な考えや性格は変らない。教会の交わりはその為にある。
第3に、「見なければ信じない」彼の信仰に問題がある。それは、「科学の
実験の検証と同じ」である。この世には科学的に検証できない事が沢山ある。
「信仰によって…世界が…神のことばで造られたことを悟り…」(ヘブル 11:3)
「八日の後…トマスも…一緒にいた」が、主は、彼に「あなたの指を…信
じる者になりなさい」と言われた。彼は「私の主、私の神よ。」と告白する
が、寧ろ、神の言葉への信仰により「見ないで信じる人たちは幸い」である。
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No.776 - 4月2日: 「天の御国の祝宴への招き」 マタイの福音書22章1節〜14節 |
(みことば)「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、
彼らは来ようとしなかった。」
マタイの福音書22章3節
イエスは、神の宮で「王の催す結婚披露宴に招待した客」の譬えを語る。
この譬えは、神の言葉に従おうとしない祭司長や律法学者に対して語って
いる。キリストは、頑なな彼らに対し「ご自分の権威がどこから来たのか」
「その権威ある言葉に従わないならどうなるのか」を譬えによって答える。
「王の催す披露宴」は、天の御国を譬えている。それは、王子の結婚式な
ので、国を挙げた盛大なもので、入念に計画され準備されたはずである。そ
の華やかな席に参列できるのは、特別な人で、予め招待されてた客であった。
だが、招待した客は来ようせず、王は、再度「何もかも整いました」と招
くが、彼らは「気にもかけず…自分の畑に…商売に」出て行く。更に残りの
者達は、王のしもべを侮辱し殺してしまう。王に対する非礼は極まりない。
「王は…人殺しどもを滅ぼし…」この譬えで「王」は「父なる神」を、「王
の息子」は「キリスト」を、「結婚の披露宴」は「キリストの救い」又は「天
の御国の祝宴」を、「招待された客」は「イスラエルの人々」を指している。
招待客は、王の披露宴より「自分の畑…商売」を優先する。神の救いの計
画より、自分の計画ややりたい事があり、それを優先する。どんなに素晴ら
しい福音を聞いても、そこに関心や興味のない人は「豚に真珠」の様である。
イスラエルは、神の選びの民であるが、救いの招きに答えず、天の御国に
ふさわしくない者となった。「ふさわしくなかった」とは、「価値がない」の
意味だが、その価値は「神の招きに答えるかどうか」の一点にかかっている。
そこで、王は準備した披露宴が無駄にならない為に別の人々を招く。「大
通りに出て行って、出会った人を…招きなさい」彼らは、通りすがりに思い
掛けない幸運を受ける。主の招きの二次募集に応じたのは異邦人であった。
招かれた人は、恵の大きさに驚いた事だろう。教会に来て福音を知った人
も、同様に「永遠のいのちが与えられ、無条件で天の御国に入る事ができる」
等、想像もしていなかった。主は、救いの全てを整え私達を招いて下さった。
「披露宴会場は…いっぱいになった」イスラエルが神の招きを拒んだので、
その恵みは、異邦人に与えられた。「それを拒んで…永遠のいのちにふさわ
しくない者にし…」(使徒 13:46)「彼らの失敗が異邦人の富となる」(ローマ 11:12)
だが「そこに…礼服を着ていない人が一人いた。」譬えの後半で礼服の着
用の有無が問題となる。客の殆どが通りすがりの人なら、礼服など用意して
いない。礼服も貸与されたはずである。だが、一人だけ礼服を着ていない。
招かれた人は、普段着のままの人もいただろう。だが、王の前に汚れた服
のまま立つ事はできない。神の前に立てるのは、キリストの贖いの血によっ
て罪を覆われた人だけである。「あなたがたはみな、キリストを着たのです。」
「友よ。どうして…彼は黙っていた。」彼一人がそこに入る備えをしてい
ない。主は、口づけで裏切ろうしたユダに「友よ」と呼んだ。弟子の中で彼
だけがキリストを着ていない。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」
神の招きに答え、それに相応しい装いを着なければ、天の御国に入れない。
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No.775 - 3月26日: 「家を建てる者が捨てた石」 マタイの福音書21章33節〜46節 |
(みことば)「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これ
は主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」
マタイの福音書21章42節
キリストは、宮において「ぶどう園を任された悪い農夫」の譬えを語る。
家の主人が「ぶどう園を造って垣根を巡らし…」農夫達に貸して旅に出る。
主人は、収穫の時に収穫を受け取ろうとしもべを遣わすが、彼らはしもべを
捕え石打にする。最後に主人は息子を遣わすが、彼らは息子も殺してしまう。
主は、譬えの後で「主人は、悪い農夫たちをどうするか」と問い、彼らは、
「悪者を滅ぼし、良い農夫に貸すだろう」と答える。ぶどう園は、狭い意味
でイスラエルを指し、しもべは預言者を、悪い農夫は、宗教的指導者を指す。
イスラエルは、神によって奴隷から解放され、神の栄光を表わす為に自由
を与えられ、約束の地に導かれた。だが、彼らは主を裏切り、背信行為を続
ける。「主のぶどう畑はイスラエルの家…しかし、見よ。流血…悲鳴」(イザヤ 5:7)
農夫達が、主人のしもべを迫害したように、イスラエルは、主の御旨を語
り、悔い改めを説いた預言者達の言葉を聞かずに迫害した。「わたしは預言
者を…遣わすが、おまえたちは…ある者を殺し…迫害して回る。」(マタイ 23:34)
また、ぶどう園の譬えは、広い意味で「神と世界・人間」の関係を表わす。
神は、世界を創造し、それを人間に委ねられた。だが、人間は神に反抗し、
自らが神・主(あるじ)となる。神の創造がなければ、自然界も人間も存在しない。
イスラエルが預言者を通して神の言葉を聞き、その生き方を問われたよう
に、全ての人は、創造者である神に対し責任を問われる。この世界に神に拠
らない物は、何一つない。人は、創造者である神に栄光を帰すべきである。
神を信じる者は、週の1日を聖別し礼拝する。収入の什一を聖別して主に
お返しする。賛美をもって神に栄光を帰する。その信仰の行為は、神への敬
いと感謝の現れである。「聞き従うことは、いけにえにまさり…」(Tサムエル 15:22)
主人は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と息子を遣わすが、彼らは、
「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して…手に入れよう」と言った。指導者
達は、やがてイエスを捕え十字架にかける。彼らは、主人の忍耐を仇で返す。
主は、この譬えを語り終え「主人が帰って来たら…どうするでしょう」と
問いかける。神の言葉と問いかけに、どのように答えるか。それが礼拝の本
質である。彼らは、「悪者どもを…滅ぼし…別の農夫たちに貸す」と答える。
彼らは、自分達が「悪い農夫」である事に気付かず、正しく答える。それ
は、ナタンがダビデの罪を指摘し「あなたがその男です。」と言ったのに似
ている。ダビデは、悔い改めたが、彼らはそれに気づいても、悔い改めない。
主は、彼らに「聖書に次のように…読んだことがないのですか」と問い、
冒頭の御言葉を引用する。「家を建てる者たち」即ち、エルサレムの指導者
達が「必要ない」と捨てた石が、神の救いにとって欠かせない要の石となる。
だが、神の言葉を拒否し、イエスを十字架にかけた人々は、その悪の行為
の故に言然たる裁きを受ける事になる。「神の国はあなたがたから取り去ら
れ…実を結ぶ民に与えられます。」救いの恵みはユダヤ人から異邦人に移る。
この石は、家を建てる要の石となり、この世の権威を粉々に砕く力となる。
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No.774 - 3月19日: 「神と共に生きる選択」 マタイの福音書21章28節〜32節 |
(みことば)「兄は『行きたくありません』と答えたが…思い直し、出かけ
て行った。…弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。」
マタイの福音書21章29,30節
主は、「父からぶどう園の働きを命じられた二人の兄弟」の譬えを語るが、
この後に続く譬えも同様、招きに答える者と拒絶する二種類の人が登場する。
兄は、初め「行きたくありません」と断るが、「思い直し、出かけて行っ
た。」一方、弟は「行きます」と答えるが、結局「行かなかった。」主は、「ど
ちらが父の願ったとおりにしたか」を問うが、彼らは「兄です」と即答する。
主は、この譬えを祭司長達に語るが、彼らは、前述の「ヨハネのバプテス
マは、どこから…」の問に「分りません」と答えた。それは、自らの不従順
が露わになるからである。だが、この譬えでは、躊躇わず「兄」と答える。
彼らの答えは、正しいだろう。「行きたくない」と答えた兄が、後で思い
直しぶどう園に行ったなら、父は喜んだはずである。だが、「行きます」と
良い返事をした弟が、ぶどう園に来なかったら、父は失望したはずである。
この譬えは放蕩息子の逆の例話であるが、本文の問題で第3版は、これと
逆で兄と弟が入れ替わっている。だが「どちらが父の願ったとおりにしたの
か」との問いに、それは、「ぶどう園に行った方」である事に変わりがない。
彼らは、父の願った通りにしたのは兄の方だと答える。だが、彼らは、自
分達が父の願いに答えなかった不従順な弟の方だと気づかない。彼らが気づ
くのは、2度目の譬えの後である。「自分たちをさして話して…気づいた。」
人は、自分の行為や生活に関係がないと「その通り。アーメン」と言える
のに、自分の生き方を変えなければならない事柄には、答えようとしない。
そのように、多く人の言葉と行為は矛盾し、告白と生活が一致していない。
何故、弟は「行きます、おとうさん」と答えたのに「行かなかった」のだ
ろう。推論だが、彼も初め父に従う意思はあったが、その告白の後でぶどう
園に行く事を妨げる様々な事情が起こり、彼は、それを優先したのだろう。
弟の「行きます」という言葉が嘘でないにしても、結局、彼は、様々な事
情の故に父との誓いを反故にする。だがどんな事情があるにせよ、父の願い
に答えなかったのは事実で、約束を違えて「行かなかった」のも事実である。
それは、人の優先順位によって決まる。ヨハネのバプテスマに従うより、
自分の都合と事情を優先すれば、主に従えない。それは、礼拝出席も主の奉
仕も同様である。「行きます。します。」と言った言葉が簡単に覆ってしまう。
一方、兄は、主の説明で「取税人や遊女」を指しているが、彼らは、兄が
父の願いを拒絶した様に、神の言葉を無視した生き方をする。だが、彼らは、
兄が「後になって思い直し、出かけて行った」様に主の招きに答えて行った。
過去において、どんな反抗的な人であっても、思い直して、父の願いを行
うなら、その人は神に受け入れられる。「悔い改める」(メタノエオー)は「心を変
える」の意味で、「思い直す」(メタメロー)は、「関心事を変える」の意味である。
取税人や遊女の関心は、お金や快楽的な生活等この世の事であった。その
人が神の国に心を向け、主を第1とするようになる。32節に「信じる」と
いう言葉が繰り返されるが、信じるとは、神の国で神と共に生きる事である。
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No.773 - 3月12日: 「何の権威によるのか」 マタイの福音書21章23節〜27節
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(みことば)「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれ
があなたにその権威を授けたのですか。」
マタイの福音書21章23節
キリストは、エルサレム入城の翌日、神の宮で教えておられたが、そこは、
前日に、キリストが売り買いしている者達を追い出された異邦人の庭である。
商売人達は、キリストの宮清めによりその行いを悔い改めたか分からない。
だが、少なくともキリストの前では、それを続けなかっただろう。キリスト
は、律法学者達のようではなく、権威ある者のように教えられたからである。
だが、祭司長や律法学者達は、逆にキリストの行為に腹を立て、「何の権
威によって、これらのことをして…」と問う。それは、自分達こそ神の宮の
権威を持つ者で、「あなたに勝手な事をされては困る」と言いたいのである。
主は人類の贖いの為に遣わされた神の御子であり、神の宮で権威を持つだ
けでなく、「天においても、地においてもすべての権威が与えられて」いる。
彼らは、「だれがあなたに…」と問うが、それは、父なる神の権威による。
人は、何らかの権威の下に生きているが、権威を持つ者は、「他者を服従
させ、人を罰する力を持つ」ので、人は権威を恐れる。彼らは、人間的な権
威を笠に着て、「勝手な振る舞いをすると酷い目に合わせるぞ」と威圧する。
だが、彼らは、逆に主から「わたしも一言尋ねましょう」と問われ、「ヨ
ハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天から…人からですか。」
と二者択一の答えを迫られる。彼らは、ヨハネのバプテスマに従わなかった。
主の問いに「すると彼らは論じ合った」とある。彼らは、主から行動の是
非を問われているのに、それを人と論じて答えるべきではない。たとえ、百
人の同意や賛成が得られても、主が「否」と言われるなら、それは否である。
彼らは、「もし天からと言えば…もし人からと言えば…」と答えに窮した。
「天から」と言えば、神への不従順が露わになり、「人から」と言えば、群
衆の支持と権威を失う。権威に固執する者は、まこと不自由で窮屈である。
「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。」それに、どの様に
答えるべきか。ヨハネの権威は、天から来たもので、主も彼のバプテスマに
従われた。神を信じる者が、それに従わないなら、不従順の誹りを免れない。
人は、この世の何らかの権威の支配下にあるが、その一切の権威の上に、
主の権威と支配がある。人は、神の権威に服従する時に、この世のあらゆる
支配と束縛から解放され自由を得る。「真理はあなたがたを自由にします。」
彼らは、論じた結果「分りません」と答える。だが、「分からない」(知ら
ない)のではなく、答えられない。カインは弟のアベルがどこにいるのか「知
らない」と答えた。人は幾ら罪を誤魔化しても、罰を免れる事はできない。
「絶対的主権者である神への不従順」それが人間の罪であり、神の権威を
無視し、自ら権威ある者として振る舞う。悪魔は、「それを食べるとき…神
のようになり」と誘惑した。この世の権威は、人を力で服従させ奴隷にする。
だが、神の権威(エクスーシア)に従う者は、自由と平安を与えられる。それは、
自分の権利を捨て、福音と隣人に仕える自由である。敵対者は、主の権威を
知らないまま十字架にかける。それも、神の主権的な救いのご計画による。
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No.772 - 3月5日: 「枯れたいちじくの木」 マタイの福音書21章18節〜22節
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(みことば)「一本のいちじくの木が…イエスはその木に「今後いつまでも、
おまえの実はならないように」と言われた。…いちじくの木は枯れた。」
マタイの福音書21章19
イエスは、エルサレム入城の翌日朝早くベタニヤからエルサレムに向かう。
エルサレム入城は、紀元30年ニサンの月の10日(ユダヤ暦)の日曜日だが、
その日から過越の祭りの準備が始まる。その日に贖いの羊を用意し14日に
屠り、羊の血を二本の門柱と鴨居に塗るように定めている。(出エジプト 12:2~7)
主はニサンの月の10日にエルサレムに入城され、過越の成就として14
日の金曜日に十字架にかかり人類の罪の贖いとなる。主はご自分が拒絶され、
十字架にかけられるエルサレムの都であるが、そこに「帰る」と記している。
神殿がどんなに堕落した状態でも、そこは神の家であり、主は「わたしの
家」と呼ばれた。神は、たとえ罪の世であっても、この世を愛しておられ、
その愛のしるしが「イエスが人として世に来られ十字架にかかる」事である。
主は、その途中で「空腹を覚え」られた。主は、公生涯の初めに悪魔の誘
惑を受ける前にも「空腹を覚え」られたが、それは主の人間性の端的な表現
である。主イエスは全能の神であるが、私達の贖いの為に全き人となられた。
主は、「道端にある一本のいちじくの木が見えたので」実を期待したが、「葉
があるだけで…何もなかった。」その木は、主の空腹を満たす事がなかった。
主が「今後…お前の実はならないように」と言うと「たちまち…枯れた。」
「実を結ばないいちじくの木を枯らせる」奇跡は、これまでの病人の癒し
等の奇跡と比べると異質に思える。それは、人ではなく、自然界に対する奇
跡であり、「生きた木を枯らせる」という神の裁きを象徴する御業である。
キリストは、エルサレムの都に帰ろうとしておられるが、その人々は、人
となられた主の飢え乾きを覚えず、彼を拒絶して十字架にかける。主の空腹
を満たす事のない「いちじくの木」は、まさにイスラエルの象徴であった。
主は、審判の時「羊をやぎから分けるように…羊を自分の右に、やぎを左
に」分け、羊に対し「わたしが空腹であったとき…食べ物を与え…」と言う
が、やぎに対しは「わたしが空腹であったとき、食べ物をくれず」と告げる。
主の空腹を満たす事ない木はたちまち枯れる。いのちを与える権威を持つ
方はいのちを取る権威もある。弟子達は、見て驚き「どうして…枯れたので
しょう」と問うが、それは主の権威と力による。命は、主の御手の中にある。
主は、このことから「あなたがたが信じて疑わないなら…この山に向い、
『立ち上がって、海に入れ』…そのとおりになる」と言われた。それは、神
を信じる者が、キリストの御業以上の業を成すことが出来る事を意味する。
「山が海に入る」とは比喩的表現と言えるが、主にそれが為せないわけで
はない。もし、主がそれをしたら人々は驚き十字架にかかる必要もない。だ
が、主はそれをせず、空腹のまま都に入り、主の空腹を誰も満たす者はない。
だが、主の救いの御業が世界の歴史を変えて行く。それは文字通り「山が
海に入る」奇跡である。「信じて祈り求める者は何でも受ける…」主の言葉
を疑う事なく信じて祈る者は、主と同じ御業、或いはそれ以上の事ができる。
主の飢えを満たす為に生き、疑わずに信じて祈るなら必ずその通りになる。
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No.771 - 2月26日: 「神の宮をきよめる」 マタイの福音書21章12節〜17節 |
(みことば)「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなの
に、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
マタイの福音書21章13節
キリストは、ろばに乗ってエルサレムに入城し神の宮に入るが、当時の神
殿はヘロデにより改築され、ソロモンの神殿に匹敵する荘厳なものであった。
後に、弟子達は神殿を見て「なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆する
が、主は、寧ろ、神の宮の庭で行われている行為を怒り、「その中で売り買
いしている者たちをみな追い出し、…鳩を売る者たちの腰掛を倒された。」
神の宮は、敬虔な人が集う祈りの場であるはずだが、そこは、商売人の怒
号が響く「強盗の巣」の様な有様であった。主は、宮で金儲けをする不敬虔
な輩を一掃するが、それは、当然、宗教的指導者達の反感を買う事になる。
彼らは、神の宮で商売する許可を与える権限を持ち、儲けの一部を受け取
っていた。主は、神の宮が世俗と変わらない状況を嘆き「『わたしの家は祈
りの家と呼ばれる』と書いてある…『強盗の巣』にしている」と言われた。
神殿は、神が住まわれる「神の家」であり、民にとって「祈りの家」であ
る。神の家が自分の利益を追及する人々の溢れる世俗の家と同じであっては
ならない。教会は、信徒の祈りと礼拝と献金によって維持されるべきである。
第2に、主は、「宮の中で、目の見えない人たちや…彼らを癒された。」そ
れは、前述の主の行為と対照的である。主は、神の宮で自分の利益を追求す
る人を排除されるが、ご自分のもとに救いを求めて来る人を憐れんで下さる。
異邦人や障碍者は、「異邦人の庭」と呼ばれた場所より先に行けなかった。
だが、主は、隔ての壁を打ち壊し、十字架によって和解と平和を齎された。
神の宮で盲人の目が開き、足の萎えた者が癒される。それはメシヤの証で
あるが、ユダヤの当局者は「何の権威によって…しているのか」と訴える。
ヘロデの神殿は、主が「どの石も崩されずに…石の上に残ることはない」
と預言した通り紀元70年にローマ軍により壊滅する。ユダヤ人はそれ以降、
神殿を失うが、神は、全ての人の救いと祈りの家として教会を建てられた。
第3に、祭司長と律法学者達は、宮の中で子供達が「ダビデの子にホサナ」
と叫ぶのを見て腹を立てた。エルサレム入城における人々の賛美は、子供達
の「流行り歌」となり、神の宮においてキリストへの賛美として謡われた。
だが、宗教的指導者達は、その子供の振る舞いに目くじらを立て赦せない。
彼らは、キリストが「何も知らない子どもを惑わしている」と考えた。「子
どもだから神を知る事が出来ない」とは言えない。そこに彼らの驕りがある。
主は、彼らに『幼子たち…の口を通して…誉を打ち立てられました』…読
んだことがないのですか。」(詩篇 8:2)と答えた。それは、彼らに対する皮肉
である。古い凝り固まった頭で、神の言葉をいくら読んでも、心に響かない。
神の言葉は、幼子のように素直に謙って読まなければ、霊的意味を汲み取
ることはできない。同様に主日の礼拝も、「自分の得になる」事を考えるの
でなく「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのか」を祈るべきである。
「イエスは彼らを後に…ベタニヤに行き…泊まられた。」そこは、愛する
者の家であるが、私達には「神の家」という安らぎに満ちた帰る場所がある。
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No.770 - 2月19日: 「主がお入り用なのです」 マタイの福音書21章1節〜11節 |
(みことば)「もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言い
なさい。すぐに渡してくれます。」
マタイの福音書21章3節
キリストの一行が、「エルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテ
パゲまで来たとき」キリストは、二人の弟子を「向こうの村へ」遣わされた。
彼らの使命は、イエスがエルサレム入城の際に乗るろばの子を連れて来る
事である。それは、「預言者を通して…成就するため」(4)と解説している様
に「シオンの娘に言え…子ろばに乗って」のゼカリヤの言葉の実現であった。
ゼカリヤは、バビロンの捕囚から帰還した民が神殿を再建するのを励まし
たが、再建された神殿に「あなたがたの王が…ろばに乗って来られる」と民
に告げた。その預言は、民の心をどれほど励まし、奮い立たせた事だろう。
主は、弟子達に「向こうの村へ…ろばがつながれて…」と告げるが、予め
見ていないのに全ての状況を知っている。人は将来起こる事を予想できない。
だが主は予知するだけでなく、全てをご自分の意図に従って導く事が出来る。
また、弟子達がろばの綱を勝手にほどけば「誰かが何かを言う」と予想で
きる。その時は「主がお入り用なのです」と言えば「すぐに渡してくれる」
と言う。彼らは半信半疑で出かけたであろうが、主の言われた通りになる。
主は、ろばの所有者と話を付けておいた訳ではない。寧ろ、主は、ろばの
所有者の心を解きほぐすように予め働きかけられた。キーワードは「主がお
入り用なのです。」であるが、直訳は「彼の主が必要を持っている」である。
「彼の」とは、ろばの子を指す。たとえ「ろばの所有者」がいても、彼の
主はキリストである。キリストは、万物の支配権を持っておられる。私の物
も含め「全ては主の物」と言う意識があれば、この世への執着から解かれる。
ろばの所有者は、主の必要の為にろばの子を連れて行く事を許した。ろば
の子は、キリストを乗せエルサレム入城の為に用いられる。預言者は「戦い
の弓を絶ち、平和を告げる王」が、「ろばの子に乗って来られる」と告げる。
主は、軍馬や戦車ではなく、誰も乗った事のない子ろばに乗られる。主は、
世の支配者と違い、威厳や権力や軍事力を誇示するのではなく、謙って人に
仕え、十字架の贖いによって、人類に和解と平和を告げる王として来られる。
すると「多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷き…木の枝を切って道に
敷く者もいた。」木の枝は「棕櫚」の葉で、「王の凱旋の祝い」に用いられた。
群衆は、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ」と歓喜してキリストを迎えた。
「ホサナ」は(救って下さい)のヘブル語で、「ハレルヤ」や「アーメン」と同様、
ユダヤ民族の信仰を象徴する言葉である。マタイは、「都中が大騒ぎになり」
と表現するが、それは、エルサレムの指導者にとって由々しき事態であった。
彼らは「王キリストのエルサレム入城」が「ローマへの敵対行為」と見做
される事を恐れた。彼らは、これ以降イエスの行動を監視し捕えようとする。
歓喜した群衆も僅か一週間後に「十字架につけろ」とその態度を豹変させる。
群衆の持つ危うさを覚える。それはエルサレムの指導者の扇動によるもの
であるが、一部の人間に扇動された人々は、「群集心理」により理性を失い、
誤った道を突き進む。それは「この人はだれなのか」を知らないからである。
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No.769 - 2月12日: 「主よ、あわれんでください」 マタイの福音書20章29節〜34節 |
(みことば)「群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主
よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」
マタイの福音書20章31節
キリストはエルサレムに上る途上、弟子達に十字架と復活の予告をされた。
その後「一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。」
「目の見えない二人の人」が主に救いを求めて叫ぶ。マタイ9章でも似た
奇跡が記されているが、その2つは異なる出来事である。旧約には、盲人が
癒される奇跡は一度もないが、福音書では、イエスによって何度も為される。
イザヤは、「目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。」とメシヤの
預言を記し、それは、キリストにおいて実現した。また、盲人の癒しの奇跡
は、「目の見えない人が見えるようになる」と言う霊的意味がそこに重なる。
イエスは、群衆と共にエリコを出てエルサレムに向かう。その時、二人の
盲人が「主よ…私たちをあわれんでください。」と叫ぶ。ルカは、「一人の目
の見えない…物乞い」と記すが、盲人の成り振り構わない熱心さは共通する。
一般的に、人目を気にする日本人なら、彼らのように自分の意志と願いを
大胆に表明しない。他者との協調性も大事だが、世間体など、人目を気にし
て信仰を公にしなければ、彼らのような恵みと奇跡を経験する事は出来ない。
彼らが人目も憚らず叫ぶのは、目が見えないからである。彼らは、キリス
トが何処にいるのか分からない。自分達の存在や願いを知ってもらうには、
叫ぶ以外に方法がない。真剣に救いを求める人は、彼らのようにするだろう。
又、彼らは、この機会を逃したら、二度と救いの機会が訪れないと感じた。
その通り、キリストは、エルサレムに行かれたら二度とこの道を戻ることは
ない。一度きりの人生にやり直しは効かない。悔いのない生き方をしよう。
だが、人々は彼らを抑えようとした。「群衆は彼らを黙らせようとたしな
めたが…」真剣に救いを求めようとすると必ず反対が起こる。だが、「彼ら
はますます…叫んだ。」それにめげずに立ち向かわないと救いは実現しない。
彼らの救いに対する熱心さは、金持ちの青年と違っていた。青年は、キリ
ストに救いの方法を求めたが、盲人達は、キリストに救いを求めた。「救い
は、キリストのみで、他にない。」彼らの信仰の熱心さは、そこから来る。
主は、彼らの叫びを聞き、「立ち止まり、彼らを呼んで…わたしに何をし
てほしいのか。」と尋ねた。彼らは、「主よ、目を開けていただきたいのです」
と答える。当然の返答であるが、主は、彼らの明確な信仰の告白を求めた。
「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると…」ヨハネの
福音書の盲人の記事で、パリサイ人は、「私たちも盲目なのですか」と問い、
キリストは「私達は見える」と言っている、そこに「罪は残る」と言われた。
現代は、目があっても神を見ようとしない盲目さがある。今の社会は、あ
らゆる分野に無神論の世界観が蔓延する。自然界は、偶然に出来たのではな
い。神がいないなら、世界の存在の根拠も人間の生きる意味も説明できない。
霊的に盲目なら、自分が何処に行くのか分からない。「主よ、われんでく
ださい。」(キュリエ エレイソン)とは、最も純粋で短い神への祈りである。それは、
「私は神なしに生きることはできない」と言う主にのみ信頼する告白である。
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No.768 - 2月5日: 「偉くなりたいと思うなら」 マタイの福音書20章17節〜28節
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(みことば)「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたが
たの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」
マタイの福音書20章26節
キリストは、エルサレムに上る途中で12弟子に3度目の受難と復活の予
告を語る。エルサレムは、キリストの救いが成就する場所として重要である。
3度目の受難の予告は、以前に比べ「異邦人に引き渡し…嘲り、むちで打
ち、十字架につける」と詳細に語られる。「祭司長や律法学者たち」ユダヤ
人は、キリストを異邦人に引き渡し、神を知らない異邦人の手で殺させる。
十字架はキリストが異邦人に渡されたしるしである。ユダヤ人は、十字架
を処刑の方法に用いないなかった。何故なら木にかけらた者は、神に最も呪
われた者と考えたからである。イエスは、神に呪れた象徴として処刑された。
3度の予告の共通点は、キリストの死と復活である。復活の予告は、それ
を聞く者に神の勝利への期待と希望を与える。弟子達はその両面を正しく聞
き取らなければならなかった。ペテロは、以前キリストをいさめ叱責される。
それはゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様である。彼らの母がイエスに「ひ
れ伏し、何か願おうと」した。彼女は、ガリラヤから従って来た女達の一人
である。彼女の願いには問題があるが、彼女の信仰は認めなければならない。
彼女は、二人の息子が御国でイエスの「右と左に座れるように」と願った。
世の親なら有りがちだが、所謂、息子達の立身出世を願った。彼女も、主の
言葉を聞き取れず、キリストがエルサレムに向かう意味を理解していない。
母親の願いは、一緒に来た二人の弟子も同じだったはずである。献身して
主に従う身であっても、彼らの中にも世俗的な野心と虚栄が存在する。主は、
「あなたがたは自分が何を求めているのか分っていません。」と言われた。
勿論、彼らの願いは明白で「御国における高い地位」であったが、主は、
彼らが「何を求めるべきか」を告げた。彼らは、キリストの救いや天の御国
をこの世の延長で考える。神に何を祈り求めるべきか、吟味すべきである。
更に、主は、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と
問い、彼らは「できます」と答えた。その杯とは、喜びや祝いの杯ではなく、
キリストの受難を表わす「苦き杯」である。彼らは、それが出来るという。
だが、その杯は、神の呪いと刑罰を一身に受ける十字架の死を意味し、そ
れを成し遂げる事が出来るのは、神の御子キリストだけである。それでも、
主は、彼らの言葉を否定せず「わたしの杯を飲むことになります」と答える。
その言葉の通り彼らは、キリストの十字架と復活の後に御霊によって変え
られ、主の働きの為に殉教し、神の道を全うする。しかし、そうであっても、
主は「右と左に座ることは、わたしの許すことではありません」と告げる。
キリストは、神の御姿であられるが、徹底して父に従い、十字架の死にま
で従われた。誉と評価は、神が与えるもので、自分で下すものではない。「誇
る者は主を誇れ。」しかし、これを聞いた他の弟子も、二人に腹を立てた。
イエスは、彼らに「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」
と言われた。その最高の模範がキリストである。「人の子が…来たのと、同
じようにしなさい。」主と同じ道を歩み、その御跡に倣う生き方をしよう。
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No.767 - 1月29日: 「恵み深い主の御心」 マタイの福音書20章1節〜16節 |
(みことば)「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あ
なたと同じだけ与えたいのです。」
マタイの福音書20章14節
主は、天の御国を「ぶどう園で働く者を雇う…家の主人」に譬えが、それ
は、天の御国が人の努力によらず、神の主権的な恵みによる事を譬えている。
主人は、早朝に働く者を雇う為に市場に行き、「労働者たちと一日一デナ
リの約束をすると…に送った。」主人は、1デナリ(一日の労働者の賃金)
で、労働者と雇用契約を結ぶ。彼らは、仕事を与えられ、報酬を約束される。
主人は「9時ごろ出て行き…何もしないで立っている」人を見て、彼らに
「相当の賃金を払うから」と約束し、ぶどう園に招く。彼らは、もし雇われ
なければ、仕事も無く暇を潰し、空しく時を過ごすだけで、何の報酬もない。
「相当な賃金」とは「公平なもの」の訳で主人の誠実さを示す。ぶどう園
の主人は神を、ぶどう園は天の御国を、労働者は御国に招かれた人を指す。
第1に天の御国に招かれた者は、人生の意味や価値や目的を見出せる。神
を知らなければ、人生の究極の意味や目的は何も分からない。多くの人は、
閉塞的な時代の中で自己の存在の意味を見出せず、空虚な人生を送っている。
第2に天の御国に生きる者は、報酬が約束されている。労働者は、報酬が
あるから辛い労働も頑張れる。世の人は、死をもって終わる人生にどんな報
酬を期待できるだろう。キリスト者には、永遠のいのちと御国の約束がある。
主人は、早朝と9時頃だけでなく、12時と3時と夕方の5時にも、働く
人を雇う為に出かける。彼は、自分の利益より、仕事にあぶれた人の雇用を
優先に考えた。神は、天の御国に一人でも多くの人を招きたいと願っている。
主人は、市場で立っている人に「なぜ一日中何もしないで…」と問う。彼
らは「だれも雇ってくれないから」と答える。彼らは、幾人もの雇用者に断
られ、自分の存在の価値さえ拒否されたように絶望していたのかも知れない。
だが、天の御国に招かれた者は、自分の存在の意味や価値を見出す事でき
る。それは、神の愛を知っているからである。神の招きに答えるのに「遅す
ぎる」と言う事は無い。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ぶどう園の主人は、その日の労働が終わった時に、監督に命じて労働者た
ちに賃金を支払う。だが、主人の支払いの方法は、通常と異なり、「最後に
来た者たちから始めて、最初に来た者たちまで」賃金を払うように命じる。
そこで、最後に招かれた者は、「それぞれ1デナリずつ受け取った。」彼ら
は、報酬の多さに驚き、幸運を喜んだに違いない。天の御国に招かれた者の
恵みがそこにある。主は、私達が想像もできない程の報酬を備えて下さった。
最初の者たちは、それを見て「もっと多くもらえるだろうと思ったが…1
デナリであった。」彼らは、自分達が最後に来た者と同じに扱われた事に「不
満をもらした。」だが、主人は、彼らに何も「不当なことはして」いない。
彼らが不満に思うのは、他と比較し嫉むからである。彼らは、仕事と報酬
が与えられた事を感謝すべきである。「私はこの最後の人にも、あなたと同
じだけ与えたいのです。」主人は「誰がどれだけ働いたか」と言う世の評価
でなく、その人の必要を、その人の思いに勝って与える気前の良い方である。
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No.766 - 1月22日: 「天の栄冠を目指して」 マタイの福音書19章23節〜30節 |
(みことば)「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るより
は、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
マタイの福音書19章24節
富める青年は、永遠のいのちを得る方法を求めて、主のもとに来るが「あ
なたの財産を売り払って…」の命令に答えられず、悲しみながら立ち去った。
彼は、救いを真剣に求めながら、目に見える財産を手放せない。彼は、そ
の様な選択しかできない自分を嘆いて悲しんだのかも知れない。彼の様に暫
く教会に来ても、この世の物を捨てられず、悲しみながら去る人も多くいる。
その決断は、目に見えない神の国に望みを置くか、この世に望みを置くか
によって変る。誰もが、やがて死を迎えるが、その時、全ての物をこの世に
残して、世を去らなければならない。彼の決断は、如何に儚く空しい事か。
主は、彼が去った後で「金持ちが天の御国に入るのは難しい…らくだが針
の穴を通るほうが易しい」と言われた。主は、「この地上に宝を蓄えるのは
やめなさい」とも教えた。主の言葉は、この世の価値観と全く対照的である。
弟子達は、「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と驚いた。
彼らは、品行方正で裕福な青年こそ、神に祝福された、救いに近い人と思っ
たのだろう。その人が救われないなら、一体、誰が救われるのかと考えた。
主の言葉から人の救いの困難さを知る。日本のキリスト者の希少さから言
うなら、人の救いは、奇跡とも言える。エレミヤの時代の様に「民の傷を簡
単に手当てし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言って」はならない。
主は「それは人にはできない…が、神にはどんなこともできます」と答え
る。第1に人の救いは、人の力に拠らない。青年は、自分の力で救われ様と
するが、それは無理である。私達は「恵みのゆえに…信仰によって救われた。」
第2に神は、どんなことでもできる。近代の哲学や科学は、それを認めず、
神に依存しない人間の自律を説くが、この世界は神によって創造され、そこ
に人は何も関与してない。救いも同様に、それは神による新しい創造である。
「神にはどんなことできます。」その言葉を信じるなら、聖書の全ての奇
跡も真実と認める事ができ、人生の全ての困難も解決する。現代の科学は神
の存在を認めず、この自然が偶然に出来たと考えるが、それは、欺瞞である。
ペテロは「私たちはすべてを捨てて…何がいただけるでしょう。」と問う。
彼らは、富める青年と違い「すべてを捨てて主に従って来た」と自負するが、
だが、無に等しい者が神の働きに召される事も、主の憐れみと恵みである。
彼らのその自信もやがて十字架の際に打ち砕かれる。だが、主は、彼らに
「人の子がその栄光の座に着くとき…十二の部族を治めます。」と約束する。
今は戦争があり、疫病と悪が蔓延る時代であるが、やがてキリストが再臨
する時、罪の時代が滅び、「新しい世界」が始まる。その時、キリスト者は、
キリストと共に神の国を治める者となる。私達の救いと希望は、ここにある。
「わたしの名のために…捨てた者は…」この世の物を捨てなければ、主に
従えない事がある。その時、誰を愛し何を第一にしているかが試される。「先
にいる…者が後になり…後にいる…者が先になる」私達は、天の栄冠を目指
して走る競技者の様に、後ろのものを忘れ、目標を目指して一心に走ろう。
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No.765 - 1月15日: 「永遠のいのちを得るには」 マタイの福音書19章13節〜22節
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(みことば)「一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいの
ちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
マタイの福音書19章16節
「イエスに手を置いていただくために、子どもたちがみもとに連れて来ら
れた。」だが、弟子達は、子どもたちが来るのを疎ましく思い彼らを叱った。
キリストは、弟子達に「子どもたちを来させなさい…天の御国はこのよう
な者たちのものなのです」と言われた。主は、既に「子どものようにならな
ければ…天の御国に入れません」と語っていたが、彼らはそれを忘れていた。
一人の人がイエスに近づき、「先生。永遠のいのちを得るために、どんな
良いことを…」と尋ねる。弟子達は、彼に対して子供達とは違う態度を取る
が、それは、彼が立派な青年だったからである。人は見かけで人を判断する。
その人は、真面目に救いを求め、良い生き方を心がける、人間的に申し分
のない裕福な青年であった。「永遠のいのちを得る」とは、「救われる為」或
いは「天の御国に入る為」と言えるが、彼は至って真面目な求道者であった。
主は、彼に「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか…」と答
える。彼は、良い行いによって永遠のいのちを得られると考えていたが、そ
れは、世の人の典型である。だが、人は、どんな善行によっても救われない。
彼は、善行によって永遠のいのちを得ようと努力するが、主は、「良い方
はおひとりです。」と神に目を向けさせる。救いは、人の行いによるのでは
なく神の憐れみによる。そして、キリストのうちには、永遠のいのちがある。
彼は、キリストを「宗教的指導者・道徳的教師」として「先生」と敬うが
主とは呼ばない。彼は、イエスの元に連れて来られた子どものようではなく、
努力家で、それを自負する人である。だが、彼は天の御国から遠い人である。
主は、「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」と命じる。だが、
それは、「救われる為に律法を守る必要がある」と言う事ではない。それは、
彼が救いの為に善行に固執するからである。それを完全に守れる人はいない。
彼は、「どの戒めですか。」と尋ね、主は、第5戒〜9戒とその要約「あな
たの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」を示した。彼は、「私は…すべ
てを守って来ました。何がまだ欠けて…」と問う。彼の言葉は真実だろうか。
彼の矛盾は、「すべて守って来た」と言いながら、「何がまだ欠けているで
しょう」と尋ねる事である。もし完全であるなら尋ねる必要もない。彼がキ
リストに永遠のいのちを尋ねるのも、彼自身に救いの確信がないからである。
魂の平安は、キリストの贖に基づく罪の赦しにある。それは、律法の行い
によるのではなく、キリストを信じる信仰による。主は、彼に「完全になり
たいのなら…財産を売り…そうすれば…天に宝を持つことになる」と告げる。
だが、それは、財産を貧しい人に施せば救われると言うのではない。主は、
それにより彼の不完全さを示そうとされた。「青年は…悲しみながら立ち去
った」彼は自分の不十分さを知り、幼子の様に主に救いを求めるべきだった。
彼は、自分の財産を捨てて、主に従うことが出来なかった。だが、弟子達
は、何もかも捨てて、主に従っていた。その違いは、キリストに永遠のいの
ちがあると信じ、この世の富みより天の御国に価値を見出すかどうかによる。
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No.764 - 1月8日: 「神聖な結婚の定め」 マタイの福音書19章1節〜12節
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(みことば)「イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのです
か。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。」
マタイの福音書19章4節
キリストは、ガリラヤでの活動を終え、ヨルダンを経てユダヤ地方に入り、
エルサレムに向うが、その途上でパリサイ人から離婚問題について試される。
結婚制度は、社会の根幹を成す重要な事柄であるが、罪の社会において最
も大切な結婚の有り方が崩れている。その結果、離婚の問題が起こって来る。
彼らは、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているで
しょうか。」と試すが、離婚問題は、学者の間でも論争のある課題であった。
彼らは、「どんな理由があれば、離婚が成立するか」イエスの見解を求めた。
律法には、「もし、妻に恥ずべきことを見つけたために…離縁状を書いて
…彼女を家から去らせ…」(申命記 24:1)とあるが、「恥ずべきこと」を「不貞」
と解釈する学者や「妻が料理を腐らせても離婚できる」と考える学者もいた。
現代において、離婚理由の第1は「性格の不一致」であるが、それを離婚
理由に挙げるなら全ての夫婦に当て嵌まる。「妻に恥ずべきことを見つけ…」
とあるが、それは、男性目線であり、妻の側から夫に対して同じ事が言える。
主は、律法の解釈以前に創造の原点に遡り、結婚の有り方を説かれる。「創
造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。」結婚や離婚等
の倫理的な問題は、神の創造の原点に遡らなければ、その規準を見出せない。
創造者を知らない世の人は、明確な倫理基準を何も持たず、「同性愛」も
多様な個性の表われと考え「同性婚」も容認する。だが、神は、「男は父と
母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」と言われた。
第1に、結婚は、「男は父と母を離れ…」から始まる。それは、両親から
の精神的、経済的な分離と自立を意味する。第2は、「その妻と結ばれ、ふ
たりは一体となる」とある。それは、肉体的、精神的な一体性を意味する。
様々な問題も、親の介入や保護によってでなく、夫婦で解決しなければな
らない。その時、夫婦間に一致がなければ共に歩めない。一致の規準は、「読
んだことが…」「と言われました。」とある様に、神の言葉と神の御心による。
「彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。」夫婦は、結婚により不
可分の関係になるのであれば、原則的に離婚はあり得ない。「神が結び合わ
せたものを人が引き離してはなりません。」結婚の原則を崩してはならない。
だが、彼らは「何故、モーセは、離縁状を渡し…命じたのですか」と反論
する。モーセは、離婚を命じたのではなく、「心が頑ななので…許した」に
過ぎない。離縁状を書くのは、夫の為ではなく妻の立場を保護する為である。
「しかし、はじめの時からそうだった」のではない。神聖な結婚の定めは、
罪の社会の中で歪められ崩れているが、キリスト者は、パリサイ人の様に離
婚を考えるのではなく、和解、平和、回復を祈るべきである。主は、サマリ
ヤの女の場合の様に、人の罪の破れ口に立ち、そこから人を回復して下さる。
弟子達は、「そのようなものなら、結婚しないほうがましです」と反応す
るが、主は、「それが許されている人だけができる」と答える。結婚するか
しないかは、人の利害で決める事ではなく、主の許しがなければできない。
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No.763 - 23年1月1日: 新年「主の癒しと救いを求めて」 U列王記5章1節〜19節
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(みことば)「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれ
ば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
U列王記5章10節
アラムの将軍ナアマンは、主君に重んじられ、尊敬されていたが、「ツァ
ラアトに冒されていた。」ツァラアトは不治の病と恐れられた皮膚病である。
地位や名誉があっても、どうにもならない事がある。歴戦の強者でも、重
い病や死に自力で打ち勝つ事はできない。彼の成功も災いも主が与えている。
だが、イスラエルから捕えて来た若い娘が、ナアマンに救いの希望を伝え
る。彼女は「サマリヤにいる預言者が彼の病を癒してくれる」と告げた。彼
女は地位も名誉も財産もないが、ナアマンにはない救いの希望を持っていた。
ナアマンは、彼女の知らせに心を動かされ、それを王に伝える。すると、
王は、「私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう」と紹介状を書く。若い
娘の一言が主人を動かし、一国の王を動かす。神は信仰のある所に働かれる。
彼は、「銀十タラントと金六千シュケル…を持って出かけた。」彼は、以前
イスラエルと戦い、略奪する為に行ったが、今は、イスラエルに救いを求め、
贈り物を持って行く。それは、神の預言者がそこにいると聞いたからである。
その書状には、イスラエルの王に宛て「彼のツァラアトを治してください
ますように」と書かれていた。王は、それを見て「私は殺したり、生かした
りする…神であろうか。…彼は言いがかりをつけようとしている」と勘ぐる。
彼は、異邦人がイスラエルに救いを求めて来るのを素直に受け留められな
い。それは、全能の神と預言者がイスラエルにいる事を知らないからである。
預言者は、王の言葉を聞いて、「その男を私のところによこしてください。」
と命じる。主は、救いを求める全ての者に「わたしのところに来なさい。」
と招く。「ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入口に立った。」
彼は、どんな預言者が出て来るか期待しながら待った事だろう。だが、預
言者は、家から現れず、使者を遣わし「ヨルダン川へ行って七回あなたの身
を洗いなさい」と命じた。すると彼は預言者の態度と命令に激怒して去った。
まず、彼が怒ったのは、預言者が現れなかったからであるが、それは「預
言者の力が彼を癒した」と思わせない為である。彼を癒すのは、神であり、
彼は、神の言葉に従わなければならない。それが、彼の救いの条件であった。
彼には、「彼が…出て来て立ち…主の名を呼んで、この患部の上で…」と
彼の救いのイメージがあった。だが、預言者の言葉はそれと全く違っていた。
しかし、救われる為に自分の理想や考えを捨てて、主の言葉に従う事である。
彼は、「ダマスコの川、アマナやパルパルは…」と自国の川の立派さを誇
る。彼が「馬や戦車でやって来た」のも威厳を保つ為である。彼は、身に着
けた鎧も刀も誇りも全て捨てて、ヨルダン川に七回身を沈める必要がある。
彼は、家臣の「わが父よ。難しいことを…」との忠告を聞き、その言葉に
従う。「すると彼のからだは…幼子のように…きよくなった。」彼は、感激し
て、預言者の所に引き返し、信仰を告白し、預言者に贈り物を贈ろうとする。
預言者は、それを辞退するが、後に若者のゲハジは、金品に目が眩む。「今
は金を受け、衣服を…受ける時だろうか。」(26)神の清さを失わないように。