smart

2024年の説教




No.867 - 12月29日: 「主を優先する生き方」 コリント第1の手紙16章1節〜14節


(みことば)「私がそちらに行ってから献金を集めることがないように…い つも週の初めの日に、収入に応じて…手もとに蓄えておきなさい。」 コリント第1の手紙16章2節

 パウロは、キリスト者の信仰にとって重要なテーマである死者の復活の問 題を語り終え、最後に献金の問題とコリント教会訪問の計画について述べる。
 パウロは、「聖徒たちのための献金について」と述べているが、「聖徒たち」 とは、困窮していたエルサレム教会、即ち、ユダヤ人のキリスト教会を支援 する為の募金であった。パウロは、それを異邦人教会の責務として命じた。



No.866 - 12月22日: 「恵みに満ちた貧しき場所」 ルカの福音書2章1節〜17節


(みことば)「マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ…その子を布にく るんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」 ルカの福音書2章6,7節

 ルカの福音書を記したルカは、歴史家として、キリストの誕生に関して、 いつ、どこで、どのように生まれ、何が起こったのかを克明に記録している。
 キリストの誕生は、皇帝アウグストゥスが「全世界の住民登録」の勅令を 出した時代である。アウグストゥスは、ローマの初代皇帝として世界の覇権 を握り、世界に「ローマの平和」(パックスロマーナ)を実現させた君主である。彼 の支配は「キリニウスがシリアの総督」と記すようにユダヤにも及んでいた。



No.865 - 12月15日: 「神の恵みの訪れ」 ルカの福音書1章5節〜23節


(みことば)「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心 を子どもたちに向けさせ…主のために、整えられた民を用意します。」 ルカの福音書1章17節

 ルカの福音書は、キリストの誕生の一連の記事の中で「祭司ザカリヤが、 神殿の務めを果す時に、妻エリサベツの懐妊を告げられる」記事から始まる。
 ルカの福音書の冒頭の「私たちの間で成し遂げられた事柄」(1)とは、人 の働きや業によるのではなく、ただ天からの神の介入と御力による事を示す。 福音の中心は、キリストの誕生に始まり十字架の贖いと復活により完成する。



No.864 - 12月8日: 「死は勝利に呑まれた」 コリント第1の手紙15章50節〜58節


(みことば)「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みな さい。…労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」 コリント第1の手紙15章58

 パウロは、「死者はどのようによみがえるのか」と復活を懐疑的に捉える 人々に復活の方法と原理、その性質を自然界の法則と対比ながら論じて来た。
 彼は、「兄弟たち。私はこのことを言っておきます。」と、その結論として 「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは…相続できません。」 と語る。「血肉」とは、文字通り血と肉の意味で、地上の朽ちる肉体を指す。



No.863 - 12月1日: 「どのように復活するのか」 コリント第1の手紙15章35節〜49節


(みことば)「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらさ れるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」 コリント第1の手紙15章44節

 パウロは、死者の復活を論証して来たが、教会には、「死者はどのように よみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と懐疑的に問う者がいた。
 それは復活の方法と復活のからだに関する疑問であるが、パウロは、その 人々に対し「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされませ ん」と答える。そもそも、それは、神の力を信じない人の愚かな疑問である



No.862 - 11月24日: 「何のために生きるか」 コリント第1の手紙15章26節〜34節


(みことば)「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしよう ではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。」 コリント第1の手紙15章32

 神の救いは、キリストの再臨の時に完成し、その時、人類の最後の敵であ る死も滅ぼされ、神に敵対する一切の権威がキリストの足の下に置かれる。
 キリストが王となる新しい世界では「神がすべてにおいてすべて」となら れる。その時、神に敵対する勢力が一掃され、神は、悪魔即ちサタンを捕ら え、「千年の間縛り…底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ」(黙示録 20:2)封印する。



No.861 - 11月17日: 「復活の順序」 コリント第1の手紙15章20節〜28節


(みことば)「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中か らよみがえられました。」 コリント第1の手紙15章20節

 パウロは、教会の中で「死者の復活がない」と言う人々に、キリストの復 活が確かな事実で、死者の復活の希望もその事実に基づいている事を語った。
 次に、パウロは、キリストの復活の事実が、キリスト者の将来にどのよう な結果を齎すかを語る。「キリストの復活は二千年前の確かな事実」と言う 事に留まらず、キリストの再臨と共に、世界を変えて行く壮大な力を持つ。



No.860 - 11月10日: 「死者の復活がないなら」 コリント第1の手紙15章12節〜19節


(みことば)「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに 望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」 コリント第1の手紙15章19節

 パウロは、最も大切な福音の要点としてキリストの死、葬り、復活を語り、 特に、キリストの復活が、多くの証人による確かな事実であると証言した。
 パウロが改めて復活を語らなければならなかったのは、コリントの教会の 中に「死者の復活はない」という人達が出て来たからである。キリストの復 活は、福音の中心的教義であるだけに、それは教会にとって大問題であった。



No.859 - 11月3日: 「最も大切な福音の言葉」 コリント第1の手紙15章1節〜11節


(みことば)「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受 けたことであって、次のことです。」 コリント第1の手紙15章3節

 パウロは、御霊の賜物のことからキリストの復活へと主題を変えて論じる。
 パウロが、復活について語らなけばならなかったのは、コリントの教会に  「死者の復活はない」(12)と主張する者が現れ、そのような自由主義的な考 えに対して、「福音とは何か」を弁明しなければならなかったからである。



No.858 - 10月27日: 「主の命令を聞く者」 コリント第1の手紙14章33節〜40節


(みことば)「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。 あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。」 コリント第1の手紙14章36節

 パウロは、教会の礼拝を秩序正しく行い、「神は混乱の神ではなく、平和 の神なのです」と語り、その文脈の中で、最後に女性のあり方について語る。
 「女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていま せん。」パウロの命令は、コリント教会だけでなく、「聖徒たち全ての教会で 行われている」事であり、「律法にも」命じられている普遍的な教えである。



No.857 - 10月20日: 「平和と秩序の神」 コリント第1の手紙14章26節〜33節


(みことば)「預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱 の神ではなく、平和の神なのです。」 コリント第1の手紙14章31、32節

 パウロは、これまで異言の問題を語って来たが、その結論として、「それ では、…どうすればいでしょう。」と、正しい教会の礼拝のあり方を述べる。
 初期の教会には、「賛美、教え、啓示、異言、解き明かし」などの要素が あるが、特に「異言、預言、啓示」など、今日の礼拝のあり方と随分違いが ある。それは、教会が新約聖書の完結してない過渡的時代だったことによる。



No.856 - 10月13日: 「神の言葉による成長」 コリント第1の手紙14章20節〜25節


(みことば) 「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事において は幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」 コリント第1の手紙14章20節

 パウロは、預言と異言の賜物を比較し、「異言より預言する人の方がまさ っており、異言で語るより、預言することを熱心に求めなさい。」と勧めた。
 コリントの教会の信徒が、幾ら熱心に異言を語っても、それは自己満足に 過ぎず、教会の益にならず、成長に役立つものでもなかった。そこで、パウ ロは、「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。」と勧める。



No.855 - 10月6日: 「よりどころはありますか。」 


(みことば)「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避 け所となる。」 箴言14章26節

***音声のメッセージとは異なります***
 特別伝道集会は「あなたによりどころはありますか。」と言うテーマです が、聖書には「力ある拠り所は主を恐れることにある」と告白されています。
 「拠り所」とは、「信頼」「頼み」「確信」「より頼むもの」等の意味があり ますが、あなたの人生には、確かな信頼できる「拠り所」がありますか。人 は、一生の間に多くの苦難に遭遇するものですが、その時に本当に信頼でき る確かな拠り所を持つ人は幸いです。それは「主を恐れること」にあります。



No.854 - 9月29日: 「ことばと知性による宣教」 コリント第1の手紙14章10節〜19節


(みことば)「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性 でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」 コリント第1の手紙14章15節

 パウロは、預言と異言を比較し、異言に関して「解き明かしをして教会の 成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっている」と語った。
 「世界には…意味のないことばは一つもありません。」異言も預言も言葉 に関する賜物であるが、神は、人間だけに言葉の賜物を与えられた。言葉は、 神と交わり、人間社会を築く上で欠かす事のできない意思疎通の手段である。



No.853 - 9月22日: 「神の言葉を求める」 コリント第1の手紙14章1節〜9節


(みことば)「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言すること を熱心に求めなさい。」 コリント第1の手紙14章1節

 パウロは、前章の文脈を踏まえ「愛を追い求めなさい」と語りつつ、新た な展開として「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と語る。
 彼は、御霊の賜物の中で、預言と異言を対比し、「そのどちらの賜物が優 れているか」を紙面を割いて論じている。それは、コリントの教会において、 異言の賜物の理解と用法に混乱があり、礼拝の秩序が乱れていたからである。



No.852 - 9月15日: 「愛がないなら」 コリント第1の手紙12章31節〜13章7節


(みことば)「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これ ら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」 コリント第1の手紙13章13節

 パウロによる「愛の賛歌」の前半を学んだが、聖書において「愛」とは、 抽象的な概念ではなく、神と人間との関係を表す最も重要な言葉と言える。
 「私たちは…神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」(Tヨハネ4:16) パウロの説く愛とは、神の愛(アガペー)であり、キリストの救いによって完成 した神の究極の愛である。それが分からなければ、神も、愛も分からない。



No.851 - 9月8日: 「愛がないなら」 コリント第1の手紙12章31節〜13章7節


(みことば)「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛 は自慢せず、高慢になりません。」 コリント第1の手紙13章4節

 パウロは、「愛の賛歌」と呼ばれるこの箇所で「愛がどのようなものか」 を語るが、この箇所は、愛の誓約を求められる結婚式等でも良く朗読される。
 パウロは、これまで語って来た「御霊の賜物」との関係で愛を説き明かす。 彼は、御霊の賜物を与えられ、キリストのからだの部分とされた者に、教会 を形作る為に必要なよりすぐれた賜物として愛を説き、愛に生きる道を示す。



No.850 - 9月1日: 「キリストのからだ(U)」 コリント第1の手紙12章21節〜31節


(みことば)「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つ の部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」 コリント第1の手紙12章26節

 キリストのからだである教会は、人間のからだのように、一つのからだで も多くの部分から成り、各部分は独自の働きをしながら調和ある働きをする。
 からだの各器官は、それぞれ無くてはならない存在であり、「目が手に向 かって『あなたはいらない』と言う」事はできない。それは、人の勝手な判 断で思い上がりである。進化論で言う退化した役に立たない器官等何もない。



No.849 - 8月25日: 「キリストのからだ」 コリント第1の手紙12章12節〜20節


(みことば)「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの 部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」 コリント第1の手紙12章12節

 パウロは、「御霊の賜物」について「イエスを主と告白する」救いも、聖 霊による事を語り、それ以外の賜物には、色々な種類がある事を述べて来た。
 次にパウロは、神の共同体である教会を人間のからだに譬える。「からだ は一つでも、多くの部分があり…」からだは多くの器官から成り、種々の器 官が、独自の働きをしながら、一つのからだを保つ為に調和ある働きをする。



No.848 - 8月18日: 「御霊の賜物」 コリント第1の手紙12章1節〜11節


(みことば)「あなたがたに次のことを教えておきます。…聖霊によるので なければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」 コリント第1の手紙12章3節

 パウロは、「主の晩餐」の記述に続いて12章から「御霊の賜物」につい て語るが、コリント教会には、「御霊の賜物」に関して誤解と混乱があった。
 「兄弟たち。御霊の賜物について…知らずにいてほしくはありません。」 御霊の賜物は、原文で「御霊のもの」(プニューマティコス)の意味であるが、それは、 御霊が与える賜物(gifts)の事であり、主の救いの完成によって与えられる。



No.847 - 8月11日: 「主の晩餐に預かる恵み」 


(みことば)「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、 わたしを覚えて、これを行いなさい。」 コリント第1の手紙11章25節

 パウロは、「次のことを命じるにあたって」と語るが、それは「主の晩餐」 に関する事で、主が「わたしを覚えて…行いなさい」と命じた定めである。
 パウロは、それを語る前に、「あなたがたの集まりが益にならず…害にな っている」と糾弾する。「教会が一つに集まる」事は、教会の本質であり、 特に、主の日の礼拝を聖別し、共に集まる事は、主の定めであり命令である。



No.846 - 8月4日: 「神の定めた秩序と権威」 コリント第1の手紙11章2節〜16節


(みことば)「次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリ ストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」 コリント第1の手紙11章1節

 パウロは、この箇所から、新しい話しの展開として、教会における「礼拝 の正しいあり方」或いは「礼拝における秩序」をかぶり物の問題から論じる。
 パウロは、礼拝において、「女性達がかぶり物を着けるべきかどうか」を 話題にする。今の私達には、そのような習慣がないが、それは文化的な違い によるもので、パウロは「女は…頭に権威のしるしをかぶるべき」と考えた。



No.845 - 7月28日: 「キリストに倣う者」 コリント第1の手紙11章1節


(みことば)「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う 者でありなさい。」 コリント第1の手紙11章1節

 パウロは、キリスト者の自由について語って来たが、その自由とは、世の 人の様に自由奔放に生きる事ではなく、神の支配と御言葉に従う自由である。
 パウロは、その自由を「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求める」 (10:24)生き方として勧め、彼自身も、「人々が救われれるために、自分の利 益ではなく、多くの人々の利益を求め…務めている」(10:33)と述べて来た。



No.844 - 7月21日: 「神の栄光を現わすため」 コリント第1の手紙10章23節〜33節


(みことば)「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何を するにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」 コリント第1の手紙10章21節

 パウロは、「すべてのことが許されている」と言いますが、…」と2度繰 り返して、キリスト者の救いの特徴の一つである「自由」について述べる。
 イスラエルは、神の奇跡により奴隷の家から解放され自由を与えられたが、 私達も、キリストの贖いにより罪と滅びから解放されて自由を与えられた。 それは、自由奔放に生きる為でなく、神の聖さと神の栄光を現わす為である。



No.843 - 7月14日: 「試練の時の避け所」 コリント第1の手紙10章14節〜22節


(みことば)「主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主 の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。」 コリント第1の手紙10章21節

 パウロは、「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(14) と語る。荒野の旅におけるイスラエルの第1の罪も「偶像礼拝」であった。
 「避ける」は「逃げる」の意味で、パウロは、愛する者達に偶像礼拝への 警戒を促す。イスラエルの信仰を駄目にした第1の要因は、偶像礼拝であり、 十戒の第2戒は「偶像を造ってはならない。拝んではならない。」である。



No.842 - 7月7日: 「神は真実な方」 コリント第1の手紙10章1節〜13節


(みことば)「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせ ることはなさいません…試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」 コリント第1の手紙10章13節

 冒頭の御言葉は、試練の中に生きる者にとって、支えとなり励ましとなっ て来た。私達が試練の中で、なお守られるのは、神が真実な方だからである。
 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」 パウロは、その試練について神とイスラエルの関係から語る。神は、荒野を 旅するイスラエルを導き支えて来た。読者は、その実例から学ぶ事ができる。



No.841 - 6月30日: 「神を信じる幸い」特別伝道集会 聖書全体


(みことば)「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あ なたがたの耳は聞いているから幸いです。」 マタイの福音書13章16節

    ***音声のメッセージとは異なります***
 教会は、神を信じる集まりであるが、改めて「神を信じる幸い」について 考えて見よう。一概に神と言っても多くの神々があり、多くの宗教がある。
 何故、キリスト教の神こそが真実で、本当の神と言えるのだろうか。聖書 は、神が唯一絶対の存在者であり、神が世界を創造されたと記している。「は じめに神が天と地を創造された。」キリスト教の神信仰はここから始まる。



No.840 - 6月23日: 「目標を目指して走る」 コリント第1の手紙9章24節〜27節


(みことば)「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしませ ん。空を打つような拳闘もしません。」 コリント第1の手紙9章26節

 パウロは、これ迄「私はだれに対しても自由ですが」と自由をテーマに語 り、「私は福音のためにあらゆることをしています」と彼の人生観を語った。
 パウロは、最後に、人生の目標として「何を目指して生きるべきか」を勧 める。「私は目標がはっきりしないような走り方はしません。」人生に目標の ない人は、何処に向かって走っているか分らず、これ程空しい生き方はない。



No.839 - 6月16日: 「多くの人を獲得するため」 コリント第1の手紙9章19節〜23節


(みことば)「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するた めに、すべての人の奴隷になりました。」 コリント第1の手紙9章19節

 パウロは、「私には自由がないのですか。」(1)と語り、使徒の権利、働き の報酬の権利を述べて来たが、彼自身は福音の為にその権利を用いなかった。
 「私はだれに対しても自由ですが…」そのパウロの大胆な言葉は、「どん な状況にも支配され、影響されない」の意味である。強い者が弱い者を抑圧 するパワハラ社会において「誰に対しても自由」と言い切れる人は少ない。



No.838 - 6月9日: 「主に委ねられた務め」 コリント第1の手紙9章11節〜18節


(みことば)「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせ ずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」 コリント第1の手紙9章16節

 パウロは、これまで福音の働き人の権利である報酬について、「脱穀して いる牛に口籠をかけてはならい。」の律法の定めから権利の正統性を論じた。
 彼は、「私たちが…御霊のものを蒔いたのなら…物質的なものを刈り取る ことは…」と福音と報酬の関係を述べる。教会は、牧師の説教等の働きによ り霊的恩恵を受け、主の恵みに感謝して献げる献金が、働き人の報酬となる。



No.837 - 6月2日: 「望みを抱いて耕す」 コリント第1の手紙9章1節〜10節


(みことば)「私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。… あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。」 コリント第1の手紙9章1節

 パウロは偶像の問題で、肉を食べる自由があっても「兄弟を躓かせるなら …肉を食べない」と宣言したが、再び「私には自由がないのですか」と問う。
 パウロは、また、「私たちには…権利がないのですか」と繰返し訴えるが、 彼には、教会から幾つかの批判や非難があり、それに弁明する必要があった。



No.836 - 5月26日: 「愛のために用いる自由」 コリント第1の手紙8章7節〜13節


(みことば)「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとな らないように気をつけなさい。」 コリント第1の手紙8章9節

 パウロは、「偶像に献げた肉」の問題に関連して、「世の偶像の神は実際に は存在せず、唯一の神以外に神は存在しない」事を真の神理解として述べた。
 「しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。」同じ信仰 者の中には、「今まで偶像になじんできた」為、異教的習慣の感覚を払拭で きず、弱い良心が、偶像に献げた肉を食べることで汚れると感じる人もいた。



No.835 - 5月19日: 「信仰の知識と愛」 コリント第1の手紙8章1節〜6節


(みことば)「偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持って いる」…しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」 コリント第1の手紙8章1

 パウロは、これまでコリント教会に「結婚」に関連して語って来たが、次 に「偶像に献げた肉」に関する質問状に答える形で新しいテーマが展開する。
 「偶像に献げた肉を食べて良いか否か」は、コリント教会の信徒にとって 深刻な問題であった。それは、多神教の信仰観を持った民族の中にある教会 ならではの課題であり、異教の神殿に献げられた犠牲に関する問題であった。



No.834 - 5月12日: 「崇高な志を抱く」 コリント第1の手紙7章36節〜40節


(みことば)「しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分 の思いを制して…自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。」 コリント第1の手紙7章37節

 パウロは、これまで「結婚」をテーマに語って来たが、最後に「自分の婚 約者に対する態度」と「夫と死別したやもめの再婚」について意見を述べる。
 「ある人が、自分の婚約者に対し…」第3版は、「ある人」を「処女であ る自分の娘」と翻訳しているが、原文は「彼の処女」で「未婚の女性の婚約 者」と理解できる。当時、若い時期に婚約し適齢期に結婚する習慣があった。



No.833 - 5月5日: 「時は短くなっている」 コリント第1の手紙7章25節〜35節


(みことば)「兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなって います。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。」 コリント第1の手紙7章29節

 主に召された者は、割礼や奴隷などこの世の立場や境遇の違いがあっても、 主の贖いの御業により、この世の支配から解放されて自由を与えられている。
 パウロは、再び結婚のテーマに戻り「未婚の人たちについて…主の…信頼 を得ている者として」意見を述べる。主自身は、これに関して何も述べてい ないが、これを聞く者は信頼すべき使徒の言葉として受け留めるべきである。



No.832 - 4月28日: 「キリストにある自由」 コリント第1の手紙7章17節〜24節


(みことば)「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じ ように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」 コリント第1の手紙7章22節

 パウロは、これまで結婚をテーマに語って来たが、この箇所では、少し脇 道に逸れて、「割礼と奴隷」に関連して、神を信じる者の生き方を述べる。
 彼は、この箇所で、「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべ きです。」と繰り返して強調する。それは、前節で語った結婚の場合も同様 であるが、原則的に「召されたときのままの状態で歩む」ことを勧めている。



No.831 - 4月21日: 「平和を得させるため」 コリント第1の手紙7章8節〜16節


(みことば)「そのような場合には、…縛られることはありません。神は、 平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」 コリント第1の手紙7章15節

 パウロは、結婚した者の義務について語って来たが、彼自身は、独身でい ることを勧めた。だが、それも人それぞれ、神の賜物と生き方の違いがある。
 次に彼は、置かれた立場に従い、まず「結婚していない人とやもめ」に、 「私のようにしていられるなら、それが良いのです」と勧める。但し、それ も強制ではなく、「自制することができないなら、結婚しなさい。」と命じる。



No.830 - 4月14日: 「結婚と信仰」 コリント第1の手紙7章1節〜7節


(みことば)「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。 しかし、…自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」 コリント第1の手紙7章7節

 パウロは、これまで教会の不品行と不道徳の問題について語って来たが、 それに関連して、男女の関わり方、夫婦の問題、結婚について意見を述べる。
 コリントの教会の内外において、不品行が蔓延る状況において、教会には、 「男が女に触れないのは良いことだ」と禁欲的に考える人がいたようである。 パウロは、教会が「淫らな行いを避けるため」にどうすべきか質問に答える。



No.829 - 4月7日: 「神への愛が問われる時」 ヨハネの福音書21章15節〜19節


(みことば)「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、 わたしを愛していますか。」 ヨハネの福音書21章15節

 主は、ティベリヤ湖畔で弟子達の前に三度目の復活の姿を現されたが、イ エスは、岸辺で朝の食事を済ませた後で、シモンにご自身への愛を問われた。
 主の愛の問いかけは、ヨハネの福音書の最後の記述として相応しい。「イ エスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)主の愛の極みは、十字架の贖い の上にに現わされているが、主は、復活の後に、その愛を弟子達に問われた。



No.828 - 3月31日: 「岸辺に立たれる主」 ヨハネの福音書21章1節〜14節


(みことば)「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現 されたのは、これですでに三度目である。」 ヨハネの福音書21章14節

 ヨハネの福音書は、主の復活に関し、週の始めの日に弟子達の前に現われ た記事に続いて「ディベリヤ湖畔で…ご自分を現わされた」次第を述べる。
 「弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である」(14) 主は、復活の事実を繰返えし明らかにし、弟子達の疑いを取り除いて行く。 その後、彼らは、誰も「あなたはどなたですか」(12)と尋ねる者はなかった。



No.827 - 3月24日: 「神の栄光を現わす」 コリント第1の手紙6章12節〜20節


(みことば)「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、 自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」 コリント第1の手紙6章20節

 コリント人は、自由を謳歌し、「すべてのことが私には許されている」と 言い、「淫らな行い、姦淫、男色等、何をしても自由である」と主張した。
 パウロは、「正しくない者は神の国を相続できません」と語る。たとえ自 由があっても、善悪の区別を設け、神の国と他者の益にならない行為はする べきでない。罪に支配された人は、自由とは言えず、罪と悪魔の奴隷である。



No.826 - 3月17日: 「キリスト者の自由」 コリント第1の手紙6章7節〜12節


(みことば)「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべて が益になるわけではありません。…どんなことにも支配されはしません。」 コリント第1の手紙6章12節

 コリントの教会は、教会内の個人的な争いごとをこの世の法廷に訴えたり、 教会の中で軽んじられている人を裁判官として立てて解決を謀ろうとした。
 パウロは、「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」と語 る。世において兄弟が遺産相続を巡り骨肉の争いを繰り広げる事があるが、 兄弟同士の争いほど醜いものはなく、それなら、相続権を放棄した方が良い。



No.825 - 3月10日: 「聖徒に与えられた恵み」 コリント第1の手紙6章1節〜7節


(みことば) 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北 です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。」 コリント第1の手紙6章7節

 パウロは、不品行の問題から、再び、教会の中の争いの問題に言及するが、 それは、前回の様な分派ではなく、個人的な紛争とその解決についてである。
 それは、教会員同士の揉め事と言えるが、それが裁判沙汰にまで発展して しまう。ギリシャ人は、日常的な問題を直ぐに裁判に訴えて解決を図る習慣 があったので、弁論術や詭弁述が発達し、それを職業とする人も大勢いた。



No.824 - 3月3日: 「神の聖さを失わない」 コリント第1の手紙5章9節〜13節


(みことば)「外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中か らその悪い者を除き去りなさい。」 コリント第1の手紙5章13節

 パウロは、これまでコリントの教会の不品行の問題について論じ、教会が 聖さを保つことを勧めて来たが、最後の箇所は、その補足の説明と言える。
 「私は前の手紙で…と書きました。」パウロは、不品行の問題にいてコリ ント教会に「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と書簡を送っ たが、その手紙を誤って解釈する者がいたので、ここでその真意を伝える。



No.823 - 2月25日: 「古いパン種を取り除く」 コリント第1の手紙5章1節〜8節


(みことば)「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかな パン種が、こねた粉全体をふくらませることを…知らないのですか。」 コリント第1の手紙5章6節

 パウロは、これまでコリント教会に起っていた「分派の問題」について語 って来たが、5章から新しいテーマである「不品行の問題」について述べる。
 パウロは、コリントの教会に「淫らな行いがある」と聞いていたが、「淫 らな行い」(ポルネイア)は、ポルノの語源で「不適切な性的関係」を意味する。 自由な社会は、放縦に陥る危険があるが、日本は、性風俗等の倫理観が低い。



No.822 - 2月18日: 「信仰の模範者に倣う」 コリント第1の手紙4章14節〜21節


(みことば) 「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってくだ さい。そのために、私はあなたがたのところにデモテを送りました。」 コリント第1の手紙4章16節

 パウロは、教会において自らを誇り、神の言葉を越えて思い上がる人々に 対して、辛辣に皮肉を込めて彼らの霊的な幼さや信仰の欠点を指摘して来た。
 だが、彼は、 「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思 いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すため」であると語る。 人は、どんなに厳しい言葉も、愛から出ている言葉であるなら聞く耳を持っ。



No.821 - 2月11日: 「驕らず御言葉に生きる」 コリント第1の手紙4章6節〜13節


(みことば)「書かれていることを越えない」ことを…学ぶため…一方にく みし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。」 コリント第1の手紙4章6節

 パウロは、これまで彼自身とアポロに当てはめて、教会の指導者がキリス トのしもべ、神の奥義の管理者として忠実でなければならないと語って来た。
 それは、彼らの例から「書かれていることを越えない」事を学ばせる為で ある。「書かれていること」とは、聖書を指すが、神の言葉を越えた教えや 行動は、偽りである。聖書は、神の霊感によって書かれた真実な言葉である。



No.820 - 2月4日: 「神の家の管理者」 コリント第1の手紙4章1節〜5節


(みことば)「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える べきです。…管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」 コリント第1の手紙4章1、2節

 コリント教会は、パウロやアポロなど教会の指導者を頭に立て、人間を誇 る分派があったが、パウロは、本来、牧師や教師がどのような者かを語る。
 パウロは「私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える」べき であると語る。「しもべ」(ヒュペレース)は、「船の下で櫓を漕ぐ」の意味がある。 牧師は、権威を誇示するのではなく、教会に仕える者でなければならない。



No.819 - 1月28日: 「神の御霊の住む神の宮」 コリント第1の手紙3章16節〜23節


(みことば)「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうち に住んでおられることを知らないのですか。」 コリント第1の手紙3章16節

 パウロは、建物を建てる時に、揺るがない人生の土台としてキリストを据 える大切さと、その上にどの様な建物を建てるべきか注意するように語った。
 パウロは、教会を建物に譬え「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の 御霊が…住んでおられる…」と語る。「家」「建物」(オイコス)「建てる」の語根 は、「住む」(オイケオー)であり、その思想の中心に「住む」と言う原理がある。



No.818 - 1月21日: 「どのような家を建てるか」 コリント第1の手紙3章10節〜15節


(みことば)「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることは できないからです。その土台とはイエス・キリストです。」 コリント第1の手紙3章11

 パウロは、「信仰の成長」に関し「幼子と植物の成長」にたとえて語って 来たが、最後に、それを「神の建物」にたとえ、家を建てる時の注意を語る。
 パウロは、「私は…賢い建築家のように土台を据えました。」と語るが、彼 の賢さは、「神の恵み」により「神の奥義」に関する豊かな知恵を与えられ た事と、彼は、「家を建てるためにしっかりとした土台を据えた」事にある。



No.817 - 1月14日: 「御霊の人と肉の人」 コリント第1の手紙3章1節〜9節


(みことば)「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させた のは神です。…大切なのは…注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」 コリント第1の手紙3章6節

 パウロは、「成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べたが、コリ ント教会は、神の奥義である知恵を語る事ができない信仰の未熟さがあった。
 パウロは、コリント教会に対して「御霊に属する人に対するように語るこ とができずに、肉に属する人、…幼子に対するように」語った。彼らは、確 かに神の御霊を持つ聖徒達であったが、未だに肉に属する人、幼子であった。



No.816 - 1月7日: 「キリストの心を持つ」 コリント第1の手紙2章6節〜16節


(みことば) 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の 心に思い浮かんだこと・・・神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」 コリント第1の手紙2章9節

 パウロは、 「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによる ものではなく・・・」と、福音が、この世の知恵によらないことを語って来た。
 だが、彼は、 「私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と知 恵や知識を否定しない。キリスト者は、成熟した大人として知恵の言葉を語 るべきであるが、コリントの教会は、その点で未だに未成熟のままであった。



新年特別号 - 1月1日: 「主のあわれみと救い」 ルカの福音書1章57節〜80節


(みことば)「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住 んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」 ルカの福音書1章79節

 不妊のエリサベツとザカリヤ夫婦に待望の男の子が与えられる。彼は、キ リストの来臨の前に人々に悔い改めを説き、救いの道を備える人物となる。 だが、ザカリヤは、親族や妻と一緒に、我が子の誕生を喜ぶ事ができない。
 彼は、主の言葉を信じなかったので、口がきけず、話しができなかった。 だが、彼にとってその試練も意味のある事であった。「神の言葉を聞き、た だ、黙って神の御業を待つ。」それが彼の信仰にとって必要なことであった。