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2025年の説教




No.919 - 12月28日: 「不法の者の到来」 テサロニケ第2の手紙2章1節〜7節


(みことば)「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者 を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。」 テサロニケ第2の手紙2章6節

 テサロニケの手紙のテーマの一つは、「世の終わり」即ち「終末に起こる 出来事」に関してであるが、特にそれは「主の再臨」に関連した事柄である。
 「さて兄弟たち。…キリストの来臨と…集められることに関して…」パウロ は、「主の再臨」と「聖徒達が集められる」事に関して、既に、前回の手紙で 述べた。その時、聖徒達は、「…引き上げられ、空中で主と会う」(4:17)事になる。



No.918 - 12月21日: 「救い主の誕生と栄光」 ルカの福音書2章1節〜20節


(みことば)「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに なりました。この方こそ主キリストです。」 ルカの福音書2章11節

 ルカの福音書は、キリストの誕生を記す唯一の書簡であるが、著者は、キ リストの誕生を「この世の王と神の国の王」との対比の中で、それを語る。
 キリストの誕生の際、世界の支配者は、皇帝アウグストゥスであった。彼 の名は、オクタヴィアヌスだが、アクグストゥスは、元老院から受けた初代 ローマ皇帝の称号である。キリストとは、救い主の称号で、イエスと呼ばれた。



No.917 - 12月14日: 「神の審判と聖徒の証し」 テサロニケ第2の手紙1章8節〜12節


(みことば)「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わ ない人々に罰を与えられます。」 テサロニケ第2の手紙1章8節

 キリスト者が苦難の中でも忍耐して信仰を保つ事が出来るのは、神の正し い裁きがあり、やがて、キリストが天から現れる事を知っているからである。
 冒頭の御言葉は、「神の正しさ」が全ての人に証明される「神の審判」の 時に実現する。それは、世の人にとって聴き辛い、或いは、聞きたくないと 思える言葉であるが、それは神の義に基づく、神のご計画による定めである。



No.916 - 12月7日: 「神の正当な裁きと報い」 テサロニケ第2の手紙1章1節〜7節


(みことば)「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、 報いとして苦しみを与え…あなたがたに…安息を与えることです。」 テサロニケ第2の手紙1章6,7節

 パウロは、テサロニケ第1の手紙に続き、「パウロ、シルワノ、テモテ」の3 人から教会に宛てて第2の手紙を書き送るが、それは、ユダヤ人の迫害によ って離れざるを得なかったテサロニケの聖徒の信仰を励ますためであった。
 パウロは、テモテから「苦難の中で堅く信仰つ」彼らの信仰を聞いて、「恵み と平安が…あるように」と祈り、再度、苦難の中にある者を励まし、気落ちした 者を慰め、怠惰な者を戒め、終わりの日に来る不法な者に備える様に勧める。



No.915 - 11月30日: 「聖なる者として」 テサロニケ第1の手紙5章23節〜28節


(みことば)「平和の神ご自身が…完全に聖なるものとしてくださいますよ うに。…責められるところのないものとして保たれていますように。」 テサロニケ第1の手紙5章23節

 パウロは、これまで苦難の中に歩むテサロニケの聖徒達の信仰を励ます為 にテサロニケ第1の手紙を書いて来たが、その最後の締め括りの言葉となる。
 パウロは、この手紙を書き終わるに当たり2つの事を祈る。その第1は、 「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますよ うに」という祈りである。「聖なる者となる」事は、この手紙の主題でもあった。



No.914 - 11月23日: 「信仰に欠かせない資質」 テサロニケ第1の手紙5章16節〜22節


(みことば)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに おいて感謝しなさい。これが…神が望んでおられることです。」 Tテサロニケ5章16〜18節

 パウロは、キリストを信じた者が健全な信仰を保って歩む為に必要な姿勢 として「喜んでいる」こと、「祈る」こと、「感謝する」ことを勧めている。
 パウロは、これら3つの要素を含めて「これが、キリスト・イエスにあっ て神があなたがたに望んでおられることです。」と語る。従って、もし信仰 の歩みにおいて、これらの点で欠けているなら、改める努力をすべきである。



No.913 - 11月16日: 「神の民の群れとして」 テサロニケ第1の手紙5章12節〜15節


(みことば)「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な 者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」 Tテサロニケ5章14節

 パウロは、「主の再臨」と「世の終わり」に関して述べて来たが、キリス ト者が、終末に向かってどのように生きるべきかを語り、この手紙を閉じる。
 その第1は、教会の聖徒達と指導者との関係についてである。教会の指導 者は、「羊の群れの牧者」の意味で牧師と呼ぶ。パウロは、宣教地において 教会の指導者となる牧師を立てた。「教会ごとに長老たちを選び…」(使徒14:23)



No.912 - 11月9日: 「主の日に備える」 テサロニケ第1の手紙5章1節〜11節


(みことば)「人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの 苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。」 Tテサロニケ5章4節

 パウロは、「主の来臨」の出来事に続き「世の終わり」に関して述べる。 彼らは、「それがどのように来るか」を書く必要が無いほど良く知っていた。
 「主の日は、盗人が夜やって来るように…」「主の日」とは、「主の復活を 記念する日」の他に、旧約で「世の終わり」「神の審判の時」を表現してい る。「主の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」(ヨエル1:15)



No.911 - 11月2日: 「主の来臨の時まで」 テサロニケ第1の手紙4章9節〜18節


(みことば)「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きと ともに、主ご自身が天から下って来られます。」 Tテサロニケ4章16節

 パウロは、テサロニケの聖徒達に「神に喜ばれる歩み」と「神のみこころ にかなう生き方」について勧め、その第1は「聖なる者となる」事であった。
 聖徒達の第2の特徴は「兄弟愛」の実践であるが、「兄弟愛」(フィラデルフィア) は「キリスト者相互の愛」を示し、パウロは「兄弟愛をもって互いに愛し合 い」(ローマ 12:10)と命じ、主も「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と命じた。



No.910 - 10月26日: 「敬虔な者の喜び」 「神の救いの計画と福音の希望」


(みことば)「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシ ア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」 ローマ人への手紙1章16節

 神は、天地万物を6日間で創造され、又、最後に、被造物の中で、神に似 た性質を持つ特別な存在として人間を創造された。「はじめに神が天と地を 創造された。」(創世記1:1)「神は、人をご自身のかたちとして創造された。」(1:26)
 人間は、神に似せて造られているので価値があり、他の被造物にはない、 神の霊(魂)を与えられている。「主は…人を形造り、その鼻にいのちの息を吹 き込まれた。」(2:7)それ故、人間は、社会性を備えた道徳的な被造物である。



No.909 - 10月19日: 「聖なる者となる」 テサロニケ第1の手紙4章1節〜8節


(みことば)「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。… 淫らな行いを避け…自分のからだを聖なる尊いものとして保ち…」 テサロニケ第1の手紙4章3〜4節

 パウロは、苦難の中にある聖徒達を励ます話題から一転して「最後に兄弟 たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。」と新たなテーマで語る。
 パウロは、総論として「あなたがたは、神に喜ばれるためにどうのように 歩むべきかを…学び」と勧める。それは、キリスト者の生き方の原点と言え る。キリスト者は、常に「神に喜ばれる生き方」を目指して歩むべきである。



No.908 - 10月12日: 「救いの完成を目指して」 テサロニケ第1の手紙3章6節〜13節


(みことば)「私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたが たのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。」 テサロニケ第1の手紙3章7節

 パウロは、苦難の中にあるテサロニケの聖徒達を強め励ます為にテモテを 遣わすが、テモテが彼らの「信仰のと愛について良い知らせ伝えて」くれた。
 「良い知らせを伝える」は、原語で(エヴァンゲリゾマイ)「福音を伝える」であ るが、「神の救いの知らせ」以外の一般的な意味で使われるのはここだけで ある。それはテモテの良い知らせが、パウロに大きな喜びを齎した事を示す。



No.907 - 10月5日: 「悪魔の試みと信仰の勝利」 テサロニケ第1の手紙3章1節〜5節


(みことば)「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがない ように…私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」 テサロニケ第1の手紙3章3節

 パウロは、迫害と苦難の中にあるテサロニケの教会を励ます為に、彼らの 所に「何度も行こうと」したが、「サタンが…妨げた」(1:18)と語って来た。
 パウロは、「そこで、私たちは、もはや耐えきれなくなり…」と述べるが、 それは、彼が、今の状況を黙って見過ごす事のできない心理を物語る。彼は、 神に敵対する勢力から逃げるのではなく、それに立ち向かって歩もうとする。



No.906 - 9月28日: 「真実な神のことば」 テサロニケ第1の手紙2章13節〜20節


(みことば)「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、 それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け 入れてくれたからです。」 テサロニケ第1の手紙2章13節

 パウロは、テサロニケの聖徒達が神の召しにふさわしく歩むように、時に は、母親のように愛しく思い、又、時には、父親のように厳かに命じて来た。
 パウロは、彼らの事で神に感謝するが、それは、彼らがパウロの語る言葉 を「人間のことばとしてではなく…神のことばとして受け入れて」くれたか らである。「神のことば」は、僅か一節の中で3度も繰返し強調されている。



No.905 - 9月21日: 「愛する者への祈り」 テサロニケ第1の手紙2章7節〜12節


(みことば)「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神に ふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」 テサロニケ第1の手紙2章12節

 パウロは、これまでテサロニケにおいて、「神に認めれて、福音を委ねら れた者」として、「どのような姿勢で福音を伝えて来たか」を語って来た。
 パウロは、「キリストの使徒として権威を主張することもでき…たが…幼 子に」なった。使徒とは、キリストの権威を与えられ、宣教に派遣された弟 子であるが、パウロは、彼らの間で権威を振るわず、幼子の様に振る舞った。



No.904 - 9月14日: 「神に認められる人」 テサロニケ第1の手紙2章1節〜6節


(みことば)「私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから…人 を喜ばせるのではなく、…神に喜んでいただこうとして語っているのです。」 テサロニケ第1の手紙2章4節

 パウロは、テサロニケの人々に「あなたがた自身が知っている通り、私達 があなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。」と語る。
 それは、パウロがテサロニケに行って福音を語った事で、多くのギリシャ 人が信仰に導かれ、偶像から生けるまことの神に立ち返り、更に、彼らは、 「マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となった」からである。



No.903 - 9月7日: 「主に倣う者となる」 テサロニケ第1の手紙1章1節〜10節


(みことば)「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を 伴って、あなたがたの間に届いたからです。」 テサロニケ第1の手紙1章5節

 パウロは、シルワノとテモテの連名で、「父なる神と主イエス・キリストに あるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安が…ありますように」と手紙を書く。
 パウロは、第2回の伝道においてトロアスで、「マケドニアに渡って来て、 私達を助けてください。」と懇願する幻を見て、ピリピを初め、テサロニケ、 ベレヤなどで宣教したが、マケドニア各地でユダヤ人の激しい迫害に遭った。



No.902 - 8月31日: 「自分を試し、吟味する」 コリント第2の手紙13章5節〜13節


(みことば)「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、 吟味しなさい。…あなたがたが不適格な者なら別ですが。」 コリント第2の手紙13章5節

 パウロは、この手紙の最後に、コリントの教会の信徒に対して「あなたが たは、信仰に生きてるかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」と語る。
 たとえ、信仰があっても、信仰に生きてない人も多くいる。パウロは、そ の人々に「自分を試し、吟味する」事を勧めるが、「吟味する」は、「試して 本物であると証明する」の意味がある。次の「不適格」はその否定形である。



No.901 - 8月24日: 「神の国に生きる者」 コリント第2の手紙12章19節〜13章4節


(みことば)「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力 によって生きておられます。」 コリント第2の手紙13章4節

 パウロは、コリントの教会に対し「今度そちらに行ったときには、容赦し ません。」と厳しく叱責するが、それは、彼らを建てる為の愛の鞭である。
 パウロは、これまで述べて来た事が「自己弁護しているのだ」と受け取ら れたくなかった。彼は「人に媚びて気に入られたい」と言う思いは毛頭ない。 彼は、寧ろ「神の御前でキリストにあって語っている」と言う意識がある。



No.900 - 8月17日: 「同じ足跡を辿る」 コリント第2の手紙12章11節〜18節


(みことば)「私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるし を明らかにしました。しるしと不思議と力あるわざによってです。」 コリント第2の手紙12章12節

 パウロは、「私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理に私を そうさせたのです」と語るが、愚か者とは、自分を誇り、宣伝する人である。
 それは、偽使徒達がそうであった。パウロは、自分を誇るつもりはなかっ たが、教会が、偽使徒達に惑わされ、彼らを受け入れていたので、彼も、そ れに対抗して「彼らはヘブル人ですか。私もそうです…」と肉の力を誇った。



No.899 - 8月10日: 「神の啓示と肉体のとげ」 コリント第2の手紙12章1節〜10節


(みことば)「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの 力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」 コリント第2の手紙12章9節

 パウロは、コリントの教会に入り込んで来た偽使徒や人を欺く働き人に対 抗して、「私は誇らずにはいられません。」と、彼自身の特別な体験を話す。
 それは、パウロにとって「誇っても無益である」ことを承知した上での誇 りであるが、彼は、自分の功績や経歴を自慢したがる人々の前で、敢えて、 それを誇る事もやむを得ないと考える。それは「主の幻と啓示の話」である。



No.898 - 8月3日: 「自分の弱さを誇る」 コリント第2の手紙11章21節〜33節


(みことば)「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」 コリント第2の手紙11章30節

 パウロは、肉的な力や自らの功績を誇る偽使徒と比較して、「愚かになっ て…私もあえて誇りましょう。」と彼らが誇る民族的な血筋を誇って見せる。
 「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。…」彼らは、自分達がヘブル人、 イスラエル人、アブラハムの子孫であると言う血筋を誇りとした。それは、 即ち「ユダヤ人は、神に祝福された選びの民である」と言う民族意識である。



No.897 - 7月27日: 「キリストにある誇り」 コリント第2の手紙11章12節〜23a節


(みことば)「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変 装します。」 コリント第2の手紙11章14節

 パウロは、コリントの教会で「報酬を受けずに神の福音を…宣べ伝え」て 来たが、彼は、「今していることを今後も続けるつもりです。」(12)と述べる。
 彼は、そうする理由を「ある人たちが自分たちで誇りとしていることにつ いて…断ち切るため」と語る。それは、コリントの教会の自己推薦者や自分 の功績を誇る人の偽善を断ち切り、福音の宣教者の真の誇りを示す為である。



No.896 - 7月20日: 「キリストへの純潔」 コリント第2の手紙11章1節〜11節


(みことば)「私は神の熱心をもって…熱心に思っています。私はあなたが たを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのです」 コリント第2の手紙11章2節

 コリント教会には、自己推薦する人や自分で自分を誇る者が大勢いたが、 パウロは、「誇る者は主を誇れ」「主に推薦される人こそ本物です。」と語る。
 パウロは、「少しばかりの愚かさを我慢してほしい」と語るが、それは、 自己自慢の愚かな誇りではなく、宣教の働きと神の権威を委ねられた者の誇 りであり、教会との間に信頼の関係があれば、そんな事を語る必要もない。



No.895 - 7月13日: 「主に推薦される人」 コリント第2の手紙10章12節〜18節


(みことば)「誇る者は主を誇れ。」自分自身を推薦する人ではなく、主に推 薦される人こそ本物です。」 コリント第2の手紙10章18節

 パウロは、「あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が…与え てくださった権威について…誇りすぎ…ても、恥とはならない」(8)と語った。
 そこで、主から権威を与えられたパウロは、「推薦」と「誇り」と言う2 つの言葉を用いて、自らを誇る自己推薦者との違いを語る。彼は、「自分自身 を推薦している人たちと自分を同列に置いたり比較したり」しようとしない。



No.894 - 7月6日: 「神のことばと権威」 コリント第2の手紙10章1節〜11節


(みことば)「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を 打ち倒す力があるものです。」 コリント第2の手紙10章4節

 パウロは、手紙の最後に権威の問題について語るが、聖書が誤りのない神 の言葉と言える根拠は、神の霊感と権威によって書かれた文書だからである。
 パウロは、このテーマで語る前に自分自身を「あなたがたの間にいて顔を 合わせているときには、おとなしいのに…」と自虐的に語る。彼は、「パウロ の手紙は、重みがあって力強いが…」(10)と批判する者へ皮肉を込めて答える。



No.893 - 6月29日: 「種を蒔く者の祝福」 コリント第2の手紙9章6節〜15節


(みことば)「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にと どまる」と書かれているようにです。」 コリント第2の手紙9章9節

 パウロは、献げる人の祝福の原理を「種を蒔く」譬えで「わずかだけ蒔く 者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。」と語る。
 種を蒔く時の自然法則は、そのまま霊的世界の神の祝福の原理に反映され る。種を惜しんで蒔かなければ収穫も乏しく、豊かに蒔くなら豊かな収穫を 期待できる。種蒔きは未来への投資であり、その人には、将来に希望がある。



No.892 - 6月22日: 「将来に望みはありますか」 ローマ人への手紙5章1節〜5節


(みことば)「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私達 に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」 ローマ人への手紙5章5節

 「将来に望みはありますか。」と尋ねられて、一体どれだけの人が、それ に自信を持って、「はい。私には望みがあります。」と答えられるでしょうか。
 出口の見えない戦争が世界各地に起こり、新たに始まる戦争のニュースを 聞くと、それは、もはや対岸の火事ではありません。物価高、米騒動、少子 化、高齢者の年金問題等、私達を取り巻く不安材料は枚挙に暇がありません。



No.891 - 6月15日: 「豊かに蒔く者となる」 コリント第2の手紙9章1節〜7節


(みことば)「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心 で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです。」 コリント第2の手紙9章7節

 パウロは、これまで「聖徒達を支える献金」について語って来たが、「聖 徒たちのための…奉仕については、これ以上書く必要がありません」と語る。
 パウロは、そのように語りながら、再び献金に関して私見を述べる。それ は、献金を募る働きにおいてコリント教会から期待を裏切られ、失望する事 がない為である。その為、彼は、念には念を入れ献金の準備について述べる。



No.890 - 6月8日: 「主の働きに献身した人」 コリント第2の手紙8章16節〜24節


(みことば)「私たちはテトスと一緒に一人の兄弟を送ります。この人は福 音の働きによって、すべての教会で称賛されています。」 コリント第2の手紙8章18節

 パウロは、マケドニアの諸教会の惜しみなく施す献金の熱意を伝え、コリ ントの教会も「この恵みのわざにあふれるようになってください」と願った。
 そこで、パウロは、コリントの教会で献金を募るために3人の兄弟を派遣 する。その一人はテトスであるが、テトスは、パウロが、既にコリントに派 遣した人物で、彼を通してコリント教会の悔改めの知らせを聞く事ができた。



No.889 - 6月1日: 「愛の献げ物による平等」 コリント第2の手紙8章8節〜15節


(みことば)「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人に も足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。」 コリント第2の手紙8章15節

 マケドニアの諸教会は「極度の貧しさの中にあっても…惜しみなく施す富 となり…聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたい」とパウロに懇願した。
 パウロは、これから訪問するコリント教会にも「この恵みのわざにもあふ れるようになってほしい」と嘆願する。但しそれは、人からの命令や強制で はなく、「自ら進んで…献げる」自発的な愛によるものでなければならない。



No.888 - 5月25日: 「献げる恵み」 コリント第2の手紙8章1節〜7節


(みことば)「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激 しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」 コリント第2の手紙8章2節

 パウロは、コリント教会にテトスを派遣し「涙の書簡」を送り、悔い改め を促したが、彼らはそれに答えて悲しんで悔い改めた。パウロは、それによ り「あなたがたに信頼を寄せることができる」と彼らとの信頼の回復を喜ぶ。
 パウロは、信頼の関係が回復したコリント教会に新しい主題「献金」につ いて語る。「マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを…知らせよう…」 それは、彼がコリント教会の訪問前にマケドニア教会で経験した恵みである。



No.887 - 5月18日: 「悔い改めの実」 コリント第2の手紙7章10節〜16節


(みことば)「見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、 あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。」 コリント第2の手紙7章11節

 パウロは、悔い改めと後悔の違いを、悔い改めは、「神のみこころに添っ た悲しみで救いに至る」が、後悔は、「世の悲しみで死をもたらす」と語る。 悔い改めは、心の転換であるが、後悔は、過去の過ちを悔いるだけで終わる。
 「後悔」の良い事例は、イスカリオテのユダの場合であるが、彼は、罪を 悔い改める事無く、祭司長達にイエスを売り渡し、その過ちを後悔して、首 を吊って死んだ。一方、「悔い改め」の事例は、コリントの信徒に見られる。



No.886 - 5月11日: 「救いに至る悔い改め」 コリント第2の手紙7章5節〜10節


(みことば)「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔 い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」 コリント第2の手紙7章10節

 キリスト信仰において、悔い改めは、救いの必須の要素であるが、パウロ は、後悔と悔い改めを区別し、悔い改めは、「神のみこころに添った悲しみ」 であり「救いに至る」が、後悔は「世の悲しみ」で「死をもたらす」と語る。
 パウロは、その結論に至るまでの状況について「マケドニアに着いたとき、 私たちの身には全く安らぎがなく…」と語る。それは、パウロが第2の手紙 を書く背景でもあり、彼はトロアスでテトスと会えずにマケドニアに向った。



No.885 - 5月4日: 「聖さを全うする」 コリント第2の手紙6章16節〜7章4節


(みことば)「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、 …一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようでは…」 コリント第2の手紙7章1節

 パウロは、コリントの「愛する者たち」に向けて、「このような約束を与 えられているのですから…」と勧めるが、それは、これまでの結論と言える。
 パウロは、これまで信者と不信者の違いを明確に語り、信者が不信者と安 易に交わり、調和し、共有し、一致することがないように警告した。それは、 信者にとって、誘惑となり、躓きとなり、聖さを失う危険があるからである。



No.884 - 4月27日: 「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19節〜31節


(みことば)「その日…ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来 られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 ヨハネの福音書20章19節

 ヨハネは、主の日の復活の朝に続いて、同じ主の日の夕方の出来事を記す。 今度は、マリヤだでなく、弟子ちが集まっている所にキリストが来られた。
 「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」弟子達は、ユダヤ人の迫 害を恐れて部屋に籠もっていたが、主は、彼らの真ん中に立たれる。死に勝 利された方は、墓石を取り除き、施錠された部屋にも簡単に入る事が出来る。



No.883 - 4月20日: 「私は主を見ました。」 ヨハネの福音書20章1節〜18節


(みことば)「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならない という聖書を、まだ理解していなかった。」 ヨハネの福音書20章9節

 ヨハネは、キリストの十字架の死の後に起こる主の復活の出来事を詳細に 記録している。キリストの生涯は、他の偉人の伝記と違い、死で終わらない。
 キリストの復活を最初に目撃し、証言したのは、マグダラのマリヤである が、彼女は「7つの悪霊を追い出してもらった人」と記され、ガリラヤから 従って来た女性であった。「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに…」



No.882 - 4月13日: 「神との一致と世との分離」 コリント第2の手紙6章11節〜18節


(みことば)「不信者とつり合わないくびきをともにしてはいけません。正 義と不法に何の関わりが…光と闇に何の交わりがあるでしょう。」 コリント第2の手紙6章14

 パウロは、この箇所で2つの異なるテーマに関して、前半は「宣教者パウ ロと教会との関係」について、後半は「信者と不信者の関係」について語る。
 前半の主題で、教会の信徒は、御言葉を語る説教者に対して心を開かなけ れば、御言葉の真実が届かない。後半の主題で、信者と不信者との関係にお いては、一線を隔するべきであり、同じくびきを負うべきではないと勧める。



No.881 - 4月6日: 「今は恵みの時、救いの日」」 コリント第2の手紙6章1節〜10節


(みことば)「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救い の日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」 コリント第2の手紙6章2節

 パウロは、コリントの教会の人々に「神とともに働く者として…神の恵み を無駄に受けないように」と勧めるが、それは、パウロの願いと言うより「神 と共に働く者」「キリストの使節」として、「神の意志と神の願い」を伝える。
 「神の恵みを無駄に受ける」とは、神の救いを無にする生き方を示す。私 達は、キリストの贖いにより、神の救いを無償で受け、神によって新しく造 られた者である。だから、それにふさわしい、神に喜ばれる生き方をしよう。



No.880 - 3月30日: 「神の和解を受け入れる」 コリント第2の手紙5章11節〜21節


(みことば)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。そ れは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」 コリント第2の手紙5章21節

 パウロは、「主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようと する」と語るが、それは全ての人が「主の裁きの座」の前に立つからである。
 救いの希望は、福音の宣教とキリストを信じる信仰以外にない。「私たち のことは、神の御前に明らかです。」パウロの宣教の姿勢は、明白であるが、 彼の望みは、「それが、あなたがたの良心にも明らかになること」であった。



No.879 - 3月23日: 「永遠の住まいの望み」 コリント第2の手紙5章1節〜10節


(みことば)「地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下 さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを…知っています。」 コリント第2の手紙5章1節

 パウロは、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を留めま す。」と語ったが、それは、特に神の存在や人間の魂や天の御国などである。
 パウロは、天の御国について、地上と天を比較して「地上の住まい」を「幕 屋」、天の御国を「人の手によらない永遠の住まい」と表現する。「幕屋」は、 イスラエルが40年の荒野の旅で使用した天幕(テント)の住まいの事である。



No.878 - 3月16日: 「地上の苦難と永遠の栄光」 コリント第2の手紙4章13節〜18節


(みことば)「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めま す。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」 コリント第2の手紙4章18節

 パウロは、「この宝を土の器の中に入れている」と語ったが、宝とは、「栄 光の輝きを放つ福音」であり、それが人間のような弱い器により証しされる。
 「私は信じています。それゆえに語ります。」詩篇の記者は「苦しみの中 に置かれても、信じている故に語らざるを得ない。」と神の言葉への情熱を 記す。「同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。」



No.877 - 3月9日: 「「神のしもべとして」 コリント第2の手紙4章5節〜12節


(みことば)「私たちはこの宝を土の器の中に入れています。それは、この 計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明 らかになるためです。」 コリント第2の手紙4章7節

 パウロは、栄光ある福音の務めを委ねられた者として、苦難の時も落胆す ることなく、「神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」姿勢を貫いて来た。
 パウロは、真実な宣教者として「自分自身を宣べ伝えるのではなく…キリ ストを宣べ伝える」と告白する。彼は、自己宣伝する者ではなく、人々が神 の言葉によってキリストを主と崇め、神の栄光を現わす者となるように導く。



No.876 - 3月2日: 「神のしもべとして」 コリント第2の手紙4章1節〜5節


(みことば)「それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、 それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。」 コリント第2の手紙4章3節

 パウロは、これまで、旧約の律法と対比しながら、新しい契約であるキリ ストの福音が、どれほど輝かしい栄光に満ちたものであるかを語って来た。
 彼は、その栄光に満ちた福音の働きに仕える者として「どのように生きる べきか」心構えを語る。まずパウロは「あわれみを受けてこの務めについて いる」と語るが、彼は、使徒として召され、主を証しする使命が与えられた。



No.875 - 2月23日: 「栄光から栄光へ」 コリント第2の手紙3章12節〜18節


(みことば)「モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆い がかっています。…人が主に立ち返るなら…その覆いは除かれます。」 コリント第2の手紙3章15,16節

 パウロは、「このような望みを抱いているので…きわめて大胆にふるまい ます」と語るが、それは「新しい契約に仕える」者に与えられる望みである。
 新しい契約の栄光は、モーセの時代のような消え去る栄光ではなく、それ より遥かに優れた栄光であり、キリストにより教会の内に輝いている。パウ ロは、その「望みを抱いているので…きわめて大胆に振るまいます」と語る。



No.874 - 2月16日: 「新しい契約に仕える栄光」 コリント第2の手紙3章1節〜11節


(みことば)「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き 記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。」 コリント第2の手紙3章2節

 コリント教会には使徒パウロに批判的な者も少なからずいたが、パウロが 第2の手紙を書く目的は、コリント教会との信頼の関係の回復の為であった。
 「私たちは、またもや自分を推薦しているのでしょうか。」教会の中には、 パウロに対し「自己推薦、自己宣伝している」と批判する人がいたのだろう。 裏を返して言うなら、彼らは、パウロを使徒として認めず、信頼していない



No.873 - 2月9日: 「芳しいキリストの香り」 コリント第2の手紙2章12節〜17節


(みことば)「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神 に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」 コリント第2の手紙2章15節

 パウロは、トロアスを経由してマケドニアに向かい、コリントを訪問した いと考えたが、彼にとって気がかりな事は、コリント教会との関係であった。
 彼は、既にコリント教会を緊急に訪問し、罪を犯した者を厳然と処罰した が、その為に、彼の訪問は、彼にっても教会にとっても悲しみとなった。彼 の三度目の訪問が、そうならないように、涙の書簡をテトスに託して送った。



No.872 - 2月2日: 「愛の従順が試される」 コリント第2の手紙2章1節〜11節


(みことば)「あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもた らすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。」 コリント第2の手紙2章3節

 コリント第2の手紙は、牧者であるパウロの教会に対する痛みや苦悩が随 所に現われているが、その原因は、教会に起って来た様々な罪の問題による。
 教会は、主によって罪を赦され、聖なるものとされているが、罪を赦され ても、尚、罪人の集まりである。パウロは、既に第1の手紙でも教会の様々 な問題を述べて来たが、彼がエペソに滞在していた時に新たな問題が起こる。



No.871 - 1月26日: 「真実と偽りの言葉」 コリント第2の手紙1章15節〜24節


(みことば)「神の真実にかけて言いますが…私たちのことばは、「はい」で あると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。」 コリント第2の手紙1章9節

 パウロは、「この確信をもって、私達はまずあなたがたのところを訪れ…」 と語っているが、その確信とは、手紙を読む兄弟達が、それを神の言葉と理 解し、主イエスの日に互いを誇り、完全に理解し合える」との確信である。
 彼は、その確信に立って、彼らが「恵みを二度得られるようにと計画」を 立てた。それは、「船で直接コリントに行き、そこからマケドニヤに赴き、 再びコリントに戻り、彼らに送られてユダヤに行く」という計画であった。



No.870 - 1月19日: 「試練の中で信仰が試される」 コリント第2の手紙1章8節〜14節


(みことば)「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせて くださる神に頼る者となるためだったのです。」 コリント第2の手紙1章9節

 パウロは、序文の差出人の紹介と祈りの後で「慰めと苦難」について語り、 その具体的な経験を「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生き る望みさえ失うほど」で、「死刑の宣告を受けた思いでした」と告白する。
 私達は、人生の中で「生きる望みさえ失う」程の絶望的な経験をする事は 余りないが、パウロは、エペソでアルテミス神殿を巡る暴動に巻き込まれる 経験をする。それは、彼がキリストの宣教を熱心に行って来た結果である。



No.869 - 1月12日: 「キリストの苦難と慰め」 コリント第2の手紙1章1節〜7節


(みことば)「神は、どのような苦しみの時にも、私達を慰めて下さいます。 それで私達も、…苦しみの中にある人達を慰めることができます。」 コリント第2の手紙1章4節

 パウロは、エペソでコリント第1の手紙を書き記したが、その後、マケド ニヤを通ってコリントに行く前に、この第2の手紙を書き記す必要が生じた。
 それはコリント教会との緊張関係の為であり、その回復の為にテトスを派 遣するが、彼と会えぬままマケドニヤに向い、そこでこの手紙を書き記す。



No.868 - 1月5日: 「主の教会を形作る人々」 コリント第1の手紙16章10節〜24節


(みことば)「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、 強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」 コリント第1の手紙16章13,14節

 パウロは、手紙の最後の挨拶文の中で、コリント教会に関わる多くの人々 の名前を記しているが、その人々は、コリントの教会を形作った人々である。
 その第1はテモテである。パウロはコリント教会を訪問する前にテモテを 教会に派遣する。その際、彼が教会で「心配なく過ごせるように」と願う。 それは、彼がパウロの使者として「主のみわざに励んで」いたからである。



元日・新年特別号 - 1月1日: 「主を求める一年」 使徒の働き17章22節〜31


(みことば)「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、 天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。」 使徒の働き17章24節

 パウロは、アテネの町で福音を宣べ伝えていたが、その町の哲学者たちが、 彼の話に興味を示し、彼は、アレオパゴス(評議所)で演説することになる。
 パウロは、まず、第1に、アテネの人々が「宗教心にあつい方々」である と評価している。人は、誰ひとり例外なく「宗教心」を持っている。それは、 人が神に似せて造られているからであり、それは、人が神を慕う心と言える。