2024年の説教
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No.867 - 12月29日: 「主を優先する生き方」 コリント第1の手紙16章1節〜14節 |
(みことば)「私がそちらに行ってから献金を集めることがないように…い
つも週の初めの日に、収入に応じて…手もとに蓄えておきなさい。」
コリント第1の手紙16章2節
パウロは、キリスト者の信仰にとって重要なテーマである死者の復活の問
題を語り終え、最後に献金の問題とコリント教会訪問の計画について述べる。
パウロは、「聖徒たちのための献金について」と述べているが、「聖徒たち」
とは、困窮していたエルサレム教会、即ち、ユダヤ人のキリスト教会を支援
する為の募金であった。パウロは、それを異邦人教会の責務として命じた。
パウロは、「異邦人は、彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質
的なもので彼らに奉仕すべきです。」(ローマ 15:27)と考えた。それは、単なる
慈善活動ではなく、献金が、神の国の働きと聖徒達を支える献げ物となった。
献金は、聖徒達の集まりである教会を支える唯一の財源となる。それは、
教会の宣教の働きを通して救われた者が与えられた賜物を神に献げる自発的
な行為である。献金は、神への献身と感謝、それに教会への愛の現れである。
パウロは、異邦人教会がユダヤ人教会を物質的に支援する事で、教会が霊
的な意味で一つになる事を目指した。献金は具体的な形での愛の実践であり、
それは神と教会に対する愛の現れであり、そこに献げる者の信仰が現れる。
パウロは同労者テモテを「主のわざに励んでいる」(10)と紹介し、主にあ
る者を「兄弟」と呼ぶ。教会は神の家族であり、家族は与えられた賜物を共
有する。「信者となった人々は、…一つになって、一切の物を共有し…」(使徒 2:44)
そこで、彼は、献金を献げる心得として「週の初めの日に、収入に応じて
…蓄えておきなさい。」と命じる。献金は、信仰と愛に基づく自発的な応答
であり、パウロが来てから、慌てて準備するような粗末なものではいけない。
「週の初めの日」とは、主日の礼拝の事であり、聖徒達は、収入に応じて、
神への献げ物を聖別しておくべきである。お金の使い方には、優先順位があ
るが、主に献げる物を優先し、残り物ではなく一番良い初物を主に献げよう。
彼は、また献金に関して「あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせ
てエルサレムに派遣し…」と非常に慎重な扱い方をしている。それは、金銭
の事で誰からも非難されないためであり、悪魔に機会を与えないためである。
そこで、パウロは、今後の計画として「私はマケドニアを通ってあなたが
たのところへ行きます。」と伝えるが、その際「マケドニアはただ通過し…
あなたがたのところに滞在する」と彼らの訪問が主たる目的であると伝える。
パウロが如何にコリント教会の訪問を重要に考えていたのかが分かる。「私
は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。」彼
らの訪問は「旅のついで」ではなく、優先順位の筆頭に置かれるものである。
翻って私達の神への姿勢はどうだろうか。神を第1にする人はどんな事情
があっても礼拝を優先し、献金も聖別して神に献げる。神はそのような人を
愛される。「損傷のあるものを主に献げる…ずるい者はのろわれる」(マラキ 1:14)
ただ、彼の計画は「主がお許しになるなら…」であり、神の許しなしに、
いのちも生活も成り立たない。又、彼がエペソに留まるのは、宣教の門が広
く開かれ、反対者も大勢いるからである。教会は、その最前線に立っている。
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No.866 - 12月22日: 「恵みに満ちた貧しき場所」 ルカの福音書2章1節〜17節 |
(みことば)「マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ…その子を布にく
るんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
ルカの福音書2章6,7節
ルカの福音書を記したルカは、歴史家として、キリストの誕生に関して、
いつ、どこで、どのように生まれ、何が起こったのかを克明に記録している。
キリストの誕生は、皇帝アウグストゥスが「全世界の住民登録」の勅令を
出した時代である。アウグストゥスは、ローマの初代皇帝として世界の覇権
を握り、世界に「ローマの平和」(パックスロマーナ)を実現させた君主である。彼
の支配は「キリニウスがシリアの総督」と記すようにユダヤにも及んでいた。
ある歴史家は、キリストの史実性を疑うが、アウグストゥスが実在した王
であるなら、キリストも処女マリヤから聖霊により誕生した王である。もし、
その記録に信憑性がないなら、我々の信仰も架空の物語か観念に過ぎない。
「ヨセフも…ダビデの町へ上って行った。」歴史の糸とキリストの物語が
絡み合うように進むが、ルカは、ローマの絶対君主の時代に、もう一人の別
の王の誕生を記す。それは、ダビデの血筋を引く救い主メシヤの誕生である。
マリアへの受胎告知の言葉に「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支
配に終わりはありません。」とある。西ローマ帝国は、紀元 476 年にゲルマ
ン民族により、東ローマ帝国は 1453 年にオスマントルコにより滅亡した。
だが、キリストの支配は、終わる事がなく、福音が全世界に進展し、それ
は主の再臨により完成する。「彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
(Uサムエル 7:13)「ベツレヘム…から…イスラエルを治める者が出る。」(ミカ 5:2)
「マリアは…男子の初子を産んだ…飼葉桶に寝かせた。」身重のマリアが
そこに着いた時、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」早い者勝ちで、弱
い者が恵みから漏れる。それは、この世の愛のない競争社会を象徴している。
飼葉桶は、宿屋を追われた末のキリストの居場所であった。イエスは、世
の人から家畜同然の扱いを受けるが、愛のない競争社会のどこに幸福を見出
せるのだろうか。主のおられる貧しい場所こそ愛に満ちた最高の場所である。
ルカは、キリストの誕生の際に起った出来事を記すが、それは、「主の使
いが彼らのところに来て…主の栄光が…照らした」と言う超自然的出来事で
ある。歴史家がこのような通常起こらない事を書くとその真作性を疑われる。
だが、これが聖書と一般の歴史書の違いでもある。だからと言って、聖書
は、神話や作り話ではない。聖書から神の力や啓示され出来事を取り除いた
なら、聖書の本来の意味と価値を失い、私達の信仰や救いの意味も失われる。
主の使いは、「羊の群れの夜番をしていた」羊飼い達にイエスの誕生を知
らせる。羊飼いとその群れは、神の民である教会を象徴している。「主は私
の羊飼い。」神の栄光は、地位も名声も富もない貧しい羊飼い達を照らす。
「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」「喜びの知ら
せ」とは、「福音」であり、それは、御子が最も貧しい所に下って来られた
事に始まる。福音が神の民に与えられ、その時、天の軍勢が神を賛美する。
世の人は、ローマで戴冠されたアウグゥトゥスを讃えるが、我々は、「飼
葉桶に寝かされたみどり子」を、神の栄冠を受ける王として賛美し礼拝する。
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No.865 - 12月15日: 「神の恵みの訪れ」 ルカの福音書1章5節〜23節
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(みことば)「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心
を子どもたちに向けさせ…主のために、整えられた民を用意します。」
ルカの福音書1章17節
ルカの福音書は、キリストの誕生の一連の記事の中で「祭司ザカリヤが、
神殿の務めを果す時に、妻エリサベツの懐妊を告げられる」記事から始まる。
ルカの福音書の冒頭の「私たちの間で成し遂げられた事柄」(1)とは、人
の働きや業によるのではなく、ただ天からの神の介入と御力による事を示す。
福音の中心は、キリストの誕生に始まり十字架の贖いと復活により完成する。
神の救いの啓示は、「ユダヤの王ヘロデの時代」に起る。ヘロデは、エド
ム人であったがローマ帝国の後ろ盾でユダヤ人の王となった。彼は、イエス
の誕生の際に、ベツレヘム一帯の二歳以下の子を虐殺した残虐な王であった。
ザカリヤの妻は、アロンの子孫で、代々祭司の家系であったが、「二人と
も神の前に正しい人で…落ち度なく行っていた。」神の救いの光は、暗闇の
苦難の時代においても、神を信じて正しく生きる神の民の上に輝いている。
「しかし、彼らには子がなかった。」敬虔な夫婦であったが、子どものい
ない悲しみを抱えていた。それは人の力でどうにもならない。かつて祈った
事も、今は希望すら失っていた。だが、祈った事は、決して無駄にならない。
「ザカリヤは…くじを引いたところ…香をたく…」二万人の祭司の中で、
その一人が神殿の務めを果たす。それは祭司として名誉であるが、くじに当
たる事も偶然ではなく神の御心による。私達は、確かな神の摂理の中にある。
「神殿で香をたく」とは、神の民の祈りを象徴していた。ザカリヤが神殿
で「香をたく間、外では大勢の民がみな祈って」いた。神の民の祈りは、神
によって答えられる。「主の使いが彼らに現れて、香の祭壇の右側に立った。」
御使いの第1声は「恐れることはありません」であった。彼らには「子が
ない」事や「異邦人の王の支配」等の不安があったが、その恐れは「あふれ
るばかりの喜び」に変わる。御使いは「良い知らせを伝える」為に遣われた。
「あなたの願いが聞き入れられたのです。」彼の祈りは、年老いてから絶
えていたが、かつての祈りが無駄に終わることはなく、それが今実現する。
恵み深い主は、どんな昔の祈りや些細な祈りも、それを忘れることはない。
御使いは、祭司の慣例に逆らい、「その名をヨハネつけなさい」と命じる。
「ヨハネ」は「主は恵み深い」の意味で、彼の名は、これから始まる神の恵
みを象徴する。神は、彼の願いを越えて神の永遠の救いの計画を実現させる。
「その子は主の御前に大いなる者となる…」彼は、その言葉の通り「エリ
ヤの霊と力で、主に先立って歩み…立ち返らせ…整えられた民を用意」する。
ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを説き、救い主イエスの道を整える。
だが、ザカリヤは、御使い言葉を「私は…何によって…」と懐疑的に受け
留める。彼を取り巻く絶望的な状況が、そのような言葉となる。しかし、神
に不可能なことはない。彼は、その為、子の誕生の時まで口がきけなくなる。
同様に礼拝説教では、人の知恵や自己の主張を指し挟む余地がない。ただ
黙って神の言葉を聞くのみである。だが、それも私達に必要な時である。主
の日に、人の知恵や自己主張からではなく、神の言葉を聞く事から始めよう。
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No.864 - 12月8日: 「死は勝利に呑まれた」 コリント第1の手紙15章50節〜58節 |
(みことば)「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みな
さい。…労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
コリント第1の手紙15章58
パウロは、「死者はどのようによみがえるのか」と復活を懐疑的に捉える
人々に復活の方法と原理、その性質を自然界の法則と対比ながら論じて来た。
彼は、「兄弟たち。私はこのことを言っておきます。」と、その結論として
「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは…相続できません。」
と語る。「血肉」とは、文字通り血と肉の意味で、地上の朽ちる肉体を指す。
主は「肉によって生まれた者は肉です」と語り、「人は新しく生まれなけ
れば神の国を見ることはできません」と語った。この世界も人の肉体もやが
て朽ちて行く。朽ちる肉体を気遣うより、寧ろ魂の行末に配慮すべきである。
「聞きなさい…奥義を告げましょう」復活は、神の神秘の御業である。そ
れは自然法則で説明できないが全能の神に不可能な事はない。「みな眠るわ
けではありません。」主の再臨の時に生きている者は、そのまま変えられる。
「終わりのラッパの響きとともに…一瞬のうちに変えられます。」それは
一瞬に起こる神秘的出来事であり、ラッパは世の終わりと主の再臨の合図で
ある。「ラッパの響きとともに主ご自身が天から下って来られます」(Tテサ 4:16)
「朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり…」聖徒は、ま
るで古い上着を脱ぎ棄て、新しい着物を着るように朽ちないからだを身に着
ける。それは、地上の魂の霊的な変革ではなく、天での実際的な変化である。
パウロは、「朽ちるべきものが朽ちないものを着て…死ぬべきものが死な
ないものを着るとき」と、主の再臨の時の聖徒のからだの変化を強調し、更
に「このように記されたみことばが実現します」と預言者の証言を引用する。
「死は勝利に呑み込まれた」とは、イザヤ 25:7 の引用であるが、それは、
人類の最後の敵である死の滅びと神の勝利の宣言であり、それは、やがて来
るメシヤ、即ち、キリストの十字架の死と復活によって実現する預言である。
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか…」は、ホセア 13:4 の引用であるが、
それも、神が「死と黄泉の力から神の民を贖い出す」預言である。預言者は、
アッシリアによる滅亡の危機が迫る中で、死の終焉と神の勝利を宣言した。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」人類の最後の敵である死は、
人間の罪から始まる。罪の棘が刺さっている以上、その痛みは取れない。罪
の力は、律法によって明らかになる。人は、罪と律法ののろいの下にある。
「神に感謝します。…キリストによって勝利を与えて…」キリストは、人
類にとって「死のとげ」である罪を十字架によって取り除き、復活によって
死に勝利して下さった。彼を信じる者は、死と黄泉の力から贖い出される。
「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく…」
私達は、今なお誘惑の多い罪の時代の中に生きている。又、私達自身にも様
々な罪の性質と肉の弱さが残っている。だから主の言葉に堅く立って歩もう。
「あなたがたは自分達の労苦が主にあって無駄でないことを…」主の為に
行う宣教、祈り、礼拝、献金などの働きは、聖徒達にとって何一つ無駄にな
らず、それらの行為は、やがて天の御国を相続する時に豊かな報いとなる。
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No.863 - 12月1日: 「どのように復活するのか」 コリント第1の手紙15章35節〜49節 |
(みことば)「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらさ
れるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
コリント第1の手紙15章44節
パウロは、死者の復活を論証して来たが、教会には、「死者はどのように
よみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と懐疑的に問う者がいた。
それは復活の方法と復活のからだに関する疑問であるが、パウロは、その
人々に対し「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされませ
ん」と答える。そもそも、それは、神の力を信じない人の愚かな疑問である
パウロは、人間の死と復活の原理を「種蒔きと穀物の成長」という自然法
則と比較して語る。「種を蒔く」行為は、死を意味するが、その死は、死で
終わらない。「一粒の麦は…地に落ちて…死ぬなら、豊かな実を結びます。」
「あなたの蒔くものは…ただの種粒です。」一粒の種が地に落ちて死ねば、
それは劇的な変化を遂げ、それは百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。同様に
主にあって死んだ人は、死んで朽ちることなく、新しいいのちを与えられる。
「神は…それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。」神は、
全ての人に魂とからだを与えているように、復活の時にも、主を信じる者に
からだを与えられる。種には、新しい命の全ての遺伝情報が凝縮されている。
主にあって復活した者は、地上と同じ「私」と言う自己意識を持ち、天の
御国で「それが誰か」を認識できる。「金持ちとラザロ」(ルカ 16:19)の譬えは、
金持ちが地獄で苦しみ、ラザロに助けを乞うリアルな自己意識が描かれる。
次にパウロは、復活が「どのようなからだで来るのか」との疑問に答える。
彼は、地上と復活のからだの違いを自然界の生命の種類の違いから説明する。
「人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉」は、それぞれ構造も性質も異なる。
神は、種類に従って魚、鳥、獣、人間を創造された。同じ生命でも、構造や
性質が違うように、地上のからだと復活のからだも全く性質が異なる。「復
活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
更にパウロは、「地上のからだ」と「天のからだ」の違いを、天において
輝きを放つ天体に譬える。同じ天体でも、太陽、月、星の輝きは、それぞれ
に違いがある。天の星々の輝きは、神の創造の偉大さと神の栄光を物語る。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇 19:1)
神は、人間の為に地上のからだを創造されたように、更に栄光に輝く「天上
のからだ」を備えて下さる。その時、主にある死者は天において栄光に輝く。
最後にパウロは「死者の復活」が「地上のからだ」と異なる事を「朽ちる
もので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもの…栄光あるもの
…弱いもの…力あるもの…血肉のからだ…御霊に属するからだ…」と語る。
「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。…最後の
アダムはいのちを与える御霊となりました。」キリストは、世にいのちを与
える為に天から来られた。「血肉のからだは、神の国を相続できません。」(50)
「御霊のものは後に来るのです。…第二の人は天から出た方です。」天に
属する者は、みな「天に属する方」(48)に似ている。「私たちは、キリスト
が現れたときに、キリストに似た者になることを知っています。」(Tヨハネ 3:2)
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No.862 - 11月24日: 「何のために生きるか」 コリント第1の手紙15章26節〜34節 |
(みことば)「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしよう
ではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。」
コリント第1の手紙15章32
神の救いは、キリストの再臨の時に完成し、その時、人類の最後の敵であ
る死も滅ぼされ、神に敵対する一切の権威がキリストの足の下に置かれる。
キリストが王となる新しい世界では「神がすべてにおいてすべて」となら
れる。その時、神に敵対する勢力が一掃され、神は、悪魔即ちサタンを捕ら
え、「千年の間縛り…底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ」(黙示録 20:2)封印する。
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。…彼らは、
…祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」(黙示録 20:6)
パウロは、再び、復活がないと仮定した時の矛盾を語る。「そうでなかっ
たら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようと…」「死者
のためのバプテスマ」とは、何を意味するか、解釈の分かれる箇所である。
それを文字通りに解釈すると「死んだ人の為に、生きている者が代わって
バプテスマを受ける」所謂「代理バプテスマ」と言える。それは、決して聖
書的行為と言えないが、その人々は、やはり死者の復活を願ってそうした。
仏教には、先祖供養の習慣があり、カトリックは、信者の功徳が死者の魂
の救済に有効であると考える。だが、バプテスマは、キリストの死と葬り、
そして、復活に対する告白であり、キリスト者の神への従順の証しである。
もし復活がなければ、福音の宣教には何の意味もない。「なぜ私たちも、
絶えず危険にさらされているのでしょうか。」パウロはイエスの名の故に迫
害され、何度も死にかけた。復活がないなら、命をかける意味も価値もない。
「…誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいる…」パウロは第2の手
紙で「牢に入れられ…むち打たれ…死に直面し…難船した」(11:23)等の多く
の苦難を記しているが、彼の誇りはキリストにあり、彼の望みは復活にある。
彼が「エペソで獣と戦った」事も含め、福音の為の労苦は、偏にキリスト
の復活による死者の復活の望みにある。もし、復活がなければ、「食べたり
飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と言う事になる。
パウロは、最後に「死者の復活」に望みを置く者の生き方を勧める。「悪
い交際は良い習慣を損なう」それは、前述の「どうせ明日は死ぬのだから」
と言うような現世主義的な人との交際であり、それに惑わされてはならない。
神の人として良い習慣が損なわれないように「目を覚まして正しい生活を
送り、罪を犯さないように」しよう。「目を覚ます」は「酔いからさめる」
の意味であるが、酒に酔う自堕落な歩みではなく、御霊に満たされて歩もう。
「神について無知な人たちがいます。」それは、死者の復活を信じない人
々に対する辛辣な批判であり、彼らは神を知らないから、未来に対して何の
希望も持たない。そのように多くの人が、生き甲斐も希望もなく生きている。
「私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。」その厳しい
言葉は、「キリストの復活」も「死者の復活」も信じない、無知で愚かな人
々に対して語っている。その信仰に、一体どのような意味があると言うのか。
終末を意識し、何処に希望を持ち、何を目指して歩むべきかを教えられる。
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No.861 - 11月17日: 「復活の順序」 コリント第1の手紙15章20節〜28節 |
(みことば)「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中か
らよみがえられました。」
コリント第1の手紙15章20節
パウロは、教会の中で「死者の復活がない」と言う人々に、キリストの復
活が確かな事実で、死者の復活の希望もその事実に基づいている事を語った。
次に、パウロは、キリストの復活の事実が、キリスト者の将来にどのよう
な結果を齎すかを語る。「キリストの復活は二千年前の確かな事実」と言う
事に留まらず、キリストの再臨と共に、世界を変えて行く壮大な力を持つ。
「今やキリストは、眠った者の初穂と…」初穂とは最初の収穫の束であり、
初穂を聖別して神に献げる事で全収穫物が聖い物となる。キリストは、主に
あって眠った信者の初穂としてよみがえり、全ての聖徒の先駆けとなられた。
パウロは、人間の罪と死の起源であるアダムの事からアダムとキリストを
対比して復活を論証する。「死が一人の人を通して来たのですから…」死は、
自然の現象の必然的結果ではなく、アダムの違反による付加的な結果である。
即ち、アダムによって「罪が世界に入り…死がすべての人に広がったのと
同様に」死者の復活も一人の人キリストを通して来る。アダムの子孫は、罪
の故に例外なく死を経験するが、唯一、死からよみがえられた方がおられる。
「アダムにあってすべての人が死んでいるように…」「死んでいる」は、「死
につつある」(現在能動態)の意味で、神を知らない人類の霊的状態を語っている。
アダムの遺伝子を引き継ぐ人類は、今も神に背き、滅びに向って歩んでいる。
「キリストにあって」とは「キリストの支配の下にある」の意味で、その
人は、罪と死の支配から解放され、神のいのちを与えられる。逆に「アダム
にあって死んでいる者」は、罪の支配の中で死と滅びに向かって生きている。
「しかし、それぞれに順序があります。…」復活の順序は「まず、初穂で
あるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たち…それか
ら終わり」が来る。全ては、二千年前にキリストが復活した事実から始まる。
「来臨」とは、キリストが天から来られる「再臨」を意味し、その時キリ
ストに属している者、即ち眠った死者がよみがえる。それから終わりが来る
が「終わり」(the end)とは、この地上の歴史と罪の世界の終わりを意味する。
教会において「死者の復活はない」という人々は、復活を新生と同列に考
えたのかも知れない。パウロは、復活を明確にする為に、キリストの復活、
次に、主の再臨の時の信者の復活、そして終わりが来るという順番で語る。
「そのとき、キリストは、あらゆる支配と…」世界は、キリストの再臨と
共に一変し、神に敵対した地上の勢力は一掃され、キリストは王として世界
を治める。「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、王として治めた。」
「最後の敵として滅ぼされるのは死です。」人類の最後の敵は死である。「罪
から来る報酬は死です。」神は、死を滅ぼす為に御子の死により罪を贖い、
キリストの復活により死に勝利された。その時、悪魔も主の足の下に跪く。
「神は万物をその方の足の下に従わせた」神は、唯一であり万物の存在の
目的であり原因でもある。キリストは、やがて王となるが、御子ご自身も父
なる神に従われる。それは「神がすべてにおいてすべてとなるため」である。
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No.860 - 11月10日: 「死者の復活がないなら」 コリント第1の手紙15章12節〜19節 |
(みことば)「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに
望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」
コリント第1の手紙15章19節
パウロは、最も大切な福音の要点としてキリストの死、葬り、復活を語り、
特に、キリストの復活が、多くの証人による確かな事実であると証言した。
パウロが改めて復活を語らなければならなかったのは、コリントの教会の
中に「死者の復活はない」という人達が出て来たからである。キリストの復
活は、福音の中心的教義であるだけに、それは教会にとって大問題であった。
「死者の復活」は、人間の死後の問題であるが、唯物論者は「人は死んだ
ら終わりで無になる」と考える。そのような死生観なら、必然的に現世的、
快楽的な生き方になり、この世の生き方の是非を死後に問われる事もない。
勿論、コリントの教会は、魂の存在や死後の裁きや罪の赦しの教義を信じ
ていただろう。だが、復活を肉体を伴うものと考えていなかったようである。
それは、ギリシャの「霊は善、物質は悪」と言う聖俗二元論の影響による。
プラトンは、「人間の魂は死後イデア界に浄化される」と説いたが、キリ
ストの復活は、そのような観念ではなく、肉体を伴うよみがえりであった。
「手を指し伸ばして…脇腹に入れなさい。」「幽霊なら肉や骨はありません。」
「もし死者の復活がないとしたら…」パウロは、死者の復活とキリストの
復活の関連性を語り、両方とも真実であると強調する。将来の「死者の復活」
の確実性は、過去に起った「キリストの復活」の確かな事実に基づいている。
「キリストがよみがえらなかったとしたら…宣教は空しく」キリストの復
活を否定して、宣教は成り立たず、信仰も意味を持たない。自由主義の教会
は、聖書の奇跡や歴史性を否定するが、そうであるなら道徳宗教に過ぎない。
パウロは、復活がないなら「偽証人ということにさえなる」と言う。それ
は、「復活がないのに、あった」と証言したからであり、そうであるなら、
聖書の証言が偽りとなる。復活は、「真実か、虚偽か」そのどちらかである。
神は真実で正しい方ですから、偽りを言うことはない。又、パウロを初め
使徒達のの証言も真実である。信仰は神の言葉の真実さに基盤を置いている。
「たとえすべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」
「もし死者がよみがえらないとしたら…」「復活」と「よみがえり」は、
同義語であるが、「よみがえる」は、「目を覚ます」の意味がある。信者の死
を「眠った者」と表現するが、それは、目を覚ます復活を前提にしている。
「信仰は空しく、…今もなお自分の罪の中にいます」復活を否定するなら、
福音の中心であるキリストの死も復活も意味を持たない。その人々は、今尚、
御怒りを受ける子らであり、罪の赦しも魂の平安も新生の恵みも知らない。
「そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったこ
とになります」キリスト者の望みは、キリストが死からよみがえられたよう
に、キリストの再臨の時に、死の眠りから目を覚まし、よみがえる事にある。
「もし私達が、この地上のいのちにおいてのみ…」信仰が現世的な事柄に
限定されるなら、キリストの復活も信者のよみがえりも、何の意味も持たな
い。そうであるなら、信仰者が迫害を受け、殉教者が命をかける意味もない。
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No.859 - 11月3日: 「最も大切な福音の言葉」 コリント第1の手紙15章1節〜11節 |
(みことば)「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受
けたことであって、次のことです。」
コリント第1の手紙15章3節
パウロは、御霊の賜物のことからキリストの復活へと主題を変えて論じる。
パウロが、復活について語らなけばならなかったのは、コリントの教会に
「死者の復活はない」(12)と主張する者が現れ、そのような自由主義的な考
えに対して、「福音とは何か」を弁明しなければならなかったからである。
「私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。」コリントの
教会は、パウロの宣教により、福音を受け入れ、その福音に立って来たが、
今、その福音の土台がこの世の思想的な影響を受けて、大きく揺らいでいた。
「あなたがたがしっかりと覚えているなら、この福音によって救われます。」
人が救われる唯一の道は、福音を信じることであり、それ以外に救いはない。
この福音に堅く立たなければ、彼らが信じたことも、無駄になってしまう。
そこで、パウロは「福音とは何か」を簡潔に記すが、それはパウロの宣教
の中心的な「最も大切なこと」であった。パウロは、その要点をここに記す。
更にパウロは、それは「私も受けたことであって」と語るが、それは、彼
自身が神から受けた救いの経験でもあった。二千年前の福音に関する出来事
は、主観的な視点から、自らの救いの経験としてそれを証しする事ができる。
福音の要約の第1は、「キリストは…私たちの罪のために死なれた」事で
ある。キリストの死とは、即ちゴルゴダの丘の十字架による処刑を意味し、
主イエスは、私達の罪の身代わりとなる為にご自身が死の刑罰を受けられた。
それは、「聖書に書いてあるとおりに」成就した。キリストの死は、神の
ご計画に基づく事であり、それは予め預言者によって語られた神の約束であ
る。キリストの死を「私の罪のためであった」と信じる時、救いが実現する。
また、「葬られたこと…」とあるが、キリストの葬りは、十字架の死が、
確かな事実であることを証言する。死と葬りは、全ての人が通る道である。
福音の要約の最後は「三日目によみがえられたこと」即ち、キリストの復
活であるが、キリストは、死者の中からよみがえられた最初の方である。「今
やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえました。」(20)
もし、復活がなければ、キリスト信仰は、単なる道徳宗教に過ぎず、そう
であるなら「私たちはすべての人の中で一番哀れな者」(19)となる。しかし、
キリストの復活は、確かな事実であり、そこには多くの証人の証言がある。
「ケファに現れ、…五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」キリス
トの復活は、多くの証人の証言により事実が立証される。私達の信仰と福音
の基盤は、キリストの復活の事実にあり、ここに、私達の救いと希望がある。
「その後、キリストはヤコブに現れ…」イエスの肉の兄弟ヤコブは、家族
であってもイエスを信じていなかったが、主の復活を通して神の家族となり、
エルサレム教会の中心的人物となる。それは、パウロ自身も同様であった。
「月足らずで生まれた者ような私にも…」パウロは、主を迫害した「使徒
の中で最も小さな者」であったが、主の恵みによって誰よりも多く働く者と
なった。パウロは、それを自分の力ではなく、神の恵みによると証しする。
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No.858 - 10月27日: 「主の命令を聞く者」 コリント第1の手紙14章33節〜40節 |
(みことば)「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。
あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。」
コリント第1の手紙14章36節
パウロは、教会の礼拝を秩序正しく行い、「神は混乱の神ではなく、平和
の神なのです」と語り、その文脈の中で、最後に女性のあり方について語る。
「女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていま
せん。」パウロの命令は、コリント教会だけでなく、「聖徒たち全ての教会で
行われている」事であり、「律法にも」命じられている普遍的な教えである。
それは、女性にとって厳しいと感じる言葉であるが、パウロは、女性が教
会で話したり交わる事を禁じている訳ではない。これは、前の文脈から考え
て、女性が、教会の礼拝で「預言」「異言」「啓示」を語る事を戒めている。
「もし何かを知りたければ、…夫に尋ねなさい。」とあるように、それは、
教会の教義や教えに関することであり、「神の国の平和や秩序」を考える時
に、やはり教会において、女性には、女性としての立場や役割や賜物がある。
ただ、パウロの言葉は、現代の視点からすると、「今の時代にそぐわない、
余りにも保守的な考えである」と批評する者もいる。それを文字通り解釈す
れば、女性の牧師は認められないし、私達の群れでは、それを認めていない。
パウロは、「かぶり物」の問題の事で、「女はだれでも祈りや預言をすると
き」(11:5)「頭に権威のしるしをかぶるべきです。」(10)と勧めた。即ち、
女性は、神の創造の秩序に倣い、男性の権威のもとで語る事を許されている。
聖書では、女性牧師のように女性が教会で教えたり、教会の頭に立つこと
を認めていないが、実際は、多くの教派でそれを承認している。その点で、
私達の群れは、パウロの言葉を文字通り解釈する保守的な立場に立っている。
「保守的」と言うと、一般的に頑固で堅く悪い印象があるが、神の言葉に
関しては、自由な解釈は許されず、寧ろ、保守的でなければならない。同じ
プロテスタント教会でも、自由主義の教会と保守的な教会とは全く異なる。
保守的な教会は、「聖書を誤りのない神の言葉と信じる」が、自由主義の
教会は、「聖書には誤りがある」考え、人間の理性で自由な解釈を施す。必
然的にそのような教会は、現代の男女平等の風潮に倣って女性牧師も認める。
「神の言葉は、あなたがたのところから出たのでしょうか。」彼らは律法
を無視し、自分流の礼拝を提唱するが、神の言葉は、時代の文化や思想によ
って変わるものではない。福音は人間から出たのでなく、神の啓示に始まる。
教会において、自分を「預言者」、「霊的な人」と自認するなら、その人は、
パウロの言葉を「主の命令である」と認めなければならない。「それを無視
する人…その人は無視されます。」信仰は、神の言葉に従う事から始まる。
「預言することを熱心に求めなさい。」神の言葉は、いのちの源泉である
ので、これを熱心に求めよう。「異言で語ることを禁じてはいけません。」異
言は、未信者の救いの為のしるしである。人が救われることを熱心に祈ろう。
「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」礼拝は神の言葉を土
台とし、神に喜ばれる聖なる生きた供え物として自分を神に献げる事である。
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No.857 - 10月20日: 「平和と秩序の神」 コリント第1の手紙14章26節〜33節 |
(みことば)「預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱
の神ではなく、平和の神なのです。」
コリント第1の手紙14章31、32節
パウロは、これまで異言の問題を語って来たが、その結論として、「それ
では、…どうすればいでしょう。」と、正しい教会の礼拝のあり方を述べる。
初期の教会には、「賛美、教え、啓示、異言、解き明かし」などの要素が
あるが、特に「異言、預言、啓示」など、今日の礼拝のあり方と随分違いが
ある。それは、教会が新約聖書の完結してない過渡的時代だったことによる。
神は、教会の黎明期に御言葉の不足を補うために、上記の賜物を教会に与
えられた。従って、パウロが、「預言ならすたれ…異言ならやみます。」と記
しているように聖書が完結した今、聖書以外に異言や預言や啓示は必要ない。
今、教会は、キリストにより完成された救いの御言葉を持っている。それ
を前提にした時、これらの賜物は、個人にではなく、神の共同体に与えられ
た事を知るべきである。「すべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」
「成長に役立てる」は、「家を建てる」の意味であり、その賜物は、教会を
建て上げ、霊的な礼拝を献げる為にある。礼拝は、神への最高の奉仕である。
「異言で語るのであれば、二人か…三人で順番に…一人が解き明かし」異
言は、理解でき、解き明かしができなければならない。「順番に」とは、「順
次交代に一人ずつ」の意味で、それは、秩序正しく行わなれるべきである。
神は、この世界を秩序をもって創造された。従って、教会の礼拝も秩序が
なければならない。熱狂的な異言も、理解でなければ、教会の益にならない。
「解き明かす者がいなければ…黙って…神に…語り…」それが自己満足の
賜物なら益にならず、教会では黙っている方が良い。パウロは「啓示が与え
られたら…黙りなさい。」(30)「女の人は…黙っていなさい。」(34)と命じる。
人間の罪の根である「自己顕示欲、名誉欲、虚栄心、自尊心」が頭をもた
げる時、それが混乱や争いの火種となり、平和を乱す要因となる。「自分に
対し…神に対して」責められる罪の根がないか、自らを吟味すべきである。
「預言する者たちも…他の者たちはそれを吟味しなさい。」旧約から新約
の時代の過渡期に預言の賜物が教会に与えられる。その場合も「二人か三人
が語る」制限が設けられ、教会は、それを「吟味する」慎重さが求められる。
今日の教会も、御言葉を語る事において誤りがないように、注意深くなけ
ればならない。牧師も人間であり誤る事があり、教会も絶対ではない。神の
言葉こそが真実で誤りがなく、今は、誰もが完成した御言葉を手にしている。
「別の人に啓示が与えられたら…黙りなさい。」新約の救いが御言葉によ
って啓示される以前、個々人に啓示が与えられたが、先に語っていた人は、
別の人に啓示が与えられたら、自己主張せず、聖霊に従い、黙るべきある。
「だれでも一人ずつ預言することができる」複数の人が預言しても、一人
ずつ順番に語り、会衆はそれを吟味すべきである。「預言する者たちの霊は
預言する者たちに従います。」教会が一つのからだであるなら、各器官の間に
調和と一致があるはずである。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」
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No.856 - 10月13日: 「神の言葉による成長」 コリント第1の手紙14章20節〜25節 |
(みことば)
「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事において
は幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」
コリント第1の手紙14章20節
パウロは、預言と異言の賜物を比較し、「異言より預言する人の方がまさ
っており、異言で語るより、預言することを熱心に求めなさい。」と勧めた。
コリントの教会の信徒が、幾ら熱心に異言を語っても、それは自己満足に
過ぎず、教会の益にならず、成長に役立つものでもなかった。そこで、パウ
ロは、「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。」と勧める。
「考え方」とは、「知的な判断」「理性的な分別」の意味で、彼らは、異言
の事で、分別や判断において、子どものままの信仰であった。私達は、主か
ら与えられた知性を用いて、成熟した思考と判断力を身に着けるべきである。
「悪事においては幼子でありない。」この世は、悪意と狡猾な知恵で満ち
ており、利得を求め、処世術に長けている。「この世の子らは、光の子らよ
りも抜け目がない」だが、キリスト者は誠実で真実な生き方をすべきである。
パウロは、旧約の言葉を引用して異言の真の意味を論証する。「異国の舌」
「異なる唇」とは、外国語であるが、イスラエルは、異国の言葉で神の宣言
を聞く事になる。それは、彼らが主の言葉を聞こうとしなかったからである。
主は、御声に聞き従わない民に「地の果てから一つの国を来させ…襲わせ
る」(申命記 28:49)と警告するが、それはアッシリアによる北王国の滅亡で成就
する。「主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。」(イザヤ28:11)
主が、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。」(12)と語っても、彼ら
は聞こうとしない。その為、彼らは、「ツァウにツァウ…カウにカウ」(10)と
記された、幼児が語るような外国人の言葉によって神の裁きの宣告を受ける。
神の言葉と律法を与えらえたイスラエルにとって、まことに皮肉な結果と
なった。それは、彼らが預言者の言葉を侮ったからである。それは預言の言
葉を軽んじ、意味不明な異言を重んじるコリントの教会もそれと同様である。
「異言は…信じていない者たちのしるしであり、預言は…信じている者た
ちのためのしるしです。」即ち、「異言は、不信者のしるしで、預言は、信者
のしるし」である。不信者は、神の言葉が語られても、神の言葉と信じない。
異言は、使徒2章において聖霊が教会に下る出来事に伴って起ったが、そ
れは不信者のためのしるしであった。しかし「異言ならやみます。」(13:8)と
あるように聖書が完結した今、信仰を持つ者は、神の言葉に聞くべきである。
「皆が異言で語るなら…気が変になっていると言われる」神は、世の人か
ら見て、「異常で変だ」と思えるようなしるしを教会に与えたりしない。寧
ろ、神の言葉を通して、世の人が、自らの誤りを指摘され、問いただされる。
勿論、信者が未信者に対して、信仰を強要する事はできない。信仰は、あ
くまで自発的なものでなければならない。「心の秘密があらわにされ…」と
は、人に強要されてではなく、ただ、御言葉と御霊の内的な語りかけによる。
彼らは「神が確かにあなたがたの中におられる」と告白し、ひれ伏して神
を拝する。それは、彼らが敬虔な信仰者の神を畏れ敬う姿を見るからである。
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No.855 - 10月6日: 「よりどころはありますか。」 |
(みことば)「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避
け所となる。」
箴言14章26節
***音声のメッセージとは異なります***
特別伝道集会は「あなたによりどころはありますか。」と言うテーマです
が、聖書には「力ある拠り所は主を恐れることにある」と告白されています。
「拠り所」とは、「信頼」「頼み」「確信」「より頼むもの」等の意味があり
ますが、あなたの人生には、確かな信頼できる「拠り所」がありますか。人
は、一生の間に多くの苦難に遭遇するものですが、その時に本当に信頼でき
る確かな拠り所を持つ人は幸いです。それは「主を恐れること」にあります。
主とは、聖書に啓示された全知全能の神であり、この世界の全てを創造さ
れた方です。又、主は、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に
造ろう。」(創世記 1:26)と、人間を神に似た特別な存在として創造されました。
主は、ご自身が神の人格を持っておられるように、人間を、神に似た人格
を持つ被造物として造られました。従って、人間は、創造者である神を知り、
この方に信頼し、人生を神に委ねて生きる時に魂に平安を得る事ができます。
この世界と人間を創造された主は、世界や人間に対して、決して無関心で
はありません。たとえ人間が堕落し、神に背いても、神は、尚、この世界に
対し、主ご自身が神である事を自然や歴史を通して啓示して来られました。
特に、主は、神を証しする民としてイスラエルの民を用い、その歴史を通
してご自身の愛や力や真実さを証言されました。イスラエルの主が、真実で
生きた神である事は、旧約に記されたイスラエルの歴史が証明しています。
一方、人間の本質的な問題は、人類の先祖であるアダムの罪による堕落に
より死が入った事によります。聖書には「一人の人によって罪が世界に入り、
罪によって死が入り…死がすべての人に広がった」(ローマ5:12)とあります。
「罪」とは、創造者である「主」という「拠り所」を見失い、空しく生き
る人の状態を言います。拠り所を失った人の人生の結末は死です。「人は何
処から来て何処に行くのか。」世の人は、誰もそれに答える事ができません。
神は、罪によって死と滅びに向かう人類に対し、預言者を通して救い主の
約束を告げられ、それがイエス・キリストによって実現しました。即ち、キ
リストは、「世の罪を取り除く神の子羊」として来られ、十字架の贖いによ
って救いを完成し、復活によって人類の最後の敵である死に勝利されました。
「彼に信頼する者は失望させられることがない。」主を信じる者は、十字
架の贖いにより、罪を赦され、神の子とされ、永遠のいのちを与えられます。
「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを待つためです。」(ヨハネ3:15)
「それは、主の子らの避け処となる。」あなたは、苦難の時と終わりの日
の避け処を知っていますか。この世のものは、必ず、いつか過ぎ去ります。
その時、頼りにならない物を避け処とした人は、惨めな終わりを迎えます。
預言者イザヤは、主に信頼せず、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとし
た民の最後の嘆きを記します。『助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所
がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか。』と。」
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No.854 - 9月29日: 「ことばと知性による宣教」 コリント第1の手紙14章10節〜19節 |
(みことば)「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性
でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」
コリント第1の手紙14章15節
パウロは、預言と異言を比較し、異言に関して「解き明かしをして教会の
成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっている」と語った。
「世界には…意味のないことばは一つもありません。」異言も預言も言葉
に関する賜物であるが、神は、人間だけに言葉の賜物を与えられた。言葉は、
神と交わり、人間社会を築く上で欠かす事のできない意思疎通の手段である。
人間は、神から与えられた言葉を用いて、世界に存在する物や見えない物
を含めて名前を付け、そこに意味を持たせ、その概念を想像する。又、聖書
は、霊感された神の言葉であり、私達は、御言葉を通して神と救いを知る。
「私がそのこばの意味を知らなければ…外国人であり…」言語の違いが、
民族や文化や国家を分ける。外国語を習得するには辛抱強く学ぶ必要がある
が、言葉が分からなければ、「外国人」(バルバロイ)であり、意思疎通ができな
い。教会は、神の言葉を知らない世の人に、その意味を説明する必要がある。
コリントの教会は、異言の賜物に関し、それを自分の成長と益の為に用い
ていたが、パウロは「教会を成長させるために、それが…与えられるように」
求めた。彼らの信仰は、神の国より自分の事を優先する個人主義であった。
私達は、キリストのからだに属する各器官であり、御霊の賜物は、神の国
とキリストのからだの成長の為に与えられている。キリストのからだに属す
る者が、しっかりとからだに結び合わされないとその部分だけが弱って来る。
「異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」
たとえ異言で語っても、それが自己満足に過ぎず、誰も理解できないなら意
味がない。御霊の賜物は、他者や教会の益になって初めて意味と価値を持つ。
「もし私が異言で祈るなら…私の知性は実を結びません。」異言の祈りは、
どんなに熱狂的であっても、理性的とは言えない。知性は、神が言葉と共に
人間に与えた特別な賜物である。信仰は、決して知性に反するものではない。
コリント教会の異言は、霊的な面を強調し、知性を軽んじる傾向があった。
今日のカリスマ教会も同様で信仰の感情や経験を重んじ、物事を理性的に判
断しようとしない。その為、感情の起伏が激しく、信仰が不安定になり易い。
パウロは「霊で祈り、知性でも祈り…霊で賛美し、知性でも賛美する」と
語る。祈りと賛美は、礼拝における神への応答であるが、神への奉仕は、霊
と知性の両面が必要で、それがなければ、一致して「アーメン」と言えない。
「初心者の席についている人は…どうしてアーメンと言えるでしょう。」
礼拝は、信者の為でもあるが、それは初心者、求道者の為でもある。彼らが
聞いて理解できる説教、祈り、賛美でなければ、救われる者は起こされない。
「あなたが感謝するのは結構ですが…人が育てられるわけでは…」神礼拝
は、自己満足の為ではなく、神の栄光を現わすためにある。福音は、教会の
専有物ではなく、神の言葉が全ての民に分かるように証しされる必要がある。
「異言で一万のことばを語るより…私の知性で5つの言葉を語りたい」キ
リスト教は「ことばの宗教」である。「ことば」(ロゴス)は、キリストである。
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No.853 - 9月22日: 「神の言葉を求める」 コリント第1の手紙14章1節〜9節 |
(みことば)「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言すること
を熱心に求めなさい。」
コリント第1の手紙14章1節
パウロは、前章の文脈を踏まえ「愛を追い求めなさい」と語りつつ、新た
な展開として「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と語る。
彼は、御霊の賜物の中で、預言と異言を対比し、「そのどちらの賜物が優
れているか」を紙面を割いて論じている。それは、コリントの教会において、
異言の賜物の理解と用法に混乱があり、礼拝の秩序が乱れていたからである。
預言も異言も言葉に関する賜物であるが、神は、生き物の中で人間だけに
言葉を与えた。人間は、言葉を通して神と交わり、人間社会を築く事ができ
る。教会を形作る上で最も大切な言葉が乱れているからそこに混乱が起こる。
パウロは、異言よりも預言を優れた賜物と考え、異言よりも預言すること
を熱心に求めるよう命じる。預言は、神の言葉を預かる事であるが、教会は、
神の言葉を委ねられている。神の言葉は、信仰を養い、魂を生かす力がある。
「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく…」パウロは、異言を否
定しないが、それは「誰も理解できない」と語るように、他の人に益を齎さ
ない自己充足的な賜物である。だが、預言は、人を育て、養う事ができる。
従って、パウロの言う異言は、五旬節に「他国のいろいろな言葉で話し始
めた」(使徒 2:4)と言う外国語ではなく、それと明らかに性質の異なるもので
ある。カリスマ系の教会は、今でも異言で祈ることが盛んに行われている。
「預言する人は、人を育て…勧めや慰めを…話し」「育てる」(オイコドメオー)は、
「家を建てる」の意味で、神の言葉は、教会を建て上げる。「勧め」(パラクレイシ
ス)「慰め」(パラムシア)も共に「傍らで呼ぶ。励ます。」の意味で、神の言葉は、
キリスト者の行くべき道を示し、その傍らで、呼びかけ、励まし、力づける。
「預言する人は教会を成長させます。」「成長させる」(オイコドメオー)は、「育
てる」「建てる」と同じ言葉で、パウロは、個人的成長より教会の成長を重
視する。私達はキリストのからだの一部で、各器官はからだの為に存在する。
パウロは、異言で語る以上に預言する事を願う。もし、異言で語るなら「説
き明かしをして教会の成長に役立つので」なければならない。「説き明かす」
は「翻訳する」の意味で、通訳者がいなければ外国人と意思疎通ができない。
「異言で語るにしても、啓示か知識か預言か教えによって…」どんなに情
熱的に異言を語っても、そこに啓示、知識、預言、教えがなければ、何の益
にもならない。人間の情緒や感性だけに訴える信仰は、脆さや危うさが伴う。
パウロは、誰も理解できない異言の無意味さを「楽器」「ラッパ」「舌」に
譬えて語る。楽器は、「笛や竪琴」など、種類により音色が違い、調和ある
音階を奏でて良い音楽になる。神を賛美するのに相応しい教会音楽がある。
同様に、ラッパは、音色、リズム、吹き方によって軍隊の兵士を動かす。
イスラエルは、荒野の旅において、祭司の吹き鳴らす角笛の音を聞き行動を
起こした。神の言葉は聖徒達の心を奮い立たせ、主の為に行動する力となる。
「舌で明瞭なことばを語らなければ…」異言は「舌」(グロッサ)の意味である
が、神に与えられた舌で、イエスを主と告白し、神を賛美する者でありたい。
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No.852 - 9月15日: 「愛がないなら」 コリント第1の手紙12章31節〜13章7節 |
(みことば)「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これ
ら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
コリント第1の手紙13章13節
パウロによる「愛の賛歌」の前半を学んだが、聖書において「愛」とは、
抽象的な概念ではなく、神と人間との関係を表す最も重要な言葉と言える。
「私たちは…神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」(Tヨハネ4:16)
パウロの説く愛とは、神の愛(アガペー)であり、キリストの救いによって完成
した神の究極の愛である。それが分からなければ、神も、愛も分からない。
「愛は決して絶えることがありません。」「いつまでも残るものは…愛です。」
即ち、愛は永遠である。それは、神が永遠であり、この世界に対する神の愛
も変わらないからである。寧ろ、人間の神に対する愛が変わってしまった。
パウロは、愛の特性を語って来たが、神の愛を知らずに、自力でそれを行
おうとしても無駄である。神の愛に満たされなければ、愛は実践できない。
パウロは、愛の永遠性を御霊の賜物と比較し、「預言はすたれ、異言はや
み、知識はすたれる。」と語る。ギリシャ人は知識を重んじたが、知識も預
言も一時的であり部分的である。それはからだの部分と同じで不完全である。
「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」「完全なもの」
とは、「神の国の完成」又は「キリストにより始まる新しい世界」と言える。
主は、再臨と共に不完全な世界を完全な世界へと造り変える。地上の命も、
蓄えた財産も、積み重ねた知識も儚く消え去る。年老いて認知症になれば、
多くの知識が失われる。それらにしがみ付く人は、終わりの日に惨めである。
「幼子であったときには、幼子として話し…」同じ意識を持つ私でも、未
成熟段階の幼子と成熟した大人の私では、思考や行動において全く違う。キ
リスト者にも成長の段階があり、聖化の過程を経てやがて完成に向って進む。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが…」当時の鏡は精度
が悪く、自分の顔がぼんやりとしか映らない。それは今の罪の時代を表して
おり、目に見えない神への信仰、或いは、その愛は不完全で全く心もとない。
「そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。」不完全な罪の世
が終わり、キリストの再臨による新しい時代が始まる。その時には、何の曇
りもなく、罪の隔てもなく、まさに「顔と顔を合わせて」神を見る事になる。
「そのときには、私が完全に知られているのと同じように…」神の視点か
らすれば、私の全てが知られている。私が隠れて行った事も、神が知らない
事は何もない。主は「私が歩くのも伏すのも見守り…知り抜いておられ」る。
「神に完全に知られている」とは、知識だけの問題ではない。ヘブル人の
「知る」と言う言葉には「愛する」の意味がある。相手を知らなければ、愛
せない。神は私達の全てを知り愛された。神を愛するとは神を知る事である。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛…すぐれているのは愛です」パウロ
は、愛の特質の最後で、「すべてを信じ、すべてを望み」と語り、その前後
に「耐え…忍び」と語った。愛の特性は「寛容」に始まり「忍耐」に終わる。
その中心に信仰と希望がある。罪の世にあり、自らの愛の乏しさ貧しさを
知る。完全な愛を知る者は、忍耐できる。愛は、信仰も希望も全て包み込む。
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No.851 - 9月8日: 「愛がないなら」 コリント第1の手紙12章31節〜13章7節 |
(みことば)「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛
は自慢せず、高慢になりません。」
コリント第1の手紙13章4節
パウロは、「愛の賛歌」と呼ばれるこの箇所で「愛がどのようなものか」
を語るが、この箇所は、愛の誓約を求められる結婚式等でも良く朗読される。
パウロは、これまで語って来た「御霊の賜物」との関係で愛を説き明かす。
彼は、御霊の賜物を与えられ、キリストのからだの部分とされた者に、教会
を形作る為に必要なよりすぐれた賜物として愛を説き、愛に生きる道を示す。
彼は、前半の箇所で「愛がなければ…」と、同じフレーズを3回繰り返し
て語り、それを「私が」と一人称単数で語っている。即ち、彼は、「私に愛
がないなら、私は無に等しい」と自分自身に愛を問いかけながら語っている。
彼は、これまで教会に与えられた御霊の賜物について語って来たが、御霊
の賜物を与えられた者は、それを寄せ合うようにキリストのからだを形作る
事になる。愛は、からだ全体に行き巡り、各器官を生かす血液のようである。
「愛がなければ、騒がしいどらや…シンバルと同じです」コリントの教会
は、異言を語る事に優越感を抱き、自己陶酔する者がいた。それは、適切な
時に打ち鳴らされないどらやシンバルのように、騒がしい雑音に過ぎない。
「たとえ私が預言の賜物を持ち…」神の言葉を預かる預言は、教会にとっ
て最高の賜物である。「あらゆる奥義と…知識に通じる」ことは、福音を強
力に弁明する。「山を動かすほどの完全な信仰」も、教会にとって力となる。
だが、その豊かな賜物も愛がなければ無意味である。では、愛とは何か。
愛の概念は様々であるが、パウロの語る愛は、「無償の愛」(アガペー)である。
その愛は、偽善の愛でも自己愛でもなく、神が人を愛する愛であり、「愛
がなければ」、どんなに優れた賜物を持っていても、それは、無きに等しい。
たとえ「持っている物を…分け与え」る慈善行為も、「からだを引き渡す」
献身的行為も、それが、彼自身の誇りであるなら全く意味がない。それは愛
のない自己満足と名誉心によるのであり、その偽善的行為に天の報いはない。
パウロは、「愛がどのような性質のものか」を肯定的・否定的な表現で15
の特性を列記する。愛は、観念的なものではなく、具体的・実際的である。
その具体的特性が、自分自身に無いなら、「愛がない」と判断すべきである。
「愛は寛容であり、愛は親切です」人に対する寛容さと親切心は、愛の現
れであり、その人は、人を簡単に裁かず、人の罪を赦す事ができる。次に、
否定的意味で、愛は、「人をねたみません。…自慢せず、高慢になりません。」
人を羨む心は、誰の中にもあり、妬みは罪の根である。自慢は「自惚れが
強い」「法螺を吹く」の意味で、自分を誇る人間の弱さである。又、「高慢は
破滅に先立つ」とあるが、人の高ぶりが人生を挫折させ、全てを駄目にする。
愛は、「礼儀に反することをせず…」非常識であってはいけない。愛ある
人は「自分の利益を求ず…」他者に仕える事ができる。「苛立たず…悪を心
に留めず…」愛ある人は、怒らず、忍耐して隣人を受け入れる事ができる。
「不正を喜ばずに、真理を喜び…」愛ある人は不義や不正に毅然とした態
度を取り真理に堅く立つ。その人は「耐え…信じ…望み…忍ぶ」事ができる。
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No.850 - 9月1日: 「キリストのからだ(U)」 コリント第1の手紙12章21節〜31節 |
(みことば)「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つ
の部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
コリント第1の手紙12章26節
キリストのからだである教会は、人間のからだのように、一つのからだで
も多くの部分から成り、各部分は独自の働きをしながら調和ある働きをする。
からだの各器官は、それぞれ無くてはならない存在であり、「目が手に向
かって『あなたはいらない』と言う」事はできない。それは、人の勝手な判
断で思い上がりである。進化論で言う退化した役に立たない器官等何もない。
進化論の優性思想は、人間の価値を能力で諮るが、人間の尊厳は、「神の
かたち」に似せて創造された事にある。罪の支配する社会で、「あなたはい
らない。」と、どれだけの人が存在の価値と尊厳を否定されて来ただろうか。
たとえ、世に居場所がなくても、教会には、居て良い場所がある。それは、
キリストがあなたを受け入れ、愛しているからである。「からだの中で、ほ
かより弱く見える部分が…」小さな器官が、大切な働きをしている事がある。
「見栄えがほかより劣っている…部分を…よくするものでおおい…」即ち、
からだの中で、弱いと思える部分は、他の強い部分が補い、一つのからだと
しての調和を保つ。からだは、あらゆる方策を講じて弱い部分を全力で守る。
「からだの中に分裂がなく…配慮し合うためです。」日本社会は、人々を
画一的な日本の共同体社会に押し嵌めて来た。だが、私達は、「この世のも
の」ではなく、滅びの世から救い出され、キリストからだに結び合わされた。
からだに異物が混入すると免疫反応を起こし異物を排除する。神の人は、
世に属する者でないので、当然世から憎まれる。世に合わせる事に心地良さ
を感じるか、神と教会の交わりに安らぎを感じるか、それは帰属意識による。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ…」神の共同体は、
苦しみも、喜びも共有する。足が傷つけば、視神経を通して痛みが脳に伝わ
り、傷付いた足を庇う。心を病めば、からだ全体がだるくなり、気力を失う。
「あなたがたは、キリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」
それは、これまでの結論と言えるが、何より人の生命力は、魂にあり、人の
霊は、キリストのからだである教会の交わりにより強められ力を与えられる。
パウロは、最後に「御霊の賜物」について語りこの箇所を締め括るが、こ
こに、神が教会に与えた3つの職務と5つの賜物を記す。「神は教会の中に、
第一に使徒たち…」第1から第3は、神の言葉に関する重要な職務である。
使徒、預言者は、イエスの時代の初期に神から権威を与えられた職務であ
るが、聖書が完結した今、教師或いは牧師がその職務と役割を果たしている。
それは、神の言葉を伝え、教える重要さにおいて、他の賜物に勝っている。
後半の賜物のうち「力あるわざ」「癒しの賜物」は、主ご自身の宣教の活
動に伴う御業であった。それは、神が生きている証しでもある。「私は、私
を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
次に「援助」は「世話する」の意味で、「管理」は教会の運営に関係する。
教会は御言葉の働き以外に、様々な奉仕により支えられている。「あなたが
たは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」それは、愛の賜物である。
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No.849 - 8月25日: 「キリストのからだ」 コリント第1の手紙12章12節〜20節 |
(みことば)「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの
部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」
コリント第1の手紙12章12節
パウロは、「御霊の賜物」について「イエスを主と告白する」救いも、聖
霊による事を語り、それ以外の賜物には、色々な種類がある事を述べて来た。
次にパウロは、神の共同体である教会を人間のからだに譬える。「からだ
は一つでも、多くの部分があり…」からだは多くの器官から成り、種々の器
官が、独自の働きをしながら、一つのからだを保つ為に調和ある働きをする。
「一つでも、多くの部分があり…多くても、一つである。」逆説的な言い方だが、教会の存在の特殊性を端的に記している。パウロは、(ローマ 12:4~5)でも同じ譬えを用い「一つのからだには多くの器官があり…」と述べている。
からだの外部の器官では、手、足、目、鼻、耳などがあり、内部の器官では、心臓、肺、腎臓、肝臓などがある。それぞれの器官は、独自な働きをするが、尚かつ、他の器官と調和ある働きの中で一つのいのちを保っている。
神が創造された神秘的な御業と叡智を讃えずにはいられない。それらは、無神論の進化論者が言うように、偶然の連続と進化の産物ではない。「あなたこそ、私の内臓を作り、母の胎内で私を組み立てられた方です。」(詩篇 139:13)
教会は、「一つにして多数、多数にして一つ」という統一性と多様性を持ち、それは三位一体の神の性質に由来する。「父・子・聖霊の三つの神は、異なる人格を持つが唯一であり、救いの御業は異なるが、調和ある働きをする。」
「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も…一つの御霊を飲んだ」教会の構成員は、国籍や境遇や社会的な立場が違うが、一つになれる。それは、「一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだ」となったからである。
教会員は、キリストの贖いと御霊による新生と言う共通の理解と救いの経験を持つ。パウロは、それを「御霊を飲む」と表現するが、主は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ 7:37)と言われた。
キリストと一つになること無しに、いのちを得る事も、それを保つ事も出来ない。それは、キリストのからだである教会に繋がる事である。「一つの御霊によってバプテスマを受ける。」それが教会の構成員となる条件である。
教会が「一つのからだであり、多くの部分から成っている」とは、何を意味するのか。それは、「人間のからだの中で、不必要な器官など何一つない」事を意味する。「足は『手ではないから、からだに属さない』」等と言えない。
人間のからだの「痕跡器官}と呼ばれた尾てい骨、盲腸、、虫垂等は、決して不要な器官ではなく、どれも必要な働きを担っている。からだの中で、不要な物等何もない。神が愛され必要としているのに、自己卑下すべきではない。
教会の構成員が主の日に礼拝する事はどれほど尊い奉仕だろうか。キリストの代価により贖われたひとりは、どれほど価値ある存在だろうか。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして神を愛する」これに勝る奉仕はない。
「もし、からだ全体が目であったら…」からだの各器官は、独自の働きをし、それは他の器官で代用できない。あなたは、存在していることに価値がある。神の御心により「キリストのからだの一部とされた幸い」を覚えよう。
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No.848 - 8月18日: 「御霊の賜物」 コリント第1の手紙12章1節〜11節 |
(みことば)「あなたがたに次のことを教えておきます。…聖霊によるので
なければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」
コリント第1の手紙12章3節
パウロは、「主の晩餐」の記述に続いて12章から「御霊の賜物」につい
て語るが、コリント教会には、「御霊の賜物」に関して誤解と混乱があった。
「兄弟たち。御霊の賜物について…知らずにいてほしくはありません。」
御霊の賜物は、原文で「御霊のもの」(プニューマティコス)の意味であるが、それは、
御霊が与える賜物(gifts)の事であり、主の救いの完成によって与えられる。
パウロは、彼らが異教徒であった時のことに言及する。「…誘われるまま、
ものを言えない偶像のところに引かれて行き…」偶像に人格はないが、以前
の私達は、それらを神として崇めて来た。それは悪霊に導かれた結果である。
私達は、偶像の支配する世にあって、何故、教会に導かれ、イエスを主と
信じる事ができたのか。それは、ただ御霊の働きと導きによる。「神の御霊
によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことは」できない。
同様に、「イエスは主です」と告白することも、ただ、聖霊の働きである。
勿論、信仰告白は、人の意志による事だが、神の御霊が人の心に働かなけれ
ば、信じることはできない。御霊の働きの第1は、人を救いに導く事である。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」人は、
自分の力で産まれる事ができないように、新しく生まれる事も、ただ神の御
霊による御業である。人が救われる事は神秘であり、それは神の賜物である。
「さて、賜物にはいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。」賜物
には多様性があるが、それを与える御霊は一つである。教会は、一つの御霊
を与えられ、主を信じた者は、同じ御霊を持つ。教会の一致は、ここにある。
奉仕や働きには、いろいろあるが、仕える主は、同じ神である。同じ神が、
「すべての人の中で、すべての働き」をする。「働き」の語源は、(エネルゲン)
であるが、神は、主に仕える者に、豊かな霊的力(エネルギー)を与えて下さる。
パウロは、「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられて
いる」(7)と語る。御霊の賜物は、個人の益の為ではなく、神の共同体である
教会の益となる為に与えられた。与えられた賜物を主と教会の為に用いよう。
パウロは、御霊の賜物の多様性として9つの現れを記す。「知恵のことば」
「知識のことば」「信仰」「癒し」「奇跡を行う力」「預言」「霊を見分ける力」
「異言」「異言を解き明かす力」主は、教会の益の為に多様な賜物を与えた。
第1は、知恵と知識の賜物であるが、教会には、世にはない、神の知恵が
与えられている。それは、神と救いに関する知識である。第2は、霊的な信
仰に関する事であるが、癒しや奇跡は、預言者や使徒に伴うしるしであった。
「人にはできないことが、神にはできる」(ルカ 18:27)また、神は、教会
に預言の賜物を与えられた。教会は、神の言葉を預かる聖なる集まりである。
最後に、コリントの教会には、異言の賜物に関して混乱があった。異言は、
宣教の証しとして与えられたが、それが個人の特殊な宗教体験となっていた。
御霊の賜物は神の民の調和と一致の為に与えられた。「一つの御霊がこれら
すべてのことをなさる」(11)「神は混乱の神ではなく、平和の神です。」(14:32)
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No.847 - 8月11日: 「主の晩餐に預かる恵み」 |
(みことば)「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、
わたしを覚えて、これを行いなさい。」
コリント第1の手紙11章25節
パウロは、「次のことを命じるにあたって」と語るが、それは「主の晩餐」
に関する事で、主が「わたしを覚えて…行いなさい」と命じた定めである。
パウロは、それを語る前に、「あなたがたの集まりが益にならず…害にな
っている」と糾弾する。「教会が一つに集まる」事は、教会の本質であり、
特に、主の日の礼拝を聖別し、共に集まる事は、主の定めであり命令である。
彼らの集まりが益にならず、害になっているのは、彼らの中に分裂があっ
たからである。それは、教会の本質を駄目にする問題であり「主の晩餐」を
汚す行為である。主に贖われた教会は、信仰の一致と愛がなければならない。
ただ、パウロは、「分裂」に関して「ある程度は、そういうことも」あり
得るし、「本当の信者が明らかにされるためには、分派…もやむを得ない」
と容認する。それは、教義上の違いにより信仰の一致が保てない場合である。
だが、彼らは、そうではなく、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べる」
為ではなく、「我先にと自分の食事をする…空腹な者もいれば、酔っている
者もいる」始末であった。それは、教会の聖なる交わりを損なう行為である。
そこでパウロは、「主の晩餐」がどのような性質のものであるかを語る。「私
は主から受けたことを…伝えました。主イエスは、渡される夜…」それは、
主イエスが十字架にかかる前の晩に、弟子達と取られた最後の晩餐である。
主の晩餐は、キリストの贖いのからだと流された血を象徴するパンと杯に
預かる事だが、それは、キリストを信じる者が、救いに預かる新しい神との
契約を表す。教会における最も神聖で厳粛な交わりを軽んじてはならない。
教会は、宣教の初期から「主の晩餐」に対して世からの誹謗中傷を受けて
来た。「あなたがたは…杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知
らせるのです。」主の晩餐は、教会にとって宣教の為の目に見える証である。
最後にパウロは、主の晩餐に預かる者の態度について語る。「もし、ふさ
わしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば…」主の晩餐の意味
を弁えず、自らを吟味する事なく、聖なる主との交わりに参加すべではない。
キリスト者は、信仰と恵みによって神の救いに預かる者であるが、同時に、
新しく生まれ変わった者は、それに相応しい生き方や振る舞いが求められる。
「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」
パウロは「みからをわきまえないで食べる」者に警告する。彼らは聖なる
交わりを侮り、我先にと飲み食いするが、神のさばきが不敬虔な人々に下る。
その為に彼らの中に「弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなり」いた。
「わたしたちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。」
神との聖なる交わりを厳粛に受け留め、敬虔に主に従うべきである。彼らへ
の裁きは、主の懲らしめであり、それは、世と同じ裁きを受けない為である。
「空腹な人は家で食べなさい。」神の家の食卓が、神の家族にとって最高
の祝福となるように。「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」
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No.846 - 8月4日: 「神の定めた秩序と権威」 コリント第1の手紙11章2節〜16節
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(みことば)「次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリ
ストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」
コリント第1の手紙11章1節
パウロは、この箇所から、新しい話しの展開として、教会における「礼拝
の正しいあり方」或いは「礼拝における秩序」をかぶり物の問題から論じる。
パウロは、礼拝において、「女性達がかぶり物を着けるべきかどうか」を
話題にする。今の私達には、そのような習慣がないが、それは文化的な違い
によるもので、パウロは「女は…頭に権威のしるしをかぶるべき」と考えた。
パウロは、この議論の前に教会に対して「伝えられた教えを堅く守ってい
る」事を褒めた。彼が後に語るように、彼らには、褒められない点もあった
が、「伝えられた教えを堅く守る」事は、教会において最も大切な事である。
キリスト教会は、二千年間、キリストと使徒の教えを堅く守って来た。こ
の世には普遍的な教えなど何処にもないが、教会の教えの普遍性は、聖書の
言葉の不変性と権威による。時代が変わっても、神の言葉は変わる事がない。
パウロは、それを前提にかぶり物の問題に移り、「すべての男のかしらは
キリストであり…」と語る。「かしら」とは上に立つ権威を表すが、「女のか
しらは男であり」と語る様に、そこには神の創造の秩序と順序の違いがある。
それ故、「祈りや預言」即ち礼拝の際に、男はかぶり物を着けないが、女
は、かぶり物を着けるべきであり、そうしないなら「自分の頭を辱める」事
になる。今の時代とは、文化的な違いがあるが、本質的な原理は変わらない。
教会の中に、それを古い悪しき習慣として排除する傾向があったようだが、
パウロは、女がかぶり物を着けない事を「頭を剃る」恥ずかしい行為と考え
た。「髪は女のいのち」と言うように、今日もそれは普遍的な真理と言える。
しかし、現代は「男性と女性の境目を無くし区別を止めよう」とする社会
的風潮がある。ジェンダーレス問題は「人間が自由で、生まれながらの性に
縛られる必要はない」とする神の創造の原理を否定する考えから発している。
「男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので…」「神のかたち」とは、
「神の創造された世界を管理する責任と使命を委ねられた」という意味であ
り、それ故、男には、主人として家庭を治める責任と権威が与えられている。
この世界は、神が定めた秩序があり、男と女には使命や権威の違いがある。
それは「男が女から出たのではなく…女が男のために造られた」からである。
今の時代の結婚や家族や性の崩れは、神の秩序と定めを無視した結果である。
「女は御使いたちのために、頭に権威のしるしをかぶるべきです。」家庭
において父親の権威が失われた結果、男性が女性化し、女性が男性化してい
る。女は男の助け手として造られた。人は神の言葉の権威に従うべきである。
「とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく…」聖書の教
えは、封建主義の男尊女卑的な教えではなく、男と女が一体であり、共生的
存在であると教えている。神の創造の御業に不自然で不完全なものはない。
長い髪は、男にとって恥であるが、女にとって栄誉である。かつてヒッピ
ー文化が流行したが、それは無秩序な体制破壊の暴力革命となった。「その
ような習慣は…なく…」私達は、主の定めた敬虔で聖い習慣を身に着けよう。
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No.845 - 7月28日: 「キリストに倣う者」 コリント第1の手紙11章1節
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(みことば)「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う
者でありなさい。」
コリント第1の手紙11章1節
パウロは、キリスト者の自由について語って来たが、その自由とは、世の
人の様に自由奔放に生きる事ではなく、神の支配と御言葉に従う自由である。
パウロは、その自由を「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求める」
(10:24)生き方として勧め、彼自身も、「人々が救われれるために、自分の利
益ではなく、多くの人々の利益を求め…務めている」(10:33)と述べて来た。
又、彼は、「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて
神の栄光を現わすためにしなさい。」(10:31)と語るが、神に創造された人間
にとって、神を誉め讃え、神の栄光を現わす事が、人生の究極の目標である。
パウロは、その文脈の中で「私がキリストに倣う者であるように…倣う者
でありなさい。」と勧める。英文は、(imitate me)「私に倣え」が文頭に置か
れている。「倣う」は、「模倣する」「見習う」「手本にする」の意味である。
コリントの信徒は、信仰者の生き方としてパウロを模範とし、その行動に
倣うべきである。雛が親鳥の後に付いて歩き、その行動を真似るように、キ
リスト者は、信仰の良い手本となる人の振舞を見て、それに倣うべきである。
但し、パウロのように「私に倣う者でありなさい」と言うのは、その人が
模範的な生き方をしていなければ言えない。キリスト者であっても様々な欠
点があるが、自分自身が信仰の模範となるような生き方を目指すべきである。
御言葉を教える者が、実際にそのように生きていなければ、その人の言葉
は、真実とは言えず偽善である。主イエスは、パリサイ人や律法学者の偽善
を叱責された。神の言葉の教えと実践は、手を携えて歩まなければならない。
パウロは、「私がキリストに倣う者であるように」と、キリストを模範と
して歩んだ。キリストは、私達の信仰の歩みの完全な模範であり、お手本と
言える。私達の地上での目標は、「キリストに倣う者となる。」ことである。
パウロは、イスラエルの荒野の旅を例に挙げ、「それが書かれたのは…私
達の教訓とするため」と語ったが、彼らは、決して良い模範とならなかった。
そこで、主は、救いの完成者、信仰の模範者としてキリストを立てられた。
英語の(imitate)「倣う」の名詞形は、イミテーション(imitation)で「本物に似せた
偽物」の意味である。本物は、完全な神の子、キリストだけであるが、私達
は、不完全な者であっても、本物に少しでも近づくように努力すべきである。
キリストに似た者になるには、キリストを信じて新しく生まれ変わる必要
がある。御霊を持たなければ、神の栄光を現わす事も、神の聖さに預かる事
もできない。新しく生まれる事は、天の御国に向かって歩むスタートである。
また、キリストに似た者となる為には、人間の努力や頑張りのような肉の
力によるのではなく、聖なる御霊の交わりと導きの中で神のご性質に預かる
者に変えられて行く。人が神の聖さに預かる過程のことを「聖化」と呼ぶ。
私達は、神の救いに預かっていても、肉の性質が頭をもたげ、聖なる交わ
りを損ない、失敗する事がある。そうならない為に、御霊によって歩み、肉
の性質である自我を捨て、自分の十字架を負い、主に従って歩む者となろう。
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No.844 - 7月21日: 「神の栄光を現わすため」 コリント第1の手紙10章23節〜33節 |
(みことば)「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何を
するにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
コリント第1の手紙10章21節
パウロは、「すべてのことが許されている」と言いますが、…」と2度繰
り返して、キリスト者の救いの特徴の一つである「自由」について述べる。
イスラエルは、神の奇跡により奴隷の家から解放され自由を与えられたが、
私達も、キリストの贖いにより罪と滅びから解放されて自由を与えられた。
それは、自由奔放に生きる為でなく、神の聖さと神の栄光を現わす為である。
第1に、彼は、「すべてのことが許されて」いても、「すべてのことが益に
なるわけではない」と言う。多くの人は、何の益にもならない事に時間と労
力を費やしているが、私達は、価値ある、聖なる事の為に生きるべきである。
第2に、「すべてのことが許されて」いても、「すべてのことが人を育てる
とは限らない。」と言う。「育てる」は「家を建てる」(オイコドメオー)の意味で
あり、自由は、神の共同体である教会を建て上げる為に用いるべきである。
「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」多く
の人は、「自分の益になるかどうか、損か得か」で判断するが、キリスト者
は、その自己中心から解放され、他者の利益の為に生きる自由を与えられた。
パウロは再び偶像の肉の問題を取り上げ、キリスト者の自由について語る。
「市場で売っている肉はどれも…」彼は、それが偶像に献げた肉であっても、
キリスト者が「良心の問題を問う」事なく、自由に食べる事ができると語る。
キリスト教は、この点でイスラム教、ユダヤ教、仏教のように食べ物の制
限や戒律が全く無く自由である。それは、「地とそこに満ちているものは主
のものだから」に根拠がある。神の創造された被造物に汚れた物などない。
パウロは、未信者との関りについて「信仰のないだれかに招待されて…食
べなさい。」と語る。キリスト教は、ユダヤ教徒のように異教徒との食事の
交わりを拒絶することなく、それを「良心の問題として問う」必要もない。
だが、誰かが「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、その人の為に食
べるべきではない。もてなす人は、偶像に献げた肉を宗教的な意味を込めて
提供している。キリスト者はそれを知りながら黙って食べる訳には行かない。
それは、相手を拒絶する事ではなく、かえって福音を弁明する機会となり、
彼の救いの為である。パウロは、その良心を自分の良心ではなく「知らせて
くれた人の良心」と語る。私達は、常に相手の益となる交わりを心掛けたい。
「私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるのでしょう。」
私達の信仰の信念は、他者によって左右されたり、評価されるべきでない。
他者に合わせるのは、他者の益の為であり、自分の信念を曲げる事ではない。
「もし私が感謝して食べるなら、どうして…悪く言われるのでしょう。」
神への感謝に、他者からあれこれ言われる筋合いはない。多くの人は、他者
の目を気にし過ぎて信仰に立てない。そこに、信仰の信念がないからである。
「食べるにも飲むにも、…神の栄光を現わすためにしない。」私達の人生
の目的は、神の栄光を現わすためにある。パウロは、その為に、人に対して
つまづきを与えず、人々の救いと利益を求め、人を喜ばせようと務めている。
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No.843 - 7月14日: 「試練の時の避け所」 コリント第1の手紙10章14節〜22節 |
(みことば)「主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主
の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。」
コリント第1の手紙10章21節
パウロは、「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(14)
と語る。荒野の旅におけるイスラエルの第1の罪も「偶像礼拝」であった。
「避ける」は「逃げる」の意味で、パウロは、愛する者達に偶像礼拝への
警戒を促す。イスラエルの信仰を駄目にした第1の要因は、偶像礼拝であり、
十戒の第2戒は「偶像を造ってはならない。拝んではならない。」である。
私達は、この世を生きる時に偶像との関りで様々な試みを受ける。その時、
キリスト者が毅然とした信仰の態度を示さないと世の偶像礼拝者に合わせた
行動を取る事になる。私達は、偶像礼拝ではなく、神礼拝に生きる者である。
真実な神は、「試練とともに脱出の道も備えて」くださる。人は、試練の
時にどこに救いを求めるのか。「鰯の頭も信心から」多くの人が、偶像の神
に救いを求めるが、救いは、真実な神にあり、鰯の頭に人を救う力はない。
パウロは、試練の時の救いの道として「キリストの血に預かる…からだに
あずかる…」と語る。それは教会の交わり(コイノニヤ)であり「一つを分け合う」
の意味がある。教会は、主の救いに預かり、それを分け合う集まりである。
それは、キリストの贖いを象徴する主の晩餐のことであり、杯はキリスト
の血を、パンは、裂かれたキリストのからだを象徴する。このキリストの救
いの契約と交わりにあずかる者は、偶像の支配ら逃れ、神の聖さにあずかる。
「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。」教会
は、主の晩餐において一つのパンから共に食する。それは、教会の交わりの
一致と、同じキリストのからだに結び合わされたキリストとの一体性を表す。
イスラエルは「彼らについて来た岩から飲んだ」が、教会は、キリストと
言う岩の上に建てられ、キリストは教会の交わりから離れることはない。こ
の土台の上に建てられた家は、どんな試練の嵐に遭っても倒れることはない。
「ささげ物をする者は、祭壇の交わりにあずかる」イスラエルの民は、祭
壇の前で礼拝を献げ、祭壇の献げ物を共に分け合った。教会で神を礼拝する
者は、神の祝福の恵みに共に預かる。神の祭壇は、偶像礼拝者と区別される。
パウロは、「偶像に献げた肉」或いは「偶像に何か意味がある」と言おう
としているのではない。以前、彼は「世の偶像の神は、実際には存在せず…」
と語った。だから、たとえ偶像に献げた肉を食べても汚れるわけではない。
だが、彼は、偶像に安易に関わる事を勧めない。それは偶像の背後に悪霊
が存在するからである。「悪霊と交わる者になってもらいたくはありません。」
この世の宗教、占い、オカルト、魔術、それらの背後に悪魔の存在がある。
悪魔の存在に無警戒で、その誘惑の罠にかかり、聖さを失い、悪魔の虜と
ならないように。悪魔の誘惑と危険は、例外なく誰にでもある。主は、公生
涯の始めに40日40夜断食した後に悪魔の誘惑を受け、これに勝利された。
「主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲む」事はできない。教会の交わりに
預かる者は、神に聖別された者である。偶像から離れ、神の聖さを保ち、主
を愛する者となろう。主は、ねたむ神。私達の周りにある偶像を取り除こう。
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No.842 - 7月7日: 「神は真実な方」 コリント第1の手紙10章1節〜13節 |
(みことば)「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせ
ることはなさいません…試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
コリント第1の手紙10章13節
冒頭の御言葉は、試練の中に生きる者にとって、支えとなり励ましとなっ
て来た。私達が試練の中で、なお守られるのは、神が真実な方だからである。
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」
パウロは、その試練について神とイスラエルの関係から語る。神は、荒野を
旅するイスラエルを導き支えて来た。読者は、その実例から学ぶ事ができる。
「兄弟たち。あなたがたに知らずにいてほしくはありません。」パウロは、
前章において、私達の人生を競技場で走る競技者にたとえて語ったが、それ
は、朽ちない冠を受ける為に自らを節制し、失格者にならないためであった。
だが、イスラエルは、良い実例ではなく、悪い実例であった。彼らは、荒
野の旅において「偶像礼拝者」となり、「淫らなこと」を行い、神を試み、「滅
ぼす者によって滅ぼされた。」それは、「私たちへの教訓するため」である。
「私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を渡ってきました。」彼らは、
昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、エジプトの追撃を逃れ、紅海を渡り、絶
望的な試練から救い出され、約束の地を目指して40年の荒野の旅を続けた。
「雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け…同じ霊的な飲み物
を飲みました。」それは、今日の私達の救いとバプテスマを象徴し、信仰の
歩みを表している。彼らが荒野を旅する時に必要な物は、食料と水であった。
パウロは、それを「霊的な食べ物…霊的な飲み物」と表現するが、それは、
天からのマナの奇跡であり、岩から湧き出した水の事である。又、「みな、
同じ」とは、神の共同体が、同じ一つの神の御業に支えられて来た事を示す。
「彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。」本来、動くことのない
岩が、まるで彼らと一緒に旅をするように、必要な時に岩から水が湧き出る。
「その岩とはキリストです。」私達にとっていのちの水はキリストである。
「しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされ…」
彼らは、神の奇跡と恵みを経験していながら、神の真実を無にする。彼らは、
「いのちの水の泉…を捨て、壊れた水溜を掘った」(エレミヤ 2:13)のである。
彼らの第1の悪の実例は、「偶像礼拝」であるが、彼らはシナイ山で金の
子牛を造りその周りで戯れた。偶像の神は、人間の幸福を実現する為に存在
するが、人間の為に神が存在するのではなく、神の為に人間が存在している。
彼らの第2の悪は「淫らな行い」であるが、彼らは、その為に「一日に二
万三千人が倒れて」死んだ。彼らは、その不道徳によって多くの者が神に打
たれる。「聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)
彼らの第3の悪は、キリストを試みたことである。神を試みる者は、神の
恵みが与えられていても、それに満足できず、それ以上の物を求める。「今
持っているもので満足しなさい。」(ヘブル 13:5)「彼らは蛇によって滅んだ。」
「不平を言ってはいけません。」彼らは、試練の度に不平を言い、エジプ
トを懐かしみ呟いた。「彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。」彼らに起
ったことは、今日の私達への「戒めのためであり…教訓とするため」である。
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No.841 - 6月30日: 「神を信じる幸い」特別伝道集会 聖書全体 |
(みことば)「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あ
なたがたの耳は聞いているから幸いです。」
マタイの福音書13章16節
***音声のメッセージとは異なります***
教会は、神を信じる集まりであるが、改めて「神を信じる幸い」について
考えて見よう。一概に神と言っても多くの神々があり、多くの宗教がある。
何故、キリスト教の神こそが真実で、本当の神と言えるのだろうか。聖書
は、神が唯一絶対の存在者であり、神が世界を創造されたと記している。「は
じめに神が天と地を創造された。」キリスト教の神信仰はここから始まる。
唯一絶対の神の実在を前提にしなければ、この世界の存在も説明できず、
人間の存在や起源も説明できない。神を信じなければ、「人間がどこから来
て、どこに行くのか」と言う人間の永遠のテーマに答えることはできない。
神は、神を信じて生きるように人間を創造された。従って、人間は、神を
信じる事で人生の意義や目的を見出す事ができる。「あなたの若い日に、あ
なたの創造者を覚えよ。」創造者である主を知る事が出来た人は幸いである。
人間は、神によって創造されたが、多くの人が神を信じず、神に逆らう者
となった。その原因は、最初の人間アダムが神の戒めに背き罪を犯した事に
よる。人類は、アダムの違反によって罪が入り、罪の刑罰として死が入った。
何故、神が創造した世界に悪が存在するのか、誰もが疑問に思うが、神は、
人間を自由な意思を持つ道徳的被造物として創造された。従って人間は、善
悪を選択する自由意思を持ち、自らの意志で悪を選択して堕落したのである。
だが、神は、堕落した人類のために救いの道を備え、アダムの子孫から救
い主が生まれ、人類を救いに導く計画を立てられた。神は、堕落した人類の
中に、セツ・ノア・アブラハム・イスラエルのような神を信じる民を残された。
キリストは、イスラエル民族のダビデの子孫として生まれた。それは旧約
の預言に基づく神の約束であり、神の言葉は、キリストによってことごとく
成就した。神によって約束された救い主をキリストと信じる者は幸いである。
キリストは、罪のない完全な神の子として処女マリヤから聖霊によって生
まれ、人として歩まれ、人類の罪の身代わりとなる為に十字架の刑罰を受け、
三日目に死者の中からよみがえられた。キリストこそ、私達の救い主である。
キリストを信じる者は、罪を赦され、神に義と認められ、神の子とされる。
人は、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているが、キリスト
を信じる者は、死んでも裁きを受けることなく、永遠のいのちを与えられる。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスに
ある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)それは、この世の人が求める朽ちて行
く望みではなく、永遠に残るものであり、神を信じる者の幸いがここにある。
それは将来の約束だけなく、神は今も生きておられ、神を信じる者を執り
成し、苦しむ者を助け、悲しむ者を慰め、あらゆる災いから救い出して下さ
る。私達は、偶然の世界ではなく、神の確かな摂理の御手の中に生きている。
悪魔の誘惑によって始まった人類の罪の歴史は、やがて終わりを迎える。
神の勝利は、キリストが十字架と復活によって悪魔に勝利した事で確定し、
神の国の完成は、キリストが天から再臨される時に御言葉の通りに実現する。
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No.840 - 6月23日: 「目標を目指して走る」 コリント第1の手紙9章24節〜27節 |
(みことば)「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしませ
ん。空を打つような拳闘もしません。」
コリント第1の手紙9章26節
パウロは、これ迄「私はだれに対しても自由ですが」と自由をテーマに語
り、「私は福音のためにあらゆることをしています」と彼の人生観を語った。
パウロは、最後に、人生の目標として「何を目指して生きるべきか」を勧
める。「私は目標がはっきりしないような走り方はしません。」人生に目標の
ない人は、何処に向かって走っているか分らず、これ程空しい生き方はない。
彼は、キリスト者が何処に向かって、どのような姿勢で生きるべきかを競
技に譬えて語る。「競技場」「走る」「賞を受ける」「節制する」「冠を受ける」
「拳闘」「失格者」それらは、古代のオリンピック競技に関する記述である。
「競技場」の(スタディオン)は、長さの単位で、1 スタディオンは 180 メートルであり、
陸上競技の短距離走は、この長さの距離でポリスの代表選手が速さを競った。
パウロは、人生を競技、特に走る事に譬えるが、走る行為は日常的ではない。
競技で走る行為は、全神経を集中させ、全精力を注がなければならない。
パウロは、決して信仰を「人が積極的に行動しなくても成し遂げられ、達成
できるもの」と捉えていない。全力で走らなければ、他の競技者に勝てない。
「競技場で…賞を受けるのは一人だけだ…」競技者の中で賞を受けるのは
一人だけである。勝利者には月桂樹の冠が与えられるが、それは、ポリスの
代表者として最高の栄誉である。金メダリストは、生涯その誉を讃えられる。
「あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」競技者は、参加するだ
けでなく、賞を得られるように走るべきである。それは、教会の中で競争を
煽るものではなく、私達が何を目指し、どのように走るべきかを教えている。
「賞」とは「審判員が判定を下す」の意味で、その判定の結果、賞が与え
られる。「賞をいただくために、目標を目指して走っている」(ピリピ 3:14)信
仰の競技で、審判員である神から栄冠が与えられるように努力すべきである。
「競技する人は、あらゆることについて節制します。」競技者は、栄冠を
得るために普段から節制し、肉体を鍛える。勝利者の栄冠は、普段の努力の
賜物である。怠惰な生き方をしている人が、神の栄冠を得ることはできない。
「私たちは朽ちない冠を受けるためにそうする」冠と言っても、世の朽ち
る冠ではなく、天の御国で受ける朽ちない冠であり、人の誉ではなく、天の
御国での永遠の誉である。朽ちない冠を受けるための努力は、必ず報われる。
「私は目標がはっきりしないような走り方はしません。」人は、決勝点が
どこか分からないような走り方をしても意味がない。人の辿り着くゴールが、
神の定めた決勝点でなければ、どんなに頑張っても賞を受ける事はできない。
「空を打つ拳闘もしません」拳闘の競技で幾ら強く拳を振り上げても、「空
を打つ」なら、何の効果も無く、無駄な労力である。私達は、悪魔に対抗す
る為に神の武具を身に着け、敵を見据えて、的確に拳を突き出すべきである。
「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」人は楽な方に流れ易い。
怠惰な人は賞を得る事はできない。やるべき事をやり、やるべきでない事を
自制できなければならない。それは、自分自身が失格者にならない為である。
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No.839 - 6月16日: 「多くの人を獲得するため」 コリント第1の手紙9章19節〜23節 |
(みことば)「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するた
めに、すべての人の奴隷になりました。」
コリント第1の手紙9章19節
パウロは、「私には自由がないのですか。」(1)と語り、使徒の権利、働き
の報酬の権利を述べて来たが、彼自身は福音の為にその権利を用いなかった。
「私はだれに対しても自由ですが…」そのパウロの大胆な言葉は、「どん
な状況にも支配され、影響されない」の意味である。強い者が弱い者を抑圧
するパワハラ社会において「誰に対しても自由」と言い切れる人は少ない。
「自由」(エレウセロス)とは、「外部からの支配を受けない」の意味であるが、
それは、彼の心の平安を意味し、それは、主イエスを信じる支配の元での自
由である。「私は…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ 4:12)
更に、彼は、「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となり
ました」と語る。つまり、彼は、人を救いに導くためなら「人に仕える奴隷
になる」と宣言する。自由の人が、自分の意志で奴隷に服する人は少ない。
彼が自らの自由を放棄するのは、多くの人を滅びから救いたいからである。
彼は、福音の宣教について「そうせずにはいられない」と述べ、福音の働き
を果たすべき責任と考えた。彼は、その為に自由と権利を抑制し放棄する。
その第1の事例は「ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」事である。彼自
身もユダヤ人であったが、キリスト信仰の故にユダヤ人の習慣や規定から解
放され自由になった。彼がそうするのは「ユダヤ人を獲得するため」である。
「律法の下にある」も同様の意味であり、彼自身は、キリスト信仰の故に
律法の下にではく、恵の下にいる者である。彼は、律法主義に対して断固反
対したが、律法の下にある者を導く為に、自ら律法の下にある者となった。
次に「律法を持たない人」とは、異邦人の事であるが、パウロ自身は、「律
法を持ち…律法を守る者」だが、「律法を持たない者」の様になった。彼は、
ユダヤ人の時と同様に信仰の良心に反しない限り、異邦人の習慣に合わせた。
「弱い人たちには、弱い者となりました。」パウロは、偶像に献げた肉に
関して、「弱い人をつまづかせないために…決して肉を食べない」と宣言し
たが、それは、彼らの救いの為であり「弱い人たちを獲得する」為である。
「すべての人に、すべてのものとなりました。」それは、「すべての人に、
すべて合わせた生き方をする」の意味である。だが、彼は、「すべての人を
救うために」とは言わず、「何とかして、何人かでも救うため」と告白する。
救いは、主のものである。主権者である神への信頼がないと、自分の努力
次第で、救いが成し遂げられるように考える。人は、主権的な神への信仰が
ないと、努力に伴う成果や結果が見えないと不安になり、落ち込んだりする。
「私は福音のためにあらゆることをしています。」パウロは、福音の目的
と利益に叶うことなら、それが悪でない限り、何でもするし、奴隷にさえな
る。彼がそうするのは、「福音の恵みをともに受ける者となるため」である。
「ともに受ける」は、「一緒に」「交わる」の意味で、「交わる」は「分け
前に預かる」の意味がある。働く者が「分配を受け」「ささげものに預かる」
様に福音の働き人は、神の恵みを分け合い、救いを共有する事に報いがある。
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No.838 - 6月9日: 「主に委ねられた務め」 コリント第1の手紙9章11節〜18節 |
(みことば)「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせ
ずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」
コリント第1の手紙9章16節
パウロは、これまで福音の働き人の権利である報酬について、「脱穀して
いる牛に口籠をかけてはならい。」の律法の定めから権利の正統性を論じた。
彼は、「私たちが…御霊のものを蒔いたのなら…物質的なものを刈り取る
ことは…」と福音と報酬の関係を述べる。教会は、牧師の説教等の働きによ
り霊的恩恵を受け、主の恵みに感謝して献げる献金が、働き人の報酬となる。
教会が御霊の働きに力を注ぎ、それを大切にするなら、教会にとって霊的
な祝福となり、それが兄弟姉妹の力となる。「ほかの人々が…権利にあずか
っているなら…」パウロは、教会の開拓者として当然の権利を持っていた。
だが、彼は「この権利を用いませんでした。」と語り、当然要求できる権
利を要求しない。それは、「福音に対して何の妨げにもならないように」す
る為であり、彼がそれを要求する事で、福音の躓きや妨げになる事を避けた。
彼は、決して報酬の為に福音の働きをしているのではない。それは使徒と
しての潔癖さであり、宣教者としての信念である。彼は、たとえ報酬が無く
ても、福音の働きを止めたりせず、忍耐の限りを尽くしてその働きを続ける。
牧師の職務は、この世の仕事と異なり、物質的な報酬を得る為の働きでは
なく、それは、霊的な賜物を与える働きであり、そこに誇りがある。牧師の
資質は、「金銭に無欲」なことである。お金で躓かないように気をつけたい。
彼は、「宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ…」と神殿の奉仕者
の例を上げる。宮の働き人は、それが「永遠の割り当て」となる。又主イエ
スも、働き人が「福音の働きから生活の支えを得る」ように定められ、弟子
達を何も持たせずに派遣した。「働く者が食べ物を得るのは当然だからです。」
だが、パウロは、「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」と、コ
リント教会から一切支援を受けなかった。更に、彼は、不要な誤解を避ける
為に「私はこの権利を用いたくて…書いているのではありません」と記す。
彼が権利を主張するのは、自分の為ではなく、福音の働き人の為であり、
教会がそこに自覚と責任を持つ為である。「それを用いるより死んだ方がま
しです」彼の誇りは、福音を宣教する事であり、報酬を得ることではない。
「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。」彼は、たとえ偉
大な宣教の働きと成果を残しても、それを決して誇らない。「そうせずには
いられないです。」その語意は、「押し迫る、避けられない」の意味である。
福音の宣教は、「必ずそうしければならない」必然的な事柄であり、「福音
を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」それは、「自分がしたいからする」
のではなく、「それをしないなら自分の存在意義さえ失われる」からである。
「それは私に務めが委ねられているのです。」教会は時が良くても悪くて
も福音を伝える使命がある。「務め」(オイコノミヤ)とは、「主人から委ねられた管
理の働き」を意味するが、管理者は、その働きに忠実でなければならない。
「私にどんな報いがあるでしょう。…無報酬で福音を提供し…自分の権利
を用いない…」彼が求めるものは、地上の報酬ではなく、天の報いである。
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No.837 - 6月2日: 「望みを抱いて耕す」 コリント第1の手紙9章1節〜10節 |
(みことば)「私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。…
あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。」
コリント第1の手紙9章1節
パウロは偶像の問題で、肉を食べる自由があっても「兄弟を躓かせるなら
…肉を食べない」と宣言したが、再び「私には自由がないのですか」と問う。
パウロは、また、「私たちには…権利がないのですか」と繰返し訴えるが、
彼には、教会から幾つかの批判や非難があり、それに弁明する必要があった。
その第1は、教会にパウロの使徒性を疑う者がいた事である。使徒とは、
イエスの公生涯の始めに選ばれた12人の弟子である。彼らは、十字架と復
活の目撃者で、キリストと行動を共にしたが、パウロだけは、例外であった。
パウロは、イエスを迫害する者であったがダマスコの途上で回心し異邦人
の使徒となる。「私は…主イエスを見なかったのですか。」それは、個人的な
経験であるが、教会を迫害する者が宣教者になったのは、確かな事実である。
「あなたがたは…私の働きの実ではありませんか。」コリント教会の存在
がパウロの使徒性を証言している。教会は、人の力や業によらず、ただ、神
の権威と力によって建てられる。教会に立てられた権威に信頼すべきである。
コリントの教会は、パウロが労苦の末に建て上げた教会であった。従って、
彼らは、他の誰よりもパウロの代弁者になり、協力者になるべきであった。
因みに「使徒」とは「遣わされた者」の意味で、神の権威を与えられ、主
から派遣された者である。教会が神の権威を疑ったら人間の集団に過ぎない。
教会は、神から権威を与えられ、「罪の赦し」「義認」「子とされる」事を
宣言する。教会は、使徒の権威の上に建てられ、兄弟姉妹はその証印である。
そこで、パウロは、批判者に「私たちには食べたり飲んだりする権利がな
いのですか」反論する。それは、福音の働きから報酬を得て飲食する権利で
あり、或いは、それは「生活のために働かなくても良いという権利」である。
第2に、「私たちには…妻を連れて歩く権利がないのですか」と反論する。
コリント教会は、他の使徒達に妻を連れて歩く費用を支援したが、パウロに
限っては、生活費さえ支払われず、副業で生計を立てなければならなかった。
それは、教会の中に使徒職を疑い、彼の報酬の支払いに批判的な人がいた
からである。彼は、使徒の権利を弁明して来たが、それは彼が自分の権利を
用いたいからではない。「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(15)
彼は、「それを用いるより死んだ方がましです」とさえ言う。彼が権利を
主張する事で躓きや争いが起こり、それで宣教が出来なくなるなら、その権
利さえ放棄する。その彼の覚悟や信念を前提に、これを読み解く必要がある。
パウロは、働き人の報酬の正統性を「兵役に服する人」「ぶどう園の農夫」
「羊飼い」の譬えで説明する。神の働き人に報酬が伴うのは、当然である。
更に律法は、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない。」と命じてい
るが、神は、「牛のことを気にかけて」いるのではなく、福音の働き人の為
にこれを命じた。「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が…当然だから」
人は、報酬があるから一生懸命働く。だが、パウロは、たとえ報酬がなく
ても福音の働きをやめない。福音の働きには、世の報酬以上の価値がある。
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No.836 - 5月26日: 「愛のために用いる自由」 コリント第1の手紙8章7節〜13節 |
(みことば)「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとな
らないように気をつけなさい。」
コリント第1の手紙8章9節
パウロは、「偶像に献げた肉」の問題に関連して、「世の偶像の神は実際に
は存在せず、唯一の神以外に神は存在しない」事を真の神理解として述べた。
「しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。」同じ信仰
者の中には、「今まで偶像になじんできた」為、異教的習慣の感覚を払拭で
きず、弱い良心が、偶像に献げた肉を食べることで汚れると感じる人もいた。
「私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。」人は、偶像に
献げた肉を食べる事で汚れたり、滅びたりする事はない。そもそも偶像の神
は、存在しないのだから、それに影響され、良心を振り回される必要はない。
だが、パウロは、「あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとな
らないように」と忠告する。彼らは、確かに正当な神知識を持つが、知識を
持つ人の自由な振る舞いが、かえって弱い人の良心を傷つけ、躓かせていた。
「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら…」
その人は偶像の宮で食事をしても何の問題もないと考えるが、その行為を見
た弱い人は「それに後押しされ…良心は弱いのに…肉を食べるように」なる。
パウロは「偶像の神は、実際には存在せず」と語ったが、だが「偶像の神
を警戒しなくても良い」のではない。確かに偶像の神など存在しないが、偶
像を背後で操る闇の支配者、悪魔は実在する。悪魔を見くびってはならない。
知識のある人の「偶像への無警戒」と「人に対する愛のない振る舞い」に
よって、弱い人の良心が踏み躙られ、彼の持つ権利が、弱い人たちのつまづ
きとなる。「その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。」
「権利」(エクスーシア)は、自由とも訳せるが、パウロは9章で別の言葉で「自
由」(エレウセロス)について語る。それは、「外からの力の束縛を受けない自由」
である。キリスト者は、悪魔や偶像の支配から解放され、自由を与えられた。
だが、神を信じていても、偶像の支配から自由になれない弱い人もいる。
その弱い良心は、偶像の習慣の中で育った感覚の残滓が、その人を不自由に
する。偶像と同様に、金銭、名誉、性的欲望などに弱く、不自由な人も多い。
教会は、弱さを持った者の集まりであり、その交わりの中心にキリストが
いなければ、簡単に罪に流されてしまう。悪魔は虎視眈々と弱い部分を狙い、
信仰を駄目にし、魂を滅ぼそうとする。悪魔に無警戒であってはいけない。
「この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。」主は、教
会の中で最も小さく弱い者を顧みて下さる。知識のある者が、その知識で弱
い魂を滅ぼす事がないようにしよう。信仰は兄弟愛の交わりの中で養われる。
最後に、パウロは、「食物が私の兄弟をつまづかせるなら…今後、決して
肉を食べません」と宣言する。彼は、弱い兄弟を守る為に自分の権利や自由
を放棄する。彼は、兄弟愛の故に自らの権利を制限する自由さを持っている。
教会は一番弱い人に合わせて歩むべきである。ヤコブは、神の人と格闘し、
もものつがいを打たれ、神の民の群れを導く時、群れを急き立てることなく、
「家畜や子どもたちの歩みに合わせて」(創世記 33:14)ゆっくりと旅を続けた。
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No.835 - 5月19日: 「信仰の知識と愛」 コリント第1の手紙8章1節〜6節 |
(みことば)「偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持って
いる」…しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」
コリント第1の手紙8章1
パウロは、これまでコリント教会に「結婚」に関連して語って来たが、次
に「偶像に献げた肉」に関する質問状に答える形で新しいテーマが展開する。
「偶像に献げた肉を食べて良いか否か」は、コリント教会の信徒にとって
深刻な問題であった。それは、多神教の信仰観を持った民族の中にある教会
ならではの課題であり、異教の神殿に献げられた犠牲に関する問題であった。
一度偶像に献げられた肉が市場等に払い下げられた時に「その肉を食べる
と汚れる」考える者もいた。これはキリスト者の社会生活と信仰に関わる事
であるが、日本のキリスト者も異教の精神風土の中で同じ戦いを強いられる。
パウロは、これに関して「私たちはみな知識を持っている」と語る。その
知識とは、4節以降で述べる「『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の
神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っている」という知識である。
だが、彼は「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」と告げる。それ
は「知識を持つ事が悪い」と言うのではない。それなら、神を知ること自体
が悪になる。神を知ると言う事は、単なる知識ではなく人を変える力を持つ。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」信仰の知識は、そこに愛を
伴わなければ生かさることはない。私達は、教会に来て「キリストが罪人の
為に十字架にかかり死んで下った。」事実を知り、心を砕かれ愛に打たれた。
「愛は人を育てる」の「育てる」(オイコドメオー)は、建築に関する用語で「建
て上げる」の意味がある。個人的な関りにも、又、教会の交わりにも、その
知識に愛が伴わないと人との良好な関係を保てず、教会の交わりも築けない。
「自分は何かを知っていると思う人がいたら、…」とは、「知り尽くした」
(完了時制)の意味で、その人は、知識の鍋に蓋をしてしまい、それ以上神を知ろ
うともしない。「その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」
「だれかが神を愛するなら、その人は神に知られ…」神を知る事は、単な
る知識ではなく、それは神の愛の伴う人格的な知識である。偶像の肉は、人
を汚す事も清める事もないが、主の犠牲の血と肉は、信仰者の良心を清める。
神を愛する者は、主による贖いの故に主と一体となる。「その人は神に知
られています」神は、弱さや欠点を含めて、信じた者を愛し知っておられる。
パウロは、正統な信仰の知識として「世の偶像の神は実際には存在せず、
唯一の神以外には神は存在しない。」と宣言する。「偶像の神」(エイドロン)は、
多神教の世界に多く存在するが、偶像は、人間が造り上げた神の幻影である。
「偶像」(エイドロン)は、英語で(アイドル)と言い、人は、自分の理想の(アイドル)
を自分のイメージで造り上げる。だが、神は、目に見えない唯一の霊である。
その第1は、「唯一の父なる神がおられる」であり、「唯一」とは、「この
方に比べるべき神はいない。」の意味である。第2は、「この神からすべての
ものは発し」とあるが、全ての原因と根元は、創造者である唯一の神にある。
第3は「この神に…至る」であり、万物の存在の目的は、神にある。最後
に、パウロは、神の唯一性をキリストに適用する。キリストこそ主である。
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No.834 - 5月12日: 「崇高な志を抱く」 コリント第1の手紙7章36節〜40節
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(みことば)「しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分
の思いを制して…自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。」
コリント第1の手紙7章37節
パウロは、これまで「結婚」をテーマに語って来たが、最後に「自分の婚
約者に対する態度」と「夫と死別したやもめの再婚」について意見を述べる。
「ある人が、自分の婚約者に対し…」第3版は、「ある人」を「処女であ
る自分の娘」と翻訳しているが、原文は「彼の処女」で「未婚の女性の婚約
者」と理解できる。当時、若い時期に婚約し適齢期に結婚する習慣があった。
その婚約者が適齢期を迎えた時に結婚するかどうかの判断である。「品位
を欠いた」とは「無作法、礼儀に反する」の意味で、婚約者が適齢期を迎え
ても結婚しないのは、確かに婚約者に対する礼儀を欠いた振る舞いと言える。
キリスト者は、バプテスマを受け、キリストの花嫁である教会に結ばれる。
主を告白しながらバプテスマを受けないのは、主への礼儀を欠いている。婚
期も過ぎ、キリストの花嫁として結ばれる事なく、人生を終わらないように。
「結婚すべきと思うなら」とは、「義務を生じる」の意味で、パウロは、
結婚が双方にとって相応しいと考えるなら、「望んでいるとおりにしなさい」
と勧める。彼は、結婚を禁じておらず、「罪を犯すわけではない」と告げる。
次に、婚約者がいても「婚約者をそのままにしておこうと…決意する」場
合であるが、その時、婚約者の意思も無視できない。その場合、両者の献身
の意思が前提であるが、彼らは、結婚よりも独身のままでいる事を選択する。
その第1の条件は「心のうちに固く決意」している事である。結婚は、人
生の大きな決断と選択であるが、人生は結婚が全てではなく、それ以上に崇
高な志を持つべきである。それは「主に自ら献げて生きる志と決断」である。
第2の条件は「強いられてではなく」である。独身のままでいる事は、他
人から強制される事ではない。義務と強制された志は必ずどこかで破綻する。
それは、長続きせず、問題が起こると、人に責任を転嫁する奴隷根性である。
第3の条件は、「自分の思いを制して」であるが、「思いを制し」は、「自
分の意思に権威を持つ」の意味である。人の意思は弱く、初志貫徹する事が
なかなかできない。だが、そこに神の権威と意志があるなら志を全うできる。
パウロは、「自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。」と述
べる。その様な崇高で、大いなる志を主に対して持とう。他の人は、それを
批判し嘲笑するかも知れないが、それが完成した時に、称賛と羨望に変わる。
パウロ自身は、そのような崇高な生涯を送った。彼は、独身のまま主に身
を献げ、自分の家族を持つより、神の家族を建て上げる事を目指し、福音の
宣教により、異邦人を神のもとに導く為に、彼自身のいのちを使い尽くした。
パウロは、最後に「やもめの再婚」について述べる。「妻は、夫が生きて
いる間は夫に縛られ…夫が死んだら…自由があります」「縛られ」と「自由」
は対象的だが、我々は、かつて悪魔の奴隷であったが、主により自由を得た。
妻は、夫が死んだら「自分が願う人と結婚する自由」がある。だが、それ
は、無条件ではなく「主にある結婚に限る」と釘を刺す。結婚は「主にある」
(in the Lord)者とのみ一致を持てる。神のいない人生の結末は滅びである。
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No.833 - 5月5日: 「時は短くなっている」 コリント第1の手紙7章25節〜35節 |
(みことば)「兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなって
います。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。」
コリント第1の手紙7章29節
主に召された者は、割礼や奴隷などこの世の立場や境遇の違いがあっても、
主の贖いの御業により、この世の支配から解放されて自由を与えられている。
パウロは、再び結婚のテーマに戻り「未婚の人たちについて…主の…信頼
を得ている者として」意見を述べる。主自身は、これに関して何も述べてい
ないが、これを聞く者は信頼すべき使徒の言葉として受け留めるべきである。
彼は、「差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるの
がよい」と考える。その危機とは、「時は短くなっています。」(29)と合わせ
て理解すると、「終末」即ち「世の終わりの苦難」を指していると思われる。
パウロの時代から二千年が過ぎ、不信者は「主の来臨の約束はどこにある
のか…創造のはじめからのままではないか」と嘲る。だが、誰もが終わりの
日に向かって生きている。だから、緊張感を失った生き方をすべきではない。
彼は、迫る危機を意識して「妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけ
ません。…妻を得ようとしてはいけません。」と勧める。それは、独身なら
背負わずに済む苦難が、結婚する事により「身に苦難を招く」からである。
彼は、それを強制はない。「結婚しても、罪を犯すわけではありません。」
ただ、結婚に伴うリスクを覚悟すべきである。平和の時代なら良いが、危機
の時代は覚悟が必要である。その時、結婚と言う幸いが一転して災いとなる。
安心、安全、平和、幸福は、無条件でやって来ない。それは、主の憐れみ
と恵みによる。戦後80年続いた平和がこれからも続くとは限らない。地震、
災害、飢饉、戦争の迫る終わりの時代に、慌てないように備える必要がある。
「私は次のことを言いたい…時は短くなっています。」パウロは、終末を
意識してその真意を告げる。「世の有様は過ぎ去るからです。」終わりの時に
は、この自然界が一変する。「天の万象は焼けて…すべてのものが崩れ去る」
「妻のいる人は、妻のいない人のように…泣いている人は…」結婚が悪い
事ではないが、それが無情の幸福のように思うべきでない。同様に世の事に
悲観し過ぎたり、世の事で歓喜し過ぎたり、所有物を自慢するべきではない。
パウロは、結論として「世と関わる人は関りすぎないように」と警告する。
私達は、たとえこの世に生きていても、そこに深入りし、世に浸り切るよう
なだらしない生き方をすべきではない。「この世の有様は過ぎ去るからです。」
「思い煩わないように…願います。独身の男は…主のことに心を配り…結
婚した男は…心が分かれる」「心を配る」の原語は「思い煩う」と同じで、
それが良い意味で「妻や夫に対する配慮」でも、やはり「世のこと」である。
世の事で「心を配る」ことが多くなるとそれが「思い煩い」に変わる。パ
ウロは、彼らを束縛するのではなく、彼らの益のためにそれを勧める。それ
は、彼らが「品位ある生活を送って…主に奉仕できるようなるため」である。
「品ある生活を送る」の直訳は、「御前に姿が良い」の意味で、「奉仕でき
る」も「良い姿でそばに座す」の意味があり、いずれも信仰の姿勢が問われ
ている。いつも主のそばにおり、主の御声に答える事が最高の奉仕と言える。
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No.832 - 4月28日: 「キリストにある自由」 コリント第1の手紙7章17節〜24節 |
(みことば)「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じ
ように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」
コリント第1の手紙7章22節
パウロは、これまで結婚をテーマに語って来たが、この箇所では、少し脇
道に逸れて、「割礼と奴隷」に関連して、神を信じる者の生き方を述べる。
彼は、この箇所で、「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべ
きです。」と繰り返して強調する。それは、前節で語った結婚の場合も同様
であるが、原則的に「召されたときのままの状態で歩む」ことを勧めている。
その第1の理由は、そこに神の摂理や御計画があり、神がそれぞれの境遇
や環境の中で、召しを与えておられるからである。従って、それぞれが召さ
れた境遇の中で、神の証人としてできる最善の道を求めて歩むべきである。
また、「それぞれ」と繰返し語っているように、神から与えられている境
遇や立場や身分や賜物は、それぞれに違いがある。だから、それぞれが置か
れた状況の中で、神との関係において自覚的な信仰をもって歩むできである。
「神から召された」とは、「神から呼ばれ」「招かれた」の意味で、神を信
じる者は、個人的に神から召された救いの経験を持っている。信仰告白によ
って新しく生まれ変わったキリスト者は、教会において兄弟姉妹と呼ばれる。
パウロは、基本的に「召されたときのままの状態で歩むべきです」と勧め
るが、それを「割礼」と「奴隷の状態」の人を例に挙げて説明する。「召さ
れたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。」
「割礼」は「神の民のしるし」として施されて来たが、ギリシャ世界のユ
ダヤ人の中には、それを疎ましく思い「割礼の跡をなくそう」とする人もい
た。逆にユダヤ人の習慣に強く共鳴する人は、新たに割礼を受ける人もいた。
「割礼は取るに足りないこと…重要なのは神の命令を守ることです。」神
に召された者とって大切な事は、神の命令を守る事であり、この世の地位、
名誉、学歴、財力など一切関係なく、それらの外見を気にする必要はない。
パウロは、「奴隷」に対して「召されたときの状態にとどまっていなさい
…そのことを気にしてはいけません」と告げる。彼は、奴隷制度を容認して
いる訳ではなく「自由の身になれるなら、その機会を用いる」事を勧める。
パウロは、教会に対して、「奴隷解放運動」を勧めてはおらず、原則的に
「その状態のままとどまる」事を勧める。救いの目標は、「社会改革」にあ
るのではなく、神と人との和解、即ち神と人との人格的交わりの変革にある。
キリストによる、人間の内的な変革、即ち、「救いや新生」の経験は、こ
の世の社会制度の枠を超える霊的な力を持つ。「主にあって召された奴隷は、
主に属する自由人であり…召された者はキリストに属する奴隷だからです。」
人は、この世の社会制度の下で必ずしも平等とは言えない。奴隷もいれば、
自由人もおり、富む者もいれば、貧困な者もいる。だが、主に召された者は、
外見的な制度に支配されず、神が与えた平安と自由を誰も奪う事はできない。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」それは、「十字架の贖
い」を意味するが、「贖う」は、「身代金を払って奴隷を買い戻す」意味がある。
主に召された者は、神の奴隷であり、「人間の奴隷」になってはいけない。
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No.831 - 4月21日: 「平和を得させるため」 コリント第1の手紙7章8節〜16節 |
(みことば)「そのような場合には、…縛られることはありません。神は、
平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」
コリント第1の手紙7章15節
パウロは、結婚した者の義務について語って来たが、彼自身は、独身でい
ることを勧めた。だが、それも人それぞれ、神の賜物と生き方の違いがある。
次に彼は、置かれた立場に従い、まず「結婚していない人とやもめ」に、
「私のようにしていられるなら、それが良いのです」と勧める。但し、それ
も強制ではなく、「自制することができないなら、結婚しなさい。」と命じる。
「欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」キリスト者は、御
霊によって自制心が与えられているが、それでも、罪の支配から完全に自由
ではない。欲情に燃え、自制心を失い、人生の歯車を狂わせてはならない。
次にパウロは、「すでに結婚した人たちに」対して、「命じるのは私ではな
く主です」と断わり、「妻は夫と別れてはいけません。」と命じる。主イエス
は、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」と教えられた。
パウロは、主の教えに従い「もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と
和解するか、どちらかにしさない。」と勧める。即ち、信者の夫婦は、離婚
や再婚が赦されない。それは、神の前で貞操を誓い、誓約した厳粛さによる。
次に夫婦の一方が未信者の場合、相手が「一緒にいることを承知している
場合は、離婚してはいけません」と命じる。「これを言うのは主ではなく私
です。」それは異邦人社会にある事例で、主はこれに関し何も述べていない。
結婚の相手が、未信者で信仰や価値観が違っても、夫婦でいる事に同意し
ているなら別れる必要はない。寧ろ、その結婚の関係を大切にすべきである。
それは、信者の信仰により、相手も「聖なるものとされている」からである。
「聖なるものとされている」とは、「神のものとして選び別けられている」
の意味で、相手が未信者でも、既に、神の摂理の中に生かされ、救いの計画
の中に置かれてる。信者の子は、汚れておらず「聖なるもの」とされている。
主は、神を信じる者だけでなく、その夫や妻それに家族や子孫も含めて祝
福を与えられる。神は、アブラハムに彼の子孫の祝福を告げ、それは、イサ
ク、ヤコブへと続き、やがてキリストを信じる全ての民にその祝福が及ぶ。
最後にパウロは、「信者でないほうの者が離れていくなら、離れて行かせ
なさい。」と勧める。それは、相手が「信仰を認めず、一緒にいる事を拒絶
する」事例であるが、「そのような場合には、…縛られることはありません。」
「縛られる」は、「奴隷のような状態」を意味するが、その人は、結婚に
よって、この世の制度や人の奴隷になったわけではない。その人が、たとえ
離婚しても、神の戒めに背いた事にはならず、寧ろその支配から自由になる。
「神は平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」信仰を
持つ事で、逆に夫婦の中に信仰を巡る対立や諍いが起こる事がある。「平和」
とは、偶像に満ちる世の平和ではなく、神との平和、和解、絆の事である。
「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか」信者の側
は、相方の救いの為に祈り努力するが、その願いも空しく届かない事がある。
その時、信仰や祈りの不足を嘆く必要はない。救いは、主のなさる業である。
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No.830 - 4月14日: 「結婚と信仰」 コリント第1の手紙7章1節〜7節
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(みことば)「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。
しかし、…自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」
コリント第1の手紙7章7節
パウロは、これまで教会の不品行と不道徳の問題について語って来たが、
それに関連して、男女の関わり方、夫婦の問題、結婚について意見を述べる。
コリントの教会の内外において、不品行が蔓延る状況において、教会には、
「男が女に触れないのは良いことだ」と禁欲的に考える人がいたようである。
パウロは、教会が「淫らな行いを避けるため」にどうすべきか質問に答える。
まず、「男女の関りと接し方」に関する事であるが、「触れる」には、「火
をつける」の意味があり、男が女に触れることで情欲が燃える事がある。私
達は、誘惑に陥らないために、聖さへの意識と自制する心を持つべきである。
パウロは、不品行を避けるために、男女に結婚することを勧める。結婚が
罪を犯さないための手段のように思えるが、彼は、エペソ書で結婚が、キリ
ストと教会の愛の一体性を現わす、神の祝福であり奥義であると語っている。
彼は、この箇所で結婚を必ずしも積極的に勧めておらず、寧ろ、「独身で
いられるなら、その方が良い」と語る。そうであるなら、結婚は、「最高の
祝福」でも「幸福の条件」でもない。それを誤解すると結婚が幻想に終わる。
彼は、結婚した夫婦の義務と権利について述べる。「夫は自分の妻に対し
て義務を果たし…」それは、夫婦生活に関する教えであるが、聖書の教えは、
実際的で具体的である。結婚したなら互いに義務を果たさなければならない。
「妻は自分のからだについて権利を持っておらず、それは夫のものです。
…妻のものです。」夫婦は、結婚の神聖な定めにより「ふたりは一体となる」
の通り、自らの権利を主張せず、相手の為に自分を献げなければならない。
夫婦の一体的な関係は、神と信者との一体性を現わす信仰の奥義でもある。
「主と交わる者は、主と一つの霊となる」主に贖われたからだは自分のもの
ではなく、主のものである。自分のからだを主に献げる時に神と一つになる。
夫婦は、互いに義務を果たす事で夫婦としての生活が成り立つ。それは、
独身時代の様な自由気儘な生き方ではなく、結婚相手や家族に対して義務を
負っている。同様に、信仰者は、神と神の家族に対して義務を負う者である。
パウロは、夫婦が義務を果たす事において「互いに相手を拒んではいけま
せん」と語るが、その権利も、無条件ではない。「祈りに専心するために合
意の上でしばらく離れて…」夫婦の交わりの中心に祈りがなければならない。
「専心する」(スコラゾー)は、学校(スクール)の語源であるが、神への祈りを学
ばなければ、信仰は成長せず、良い家庭も築けない。「自制力が無い」とは、
「別の力が自分を支配する」の意味で、その人は、悪魔の支配に陥り易い。
最後に、パウロは、「以上は譲歩として…命令ではありません。」と断わる。
パウロは、不品行を避ける為に結婚を勧めたが、それは、譲歩の勧めであっ
て、決して、命令ではない。即ち、彼は、結婚が最善の選択と考えていない。
「私が願うのは…私のように独身であることです。」独身であるなら、主
の事に専念できるが、家庭を持つとそのように行かない。だが、それも強制
ではなく、一人ひとり神からの賜物の違いがあり、それぞれに生き方が違う。
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No.829 - 4月7日: 「神への愛が問われる時」 ヨハネの福音書21章15節〜19節 |
(みことば)「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、
わたしを愛していますか。」
ヨハネの福音書21章15節
主は、ティベリヤ湖畔で弟子達の前に三度目の復活の姿を現されたが、イ
エスは、岸辺で朝の食事を済ませた後で、シモンにご自身への愛を問われた。
主の愛の問いかけは、ヨハネの福音書の最後の記述として相応しい。「イ
エスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)主の愛の極みは、十字架の贖い
の上にに現わされているが、主は、復活の後に、その愛を弟子達に問われた。
主は、特にペテロに「この人たちが愛する以上に…」と問い、他の弟子達
に勝る愛を求められた。それは、愛の比較と言うより、彼が特別に主から愛
された事を考えると当然である。「多く与えられた者は、多くを求められる。」
彼は、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
と答えるが、何故、彼は、「私は、誰よりもあなたを愛しています。」と答え
なかったのだろうか。彼が誰より主を愛している事は、間違いないだろう。
だが、彼が自信をもって答えられないのは、主を三度も否定していたから
である。彼は主への愛を失っていないが、主への愛に自信を失っていた。愛
の確かさは、自分の中にではなく、弱さを含め全て知る主の御手の中にある。
主は、彼の答えに対して、「わたしの子羊を飼いなさい。」と、彼にもう一
度、牧者としての働きを委ねる。一度、大きな失敗を犯したペテロは、主の
憐れみにより、もう一度、牧者として回復し、神の子羊を飼う者とされる。
2度目の愛の問いかけも1度目とほぼ変わらない。何故、主は、彼に信仰
ではなく、愛を求めたのだろうか。主を信じる者は、信仰によって救われて
いる。だが、主に対する愛は、同じ信仰を持つ弟子でも、各々に違いがある。
私達は、愛を問い直さなければならない。「友のためにいのちを捨てる…
これより大きな愛は誰も持っていません。」主は、私達の友となり、いのち
を犠牲にされた。主を信じていると言いながら、愛に生きていない事がある。
主は、原語で(アガパオー)「無償の愛」で「愛していますか。」と尋ねるが、
ペテロは、(フィレオー)「友の愛」で「愛している」と答える。それは、彼が、
愛の欠けを十分承知してたからであり、それは、彼の真実な告白と言える。
ペテロは、愛の失敗の経験以来、主の弟子として誇りを粉々に砕かれた。
主への愛は、確かであっても、それは完全なものでも模範的でもない。たと
え、不完全な親でも、自分の子供に対する愛情は真実であるのに似ている。
主は、ペテロに対して、三度も愛を問うが、彼もそれに心を痛めた。だが、
主は、彼の証言を疑っていたわけではなく、それは、彼が大祭司の中庭で三
度「キリストを知らない」と誓った、偽りの行為を全て打ち消すためである。
三度目の主の問いは、(アガパオー)「神の愛」ではなく、(フィレオー)「友愛」で
「愛していますか」と尋ねる。主は、ペテロに対して愛の規準を下げ、「た
とえ不完全で小さな愛でも構わない」と大きな愛で包むように愛して下さる。
最後に主は、ペテロの将来に起こる殉教の死を予見する。「あなたの行き
たくないところに連れて行きます。」究極のところで、主への愛が試される。
聖徒の死は、神の栄光を現わし、神の愛を実現する。「わたしに従いなさい。」
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No.828 - 3月31日: 「岸辺に立たれる主」 ヨハネの福音書21章1節〜14節 |
(みことば)「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現
されたのは、これですでに三度目である。」
ヨハネの福音書21章14節
ヨハネの福音書は、主の復活に関し、週の始めの日に弟子達の前に現われ
た記事に続いて「ディベリヤ湖畔で…ご自分を現わされた」次第を述べる。
「弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である」(14)
主は、復活の事実を繰返えし明らかにし、弟子達の疑いを取り除いて行く。
その後、彼らは、誰も「あなたはどなたですか」(12)と尋ねる者はなかった。
主の復活の三度目は、ディベリヤ湖畔で起こったが、そこは、弟子達の出
身地で、彼らが主に召された場所であった。彼らの何人かはティベリヤの漁
師であったが、ユダを除く11名のうち7名の弟子がガリラヤに戻っていた。
シモン・ペテロとゼベダイの子たち、即ち、ヤコブとヨハネは、ティベリ
ヤの漁師であった。それに主の復活を疑ったトマス、「ナザレから何の良い
ものが出るだろうか」と証言したナタナエル、他に二人の弟子がそこにいた。
彼らは、主の十字架の試練の後で、既に2度の復活の出来事を経験してお
り、信仰を捨て、絶望して故郷に帰っていたわけではない。寧ろ、主の約束
は、「イエスは…先にガリラヤに行かれ…そこでお会いできる」事であった。
7人の弟子は、主の復活を信じてはいるが、これからどのように生きるべ
きかを模索していた。ティベリヤは、彼らにとって「信仰の原点に立ち返る」
場所であり、主の弟子として従った、最初の召しを思い起す場所であった。
ペテロは、彼らに「私は漁に行く」と言うと、彼らも「一緒に行く」と言
い出す。主は、彼らに「人間をとる漁師にしてあげよう。」と招き、彼らは
それに答えて網を捨てた。だが、彼らは、再び網を取って漁に出ようとする。
彼らは、何を成すべきか分からない中で、取り合えず漁に出て生計を立て
ようと考えた。「だが、その夜は何も捕れなかった。」「労多くして報いが少
ない。」彼らは、「何も捕れない」と言う疲労感と空しさの中で朝を迎える。
「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。」どんなに暗い夜
でも、朝の来ない夜はない。弟子達が徒労の夜を過ごす間も、主は岸辺に立
って彼らを見守っている。だが、彼らは、それがイエスであると気づかない。
その距離は「陸から遠くなく、二百ペキス(90m)ほど」であった。主は、
「子どもたちよ。食べる魚がありませんね。」と声をかけ、彼らは「ありま
せん。」と答えた。母親がお腹を空かせた子供に優しく尋ねるのに似ている。
主は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と命じる。「す
ると、おびただしい数の魚のために、もはや…網を上げることができなかっ
た。」主は、彼らがかつてティベリヤで経験した過程をなぞっておられる。
それは、主の心憎い演出と言えるが、主は、それにより「岸から語り掛け
た方が誰なのか」を気づかせる。主の愛された弟子、即ちヨハネが、ペテロ
に「主だ」と叫ぶと、ペテロは、それを聞いて上着を纏い、湖に飛び込んだ。
それは彼の愛の表現であるが、主は冷えた体で戻って来る弟子達の為に炭
火を起こし魚を焼きパンを用意していた。彼らは、153匹の捕れた魚を引
き揚げて主の元に戻る。信仰の網を広げる時、恵みと祝福は尽きる事がない。
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No.827 - 3月24日: 「神の栄光を現わす」 コリント第1の手紙6章12節〜20節 |
(みことば)「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、
自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
コリント第1の手紙6章20節
コリント人は、自由を謳歌し、「すべてのことが私には許されている」と
言い、「淫らな行い、姦淫、男色等、何をしても自由である」と主張した。
パウロは、「正しくない者は神の国を相続できません」と語る。たとえ自
由があっても、善悪の区別を設け、神の国と他者の益にならない行為はする
べきでない。罪に支配された人は、自由とは言えず、罪と悪魔の奴隷である。
だが、キリストの御霊を持つ者は、神の御心である善を行うことにおいて
自由に振る舞う事ができる。キリスト者は、罪と悪魔の支配下にではなく、
キリストの支配下にあり、善を行う自由が与えられ、その為に召されている。
「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが…」食物
と腹には、密接な関係があり、人は、食べなければ生る事が出来ない。だが、
人は食べる為に生きているのではない。「神は、そのどちらも滅ぼされます。」
「なくなってしまう食べ物のためではなく…永遠のいのちに至る食べ物の
ために働きなさい。」私達のからだは、「淫らな行いのためではなく、主のた
めにあり、主はからだのためにおられる。」ここに私達の倫理の根幹がある。
私達は「何をしても自由である」と奔放な罪の生き方でをするのではなく、
神の栄光の為に主から与えられたからだを聖く用いるべきである。そこには、
復活の希望がある。「神は…御力によって…よみがえらせてくださいます。」
「あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。」キリスト者
は、キリストとの結合によりキリストのからだの一部となった。「それなの
に、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。」
遊女と交わる行為は、快楽的な社会で一般的に為されていたが、キリスト
者の結婚の倫理からするなら許されない。「遊女と交わる者は、彼女と一つ
のからだになります。」それは、「ふたりは一体となる」結婚の奥義に反する。
それは、罪の社会で普通に行われていても、妻への不貞行為であり、「キ
リストのからだの一部」である私達にとってキリストへの不貞でもある。そ
れは、神殿娼婦がいたコリント社会において、偶像の神々との姦淫でもある。
「しかし、主と交わる者は、主と一つ霊となるのです。」それは、キリス
トとの霊的結合を意味するが、私達は世の汚れた霊から解放され、聖な神と
の交わりにおいて霊的に一つとなり、神にまことの礼拝を献げる者となった。
「淫らな行いを避けなさい。」私達は、肉体を汚す罪の力を警戒し、そこ
から逃れるべきである。多くの人が誘惑に陥って神の恵みや栄光を失って行
く。「淫らな行い」の特殊性は、「自分のからだに対して罪を犯す」事である。
「あなたがたのからだは…神から受けた聖霊の宮であり…」教会は、「神
の宮」と呼ばれているが、キリスト者は、御霊を宿す「聖霊の宮」である。
そうであるなら、私達は、聖霊を悲しませ、聖霊の宮を汚す行為を避けよう。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」私達のからだは、
キリストの贖いの代償により、もはや「私のもの」ではなく、「キリストの
もの」となった。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
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No.826 - 3月17日: 「キリスト者の自由」 コリント第1の手紙6章7節〜12節 |
(みことば)「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべて
が益になるわけではありません。…どんなことにも支配されはしません。」
コリント第1の手紙6章12節
コリントの教会は、教会内の個人的な争いごとをこの世の法廷に訴えたり、
教会の中で軽んじられている人を裁判官として立てて解決を謀ろうとした。
パウロは、「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」と語
る。世において兄弟が遺産相続を巡り骨肉の争いを繰り広げる事があるが、
兄弟同士の争いほど醜いものはなく、それなら、相続権を放棄した方が良い。
「どうして…不正な行いを甘んじて受けないのですか。」自分の側に義が
あっても、それがお金の問題なら、騙し取られても、黙っていれば争わずに
済む。それは、この世の物に執着してもっと大切な霊的賜物を失うより良い。
兄弟同士の争いには、被害者だけでなく、加害者の問題もある。「それど
ころか、あなたがた自身が不正を行い…」教会の中にそのような人がいるこ
と自体が問題だが、その人の二重の罪は、それを兄弟に対して行う事である。
「不正を行う」は、「義」の反意語「不義」の意味であり、「だまし取る」
は、第十の戒め「貪ってはならない。」への違反である。キリストの贖いと
信仰によって救われた者が、「不正を行い」「だまし取る」事など論外である。
「正しくない者は神の国を相続できません。」信仰によって義とされた者
が、尚、罪の中に生きているなら、その人の新生と救いを疑わざるを得ない。
「思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者…相続…できません。」
列挙された10の悪徳の前半は、「自分自身を霊的、肉的に汚す罪」と言
える。それは性的な不品行に関わる罪であるが、「偶像を拝む」事も霊的な
姦淫であり、「男娼、男色」は、異教の神殿で宗教行為として行われていた。
悪徳の後半は、「人に害を及ぼす罪」を列挙しているが、その内、「盗む」
「貪欲」「奪い取る」は、霊的な貧困さに起因する。だが、人の心は、この
世の物で満足できない。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ…利益を得る道です。」
「酒におぼれる者」は、一時的な快楽に浸る事ができても、依存症で苦し
み、家族を巻き込んで不幸にさせる。「そしる者」は、他人を悪く言う事で
優越感の快楽に耽るが、言葉で人を傷つけながら、自らの醜さに気づかない。
彼らは、福音を聞く「以前はそのような者」であったが、主の御名と御霊
により悪徳に満ちた世界から「洗われ、聖なる者とされ、義と認められ」た。
その人は、性質と立場において聖なる者となり、罪を赦され義と宣言された。
最後にパウロは、「『すべてのことが私には許されている』と言いますが…」
と自由について言及する。その言葉は、自由を謳歌するコリント人の主張で
あるが、彼らは、「姦淫」「男娼」「男色」等「何をしても自由だ」と考える。
だが、その主張には、倫理や道徳等一切ない。人間にとって、無制限の自
由など存在しない。アダムとエバには、エデンの園において自由があったが
それも無制限ではなかった。人の幸福は神の言葉に従う自由の中で実現する。
隣人の益にならない行為は、たとえ自由があってもすべきでなく、罪に支
配されるなら罪の奴隷である。キリスト者は善を行う自由が与えられている。
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No.825 - 3月10日: 「聖徒に与えられた恵み」 コリント第1の手紙6章1節〜7節 |
(みことば) 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北
です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。」
コリント第1の手紙6章7節
パウロは、不品行の問題から、再び、教会の中の争いの問題に言及するが、
それは、前回の様な分派ではなく、個人的な紛争とその解決についてである。
それは、教会員同士の揉め事と言えるが、それが裁判沙汰にまで発展して
しまう。ギリシャ人は、日常的な問題を直ぐに裁判に訴えて解決を図る習慣
があったので、弁論術や詭弁述が発達し、それを職業とする人も大勢いた。
だが、彼らの問題は、兄弟同士が互いに争い、その解決を図る為に「正し
くない人たちに訴え出た」ことである。 「正しくない」とは、教会以外の未
信者の事であり、彼らは、争いの解決を世の詭弁家に求め、裁判官に訴えた。
当時、賄賂で裁きを曲げる裁判官や金の為に詭弁を使う論者も大勢た。 「嘘
も方便」とは、世の手法だが、そのような歪んだ裁きに訴える必要はない。
教会は、公平で真実な場所であり、神の言葉に基づく裁きには、誤りはない。
そこで、パウロは、教会の内部の問題を外部の人に訴える愚かさを幾つか
挙げる。その第1は、 「聖徒が世界をさばくようになる」と言う事実である。
それは、「世の終わりの出来事」であるが、 「さばく」は「治める」と訳せる。
教会が、そのような栄誉を与えられていながら「ごく小さな事件さえさば
く力がない」のは驚きである。聖徒達は、やがて「キリストとともに・・・王と
して治める」者であり、 「すべての主権は、彼らに仕え、服従する。」とある。
パウロは、 「私たちは御使いたちをさばくようになる」とさえ語る。御使
いは、 「仕える霊」であり、 「神の奉仕者」として創造されたが、聖徒達は、
キリストの贖いにより神の子とされ、御国を相続する恵みを与えられている。
だが、彼らは、日常の些細な事柄さえ自分でさばく力がなく、日常的な紛
争が起こると「教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に」選んだ。そ
の人々は、神や信仰に熱心ではないが、世において力や権威を持つ人である。
霊的ではない、寧ろ、世俗的な人に、一体どんな解決ができると言うのか。
争いの渦中にいる人にとって一番必要なことは、神の言葉を聞き、静かに御
心.を求める事であり、その間題は、教会の中で霊的な人に相談すべきである。
パウロは、彼らを「恥じ入らせるために」このように語った。それは彼ら
の無知を示し、神の知恵に信頼させる為である。 「賢い人が、一人もいない
のですか。」教会に与えら神の知恵は、世の知恵より遥かに勝っている。
彼らの愚かさは「兄弟が兄弟を告訴し・・・それを信者でない人たちの前です
る」事である。 「告訴する」は、 「さばく」と訳せる。 「さばいてはいけませ
ん。 ・・・さばかれないためです。」私達は、安易に裁判官になるべきではない。
「互いに訴え合う事が・・・敗北です。」この世の裁判に「勝訴」があっても、
兄弟同士の裁判に勝者はなく敗北だけである。 「どうして・・・不正な行いを甘
んじて受けないのですか。」聖徒は、主の為に不利益さえ甘んじて受ける。
それは、天の御国に希望を持つ者だけができる高潔な倫理である。怒りは
神の栄光を現わさない。私達は、自分に関する限り、全ての人と平和を保つ
べきである。その為に心の怒りを静め、魂に平安が与えられるように祈ろう。
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No.824 - 3月3日: 「神の聖さを失わない」 コリント第1の手紙5章9節〜13節 |
(みことば)「外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中か
らその悪い者を除き去りなさい。」
コリント第1の手紙5章13節
パウロは、これまでコリントの教会の不品行の問題について論じ、教会が
聖さを保つことを勧めて来たが、最後の箇所は、その補足の説明と言える。
「私は前の手紙で…と書きました。」パウロは、不品行の問題にいてコリ
ント教会に「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と書簡を送っ
たが、その手紙を誤って解釈する者がいたので、ここでその真意を伝える。
彼の言葉は、「この世の淫らな者…と…付き合わないように」という意味
ではない。そうであるなら、「この世から出ていかなければ」ならない。教
会の中に、彼の言葉を曲解し、世の人と一切交際を絶つ人がいたようである。
この世は、悪魔の支配する罪に満ちているが、キリスト者として、この世
遣わされている意味がある。主は、「彼らをこの世から取り去ってくださる
ようにというのではなく、悪い者から守ってくださるように」と祈られた。
この世は、確かに「淫らで、貪欲で、奪い取る者や、偶像を拝む者」で満
ちている。その罪の世で、聖く生きることは、並大抵のことではない。だが、
キリストの救いと御霊を持つ者は、世の光、地の塩として生きる事ができる。
彼は、以前の手紙で書いた真意を語るが、それは、「兄弟と呼ばれる者で、
淫らな者…がいたなら、そのような者と付き合ってはいけない」と言う意味
である。その対象は、教会の外部の人ではなく、教会の内部の人の事である。
「付き合う」は、「教会の交わり」に関して使われているが、それは3つ
の言葉の合成語で「一緒に、連続して、混じり合う」の意味であり、そのよ
うな親密な、聖なる交わりを汚す者とは、「交際しないように」と忠告する。
教会の交わりは、この世の集まりと本質的に異なる。私達も、かつては、
この世の人と同じように「淫らな者、貪欲な者…偶像を拝む者」であったが、
キリストの贖いによって罪を聖められ、「新しく造り変えられた者」である。
新しく造られた者は、神の聖さに倣って新しい生き方をする。「良い木は
みな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」木の良し悪しは、その実によ
って知ることができる。御霊を持つ者は、心も生活も神によって聖くされる。
だが、私達は、罪の世に生きても、罪の世に影響されないように気を付け
よう。宣教の為に世の人と関り、彼らの救いの為に祈るべきであるが、その
行いを真似てはいけない。教会が、霊的な力と神の聖さを失ってはならない。
「外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。」私達は、
世の人を裁くのではなく、彼らの為に祈るべきである。「外部の人たちは、
神がおさばきになります。」誰もが死の後で神の前に裁きを受ける時が来る。
その時に、人生を後悔することがないように、神の言葉を真剣に聞くべき
である。キリスト者の使命は、世の人が、永遠の火の刑罰を受けることがな
いようにキリストの福音を伝える事である。それが教会の最大の使命である。
「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」イスラエルは、エ
リコを征服するが、たった一人のアカンの罪よって小さな町アイに敗北する。
彼が聖絶の物に手を出したからである。誘惑に陥り自らを汚してはならない。
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No.823 - 2月25日: 「古いパン種を取り除く」 コリント第1の手紙5章1節〜8節 |
(みことば)「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかな
パン種が、こねた粉全体をふくらませることを…知らないのですか。」
コリント第1の手紙5章6節
パウロは、これまでコリント教会に起っていた「分派の問題」について語
って来たが、5章から新しいテーマである「不品行の問題」について述べる。
パウロは、コリントの教会に「淫らな行いがある」と聞いていたが、「淫
らな行い」(ポルネイア)は、ポルノの語源で「不適切な性的関係」を意味する。
自由な社会は、放縦に陥る危険があるが、日本は、性風俗等の倫理観が低い。
コリントは、淫行に満ちたソドムのような街であったが、その頽廃した不
道徳の社会の中で、教会が聖さを保つのは並大抵の事ではない。しかも、コ
リント教会の不道徳は、「異邦人の間にもないほどの淫らな行い」であった。
「父の妻を妻にしている」とは、父親が再婚した義理の母親の事と思われ
るが、教会の中に、一般社会でも認められていない近親者と婚姻関係にある
者がいた。律法にも「父の妻と寝る者は…のろわれる。」(申命記 27:20)とある。
パウロは、教会の罪に対する無頓着さを「あなたがたは思い上がっていま
す。」と嘆く。教会は、「どんな罪でも赦される」という福音があるが、何を
しても自由なのではない。その自由を肉欲と放縦のために使ってはならない。
教会の中に、公然と不品行を行う者がいたなら、そのような者を取り除く
べきである。それは痛みと悲しみが伴うが、教会が聖さを失わない為に必要
な処置である。教会は、不道徳な者に除名処分の戒規を執行すべきであった。
「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて…」パウロは、今
コリントにいないが、彼は、霊的な意味で罪を犯している者を神の裁きに委
ねた。「神など見ていない。」と言って侮り、肉欲のままに生きてはならない。
彼は「あなたがたと私の霊が…御力とともに集まり…」と教会の霊的一体
性を語る。原語は、「集まる」を中心に「主イエスの名」と「私の霊と共に
主の力」が前後に来る。教会は、主の名のもとに集まる聖徒の集まりである。
「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」パウロは、もはや、不
道徳な者の回復ではなく、彼を「サタンに引き渡す」事で、彼自身が痛みの
中で罪の刈り取り、それにより「彼の霊が主の日に救われる」事を願った。
パウロは、罪を「わずかのパン種がこねた粉全体をふくらませる」事に譬
えるが、それは、主の晩餐を背景に語っている。「古いパン種をすっかり取
り除きなさい。」罪を犯している者は、主の晩餐から除外するべきである。
主の晩餐のパンは、古いパン種の入らないパンでなければならない。僅か
な罪が聖なる教会の交わりを駄目にする事がある。教会と言う聖なるキリス
トの交わりが、サタンの支配する世俗の交わりに堕落しないよう注意しよう。
「古いパン種をすっかり取り除きなさい。」これは、「徹底的に綺麗にする」
の意味があるが、教会は、「私たちの過越の子羊キリスト」の贖いによって
聖なる者とされているのだから、聖さを保ち、汚れた者となってはならない。
最後にパウロは、「古いパン種」を「悪意と邪悪のパン種」とこの世の陰
険で意地悪で悪魔的な性質にたとえ、逆に、混り気のない純真な生き方を「誠
実と真実の種なしパン」とたとえる。私達は聖い心と生き方を神に献げよう。
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No.822 - 2月18日: 「信仰の模範者に倣う」 コリント第1の手紙4章14節〜21節 |
(みことば) 「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってくだ
さい。そのために、私はあなたがたのところにデモテを送りました。」
コリント第1の手紙4章16節
パウロは、教会において自らを誇り、神の言葉を越えて思い上がる人々に
対して、辛辣に皮肉を込めて彼らの霊的な幼さや信仰の欠点を指摘して来た。
だが、彼は、 「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思
いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すため」であると語る。
人は、どんなに厳しい言葉も、愛から出ている言葉であるなら聞く耳を持っ。
パウロは、偶像と滅びの世界から彼らを救い出す為に福音を伝えた者であ
り、彼らにとってパウロは、霊的な父のような存在であった。 「たとえあな
たがたに・・・養育係が一万人いても・・・この私が・・・あなたがたを生んだのです。」
彼らがパウロの言葉に聞こうとしないなら、それは、親の恩を忘れるに等
しい。人は、誰でも自分を救いに導てくれた恩人がいる。その霊的なへ父の
感謝や恩を忘れてはならない。同様に、私たちの天の父もただひとりである。
パウロは、霊の父として「私に倣う者となってください」と勧めるが、彼
は、他の書簡でも同様の勧めをしている。 「倣う」は、 「模範」 「手本」の意
味であり、武道等でも技術が上達する早道は、師匠の模範を真似る事である。
先の者が模範となる良い生き方を示さなければ、後の者がそれに倣う事は
ない。教会において模範となる信徒がいる事で、後から導かれた人がその良
い実例を真似る事ができる。私達は、悪い模範とならないように注意しよう。
パウロは、コリント教会の為に信仰の模範としてテモテを送る。 「テモテ
は、私が愛する、主にあって忠実な子です。」彼はパウロと宣教を共にした
者で、彼を通して「キリストにある・・・生き方を・・・思い起させる」事ができた。
テモテは、コリントの教会にとって生きた実物教育 であり、彼によって「キ
リストにあるパウロの生き方」を示す事が出来た。「生き方」 とは、 「道」と
訳せるが、教会は、彼の模範的な生き方を通して、キリストの道を示された。
パウロは、コリント教会の中に「パウロがコリントに来る事はないだろう。」
と思い上がている人々に忠告する。テモテは、パウロが行く迄の間の代理の
務めを果たしたが、彼らは、彼の言葉をパウロの言葉として聞くべきである。
彼らは、 「パウロが来ない」と言う事で高ぶり、パウロから派遣されたテ
モテさえ認めようとしない。 「父がわたしを遣わされたように、わたしもあ
なたがたを遣わします。」神の権威を認めなければ、神に従う事はできない。
だが、パウロは、 「主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのとこ
ろに行きます。」と宣言する。彼は、第3次伝道旅行の最後にコリントを訪
問しているが、彼らは、それ迄の間、慎みと恐れをもって歩むべきであった。
「思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。」
人を救う力は、この世の知恵の言葉にはないが、神のことばは、人を救い、
人を造り変える力がある。 「神の国は、ことばではなく、力にあるのです。」
「どちらを望みますか。 ・・・むちを持って行くことですか。 ・・・柔和な心で行
ことですか。」それは彼らの態度と振る舞いに掛かっている。主が来られ、
叱責されて、恥じ入る前に、悔い改めて、父の御言葉に聞き従う者となろう。
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No.821 - 2月11日: 「驕らず御言葉に生きる」 コリント第1の手紙4章6節〜13節 |
(みことば)「書かれていることを越えない」ことを…学ぶため…一方にく
みし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。」
コリント第1の手紙4章6節
パウロは、これまで彼自身とアポロに当てはめて、教会の指導者がキリス
トのしもべ、神の奥義の管理者として忠実でなければならないと語って来た。
それは、彼らの例から「書かれていることを越えない」事を学ばせる為で
ある。「書かれていること」とは、聖書を指すが、神の言葉を越えた教えや
行動は、偽りである。聖書は、神の霊感によって書かれた真実な言葉である。
次に「一方にくみし、他方に反対して思い上がることのない」為である。
「一方にくみし」とは、「一人の人を上げる(越える)」の意味であり、教会の交
わりも「一人を崇め、別の人を軽蔑する」ような不公平があってはならない。
パウロは、教会の中で「自分を誇り、他の人を見下している」者に「いっ
たいだれが、あなたをほかの人よりすぐれていると認めるのですか」と問う。
その人の評価は、人が決めることではなく、神がその真実の審判者である。
「あなたには…もらわなかったものがあるのですか。…なぜ…誇るのです
か。」私達が持っている物で、自分の力で得た物など何もない。「私は、裸で
母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。」
パウロは、自分を誇る者に「あなたがたは、もう満ち足りています。…王
様になっています。」と皮肉を込めて語る。彼らは、この世で満足しても霊
的に「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」事が分っていない。
彼らは、パウロの宣教によって救われた事を忘れたかのように驕り高ぶる。
「私たち抜きで王様になています。」それは、裸の王様のようである。パウ
ロは、彼らに「本当に王様になっていたらよかった」と皮肉を込めて語る。
だが、彼らに福音を語ったパウロは、彼らと違い「死罪に決まった者」の
ように「人々の見せ物」になり、「飢え、乾き、着る物もなく…」と語り、
彼らのように、福音の本質から外れていながら誇る者の愚かさを気づかせる。
パウロは、「神は私たち使徒を…最後の出場者として引き出され…人々に
も見せ物になり…」と円形闘技場で人々の見せ物になる殉教者の姿を描く。
彼らは、見せ物の最後に、主の名の故に火炙りにされ、獣に?み殺される。
パウロは、「私たちは…愚かな者ですが…」と、彼らと比較して、「愚かな
者と賢い者」「弱い者と強い者」「卑しめられた者と尊ばれている者」と対照
的に語るが、両者の違いは、この世の人の評価と神の国の評価の違いである。
彼らは、この世で「満ち足り…すでに豊かになって」王のようであるが、
パウロは、「飢え、渇き…住む所も」ない。主も、同様に「狐には、穴があ
り空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない。」と言われた。
「ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び…」パウロは、たとえ人
からどのような扱いを受けても、悪に悪をもって報いず、かえって善をもっ
て悪に報いる事で、一人でも多くの人をキリストのもとに導こうと心掛けた。
彼は、「私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。」と自
己を卑下するが、それは、単なる謙遜ではなく、寧ろ真実な自己評価である。
神は、「この世の屑、かす」のような人を清め、神の人に造り変えられる。
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No.820 - 2月4日: 「神の家の管理者」 コリント第1の手紙4章1節〜5節 |
(みことば)「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える
べきです。…管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」
コリント第1の手紙4章1、2節
コリント教会は、パウロやアポロなど教会の指導者を頭に立て、人間を誇
る分派があったが、パウロは、本来、牧師や教師がどのような者かを語る。
パウロは「私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考える」べき
であると語る。「しもべ」(ヒュペレース)は、「船の下で櫓を漕ぐ」の意味がある。
牧師は、権威を誇示するのではなく、教会に仕える者でなければならない。
パウロは、福音によって啓示された「神の奥義」を語り、キリストと言う
建物の土台を据えた。「管理者」(オイコノモス)は、「家を治めるしもべ」の意味
であるが、牧師や教師は、主人である神から神の家を任された管理者である。
「その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められる」事である。
牧師に求められる資質は、神への忠実さである。その人に、どんな優れた能
力があっても、忠実さに欠けているなら、神の働きを続ける事はできない。
「忠実」(ピスティス)は、「信仰」と訳せるので、それは、全てのキリスト者
に求められる資質である。イスラエルの初代の王サウルは、優れた能力を持
っていたが、神の言葉に不忠実であったので、王の職務と神の祝福を失った。
キリストのしもべは、船の下で櫓を漕ぐ働きに徹するべきで、舵を取るの
はキリストである。「船頭多くして、船山に登る」の諺のように、人が人生
の舵を取ると船を座礁させたり、嵐に遭う等、想定外の事態に巻き込まれる。
教会には、パウロ等の教師に対する様々な批評があったが、彼は「私にと
って…さばかれたりすることは、非常に小さなことです」と語る。「さばき」
とは、人のいい加減な批評に過ぎず、それを過重に受け留める必要はない。
「それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。」それは、「自
己吟味をしない」と言う意味ではない。彼は、「私には、やましいことは少
しもありませんが」と語る通り、良心的に責められることは何一つなかった。
だが、彼は、自分に良心的責めが無くても、それで「自分が正しい」と判
定を下さない。「さばく」(アナクリノー)は、裁判における最終判決の前の「判定」
の意味である。「主が来られるまでは、…先走ってさばいてはいけません。」
全ては、主が来られた時に、最終的な判決(クリノー)が下される。私達は、
その前に、軽々しく他人や自分をさばくべきではない。「私には、…少しも
ありませんが、だからといって、それで義と認められるわけではありません。」
私達は、キリストの贖いによって、既に義と認められているが、「神に対
して忠実であったかどうか」その判定と評価は、主が下される。「私をさば
く方は主です。」その「さばき」も、最終判決の前の判定(アナクリノー)である。
人は、「善であれ悪であれ…行いに応じて…さばきの座の前に」立つ時が
来る。だが、私達は、御霊により善悪を判断でき、悪を行えば心に平安はな
い。「自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。」
「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも…」神は、
人が心に抱く聖なる志も、邪悪な計画も、全て知っておられる。「隠されて
いるもので知られずにすむものはない」神から称賛を受ける生き方をしよう。
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No.819 - 1月28日: 「神の御霊の住む神の宮」 コリント第1の手紙3章16節〜23節
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(みことば)「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうち
に住んでおられることを知らないのですか。」
コリント第1の手紙3章16節
パウロは、建物を建てる時に、揺るがない人生の土台としてキリストを据
える大切さと、その上にどの様な建物を建てるべきか注意するように語った。
パウロは、教会を建物に譬え「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の
御霊が…住んでおられる…」と語る。「家」「建物」(オイコス)「建てる」の語根
は、「住む」(オイケオー)であり、その思想の中心に「住む」と言う原理がある。
「幕屋」も「住む」(ミシュカーン)が語源である。同様にパウロは、(6:19)で
「あなたがたのからだは…聖霊の宮であり」と個人のからだを指して語って
いるが、この箇所は神の共同体である教会を指して「神の宮」と語っている。
神は、永遠で無限なる方だが、教会の小さな集まりに御住まいを定める。
「あなたがたも…御霊によって神の御住まいとなる」(エペソ 2:22)住む家のな
い人は、浮浪者・ホームレスと呼ばれるが、その人は、寒空の下でも帰る家がない。
「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。」時に
は、神の教会を破壊するような者が現れる。それは、悪魔の働きによるが、
神は、神の宮の破壊者を容赦せず、その悪の行為に厳粛な刑罰で報いられる。
教会を破壊するのは、一瞬でできるが、それを建て上げるには、御霊の一
致と愛がなければできず、そこには、忍耐と労苦と長い時間が必要である。
「自分を欺いてはいけません。…知恵ある者となるために愚かになりなさい。」
教会を批判し破壊する行為は、人の誇りと高ぶりから生じる。悪魔は、そ
のような人を用いて神の御業を破壊しようと試みる。自分を世の知者と誇る
事なく、謙って主と教会に仕える者でなければ、神に用いられることはない。
「神は知恵ある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」これは、ヨブ
記の引用であるが、この世の知恵は、神の御前では愚かである。アブサロム
は、その知恵によって謀反を企てダビデを追放して自分が王になろうとする。
彼は、ダビデを追跡する途中で「頭が樫の木に引っ掛かり、宙づり」にな
り、ヨアブの槍に突き刺されて滅びる。それが神の国の破壊者の結末である。
「主は、知恵ある者の思い計ることがいかに空しいかを知っておられる。」
「だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。」
私達の中に何かの誇りがあってはならない。全ては神から与えられている。
「誇る者は主を誇れ」私達は、十字架以外に誇るものがあってはならない。
「パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ…」それらの人は、彼ら
の信仰の成長の為に、神から与えられた働き人に過ぎない。だから、「私は
パウロにつく、私はアポロに…」と人間を誇ることは、愚かなことである。
「世界であれ、いのちであれ、死であれ…あなたがたのもの…」一切のも
のは、神から教会に与えられている。キリスト者は、キリストが悪魔に勝利
した事で、死に打ち勝ち、いのちを与えられ、御国を相続する恵みに預かる。
「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」「私たちは、
…生きるにしても、死ぬにしても…主のものです。」(ローマ 14:8)キリスト者
の希望は、神の永遠の住まい「天に御国」にあり、神と共に生きる事にある。
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No.818 - 1月21日: 「どのような家を建てるか」 コリント第1の手紙3章10節〜15節
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(みことば)「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることは
できないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
コリント第1の手紙3章11
パウロは、「信仰の成長」に関し「幼子と植物の成長」にたとえて語って
来たが、最後に、それを「神の建物」にたとえ、家を建てる時の注意を語る。
パウロは、「私は…賢い建築家のように土台を据えました。」と語るが、彼
の賢さは、「神の恵み」により「神の奥義」に関する豊かな知恵を与えられ
た事と、彼は、「家を建てるためにしっかりとした土台を据えた」事にある。
賢い建築家は、家を建てる時に地盤の堅固さを確認する。「岩の上に家を
建てた賢い人は、雨が降って、洪水が押し寄せても…倒れない」が、「砂の
上に家を建てた人は、…倒れてしまい、その倒れ方はひどいもの」であった。
家も人生も、いつ何が起こるか分からない。だから、決して揺るがない人
生の土台をしっかり据えるべきである。「すでに据えられている土台以外の
ものを据えることはできない…その土台とは、イエス・キリスト」である。
だが、土台を据える事と家を建てる働きは違う。一度、据えた土台は、建
物が建った後で変える事はできない。パウロは、賢い建築家として、揺るが
ないキリストと言う土台を据えた。「ほかの人がその上に家を建てるのです。」
「だれかが…金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると…」その際、どの
様な材料で家を建てるか問われる。長く続く立派な建物を建てようと願うな
ら「金、銀、宝石」を使い、安く建てようと願うなら「木、草、藁」を使う。
一般的に金、銀、宝石で自分の家を建てる人はいないので、この建物は、
個人の家ではなく、神の神殿と言える。自分の為には、惜しみなくお金を使
っても、神の家の為には、木、草、藁を使う人もいるが、その逆の人もいる。
「それぞれの働きは明らかになり…『その日』がそれを明るみに出すので
す。」それが明らかになるのは、「終わりの日」即ち「主の再臨の日」であり、
「その日は火とともに現れ、この火がそれぞれの働き…を試す」事になる。
即ち、「金、銀、宝石」で建てた建物は残るが、「木、草、藁」で建てた建
物は焼かれて何も残らない。それは震災の跡地のようである。「自分のため
に、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。…自分のために天に宝を蓄えなさい。」
「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。」その報いと
は、「天における報い」を指している。この地上で、財産も名誉も功績も何
も残さなくても、天において豊かな報いを受ける人がおり、逆に、世の富み
や名声を得ていながら、天において僅かな報いしか与えられない人もいる。
「だれかの建てた建物が焼ければ、…損害を受けますが…火の中をくぐる
ようにして助かります。」その人が「木、草、藁」で家を建てるなら、その
家は、火によって焼かれるが、その人は憐れみにより、かろうじて救われる。
その人は、ロトのように、いのちが助かっても何も残らない。アブラハム
は、信仰によって神の豊かな祝福を受け継ぐが、ロトは、ヨルダンの低地、
罪人の町ソドムに住んだために、その町が滅びる時に全財産を失ってしまう。
神を信じる者がこの世的な生き方をする事で、天の祝福を失う事がないよ
うに自戒したい。「あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。」
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No.817 - 1月14日: 「御霊の人と肉の人」 コリント第1の手紙3章1節〜9節 |
(みことば)「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させた
のは神です。…大切なのは…注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
コリント第1の手紙3章6節
パウロは、「成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べたが、コリ
ント教会は、神の奥義である知恵を語る事ができない信仰の未熟さがあった。
パウロは、コリント教会に対して「御霊に属する人に対するように語るこ
とができずに、肉に属する人、…幼子に対するように」語った。彼らは、確
かに神の御霊を持つ聖徒達であったが、未だに肉に属する人、幼子であった。
「私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。…今で
もまだ無理なのです。」パウロは、彼らが年数に見合った成長を遂げていな
い事を嘆く。キリスト者は、何時までも幼子の様に未熟なままではいけない。
彼らの未熟さは、「まだ肉の人だから」であった。「肉の」とは、「肉的、
物質的な」の意味で、神の御心に反する罪に向かう性質を指す。彼らは、神
を信じていたが、御霊の人ではなく、肉の人、即ち、この世的な人であった。
彼らが「肉の人」である証拠は、彼らの間に「ねたみや争いがあった」か
らである。妬みや争いは、この世の集まりの何処でも起こる事だが、それが
教会の中にも起って来る。だが、それは、肉の性質から生じる問題である。
「ただの人」とは、原文で「人に向って」「人に対して」生きる人の事で
ある。即ち「肉に属する人」とは、その人の関心が人にあり、心を人に向け
て生きる人であり、「御霊に属する人」は、神に心を向ける人の事である。
「ある人は『私はパウロにつく』と言い、別の人は『私はアポロにつく」
と言っている。」教会の中に分派があり、競争意識や対抗意識から確執が生
じる。その原因は、肉的な思いで人を誇り、人につこうとする姿勢にある。
パウロは、既に分派の問題に関して「キリストが分割されたのですか。パ
ウロが、あなたがたのために十字架につけられたのですか。」と肉的なあり
方を批判した。コリント教会は、この世と変わらない肉的な集まりであった。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。…」人は、何者でもな
い自分を誇り、虚栄心や高ぶりを持ちやすい。だが、主は、この世の愚かな
者、弱い者、取るに足りない無に等しい者を選んで、神の栄光の器とされた。
「奉仕者」とは、「仕える人、給仕人」の意味であるが、主は、十字架に
かかる前に弟子達の足を洗われた。妬みや争いのある人は、人に仕えること
はできない。自分を誇らず、「なすべきことをしたまでです」と言えば良い。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。…成長させたのは神です。」宣
教の種蒔き、植える働きも、水を注ぎ、教会を養う牧会の働きも重要である。
だが人を成長させるのは、神の働きである。それを忘れて誇ってはならない。
「植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き…」それぞれの働きの優劣は
ない。それが一つに調和して、初めて良い働きができる。又、その奉仕と働
きには、報酬が伴う。「それぞれ自分の労苦に応じて自分の報いを受ける」
「私たちは神のために働く同労者であり、」牧師は、神が教会を建てる為
に選んだ器である。主が立てた権威への信頼がなければ、良い働きは出来な
い。神の畑で良い実を結ぶ為には、正しい心で御言葉を受け入れる事である。
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No.816 - 1月7日: 「キリストの心を持つ」 コリント第1の手紙2章6節〜16節 |
(みことば) 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の
心に思い浮かんだこと・・・神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」
コリント第1の手紙2章9節
パウロは、 「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによる
ものではなく・・・」と、福音が、この世の知恵によらないことを語って来た。
だが、彼は、 「私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と知
恵や知識を否定しない。キリスト者は、成熟した大人として知恵の言葉を語
るべきであるが、コリントの教会は、その点で未だに未成熟のままであった。
その知恵は、「この世の知恵でも、この世の・・・支配たちの知恵でも」ない。
世の知恵では、神を知る事も、救いに至る事もない。 この世の支配者は、 知
恵と権力を持って神を否定するが、 それは、 過ぎ去って行く支配に過ぎない。
だが、パウロは、「奥義のうちにある、隠された神の知恵」 を語る。 それ
は、キリストによって啓示された救いの真理であり、その福音の知恵は、「神
が私たちの栄光のために、 世界の始まる前から定めておられたもの」である。
「この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。」 世
の支配者は、一般の民衆より勝る優れた知恵と権力を持っていたが、彼らは、
その知恵で神を知ろうとせず、寧ろ「栄光の主を十字架につけて」しまった。
「目が見た事のないもの・・・神を愛する者たちに備えてくださった。」神の
救いの御業は、人間が計り知る事も、 想像することもできない「隠された神
の知恵」による事であり、神は「それを・・・御霊によって啓示して」下さった。
「啓示」とは、「覆いを取り除き、隠れている事柄を明らかにする」事で
あるが、キリスト者は、 神の御霊によって「罪について、義について、さば
きについて」神の御心を知り、救いの真理をはっきりと理解する事ができる。
「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」人の内に
御霊が宿るなら、御霊はその人の内にあって、神の隠された奥義を明らかに
する。「人間のことは、・・・ 人間の霊のほかに、・・・だれが知っているでしょう。」
人の人格は、固有のものであり、誰もその人の心の内を知る事はできない。
「同じように、神のことは、神の霊のほかにだれも知りません。」神の御霊
が、その人の内に住まなければ、人は、神について何も知る事はできない。
私達は、福音を語るのに「人間の知恵によって教えられたことばではなく、
御霊に教えられた言葉」を用いる。「その御霊のことばによって御霊のこと
を説明」する。福音は、御霊の働きがなければ、誰も理解する事ができない。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。」肉
に属する生来の人は、どんなに賢く知識があっても、神の御霊に関して全く
無知である。そこにキリスト者とこの世の人の高い壁があり、深い溝がある。
その溝は、人間的な知恵や方法で埋まらない。それは、ただ、十字架の贖
いと信仰によるが、 世の人にとって、それは 「愚かなことであり、理解する
ことが」できない。人は御霊によって回心しなければ、救いが分からない。
神の御霊を受けた人だけが言える言葉がある。それは、「イエスは主です。」
と告白することである。誰も、自分の知恵で「主を知り、主に助言」できる
人はいない。だが、私達は、御霊によって「キリストの心」を持っている。
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新年特別号 - 1月1日: 「主のあわれみと救い」 ルカの福音書1章57節〜80節 |
(みことば)「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住
んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
ルカの福音書1章79節
不妊のエリサベツとザカリヤ夫婦に待望の男の子が与えられる。彼は、キ
リストの来臨の前に人々に悔い改めを説き、救いの道を備える人物となる。
だが、ザカリヤは、親族や妻と一緒に、我が子の誕生を喜ぶ事ができない。
彼は、主の言葉を信じなかったので、口がきけず、話しができなかった。
だが、彼にとってその試練も意味のある事であった。「神の言葉を聞き、た
だ、黙って神の御業を待つ。」それが彼の信仰にとって必要なことであった。
人々は、幼子をザカリヤと名づけようとしたが、母親は、「名をヨハネと
しなければなりません。」と言った。それは、主の使いによる命令だったか
らである。彼らは、ユダヤ人の伝統や習慣よりも神の命令に従う道を選んだ。
ザカリヤは、「口がきけなくなる」という試練を通して、神への信頼を教
えられる。彼が「その子の名はヨハネ」と書いた時、彼の「口が開かれ、舌
が解かれ…神をほめたたえた。」賛美の口が与えられる事も主の恵みである。
人々は、これらの事を聞き「この子は何になるのでしょうか」と彼の将来
を好奇な目で想像した。「末は博士か大臣か」それは、世の人の価値観であ
る。彼は、やがてらくだの毛衣を着て、ヨルダンの荒野で悔い改めを説いた。
「幼子よ、あなたこそ、いと高き方の預言者と呼ばれる。」父ザカリヤは、
幼子がどのような者になるかを預言する。彼は、「主の御前を先だって行き、
その道を備え…」彼は、主の救いの道を備え「罪の赦しによる救い」を説く。
「罪の赦し」とは、キリストの十字架の贖いによる神の御子の代償的な死
を意味する。救いの中心は、ここにある。その救いを人々に語る働きこそ、
最も価値ある尊いものと言える。福音を宣べ伝える価値ある人生を歩もう。
「ザカリヤは聖霊に満たされて預言した。」その前半は、救い主を遣われ
た神への賛美であり、後半は、ヨハネが語る救い主キリストの「罪の赦しに
よる救い」についてである。彼の預言の中心は、キリストによる救いである。
「ほむべきかな、イスラエルの神…ダビデの家を立てられた。」イスラエ
ルの神は、私達の神であり、神がイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出
されたように、神は、キリストによって、私達を罪と滅びから救い出された。
「救いの角」とは、神の救いの権威である王としてのキリストを表わす。
「救いの角」即ちキリストは、「預言者の口を通して語られた」通りに現れ、
救いを完成し、神の敵である悪魔に勝利し、私達を敵の手から救い出された。
「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し…」神は、イスラエルとの契約
を決して忘れない。バビロンの捕囚、二千年間の離散など、ユダヤ人ほど数
奇な運命を辿った民族はいない。だが彼らは、主によって常に守られて来た。
私達が「敵の手から救い出され」たのは、主に仕える為であり、「主の御
前で、敬虔に、正しく」生きるためである。「これは、私たちの神の深いあ
われみによる。」ヨハネの意味は、「主は、あわれみ深くあり給う」である。
「曙の光が…暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし…」夜がどんなに
暗くても、朝の来ない夜はない。主が曙の光として、暗闇の世を照らされる。