2025年の説教
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No.919 - 12月28日: 「不法の者の到来」 テサロニケ第2の手紙2章1節〜7節 |
(みことば)「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者
を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。」
テサロニケ第2の手紙2章6節
テサロニケの手紙のテーマの一つは、「世の終わり」即ち「終末に起こる
出来事」に関してであるが、特にそれは「主の再臨」に関連した事柄である。
「さて兄弟たち。…キリストの来臨と…集められることに関して…」パウロ
は、「主の再臨」と「聖徒達が集められる」事に関して、既に、前回の手紙で
述べた。その時、聖徒達は、「…引き上げられ、空中で主と会う」(4:17)事になる。
パウロは、主の再臨に関して「霊によってであれ…主の日がすでに来たか
のように」と騙る偽りの言葉に惑わされないよう注意を促す。「主の再臨」は、
将来に起こる事であり「イエスは…見たのと同じ有様で…」天から再臨される。
悪魔はあらゆる手段を用いて聖徒達の信仰を惑わす。「霊によって…」その
霊が神からのものかどうか良く吟味すべきである。「ことばによって…」言葉
巧みに人を騙す詐欺が横行している。真実な神の言葉に信頼すべきである。
「手紙によって…」パウロの名を騙る者が多く現れ、人々を惑わした。この
世には、似て非なるものが沢山ある。キリスト教を真似た宗教は五万とある。
だが、神の言葉によらない信仰は、風と波に揺れ動く舟のように翻弄される。
パウロは、「どんな手段によっても、誰にも騙されないように」と注意を
促す。主の日が来る前に、人類の歴史に必ず起こる出来事がある。「まず背教
が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない…」
「背教」と訳された言葉は、「政治的・軍事的な反乱」を意味し、旧約で
は「主に対する反逆」の意味で使われている。即ち、主の再臨の前に、神に
敵対する勢力が現れ、その首謀者となる人物、即ち「不法の者」が登場する。
「不法の者」とは、「神の律法や定めに背き、それを無視する者」の意味で
あり、彼は、同時に「滅びの子」と呼ばれているので、その人物は一時的に
世界を支配し、神に反旗を翻すが、最後は神により滅びが定められている。
「不法な者は、すべて神と呼ばれるもの…に対抗して自分を高く上げ…神
であると宣言して、神の宮に座る…」彼は、政治的権力を握り、世界を制覇し、
宗教的力を用いて神のように尊大に振る舞う。悪魔が彼に権威を授けている。
彼は、黙示録に登場する「獣」であり、即ち反キリストである。「神の宮に座
る」とは、エルサレム神殿と思われるが、やがてエルサレム神殿が再建される
だろう。ダニエルは、「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つ」と預言した。
パウロは、「不法の者の到来の時期」について語る。「その定められた時に現
れるようにと、今は…引き止めているものがある…」第1に、不法の者の到来は、
神の定めと計画に基づいており、神の許しがなければ、それは起こらない。
第2に、今彼が現れないのは、彼を「引き止めている力」が働いているからで
ある。「引き止めているもの」とは、次の「今引き止めている者が取り除かれる
時まで」と合せて考えると「教会に与えられた聖霊の力と働き」と理解できる。
聖霊は、信者の新生だけでなく、社会の罪を抑制し、福祉を向上させる等一
般的な働きもある。聖霊が取り除かれる時、即ち、信者が天に上げられる事に
より、この地上に悪の抑制が無くなり、一挙に独裁者の台頭を許す事になる。
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No.918 - 12月21日: 「救い主の誕生と栄光」 ルカの福音書2章1節〜20節 |
(みことば)「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに
なりました。この方こそ主キリストです。」
ルカの福音書2章11節
ルカの福音書は、キリストの誕生を記す唯一の書簡であるが、著者は、キ
リストの誕生を「この世の王と神の国の王」との対比の中で、それを語る。
キリストの誕生の際、世界の支配者は、皇帝アウグストゥスであった。彼
の名は、オクタヴィアヌスだが、アクグストゥスは、元老院から受けた初代
ローマ皇帝の称号である。キリストとは、救い主の称号で、イエスと呼ばれた。
マリヤは、既に聖霊によって身籠り、ヨセフもその事実を信仰によって受
け入れ出産の準備をする。だが、その直前に皇帝アウグストゥスから住民登録
の勅令が出され、彼らはナザレから出身地ダビデの町ベツレヘムへ旅をする。
それは、彼らにとって突然の出来事で、身重のマリヤには辛い旅となった。
だが、キリストがベツレヘムで誕生する事は、主の約束とご計画に基づく事
であった。「ベツレヘム…あなたから…イスラエルを治める者が出る。」(ミカ5:2)
神を信じる者は、苦難の中においても、神のご計画の内を生きており、そこ
には、確かな導きがある。だから、動揺したり失望する必要はない。人類の歴
史は、キリストの誕生(西暦)を起源とし、神の国の完成に向かって進んでいる。
「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。…飼葉桶に寝かせた。」何
故、キリストは、飼葉桶に寝かされたのか。それは、「宿屋には彼らのいる
場所がなかった」からである。宿屋は、住民登録の為の帰省客で満室であった。
能力と財力のある者が先に部屋を確保し、力のない弱い者は、そこから締
め出される。この世は、愛のない非情な世界である。だが、天の御国の栄光
を受け、神の国の王となる方が、最も貧しい所に下り、飼葉桶を産屋とされる。
そこは、この世のどんな豪華な宮廷より神の栄光で満ちている。教会は、権
力も財力もない貧しい者の集まりだが、そこには、主の恵みとまことがある。
キリストの誕生は、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼い達に
知らされる。羊飼いと羊の群れは、神と神の民を象徴している。「主は、私
の羊飼い。私は乏しいことがありません。」教会は、神の民の群れである。
神は、小さな貧しい群れ(教会)を主の栄光で照らされる。その牧者はキリスト
である。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
御使いは、彼らに「大きな喜びを告げ知らせます」と語る。直訳すると「福
音を宣べ伝える」であるが、それは、教会に与えられた使命である。「喜び
の知らせ」とは、「今日ダビデの町で…救い主がお生まになりました。」である。
ユダヤ人は、長年メシヤの誕生を待望して来たが、それが「今日」実現す
る。即ち、彼らにとって「今日」は、救いの記念日である。同様に「今日」キ
リストを救い主と信じるなら、その人には、罪の赦しと神の救いが実現する。
救いのしるしは「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」である。キ
リストは、貧しい彼らの為に、神の栄光の全てを捨てて地上に下り、宮廷では
なく、家畜小屋で生まれ、十字架の死によって神の民を罪から贖い出された。
「栄光が神に…地の上に平和が…」主に贖われた者は、神との平和を持ち、
主の栄光の為に生きる者となる。彼らはベツレヘムを巡って幼子を見出した。
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No.917 - 12月14日: 「神の審判と聖徒の証し」 テサロニケ第2の手紙1章8節〜12節 |
(みことば)「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わ
ない人々に罰を与えられます。」
テサロニケ第2の手紙1章8節
キリスト者が苦難の中でも忍耐して信仰を保つ事が出来るのは、神の正し
い裁きがあり、やがて、キリストが天から現れる事を知っているからである。
冒頭の御言葉は、「神の正しさ」が全ての人に証明される「神の審判」の
時に実現する。それは、世の人にとって聴き辛い、或いは、聞きたくないと
思える言葉であるが、それは神の義に基づく、神のご計画による定めである。
「神の正当な裁きがある」のは、人間が神によって「神に似た性質を持つ道
徳的な被造物として創造されている」からである。人間は、他の動物と違って
理性、道徳性、宗教性を備え、人格性や自由性を持つ存在として造られている。
だが、人間はアダムの違反以降、全ての人が罪の性質を持って生まれ、神
に背き、神を神として崇めず、感謝もせず、偶像を神として拝むようになる。
その結果、人類の歴史が物語るように、罪の渦巻く世界となってしまった。
神の裁きの対象の第1は「神の知らない人々」である。それは、神に対す
る無知によるが、それは、日本人一般について言える。多くの人は、創造者で
ある神を知らず、神社、仏壇、神棚などの偶像を作り、それを神と信じている。
それは、人々がまことの神を知らないからであるが、知らないからと言っ
て、それで無罪になる訳ではない。人は、社会の法律に違反すれば処罰を受け
る様に、創造者である神の定めに従わなければ、罰を受けるのは当然である。
神の裁きの対象の第2は「福音に従わない人々」である。これは、知識以
上に意志や行動を問われている。彼らは、多くのユダヤ人の様に福音を聞い
ていながら、故意にそれに反抗する。神の刑罰の時、彼らに弁解の余地はない。
従って、神を知らない人々にも、福音に従わない人々にも神の刑罰が下る。
原語の8節冒頭には「燃える炎の中で」とあり、それは、神の刑罰の状況を
示す修飾語であり、それは「永遠の滅びという刑罰」を表していると言える。
神を知らない者や神に逆らう者が「永遠の火の刑罰を受ける」と知ってい
るなら、愛する家族や知人がそのような悲惨な末路を辿らないように、たとえ
伝道が困難でも、福音を伝える努力をし、彼らの救いの為に祈るべきである。
「その日に主イエスは来て…感嘆の的となられ…」神の審判は、主イエス
の来臨と共に実現し、不信者への審判が下され、信者には永遠の安息が与え
られる。その時キリストは、全ての人に主として崇めれ「感嘆の的」となる。
彼らは、パウロの福音の証言を受け入れた。「あなたがたは信じたのです。」
パウロは、彼らに、これ迄「世の終わり」「神の裁き」「キリストの来臨」と
「信者の安息」を語って来たが、それは、世の人には愚かと思える事ある。
パウロは「神が…召しにふさわしい者にして下さるように」と祈る。「婚礼
の披露宴を催した王」(マタイ 22:1~14)の譬えの中で、「礼服を着ていない」一人
の人は、外に締め出される。礼服とは、聖徒に相応しい装い、生き方と言える。
第2に、パウロは、「御力によって、善を求め…信仰から出た働きを実現し
てくださるように。」と祈る。「道徳的善と宗教的事柄において、神の御旨を
行い、神の栄光と証しになるように。」それが、私達の生きる目的である。
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No.916 - 12月7日: 「神の正当な裁きと報い」 テサロニケ第2の手紙1章1節〜7節 |
(みことば)「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、
報いとして苦しみを与え…あなたがたに…安息を与えることです。」
テサロニケ第2の手紙1章6,7節
パウロは、テサロニケ第1の手紙に続き、「パウロ、シルワノ、テモテ」の3
人から教会に宛てて第2の手紙を書き送るが、それは、ユダヤ人の迫害によ
って離れざるを得なかったテサロニケの聖徒の信仰を励ますためであった。
パウロは、テモテから「苦難の中で堅く信仰つ」彼らの信仰を聞いて、「恵み
と平安が…あるように」と祈り、再度、苦難の中にある者を励まし、気落ちした
者を慰め、怠惰な者を戒め、終わりの日に来る不法な者に備える様に勧める。
「私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。」
パウロは、彼らの信仰に関し、神に感謝するのが当然の義務のように語る。世
の人は、神の恵みに対し、神を崇めず感謝もしないが、それは当然ではない。
パウロは、異教の地でも、彼らの「信仰が大いに成長し…愛が増し加わってい
る」事を神に感謝する。植物が自然の恵みによって成長する様に、彼らの信仰
は、健全な霊と御言葉の養いと神の恵みにより目を見張る程の成長を遂げる。
第2に「愛が増し加わっている」事であるが、愛の対象は、「教会の交わり」
と「一人ひとりの互いに対する」ものである。信仰の成長と愛を切り離して考
える事は出来ない。信仰は、「教会の交わり」と兄弟愛を土壌として成長する。
「神の諸教会の間で…誇りに思っています。」パウロは、人に対して「誇りに思
う」と余り言わないが、それは伝道者パウロが、どれ程、「彼らの信仰を喜んで
いたのか」を物語る。私達の信仰は、「神の喜びと誇りになっている」だろうか。
パウロが彼らを誇りに思うのは、彼らが「あらゆる迫害と苦難に耐えなが
ら、忍耐と信仰を保っている」からである。信仰と愛が分離できないように、
「信仰と忍耐」或いは「苦難に耐える」事は、切り離す事が出来ない要素である。
「敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受ける」妥協すれば、安泰でいら
れるが、それでは、神への誠実さが失われる。「信仰」(ピスティス)は「誠実」とも訳
せる。苦難に耐え、神への誠実さを保つなら、神も勝利と力を与えて下さる。
「それは、…神の正しいさばきがあることの証拠です。」「信仰に伴う苦難や
迫害が起こる」事は、「神の正しいさばき」の証拠となる。「証拠」は、「兆候」
「兆し」の意味なので、それは、神が人間に為される将来の審判を意味する。
将来、神の裁きは、必ずあるが、その前に、神に敵対する者の迫害が必ず起
る。それは、神が忍耐して裁きの時を待っておられる証拠である。「ノアの
時代の洪水」「ソドムの滅び」「エジプトへの裁き」が、その歴史的実例である。
それは、聖徒達が「神の国にふさわしいものと認め」られる為であり、彼
らが「苦しみを受けているのは、この神の国のため」である。今の時代が、
悪魔の支配する世界であるなら、キリスト者が迫害を受けるのは当然である。
神の正義は、「苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、…苦しめられて
いる」者には、「報いとして安息を与える」事である。義なる神は、人に正当な
報いを求める。「罪から来る報酬は死です。…神の賜物は、…永遠のいのちです。」
信仰に生きる者は、やがて「報いとして安息」を与えられる。それは、「主イ
エスが…天から現れる」時に起こる。その日、神に逆らう者への審判が下る。
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No.915 - 11月30日: 「聖なる者として」 テサロニケ第1の手紙5章23節〜28節 |
(みことば)「平和の神ご自身が…完全に聖なるものとしてくださいますよ
うに。…責められるところのないものとして保たれていますように。」
テサロニケ第1の手紙5章23節
パウロは、これまで苦難の中に歩むテサロニケの聖徒達の信仰を励ます為
にテサロニケ第1の手紙を書いて来たが、その最後の締め括りの言葉となる。
パウロは、この手紙を書き終わるに当たり2つの事を祈る。その第1は、
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますよ
うに」という祈りである。「聖なる者となる」事は、この手紙の主題でもあった。
「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」(4:3)「聖な
る者となる」とは、第1義的に「神により聖別される」の意味があり、第2
義的に「自分のたらだを聖く保つ」等の生き方や倫理が問われる言葉である。
しかも、「完全に」とあるように、主は、聖徒達に高い水準での高潔さを
求めておられる。ノアは、「彼の世代の中にあって全き人であった。」とある
が、それは、この世に染まらず、純粋な神信仰に生きる敬虔な人を意味する。
又、「平和の神ご自身」とあるように、神は、罪に対して義をもって裁き
を下すが、同時に、主は、憐れみ深く、神の救いを求める者に対して恵み深
い方である。主はキリストによって神との平和と救いの道を備えて下さった。
第2の祈りは、「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが…保たれ
ていますように。」である。「来臨のとき」とは、この手紙のもう一つの主題で
あるが、それは、「主が目に見える姿で再び天から来られる」時の事である。
それは、主によって始まる完成された神の国の到来を意味するが、その日、
人は、この地上での生き方を問われる。「霊」は、神と交わる永遠性を持ち、
「たましい」は、人間のいのちの根源であり、「からだ」は、肉体を表す。
パウロは、主の来臨の時に彼らの「信仰、聖さ、生き方」が、主の前に責め
られる事がないように祈る。「そら。花婿が来た。」という声を聞いて、ともし
びと一緒に油を用意していた賢い娘のように、主の来臨の時の備えをしよう。
パウロは、「祈った事が実現する」と確信している。「あなたがたを召され
た方は真実ですから…」その祈りの確かさは、神の真実さに基づいている。神に
信頼する人は、苦難の時も、先の見えない暗闇の時も、決して希望を失わない。
最後にパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」と彼ら
に祈りを要請をする。福音宣教は、個人的な働きではなく、神が教会に与え
た使命である。宣教の働き人の為に祈る友がいなければ、それは実現しない。
第2の要請は、「すべての聖徒たちに、聖なる口づけをもってあいさつを
しなさい。」である。「聖なる口づけ」は、儀礼的な単なる挨拶ではなく、主に
ある者同士の愛の交わりを表している。聖徒達の愛の交わりを大切にしよう。
パウロは、手紙の最後に「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせる
よう…主によって堅く命じます。」と記す。この手紙は、単に「一教会に宛て
て書かれた」と言うより、全ての人に読まれる普遍性を初めから有していた。
教会は、霊感された神の言葉をしっかりと守り、後世に伝える責任がある。
パウロは、「主キリストの恵みがあなたがたとともにありますように。」と祈っ
てこれを書き終わる。主の恵みは、口を大きく開けて求める者に与えられる。
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No.914 - 11月23日: 「信仰に欠かせない資質」 テサロニケ第1の手紙5章16節〜22節 |
(みことば)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに
おいて感謝しなさい。これが…神が望んでおられることです。」
Tテサロニケ5章16〜18節
パウロは、キリストを信じた者が健全な信仰を保って歩む為に必要な姿勢
として「喜んでいる」こと、「祈る」こと、「感謝する」ことを勧めている。
パウロは、これら3つの要素を含めて「これが、キリスト・イエスにあっ
て神があなたがたに望んでおられることです。」と語る。従って、もし信仰
の歩みにおいて、これらの点で欠けているなら、改める努力をすべきである。
その第1は「いつも喜んでいなさい。」であるが、それは、信仰に生きる
者に欠かせない大切な資質と言える。それは、信仰による「神との関係の回
復」即ち「心の平安」から来る。救いを与えられた者は、心に常に喜びがある。
私達を取り巻く状況は、必ずしも喜ばしい事ばかりではなく、そこに苦悩
や苦難も多くある。だが、主にある喜びは、苦難を超えたもので、それは、決
して消えない。「喜ぶ」(カレオー)は、「感謝」「恵み」「賜物」の語源でもある。
第2の勧めは「絶えず祈りなさい。」であるが、これも信仰生活を保つ為
に欠かせない要素である。それは、神から与えられた恵みの賜物であり、キ
リストの救いによる「神との関係の回復」がなければ、祈る事さえできない。
祈りには、「感謝、悔改め、嘆願、導きを求める」等、様々な要素があるが、い
ずれにしても、祈りは、神との関係を深める唯一の手段である。祈らなければ、
神と繋がる事ができない。「絶えず」とは、「止めない。」「続ける」の意味である。
第3の勧めは、「すべてのことにおいて感謝しなさい。」であるが、「すべ
てのこと」とは、その良し悪しに関係なく、「過去に起った全ての出来事」を
意味し、その時の姿勢が試される。主は、世界の全てを支配する主権者である。
パウロは、テサロニケの信徒が苦難の中で堅く信仰に立つ姿を見て「どれほ
どの感謝を神にお捧げできるでしょうか。…そのすべての喜びのゆえに。…熱心
に祈っています。」(3:9~10)と語った。これこそ、主が望まれる生き方である。
次にパウロは、キリスト者が「喜びと祈りと感謝」を持って生きる為に必
要不可欠な要素を語る。その第1に、消去的な言い方で「御霊を消してはい
けません。」と勧める。御霊とは、救われた者に与えられる聖霊の事である。
「消す」とは、蝋燭の灯火が消えるような譬えであるが、信仰を持った事
で、御霊の火が灯っていたのに、その火が消えかけてしまう。主は、「あなたが
たは、世の光です。」と言われた。その火を消さない為に何をすべきだろうか。
「賢い娘と愚かな娘の譬え」(マタイ 25:1~13)のように、灯火を灯し続ける
為に油が必要である。その油とは、「主の日の礼拝」「聖徒の交わり」「祈りとみ
言葉による神との個人的な交わり」等であり、それを欠かさない事である。
第2は「預言を軽んじてはいけません。」だが、「預言」は、神の言葉、或
いは、説教と言える。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリスト
についてのみことばによる」とあるが、信仰は、神の言葉によって養われる。
「ただし、すべてを吟味し…」とは、ただ、それを鵜呑みにするのではなく、
真偽を見分け咀嚼すべきである。「良いものはしっかり保ちなさい。」福音を
堅実に保ち、悪魔の策略を警戒し「あらゆる形の悪から離れ」るべきである。
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No.913 - 11月16日: 「神の民の群れとして」 テサロニケ第1の手紙5章12節〜15節 |
(みことば)「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な
者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」
Tテサロニケ5章14節
パウロは、「主の再臨」と「世の終わり」に関して述べて来たが、キリス
ト者が、終末に向かってどのように生きるべきかを語り、この手紙を閉じる。
その第1は、教会の聖徒達と指導者との関係についてである。教会の指導
者は、「羊の群れの牧者」の意味で牧師と呼ぶ。パウロは、宣教地において
教会の指導者となる牧師を立てた。「教会ごとに長老たちを選び…」(使徒14:23)
パウロは、兄弟達に「あなたがたの間で労苦し、…指導し、訓戒している
人たちを重んじ…」と勧める。教会には、必ず群れを導く牧者が必要である。
牧者は、第1に主の働きの為に労苦している人でなければならない。パウ
ロは「あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。」(2:9)と語っ
た。それ故、聖徒達は、主の働きの為に召された牧者を重んじるべきである。
第2に彼らは、「主にあって、あなたがたを指導し、訓戒している人たち」
である。彼らは、主の権威を委ねられ、神の群れを指導し訓戒する。彼らは、主
の代弁者であり、神の預言者である。その指導と訓戒に従う者は幸いを得る。
「その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。」それ
は、聖徒達にとっても霊的な益となる。「お互いに平和を保ちなさい。」指導
者との間に愛と平和の関係があれば、健全な教会の交わりを築く事が出来る。
次にパウロは、兄弟同士の関係について語るが、その第1は「怠惰な者を
諭し」と勧める。「怠惰な者」とは、軍隊用語で「隊列を離れた者」の意味であ
り、それは、主の定めた聖なる秩序から離れて生きようとする者の事である。
信仰から離れかけた人を諭し、主の交わりに連れ戻す働き人は幸いである。
教会の指導者にとって、このような霊的な働きほど、助けとなることはない。
第2は「小心な者を励まし、」であるが、「小心な者」とは、「気の小さい、
臆病な」の意味である。小心な者は、苦難や迫害があると勇気を失い、信仰
に立てなくなる。パウロは、彼らが動揺しないように死者の望みを語った。
第3は、「弱い者の世話をし」である。「弱い者」とは、霊的な意味で、「弱
った人」「気落ちした者」を指す。パウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさ
い。」と語った。「世話をする」とは、「〜に代わって持つ」の意味がある。
イスラエルの民は、40年の荒野の旅において、強い者が弱い者の荷物を
代わりに負って旅を続けたはずである。そこに、神の民の群れの本質がある。
第4は、「すべての人に対して寛容でありなさい。」である。「寛容」は、「怒
りから遠く離れる」の意味であるが、怒りを収める秘訣は、神との祈りにあ
る。私達は、祈りを通して、怒りの感情を収め、神からの平安を与えられる。
最後に、「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ…」と勧める。
それは、教会以外の全ての人が対象である。主は、ユダヤの律法の規準より
遥かに高く、「自分の敵を愛し…迫害する者のために祈りなさい。」と命じた。
「すべての人に…善を行うように務めなさい。」それは、「善を追跡する」
と言う意味で、「迫害する」の意味もある。パウロは、以前、教会を迫害し、キ
リスト者を追跡した者だが、今は、主により善を追い求める者に変えられた。
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No.912 - 11月9日: 「主の日に備える」 テサロニケ第1の手紙5章1節〜11節 |
(みことば)「人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの
苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。」
Tテサロニケ5章4節
パウロは、「主の来臨」の出来事に続き「世の終わり」に関して述べる。
彼らは、「それがどのように来るか」を書く必要が無いほど良く知っていた。
「主の日は、盗人が夜やって来るように…」「主の日」とは、「主の復活を
記念する日」の他に、旧約で「世の終わり」「神の審判の時」を表現してい
る。「主の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」(ヨエル1:15)
それは、「盗人が夜やって来るように来る」事を知らなければならない。
キリストも「用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」(マ
タイ 24:44)と警告された。主の日は、人々が油断している時に突然やって来る。
「主の日がいつ来るのか」を断言はできない。「その時がいつなのか、誰
も知りません。天の御使いも子も知りません。」(マタイ24:36)だが、「人々が「平
和だ、安全だ」と言っているとき…突然の破滅が彼らを襲います。」とある。
人々が「平和だ、安全だ」と言っている言葉は、寧ろ、人々の「不安の裏
返し」とも言える。エレミヤは、滅びが間近に迫る人々が「平安がないのに、
『平安だ、平安』と言っている。」(エレミヤ6:14)と人々の偽りの幻想を暴いた。
主の日は、「妊婦に産みの苦しみが臨むように」やって来る。妊婦にとっ
て出産は、命が誕生する希望の日であるが、妊婦は、その前に「産みの苦しみ」
を経なければならない。この世界も同様に、苦難を通って神の国が完成する。
「あなたがたは、暗闇の中にいないので…」聖徒達は、たとえ、世の終わ
りが来ても、そこに救いの望みがある。私達は、「暗闇」即ち、悪魔の支配
の中にいるのではなく、「光のこども」として神の支配の中に生きる者である。
だから、暗闇が私達を覆い、滅びが私達を襲う事はない。キリストは、ま
ことの光として世に来られ、神の民を照らされる。「エジプト全土は…真っ暗
闇となった。しかし、イスラエルの子ら…には…光があった。」(出エジプト10:23)
「ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んで…」世
の人は、霊的な事柄に無関心であるが、私達は、油断せず、目を覚ましてい
なければならない。「眠っている」とは、霊的、倫理的な鈍感さを意味する。
「目を覚ます」は、霊的覚醒を意味し、「身を慎む」は、倫理的敬虔さを
勧める。「身を慎む」は「酒に酔わない」の意味がある。「眠る者は、夜眠り、
酔う者は夜酔う」聖徒達は、「暗闇の子」ではなく、「昼の子ども」である。
最後にパウロは、信仰を「戦いの武具」に譬えて語る。第1に「信仰と愛
の胸当てを着け」とあるが、人は、からだの急所である胸(心臓)を防御する必
要がある。信仰が崩れ、神への愛を失えば、その人自身は、いのちを失う。
次にパウロは、「救いの望み」を「かぶと」に譬える。戦国の武将は、独自な紋
章を象った兜を被った。「救いの望み」は、聖徒と世の人を区別する紋章で
ある。私達は、御怒りを受ける子らではなく、主の御救いに預かる者である。
「主が…死んでくださったのは、私たちが…主とともに生きる」為である。
それは、「目を覚ましていても」生きている時も、「眠っていても」死んだ後
も、変わる事がない。私達は、この望みを持って、互いに励ま合い、高め合おう。
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No.911 - 11月2日: 「主の来臨の時まで」 テサロニケ第1の手紙4章9節〜18節 |
(みことば)「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きと
ともに、主ご自身が天から下って来られます。」
Tテサロニケ4章16節
パウロは、テサロニケの聖徒達に「神に喜ばれる歩み」と「神のみこころ
にかなう生き方」について勧め、その第1は「聖なる者となる」事であった。
聖徒達の第2の特徴は「兄弟愛」の実践であるが、「兄弟愛」(フィラデルフィア)
は「キリスト者相互の愛」を示し、パウロは「兄弟愛をもって互いに愛し合
い」(ローマ 12:10)と命じ、主も「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と命じた。
彼らは、パウロが「兄弟愛」について書き送る必要が無いほど「互いに愛
し合うことを神から教えられ…実行して」いた。「彼らの喜びと極度の貧しさ
は…試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富」(Uコリント8:2)となった。
聖徒達の第3の特徴は、「自分の仕事に勤勉なこと」である。「落ち着いた
生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くこと…」たとえ、世の終わりが
近くても、キリスト者は、今与えられている仕事を誠実に果たすべきである。
マルティン・ルターは、「たとえ、明日、世界が終るとしても、私は、今日、林檎の
木を植える」と語った。それは、第1に「外の人々に対して品位をもって歩
む」為である。敬虔な神の人は、誠実な働きと生き方を通して神を証しする。
第2に、それは「だれの世話にもならずに生活する」為である。他の人に
依存する生き方ではなく、経済的に自立し、他者を支援できる生き方をする
べきである。主は、神に信頼する者を養い、その不足を必ず満たして下さる。
聖徒達の第4の特徴は、「死後に望みを持っている」事である。パウロは、
それを最も重要な事として強調する。「あなたがたが、望みのない他の人々の
ように悲しまないためです。」逆に世の人は、死後に何の希望も持っていない。
「眠っている人たち」とは、既に、主にあって召された(死んだ)兄弟たち」
を指している。その人々の魂は、無になったのでも、滅びたのでもない。キ
リスト者の死は、死で終わることなく、やがて主にあって目覚める時が来る。
その点で世の人には、何の希望もない。多くの人は、死んだら誰もが「天
国に行ける」と考えるが、その根拠は何処にもない。天の御国が神の創造に
よる聖なる場所なら、主の贖いを受けた者以外、誰もそこに入る資格はない。
その根拠は、キリストの死と復活にある。「イエスが死んで復活された…
と信じているなら…」主は、再臨される時、牧者が羊の群れを導くように「イ
エスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られる」はずである。
「生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら…」主の再臨の時、
地上に生きている者は、眠った人たちより先になることは決してない。「号
令と…神のラッパの響きと共に…まず、キリストにある死者」がよみがえる。
「それから、生き残っている私たちが…雲に包まれて引き上げられ、空中
で主と会う」エノクは、神に取られていなくなり、エリヤは、竜巻に乗って
天に上って行った。同様に、主にある聖徒達は、主の御元に引き上げられる。
「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」主に贖
われた者は、罪も死もない世界で、永遠に神と共に生きる者となる。ここに福
音の奥義と慰めがある。「これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」
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No.910 - 10月26日: 「敬虔な者の喜び」 「神の救いの計画と福音の希望」 |
(みことば)「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシ
ア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」
ローマ人への手紙1章16節
神は、天地万物を6日間で創造され、又、最後に、被造物の中で、神に似
た性質を持つ特別な存在として人間を創造された。「はじめに神が天と地を
創造された。」(創世記1:1)「神は、人をご自身のかたちとして創造された。」(1:26)
人間は、神に似せて造られているので価値があり、他の被造物にはない、
神の霊(魂)を与えられている。「主は…人を形造り、その鼻にいのちの息を吹
き込まれた。」(2:7)それ故、人間は、社会性を備えた道徳的な被造物である。
神は、最初の人アダムをエデンの園に置き、そこを守らせた。又、神は、
人に「善悪の知識の木からは、食べてはならない。」と命じ、その戒めを破
る時「必ず死ぬ」と警告した。人間は神の命令に従う時に幸い(いのち)を得る。
だが、アダムとエバは、蛇に欺かれ、神の戒めに背いて罪を犯し堕落する。
その結果、人間は、神との正常な関係を失い、罪の性質を持ち、エデンを追放
される。「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)
全ての人は、アダムの違反により、罪ある者として生まれ、創造者であ
る神を崇めず、感謝もせず、おのおの自分勝手な道に進んで行った。その行
き着く先は、滅びである。「滅びに至る門は大きく、その道は広く…」(マタイ7:13)
だが、神は、罪と死に支配された人類の為に、神による救いの道を準備さ
れた。それは、神の御子イエス・キリストが人となってこの世に来られ、人
類の罪を贖う為に十字架の上で身代わりの刑罰を負う事によって成就する。
キリストは、御力により悪魔の業を打ち滅ぼし、アダムの違反によって人
類に入った罪を贖い、三日目に墓からよみがえり、最後の敵である死を滅ぼ
された。「彼は、おまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)
キリストを信じる者は、主の十字架の贖いと復活により、誰でも罪を赦さ
れ、義と認められ、永遠のいのちを与えられる。神の救いは、ユダヤ人だけで
なく、神を信じる全ての民に及ぶ。「異邦人はこの方に望みを置く」(ローマ15:12)
神は、宣教の御業をユダヤ人ではなく、教会に委ねられた。「わたしはこの
岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはでき
ません。」(マタイ 16:18)「神の家とは、…生ける神の教会のことです。」(Tテモテ 3:15)
キリストは、天に戻る前に弟子達に命じた。「あなたがたは行って、あら
ゆる国の人々を弟子としなさい。父・子・聖霊の名において彼らにバプテスマ
を授け、…命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:19)
その後、教会は、主の命令通り、約束された聖霊により力を与えられ、「エ
ルサレム、ユダヤとサマリヤ全土…地の果てまで」(使徒 1:8)主の証人として
福音を宣教する。キリストは、天に上って行く同じ有様でまたお出でになる。
教会による宣教の働きは、「異邦人の満ちる時が来るまで」(ローマ 11:25)と
定められている。また、終わりの日が来る前に、福音を頑なに拒んで来たイ
スラエルに救いが訪れる。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」
主の再臨の時、主にあって眠った死者がよみがえり、生き残っている者が天
に引き上げられ、「空中で主と会う」(Tテサ 4:17)事になる。「私たちは、この望
みと共に救われたのです。目に見える望みは望みではありません。」(ローマ8:24)
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No.909 - 10月19日: 「聖なる者となる」 テサロニケ第1の手紙4章1節〜8節 |
(みことば)「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。…
淫らな行いを避け…自分のからだを聖なる尊いものとして保ち…」
テサロニケ第1の手紙4章3〜4節
パウロは、苦難の中にある聖徒達を励ます話題から一転して「最後に兄弟
たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。」と新たなテーマで語る。
パウロは、総論として「あなたがたは、神に喜ばれるためにどうのように
歩むべきかを…学び」と勧める。それは、キリスト者の生き方の原点と言え
る。キリスト者は、常に「神に喜ばれる生き方」を目指して歩むべきである。
「喜ばれる」は「満足させる」「奉仕する」の意味であるが、それは、キ
リスト者が「何(誰)のために生きるか」という動機や目的であり、それは、
この世の人と本質的に違う点であり、世の人は、自己の満足のために生きる。
又、親に依存的な子は「親を満足させる」為に生きる。だが、親が絶対で
はない。信仰者は「人を喜ばせるのではなく、神に喜んで頂く」為に生きる。
「私たちが主イエスによって、どのような命令を…伝えたか…」パウロの
命令は、キリストを起源とする神の権威を持つ命令であり、彼らは、それを
主の命令として厳かに聞くべきである。そこでパウロは総論から各論に移る。
「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となること…」神の救いの理解
に「聖なる者となる」と言う概念があるが、「聖なる」(ハギオス)は、「神のもの
として聖別する」の意味である。それは、救いの関係で次のように言える。
「キリストを信じる者は、イエスの贖いの血により清められ、神の民とし
て聖別され、神の子とされる。」それ故、信者は「聖徒」と呼ばれている。
主の贖いによる「新生」は、一瞬の出来事であるが、聖徒達の歩みは、新
生から始まり天の御国に至るまで続く。即ち、「聖化」は、聖徒達が救いの
完成に向かって、益々「聖なる者とされて行く成長の過程」(プロセス)である。
「あなたがたが淫らな行いを避け…」消極的な意味で、「不道徳、不品行」
に関する行為が問われる。「淫らな行い」(ポルネイア)は、(ポルノ)の語源で、信
者が、性的な罪から離れる事を勧める。この世における性の乱れは甚だしい。
性の乱れは、神が定めた「結婚の神聖さ」の崩れから始まる。神は、男と
女を創造し「ふたりは一体となる」と一組の男女の結婚を定めた。地上の祝
福は、結婚から始まるが、罪によって男女の結婚の秩序や神聖さが失われた。
「自分のからだを聖なる尊いものとして保ち…」それは、自分のからだに
関する事であるから、それぞれが注意し聖く保つべきである。「からだ」は
「器」と訳せる。「自分を清めるなら…尊いことに用いられる器となります。」
「異邦人のように情欲におぼれず…」神を知らないこの世の人は、心を情
欲で支配され、汚れに引き渡される。人間は、アダムの罪以来、悪魔の支配
下にあるが、キリストだけが、悪魔と罪の欲望から人を解放する事ができる。
「兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。」からだは、個人の物で
あるが、聖徒達は、同時に「神の共同体」「キリストのからだ」の一部とさ
れている。兄弟が不品行を行えば、主のからだに対して罪を犯すことになる。
神の召しの目的は、「私たちを…聖さにあずからせるため」である。私達
は、聖霊の御声に従い、聖徒に相応しく、神に喜ばれる、聖い歩みをしよう。
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No.908 - 10月12日: 「救いの完成を目指して」 テサロニケ第1の手紙3章6節〜13節 |
(みことば)「私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたが
たのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。」
テサロニケ第1の手紙3章7節
パウロは、苦難の中にあるテサロニケの聖徒達を強め励ます為にテモテを
遣わすが、テモテが彼らの「信仰のと愛について良い知らせ伝えて」くれた。
「良い知らせを伝える」は、原語で(エヴァンゲリゾマイ)「福音を伝える」であ
るが、「神の救いの知らせ」以外の一般的な意味で使われるのはここだけで
ある。それはテモテの良い知らせが、パウロに大きな喜びを齎した事を示す。
それと同様に、私達は、福音を知った時に、この世のどんな「良い知らせ」
にも勝る感動があった。それは、「晴天の霹靂」、「目から鱗が落ちる」よう
な経験であり、福音は、私達の人生観や価値観の全てを変えて行く力がある。
「良い知らせ」とは、彼らが「好意をもって思い起し…会いたがっている」
と言う事実であり、彼らの信仰と愛は、決して衰退していなかった。パウロ
は、福音を受け入れた者達との間に愛の一致を確認でき、慰めに満たされる。
「兄弟たち。…あらゆる苦悩と苦難のうちにありながら…慰めを受けました。」
パウロの語る福音は、この世的な幸福ではなく、「あらゆる苦悩と苦難のう
ちにありがら」受ける慰めであり、それは、この世の御利宗教と全く異なる。
人はどこに救いを求めるかが問題である。パウロは世俗的な願望に喜びや
慰めを求めず、信仰者の霊性が保たれ、彼らが苦難の中で堅く信仰に立つ姿
を見て慰めを得た。信仰の目標をそこに置くなら、苦難に耐える事が出来る。
「主にあって堅く立っているなら…心は、生き返るからです。」パウロの
関心は、彼らの信仰の霊性にあり、「生き返る」は現在形で、一時的でなく
永続したいのちを表し、それは身体的いのちを超えた霊的いのちを意味する。
人間の心とからだを含め、人間のいのちは、神の創造の偉大な結果である。
坂口教授が免疫抑制細胞の発見でノーベル賞を受賞したが、人体には免疫機
能と免疫抑制機能が予め備わっている。それは、決して偶然の産物ではない。
パウロは、彼らが創造者である神を信じ、信仰に堅く立っている事を感謝
する。「どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。」彼の心は、それ
により励まされ、主の為に生きる意義を覚え、宣教の意欲を増し加えられた。
パウロは、彼らの為に「夜昼、熱心に祈った」が、それは「信仰の不足を
補う」為である。「補う」は、漁師が「網を繕う」意味である。漁師がその
都度、網を修繕するように、信仰の不足を修復しないと良い働きはできない。
最後にパウロは、父なる神とキリストに「道を開いて…行かせてください」
と祈る。「道を開く」は「真っ直ぐに目的地に向う」意味がある。私達は、
自分の願望や欲望の為ではなく、主の御心に叶う救い道を真っ直ぐに進もう。
第2の祈りは、「彼らの愛が増し加わる」事であるが、それは、「福音」即
ち「神の愛」から始まり、「互いに対する愛」(兄弟愛)に至り、「すべての
人に対する愛」で全うされる。主の命令は、「互いに愛し合うこと」である。
最後にパウロは、彼らの救いの完成を求めて祈る。「神の御前で、聖であ
り、責められるところのない者…」主が再臨される時、私達の地上での歩み
の真価が試される。その時、主の栄光と共に輝く事ができる生き方をしよう。
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No.907 - 10月5日: 「悪魔の試みと信仰の勝利」 テサロニケ第1の手紙3章1節〜5節 |
(みことば)「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがない
ように…私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」
テサロニケ第1の手紙3章3節
パウロは、迫害と苦難の中にあるテサロニケの教会を励ます為に、彼らの
所に「何度も行こうと」したが、「サタンが…妨げた」(1:18)と語って来た。
パウロは、「そこで、私たちは、もはや耐えきれなくなり…」と述べるが、
それは、彼が、今の状況を黙って見過ごす事のできない心理を物語る。彼は、
神に敵対する勢力から逃げるのではなく、それに立ち向かって歩もうとする。
パウロは、「私たちだけがアテネに残ることにして…」テモテをテサロニ
ケに派遣した。パウロは、テモテを「私たちの兄弟…神の同労者」と呼ぶほ
どに信頼していたが、片腕をもがれる思いで彼を遣わし、一人アテネに残る。
それは、彼らの信仰を「強め励まし…苦難の中にあっても…動揺すること
がないように」する為であった。彼らは、明確な回心を経験していたが、そ
れだけでは十分ではなく、その都度、力を与えられ励まされる必要があった。
信仰者は、地上を歩む時に様々な誘惑があり、そこには、悪魔の試みもあ
る。「目を覚まし、死にかけている者たちを力づけなさい。」(黙示録3:2)主は、
苦難の中でも動揺することがないように、聖霊を遣わし強め励まして下さる。
「動揺する」は、犬が尻尾を振るように「ご機嫌をとる」「媚びへつらう」
の意味であるが、私達は、世の人の甘い誘惑に誘われて、尻尾を振って付い
て行くことがないように、常に毅然とした姿勢を保ち、堅く信仰に立とう。
テサロニケのキリスト者は、ローマの支配下で公認宗教のユダヤ教のまま
なら迫害される事はないが、ユダヤ教の一派で異端と見なされたキリスト教
に入信するなら、財産没収、公職追放などの迫害を覚悟しなければならない。
「私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」それは、
「神の必然的な計画」であり定めである。キリスト者は、この地上の幸福を
超えた「天の御国」に「救いの望み」を置かなければ、その信仰に立てない。
パウロは、「私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたの
ですが…それは事実となりました。」と二度も繰り返す。苦難や迫害は、キ
リスト者にとって、偶発的、突発的な出来事ではなく、必然的な定めである。
「信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、…成熟した、完全な者となります。」(ヤコブ 1:3~4)「試練に耐える
人は幸いです。耐え抜いた人は…いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)
「そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって…テモテを遣わしたの
です。」パウロは、断腸の思いで、テモテを派遣するが、それは、苦難の中
にある聖徒たちの信仰を保ち、サタンの狡猾な試みを打ち砕くためであった。
「それは、誘惑する者が…誘惑して…労苦が無駄にならないようにするた
め…」「誘惑する」(ペイラゾー)は38回も出て来るが、この世には多くの誘惑があ
り、それを避けて通る事ができない。人類の堕落も悪魔の誘惑から始まった。
主は、公生涯の初めに悪魔の試みを受け、全ての試みを神の言葉により退
けた。「一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一
人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」
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No.906 - 9月28日: 「真実な神のことば」 テサロニケ第1の手紙2章13節〜20節 |
(みことば)「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、
それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け
入れてくれたからです。」
テサロニケ第1の手紙2章13節
パウロは、テサロニケの聖徒達が神の召しにふさわしく歩むように、時に
は、母親のように愛しく思い、又、時には、父親のように厳かに命じて来た。
パウロは、彼らの事で神に感謝するが、それは、彼らがパウロの語る言葉
を「人間のことばとしてではなく…神のことばとして受け入れて」くれたか
らである。「神のことば」は、僅か一節の中で3度も繰返し強調されている。
ここに聖書の特異性がある。聖書は、ギリシャ神話や日本書紀やシェークスピア
の小説等と異なり、人の言葉ではなく、神の霊感によって書かれた神の言葉
である。だから、聖書には、誤りがなく、神の真理と奥義が啓示されている。
次に「神の言葉を聞く」姿勢が問われる。「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」の
諺のように、どんなに価値ある言葉も、聞いて信じなければ意味がない。「信
仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」
「事実そのとおり」は「真実な」の意味で、「完全な真実」は、神と神の
言葉にだけある。「すべての人を偽り…としても、神は真実な方である…」だ
から、私達は、人の言葉ではなく、真実な神の言葉を信頼するべきである。
「神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いて…」「働く」は、(エ
ネルゲオー)「活力を与え」「力を発揮るする」の意味がある。神のことばは、そ
の通り、生きていて「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」である。
彼らは、神の言葉によって変えられ、「ユダヤの…神の諸教会に倣う者」
となった。それは、ユダヤの諸教会が同胞から迫害されたように、彼らも自
分の同胞から苦しめられたからである。彼らは、主イエスに倣う者となった。
逆にパウロは、ユダヤ人の不信仰を断罪する。「ユダヤ人たちは、主であ
るイエスと預言者を殺し…対立しています。」彼らはモーセ以来「うなじを
固くする民」と呼ばれ、神に不従順で、預言者の言葉を聞こうとしなかった。
「彼らは、異邦人たちが救われる…のを妨げ…御怒りは彼らの上に望んで
極みに達し…」彼らは、神の選びの民でありながら、救い主と福音を拒絶し、
パウロの異邦人宣教を妨害した。だが、彼らは、その当然の報いを受ける。
エルサレムは、紀元 70 年ローマ軍により陥落し、ユダヤ民族は二千年間
世界を流浪する民となる。「その人の血は…私たち…の上にかかっても良い。」
教会は、ユダヤ人が国を失った後、彼らに代わり、神の民の役割を担う。
「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまで…」
パウロは「しばらくの間あなたがたから引き離され…」と語るが、それは
ユダヤ人の妨害による。だが彼は、「顔を見ないだけで、心が離れていたわ
けではなない」と語る。教会と主の交わりは、苦難の中でも絶える事はない。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」パウロは、彼らの
「顔を見たいと…切望し…何度も行こうとし」たが、サタンがそれを妨げた。
主の交わりを大切にし、神の働きを成そうとすると必ず悪魔の攻撃もある。
だがパウロは、主の再臨の時「私たちの望み、喜び、誇りの冠となる」の
は、彼ら自身であると励ます。神の栄冠を受ける者として信仰に堅く立とう。
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No.905 - 9月21日: 「愛する者への祈り」 テサロニケ第1の手紙2章7節〜12節 |
(みことば)「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神に
ふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」
テサロニケ第1の手紙2章12節
パウロは、これまでテサロニケにおいて、「神に認めれて、福音を委ねら
れた者」として、「どのような姿勢で福音を伝えて来たか」を語って来た。
パウロは、「キリストの使徒として権威を主張することもでき…たが…幼
子に」なった。使徒とは、キリストの権威を与えられ、宣教に派遣された弟
子であるが、パウロは、彼らの間で権威を振るわず、幼子の様に振る舞った。
パウロは、それと同様に福音によって神の子とされた者を「自分の子ども
たち」と言い、彼自身を「子どもたちを養い育てる母親のように」又「こど
もに向う父親のように」と譬えている。それらは、霊的な家族の関係である。
母親と父親は役割も賜物も違うが、母親は子どもの為に自らを犠牲にする
母性がある。母性的愛に育まれて育った子は、安定した人格を形成する。パ
ウロは、彼らを母親のように「いとおしく…いのちまで…与えたい」と思った。
たとえ親の愛に欠けた人でも、キリストの犠牲的な愛を知るなら、その魂
は神の愛によって満たされる。「あなたがたが私たちの愛する者となったか
らです」神の家族となった者は、神の愛に育まれ平安の内に養われ成長する。
「兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えている…」パウロ達
は、テサロニケに居た時、迫害により肉体的精神的な苦悩を経験したが、そ
れでも宣教の働きを止める事はなく、テサロニケの人々もその模範に倣った。
パウロ達は、彼らの苦難を知っていたので、彼らに「負担をかけないよう
に、夜も昼も働きながら…」自分達の生活費を宣教以外の仕事により賄った。
パウロは、その様な辛苦を「親が子どもを育てる際の当然の義務」と考えた。
更にパウロは、福音の宣教者達が、「彼らの間でどのように振る舞ったか」
その生き方を証しする。「私たちが敬虔に、正しく…責められるところがな
いように…」それは、信者となった彼らが証人であり、神もその証人である。
裁判において証人の証言は、大変重要であり大きな意味を持つ。キリスト
信者は、やがて、神の裁判における証言台に立って、神の証言者として証言
する。「キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。」(Uテモテ2:12)
伝道者については、「敬虔に、正しく、責められるところがない…か」そ
の生き様が問われる。この3つの条件を生涯に渡り満たす事は至難の業だが、
「聖職者」と呼ばれる者は、とりわけ厳しい裁きを受けなければならない。
「私たちは自分の子どもたちに向う父親のように…一人ひとりに…」家庭
において、父親は、母性的な愛と異なり、威厳を持つ父性的な愛を示す必要
がある。父性的な権威や威厳が薄らぐ時代に、神の権威の厳粛さを覚えよう。
「あなたがた一人ひとりに」とあるが、父親の子どもに対する指導や導き
は各々異なる。それは一人ひとり異なる個性と人格を持つからである。地上
にどれ程の人が居ても、父なる神は一人ひとりと個別に向き合い対応される。
最後にパウロは「神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じ」る。
私達は「御国と栄光に預かるように」召された者だから、神の召しに恥じな
い歩みをしよう。「厳かに命じる」は、「証人として証言する」の意味である。
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No.904 - 9月14日: 「神に認められる人」 テサロニケ第1の手紙2章1節〜6節 |
(みことば)「私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから…人
を喜ばせるのではなく、…神に喜んでいただこうとして語っているのです。」
テサロニケ第1の手紙2章4節
パウロは、テサロニケの人々に「あなたがた自身が知っている通り、私達
があなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。」と語る。
それは、パウロがテサロニケに行って福音を語った事で、多くのギリシャ
人が信仰に導かれ、偶像から生けるまことの神に立ち返り、更に、彼らは、
「マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となった」からである。
彼らは、パウロの語る福音を通し、救いの門から入る事で、信仰の働き、
愛の労苦、望みの忍耐を持つ者となった。信仰に歩む者は、世の人のような
空しい生き方ではなく、天の報いを受けられる様な意味ある生き方をしよう。
パウロ達は、「先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていた」とあるよ
うに、ピリピでは、鞭で打たれ、牢に入れられ、足枷を嵌められた。それで
も彼らは「神によって勇気づけられ…苦闘のうちにも」人々に福音を語った。
彼らは、苦難の中で福音を語るが、その原動力は、「神によって勇気づけ
られ」たからである。「苦闘」は原語で「オリンピアの競技場」を意味する
が、競技者は、激しい戦いの前に気持ちを高めなければ、敵に勝利できない。
パウロ達の「勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ている
ものでもなく、だましごとでも」ない。世の人は、宗教に対し警戒心を持ち、
教会に対しても同様である。だが、福音は、偽りのない真理の言葉である。
「誤り」は、「さ迷う者、惑星」を意味する。惑星の動きは、人を惑わす
ように見えるが、主の言葉はそうではない。「不純な心」は、不道徳を意味
するが、宣教の動機は、卑しい利得を求める不純なものであってはならない。
「だましごと」は、「狡猾な策略」「餌で魚を釣る」を意味する。だが福音
は、世の悪徳商法や詐欺師のように人を騙して入会させ、搾取する事はない。
そこで、パウロは、「神に認めれて福音を委ねられた者」として弁明する。
「認められる」は、「試験の上で本物と証明される」の意味で、「心を調べ
る」も同様である。パウロは、多くの試練に耐え、神のしもべとして歩んで
来た。彼は「人を喜ばせるのではなく…神に喜んでいただこうとして」語る。
「人を喜ばせる」事が最善の道とは限らない。家族が反対しても、福音を
語り、そこに立たなければ、その人にも、家族にも救いはない。パウロは「今
まで、へつらいの言葉を用いたり、貪りの口実をもうけたりした」事はない。
「へつらう」は、「人のご機嫌を伺い、おもねる」事である。人に寄り添
い、配慮する事も大事だが、神より人に寄り添い過ぎないように注意しよう。
次に「貪りの口実」は、「貪欲の見せ掛け」「欲望のかこつけ」の意味である。
信仰に歩みながら、片や「貪欲や金銭への執着」を捨て切れない事がある。
金銭を愛した為に、信仰から迷い出ないように「どんな貪欲も気をつけ、警
戒」すべきである。最後にパウロは、「人からの栄誉を求めません。」と語る。
私達は、「人から評価され、誉められたい」と願う欲求が強い。だが、主
は、偽善の律法学者達のように「人に見せるために、善行を行わないように」
と警告した。自分を低くし、主に仕える者こそ、神に認められる人である。
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No.903 - 9月7日: 「主に倣う者となる」 テサロニケ第1の手紙1章1節〜10節 |
(みことば)「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を
伴って、あなたがたの間に届いたからです。」
テサロニケ第1の手紙1章5節
パウロは、シルワノとテモテの連名で、「父なる神と主イエス・キリストに
あるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安が…ありますように」と手紙を書く。
パウロは、第2回の伝道においてトロアスで、「マケドニアに渡って来て、
私達を助けてください。」と懇願する幻を見て、ピリピを初め、テサロニケ、
ベレヤなどで宣教したが、マケドニア各地でユダヤ人の激しい迫害に遭った。
彼らはユダヤ人の迫害を避け、マケドニアを去った後、次の宣教地アテネ
とコリントへと向う。パウロは、コリントに滞在中にテトスをテサロニケに
派遣して、テトスは、彼らの「信仰と愛について良い知らせ」を持って来た。
パウロは、そのような理由から手紙の序文で「あなたがたに…いつも神に
感謝しています」と語る。それは、彼らの「信仰から出た働き」「愛から生
まれた労苦」「望みに支えられた忍耐」を「思い起こしているから」である。
「信仰・愛・希望」は、彼らの「働き・労苦・忍耐」を生み出す原動力で
あり源泉である。私達は「神への信仰」「救いによって知った神の愛」「キリ
ストの再臨の希望」を知らなければ、何と空しい生き方をしていただろうか。
又、パウロは、彼らが「神に選ばれていることを知っている」と語る。彼
らが苦難の中でも、信仰に留まっているのは、彼らの努力や忍耐によるだけ
でなく、それは「神の選び」即ち神の主権的な意志やご計画に基づいている。
又、福音は、「ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って」彼らに
届いた。福音は、この世の思想や宗教のように、人の教えや知識や観念では
なく、神の力と聖霊の働きに基づく、偽りのない真実な証言に基づいている。
「あなたがたも…みことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者なり
ました。」人が成長した信仰者になる為には、良い信仰の模範者に倣う事で
ある。パウロの生き方は、その模範であり、最高の模範は、キリストである。
その結果、信仰を持って間もない彼らは、マケドニヤとアカヤ地方の全て
の信者の模範となるまでに成長した。「模範」は「型」の意味であるが、人
は、神に似せて、神のかたちに造られている。私達は、神に似た者となろう。
彼らの模範的な姿は、まず宣教の熱心さに現れる。「主のことばがあなた
がたのところから出て…あらゆる場所に伝わっています。」パウロは、彼ら
の信仰に関し「私たちは何も言う必要がありません。」と最大の賛辞を贈る。
他の人々も、彼らの信仰についてパウロに良い証しをした。その第1は「私
たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか」である。それは、彼
らの信仰の初期の事で、彼らの歩みのは、福音を受け入れる信仰から始まる。
第2は「偶像の神から立ち返って…神に仕えるようになった」事である。
彼らは、異教的習慣との戦いの中で、偶像ではなく、まことの神に仕える。
第3に、彼らは「御子が天から来られる望みを持つ者となった」事である。
彼らは、福音を受け入れて回心し、神に仕える者となり、主の再臨を待ち
望む者となった。御子イエスこそ、「神が死者の中からよみがえらせた方で
あり、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる」唯一の主である。
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No.902 - 8月31日: 「自分を試し、吟味する」 コリント第2の手紙13章5節〜13節 |
(みことば)「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、
吟味しなさい。…あなたがたが不適格な者なら別ですが。」
コリント第2の手紙13章5節
パウロは、この手紙の最後に、コリントの教会の信徒に対して「あなたが
たは、信仰に生きてるかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」と語る。
たとえ、信仰があっても、信仰に生きてない人も多くいる。パウロは、そ
の人々に「自分を試し、吟味する」事を勧めるが、「吟味する」は、「試して
本物であると証明する」の意味がある。次の「不適格」はその否定形である。
パウロは、彼らが「キリストを信じているかどうか」を疑っているのでは
なく、「信仰に生きているかどうか」を問い掛けている。寧ろ、彼らは、「自
分のうちに…キリストがおられることを自覚していない」事に問題があった。
「信仰に生きているか」それを試し吟味するのは、自分自身である。信仰
を持つ者は、御霊により、自分の生き方の是非を自覚できるはずである。そ
の人が「不適格な者なら別」だが、御霊に導かれる人に、不適格者はいない。
「私たちは不適格でないことが…分かるように」パウロは、彼を批判する
者に弁明するが、彼自身は、不適格者ではない。語る者への信頼がなければ、
御言葉を真剣に聞く事はできない。そこには、信頼と愛と一致が必要である。
パウロがそのように語るのは、彼らが「どんな悪も行うこと」がなく、彼
らに「善を行ってもらいたい」からである。彼はその為なら「不適格な者の
ように見えても」良いと考える。「適格か不適格か」を決めるのは神である。
「私たちは、真理に逆らっては何も…」「自己吟味」と「適格・不適格」の判
断の規準は、真理に従っているかどうかである。偽りの支配する世において、
神の言葉だけは、誤りのない真理である。真理に従う者は、いのちを得る。
パウロは、「自分が弱くても」彼らが強くなり、「完全な者になること」を
祈る。「完全になる」は「整備する」「復旧する」の意味だが、彼らは、不完
全な生き方に対して、日々自己吟味しながら信仰を回復し整える必要がある。
パウロがこの手紙を書くのは、離れていても、彼らが信仰に生きる為であ
り、彼の訪問の際に「権威を用いて、厳しい処置をとらなくすむ」為である。
この権威が…与えられたのは、「建てるためであって、倒すため」ではない。
パウロは、最後に5つの勧めと祝祷で手紙を閉じる。第1は「喜びなさい。」
であるが、喜びは、信仰者の本質的な要素で、試練や苦難の状況に関わらず、
キリスト者には救いの喜びがある。第2は「完全になりなさい。」である。
それは、「復旧・整備」を意味するが、信仰には、常に自己吟味と御霊に
よる刷新が必要である。第3は「慰めを受けなさい。」であるが、パウロは、
苦悩の中でテトスとの再会で慰めを受けた。主に信頼する者には慰めがある。
第4は「思いを一つにしなさい。」であるが、それは教会に集う者の霊的
な一致を意味する。教会は、同じ信仰と希望を持つ集まりである。第5は「平
和を保ちなさい。」である。主は、神と人との間に平和を齎す為に世に来た。
信仰者は、平和を造る者であり、教会には愛の交わりと平和の絆と信仰の
一致がなければならない。「聖なる口づけをもって…」私達は、決して一人
ではなく、多くの聖徒達が私達を取り巻き、天の軍勢が私達を見守っている。
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No.901 - 8月24日: 「神の国に生きる者」 コリント第2の手紙12章19節〜13章4節 |
(みことば)「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力
によって生きておられます。」
コリント第2の手紙13章4節
パウロは、コリントの教会に対し「今度そちらに行ったときには、容赦し
ません。」と厳しく叱責するが、それは、彼らを建てる為の愛の鞭である。
パウロは、これまで述べて来た事が「自己弁護しているのだ」と受け取ら
れたくなかった。彼は「人に媚びて気に入られたい」と言う思いは毛頭ない。
彼は、寧ろ「神の御前でキリストにあって語っている」と言う意識がある。
彼の言葉は、自己弁護ではなく、愛する者への訓戒であり、彼らの成長の
為である。成長の度合いは、人それぞれ違うが、幼児から大人へ成長するよ
うに、キリスト者の目標は、教会を支えるような成長した者となる事である。
人は、成長の過程で叱られる経験も必要である。「成長する」は、「建物を
建てる」と言う意味であるが、パウロは、信仰を建物に譬えて、「どのよう
に建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。」(Tコリント3:10)と語る。
パウロは、コリント教会を訪問するに当たって二つの心配があった。第一
は「教会の分裂や混乱」に関する事であり、第二は「教会の不品行」に関す
る懸念であった。「私は心配しています…期待したような人たちでなく…」(20)
特に、パウロは、教会に「争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高
ぶり、混乱がありはしないか」と心配した。これらは、人間の肉の性質から
出て来るもので、この世の中のどこにでもある、隣人を貶める悪行である。
「期待する」は、「望む事を捜す」の意味であるが、教会は「愛・平和・赦
し」等、御国の理想を求めるべきである。御霊の人は、この罪の社会の中で
も「愛,喜び,平安,寛容,親切,善意,誠実,柔和,自制」という御霊の実を結ぶ。
パウロは、「再びそちらに行く時…恥じ入らせることになる」ような、彼
らの不道徳に関する懸念があった。又「以前に罪を犯していながら…汚れと
淫らな行いと好色を悔い改めない」人々を嘆く事にならないか不安であった。
彼は、「以前に罪を犯した人たち…に…二度目の滞在のとき、前もって」(2)
と警告した。それは、「汚れ、淫らな行い、好色」と言う「不道徳と不品行」
に関する罪である。それは、人間の罪の性質として何処にでも存在している。
だが、教会には、先程と同様に「わたしが聖であるから、あなたがたも聖
でなければならない。」と言う神の国の理想がある。「神が私たちを召された
のは、汚れを行わせるためではなく、聖さに預からせる為です。」(Tレサロニケ4:7)
彼らは、パウロの勧告にも拘らず、罪を悔い改めないなら、聖霊を悲しま
せる事になる。それは、この世の人ならいざ知らず、キリスト者は、「聖な
る方に倣い…生活の全てにおいて聖なる者となる」(Tペテロ1:15)べきである。
真実は、複数の証人の証言によって立証される。「二人または三人の証言
によって…」パウロは律法の規定を引用し、彼の言葉が「真実である」事を
証言する。主の言葉を疑い、世の人に欺かれ、神の聖さを失ってはならない。
「今度そちらに行ったときには、容赦しません。」主の憐れみを受けた者
が、尚、汚れた生き方をするなら、そこに赦しの機会はない。主の言葉を厳
粛に受け止めよう。「キリストは、…あなたがたの間にあって力ある方です。」
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No.900 - 8月17日: 「同じ足跡を辿る」 コリント第2の手紙12章11節〜18節 |
(みことば)「私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるし
を明らかにしました。しるしと不思議と力あるわざによってです。」
コリント第2の手紙12章12節
パウロは、「私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理に私を
そうさせたのです」と語るが、愚か者とは、自分を誇り、宣伝する人である。
それは、偽使徒達がそうであった。パウロは、自分を誇るつもりはなかっ
たが、教会が、偽使徒達に惑わされ、彼らを受け入れていたので、彼も、そ
れに対抗して「彼らはヘブル人ですか。私もそうです…」と肉の力を誇った。
パウロは「第三の天にまで引き上げられた」特別な啓示を語るが、それは、
愚かな自慢話ではなく、教会が使徒の言葉に信頼し、信仰に立つ為である。
「私は当然、あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。」教会の中に
自己推薦者が大勢いる中で、パウロは、そうではなく、彼はコリントの教会
を開拓した真の宣教者であった。「私たちの推薦状はあなたがたです。」(3:2)
パウロは、「たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少し
も劣らない」と宣言する。「大使徒」とは、パウロの皮肉で、自分を過大に
評価する偽使徒を指している。寧ろ、神の力は、弱さのうちに完全に現れる。
パウロに有って、彼らに無いものは、「使徒としてのしるし」である。パ
ウロの宣教の働きには、「しるしと不思議と力ある」神のわざが伴っていた。
パウロは、コリントの教会に「負担をかけなかった」点で、彼らが「他の
諸教会より劣っている」と考えた。それは、パウロが教会から報酬を受けな
かった事によるが、彼がそれをしなかったのは、教会の未熟さの故であった。
パウロは、「この不正のことは赦してください。」と言う。彼らが、霊的に
成長した者なら、それを重荷や負担に感じなかっただろう。だが、彼らの未
熟さの故に、彼らに負担をかける事ができない。それは彼らの劣る点である。
パウロは、マケドニアで第二の手紙を書き、教会に三度目の訪問の準備を
していた。彼は、「あなたがたに負担はかけません」と言う。パウロが求め
ているのは、彼らの「持っている物」ではなく、彼ら自身の霊的成長である。
「私は…大いに喜んで財を費やし…」パウロは、そのためには彼の財を費
やすだけでなく、全てを与え尽くす覚悟がある。それは「親が子のために蓄
えるべき」だからである。親は、愛する子どもの為にどんな犠牲も厭わない。
パウロは、親が子どもを愛する無償の愛で教会を愛するが、「愛すれば愛
するほど…愛されなくなる」と葛藤する。親の愛を実感できない子は、精神
的に不安定なまま成長する。彼らも同様に神に愛されている事を理解しない。
パウロは、愛の配慮から、彼らに重荷を負わせないようにしたが、それで
も、彼は、一部の人から「悪賢くて…だまし取った」と批判される。その辛
辣な批判の原因は、彼が諸教会に「聖徒達を支える献金を募った」事による。
「私は…人を遣わしましたが…だますことがあったでしょうか。」聖徒た
ちを支える献金を募る為に遣わした者が、あたかも彼らから騙し取る者のよ
うに受け取られた。世の人も、教会に対してそのような警戒心を持っている。
パウロは、教会にテトスと兄弟を遣わすが、それは彼らを騙す為ではなく、
彼らを救いの道に歩ませる為である。私達も主と同じ心で同じ足跡を辿ろう。
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No.899 - 8月10日: 「神の啓示と肉体のとげ」 コリント第2の手紙12章1節〜10節 |
(みことば)「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの
力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」
コリント第2の手紙12章9節
パウロは、コリントの教会に入り込んで来た偽使徒や人を欺く働き人に対
抗して、「私は誇らずにはいられません。」と、彼自身の特別な体験を話す。
それは、パウロにとって「誇っても無益である」ことを承知した上での誇
りであるが、彼は、自分の功績や経歴を自慢したがる人々の前で、敢えて、
それを誇る事もやむを得ないと考える。それは「主の幻と啓示の話」である。
「主の幻と啓示」とは、通常の自然界で起こり得ない超自然的な現象であ
り、特別な体験を意味する。普通、日常の世界でそのような特殊な経験をす
ることはない。その幻は、使徒パウロだけに与えられた特殊な経験と言える。
それは、パウロ自身の経験であるが、それが余りに特殊な経験であるので、
彼は、「私はキリストにある一人の人を知っています」と第三者の視点から
それを語る。「この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。」
その証言によるなら、彼は、十四年前に生きたまま「第三の天」即ち「パ
ラダイスに引き上げれる」という経験をする。同様にキリスト者は、終わり
の日に、天に「引き上げられ、空中で主と会う」(Tテサ4:17)という約束がある。
だが、パウロは、生きたままその特殊な経験をした唯一の人である。その
特殊な経験は、彼自身「肉体のまま…か…肉体を離れて…か」判断できない。
「神がご存じです。」この世界には、科学や理性で説明できな事が沢山ある。
彼は、「パラダイスに引き上げられ…人間が語ることを許されないことば
を聞いた」と証言する。「パラダイス」は「楽園」の意味であるが、アダム
の罪により失われた楽園は、キリストにより「天の御国」に備えられている。
そこには、地上の多種多様な言語と異なり「人間が語ることを許されてい
ない」天の言語がある。それは、やがて主に贖われた者だけが話す事を許さ
れる言語であり、天には、地上のような人種や言語による分断も分裂もない。
「このような人のことを私は誇ります。」彼は、天で特別な経験をした人
を誇るが、それに比べ、「私自身については、弱さ以外は誇りません。」と、
徹底して肉の弱さを強調する。彼の話は、他の人の愚かな自慢話とは異なる。
パウロは、この特別な経験について多く語る事を控える。それは、どんな
に素晴らしい啓示でも、14年前の経験であり「私について見ること…聞く
こと」以上に、今の「私を過大に評価するといけない」と考えるからである。
人は、過去の栄光に縋り付く者だが、世の重要な役職に就いた人ほどその
傾向がある。だが、どんなに過去を誇っても、それを失う時には惨めである。
彼は、その啓示の素晴らしさの故に「高慢にならないように…肉体に一つ
のとげを与え」られ、彼は、それを「去らせてくださる」ように、主に三度
も願うが、結局、彼の祈りは聞かれない。それは、彼に必要な試練であった。
主は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われた。「満ち足りる心
を伴う敬虔こそ…利益を得る道です」神の力は「弱さのうちに完全に」現れる。
主は、世の知者や権力者ではなく、「この世の愚かな者…弱い者」を選ばれた。
「私は、キリストの力が私を覆うために…自分の弱さを誇りましょう。
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No.898 - 8月3日: 「自分の弱さを誇る」 コリント第2の手紙11章21節〜33節 |
(みことば)「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」
コリント第2の手紙11章30節
パウロは、肉的な力や自らの功績を誇る偽使徒と比較して、「愚かになっ
て…私もあえて誇りましょう。」と彼らが誇る民族的な血筋を誇って見せる。
「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。…」彼らは、自分達がヘブル人、
イスラエル人、アブラハムの子孫であると言う血筋を誇りとした。それは、
即ち「ユダヤ人は、神に祝福された選びの民である」と言う民族意識である。
それは、どこの国にもあるナショナリズムの意識であるが、戦前の日本は、
「日本民族は天照大神を祖とする万世一系の天皇家の子孫である。」と言う
民族意識を植え付けられ、その誤った優越感が戦争と滅びへと人々を導いた。
勿論、神は、アブラハムと契約を結び、ヘブル人に神信仰の系譜を与え、
彼の子孫イスラエルを愛し、奴隷の家から救い、約束の地カナンに導かれた。
それは、彼らが民族的に優れていたからではなく、ただ神の憐れみによる。
「神は…石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる」彼ら
は血筋を誇るが、それは愚か者の自慢に過ぎず、神の救いに条件は何も無い。
彼らは、「キリストのしもべ」を公言するが、パウロは、「狂気したように
…彼ら以上にそうです」と宣言する。「しもべ」は「仕える人、奉仕する人」
の意味なので、しもべは、誰よりも謙遜に遜り、仕える人でなければならない。
キリストは、「仕えられるためではなく、仕えるために…多くの人のため
の贖いの代価として、自分のいのちを与える」ために来られた。キリストは、
「神の御姿であられるのに…自らを低くして…十字架の死にまで」従われた。
主のしもべを公言する人は、主と同じ道を歩むべきである。即ち、人から
の誉を受け、脚光を浴び、日の当たる道を歩むのではなく、寧ろ、誰の評価
も受けず、人から侮辱され、辱められても、茨の道を歩む覚悟が求められる。
パウロは、「自称キリストのしもべ」と比較し、「労苦したことはずっと多
く…」と「牢に入れられ…むちで打たれ…死に直面した」数々の労苦を列挙
する。パウロの苦悩に比べたら、私達の苦悩など、微々たるものに過ぎない。
パウロは、まず、同胞から多くの苦難を受けた。「ユダヤ人から四十に一
つ足りないむち…」同胞からの迫害は、彼がユダヤ教から熱心なキリスト教徒
に改宗したからである。日本のキリスト教徒も、同胞から同じ扱いを受ける。
彼はローマ人からも迫害される。「ローマ人にむち打たれこと…」彼はローマ
の市民権を持っていたが、彼がキリストのしもべを公言する以上、世は、彼
を憎み、彼に激しく敵対する。この世はキリスト者に相応しい場所ではない。
最後に、パウロが経験する苦難は、彼の主キリストが辿られた道でもある。
「あなたがたは、わたしの名のためにすべての人に憎まれます。」「狐には穴
があり、空の鳥には巣があるが、人の子には、枕するところもありません。」
更に、彼には、肉体的な苦悩と共に、霊的な苦悩が重くのしかかる。「日
々私に重荷となって…教会への心づかいがあり…」それは、牧者としての苦
悩である。「だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでしょうか。」
「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さを…誇ります」これがパウロ
の結論である。自分の弱さや無力さを知る者は、主を信頼し主を誇りとする。
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No.897 - 7月27日: 「キリストにある誇り」 コリント第2の手紙11章12節〜23a節 |
(みことば)「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変
装します。」
コリント第2の手紙11章14節
パウロは、コリントの教会で「報酬を受けずに神の福音を…宣べ伝え」て
来たが、彼は、「今していることを今後も続けるつもりです。」(12)と述べる。
彼は、そうする理由を「ある人たちが自分たちで誇りとしていることにつ
いて…断ち切るため」と語る。それは、コリントの教会の自己推薦者や自分
の功績を誇る人の偽善を断ち切り、福音の宣教者の真の誇りを示す為である。
パウロは、その様な偽善者を「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人
…使徒に変装している…サタンでさえ光の御使いに変装します」と警告する。
巧妙な悪魔の偽装に惑わされないよう、真偽を見分ける目を養う必要がある。
参議院選挙で新興政党が躍進したが、SNS で拡散する信憑性のない情報
を鵜呑みにせず、本質を見抜く知恵が必要である。戦争の惨禍を繰返さない
為に、懺悔から産まれた日本国憲法を本質から変えようとする試みがある。
「サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても…」悪魔は、巧妙
かつ狡猾に義のしもべに変装して聖徒に近づく。真偽を見分ける為に、神の
言葉を正確に学ぶ必要がある。御言葉に無知な人は、簡単に悪魔に欺かれる。
「彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなる」彼らの行いを見れば、
その本質を見抜く事が出来る。サタンのしもべは、どんなに流暢に話しても、
そこに嘘や偽りがある。木の良し悪しは、実によって見分ける事ができる。
「私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら…」彼は、こ
れまで「私の…愚かさを我慢してほしい」と語ったが、それは偽使徒の自己
欺瞞と異なるが、彼らがそう思うなら「私も少しばかり誇る」と敢えて語る。
「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として…」パ
ウロは、肉的な人に倣い、敢えて自分を自慢して見せる。人は、自分を誇り
たがる者だが、神の救いを知る人は、肉の誇りを愚かな虚栄としか思わない。
「あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢して…」それは、「教
会が偽使徒たちを容認している」事へのパウロの皮肉である。「実際あなた
がたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても…我慢しています。」
コリントの教会は、偽使徒達の奴隷にされ、横暴な扱いを受けても、彼ら
を容認し黙っていた。サタンは、光の御使いに変装するが、本性は貪欲な狼
である。光の御使いに変装した新興宗教に嵌り、生涯を駄目にする人もいる。
「言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かった…」多くの人は、自
分の知恵や力を誇るが、パウロは、寧ろ、自分の弱さを誇りとする。主は彼
に肉体の棘を与え「わたし力は弱さの内に完全に現れる」(12:9)と言われた。
パウロは、「だれかがあえて誇るなら…私も…誇りましょう。」と人間的な
誇りを並べる。「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。…」彼らは、アブラハ
ムの子孫としての血統を誇ったが、パウロも彼らと同じ誇りを持っていた。
だが、彼は「キリストを知っていることのすばらしさの故に…それらをち
りあくた」と考えた。「彼らは、キリストのしもべですか。私は狂気したよう
に…彼ら以上です。」彼は、主の名の故に苦難を受け、時に狂人扱いされる。
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No.896 - 7月20日: 「キリストへの純潔」 コリント第2の手紙11章1節〜11節 |
(みことば)「私は神の熱心をもって…熱心に思っています。私はあなたが
たを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのです」
コリント第2の手紙11章2節
コリント教会には、自己推薦する人や自分で自分を誇る者が大勢いたが、
パウロは、「誇る者は主を誇れ」「主に推薦される人こそ本物です。」と語る。
パウロは、「少しばかりの愚かさを我慢してほしい」と語るが、それは、
自己自慢の愚かな誇りではなく、宣教の働きと神の権威を委ねられた者の誇
りであり、教会との間に信頼の関係があれば、そんな事を語る必要もない。
パウロは、「私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていない」と弁明
するが、それは、教会の中に、彼の使徒性を疑う者がおり、彼自身が他の使
徒と違い、主の復活後に召され、以前、教会を迫害する者だったからである。
パウロの愚かな自慢とは、「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを
熱心に思っている」事である。「熱心に思う」は、「ねたむ」の意味でもある
が、十戒の第二戒の記述で「主であるわたしは、ねたむ神」と記されている。
神は、嫉むほどの純粋な愛で、贖われた者を愛しておられる。神の愛に生
きる者は、神への真実な愛と信仰の貞操を守るべきである。パウロは、キリ
ストと教会の関係を結婚に譬えて「清純な処女として…婚約させた」と語る。
パウロは、キリストと教会の婚約の仲介役として、花嫁となる教会に忠告
する。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚さ
れ…」蛇は、アダムの妻エバを誘惑し、神への純潔を失わせ、堕落させた。
パウロは、「私たちは限度を超えて誇りません。」(10:13)と語ったが、神が
定めた戒めに背くことを罪と言う。寧ろ、神の定めた命令に従って生きる所
に人間の自由と幸福がある。「神の命令を守ること、それが、神の命令です。」
今の時代は、純潔とか貞操という倫理観が全く欠けている。それは、結婚
の神聖さの崩れから始まる。キリストの救いの契約によって、神と結び合わ
された教会は、それとは違い、神への純潔と貞操を守って生きるべきである。
特にパウロは、教会の中に入り込む異端、「別のイエスを宣べ伝えたり…
異なる霊や…異なる福音を受けたり」する事を警戒した。完全な神にして完
全な人となったイエス・キリストを否定する多くの異端が現れるようになる。
「その霊が神からのものかどうか吟味しなさい」パウロは、彼らが異端を
「良く我慢している」と記すが、「我慢する」は「受け入れ、是認する」の
意味なので、それはパウロの皮肉で、彼らが異端を容認してると解釈できる。
パウロは、純潔を失いかけた教会に使徒の権威を用いて「あの大使徒に少
しも劣っていない」と忠告し、「話し方は素人でも、知識においてはそうで
はない」と批判者に断言する。神の言葉の権威に従わなければ、救いはない。
更に、パウロは、「教会から報酬を受けずに、福音を宣べ伝えた」が、そ
れさえ非難の口実となる。パウロが、敢えて「教会から報酬を得る権利を用
いなかった」のは、それが「福音の宣教の妨げとならない」ためであった。
「私は他の諸教会から奪い取って…給与を得た」パウロは、他の教会の援
助を受けてもコリント教会に負担をかけない。そうするのは愛がないからで
はなく、彼らが未熟だからであり、それは、彼らへの愛と忍耐の証しである。
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No.895 - 7月13日: 「主に推薦される人」 コリント第2の手紙10章12節〜18節 |
(みことば)「誇る者は主を誇れ。」自分自身を推薦する人ではなく、主に推
薦される人こそ本物です。」
コリント第2の手紙10章18節
パウロは、「あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が…与え
てくださった権威について…誇りすぎ…ても、恥とはならない」(8)と語った。
そこで、主から権威を与えられたパウロは、「推薦」と「誇り」と言う2
つの言葉を用いて、自らを誇る自己推薦者との違いを語る。彼は、「自分自身
を推薦している人たちと自分を同列に置いたり比較したり」しようとしない。
その人々は、自分を売り込む為に経歴や肩書を掲げ、教師の立場を確保し
ようとした。一般的に「自己推薦」や「自己宣伝」は、悪い意味で使うが、
その様な人は大勢いる。人は、自分を大きく見せ、良く見られたい者である。
彼らは、「自分自身を量ったり…比較し合ったりして」いるが、それは、
人の当てにならない評価に過ぎず、愚かな事である。量る事も、比較する事
も、明確な規準が必要であるが、人が評価する規準は、曖昧でいい加減である。
「私たちは限度を超えて誇りません…限度内で…誇るのです。」これは、「規
準の量りに従って」或いは「それを超えて」の意味である。その「量り」と
は、「神から与えられた賜物」や「委ねられた領域」や「裁量権」の事である。
「限度を超える」とは、神から委ねられた領域を超える事で、「自己推薦」
は、それを超えた誇りである。原語の「規準」(カノン)は、聖典の意味で
もある。神の言葉は、信仰と生活の規準であり、それを超える事が罪である。
パウロは「あなたがたのところにまで行ったことについて…誇る」と語る。
それは、彼が異邦人の使徒として権威を与えられ、コリントにまで宣教した
働きの事である。彼は、それを自分の誇りではなく、主の御業であると考えた。
「私たちは…無理に手を伸ばしているのではありません。」それは、与え
られた限度を超えて自分を誇る事であるが、もしパウロのコリント宣教がな
ければ、そこに教会も存在しなかった。それを多少誇っても恥にはならない。
「事実、私たちは他の人たちに先んじて…福音を携えて行ったのです。」
パウロは、時には主から与えられた権利を用いず、福音の為に生涯を献げた。
それは、彼が「異邦人宣教の先駆者」として、誇りを持っていたからである。
「私たちは、自分の限度を超えて他の人たちの労苦を誇ることはしません。」
他の人が成した功績を自分の功績のように誇るなら、それは偽りである。「自
分の限度を超える」とは、「主が与えた規準の量りを超えて誇る」事である。
パウロは、それを前提に、彼らの「信仰が成長する」事を望み、又、彼は、
「私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになる」事
を願った。彼は、主が許された範囲の中で、賜物を最大限に生かそうとする。
「それは…向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためで…」彼の宣教のビ
ジョンは、コリントからローマに渡り、イスパニアに向かう事であり、彼の信
念は、「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を伝える」事であった。
パウロは、宣教の働きを肉の力によらず、御霊の力と働きによると考えた。
「自分の知恵…自分の力…自分の富を誇るな。…誇る者は主を誇れ。」(エレミヤ 9:23)
自己推薦ではなく、「主に推薦される人こそ」本物と証明された人である。
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No.894 - 7月6日: 「神のことばと権威」 コリント第2の手紙10章1節〜11節 |
(みことば)「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を
打ち倒す力があるものです。」
コリント第2の手紙10章4節
パウロは、手紙の最後に権威の問題について語るが、聖書が誤りのない神
の言葉と言える根拠は、神の霊感と権威によって書かれた文書だからである。
パウロは、このテーマで語る前に自分自身を「あなたがたの間にいて顔を
合わせているときには、おとなしいのに…」と自虐的に語る。彼は、「パウロ
の手紙は、重みがあって力強いが…」(10)と批判する者へ皮肉を込めて答える。
彼は、「キリストの柔和さと優しさをもって…お願いします。」と勧める。
彼は、神の権威を与えられていたが、それを威圧的に振りかざすような事を
しない。キリストも、神の子の権威を持つ方であったが、柔和で遜っていた。
更にパウロに対し「肉に従って歩んでいると見なす」批判者もいた。「肉
に従う」とは、「生来の肉的な性質のまま歩む」事で、「御霊の人」と反対の
生き方である。彼は、その様な批判者に対して大胆に振る舞うべきと考えた。
その意味で、彼は、「強い者に何も言えない」卑屈な人ではない。彼は、
真理に歩まない者に対し、皆の面前で抗議する大胆さがあった。ただ、彼は、
彼らの所に行った時に「その確信から強気に振るまわない」ように願った。
「私たちは、肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」
肉のからだは、地上の営みにおいて不可欠だが、霊的な戦いにおいては別で
ある。私達は肉の性質のまま神の敵である悪魔と戦い勝利する事はできない。
肉の力は、霊的な戦いにおいて全く無力である。「肉によって生まれた者
は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ 3:6)神は、キリスト
を信じる者に、神の御霊によって、計り知れない霊的な力を授けて下さった。
「私たちの戦いの武器は…要塞を打ち倒す力があるもの…」敵の要塞を貫
通する程の威力を持った武器は、神の権威と力を持つ神の言葉以外にない。
「わたしはあなたがたに…敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。」
「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つ…」パウロが想定する
戦いの敵は、この世の思弁や神に逆らう知識や企てであるが、この世は、神
に逆らう思想や宗教で満ちている。真理と偽りを見抜く判断力が求められる。
「あなたがたの従順が完全になったとき…」神が立てた権威に対して、当
然、そこに従順さが求められる。神は、やがて、この世のあらゆる不従順に
対して罰する用意ができている。ノアの時代の洪水の裁きはその実例である。
「あなたがたは、うわべのことだけを見ています…」彼らは、自分達がキ
リストに属すると自認しながら、上辺の事だけに終始し、神の言葉や権威を
認めようとしない。神が立てた権威を否定して、教会は健全に建つ事はない。
「あなたがたを倒す為ではなく…」神の権威は、倒す為ではなく、教会を
建て上げる為にあり、彼は、その為に忍耐と謙遜の限りを尽くし神の民を導
こうとした。決して、「手紙で…脅しているかのように」思ってはならない。
「パウロの手紙は重みがあって力強いが…話は大したことはない。」それ
は、神の権威を認めない驕り高ぶった批判者の言葉であるが、神は、愛と寛
容さをもって、この罪の時代を忍耐しておられる。「神の忍耐は救いである」
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No.893 - 6月29日: 「種を蒔く者の祝福」 コリント第2の手紙9章6節〜15節 |
(みことば)「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にと
どまる」と書かれているようにです。」
コリント第2の手紙9章9節
パウロは、献げる人の祝福の原理を「種を蒔く」譬えで「わずかだけ蒔く
者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。」と語る。
種を蒔く時の自然法則は、そのまま霊的世界の神の祝福の原理に反映され
る。種を惜しんで蒔かなければ収穫も乏しく、豊かに蒔くなら豊かな収穫を
期待できる。種蒔きは未来への投資であり、その人には、将来に希望がある。
物惜しみする卑しい心や、強いられた義務感ではなく、神への愛と喜びを
もって献げるなら、神はその人を愛して下さる。それは、献げる人の信仰の
内面が試される。神は、アベルの献げ物を「良い献げ物」と受け入れられた。
献げる人の姿勢は、「神をどのようなお方と信じるか。」その信仰にかかっ
ている。神は、「あらゆる恵みを溢れるばかりに与えることがおできになる
方」であり、それを本当に信じているなら、惜しみなく献げることが出来る。
それは、「あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足り…あふれるよう
になる」為である。神は、計り知れない恵みで、信仰に生きる者を満ち足ら
せて下さる。それは物質的な意味でも、霊的な意味でも全てにおいて言える。
「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。」これは詩篇の言葉であるが、
その人は、神の祝福を受け、繁栄と富が彼の家にあり、「彼の義は、永遠に
堅く立つ。」主は、貧しい人の為にご自分の恵みと賜物を惜しみなく与える。
「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えて下さる方は…」主は、愛する
者に食物を豊かに備えて下さるだけではない。種は将来に対する望みである。
種には、不思議な力があり、それは、後の日に幾百倍もの実りをもたらす。
神の言葉は、それと同様に大きな力がある。この世界は、主のことばの通
りに成る。「わたしの口から出るわたしのことばも…空しく帰って来ること
はない。…わたしの望むことを成し遂げ…言い送ったことを成功させる。」
「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって…神への感謝を生み出す…」
パウロは、コリント教会に期待を込めて、惜しみなく献げるように祈る。パ
ウロが行く前に、彼らがそれをするなら、神への感謝を生み出す事になる。
「この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけでなく…」献金の目的
は、聖徒達の欠乏を満たす為であり、それにより神への感謝が溢れるように
なる為である。パウロは、聖徒達を支える献金を神への奉仕の務めと考えた。
「この務めが証拠となって…福音の告白に対して従順であり…」「証拠」
とは「本物であると証明される」事で、それにより、信仰の真実が試される。
教会の什一献金を含め、キリスト者の信仰の真実が、それによって試される。
ある金持ちの青年は、キリストのもとに永遠のいのちを求めてやって来た
が、自分の財産を手放すことが出来ず、キリストのもとを去って行った。そ
の金持ちの青年は、神と富のどちらを選ぶか、その信仰が試されたのである。
「あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵み…」エルサレムの
教会は、異邦人の教会に与えられた信仰の真実を知り、神を崇め、両者の間
に、霊的な愛の一致が実現する。それはキリストの恵みと聖霊の賜物による。
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No.892 - 6月22日: 「将来に望みはありますか」 ローマ人への手紙5章1節〜5節 |
(みことば)「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私達
に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」
ローマ人への手紙5章5節
「将来に望みはありますか。」と尋ねられて、一体どれだけの人が、それ
に自信を持って、「はい。私には望みがあります。」と答えられるでしょうか。
出口の見えない戦争が世界各地に起こり、新たに始まる戦争のニュースを
聞くと、それは、もはや対岸の火事ではありません。物価高、米騒動、少子
化、高齢者の年金問題等、私達を取り巻く不安材料は枚挙に暇がありません。
「この希望は失望に終わることがありせん。」聖書の言葉は、何故、この
ように確信に満ちて、希望を宣言できるのでしょうか。又、聖書が宣言する
希望とは、何でしょうか。それは、この世の人が持つ望みと少し違います。
パウロは、これを「神の栄光にあずかる望み」(2)と述べており、その「神
の栄光」とは、キリストによって与えられた「神との平和」(1)に基づくもの
であり、それは「キリストを信じる者を義とする」神の救いの恵みの事です。
勿論、キリスト者に、苦難がない訳ではなく、寧ろ、パウロは「苦難さえ
喜んでいます」と述べています。何故なら、「苦難が忍耐を生み…忍耐が練
られた品性を生み…練られた品性が希望を生み出す」と知っているからです。
即ちパウロは、苦難の先にある「神の栄光にあずかる望み」を仰ぎ見てい
ます。従って、そこに至るまでの苦難も、主にあって意味のある訓練です。
それは、「苦難、忍耐、品性、希望」という過程を経て神の救いに至ります。
ですから、たとえどんな苦難の中にあっても、神を信じる者は、絶望する
ことはありません。何故なら、神は、愛する者を決して見捨てることがない
からです。私達は、その確信をキリストを信じる信仰によって抱いています。
即ち、キリストを信じる者は、「信仰によって、義と認められたので…キ
リストによって、神との平和を持っている」(5)からです。それ故、私達は、
混沌とした不安定な時代の中でも、平安と望みを持って生きる事ができます。
私達の人生には、人の計画や努力だけでは、どうする事も出来ない事があ
ります。病気や突然起る事故や災害等、予想もしない出来事に遭遇し、阿鼻
叫喚の苦悩を経験する人もいます。それでも、意味のない試練はありません。
神を信じる者は、世の人が考えるように偶然の世界に生きているのではな
く、神のご計画と摂理の御手の中に生かされ導かれている事を知っています。
だから、神に望みを置く者は、どんな苦難の中でも絶望する事がありません。
パウロは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注
がれているからです。」(5)と語ります。キリストによる十字架の愛は、それ
を信じる者の心に聖霊によって明らかになり、救いの希望と確信を与えます。
更にキリスト者と世の人の望みの決定的な違いは、人生の終わり、即ち死
に対する解決があるかどうかです。どんなに幸福な人生を送った人でも、死
をもって地上の生涯を閉じます。世の人は、誰も死の先に希望がありません。
だが、キリスト者は、死に向って望みを失いません。何故なら、私達は、
十字架による罪の赦しと、キリストの復活による永遠のいのちの望みを持っ
ているからです。「この方に頼する者は、失望させられることがない。」(9:33)
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No.891 - 6月15日: 「豊かに蒔く者となる」 コリント第2の手紙9章1節〜7節 |
(みことば)「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心
で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです。」
コリント第2の手紙9章7節
パウロは、これまで「聖徒達を支える献金」について語って来たが、「聖
徒たちのための…奉仕については、これ以上書く必要がありません」と語る。
パウロは、そのように語りながら、再び献金に関して私見を述べる。それ
は、献金を募る働きにおいてコリント教会から期待を裏切られ、失望する事
がない為である。その為、彼は、念には念を入れ献金の準備について述べる。
「熱意を知り…アカイヤでは昨年から準備ができ…」パウロは、コリント
教会の「献金の奉仕への熱意」をマケドニアの諸教会に証し、その熱心が「多
くの人を奮い立たせ」、コリント教会が諸教会の模範となった事を証しする。
「奮い立たせ」は、「刺激する、鼓舞する」の意味で、熱心な信仰者の証
が他の人への大きな刺激となる事がある。マケドニアの教会は、彼らを見て
奮い立ち、彼らを遥かに凌ぐ程「あふれ出て、惜しみなく施す」者となった。
「私が兄弟たちを送るのは…準備してもらうため…」パウロは、コリント
の訪問に先立ち3人の兄弟を遣わすが、それは、献金を募る働きを確実に実
行してもらうためである。そうでないとパウロの彼らへの誇りが空しくなる。
パウロは、早くから献金の奉仕に携わったコリント教会が、他の教会より
お粗末な結果に終わらない様に願った。彼らがその準備と奉仕を惰り、その
働きが進んでいなかったら、マケドニアの教会も彼らに失望する事になる。
「聖徒を支える献金の準備」は、一日で出来るものではない。パウロは、
「私がそちらに行ってから献金を集めることがないように…蓄えておき…」(T
コリント 16:2)と命じた。同様に、信仰は日々の霊的な積み重ねにより成長する。
「そうでないと…確信していただけに、恥をかく…」彼らが準備できてい
ない可能性は十分にあった。お金に関しては様々な誘惑がある。だが、神の
国と神の義を第一に求める者は、主に支えられ、主の御業を見る事ができる。
もし彼らの準備が出来ていなかったら、彼らもパウロも恥をかく事になる。
「恥をかく」と同じ言葉でパウロは「この方に信頼する者は、失望させられ
ることがない」(ローマ 9:33)と述べている。主を失望させる事がないように。
「兄弟たちに…先にそちらに行って…以前に約束し…あらかじめ用意し…」
「先に…以前に…あらかじめ」は、接頭語 pro と言う用語であり、この献金
の奉仕が、場当たり的な行動でなく、前々から計画された事を強調している。
同様に私達の信仰の歩みに偶然はなく、全て神の摂理の御手に導かれてい
る。摂理を providence と言う。「惜しみながらするのでなく…」献げる者の心
が問われている。目に見える金銭に執着せず、目に見えない神に信頼しよう。
「わずかだけ撒く者はわずかだけ刈り入れ…」献金を農作業の種蒔きに譬
える。種を蒔かない者は、収穫を期待できず、その喜びに預れないが、豊か
に蒔く者は、豊かに刈り入れる者となる。宣教も献げる恵みも同様である。
「一人ひとり、いやいやながらでなく…」献げる心に「義務感」や「強い
られた思い」があれば、喜びでなくなり、恵みでなくなる。「心に決めた」
は、「予め(pro)決める」だが、信仰による決心に、主の祝福があるように。
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No.890 - 6月8日: 「主の働きに献身した人」 コリント第2の手紙8章16節〜24節
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(みことば)「私たちはテトスと一緒に一人の兄弟を送ります。この人は福
音の働きによって、すべての教会で称賛されています。」
コリント第2の手紙8章18節
パウロは、マケドニアの諸教会の惜しみなく施す献金の熱意を伝え、コリ
ントの教会も「この恵みのわざにあふれるようになってください」と願った。
そこで、パウロは、コリントの教会で献金を募るために3人の兄弟を派遣
する。その一人はテトスであるが、テトスは、パウロが、既にコリントに派
遣した人物で、彼を通してコリント教会の悔改めの知らせを聞く事ができた。
「神に感謝します…同じ熱心を…テトスの心にも与え…」彼は、パウロと
同じ熱意をもって聖徒達を支える奉仕に参加する。「彼は私の勧めを受け入
れ、大変な熱意をもって…」主の働きは、彼の様な熱意がなければできない。
パウロは主の働きの為にテトスと二人の兄弟を派遣するが、彼らの共通点
は、主と教会に対して熱心に奉仕している事である。それは主の働きを為す
時に不可欠な要素である。主の教会は、熱心な働き人により支えられている。
二人目の兄弟は、「福音の働きによって…教会で称賛されています」とあ
るように、彼は、マケドニアの諸教会から推薦され、その働きを認められ、
選任された。主の働き人は、教会の推薦と権威によって立てられた人である。
パウロは「そのわざに…仕えています」と語るが、仕える対象は、キリス
トであり、教会である。彼は、この働きを「主に仕える為の奉仕である」と
考えている。牧師や宣教師の働きは、教会の支援や祈りがなければできない。
次にパウロは、議論の脇道に逸れ、「献金の扱いの注意」を述べる。彼は、
「この惜しみないわざについて、だれからも非難されることがないように」
務める。金銭の問題でトラブルが起こる事はしばしばある。注意をしたい。
「主の御前だけでなく、人々の前でも正しくあるように心がけて…」彼は、
金銭を扱う働きで不正を疑われる事がないよう細心の注意を払う。ユダは金
入れを預かりながら盗みをして滅び、アカンは聖絶の物に手を出し裁かれた。
パウロは、3人目の兄弟を推薦するが、「この兄弟が多くのことについて
熱心で…認めることができ…」と語る。彼はパウロと近い存在で、コリント
教会とも信頼関係があった。主の働き人は信頼できる人でなければならない。
だが、パウロは、諸教会から称賛され任命されるほど、熱心で誠実な兄弟
の名前を記さない。その為、彼らが誰であるか分からないが、彼らの名は、
確かに天にある「いのちの書」に記され、その働きは、神に覚えられている。
最後にパウロは3人の兄弟を教会に簡潔に推薦する。「テトスについて…
私たちの仲間であり…同労者です。」「仲間」とは「主の苦しみと慰めを共に
する者」であり、「同労者」は、「主の働きを共に為す者」と言う意味がある。
兄弟達については、「諸教会の使者」或いは「キリストの栄光」と呼ばれ
ている。「使者」とは、「権威を与えられて一つの目的のために派遣された人」
の意味で、彼らは、「キリストの栄光」を表すために、教会から遣わされた。
パウロは、コリントの教会に対して「あなたがたの愛の証拠と…私たちが
誇りとしている理由」を諸教会の前に示して欲しいと願う。彼らは、「聖徒
たちを支える奉仕」により、彼らの「主への愛と真実」が試される事になる。
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No.889 - 6月1日: 「愛の献げ物による平等」 コリント第2の手紙8章8節〜15節 |
(みことば)「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人に
も足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。」
コリント第2の手紙8章15節
マケドニアの諸教会は「極度の貧しさの中にあっても…惜しみなく施す富
となり…聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたい」とパウロに懇願した。
パウロは、これから訪問するコリント教会にも「この恵みのわざにもあふ
れるようになってほしい」と嘆願する。但しそれは、人からの命令や強制で
はなく、「自ら進んで…献げる」自発的な愛によるものでなければならない。
パウロは、「ただ、他の人々の熱心さを伝えることで…愛が本物であるこ
とを確かめよう」とした。彼らは、マケドニアの諸教会の献げる熱心さを見
習い、それを模範とすべきである。教会の交わりの意義は、その点にもある。
その完全な模範は、主イエス・キリストである。「主は富んでおられたのに
…貧しくなられました。」主は私達の救いの為に「自らを低くし…十字架の
死にまで」従われた。私達は「キリストの貧しさによって富む者」とされた。
パウロは、献金について意見を述べるが、「それがあなたがたの益になる」
と語る。何故、献げる事が益になるのか、それは、世の人の意識と全く違う。
「施しても、なお富む人があり…支払いを惜しんでも…乏しくなる者がある」
良く献げる人は、「荒野に湧き出る泉」のようであり、幾ら汲んでもそれ
は尽きる事がない。逆に献げる事に乏しい人は、壊れた水溜から水を汲む人
の様である。主は「いのちの泉」であり、献げる者に溢れる恵みを注がれる。
パウロは、彼らの献金について「その志を持つことも…他に先んじていま
した」と言う。他の教会より先んじて行った事が、先細りになる。「後の者
が先になり、先の者が後になる。」志は、継続し完成しなければ意味がない。
「ですから今…持っているものでやり遂げてください。」パウロは、彼ら
が献金の志を完成するように懇願する。神は、それぞれに違う賜物を与えて
おられるから、その志は、与えられた賜物に応じて働きを完成させればよい。
健全な信仰と献げる正しい姿勢があれば、「持っているものに応じて受け
入れ」られる。主は、アベルとその献げ物に目を留められた。「それは芳ば
しい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」(ピリピ 4:18)
パウロは、献金の意図について「平等になるように図っている」と言う。
今の世は、貧富の格差が広がり、平等な社会とは言い難い。もし「他の人に
楽をさせ、あなたがたに苦労をさせよう」とするなら、そこに不満が生じる。
国家の社会福祉制度も、それが、決して十分とは言えず、そこに不満を持
つ人は大勢いる。だが、教会に不平等や不公平があってはならない。「今あ
なたがたのゆとりが彼らの不足を補う…そのようにして平等になるのです。」
経済的に余裕のあるコリント教会が、困窮した聖徒達を支える事は、当然
の愛の義務である。だが、それも強制されてするのではなく、自発的な愛の
行為でなければならない。それがこの世の社会福祉と教会の異なる点である。
「たくさん集めた人にも余ることはなく…」主はマナの奇跡から、神の民
に平等を図り、主の恵みを覚えさせる。平等の原理は教会において実現する。
教会は「一切の物を共有し…それぞれの必要に応じて、皆に分配して」いた。
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No.888 - 5月25日: 「献げる恵み」 コリント第2の手紙8章1節〜7節
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(みことば)「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激
しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」
コリント第2の手紙8章2節
パウロは、コリント教会にテトスを派遣し「涙の書簡」を送り、悔い改め
を促したが、彼らはそれに答えて悲しんで悔い改めた。パウロは、それによ
り「あなたがたに信頼を寄せることができる」と彼らとの信頼の回復を喜ぶ。
パウロは、信頼の関係が回復したコリント教会に新しい主題「献金」につ
いて語る。「マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを…知らせよう…」
それは、彼がコリント教会の訪問前にマケドニア教会で経験した恵みである。
マケドニアの教会は、極度の貧しさと激しい試練の中でも「惜しみなく施
す富」となる。イスラエルの荒野の旅の様に苦難の歩みを経て知り得る神の
御業がある。「試練で試された信仰は、火で精錬されて…金より高価であり、」
「惜しげなく施す」は、「物惜しみしない純真な思い」を表すが、彼らは、
富んでいたから施せたのではなく、極度の貧しさの中でも金銭に固執せず、
純粋な心で施しをする。彼らの献げ物こそ、神の前に価値ある富と言える。
パウロは、彼らの献金について「自ら進んで、力に応じて、また力以上に
献げ」と語るが、彼らの献金は、パウロの予想を遥かに超えた額であった。
献金は、「強いられてでもなく、心で決めたとおり」自発的にすべきである。
その献金は「聖徒たちを支える」為で、困窮するエルサレム教会の救済の
為であった。パウロは、この献金を異邦人教会の義務と考えた。「異邦人は
彼らの霊的なものにあずかった…物質的なもので彼らに奉仕すべきです。」
今日も献金の趣旨と普遍的な意味は変わらない。福音により救われた聖徒
達の献げ物によって、宣教の働き人の生活が支えられ、それにより、教会と
神の国の働きが継続できる。その献げる奉仕を通して、神の民が一つとなる。
パウロは、「奉仕の恵みにあずかりたい」と語るが、献金について「奉仕」
「恵み」「預かる」の3つのキーワードがある。「奉仕」は、(ディアコニア)で「使
用人が主人に仕え、給仕する」の意味がある。献金は主に仕える奉仕である。
第2は、「恵み」(カリス)であるが、パウロは、献金を受ける側ではなく、
献げる行為を恵みと捉えている。私達に与えられた命も生活も全て神の恵み
の賜物である。主は「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われた。
第3の「預かる」(コイノニア)は、「交わり、共有、参加」を意味する。私達
は献金の奉仕を通し神の御業に参加できるが、信仰に熱心な人ほど良く献げ
る。主はレプタ銅貨2枚を献げたやもめを「誰よりも献げた」と褒められた。
「期待以上に…自分自身を主に献げ…」彼らの献金は、パウロの期待以上
の額であった。勿論、金額の問題ではないが、それは、彼らの献身の現れで
ある。主がアベルの献げ物を祝福された様に、最高の献げ物を主に献げよう。
パウロは、マケドニアの教会を見て、コリント教会に対し「テトスが…始
めたからには、それを成し遂げるようにと」命じる。彼は、既に始った奉仕
の業が途切れないように祈る。私達は主への誓いを最後まで誠実に果たそう。
彼らは、「信仰にも、ことばにも、知識にも…熱心にも…愛にもあふれて」
恵みを受けたのだから、献げる恵みにも、満ちあふれる者となるべきである。
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No.887 - 5月18日: 「悔い改めの実」 コリント第2の手紙7章10節〜16節 |
(みことば)「見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、
あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。」
コリント第2の手紙7章11節
パウロは、悔い改めと後悔の違いを、悔い改めは、「神のみこころに添っ
た悲しみで救いに至る」が、後悔は、「世の悲しみで死をもたらす」と語る。
悔い改めは、心の転換であるが、後悔は、過去の過ちを悔いるだけで終わる。
「後悔」の良い事例は、イスカリオテのユダの場合であるが、彼は、罪を
悔い改める事無く、祭司長達にイエスを売り渡し、その過ちを後悔して、首
を吊って死んだ。一方、「悔い改め」の事例は、コリントの信徒に見られる。
パウロは、マケドニアに着いた時、テトスから「彼らが悲しんで悔い改め
た」事を聞く。彼は、それを「神のみこころに添った悲しみ」と表現するが、
罪とは「神を悲しませる行為」であり、悔い改めは、それを止める事である。
パウロは、彼らの悔い改めが「どれほどの熱心をもたらした」かを語るが、
神の悲しみを知った人は、早急に罪から離れ、神に喜ばれる歩みをするはず
である。そこでパウロは、彼らの悔い改めによる変革を6つの表現で表わす。
第1の「弁明」は、「ある事情を明確に説明する」事であるが、私達は、
自分の生き方を公明正大に神に説明できなければならない。「憤り」は、「神
を悲しませる事への怒り」であり、それは、神への熱心さの表われである。
「恐れ」とは、神への畏敬の念であり、神を恐れる思いから聖さや義なる
生き方が生じる。「慕う思い」とは、「切望」とも訳せるが、それは、主に対
する霊的な渇望である。「私のたましいは…あなたを慕います。」(イザヤ 26:9)
第5の「熱意」は、神への信仰の情熱を意味するが、それは「熱くも冷た
くもない」生ぬるい信仰ではない。第6の「処罰」は、「罪を犯した人への
厳正な戒規」を意味する。教会は、罪を悔い改めた者の聖なる集まりである。
パウロは、「あの問題について、あなたがたは…潔白であることを証明し
た」と述べる。それは教会に起こった罪の問題で、彼は、その為に「涙の書
簡」を書いた。それは、不正を行った人の為でも、その被害者の為でもない。
それは、「あなたがたの熱心が…明らかにされるため」とある様に、彼ら
は、教会の罪の問題を曖昧にせず、神の言葉によって公明正大に対応した。
それは人の顔色や世間体によらず、「神の御前で明らかにされる」為である。
パウロは、テトスからその知らせを聞いて慰めを受けた。又、パウロは、
「テトスの心が、あなた方すべてによって安らいでいた」事を知る。それは、
彼らがテトスを遣わしたパウロを受け入れ、神を受け入れた事を意味する。
パウロは、テトスに彼らの事を誇ったが「そのことで恥をかかずに」済ん
だ。それは、彼らが期待通りに悔い改め、「誇ったことも真実となった」か
らである。テトスも、彼らの悔い改めの実を見て、神に感謝する事が出来た。
テトスは、彼らが「恐れおののきながら自分を迎え入れてくれた」事を思
い起して、彼らに対する「愛情をますます深める」事になった。彼らの「従
順」と「恐れ」は、テトスを遣わしたパウロと神の権威に対するものである。
パウロも彼らに「信頼を寄せることができる」事を喜ぶ。信頼は、信仰の
交わりの重要な要素である。私達は神への信頼と同時に真実な者でありたい。
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No.886 - 5月11日: 「救いに至る悔い改め」 コリント第2の手紙7章5節〜10節 |
(みことば)「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔
い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
コリント第2の手紙7章10節
キリスト信仰において、悔い改めは、救いの必須の要素であるが、パウロ
は、後悔と悔い改めを区別し、悔い改めは、「神のみこころに添った悲しみ」
であり「救いに至る」が、後悔は「世の悲しみ」で「死をもたらす」と語る。
パウロは、その結論に至るまでの状況について「マケドニアに着いたとき、
私たちの身には全く安らぎがなく…」と語る。それは、パウロが第2の手紙
を書く背景でもあり、彼はトロアスでテトスと会えずにマケドニアに向った。
パウロの身に安らぎがないのは、「外には戦いが、内には恐れが…」とあ
る様に、教会の外から来る迫害や教会の内部で起こる問題に悩まされていた
からである。同様に多くの人も家庭の内外に苦悩や戦いや不安を抱えている。
だが、不安や恐れを抱えるパウロの元に慰めの知らせが届く。それは、テ
トスとの再会だけでなく、コリント教会の悔い改めの知らせを聞いたからで
ある。パウロは、それを「気落ちした者を慰めてくださる神は…」と語る。
パウロは、その慰めを齎した要因を神ご自身であると考えている。そこに
神の働きがあるなら、頑なな人の心が変えられ、その人と和解でき、信頼関
係が回復する。人には出来ない事でも、神には、どんな事でもお出来になる。
パウロは、何度も「慰め」と言う言葉を使うが、原語は(パラクレートス)で「助
け主」の意味であり、その方は「聖霊」又「真理の御霊」と呼ばれている。
時には人の言葉も慰めになるが、最高の助言者は私達の内に住む御霊である。
「気落ちした者」とは、「身を低くする」「遜る」の意味であるが、それは、
神が慰めて下さる人の条件であり、悔い改める人の共通の資質である。「神
へのいけにえは砕かれた霊。…砕かれた心。…あなたはそれを蔑まれません。」
テトスとの再会は、パウロにとって、勿論、慰めであったが、それ以上に、
パウロは、コリント教会の霊的状態を気にかけていた。即ちパウロの派遣し
たテトスが、コリント教会でどの様な扱いを受けるかが祈りの課題であった。
パウロは、テトスを通してコリント教会の現状を知る。即ち「私を慕うあ
なたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて」
喜びに溢れた。特に彼らが深い悲しみをもって悔い改めた事を神に感謝する。
パウロは、「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後
悔していません。」と語る。パウロは、「涙の書簡」と呼ばれる幻の手紙によ
って彼らの罪を指摘し、それは、彼らの心を痛め、悲しませる結果となった。
だが、罪の本質を避けて表面的な交わりや安易な慰めを語っても、罪の問
題は何も解決しない。たとえ彼らが悲しむ事になっても、彼らが、ただ悲し
むだけでなく、「悲しんで悔い改める」なら、それは彼らにとって益となる。
その意味で、悔い改めと後悔は、全く違う。悔い改めは、心の転換であり、
それは、神を信じない罪の生き方から、神を信じる信仰の生き方に人生の方
向を転換することである。だが、後悔は、過去の過ちを悔やむだけである。
人は、過去を変える事は出来ないが、悔い改めにより未来を変える事は出
来る。悔い改めは、救いに至るが、後悔、即ち「世の悲しみ」は、死を齎す。
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No.885 - 5月4日: 「聖さを全うする」 コリント第2の手紙6章16節〜7章4節 |
(みことば)「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、
…一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようでは…」
コリント第2の手紙7章1節
パウロは、コリントの「愛する者たち」に向けて、「このような約束を与
えられているのですから…」と勧めるが、それは、これまでの結論と言える。
パウロは、これまで信者と不信者の違いを明確に語り、信者が不信者と安
易に交わり、調和し、共有し、一致することがないように警告した。それは、
信者にとって、誘惑となり、躓きとなり、聖さを失う危険があるからである。
神は、偶像に満ちた堕落した世に御子を遣わし、御子を信じる者を滅びか
ら救い、悪魔の支配から解放し、聖なる神との交わりに入れて下さった。「私
たちは生ける神の宮なのです。」聖徒達は、神の宮で神を讃える者とされた。
神は、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。」と約束された。その言葉の
通り、神は、イスラエルの民が荒野を旅する間、神の幕屋を住まいとし、雲
の柱と火の柱により彼らを導かれた。「わたしは彼らの神となり…民となる。」
主は、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。」と命じる。
神は、イスラエルを聖別し、神の栄光を誉め讃える民とする為に、父祖アブ
ラハムに「あなたの親族を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」と命じた。
神の祝福の条件は、「彼らの中から出て行き、彼らから離れる」事である。
「汚れたものに触れてはならない。」それと同様にパウロは、「肉と霊の一切
の汚れから自分をきよめ…聖さを全うしようではありませんか。」と勧める。
キリスト者は、既に罪を赦され、聖徒とされているが、尚、肉体に戦いを
挑む罪の性質が残っている。それを肉の力で断ち切る事は出来ない。「神を
恐れつつ聖さを全うしよう…」そこに神を恐れる敬虔さがなければならない。
神を恐れる敬虔さは教会の礼拝の中で生じる。そこに聖なる神の民とされ
た群れと世との区別がある。主は教会に集う聖徒の群れを聖め、愛し、導び
かれる。全能の主は、「あなたがたはわたしの息子、娘となる。」と言われる。
だが、コリント教会には、伝道者パウロとの間に、神の約束を与えられた
聖徒に相応しくない関係があった。パウロは、彼らに「私たちに対して心を
開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく…」と弁明する。
それは、パウロにとって心外な事であるが、彼は、それでも愛をもって「あ
なたがたを責めるために」言うのではなく、寧ろ、「あなたがたは、私たち
とともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにある」と答える。
それは、彼らが「キリストとともに死に…とともに生きる者とされた」と
いう信仰に基盤を置いている。教会の兄弟との関係において、様々な問題が
あっても、キリストの死と復活により生かされている事実に変わりはない。
パウロは、「あなたがたに対する大きな確信があり…誇りがある」と言う。
それは、同じ信仰の一致に基づく確信であり、その誇りとは、世の人の上辺
の誇りと違い、彼らが偶像の世において堅く信仰に立っている誇りである。
最後に、パウロは、どんな苦難の中にあっても、慰めや喜びに満たされて
いると言う。その慰めや喜びは、コリントの信徒が悔い改めた知らせを聞い
た事による。真の悔い改めが、神との関係を回復し、悲しみが喜びに変わる。
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No.884 - 4月27日: 「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19節〜31節 |
(みことば)「その日…ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来
られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハネの福音書20章19節
ヨハネは、主の日の復活の朝に続いて、同じ主の日の夕方の出来事を記す。
今度は、マリヤだでなく、弟子ちが集まっている所にキリストが来られた。
「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」弟子達は、ユダヤ人の迫
害を恐れて部屋に籠もっていたが、主は、彼らの真ん中に立たれる。死に勝
利された方は、墓石を取り除き、施錠された部屋にも簡単に入る事が出来る。
彼らは、まだ、主の力を知らず、人を恐れて鍵をかけ部屋の中に閉じ籠る。
現代でも軋轢社会の中で心を病み、外部との交流を絶つ人も多い。主は、怯
えながら肩を寄せ合う集まりの中に立ち「平安が…あるように」と言われた。
恐れる抱く者に必要な事は「心の平安」である。ユダヤ人の挨拶「シャー
ローム」は、「平安があるように」であるが、人間関係に平和がなければ、
傷付け合う事を恐れて外に出られない。罪の世界には、完全な平和などない。
キリストの言う「平安」は、決して気休めではない。復活の主は、幽霊で
も、幻想でもない。その証拠に「イエスは手と脇腹を示された。」主の手に
は、十字架の釘の跡があり、わき腹には、槍で突き刺された跡が残っていた。
彼らは、その方が「キリストである」と知って喜んだ。マルクスは、「宗
教は阿片で、疎外のない社会に宗教は必要ない。」と言うが、社会福祉が充
実し物資的に満たされても、人の心に神がおられなければ、魂に平安はない。
「平安があなたがたにあるように。」罪のない神の御子が、十字架にかか
り、罪の刑罰を負う事で、「神との和解」と「平和の道」が備えられた。即
ち、キリストの手と脇腹の傷の跡は、私達の罪の贖いと赦しのしるしである。
「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
「遣わす」とは、「一つの目的の為に権威を授けて派遣する」意味がある。
彼らは、主の復活を切っ掛けに変えられ、主の証人として世に遣わされる。
主は、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。」と言われた。それは、
神が人を創造した時に「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」事に似ている。
彼らは、神の御霊を与えられ、人を恐れずに、神を大胆に証しする者となる。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら…」罪の赦しの権威は、キリストだ
けに与えられている。主は、その権威を弟子達に与えられた。誰でも福音を
信じるなら罪を赦され、いのちを持つが、信じないなら罪はそのまま残る。
だが、トマスは「彼らと一緒にいなかった」ので、弟子達が「私たちは主
を見た」と証言しても、彼は「手を入れてみなければ…信じません」と断言
する。彼は主の日を疎かにした為、主の恵みが分からず、疑いの中に留まる。
「八日後…トマスも…一緒にいた。」主は、前回同様、彼にも現れ「あな
たの指を…脇腹に入れなさい」と命じる。主は「見なければ信じない」と言
った彼の証言通りにされる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
彼は、復活の主を見て「私の主、私の神よ」と言った。「見ないで信じる
者は幸いです」信仰がなければ、神に喜ばれる事はできない。聖書は「イエ
スが神の子であると信じ…イエスの名によっていのちを得る」為に書かれた。
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No.883 - 4月20日: 「私は主を見ました。」 ヨハネの福音書20章1節〜18節 |
(みことば)「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならない
という聖書を、まだ理解していなかった。」
ヨハネの福音書20章9節
ヨハネは、キリストの十字架の死の後に起こる主の復活の出来事を詳細に
記録している。キリストの生涯は、他の偉人の伝記と違い、死で終わらない。
キリストの復活を最初に目撃し、証言したのは、マグダラのマリヤである
が、彼女は「7つの悪霊を追い出してもらった人」と記され、ガリラヤから
従って来た女性であった。「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに…」
彼女は、誰よりも主を愛していたが、教会は、これ以降、週の初めの日を
主の復活を記念して「主の日」と呼び、ユダヤ教の「安息日」に代わり、神
を礼拝する日と定める。神を愛する者は、主の日を大切にし、教会に集まる。
「マリヤは、…石が取りのけられているのを見た。」彼女の行く手を阻む
大きな石は、主によって取り除けられていた。主は、神の道を阻む大きな試
練も、主を愛する者の為に取り除いて下さる。だから、主に期待して歩もう。
彼女は、墓の状況に困惑し、二人の弟子に「だれかが墓から主を取って行
きました」と伝えるが、それは誤った解釈である。真実は、「主は墓から復
活した。」のである。だが、常識的に「主が復活した」とは誰も想像しない。
主は、愛する者の為に常識を超えた驚くべき救いを備えておられる。ペテ
ロともう一人の弟子は一緒に墓に向かうが、もう一人の方が先に墓に着く。
彼は墓の中を覗き込んだが、入らなかった。彼には、その勇気がなかった。
だが、ペテロは、彼より遅く着くが、大胆に墓の中に入り状況を観察する。
「布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに…」もし、主のからだが盗ま
れたなら、その様な状況はあり得ない。彼らの証言は、主の復活を証明する。
もう一人の弟子も入って「見て、信じた。」とある。だが彼らは、復活を
信じたのではなく、マリアの証言を信じただけである。「彼らは…聖書を、
まだ理解していなかった。」主は、御言葉を通し予め復活を告げておられた。
「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」彼女は、主の死を悼
み、更に主のからだがない事を悲しみ続ける。だが、彼女の涙を拭い去る出
来事が起こる。「白い衣を着た二人の御使いが、…座っているのが見えた。」
御使いは、主に仕えるように座り、「女の方、なぜ泣いているのですか。」
と尋ねるが、彼女は「だれかが私の主を取って行きました」と答える。確か
に彼女は、主を愛しているが、まだ、彼女は、復活された主の力を知らない。
「彼女は…それがイエスであることが分からなかった。」悲しみに暮れる
者には、生きた主の姿が分からないが、主は、彼女の後ろに立っておられる。
彼女は、その方を園の管理人だと思い、主をどこに運び去ったかを尋ねる。
エデンの園の管理を任されたのは、最初の人アダムであるが、彼は、堕落
して園を追放される。「第2のアダム」と呼ばれるキリストは、アダムと違
い、神の御心を完全に行い、救いを完成し、死に勝利し、よみがえられた。
イエスは、彼女に「マリア。」と呼びかけ、彼女は、振り向いて「ラボニ」
「先生」と答えた。個人的な親しい関係がよみがえる。信仰は、神への人格
的な応答である。マリアは、弟子たちに「私は主を見ました。」と証言した。
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No.882 - 4月13日: 「神との一致と世との分離」 コリント第2の手紙6章11節〜18節 |
(みことば)「不信者とつり合わないくびきをともにしてはいけません。正
義と不法に何の関わりが…光と闇に何の交わりがあるでしょう。」
コリント第2の手紙6章14
パウロは、この箇所で2つの異なるテーマに関して、前半は「宣教者パウ
ロと教会との関係」について、後半は「信者と不信者の関係」について語る。
前半の主題で、教会の信徒は、御言葉を語る説教者に対して心を開かなけ
れば、御言葉の真実が届かない。後半の主題で、信者と不信者との関係にお
いては、一線を隔するべきであり、同じくびきを負うべきではないと勧める。
まず、パウロは、前半の主題であるコリント教会との関係において、「私
たちはあなたがたに…率直に話し…心は広く開かれています。」と語る。そ
れはパウロとコリント教会との間に、ある種の緊張関係があったからである。
礼拝において、説教者と聴衆の間に見えない壁があると御言葉の恵みは届
かない。パウロは、「私たちの愛の心は、狭くなっていません。」と語り、寧
ろ、聴衆に対して「あなたがたの思いの中で狭くなっている」と指摘する。
御言葉の恵みは、心を広く開かなければ受ける事が出来ない。心を狭くし、
目に見えない壁を作っている原因は何だろうか。頭で理解できても、心を狭
くし、素直に受け入れられない事もある。神との関係も、それと同様である。
「私は子どもたちに語るように言います。…心を広くしてください。」コ
リントの信徒は、パウロが生んだ霊的な我が子である。時には、霊の親とし
て厳しく叱る事もあるが、親の愛は変わる事がない。父なる神も同様である。
次に、後半の主題である「信者と不信者の関係」において、パウロは、「不
信者とつり合わないくびきをともにしてはいけません。」と命じる。牛と馬
など、種類の異なる家畜が、同じくびきを負うとうまく農作業ができない。
「牛とろばとを組して耕してはならない。」(申命記 22:10)主は、霊的意味を
家畜に譬えて戒めている。信者と不信者は、価値観や生き方において全く異
なり、両者が一致することは難しく、無理してくびきを負えば互いに傷付く。
パウロは、両者の違いを5種類の対照的な言葉で表現する。「正義と不法
とに何の関りが…光と闇に何の交わりがあるでしょう。」まず、道徳と倫理
に関して、信者は神の律法を持つが、不信者は、善悪の規準を何も持たない。
光と闇が交わらないように、信者は、神により聖なる者とされ、光の中を
歩む者とされた。「キリストとベリアルとに何の調和が…」ベリアルは、悪
魔の代名詞であるが、キリストは、悪魔に妥協することなく救いを完成した。
「信者と不信者が何を共有して…」「共有する」は「割り当て」と訳せる。
信者は「天の御国」を約束されているが、未信者にはその割り当てがない。
「神の宮と偶像とに何の一致が…」神の宮は、偶像の神と一切関わりがない。
イスラエルは、異教の宗教に影響され堕落した。「私の愛する者たちよ、
偶像礼拝を避けなさい。」「私たちは生ける神の宮なのです。」神は、「彼らの
間に住み、また歩む。…彼らの神となり、わたしの民となる」と言われる。
創造者である主が「私の主、私の神」となる。「それゆえ、彼らの中から
出て行き、彼らから離れよ。」神は、ご自分の民を選び、彼らを通して神の
栄光を現わされる。「わたしはあなたの父となり…わたしの息子、娘となる。」
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No.881 - 4月6日: 「今は恵みの時、救いの日」」 コリント第2の手紙6章1節〜10節 |
(みことば)「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救い
の日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」
コリント第2の手紙6章2節
パウロは、コリントの教会の人々に「神とともに働く者として…神の恵み
を無駄に受けないように」と勧めるが、それは、パウロの願いと言うより「神
と共に働く者」「キリストの使節」として、「神の意志と神の願い」を伝える。
「神の恵みを無駄に受ける」とは、神の救いを無にする生き方を示す。私
達は、キリストの贖いにより、神の救いを無償で受け、神によって新しく造
られた者である。だから、それにふさわしい、神に喜ばれる生き方をしよう。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」
預言者はバビロンの捕囚と言う苦難からの解放を預言する。同様に「今は恵
みの時、今は救いの日」であり、福音を通して、神の救いが宣教されている。
日本は、信教の自由が保障され、誰もが自由にキリストを信じる事ができ
る。その点で、自由のない共産主義やイスラム社会より遥かに恵まれている。
だが、残念な事に、キリストを信じる者が少なく、恵みが無駄になっている。
「今は恵みの時」とあるが、やがて恵みの時が終わりを迎える。それは、
人生の終わりか、世の終わりに訪れる。神の審判の前に救いを受け入れよう。
パウロは、宣教者として「私たちは、この務めがそしられないように…神
のしもべとして推薦している」と言う。彼は、福音以外のことで、誰からも
非難される事がなく、躓きの口実を与えないように、神の民の模範となった。
彼は、「神のしもべ」としての模範を9つの試練、即ち「苦難、苦悩、困
難、むち打ち、入獄、騒乱、疲れ果てた時、眠れない時、食べられない時」
に証しする。多くの人は試練の中で弱り果て、心を病み、何もできなくなる。
だが、彼は、試練に対処する秘訣を心得ており、苦難の中でも「大いなる
忍耐を働かせる」事ができた。彼に備えられた9つの武器は、「純潔、知識、
寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理のことば、神の力、義の武器」である。
それは、キリストの愛に基づく御霊の賜物であり、神の人には、恵みの賜
物が備わっている。更に、パウロは、人からの評価や評判に、どのように対
処すべきかを語る。「ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を…」
人の評価や評判は、良い時もあれば悪い時もある。だから人の評価で一喜
一憂する必要はない。それより神のしもべは、神の評価を気にすべきである。
人は、終わりの日に「キリストのさばきの座の前に現れなければ」ならない。
最後にパウロは、キリスト者の「表面と本質」の違いを7つの言葉で対比
する。「だます者のように見えても、真実であり…」世の人は、世の偽りの
宗教の故に、福音も偽り物と見なす。だが世の偽りの中に真理が輝いている。
「人に知られないようでも…」世の人は、無関心を装っていても、神の人
を良く見ている。「死にかけているようでも…」パウロは、死に直面しても、
そこから、何度も生還した。「悲しんでいるようでも…貧しいようでも…」
神の人の表面的な姿とその本質は、全く異なっており、たとえ、「悲しん
でいるようでも」その魂は、いつも喜びで満たされ、「何も持っていないよ
うでも、すべてのものを持って」おり、多くの人を富ませることができる。
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No.880 - 3月30日: 「神の和解を受け入れる」 コリント第2の手紙5章11節〜21節 |
(みことば)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。そ
れは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
コリント第2の手紙5章21節
パウロは、「主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようと
する」と語るが、それは全ての人が「主の裁きの座」の前に立つからである。
救いの希望は、福音の宣教とキリストを信じる信仰以外にない。「私たち
のことは、神の御前に明らかです。」パウロの宣教の姿勢は、明白であるが、
彼の望みは、「それが、あなたがたの良心にも明らかになること」であった。
「私たちは…自己推薦しているのではありません。」教会の中にパウロを
非難する「うわべを誇る人たち」がいた。パウロは、教会に「福音を誇る機
会を与え」そのような上辺の信仰者に「応じられるようにしたい」と考えた。
「機会」とは、「出発点」「根拠地」を示すが、私達は、キリストの福音を
人生の出発点、根拠地とすべきである。世の人に対し「機会を十分に生かし、
知恵をもって行動し」「説明を求める人に…弁明できる用意」をしておこう。
「正気でないとすれば…神のためであり…」パウロは、「自己推薦」と同
様に「気が狂っている」と非難される。だがそれは、キリストへの熱心さの
現れであり、それは「生ぬるく、熱くも冷たくもない」信仰より遥かに良い。
パウロは、宣教の情熱を「キリストの愛が私たちを捕えている」と語る。
「捕える」は「熱中する」「没頭する」の意味で、彼の宣教の情熱は、世を去
る日まで変わらない。キリストの愛を知らずに人生を終える人は不幸である。
「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのであ
る」それは、キリストの十字架の死を意味しているが、冒頭の 21 節の御言
葉は、別の表現でそれを表しいる。十字架は、神の愛と救いのしるしである。
「すべての人が死んだ」とは、積極的に言うなら「生きている人々が…死
んでよみがえった方のために生きるため」であった。即ち「罪の中に生きて
いた私達は、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる者」となる。
「今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。」世の人は、人間的な
上辺や外見で人を判断する。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」肉にし
たがって見る人は、キリストの十字架を神の救いの御業として理解できない。
「キリストのうちにあるなら…新しく造られた者です。」それは、キリス
ト者の回心に伴う霊的変革を意味する。神はアダムの子孫として人類を創造
されたが、罪の系譜を断ち切り、新しい神の民である神の子孫を創造された。
「古いものは過ぎ去って…すべてが新しくなりました。」その人は古い罪
の時代の人生や価値観を一掃され、主にある新しい人生と世界観で彩られる。
全てのものは、神から出ており、この世界に人間から始まるものは何もない。
「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ…」主は、神に背い
た人類の為に「背きの責任を人々に負わせず」神の御子が十字架の刑罰を負
う事で和解を成立させた。更に主は「和解のことばを私たちに委ね」られた。
パウロは、キリストに代わる使節として「神と和解させていただきなさい。」
と勧める。通常和解は、過失を犯した者が代償を払って成立するが、神の側
が全ての代償を払い和解を勧める。後は人がそれを受け入れるか否かである。
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No.879 - 3月23日: 「永遠の住まいの望み」 コリント第2の手紙5章1節〜10節 |
(みことば)「地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下
さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを…知っています。」
コリント第2の手紙5章1節
パウロは、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を留めま
す。」と語ったが、それは、特に神の存在や人間の魂や天の御国などである。
パウロは、天の御国について、地上と天を比較して「地上の住まい」を「幕
屋」、天の御国を「人の手によらない永遠の住まい」と表現する。「幕屋」は、
イスラエルが40年の荒野の旅で使用した天幕(テント)の住まいの事である。
「幕屋が壊れても」とは、地上の人生の終わり、死を意味する。「私たち
の齢は七十年。健やかであっても八十年…瞬く間に時は過ぎ…」人生は、束
の間であり、人は、天幕を畳むようにこの世の物を捨てて次の場所に移る。
私達は「この世が全て」と考える現世的な人と違い、アブラハムのように
「地上では旅人であり、寄留者のように告白して」歩むべきであり、私達に
は、「天に神が下さる建物…永遠の住まい」が備えられている事を覚えよう。
天は、科学的理論的に説明できないが、確かに実在し、「見えるものも、
見えないものも」御子によって造られた。キリストは、「わたしの父の家に
は、住む所が沢山あります。…わたしのもとに迎えます。」と約束された。
「天の住まい」は、「神が下さる建物」と表現され、それは「地上の住ま
い」と異なり、幕屋のような簡易で粗末な家ではなく、壊れることのない「永
遠の住まい」である。どんなに立派な住まいも永遠の住まいと比較できない。
パウロは、「天から与えられる住まいを着たい」と切望し、その為に「こ
の幕屋にあって」呻き苦しんでいる。どんなに辛く重い苦難であっても、そ
れが永遠に続く事はなく、それは、地上の幕屋の一時の苦しみに過ぎない。
パウロは、「その幕屋を脱いだとしても…裸の状態でいることはない」と
語る。キリストを信じる者は、やがて、朽ちて行く地上のからだを脱ぎ捨て、
天において、永遠のいのちと神の栄光に輝く朽ちないからだを着る事になる。
「幕屋のうちにいる間…うめいています。」私達は地上の苦難を避ける事
はできないが、神は試練と共に脱出の道も備えて下さる。だから「この幕屋
を脱ぎたい」と思うのではなく、望みを天に置き、地上の使命を全うしよう。
神は、「そうなるにふさわしく私達を整えて」下さる。「神はその保証とし
て御霊を下さいました。」私達は、キリストの復活のいのちと御霊の働きに
励まされて、この地上を歩むことができる。「私たちはいつも心強いのです。」
「ただし、肉体を住まいとしている間は…主から離れている…」私達は、
地上のからだの不完全さのゆえに、疑いや誘惑や失望を経験する。だが、信
仰は、「望んでいることを保証し、目に見えない物を確信させる」力がある。
パウロは、「信仰によって歩んで」いるので心強くいられるが、「むしろ肉
体を離れて、主のみもとに住む方が良い」と考える。いずれにせよ、彼の願
いは「主に喜ばれる」事である。私達は、何の為に今を生きているだろうか。
「私たちはみな、善であれ悪であれ…キリストのさばきの座の前に現れな
ければならない」人はこの地上の生き方を清算する時が必ずやって来る。そ
の時、人は善悪の報いを受ける事になる。だから自らの生き方を吟味しよう。
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No.878 - 3月16日: 「地上の苦難と永遠の栄光」 コリント第2の手紙4章13節〜18節 |
(みことば)「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めま
す。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
コリント第2の手紙4章18節
パウロは、「この宝を土の器の中に入れている」と語ったが、宝とは、「栄
光の輝きを放つ福音」であり、それが人間のような弱い器により証しされる。
「私は信じています。それゆえに語ります。」詩篇の記者は「苦しみの中
に置かれても、信じている故に語らざるを得ない。」と神の言葉への情熱を
記す。「同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。」
エレミヤは、民の滅亡を語った為に迫害され、人々の嘲りと物笑いの種と
なる。彼は、「『主のことばを宣べ伝えない。』と思っても…主の言葉は…燃
えさかる火のようになり…しまっておくのに耐えられません。」と告白した。
パウロは、詩篇の記者やエレミヤと同様に神の言葉への情熱を表明する。
それは、神の言葉が人のいのちと滅びに関わるり、福音を語らなければ、人
は確実に滅びるからである。だから人々から嘲笑されても語らざるを得ない。
特に、福音の御言葉において重要なことは、キリストの復活である。「主
イエスをよみがえらせた方が…」パウロが苦難の中で福音を語るのは、「私
たちをもイエスとともによみがえらせ」て下さると知っているからである。
主にある信仰者は、やがて主の御前に立つ時に、その行いに応じて報いを
受ける事になる。それは主の為に生きた信仰の証しである。教会は、献身的
な信徒の奉仕や献げ物で成り立つ。主にある労苦は無駄に終わる事がない。
「すべてのことは、あなたがたのためであり…」パウロの宣教の労苦も全
て教会の益の為であり、神の言葉は、その為に私達に与えられている。それ
は、神の恵みが多くの人に及び、感謝で満ち溢れ、神の栄光となる為である。
神の言葉は、この世の人に難しく思えるかも知れない。だが、難しいから
分からないのではない。神は、誰でも、神を求めるなら、それが理解できる
信仰の霊を与えて下さる。その心の覆いは、キリストによって取り除かれる。
パウロは「ですから、私たちは落胆しません」と語る。「落胆する」は、「何
もやる気力がなくなる」状態を表し、彼の周りには、そのような要因が山ほ
どあった。それでも彼が落胆しないのは神の栄光を仰ぎ見ているからである。
「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて…」
「外なる人」とは、人の肉体を指すが、肉体は年齢と共に衰えて行く。だが、
「内なる人」即ち、神によって造り変えられた霊は、日々新たにされて行く。
「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど…」地上
の苦難を重くて辛い、苦しいものと捉えるかどうかは、比較の対象により変
わる。それを他人と比較しても変わらないが、天の栄光とは比較にならない。
地上の苦難がどれほど辛いものであっても、それは「瞬く間に時は過ぎ…
飛び去る」束の間の事である。地上の苦難も快楽も栄光も一時の事であるが、
天の栄光は永遠に続く。永遠と比較すると全て限りなくゼロに近い値となる。
人生観は、人の見る視点によって全く変わる。「私たちは見えるものにで
はなく、見えないものに目を留めます。」神は、目に見えないが、神によっ
て全ての世界が造られた。それは、神の栄光に輝く天の御国も然りである。
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No.877 - 3月9日: 「「神のしもべとして」 コリント第2の手紙4章5節〜12節 |
(みことば)「私たちはこの宝を土の器の中に入れています。それは、この
計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明
らかになるためです。」 コリント第2の手紙4章7節
パウロは、栄光ある福音の務めを委ねられた者として、苦難の時も落胆す
ることなく、「神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」姿勢を貫いて来た。
パウロは、真実な宣教者として「自分自身を宣べ伝えるのではなく…キリ
ストを宣べ伝える」と告白する。彼は、自己宣伝する者ではなく、人々が神
の言葉によってキリストを主と崇め、神の栄光を現わす者となるように導く。
「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」
彼は、彼自身の働きを通して、一人でも多くの人が救われ、福音に仕える者
となることを目指して来た。「私は福音のためにあらゆることをしています。」
神の救いを受け、教会の礼拝に参加できる事は、主の恵みであり、幸いな
事であるが、そこに留まらず、私達は、パウロのように「主と教会に仕え、
他の人の救いや成長の為に奉仕する者となる」ことを目標とすべきである。
「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が…」私達が救われたのは、
神の栄光を現わす為である。冒頭の言葉は、神による光の創造の御業を語る
が、主は、「神の栄光を知る知識を輝かせるために」私達の心を照らされた。
「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。」「宝」は「神の栄光の
福音」を指し、「土の器」は素焼きの陶器の事で、私達自身、或いは、教会
を指す。主は、立派な器ではなく、粗末な土の器にご自身の宝を入れられた。
教会は、「聖徒の集まり」であるが、「罪を赦された罪人の集まり」でもあ
り、その為に欠点もあり、問題も多く起こる。だが、主は、そのような欠け
だらけで、弱く見栄えのしない土の器を通して、ご自身の栄光を現わされる。
「それは、この測り知れない力が神のものであって…」主は土の器を通し
てご自身の栄光を現わされる。主の弟子達は、無学なガリラヤの漁師達であ
った。神は、この世の知者や学者を用いず、取るに足りない器を用いられた。
それは、人を誇らせず、主だけが崇められる為である。人は、優秀な学歴
や、社会的な地位や、多くの財産を持っていても、主を知らなければ、滅び
があるだけである。この世の宝を誇り、自慢する人は、永遠のいのちを失う。
「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。…」
神を信じていても、苦難がなくなる訳ではない。寧ろ、私達は、苦難の中で
神に助けを求める時に、神の全能の御力を知り、神の栄光を見る事が出来る。
「私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。…」それは、「十字
架の死」を意味しているが、キリストが世の救いの為に十字架を負われたよ
うに、私達も十字架を負う者となろう。そこに「イエスのいのち」が現れる。
「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。…」
キリストの十字架の死は、1度だけの出来事で、それによって人類の贖いが
完成した。だが救われた私達は、日々キリストと共に死ぬ経験が必要である。
それは神に逆らう肉の性質、自我が残っているからである。それを十字架
につけて殺さなければ、「キリストが私のうちに生きおられる」経験はでき
ない。パウロの福音の為の苦悩は、彼らがキリストのいのちに預る為である。
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No.876 - 3月2日: 「神のしもべとして」 コリント第2の手紙4章1節〜5節 |
(みことば)「それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、
それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。」
コリント第2の手紙4章3節
パウロは、これまで、旧約の律法と対比しながら、新しい契約であるキリ
ストの福音が、どれほど輝かしい栄光に満ちたものであるかを語って来た。
彼は、その栄光に満ちた福音の働きに仕える者として「どのように生きる
べきか」心構えを語る。まずパウロは「あわれみを受けてこの務めについて
いる」と語るが、彼は、使徒として召され、主を証しする使命が与えられた。
その神からの召命感と使命感が彼を突き動かす原動力である。人は、その
使命感を失うと仕事や生きる気力さえ失う。それは「何の為に生きるのか」
と言う動機に関わる事で、それは神を知る事で、神から与えられる力である。
又、「あわれみを受けて」とは、受動的な意識で、それは、自分の願いや
努力によって得た栄光ではない。パウロは、キリストと教会に激しく敵対す
る者であったが、主の憐れみによって回心し、福音の宣教者として召される。
それ故、彼は、様々な苦難があっても「落胆することがありません」と告
白する。彼は、想像を絶する苦難の中でも、諦めずに宣教を続けて来たが、
それは「彼自身の強さ」ではなく、主から与えられた召命が彼を支えて来た。
主からの使命感は、人の生き方を変革する。第1に「恥となるような隠し
事を捨て」とあるが、それは「神に喜ばれない生き方を止める決意」である。
人は隠れた所で罪を犯すが、「隠し続けられる」と考える所に愚かさがある。
第2に「ずる賢い歩みをせず」であるが、それは「抜け目なさ」や「狡猾
さ」表す。人は与えられた知性を「何のために用いるか」試される。その知
性は、自分の利益の為ではなく、神の国と他者の益の為に用いるべきである。
第3は「神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」事である。既に「神の
ことばに混ぜ物をせず」とあったように、説教者は人を恐れず、真っ直ぐに
神の言葉を語り、真理を解き明かすべきである。真理とは、キリストである。
パウロは、人々が神の言葉を拒絶しても、彼は「神の御前で自分自身をす
べての人の良心に推薦しています」と証言する。「人の良心」とは、人の意
識や自覚の事であるが、彼は人の判断や評判を気にせず、神を意識している。
「それでもなお…福音に覆いがかかっているとしたら…」ユダヤ人は、「彼
らの心に覆いが掛かって」いたので福音を理解できなかった。同様にパウロ
の語る福音を理解できないのは、彼の問題ではなく、聞く側の問題である。
「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし…」それは、彼らの罪の
問題であり、同時に悪魔の支配と働きによる。悪魔は、人々を惑わし、彼ら
を支配下に置き、心の思いを暗くし、福音の光を輝かせないようにしている。
私達は、無知で暗い時代の中にあって「神のかたちであるキリストの栄光
に関わる福音の光」を教会を通して輝かせなるべきである。やがて、悪魔は、
終わりの時代に反キリストを世に遣わし人々を惑わす。目を覚ましていよう。
最後にパウロは、「自分自身を宣べ伝えるのではなく」と語るが、自己宣
伝ではなく、キリストを宣べ伝える者でなければならない。又「仕えるしも
べ」とあるように、信仰の成長した人は、「しもべに徹する」ことができる。
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No.875 - 2月23日: 「栄光から栄光へ」 コリント第2の手紙3章12節〜18節 |
(みことば)「モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆い
がかっています。…人が主に立ち返るなら…その覆いは除かれます。」
コリント第2の手紙3章15,16節
パウロは、「このような望みを抱いているので…きわめて大胆にふるまい
ます」と語るが、それは「新しい契約に仕える」者に与えられる望みである。
新しい契約の栄光は、モーセの時代のような消え去る栄光ではなく、それ
より遥かに優れた栄光であり、キリストにより教会の内に輝いている。パウ
ロは、その「望みを抱いているので…きわめて大胆に振るまいます」と語る。
その彼の大胆な宣教は、初め同胞のユダヤ人に対して為された。彼は、「古
い律法の契約に救いがなく、それは、キリストにおいて成就した」と語った。
彼らが福音を拒んだので、パウロは、ユダヤ人から異邦人に宣教を転換した。
私達は、彼のように大胆にこの世の人に福音を語ることができる。何故な
ら、この世の人は、人生に何の希望も持っていないからである。たとえ、世
の人が福音を拒絶し、反対しても、それで気落ちしたり、めげる必要はない。
モーセは、消え去る栄光をイスラエルの子らに見せないように「自分の顔
に覆いをかけた」が、パウロは、「モーセのようなことはしません。」と言う。
それは、私達の栄光が、モーセより遥かに勝るキリストの栄光だからである。
私達は、福音の栄光を誰にも隠す必要はなく、大胆に真実を語るべきであ
る。福音を語る事に不自由があるとするなら、それは人を恐れているからで
ある。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」
パウロは、もう一点「モーセに覆いが掛けられた」出来事を「イスラエル
の子らの理解は鈍くなった」と言う視点から象徴的に語る。彼らが、モーセ
の栄光を見つめることができなかったのは、彼らの心が鈍かったからである。
イスラエルの子らは、「今日に至るまで、古い契約が朗読され」ているが、
彼らは、未だに「覆いが掛けられたまま」の状態で、キリストを救い主と信
じていない。彼らの覆いは、「キリストによって取り除かれる」ことになる。
「今日まで、モーセの書が朗読されるときは…」それは、律法をどのよう
に読むかによる。律法は、人に罪の意識を生じさせ、キリストに導く養育係
の役目を果たす。それは、「私達が信仰によって義と認められる」為である。
そこで、「心の覆い」は、どのように取り除くことができるのだろうか。
それは人の行いによるのではく、心の問題であり、「人が主に立ち返る」と
いう信仰と意志の問題である。それを「信仰の告白」或いは「回心」と言う。
パウロは、新生の原理を「主は御霊です…主の御霊のおられるところには
自由があります」と語る。キリストを信じる者には聖霊が宿り、自由が与え
られる。その自由は、放縦ではなく、善を成し、主の御心を行う自由である。
最後に「覆いを取り除かれた者」は、「鏡のように主の栄光を映しつつ、
栄光から栄光へと…変えられ」る。その栄光は、鏡に反射するような不完全
なものだが、その栄光の輝きが強ければ、全ての人にそれが明らかになる。
又、その人自身も、キリストの完全なご人格に似た者へと聖化されて行く。
更に、私達は、栄光に輝く天の御国に凱旋する望みを持っている。それは「御
霊なる主の働き」による。それ故、主にあって意味と価値ある人生を歩もう。
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No.874 - 2月16日: 「新しい契約に仕える栄光」 コリント第2の手紙3章1節〜11節 |
(みことば)「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き
記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。」
コリント第2の手紙3章2節
コリント教会には使徒パウロに批判的な者も少なからずいたが、パウロが
第2の手紙を書く目的は、コリント教会との信頼の関係の回復の為であった。
「私たちは、またもや自分を推薦しているのでしょうか。」教会の中には、
パウロに対し「自己推薦、自己宣伝している」と批判する人がいたのだろう。
裏を返して言うなら、彼らは、パウロを使徒として認めず、信頼していない
パウロが彼らに自己推薦しなければならないなら、彼の言葉を「神の言葉」
として聞く事はできない。パウロは、コリント教会に、他の人や教会からの
推薦状を必要としない。「…推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。」
「私たちの推薦状はあなたがたです。」コリント教会は、パウロにとって
推薦状そのものであった。それは「心に書き記されて、すべての人に…読ま
れ」とあるように、パウロの宣教の結果としてコリント教会が存在している。
「あなたがたが…キリストの手紙である」即ち、コリント教会は、キリス
トがパウロと言う筆を用いて書き記した手紙のようである。教会には、「キ
リストの救いと神への従順」という神の御心がはっきりと啓示されている。
その手紙は、「神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記
され」ている。それは、旧約の律法の契約と違い、「聖霊を通して人の心の
板に記され」、人の良心、理性、信仰を変えて行く新しい恵みの契約による。
パウロは、「神の御前でこのような確信を抱いている」と言うが、それは、
「私たちの資格は神から与えられる」と言う確信である。即ち、その確信は、
人間的な経験や信念から出たものではなく、神から与えられたものである。
パウロは、その確信を「資格」と言い表している。一般的に資格は、推薦
状と同様に知識、技能、経験が合格規準に達した者に与えられる。私達に「何
かを成した」と誇る資格があるのではない。その資格は、神から与えられる。
パウロは、「神は、私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さい
ました」と語る。一般的に資格を持たずに、その働きはできない。逆に、神
の召しを確信する者は、どんな困難の中でも宣教の働きを続ける事ができる。
それは、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格」である。
パウロは、既に「石の板ではなく、人の心の板に書き記された」と語ったよ
うに、古い契約と新しい契約を対比し「文字は殺し、御霊は生かす」と語る。
人は律法の定めだけで生きる事はできない。「義人は、信仰によって生き
る。」とあるようにキリストの御霊が人を生かす。だが、「死に仕える務め」
さえ、栄光を帯びていた。その為モーセの顔は、栄光を帯びて輝きを放った。
パウロは、古い契約と新しい契約の栄光の違いを述べる。「罪に定める務
めに栄光があるのなら、義とする務めには…」私達は、モーセの時代より遥
かに栄光に輝く恵みの時代に生きている。神の栄光は教会の上に輝いている。
旧約のイスラエルの上に輝いた栄光は、「さらにすぐれた栄光のゆえに、
栄光のないもの」となった。キリストの栄光の故に、古い栄光は消えうせ、
世界は、永続する栄光で包まれる。神の栄光は、今、教会の上に輝いている。
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No.873 - 2月9日: 「芳しいキリストの香り」 コリント第2の手紙2章12節〜17節 |
(みことば)「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神
に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」
コリント第2の手紙2章15節
パウロは、トロアスを経由してマケドニアに向かい、コリントを訪問した
いと考えたが、彼にとって気がかりな事は、コリント教会との関係であった。
彼は、既にコリント教会を緊急に訪問し、罪を犯した者を厳然と処罰した
が、その為に、彼の訪問は、彼にっても教会にとっても悲しみとなった。彼
の三度目の訪問が、そうならないように、涙の書簡をテトスに託して送った。
トロアスは、アジアとヨーロッパを繋ぐ玄関口で、主は、パウロの為に宣
教の門を開いて下さった。彼は、テトスとトロアスで落ち合う予定であった
が、彼に会えずに、不安を抱えたままトロアスを去り、マケドニアに向う。
パウロは、以前の宣教の時にトロアスで「マケドニアに渡って、私たちを
助けてください。」という幻に励まされてマケドニア、アカヤ地方に向った。
だが、今回は、コリント教会への憂いや危惧を抱えたままの出発となった。
パウロの不安な心情は、「しかし、神に感謝します。…凱旋の行列に加え
…」とあるように感謝と勝利の確信へと一変する。気落ちしたパウロは、テ
トスが来た事でコリント教会の悔い改めと熱意を知って慰められる。(7:5~7)
マケドニアはアレクサンダーの出身地で、彼は一代で地中海世界を制覇し
東西融合のヘレニズム文化を築いた。パウロは、敵に勝利し凱旋する王をキ
リストに重ね合せた。パウロは、凱旋の隊列に加わるキリストの兵士である。
パウロは、「私たちを通してキリストを知る知識の香りを…放って」と表
現する。ローマの時代、王の凱旋を祝い勝利の香が炊かれた。香りは人の心
を癒す効果がある。キリストを知る知識の香りは、人に癒しと平安を与える。
香りは、自然と周囲に広がるが、「私たちは、救われる人々の中でも、滅
びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香り」である。主は、
ノアの全焼の献げ物の芳ばしい香りを嗅がれ、地上を滅ぼさないと約束する。
同様に、主は、御子イエス・キリストによる十字架の贖いの故に、信じる
者の罪を赦し、義と認め、永遠のいのちを与えられる。その為に、私達は、
全世界の人々に、至る所で福音を伝える「芳しいキリストの香り」である。
「滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり…」香りは、
人によって全く違う印象を与える。凱旋した王に従う兵士にとっては、勝利
の芳しい香りであるが、敗戦した捕虜や兵士にとっては、死の香りとなる。
「この務めにふさわしい人は、いったいだれでしょう。」それは、キリス
トを「神に献げられた芳しい香り」として語る者である。それは、即ち、神
の言葉を語る者の資質と「イエスをキリストと証言しているか」を問われる。
「私たちは、…神のことばに混ぜ物をして売ったりせず…」説教者は、神
のことばを語る時に、「人間的な解釈」「不純な動機」「人受けする方法」「人
を恐れて神の言葉を省く」等、様々な人間的な弱さがそこに出る事がある。
だが、説教者は、「神の言葉に誠実」で、「神から出た言葉」を語り、「神
の御前に恐れ」を持ち、「キリストに属する者」として、キリストを語るべ
きである。世の人の反応がどうであれ、救いはキリストと神のことばにある。
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No.872 - 2月2日: 「愛の従順が試される」 コリント第2の手紙2章1節〜11節 |
(みことば)「あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもた
らすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。」
コリント第2の手紙2章3節
コリント第2の手紙は、牧者であるパウロの教会に対する痛みや苦悩が随
所に現われているが、その原因は、教会に起って来た様々な罪の問題による。
教会は、主によって罪を赦され、聖なるものとされているが、罪を赦され
ても、尚、罪人の集まりである。パウロは、既に第1の手紙でも教会の様々
な問題を述べて来たが、彼がエペソに滞在していた時に新たな問題が起こる。
パウロは、そのためにコリント教会を内密に訪問することになるが、それ
は、彼にとっても、教会にとっても、悲しむべき訪問となった。そこで、彼
は、「あなたがたを悲しませる訪問は二度としない」と決心したほどである。
彼がその訪問を悔いているのは、罪を犯した人を断罪しなければならず、
教会に深い悲しみを与えたからである。彼らの中には、それを快く思わない
者もいた。本来、喜びの交わりとなるはずが、悲しみの再会となってしまう。
パウロは、次に彼らを訪問する際に、悲しい訪問とならないように一つの
手紙を書いた。それは、「涙の書簡」と呼ばれるパウロの幻の手紙である。「あ
の手紙を書いたのは、…悲しみを受けることがないようにするためでした。」
それは、彼らが使徒の権威に強制されてではなく、自主的に罪を悔い改め
て、パウロの喜びが教会の喜びとなる為であった。「私は…涙ながらに手紙
を書きました。」それは、パウロの溢れるばかりの愛を知らせる為である。
子供に対して父親のように厳しく叱る父性的な愛も必要であるが、叱った
後で優しく包み込む母性的な愛も必要である。彼らに対する厳しい忠告も、
父親のような愛情から出ている事を知るならば、その言葉は受け入れられる。
パウロは、一人の罪がどのような影響を及ぼすかを述べる。「ある人が…
なら…あなたがたすべてを悲しませた」一人の罪は、一人に止まらず、教会
全体の悲しみとなる。それは、教会がキリストにある一つの体だからである。
従って、パウロは、これを個人の問題ではなく、教会全体の問題と捉え、
教会が厳正に対処するように導く。「すでに多数の人から受けたあの処罰で
十分ですから…」教会は、聖なる集まりであり、清さを失ってはならない。
ただ、教会は、厳しい処罰を下すだけなら、その人は、打ちのめされて立
つ事ができない。パウロは、愛の人として「その人を赦し、慰めて上げなさ
い。」と勧める。そうでなければ、その人は、悲しみの中で潰れてしまう。
パウロが使徒の権威を用いるのも「建てるためであって、倒すため」では
ない。父性的な愛と同様に母性的な愛も必要である。「私は…その人への…
愛を確認する」「確認する」は罪を蒸し返す事がなく、赦しの一貫性を表す。
パウロがその手紙を書いたのは、彼らが「従順であるかどうか、試すため」
であった。それは、神の言葉への従順であり、具体的には、罪に対する厳然
とした態度と悔改めた者への赦しである。「人を赦すなら、私もそうします。」
教会の交わりの中心には、赦しと愛がなければならない。教会は、キリス
トによって罪を赦された者の集まりである。逆にサタンは、試みる者であり、
人を訴える者である。私達はサタンに欺かれ、その策略に乗ってはならない。
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No.871 - 1月26日: 「真実と偽りの言葉」 コリント第2の手紙1章15節〜24節 |
(みことば)「神の真実にかけて言いますが…私たちのことばは、「はい」で
あると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。」
コリント第2の手紙1章9節
パウロは、「この確信をもって、私達はまずあなたがたのところを訪れ…」
と語っているが、その確信とは、手紙を読む兄弟達が、それを神の言葉と理
解し、主イエスの日に互いを誇り、完全に理解し合える」との確信である。
彼は、その確信に立って、彼らが「恵みを二度得られるようにと計画」を
立てた。それは、「船で直接コリントに行き、そこからマケドニヤに赴き、
再びコリントに戻り、彼らに送られてユダヤに行く」という計画であった。
だが、彼の計画は、何らかの事情で実現せず、当初の計画通りトロアスか
らマケドニアを経由しコリントに向う事になる。それが教会の批判の対象と
なる。彼は「このように願った私は軽率だったのでしょうか。」と弁明する。
「軽率」とは「移り気で軽い」、「人間的」とは「肉的」の意味で、それは、
使徒の霊的資質さえ疑うような非難である。彼らは、パウロがその計画を立
てた苦悩や真意を知らず、ただ表面的な部分だけを見て「軽率」と批判する。
現代の SNS 社会では、安易で無責任な批判や非難で有名人のブログ等が
しばしば炎上する。人は、他者を非難し攻撃する事に精力を注ぐが、自分の
欠点を見ようとしない。「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。」
「私には「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。」
「はい」と同時に「いいえ」と答える事は偽りである。パウロに対する信頼
が揺らぎ始め、彼らは、彼の人格や彼が語る言葉や使徒職さえも疑い始める。
「神の真実にかけて…私たちのことばは、「はい」…と同時に「いいえ」
…ではありません。」第9戒は「偽りの証言をしてはならない。」であるが、
それは「言葉の真実さ」を問いかけている。偽りの証言が人を殺す事もある。
「私とシルワノとテモテが…」パウロは、3人の証人によって証言するが、
それは、「神の子キリスト・イエスは…「はい」だけがある」即ちキリスト
は「真実である」との宣言である。信仰の確かさは、神の子の真実さにある。
ポストモダニズムの現代は「人の数だけ真理がある」と考えるが、聖書の
言葉はそうではない。神が真理なら、他の神々は偽りである。「初めに神が
天地を創造した。」と記す聖書が真理なら、無神論の世界観は、虚偽である。
「神の約束は…この方において「はい」となりました。」旧約の預言は、
全てキリストにおいて成就した。「アーメン」とは、「真実」「然り」「その通
り」の意味であるが、私達は主の名によりアーメンと言い、神に栄光を帰す。
救いの確かさは、第1に「キリストのうちに堅く保たれる」事である。信
仰は、キリストに堅く結びつく事で確かにされる。第2に、私達は、主に「油
を注がれて」その働きに赴く。使命感をもって神の栄光を現わす者となろう。
第3に、私達は「聖霊の証印を押されて」信仰を確かにされる。契約は、
証印がなければ成立しない。救いの保証は神ご自身の御霊である。最後にパ
ウロは、計画変更の理由が、彼らへの配慮と思いやりからであったと述べる。
「コリントに行かないでいるのは…おもいやりからです。」彼らは、パウ
ロが使徒の権威をもって処罰を下す前に、御霊によって悔改めるべきである。
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No.870 - 1月19日: 「試練の中で信仰が試される」 コリント第2の手紙1章8節〜14節 |
(みことば)「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせて
くださる神に頼る者となるためだったのです。」
コリント第2の手紙1章9節
パウロは、序文の差出人の紹介と祈りの後で「慰めと苦難」について語り、
その具体的な経験を「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生き
る望みさえ失うほど」で、「死刑の宣告を受けた思いでした」と告白する。
私達は、人生の中で「生きる望みさえ失う」程の絶望的な経験をする事は
余りないが、パウロは、エペソでアルテミス神殿を巡る暴動に巻き込まれる
経験をする。それは、彼がキリストの宣教を熱心に行って来た結果である。
パウロの苦難は、「労苦し…牢に入れられ…鞭で打たれ…死に直面し…海
上を漂い…」(11:23~)など数知れない。私達は、パウロ程ではないにしろ、
苦難を避けて通る事はできない。だが、苦難の故に信仰から離れる者もいる。
主が試練を与えるのは、「自分自身に頼らず…神に頼る者となるため」で
ある。越冬野菜は、温室野菜に比べ、甘味が格段に違う。試練の中で神によ
り頼み、苦難に耐え抜き勝利した者だけが持つ品性や深みを感じる人がいる。
神は、エジプトを出たイスラエルをカナンの地に導くのに紅海を南下させ、
エジプト軍が迫る絶体絶命の危機の中で海を渡らせ、シナイの荒野に導き、
マナを降らせ、岩から水を湧き出させる。主は試練の中で神の民を訓練する。
パウロは、何度も「神は…死の危険から…救い出して下さった」苦難の経
験をする。その過去の経験は、未来に向って「これからも救い出して下さる」
という確かな希望となる。その確かな経験が「神に希望を置く」確信となる。
逆に、神以外の物に依存したり、喜びを見出したり、世と妥協するなら、
将来に希望を見い出し、栄光を掴む事はできない。試練や苦難がある所に、
戦いや誘惑もある。神に信頼し勝利する者だけが、信仰の高嶺に辿り着ける。
パウロは、聖徒達に「祈りによって協力してくれれば…」と祈りの援助を
要請する。パウロのような宣教の働きは、誰もが出来る訳ではないが、祈り
によって宣教を支援する事は誰にでもできる。神はその祈りに答えて下さる。
「協力する」は、「一緒になって尽力する」と言う合成語であるが、宣教
の働きにおいて、祈りの支援がなければ、その戦いを継続する事ができない。
教会は、「多くの人達の助けを通して」その宣教の働きが支えられている。
パウロは、彼が抱く誇りについて述べているが、それは「神から来る純真
さと誠実さをもって…行動してきた」証しである。私達は「肉的な知恵によ
らず、神の恵みによって行動しているか」自らの行動を精査すべきである。
彼は、それを「私たちの良心が証ししていること」と述べるが、そこが、
神を信じる者とこの世の人の良心との違いである。世の人は「肉的な知恵」
で判断するが、神の人は、神の御霊による純真さと誠実さをもって行動する。
最後にパウロは、読者の理解度について「読んで理解できること以外は何
も書いていません」と述べる。神の御霊を持つ者なら、完全でないにしても、
その人々は御霊の導きにより、それを神の言葉として理解できるはずである。
それは、完全な理解において、「主イエスの日」(再臨の時)に実現する。
その日に、神への純真な信仰と誠実な生き方が讃えられるなら幸いである。
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No.869 - 1月12日: 「キリストの苦難と慰め」 コリント第2の手紙1章1節〜7節 |
(みことば)「神は、どのような苦しみの時にも、私達を慰めて下さいます。
それで私達も、…苦しみの中にある人達を慰めることができます。」
コリント第2の手紙1章4節
パウロは、エペソでコリント第1の手紙を書き記したが、その後、マケド
ニヤを通ってコリントに行く前に、この第2の手紙を書き記す必要が生じた。
それはコリント教会との緊張関係の為であり、その回復の為にテトスを派
遣するが、彼と会えぬままマケドニヤに向い、そこでこの手紙を書き記す。
パウロは、手紙の差出人を「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」
と紹介する。「使徒」とは「権威をもって遣わされた人」の意味で、復活の
証人として主から選ばれた人であり、彼は、使徒としての権威を与えられた。
主の権威を認めなければ、講壇の説教を神の言葉として聞く事はできない。
それはテモテも同様であり、パウロは「誰も彼を軽んじてはいけません。」
(16:11)と忠告した。教会は、神を畏れる敬虔な聖徒によって形作られる。
パウロは、宛先に関して「コリントにある神の教会…」と記すが、「神の」
とは、「神の所有する」或は「神に属する教会」の意味である。教会は、世
の組織と違い、神の目的の為に選び分けられた聖なる神の民の集まりである。
パウロは、「祝祷」と「頌栄」(2~3)において「私たちの父なる神」、「キ
リストの父である神」と記すが、神を父と呼ぶ神観は、新約でキリストの到
来により明らかになる。それは三位一体の神とその位格の違いを示している。
パウロは、祝祷の中で「恵みと平安」を祈るが、神の最高の恵みの賜物は、
父なる神が世の救いの為に遣わされたキリストである。罪人は、キリストの
贖いと執り成しの御業により、「罪の赦し」と「神の平和」を与えられる。
パウロは、頌栄の中で「あわれみ深い父…慰めに満ちた神」と表現するが、
それは、彼がこれから語る「苦難と慰め」のテーマと一致する。「苦難と慰
め」はセットで語られ、それを切り離すことができない。神の慰めは、苦難
を通して経験でき、従って、キリスト者は、その苦難を避ける事ができない。
人は、人生に苦難や挫折を経験する事なく順調に進む事を願うが、神の憐
みや慰めは、寧ろ挫折したり、涙の中で嘆いている時に経験できる。人は、
そのような時に弱さや無力さを知り、神に救いと慰めを求めるからである。
その人は、「苦しみの中にある人たちを慰めることが」(4)できる。苦難の
中で神の慰めを経験した人だけが言える確かな助言や励ましがある。それは、
上辺だけの同情ではなく、涙の中で神に叫び求めた者の真実な言葉である。
それは、一般的な苦難ではなく「キリストの苦難」であり、キリストが父
なる神に従う事によって受ける苦難と同様である。敬虔に生きる者は、「キ
リストの為の苦しみも賜った」が、そこには、キリストの慰めも満ち溢れる。
パウロの苦難は、教会の「慰めと救い」の為であり、彼の慰めが「苦難に
耐え抜く力を」教会に与える。それは、主のからだである教会の一体性の故
である。パウロの霊的な戦いが、同じ戦いの中にある聖徒を奮い立たせる。
それ故、パウロの教会に対する信頼は揺るがない。それは、彼らが「苦し
みをともにし…慰めもともにしている」からである。教会に神からの賜物を
分け合う「交わり」(コイノニア)があるなら、そこに、御霊の一致と慰めがある。
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No.868 - 1月5日: 「主の教会を形作る人々」 コリント第1の手紙16章10節〜24節
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(みことば)「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、
強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」
コリント第1の手紙16章13,14節
パウロは、手紙の最後の挨拶文の中で、コリント教会に関わる多くの人々
の名前を記しているが、その人々は、コリントの教会を形作った人々である。
その第1はテモテである。パウロはコリント教会を訪問する前にテモテを
教会に派遣する。その際、彼が教会で「心配なく過ごせるように」と願う。
それは、彼がパウロの使者として「主のみわざに励んで」いたからである。
「だれも彼を軽んじてはなりません。」テモテは、忠実な神のしもべで、
パウロの生き方を思い起こさせてくれた。コリント教会が彼を軽んじるなら、
パウロを軽んじる事になる。教会はそのような忠実な人によって支えられる。
第2にアポロであるが、パウロも彼を信頼し、彼にコリント教会に行くよ
うにと強く勧めたが、彼には、今、行く意志が全くなかった。その理由は、
何も書かれていないが、そこには、教会の分派の問題があったからだろう。
「私はパウロにつく」「私はアポロに」…と、彼は、分派を起す者達に担
ぎ上げられた一人であった。アポロは、自分が分派の要因にならないように、
注意深く行動する。人の誉れを受けるより、主に評価される生き方をしよう。
パウロは、二人の紹介に続き「私達がどう生きるべきか」を命令形で簡潔
に記す。その第1は、「目を覚ましていなさい。」である。悪い時代の中で、
悪に誘惑されることなく目を覚まし、いつ主が来られても良い備えをしよう。
第2は「信仰に堅く立ちなさい。」であるが、私達は、キリストと言う堅
固な地盤の上に堅く信仰に立っているなら、どんな試練の時にも揺るがない。
第3は、「雄々しく、強くありなさい。」と言う2つの命令であるが、私達
は悪魔という敵に向い、神の武具を身に着け、これに雄々しく立ち向かおう。
最後に「一切のことを、愛をもって行いなさい。」であるが、どんなに堅
く信仰に立っても、独善的で他者への配慮に欠けるならそれは実を結ばない。
多くの賜物の中で一番すぐれたものは、愛である。愛は、多くの罪を覆う。
次にパウロは、教会を支えて来たステファナの一家に言及する。「ステフ
ァナの一家はアカイアの初穂で…」彼ら一家は、教会の草創期から変わらず
に主に仕えて来た。教会は、主の為に働き、労している人に従うべきである。
次に、「ステファナとポルトナトとアカイコ」は、教会の様々な問題をパ
ウロに相談する為に訪ねて来た。彼らの訪問は、パウロと教会の間の距離を
縮め、その隙間を埋め、心に安らぎを与えた。彼らの様な存在は貴重である。
「アジアの諸教会がよろしくと言っています。」海を越えたアジアの諸教
会が、まだ会った事のない聖徒達に挨拶を送る。民族、文化、国境を越えて、
同じ救いと信仰に預かり、同じ戦いをしている世界の聖徒達の為に祈ろう。
最後に「アクラとプリスキラ」の名が記されているが、彼らは、パウロと
共に天幕作りをしながら教会は支え、今は、アジアの家の教会を支えていた。
彼らは、神の国の為にその労力を惜しまない。彼らこそ、聖徒の模範である。
パウロは、「自分の手で」挨拶を記し、「主を愛さいない者は…のろわれよ」
と記す。教会は神の権威により「祝福と呪い」「救いと滅び」の宣言をする。
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元日・新年特別号 - 1月1日: 「主を求める一年」 使徒の働き17章22節〜31 |
(みことば)「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、
天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。」
使徒の働き17章24節
パウロは、アテネの町で福音を宣べ伝えていたが、その町の哲学者たちが、
彼の話に興味を示し、彼は、アレオパゴス(評議所)で演説することになる。
パウロは、まず、第1に、アテネの人々が「宗教心にあつい方々」である
と評価している。人は、誰ひとり例外なく「宗教心」を持っている。それは、
人が神に似せて造られているからであり、それは、人が神を慕う心と言える。
しかし、宗教という言葉は漠然としており、その範疇には、仏教、神道、
キリスト教、及び、新興宗教等、種々雑多な物まで含む。その語源は「神々
への恐れ」を意味し、神々とは、悪霊(ダイモニオン)を意味する言葉でもある。
従って、彼らがたとえ宗教心にあつくても、それは、まことの神信仰では
なく、罪の為に歪んだ神理解であり、パウロは、その宗教心を良いものと評
価していない。その実例が「知られていない神に」と刻まれた祭壇である。
アテネの町は偶像で満ちており、オリンポスの神を中心に多くの神々が実
在した。しかし、人々は、それで満足できず「知られていない神」の祭壇ま
で築く。それは、偶像をどんなに熱心に拝んでも満足できない事を意味する。
そこで、パウロは、彼らが「知らずに拝んでいるもの」を教えようと語る。
彼らは、宗教に熱心ではあるが、神について何も知らない。それは、この世
の宗教の限界とも言えるが、パウロは、聖書から神について正確に教える。
第1に、彼は、神が世界の創造者であることを語る。それは、この世の宗
教とまことの神との違いである。神は、この世界の全ての物を造られた「天
地の主」であり、従って、神は万物の根源であり、全ての事物の原因である。
しかし、この世の宗教は、神が創造した被造物「人間や、鳥、獣、這うも
の」を神とし、偶像に造り替える。それは、宗教的な無知であるが、ギリシ
ャ哲学も、この世に内在する物を万物の第1原因とする点で同列であった。
従って、天地の主は「手で造られた宮にお住みに」ならない。世の宗教の
神殿がどんなに立派でも、それは、所詮偶像の宮であり、悪霊の住処である。
しかし、神の宮は、神の為の住まいではなく、神を礼拝する者の為にある。
第2にパウロは、神が、完全であり、全能な方であると語る。「何かが足
りないかのように…」(25)「何かが足りない」とは、不完全であるという事
である。この世の神は、神と言っても不完全で、他者に依存的な存在である。
従って、偶像の神は「人の手によって仕えられる必要」がある。偶像は、
人が運ばなければ、自分で動く事もできない。主は、「そんなものを頼りに
するな。」と忠告し、「わたしこそ神である。他にはいない。」と断言する。
最後にパウロは、神が「すべての人に、いのちと息と万物を与えておら
れる」と告げる。創造者は、人にいのちを与えられた。神の存在なしに、人
のいのちを考えることはできない。また、神は、人に息(霊)を与えられた。
人間は、息(霊)を備えている事において、他の生き物と違い、特別な存
在である。即ち人は、神を信じて、価値ある人生を生きる為に造られている。